第3話「風雷の虎は、檻を笑い飛ばす」
緑と雷光の扉が、音を立てて開いていく。
水氷の湖で涙を吐き出したばかりのレオンは、その扉の向こうから吹き込む風に目を細めた。
風は軽い。
塔の中に閉じ込められていた冷たい空気とは違う。
広い草原を駆け抜けてきたような匂いがした。
雨上がりの空。
濡れた土。
遠くで鳴る雷。
そして、どこか腹立たしいくらい明るい笑い声。
「はっはっはっはっは!」
扉の向こうから響いた声に、レオンは無表情のまま足を止めた。
「……帰るか」
「早い」
肩の上のイグニスが即座に言った。
「まだ会ってもいないわよ?」
隣の水球に浮かぶ小さな人魚、セレネも苦笑する。
レオンは扉の向こうを見据えたまま、淡々と答えた。
「あの声だけで面倒だとわかる」
「判断が速いな」
「幽閉生活で学んだ。面倒なものには近づかない方がいい」
「それは処世術としては正しいが、今回に限っては進め」
「命令か」
「助言だ」
「同じだ」
いつものやり取り。
セレネが楽しそうに笑う。
「大丈夫よ、レオン。少し賑やかだけれど、彼は悪い神霊ではないわ」
「少し?」
レオンが見る。
セレネはふっと視線を逸らした。
「……たぶん」
「信頼できない言い方だな」
その瞬間、扉の向こうからさらに声が飛んできた。
「おーい! 聞こえてんぞー! ひっでえなセレネ! 久しぶりの再会だってのに、紹介が雑すぎんだろ!」
レオンの眉がわずかに動いた。
イグニスは静かに目を閉じる。
「やはりうるさい」
「聞こえてるって言ってんだろ、火の鳥!」
「火の鳥ではない。イグニスだ」
「知ってる知ってる! 相変わらず堅苦しいなぁ、お前!」
レオンは数秒だけ沈黙した。
そして、低く言った。
「本当に帰っていいか」
「だめよ」
セレネが即答した。
「契約者に逃げられたら、彼が拗ねるわ」
「拗ねる神霊なのか」
「ええ。雷より面倒よ」
「おい、聞こえてるぞ!」
扉の奥から不満げな声。
レオンは深く息を吐いた。
胸の奥にはまだ重い痛みが残っている。
父の言葉。
母の視線。
エリシアの後ずさり。
塔の扉が閉まる音。
それらは消えない。
だが、セレネの湖で泣いたことで、ほんの少しだけ息ができるようになった。
今は、そのわずかな余白に風が入ってくる。
少し乱暴で、遠慮がなく、けれど暗闇を吹き飛ばすような風。
レオンは扉へ向かって歩き出した。
扉の先は、空だった。
いや、空のように見える空間だった。
足元には石畳がない。
水面もない。
そこには浮遊する岩場がいくつもあり、それらが階段のように宙へ並んでいた。
周囲には風が渦を巻き、遠くには雷雲が浮かんでいる。
だが、空は暗くない。
青い。
眩しいほど青い。
雲の隙間から光が差し込み、浮遊岩の表面に生えた草を揺らしている。
風が吹く。
髪を撫でる。
頬を叩く。
閉ざされた塔の空気とはまったく違う。
自由な風だった。
レオンは思わず足を止めた。
空。
こんなに広い空を見たのは、いつ以来だろう。
塔の鉄格子越しではない。
神殿へ連れて行かれる馬車の窓越しでもない。
遮るもののない空。
その青さが、少しだけ胸に痛かった。
「どうだ!」
声が響いた。
「いい風だろ!」
レオンが視線を向ける。
最も大きな浮遊岩の上。
そこに一頭の虎がいた。
巨大な虎。
黄金に近い毛並み。
黒い縞模様の間を、緑の風と紫電が走っている。
鬣のように首元の毛が逆立ち、尾の先では小さな雷が弾けていた。
瞳は琥珀色。
鋭く、獰猛。
だが、その表情はやたらと楽しそうだった。
虎は前足を岩に乗せ、胸を張る。
「待ってたぜ、契約者!」
レオンは見上げた。
