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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第2話「水氷の人魚は、涙を凍らせる」


 炎が、暗闇を照らしていた。


 東の塔の奥。


 誰にも知られぬ隠し空間。


 王家がその存在を知っていたなら、決してレオンハルトをこの塔へ閉じ込めなかっただろう。


 そう思えるほど、そこは異質だった。


 石造りの通路のはずなのに、壁には淡い光の筋が走っている。


 赤。


 青。


 緑。


 金。


 黒。


 それらが脈打つように揺れ、まるで生き物の血管のように奥へ奥へと伸びていた。


 レオンハルトは無言で歩いていた。


 その肩には、小さくなった炎の不死鳥が留まっている。


 先ほどまで大広間を覆うほど巨大だった不死鳥は、今は子鳥ほどの大きさになっていた。


 黄金と緋色の羽。


 静かに燃える尾羽。


 だが熱くはない。


 むしろ、冷え切ったレオンハルトの体をわずかに温めていた。


「……便利だな」


 レオンハルトがぽつりと言う。


 肩の上の不死鳥――イグニスが、淡々と返した。


「神霊とはそういうものだ。契約者に合わせて在り方を変える」


「大きくもなれるのか」


「必要ならば。大人三人を乗せて飛ぶことも可能だ」


「そうか」


 短い返事。


 それきりレオンハルトは黙った。


 以前の彼なら、目を輝かせていただろう。


 空を飛べるのか。


 どれくらい速いのか。


 羽は熱くないのか。


 何を食べるのか。


 きっと次々に質問していた。


 けれど、今のレオンハルトの表情は動かない。


 目だけが、暗く冷えていた。


 イグニスはその横顔を見つめる。


「レオンハルト」


「レオンでいい」


 即答だった。


「レオンハルト・フォン・アルディアは、王族の名だ」


「……では、レオン」


「何だ」


「苦しいか」


 レオンは歩みを止めなかった。


 答えも、すぐには返さなかった。


 ただ、数歩進んだ後で、淡々と言った。


「わからない」


「わからない、か」


「ああ。痛いのか、苦しいのか、怒っているのか、悲しいのか、もうよくわからない。ただ……」


 レオンは自分の胸に手を当てた。


 そこには、神力の炎が静かに宿っている。


 けれど、心の奥はまだ凍っていた。


「空っぽだ」


 イグニスは何も言わなかった。


 慰めもしない。


 励ましもしない。


 ただ、肩の上で静かに目を細めた。


 その沈黙が、今のレオンにはありがたかった。


 下手な優しさを向けられたら、壊れてしまいそうだったから。


 通路の奥から、水音が聞こえた。


 ぽたり。


 ぽたり。


 静かな雫の音。


 近づくにつれ、空気が冷たくなる。


 炎の温もりとは違う。


 肌を刺す冷気ではなく、泣き腫らした目元に当てられる濡れ布のような、静かな冷たさ。


 レオンは足を止めた。


 目の前に、巨大な扉があった。


 青白い石で造られた扉。


 表面には、人魚の紋様が刻まれている。


 長い髪を水面に広げ、両腕で何かを抱くように胸元へ寄せる人魚。


 その下半身は優美な尾を描き、鱗の一枚一枚には氷の花のような模様が彫られていた。


 人魚は微笑んでいる。


 だが、その瞳だけは深く、悲しげで、すべての涙を見つめてきたようだった。


 その瞳に、青い宝石が埋め込まれている。


 レオンが近づくと、宝石が淡く輝いた。


 扉に文字が浮かぶ。


『炎に名を与えし者よ』


 レオンは目を細めた。


 イグニスが低く告げる。


「次の神霊だ」


「水か」


「水。そして氷。癒やしと静寂を司る者でもある」


「水氷だけじゃないのか」


「契約後に理解できる。神霊の属性とは、人間の分類ほど単純ではない」


 レオンは扉に手を伸ばした。


 その瞬間。


 扉の向こうから、歌が聞こえた。


 言葉にならない旋律。


 静かで、優しくて、胸の奥に染み込むような歌。


 それは子守唄にも似ていた。


 遠い昔、熱を出して眠れなかった夜に、誰かがそばで歌ってくれたような。


 もう思い出したくない温もりに触れるような。


 レオンの指先が止まる。


 歌声は、やがて言葉になった。


「……泣いていたのね」


 女性の声だった。


 優しく、深く、穏やかで。


 けれど、聞いた瞬間、レオンの胸の奥が強く揺れた。


 泣いていた。


 誰にも見せたくなかった事実を、あまりにも自然に言われたから。


 レオンの指先が止まる。


「泣いていない」


 声は冷たく出た。


 扉の向こうの声は、責めなかった。


 ただ、静かに言った。


「そう。なら、泣けなかったのね」


「……」


 レオンは唇を噛んだ。


 イグニスが肩の上でわずかに羽を動かす。


「扉を開けろ、レオン」


「……命令するな」


「助言だ」


「同じだ」


 そう言いながらも、レオンは扉に手を押し当てた。


 青白い光が広がる。


 水の流れる音が強くなる。


 扉が、ゆっくりと開いた。


 中は、湖だった。


 塔の中のはずなのに。


 地下深くでもないはずなのに。


