第32話「森の襲撃、弟王子は初めて背中を見る」
森の中は、朝だというのに薄暗かった。
王都外縁南区画。
学園の管理下にある森は、普段なら低級魔獣の間引きや薬草採集に使われる場所だ。
危険がないわけではない。
だが、教師の引率と結界杭によって、学生実習に使える程度には整えられている。
そのはずだった。
だが今、森の空気は明らかにおかしい。
鳥の声がしない。
虫の音もない。
風が木々を揺らしているのに、葉擦れの音すらやけに遠い。
まるで森そのものが息を潜めているようだった。
レオンはその中を迷いなく走っていた。
黒い実習用外套が翻る。
足場の悪い獣道。
露で濡れた根。
足を取られそうな苔むした石。
そんなものを一切気にせず、滑るように進んでいく。
その数歩後ろを、アルベルトが必死に追っていた。
「っ……速いな、貴様……!」
「遅い」
「これでも王族訓練では上位だ!」
「なら訓練内容を見直せ」
「この状況で嫌味を言うな!」
アルベルトは息を荒げながらも、足を止めなかった。
普段ならすぐに怒鳴り返していたところだ。
だが今は違う。
森の奥から聞こえた悲鳴。
人間の怒号。
そして、リリアーナたち薬草採集班が危険区域に近いという事実。
さすがの彼も理解していた。
これは、ただの学園内の競争ではない。
本物の危機だ。
『右前方、複数の足音』
ノワールの声が、レオンの内側で響く。
『人間だな。五、いや六』
ヴァルガが続ける。
『魔力反応は弱いけど、武器あり。隠れてるつもりだぜ』
イグニスの声は低い。
『待ち伏せだ』
レオンは速度を落とさない。
「アルベルト」
「何だ!」
「右に伏せろ」
「は?」
「伏せろ」
短い命令。
アルベルトは反射的に従った。
自分でも驚くほど自然に、地面へ身を沈める。
次の瞬間。
木々の間から矢が飛んだ。
三本。
首、胸、脚を狙う軌道。
もし走ったままだったら、アルベルトは避けきれなかったかもしれない。
「なっ……!」
アルベルトが目を見開く。
レオンは一歩踏み込み、指先で空を払った。
見えない風刃が走る。
飛来していた矢が空中で全て砕けた。
同時に、茂みの奥から男たちの声が上がる。
「外した!」
「学生だぞ、仕留めろ!」
「捕らえろ! 殺すなよ!」
黒い革鎧を着た男たちが、六人。
学園の実習区域にいるには、あまりにも場違いな武装だった。
手には短剣、弓、棍棒。
腕には見慣れぬ刺青。
暁の夜の者ではない。
外部勢力だ。
男の一人がアルベルトを見て目を輝かせる。
「王子だ! こいつは高く売れるぞ!」
アルベルトの顔色が変わった。
「俺を……売るだと?」
「王族の坊ちゃんがこんなところに来るとはなぁ!」
「運がいいぜ!」
男たちは下卑た笑みを浮かべる。
アルベルトの拳が震えた。
怒りだ。
だが、その怒りには初めて恐怖が混じっていた。
自分が“奪われる側”として見られる感覚。
値札をつけられる感覚。
王族ではなく、ただの獲物として見られる感覚。
それは、彼にとって初めての屈辱だった。
レオンはそれを横目で見た。
「わかったか」
「……何がだ」
「力ある立場も、状況次第で奪われる側になる」
アルベルトは言葉に詰まる。
「今は考えるな」
レオンが木剣を抜く。
「生き残れ」
「……命令するな」
「従え」
その声には、有無を言わせぬ圧があった。
男たちが一斉に襲いかかる。
アルベルトは剣を抜き、正面の一人を受け止めた。
金属音。
力任せに押し返す。
「舐めるな!」
炎をまとわせた剣で男の武器を弾き飛ばす。
さすがに基礎能力は高い。
普通の賊なら、十分に圧倒できる。
だが、もう二人が左右から迫る。
「っ!」
アルベルトの視界が揺れた。
右を見る。
左を見る。
どちらも防ぎきれない。
その瞬間、レオンが横を通り過ぎた。
木剣が二度、音を立てる。
右の男の手首。
左の男の膝。
二人が悲鳴を上げて倒れ込む。
「一人だけ見るな」
レオンの声が飛ぶ。
「敵は複数だ」
「わかっている!」
「わかっていないから死にかけた」
「っ……!」
反論できない。
アルベルトは歯を食いしばった。
悔しい。
だが、腹立たしいほど正しい。
レオンは残る三人へ視線を向ける。
「誰に雇われた」
静かな問い。
男たちは一瞬たじろぐ。
「何言ってやがる!」
「ただの盗賊団だ!」
「学生相手に金稼ぎだよ!」
レオンの目が細くなる。
「嘘が下手だな」
右手甲の炎紋章が、服の下で熱を持つ。
外からは見えない。
だが、男たちの足元に小さな炎の線が走った。
逃げ道を囲むように。
イグニスが低く言う。