「……うるさいな」
「第一声それかよ!」
虎が大げさにのけぞる。
「いやいやいや、普通さ! もっとあるだろ! 『なんて雄々しい神霊なんだ』とか、『風と雷を纏うその姿、まるで嵐の王』とか!」
「うるさい」
「二回目!」
虎は雷をぱちぱち散らしながら笑った。
イグニスがレオンの肩で静かに言う。
「これが風雷の神霊だ」
「見ればわかる」
「性格も見ればわかるだろう」
「よくわかる」
セレネが水球に浮かびながら微笑む。
「久しぶりね」
「おう、セレネ! 相変わらず綺麗だな! 水も氷も美しい! でも怒ると怖い!」
「最後は余計よ」
「事実だろ?」
湖面ではない空間なのに、セレネの周囲の水球が一瞬だけ凍りかけた。
虎はすぐに前足を上げる。
「はい、すみません!」
レオンはそれを見て、少しだけ目を細めた。
「学習能力はあるのか」
「あるぞ!」
虎が胸を張る。
「長生きしてるからな!」
「長生きしてるのに、なぜそんなにうるさい」
「長生きしてるからこそだろ! 黙ってる時間が長すぎると、心が錆びるんだよ」
その言葉に、レオンはわずかに黙った。
心が錆びる。
軽く言っただけなのかもしれない。
けれど、今のレオンには少し刺さった。
塔での一年。
泣いて、怒って、諦めて、黙って。
確かに、心は錆びていたのかもしれない。
虎は岩から飛び降りた。
大きな体が宙を舞う。
だが落ちない。
風が虎の足元を支え、彼は軽やかにレオンの前へ降り立った。
近くで見るとさらに大きい。
大人が三人乗っても余裕があるほどの体躯。
爪は鋭く、牙は白い。
雷を纏う姿は、間違いなく強者そのものだった。
だが。
「よっ」
虎は片前足を上げた。
「元気してたか?」
レオンは無表情で返す。
「閉じ込められていた」
「そりゃ元気じゃねえな!」
「わかっていて聞いたのか」
「うん!」
「殴っていいか」
「初対面で!?」
虎がまた大げさに驚く。
イグニスが淡々と言った。
「レオン。殴るなら雷を避けろ」
「助言する方向が違うわよ、イグニス」
セレネが苦笑する。
虎はけらけら笑った。
「いいねぇ! 思ったより目が死んでるけど、口は生きてる! 安心した!」
その瞬間。
レオンの空気が変わった。
死んでいる。
その言葉に、胸の奥が冷える。
虎の表情も、一瞬で変わった。
笑みは消えない。
けれど、琥珀色の瞳だけが鋭くなる。
「あー、悪い。今のは雑だったな」
虎はすぐに言った。
「言葉が軽かった」
レオンは黙る。
「お前の心を踏むつもりはなかった。そこは謝る」
「……」
「ただな、レオン」
虎は低く続けた。
「お前、死んでねえぞ」
風が止まった。
雷鳴も遠ざかる。
虎の声だけが、空間に落ちた。
「どれだけ傷ついてても、どれだけ捨てられても、どれだけ暗い塔に閉じ込められても、お前はまだ歩いてここに来た。なら、死んでねえ」
レオンは虎を見る。
さっきまでの軽さが嘘のようだった。
その瞳には、ふざけた色がない。
「死んだみたいに生きるのは簡単だ。何も感じないふりをして、何も望まないふりをして、全部くだらないって切り捨てればいい。楽だぞ。傷も増えねえ」
虎は一歩近づく。
「でもな、それは檻を自分で増やしてるだけだ」
「檻……」
「ああ」
虎は顎で周囲を示した。
「お前を閉じ込めた塔は、王家が作った檻だ。だが、お前の中にある諦めは、お前自身が作る檻だ」
レオンの拳が震えた。
「知ったように言うな」
「ああ、知ってるようには言わねえよ。お前の痛みはお前のもんだ。俺が全部わかった顔をするのは違う」
虎は静かに言う。
「でも、これだけは言える。檻を壊したいなら、まず空を見ろ」
