第31話「校外実習開始、無能王子は森の異変を聞く」
校外実習当日の朝。
東の塔は、いつもより少し早く灯りが点いていた。
まだ王都の空が薄暗い時間。
窓の外は藍色で、遠くに見える王城の尖塔だけが朝靄の中にぼんやり浮かんでいる。
かつては冷たく、暗く、誰にも顧みられなかった塔。
今は違う。
小さな食卓には温かなスープ。
焼きたてのパン。
携帯用に包まれた干し肉と果実。
水筒。
救急用の布と薬草。
ミーアが夜明け前から整えた実習用の荷物が、机の上に几帳面に並べられていた。
「レオン様、起きてください」
柔らかい声。
しかし、容赦はない。
寝台の上で毛布に包まっていたレオンは、薄く目を開けた。
「……まだ暗い」
「実習の日です」
「集合は七時だ」
「準備があります」
「寝る準備なら終わっている」
「起きる準備をしてください」
ミーアは微笑んだまま、毛布を掴む。
レオンは反射的に端を押さえた。
「寒い」
「春です」
「塔は寒い」
「温かいスープを用意しております」
「なら、あと少し寝る」
「駄目です」
毛布が剥がされた。
「……侍女が強い」
「主が弱い朝だけです」
ルミアが枕元で跳ねる。
『実習です! 遠足です! お弁当です!』
ノワールが影の中から半分だけ姿を出す。
『任務』
『楽しく言った方が気分上がります!』
『危険もある』
『レオン様がいれば大丈夫です!』
『その油断が一番危険』
ヴァルガが寝台の下から欠伸をしながら出てきた。
『まあ、森だろ? 魔獣だろ? 久々に外で走れるな!』
セレネは水球に浮かびながら、静かに茶器を温めている。
『楽しむだけでは駄目よ。昨日の報告があるでしょう』
イグニスは窓辺で翼を畳み、朝靄の向こうを見ていた。
『外部勢力。数は五十前後。南区画へ動く可能性あり』
その言葉で、レオンの眠気は消えた。
上体を起こす。
表情は変わらない。
だが空気だけが、ほんの少し鋭くなる。
「暁の夜から続報は」
ミーアがすぐに表情を切り替えた。
侍女ではなく、塔の管理者として。
「夜明け前にクロード様より報告が届いております。外部勢力の一部が、王都外縁南区画の旧採石場跡へ移動。学園実習区域とは隣接しています」
「目的は」
「まだ不明です。ただ、荷馬車二台分の武装品と、魔封じ縄、捕縛用の枷を運び込んでいるとのことです」
「捕縛か」
レオンの瞳が冷える。
学園実習。
学生。
外部勢力。
捕縛用装備。
偶然と考えるには、あまりにも嫌な組み合わせだった。
「学生を狙うか、教師を狙うか、暁の夜を誘き出すか」
ノワールが淡々と言う。
『全部かもしれない』
ヴァルガが牙を見せた。
『やる気満々だな。じゃあ潰すか?』
「まだだ」
レオンは寝台から降りる。
「今日の俺は、学園の生徒で学級代表だ」
ルミアが首を傾げる。
『つまり?』
「表を守る」
イグニスが低く続ける。
『裏は暁の夜に張らせる』
「そうだ」
ミーアがすぐに頷く。
「すでに暁の夜の監視部隊を配置しております。学園関係者には接触させず、あくまで外部勢力のみを監視。異変があれば、即座に私へ連絡が入ります」
「俺へ直接でいい」
「レオン様は実習中です」
「関係ない」
「あります」
ミーアの声が少し強くなる。
レオンは目を細めた。
「ミーア」
「今回は、表の立場も重要です」
彼女は怯まなかった。
「レイ・ノクト様は学級代表です。最初から裏の主として動けば、周囲に違和感を与えます。必要になるまで、連絡は私が受け、整理してお伝えします」
「……」
「お怒りなら、あとで叱ってください」
「怒ってはいない」
「では、採用ですね」
「勝手に決めるな」