『逃がすな』
「逃がさない」
男たちは背筋を凍らせた。
相手は学生ではない。
少なくとも、ただの学生ではない。
「お、おい……こいつ何だ……?」
「魔法か?」
「魔力感じねえぞ……!」
混乱する男たち。
レオンは一歩前へ出る。
その一歩で、空気が沈む。
「答えろ」
それだけだった。
たった二文字に、王命のような圧が宿る。
アルベルトは背後で息を呑んだ。
この感覚。
昨日も、順位戦でも、何度か感じた。
だが今はさらに強い。
王族である自分が、人に命じる時の圧とは違う。
もっと根源的なもの。
逆らえば壊されると、本能が理解する圧。
男の一人が膝をついた。
「ひっ……い、言う! 言うから!」
「誰だ」
「名前は知らねえ! ただ、学園の実習日に合わせろって……学生を捕まえれば金になるって……!」
「誰を狙った」
「高位貴族と王族……あと、特待生……!」
アルベルトの顔色が変わる。
「特待生?」
レオンの声がさらに低くなる。
「銀髪の女もか」
男がびくりと震えた。
「し、知らねえ! でもリストはあった! 銀髪の伯爵令嬢って……!」
その瞬間。
レオンの周囲の空気が、凍った。
比喩ではない。
足元の草が白く霜を帯びた。
セレネが静かに囁く。
『レオン』
「わかっている」
怒りを抑える。
ここで暴走する意味はない。
だが。
リリアーナが狙われている。
その事実だけで、胸の奥に冷たい炎が灯った。
アルベルトがそれを見て、わずかに眉をひそめる。
「……お前、あの女を随分気にしているな」
「今それを言うか」
「……いや」
アルベルトは目を逸らした。
「すまん」
その一言に、レオンは少しだけ意外そうに弟を見た。
謝った。
あのアルベルトが。
「……変わったな」
「うるさい」
「褒めてはいない」
「なら言うな」
短いやり取り。
だが、以前とは確かに違った。
レオンは男たちを影で拘束する。
ノワールの力で足と腕を縛り上げ、逃げられないようにした。
アルベルトが目を見開く。
「今のは何だ」
「縄だ」
「違うだろ」
「似たようなものだ」
「似ていない」
追及する余裕はなかった。
森の奥から、また悲鳴が響く。
今度ははっきり聞こえた。
少女の声。
リリアーナではない。
だが薬草採集班の方向だ。
「走るぞ」
レオンが言う。
「わかっている!」
二人は再び森を駆けた。
その頃。
薬草採集班は混乱の渦中にいた。
森外縁部。
薬草の群生地。
そこには本来、教師一名と学生十名がいるはずだった。
しかし今、教師は魔封じ縄で拘束され、倒れている。
学生たちは三方向へ追い込まれ、怯えていた。
黒い革鎧の男たちが十数名。
中には魔術師もいる。
「逃げるなよ!」
「怪我させすぎると値が下がる!」
「女は丁寧に扱えって言われてるだろ!」
下品な声。
薬草籠が地面に散らばる。
泣き出す生徒。
震える生徒。
動けなくなった生徒。
その中で、リリアーナは短杖を握っていた。
手は震えている。
喉も乾いている。
怖い。
とても怖い。
けれど、彼女は後ろにいる小柄な女子生徒を庇うように立っていた。
「リ、リリアーナ様……」
「大丈夫……」
声は震えていた。
それでも、リリアーナは言った。
「大丈夫です」
自分に言い聞かせるように。
男の一人が笑う。
「おいおい、銀髪だ」
「リストの女じゃねえか?」
「ああ、ヴァイス家の特待生だ」
「高く売れるな」
リリアーナの背筋が凍る。
自分を狙っている。
なぜ。
どうして。
頭が真っ白になりそうになる。
だが、その時。
朝の言葉を思い出した。
怖いか。
怖いです。
でも、逃げたくはありません。
そして。
本当に危険なら助ける。
レオンの声。
それを思い出すだけで、少しだけ足に力が戻る。
だけど。
守られるだけでは嫌だ。
レイさんの隣にいたいと、自分で言った。
なら、震えながらでも立たなければならない。
「……下がってください」
リリアーナは背後の女子へ言う。
「え……?」
「わたしが、止めます」
「無理です!」
「無理でも」
土属性の魔力を杖へ集める。
小さな防壁が立ち上がる。
まだ薄い。
頼りない。
それでも、確かに壁だ。
「時間を稼ぎます」
男たちは笑った。
「健気だなぁ」
「折ったら泣くかな?」
一人が棍棒を振り上げる。
リリアーナは歯を食いしばった。
怖い。
怖い。
でも、引かない。
「土よ――」
彼女が防壁を強めようとした、その瞬間。
男の棍棒が振り下ろされた。
防壁が砕ける。
「っ!」
衝撃でリリアーナが膝をつく。
だが倒れない。
もう一度杖を構える。