「空?」
「上を向けってことだ」
レオンは反射的に顔を上げた。
青い空。
広い空。
何も遮らない空。
風が吹く。
前髪を揺らす。
涙の跡が残る頬を撫でる。
「お前は塔にいた。でも、空はずっとあった」
虎の声は低い。
「見えなかっただけだ」
レオンは何も言えなかった。
胸の奥が、また痛む。
だが今度の痛みは、突き刺さるものではない。
奥に押し込めていた何かを、外から叩かれているような痛みだった。
イグニスが静かに目を伏せる。
セレネも何も言わない。
虎は、そこでふっと笑った。
「ま、説教くさくなったな! 俺らしくねえ!」
空気が一気に緩む。
レオンは眉をひそめた。
「今のはわざとか」
「何が?」
「真面目になった後、急に戻した」
「おう。重い話ばっかりじゃ息が詰まるだろ」
虎は牙を見せて笑う。
「泣くのはセレネ担当。燃やすのはイグニス担当。俺は笑わせる担当ってわけだ」
「笑ってない」
「今はな!」
「今後も笑わない」
「そのうち笑わせる」
「無理だ」
「無理って言われると燃えるな!」
「燃えるのは俺の担当だ」
イグニスが低く言う。
「おっ、出たな火の鳥ジョーク!」
「ジョークではない」
「真顔で言うから面白いんだよ!」
虎はまた笑う。
レオンはため息をついた。
疲れる。
だが、不思議と嫌ではなかった。
うるさい。
間違いなくうるさい。
けれど、その声は塔の沈黙とは違った。
耳障りではある。
だが、生きている音だった。
「それで」
レオンは虎を見る。
「お前も名がないのか」
虎はぴたりと止まった。
先ほどまで笑っていた顔が、少しだけ引き締まる。
「おう」
「契約者が名を与える」
「そうだ」
「名前をつければ契約成立か」
「いや、俺はちょっと違う」
イグニスが目を細める。
「何をする気だ」
セレネも表情を曇らせる。
「まさか、試すつもり?」
「当たり前だろ」
虎はにやりと笑った。
「風雷の神霊だぞ? 契約者が走れねえ奴なら、こっちも困る」
レオンは淡々と言った。
「走るのか」
「走る」
「どこを」
「ここを」
虎が前足で地面を叩く。
浮遊岩が連なり、はるか先まで続いている。
それらの間には空白がある。
落ちれば下は見えない。
風が支えているとはいえ、十歳の少年が走るには危険すぎる道だった。
セレネが目を細める。
「彼はまだ契約したばかりよ」
「だからだ」
虎は答える。
「神力に触れたばかり。炎と水氷を得たばかり。今なら、自分の限界をまだ決めきってねえ」
レオンは黙って聞く。
「王家はお前に魔力がないと言った。欠陥品だと言った。塔に閉じ込めた。なら、お前の体にも心にも、知らず知らずに染みついてるはずだ」
虎の瞳が鋭くなる。
「自分はできない、ってな」
レオンの胸が、ぎくりと鳴った。
否定したかった。
そんなことはない、と言いたかった。
だが、すぐには言えなかった。
神力を得た。
イグニスと契約した。
セレネと契約した。
それでも心のどこかに、まだ声がある。
魔力零。
欠陥品。
存在そのものが罪。
お前には何も守れない。
それは父の声であり、貴族たちの声であり、いつの間にかレオン自身の中に入り込んでいた声でもあった。
「だから走る」
虎は言った。
「考えるより先に足を出せ。怖くても飛べ。落ちそうなら風を掴め。雷が鳴ったら前を向け」
「意味がわからない」
「わからなくていい。体で覚えろ」
「無茶だな」
「無茶じゃねえ。荒療治だ」
「同じだ」
「違う違う。無茶は死ぬやつ。荒療治はギリ生きるやつ」
「余計嫌だ」
レオンが即答すると、虎は盛大に笑った。
「いいねぇ! ツッコミが早くなってきた!」