「勝手ではありません。ご判断を補佐しました」
堂々としている。
レオンは少しだけ息を吐いた。
「……任せる」
ミーアの顔が明るくなった。
「はい!」
『ミーア、強い』
『主を押し切れる貴重な存在』
『侍女最強説!』
レオンは神霊たちを無視して着替え始めた。
学園制服。
その上に実習用の外套。
動きやすい革手袋。
腰には学園指定の短剣。
当然、本命ではない。
神具は神力の中に秘めている。
表向きはただの生徒。
裏では王都の夜を統べる者。
その二つの顔を、今日は同時に使い分けなければならない。
食卓につくと、ミーアがスープを差し出した。
「必ず召し上がってください」
「時間がない」
「あります」
「集合に遅れる」
「まだ十分余裕があります」
「……」
「食べてください」
「わかった」
根負けだった。
スープを口に運ぶ。
温かい。
朝の冷えた身体へ、じんわり染みていく。
「……うまい」
ミーアが嬉しそうに微笑む。
「光栄です」
「弁当は」
「こちらに」
包みが差し出される。
「多いな」
「レオン様の分と、予備です」
「予備?」
「リリアーナ様が緊張で食事を忘れた時用です」
「何故そこでリリアーナが出る」
「必要そうですので」
ミーアは平然と言った。
レオンは返事に困った。
『完全に把握されてるな!』
『ミーア、有能』
『リリアーナさんにも食べさせたいです!』
『距離が近づく』
「黙れ」
口に出ていた。
ミーアはくすっと笑う。
「神霊様方ですか?」
「騒がしいだけだ」
「楽しそうで何よりです」
「楽しくはない」
「そういうことにしておきます」
最近、周囲に言い負けることが増えている。
レオンは少しだけ不本意だった。
転移陣へ立つ。
ミーアが深く一礼した。
「いってらっしゃいませ、レオン様」
レオンは少しだけ足を止める。
「……行ってくる」
それだけ言う。
ミーアの瞳が柔らかく細められた。
光が弾ける。
次の瞬間、レオンは王都学園近くの人気のない裏路地へ出ていた。
まだ朝の空気は冷たい。
表通りへ出ると、学園へ向かう生徒たちの姿がちらほら見えた。
馬車。
徒歩。
護衛付き。
平民の制服。
貴族の外套。
その中に、見慣れた銀髪が揺れていた。
「レイさん!」
リリアーナが小走りで駆け寄ってくる。
今日は実習用の外套を羽織り、腰には小さな短杖。
肩掛け鞄には薬草採集用の道具が入っているらしい。
だが、顔は少し緊張していた。
「走るな」
「す、すみません」
「眠れたか」
「……少しだけ」
「またか」
「実習が不安で……」
リリアーナは鞄の紐を握る。
「森外縁部、初めてなんです。領地にも森はありましたけど、魔獣が出る場所には近づかないように言われていて……」
「怖いか」
「怖いです」
正直だった。
けれど、すぐに顔を上げる。
「でも、逃げたくはありません」
レオンは少しだけ目を細めた。
出会った頃の彼女なら、怖いと言うだけで俯いていただろう。
今は違う。
怖いと認めて、その上で逃げないと言える。
「なら問題ない」
「そう、ですか?」
「怖さを知らない者よりマシだ」
「レイさんも怖いこと、ありますか?」
不意の問い。
レオンはほんの少しだけ黙った。
怖いもの。
東の塔の暗闇。
閉じる扉の音。
誰にも名前を呼ばれない日々。
父の冷たい目。
母の拒絶。
エリシアの後ずさり。
いくら力を得ても、消えないものはある。
「……ある」
短い答え。
リリアーナは目を見開いた。
この人にも怖いものがある。
当たり前なのに、少し意外だった。
そして少しだけ、近く感じた。
「何かは聞きません」
「そうしろ」
「でも、もし怖い時があったら……」