「まだ……!」
男が舌打ちする。
「面倒だな」
今度は別の男が背後へ回り込む。
リリアーナは気づくのが遅れた。
背後の女子生徒が悲鳴を上げる。
「リリアーナ様!」
振り向く。
間に合わない。
男の手が、彼女の肩へ伸びる。
その時だった。
森が、鳴った。
風ではない。
雷でもない。
ただ、一歩。
誰かが踏み込んだ音。
次の瞬間、リリアーナへ伸びていた男の腕が、空中で止まった。
いや、止められていた。
黒い外套。
学園制服。
右手で男の手首を掴む少年。
レオンだった。
「……触るな」
声は静かだった。
しかし、その場にいた全員の背筋が凍るほど冷たい声だった。
「れ、レイさん……」
リリアーナの声が震える。
レオンは振り返らない。
「よく立っていた」
短い一言。
その言葉で、リリアーナの目に涙が浮かんだ。
守られたからではない。
褒められたからだ。
自分が震えながらも立っていたことを、見てくれたからだ。
「……はい」
小さく答える。
レオンは男の手首を掴んだまま、少しだけ力を込めた。
「ぎゃああああっ!?」
骨は折っていない。
だが関節が悲鳴を上げる程度には締めた。
男が膝をつく。
周囲の男たちが武器を構える。
「何だてめぇ!」
「学生一人増えたところで――」
次の瞬間、アルベルトが森から飛び出した。
「俺もいるぞ!」
炎をまとった剣で、男の一人の武器を弾き飛ばす。
生徒たちが驚く。
「アルベルト殿下!?」
レオンは横目で見る。
「遅い」
「こっちは普通なんだよ!」
アルベルトは怒鳴りながらも、学生たちの前に立つ。
その背中はまだ未熟だ。
だが、確かに守る側へ立っていた。
レオンは小さく言う。
「教師と学生を守れ」
「貴様は」
「こいつらを潰す」
「……わかった」
アルベルトは短く答えた。
逆らわなかった。
それを見て、レオンは前へ出る。
男たちは笑う。
いや、笑おうとした。
だが、できなかった。
目の前の少年から溢れる圧が、あまりにも異質だったからだ。
「質問する」
レオンが言う。
「誰の命令だ」
「知るか!」
「答えると思うか!」
「ガキが調子に――」
男の言葉は最後まで続かなかった。
レオンが消えた。
次の瞬間、三人の男が同時に地面へ沈む。
腹部。
膝。
顎。
それぞれ一撃。
速すぎて誰も見えない。
「……え」
リリアーナが呟く。
アルベルトも、思わず動きを止めた。
知っているつもりだった。
順位戦で何度も見た。
だが、あれは学園の試合だったのだ。
今のレオンは違う。
殺意を抑えながら、しかし本物の戦闘として敵を潰している。
動きが静かすぎる。
無駄がない。
恐ろしいほど冷静で、恐ろしいほど速い。
「こ、こいつ……!」
魔術師が詠唱を始める。
火球。
土槍。
風刃。
三方向から魔法が飛ぶ。
レオンは右手を軽く上げた。
「イグニス」
炎が炎を喰う。
「セレネ」
水が土槍を溶かし、氷が術式を砕く。
「ヴァルガ」
風雷が風刃を逆流させた。
魔法が全て消える。
男たちの顔から血の気が引いた。
「な、なんだ……」
「魔法じゃねえ……!」
「何だよそれ……!」
レオンは答えない。
答える必要もない。
彼は一歩ずつ歩く。
そのたびに、敵の足が下がる。
「逃げるな」
ノワールの影が広がる。
敵の背後に黒い壁が立つ。
ルミアの光が生徒たちを包み、恐怖による震えを少しだけ和らげる。
誰にも神霊の姿は見えない。
ただ、奇跡のように光と影が動いていた。
レオンの左眼が金に光る。
「もう一度聞く」
声は低い。
「誰の命令だ」
男たちは膝をついた。
恐怖に耐えきれなかった。
「い、言う! 言うから殺さないでくれ!」
「殺す気はない」
レオンは冷たく告げる。
「だが答え次第で、二度と森には入れなくなる」
男たちは震えた。
リリアーナは、その背中を見つめていた。
怖い。
でも、怖いだけじゃない。
その怒りが、自分たちを守るためのものだとわかるから。
アルベルトもまた、その背中を見ていた。
目の前の男は平民ではない。
少なくとも、ただの平民ではない。
だが、それ以上に。
彼は今、誰よりも王子らしく見えた。
守る者として。
立つ者として。
命じる者として。
アルベルトの胸の奥に、奇妙な痛みが走る。
悔しさではない。
嫉妬でもない。
もっと苦いもの。
――自分は、今まで何を見ていたのだろう。
森の奥で、敵の口が開かれる。
そしてその名が告げられようとしていた。
校外実習は、完全に事件へ変わった。
その中心で、無能王子と呼ばれた少年は、静かに牙を剥いていた。