「お前が早くさせている」
「才能あるぞ、レオン!」
「嬉しくない」
セレネが心配そうに近づく。
「レオン、嫌なら断っていいのよ」
イグニスも静かに言う。
「契約に無理は必要ない」
レオンは二体を見た。
優しい。
守ろうとしてくれている。
さっきまで一人だった自分に、こんな言葉を向ける存在がいる。
その事実は、まだうまく飲み込めない。
でも。
虎の言葉もまた、胸に残っていた。
檻。
自分の中の檻。
王家が作った檻だけではない。
魔力がないからできない。
捨てられたから終わり。
自分には価値がない。
そう信じそうになっていた自分。
それを壊せるのなら。
「やる」
レオンは言った。
セレネの瞳が揺れる。
「レオン」
「嫌なら断っていいと言ったな」
「ええ」
「嫌じゃない」
レオンは浮遊岩の先を見る。
風が吹いている。
雷が遠くで鳴っている。
怖くないと言えば嘘になる。
落ちる想像もする。
痛いかもしれない。
失敗するかもしれない。
それでも。
「俺は、檻の中に戻りたくない」
その声に、虎が静かに笑った。
今度の笑みは、からかいではない。
嬉しそうで、誇らしそうな笑みだった。
「いい答えだ」
虎が身を低くする。
「じゃあ始めるぞ。俺が先に走る。お前は追ってこい」
「速さは」
「全力」
「十歳相手に?」
「神力持ち相手だろ?」
「まだ使い方を知らない」
「だから覚えるんだよ」
虎の体に風が纏わりつく。
紫電が毛並みを走る。
浮遊岩全体が震えた。
「ルールは一つ」
虎が言う。
「止まるな」
次の瞬間。
虎が消えた。
いや、走った。
風が爆ぜ、雷光が線となって浮遊岩を駆け抜ける。
一つ目の岩。
二つ目。
三つ目。
間隔など関係ないと言わんばかりに、虎は宙を蹴り、風を踏み、雷を纏って進む。
レオンは息を呑んだ。
速い。
無理だ。
そんな声が胸に浮かぶ。
だが。
「レオン!」
イグニスが叫ぶ。
「足を出せ!」
セレネも言う。
「水を怖がらないで。風も同じよ。流れに逆らわず、乗るの!」
レオンは奥歯を噛んだ。
無理だ。
できない。
そう思う前に、足を出した。
走る。
一つ目の岩を蹴る。
次の岩まで距離がある。
普通なら届かない。
だが、踏み切った瞬間、足元に風が集まった。
「っ!」
体が軽い。
落ちない。
風が下から押し上げる。
レオンは次の岩に着地した。
膝が揺れる。
だが止まらない。
止まるな。
虎の声が頭に残る。
走る。
また跳ぶ。
今度は距離が長い。
怖い。
足元がない。
落ちる。
その瞬間、胸の奥で神力が脈打った。
炎ではない。
水でもない。
まだ契約していないはずの風が、レオンの周囲に集まる。
雷が耳元で鳴る。
「そうだ!」
前方から虎の声が響く。
「掴め! 風は逃げ道じゃねえ! 道だ!」
レオンは空中で手を伸ばした。
何もないはずの空気。
だが、そこに流れがあった。
風の筋。
目には見えないが、神力が感じ取る。
それを掴む。
体が前へ引っ張られる。
着地。
走る。
跳ぶ。
走る。
雷が足元で弾ける。
筋肉が軋む。
息が苦しい。
でも、心は妙に静かだった。
塔の階段を上り下りするだけだった体が、初めて自由に動く。
鉄格子越しに見ていた空の中を、今、自分は走っている。
だが、その感動に浸る余裕はない。
「遅いぞ、レオン!」
虎が笑う。
「うるさい!」
初めて、レオンが声を荒げた。
怒りではない。
必死さの声だった。
虎は嬉しそうに牙を見せる。
「いい声出んじゃねえか!」
「黙れ!」
「黙ったら寂しいだろ!」
「寂しくない!」
「本当か?」
その問いに、レオンの足が一瞬だけ鈍った。
寂しくない。