リリアーナは少し迷いながら、勇気を出す。
「わたしも、隣にいます」
レオンは足を止めた。
朝の並木道。
人の声。
馬車の音。
その中で、彼女の言葉だけがやけに静かに届いた。
「……お前が?」
「はい」
「震えているのに」
「震えながらでも、います」
弱い声ではなかった。
レオンは数秒だけ彼女を見た。
サファイアブルーの瞳。
まだ怯えはある。
けれど、芯がある。
折れない光がある。
「……そうか」
それだけ返し、歩き出す。
リリアーナは隣に並ぶ。
少しだけ嬉しそうだった。
『いいこと言う……!』
ルミアが感動している。
『主、心拍が少し上がった』
『上がってない』
『上がった』
『ノワール、そういうの測れるのか?』
『影で脈を見る』
『怖ぇよ』
レオンは無言で神霊たちを黙殺した。
学園正門前。
すでに生徒たちは集合していた。
A組の生徒たちも班ごとに固まっている。
エリシアは治安補助班をまとめ、手際よく点呼を取っていた。
姿勢は美しく、声はよく通る。
流石としか言いようがない。
「遅くはありませんけれど、もう少し早くてもよろしいのでは?」
エリシアが扇子を開きながら言う。
「集合時間前だ」
「正論ですわね」
「何故不満そうなんだ」
「貴方が正論ばかりだと面白くありませんの」
「面倒な人間だな」
「お互い様ですわ」
リリアーナが小さく笑った。
その様子を、エリシアがちらりと見る。
「リリアーナ様、今日は薬草採集班ですわね」
「は、はい!」
「緊張されています?」
「少し……」
「貴女なら問題ありませんわ。三位の実力を信じなさい」
リリアーナは驚いたように目を見開いた。
「エリシア様……」
「勘違いなさらないで。A組の評価が下がると困るだけですわ」
そう言いながらも、声は以前より柔らかい。
リリアーナは小さく笑う。
「ありがとうございます」
「……素直すぎますわね」
エリシアは少しだけ困ったように扇子で口元を隠した。
その少し離れた場所。
アルベルトは巡回班の一員として立っていた。
本来なら代表をやりたかったのだろう。
しかし順位戦の結果と普段の問題行動により、当然任されていない。
不満はある。
だが以前ほど騒いではいなかった。
レオンが近づくと、彼は低く言った。
「今日こそ俺が結果を出す」
「そうか」
「貴様に負け続けるつもりはない」
「なら周りを見ろ」
「何?」
「結果を出したいなら、一人で突っ込むな」
アルベルトは眉を吊り上げる。
「説教か」
「忠告だ」
「平民風情が」
口癖のように出た言葉。
だが言った直後、アルベルトは少しだけ顔を歪めた。
自分でも、以前ほどその言葉に力がないと感じたのだろう。
レオンはそれに気づいたが、何も言わなかった。
カティアが全員の前へ立つ。
「全員、整列」
生徒たちが並ぶ。
「本日の実習区域は王都外縁南区画。学園管理下の森、および周辺集落です」
魔導地図が空中に投影される。
森。
小川。
旧街道。
廃倉庫群。
そして、少し離れた旧採石場跡。
レオンの視線が一瞬だけそこで止まる。
カティアは説明を続ける。
「薬草採集班は森外縁部。治安補助班は周辺集落。巡回班は旧街道と森の境界を確認します」
巡回班。
つまりレオンの班は、最も広範囲を動く。
旧採石場跡に近づく可能性もある。
「実習中、無断行動は禁止。班長は状況判断を行い、危険があれば即時撤退」
カティアの視線がレオンへ向いた。
「特に代表」
「何だ」
「勝手に単独行動しないように」
「……」
「返事は」
「状況による」
「駄目です」
「善処する」
「信用できません」
教員と生徒の会話とは思えない。
A組の生徒たちが苦笑する。