そう言い切れない自分がいた。
そのわずかな迷いで、着地がずれる。
足が岩の端を踏んだ。
崩れる。
「っ!」
体が傾く。
落ちる。
下は見えない。
セレネが叫ぶ。
「レオン!」
イグニスが翼を広げる。
だがレオンは手を伸ばした。
助けを待つのではなく。
風を掴むために。
「……まだ」
指先が空を切る。
風が逃げる。
いや、違う。
逃げているのは自分だ。
落ちたくない。
失敗したくない。
また無能だと思われたくない。
その恐怖が、体を固めている。
虎の声が響いた。
「レオン!」
今度は、ふざけた声ではなかった。
鋭く、短く、まっすぐな声。
「怖いなら、怖いまま進め!」
その言葉が、雷のように落ちた。
怖いなら。
怖いまま。
進め。
レオンは歯を食いしばった。
「っ、ああ!」
手を伸ばす。
風を掴む。
いや、風に掴まれる。
体がぐんと引き上げられた。
雷が足元で弾け、レオンの体を次の岩へ運ぶ。
転がるように着地する。
肩を打つ。
痛い。
けれど落ちていない。
レオンはすぐに立ち上がった。
膝が震えている。
息が荒い。
だが、止まらない。
走る。
虎の背中が近づく。
風が強くなる。
雷が激しくなる。
最後の岩。
そこに虎が立っている。
レオンは最後の一歩を踏み切った。
距離は遠い。
普通なら届かない。
だが、もう迷わない。
怖い。
落ちたくない。
失敗したくない。
それでも、前へ。
風が背を押した。
雷が足を弾いた。
レオンの体が宙を飛ぶ。
虎のいる岩へ、勢いよく着地した。
膝をつく。
片手を岩につく。
息が苦しい。
心臓が破れそうだ。
全身が痛い。
それでも。
「……着いた」
レオンは呟いた。
虎が目の前に立っている。
しばらく沈黙した後、虎はにやりと笑った。
「遅かったな」
レオンは肩で息をしながら言った。
「……お前が速すぎる」
「まあな!」
「腹が立つ」
「いいぞ、その調子!」
虎が大笑いする。
レオンはその笑い声を聞きながら、ゆっくりと仰向けに倒れた。
空が見えた。
広い。
どこまでも広い。
塔の窓から見た空とは違う。
鉄格子で切り取られていない空。
自分を閉じ込めない空。
レオンは無意識に手を伸ばした。
届くはずはない。
でも、少しだけ近くなった気がした。
「……空は、ずっとあったのか」
小さな声。
虎はその隣に座った。
「ああ」
「見えなかっただけか」
「ああ」
「……そうか」
レオンは目を閉じた。
涙は出なかった。
だが、胸の奥にあった重い鎖が、一本だけ外れたような気がした。
セレネが水球ごと浮かんでくる。
イグニスも肩に戻った。
「無茶をさせすぎよ」
セレネが虎を睨む。
虎は前足で頭を掻く。
「でも、できたろ?」
「結果論よ」
「結果は大事だぜ」
「限度があるわ」
「怒るなって。レオンもちゃんと掴んだ」
セレネはまだ不満そうだったが、レオンの顔を見ると表情を柔らかくした。
「痛むところは?」
「全部」
「でしょうね」
セレネが指を動かすと、水がレオンの体を包んだ。
冷たい癒やしの水。
打ちつけた肩や膝の痛みが少しずつ和らいでいく。
「無理しすぎよ」
「……必要だった」
レオンは天井のない空を見たまま言った。
「たぶん」
虎が満足げに笑う。
「そういうことだ」
イグニスが虎を見る。
「試練は終わりか」
「ああ」
虎はレオンの前に立つ。
先ほどまでのお調子者の空気が薄れ、神霊としての威厳が戻る。
風が集まる。
雷が低く唸る。
虎の巨体が光に包まれた。
「契約者レオン」
声が、空を震わせる。
「お前は恐怖を抱いた。迷いもした。足も震えた。けれど止まらなかった」
レオンはゆっくりと起き上がる。
虎を見る。
「風は自由。雷は前進。どちらも、止まった者には宿らない」
虎の瞳が琥珀色に輝く。
「俺に名をくれ。お前が檻を壊すための足となり、牙となり、風となり、雷となる」
レオンは虎を見つめた。
うるさい。
軽い。
遠慮がない。
面倒。
けれど、ただ明るいだけではない。
危険な時には一言で止める。
必要な時には突き放す。
泣かせるのではなく、笑わせる。
立ち上がれと叫ぶ。
腐るなと、空を見ろと言う。
その存在にふさわしい名。
風。
雷。
虎。
そして、檻を笑い飛ばす者。
「……ヴァルガ」
虎の耳がぴくりと動いた。
「お前の名は、ヴァルガだ」
その瞬間。
空が鳴った。
風が螺旋を描き、雷が紫電の柱となって落ちる。
浮遊岩が震える。
青空に巨大な神紋が浮かび上がり、虎の体へ刻まれていく。
黄金の毛並みが輝き、黒い縞模様の間を風雷の光が駆け抜ける。
「ヴァルガ……!」
虎は牙を見せて笑った。
「いい名だ!」
咆哮。
それは雷鳴だった。
空間全体が震え、風が歓喜するように吹き荒れる。
イグニスの炎が揺れる。
セレネの水球が波打つ。
レオンの胸の奥で、三つ目の神力が目覚めた。
炎。
水氷。
そして風雷。
風は軽く。
雷は鋭く。
体の奥に新たな力が流れ込む。
ただし、その力は暴れる。
炎のように静かに宿るわけでもない。
水のように染み込むわけでもない。
風雷は、走り出したがっている。
前へ。
もっと前へ。
止まるなと叫んでいる。
「契約は成った!」
ヴァルガが高らかに言う。
「我が名はヴァルガ! 風雷を司り、契約者の進む道を切り開く神霊!」
彼はレオンへ顔を近づけた。
「レオン。お前が迷えば、俺が背中を押す。お前が止まれば、俺が怒鳴る。お前が腐りそうになったら、容赦なく引っ叩く」
「引っ叩くな」
「比喩だ比喩!」
「本当にやりそうだ」
「まあ、必要なら」
「やめろ」
ヴァルガは楽しそうに笑う。
「けどな、これだけは覚えとけ」
彼の声が少しだけ低くなる。
「お前はもう、檻の中だけの子どもじゃない」
レオンは黙る。
「塔に戻る日があってもいい。隠れる日があってもいい。泣く日も、怒る日も、全部あっていい」
風が静かに吹く。
「でも、自分で自分を閉じ込めるな」
レオンの胸に、その言葉が落ちた。
自分で自分を閉じ込めるな。
それはきっと、今後何度も思い出す言葉になる。
「……覚えておく」
レオンは短く答えた。
ヴァルガは満足そうに頷いた。
「よし!」
次の瞬間、巨大な虎の体が光に包まれた。
どんどん小さくなっていく。
大人三人が乗れそうな巨体から、馬ほど。
大型犬ほど。
さらに小さくなり、最後には子虎ほどの大きさになった。
黄金の毛並み。
黒い縞。
尾の先でぱちぱち弾ける小さな雷。
どう見ても、可愛い。
だが本人は得意げに胸を張っている。
「どうだ、レオン! このサイズなら寮でも塔でも邪魔にならねえぞ!」
「まだ寮に行くとは言っていない」
「あれ? 行かねえの?」
「今はまだ決めていない」
「じゃあ行こうぜ! 外だ外! 学園だ街だ飯だ!」
ヴァルガは尻尾を振る。
レオンは無表情で見下ろす。
「神霊は飯を食うのか」
「雰囲気を楽しむ!」
「面倒だな」
「楽しいだろ?」
「わからない」
「じゃあそのうち教えてやる!」
セレネが小さく笑う。
「ヴァルガらしいわね」
イグニスはため息に似た息を吐く。
「賑やかになった」
「いいだろ! 火と水だけじゃ湿っぽいんだよ!」
「燃やすぞ」
「冗談冗談!」
ヴァルガは軽やかにレオンの足元を回る。
レオンは少しだけ困ったように目を細めた。
イグニスは肩。