カティアはため息をついた。
「貴方の実力は認めています。ですが、実習は個人競技ではありません」
その声は真剣だった。
「守るべきものは点数ではなく、班員です」
レオンは少しだけ黙った。
守るべきもの。
その言葉は、今の自分には重い。
「……わかった」
短い返事。
だがカティアはそれで十分だと判断した。
「では出発」
学園の門が開く。
生徒たちは班ごとに動き出した。
王都の石造りの道を抜け、南区画へ向かう。
街の中心部を離れるにつれ、景色は変わっていく。
貴族街の美しい建物が消え、商人街の賑わいも遠ざかり、やがて外縁部特有の雑多な空気が漂い始める。
古い倉庫。
修繕途中の家。
荷を運ぶ労働者たち。
そして遠くに広がる森。
巡回班は十名。
レオンが班長。
アルベルトも同班。
他には平民出身の男子二名、下級貴族の女子二名、中級貴族の男子数名。
班員たちは緊張していた。
理由は魔獣だけではない。
首席と王子が同じ班にいる。
それだけで胃が痛くなる。
「班長」
平民男子の一人が遠慮がちに声をかける。
「何だ」
「その……指示は」
「隊列を崩すな。森側へ近づきすぎるな。異音がしたら止まれ。勝手に英雄になるな」
「は、はい!」
明確だった。
アルベルトが鼻を鳴らす。
「随分慎重だな」
「慎重と臆病は違う」
「俺は臆病ではない」
「知っている」
意外な返答に、アルベルトは少しだけ詰まった。
「なら何だ」
「無謀だ」
「貴様……!」
「言い換えただけだ」
班員たちが必死に笑いを堪える。
その時だった。
風が止まった。
森の奥から、鳥が一斉に飛び立つ。
レオンの足が止まる。
同時にイグニスが声を低くした。
『気配が変わった』
ノワールも続く。
『影が揺れている。人間の気配、複数』
ヴァルガが耳を立てる。
『森じゃねえ。旧採石場側だ』
レオンは地図を思い出す。
薬草採集班の移動ルート。
森外縁部。
そのさらに奥。
旧採石場跡へ続く細い道。
リリアーナの班が、近い。
「……」
レオンの瞳が冷えた。
「全員止まれ」
短い命令。
班員たちは即座に止まった。
アルベルトだけが眉をひそめる。
「何だ」
「異常だ」
「何も見えんぞ」
「見えてからでは遅い」
その瞬間。
遠くの森から、微かな悲鳴が聞こえた。
リリアーナの声ではない。
だが学生の声。
次いで、魔獣の咆哮ではない怒号。
人間の声。
「……外部勢力か」
レオンの声が、静かに沈む。
班員たちの顔が青ざめる。
アルベルトも息を呑んだ。
「まさか、実習中に……」
レオンはすぐに判断した。
「この場で待機。森へ入るな。二人は教師へ伝令。残りは防御陣形」
「お前はどうする」
アルベルトが問う。
レオンは森の奥を見る。
冷たい金の瞳が、朝の光の中で淡く輝いた。
「迎えに行く」
「単独行動は禁止だぞ」
「状況によると言った」
レオンは一歩踏み出す。
その背中から、いつもの面倒くさがりの気配は消えていた。
そこにいるのは、学級代表でも、首席学生でもない。
弱者を踏みにじる闇へ牙を剥く、東の塔の主だった。
「……待て」
アルベルトが声をかけた。
レオンが振り返る。
弟王子は拳を握っていた。
恐れもある。
焦りもある。
だが、逃げる顔ではなかった。
「俺も行く」
班員たちが驚く。
レオンはしばらく弟を見た。
「足手まといなら置いていく」
「ならない」
「命令に従えるか」
「……状況による」
「真似るな」
少しだけ、空気が変わった。
レオンは短く言う。
「来い」
そして二人は森へ駆け出した。
校外実習は、開始早々に崩れた。
学生の実習は終わり。
ここから先は――実戦だった。