セレネは水球で隣。
ヴァルガは足元。
気づけば、自分の周りに三体の神霊がいる。
つい先ほどまで、一人だった。
塔の中で、誰にも呼ばれず、誰にも見られず、食事だけを差し入れられる存在だった。
それなのに今は。
「レオン」
イグニスが呼ぶ。
「レオン」
セレネが呼ぶ。
「レオン!」
ヴァルガが呼ぶ。
名前を呼ばれる。
ただそれだけで、胸の奥が少し痛い。
でも、それは嫌な痛みではなかった。
レオンは顔を背ける。
「……何度も呼ぶな」
ヴァルガがにやっと笑った。
「照れてんのか?」
「違う」
「照れてるわね」
セレネが微笑む。
「違う」
「耳が赤いぞ」
イグニスが冷静に言う。
「違う」
三体がそれぞれ違う表情でレオンを見る。
レオンは無表情を保とうとした。
だが、どうにも落ち着かない。
こんな空気を知らない。
からかわれているのに、傷つかない。
名前を呼ばれているのに、怖くない。
それが変で、妙で、少し苦しい。
「次へ行く」
レオンは話を切った。
ヴァルガが耳を立てる。
「お、最後か」
セレネが静かに奥を見る。
空の果て。
雷雲のさらに先に、黒と白の光が揺れている。
そこには、第四の扉があった。
白い光と黒い闇が絡み合う扉。
鳥の羽が舞っている。
光の羽。
闇の羽。
その中央には、鴉の紋様が刻まれていた。
レオンはそれを見つめる。
なぜか、胸の奥がざわついた。
炎は温めた。
水氷は涙を受け止めた。
風雷は背を押した。
なら、光闇は何をするのか。
イグニスが低く言う。
「最後の神霊だ」
セレネが少しだけ複雑そうに微笑む。
「彼女は……愛情深いわ」
ヴァルガが尻尾を振る。
「愛情深いっていうか、重いっていうか」
その瞬間、遠くの扉の奥から声がした。
「ヴァルガ?」
甘い声だった。
柔らかく、艶やかで、耳に残る声。
だが、その声を聞いた瞬間、ヴァルガの毛がぶわっと逆立った。
「……やべ」
「今、レオンに対して失礼なことを言いましたか?」
声は優しい。
とても優しい。
だが、闇がざわめいた。
光が細く鋭くなる。
ヴァルガは即座にレオンの後ろへ隠れた。
「レオン! 契約者! 俺を守れ!」
「神霊が十歳に隠れるな」
「相手が悪い!」
イグニスは静かに目を閉じた。
セレネは微笑みながらも、どこか諦めた顔をしている。
レオンは第四の扉を見つめた。
白と黒の羽が舞う。
甘く、深く、少し危険な気配。
その向こうで、最後の神霊が待っている。
レオンは小さく息を吐いた。
「……今度は何なんだ」
ヴァルガが震えながら言った。
「レオン大好き予備軍」
「まだ会ってもいない」
「会ったら確定する」
セレネが穏やかに言う。
「きっと、あなたをとても大切にしてくれるわ」
イグニスが付け足す。
「ただし、距離が近い」
レオンは頭が痛くなってきた。
だが、足は止めなかった。
炎が肩で揺れる。
水氷が隣で輝く。
風雷が足元で尻尾を立てる。
そしてその先に、光と闇が待っている。
レオンは第四の扉へ向かって歩き出した。
塔の奥。
誰にも知られぬ神霊の間。
そこで、王家に捨てられた少年は、三つ目の絆を得た。
まだ笑えない。
まだ許せない。
まだ傷は深い。
けれど、彼はもう立ち止まっていない。
檻の中で腐るだけの少年ではない。
風が背を押す。
雷が足を進ませる。
ヴァルガの声が後ろから響く。
「行け、レオン!」
うるさい声。
だが、不思議と嫌ではなかった。
「檻なんざ、笑って蹴っ飛ばせ!」
レオンは前を向いたまま、静かに答えた。
「……うるさい」
その声は冷たい。
けれどほんのわずかに。
本当にわずかに。
先ほどまでより、生きていた。