 そこには、星空を映したような巨大な湖が広がっていた。


 天井は見えない。


 空間そのものが夜のように暗く、しかし湖面だけが淡く輝いている。


 湖の周囲には氷の花が咲いていた。


 青く透き通った花弁。


 触れれば砕けそうなのに、不思議な生命力を感じる。


 湖面には細い霧が漂っていた。


 白く、冷たく、けれど恐ろしくはない。


 むしろ傷ついた肌をそっと覆う包帯のように、静かに空間を満たしていた。


 レオンは一歩踏み出した。


 足元に水がある。


 だが沈まない。


 湖面の上を歩いている。


 波紋が広がるたび、遠い記憶のように光が揺れた。


「すごい……」


 思わず、声が漏れた。


 その声には、ほんの少しだけ十歳の少年らしさが戻っていた。


 イグニスは何も言わず、ただその変化を見守った。


 湖の中央。


 そこに、彼女はいた。


 水面から上半身を出した、美しい女性。


 長い髪は銀青色。


 月光を溶かしたように淡く輝き、湖面の上に広がっている。


 肌は透き通るほど白く、肩から腕にかけて薄い氷の紋様が浮かんでいた。


 瞳は深い青。


 サファイアよりも澄み、海よりも深い。


 下半身は人ではなかった。


 水面の下で、蒼白い魚尾がゆっくりと揺れている。


 尾ひれは薄い氷の翼のように広がり、動くたびに湖へ銀の光を散らした。


 美しい。


 そう思った。


 怖い、ではなく。


 荘厳、でもなく。


 ただ、美しいと。


 人魚はレオンを見つめた。


 巨大な力を秘めた存在。


 けれど、その眼差しは驚くほど柔らかかった。


「来てくれたのね」


 人魚が言った。


「小さな契約者」


 レオンは表情を変えずに見つめる。


「俺は小さくない」


「十歳でしょう?」


「……小さいか」


「ええ。とても」


 人魚はくすりと笑った。


 その笑い声は、水面を撫でる風のようだった。


「でも、心に負った傷は大人より深い」


 レオンの目が冷える。


「勝手に見るな」


「見てしまうの。水は記憶を映す。氷は痛みを閉じ込める。あなたがここに足を踏み入れた瞬間、あなたの涙がこの湖に落ちた」


「涙なんて落としてない」


「体から落ちたものだけが涙ではないわ」


 人魚の言葉は優しかった。


 だが、逃げ道を塞ぐ優しさだった。


 レオンは拳を握る。


「同情するならいらない」


「同情ではないわ」


「じゃあ何だ」


「怒っているの」


 人魚の声が、ほんの少しだけ低くなった。


 湖面がぴたりと止まる。


 空気が、凍る。


 霧が細い氷の粒となり、音もなく宙に浮いた。


「十歳の子どもを、魔力がないという理由で辱め、婚約を奪い、名前を奪い、親の愛を奪い、暗い塔に閉じ込めた者たちへ」


 人魚の瞳が鋭くなる。


 その瞬間、レオンは本能的に理解した。


 この神霊は優しい。


 大らかで、包み込むような存在だ。


 だが。


 怒らせてはいけない。


 絶対に。


 人魚の周囲の湖面が凍りつく。


 氷は一瞬で広がり、青白い刃のように尖った。


「あなたを傷つけた者たちを、今すぐ湖の底へ沈めてもいい」


 静かな声だった。


 だからこそ、恐ろしかった。


「息が続く間だけ後悔させて、それでも足りないなら、涙ごと凍らせて砕くわ」


 レオンは息を呑む。


 肩のイグニスが淡々と言った。


「相変わらずだな」


「イグニス」


 人魚が視線を向ける。


「あなたも怒っているでしょう」


「当然だ」


「なら燃やす?」


「契約者が命じるなら」


 レオンは二体の神霊を見た。


 炎と水氷。


 属性は相反しているはずなのに、二体の怒りは同じ方向を向いていた。


 自分を傷つけた者たちへ。


 父へ。


 母へ。


 貴族へ。


 エリシアへ。


 民へ。


 あの神殿にいたすべての者へ。


 もし命じれば、本当に彼らは燃やし、凍らせるのだろう。


 沈め、閉ざし、砕くのだろう。


 レオンの心臓が強く鳴る。


 ほんの一瞬。


 本当にほんの一瞬だけ。


 見たいと思った。


 父が怯える姿を。


 母が泣き叫ぶ姿を。


 自分を欠陥品と呼んだ貴族たちが、助けを求める姿を。


 存在そのものが罪だと言った男へ、同じ絶望を返すことを。


 けれど。


「……しない」


 レオンは言った。


 イグニスが目を細める。


 人魚は静かに見つめる。


「なぜ」


 人魚が問う。


「憎くないの?」


「憎い」


 即答だった。


「許せない?」


「許せない」


「なら、なぜ止めるの」


 レオンは湖面に視線を落とした。


 そこには自分の顔が映っていた。


 十歳の顔。


 だが目だけが子どもではない。


 冷たく、乾いて、傷ついている。


「俺が命じれば、たぶんお前たちはやる」


「ええ」


「王城を燃やせるか」


「できる」


 イグニスが答えた。


「王妃を凍らせられるか」


「できるわ」


 人魚が答えた。


「貴族たちを全部潰せるか」


「可能だ」


「沈めることも、凍らせることも、砕くこともできるわ」


 二体は当然のように言う。


 それが神霊の力なのだろう。


 人間の魔法とは違う。


 魔力では届かぬ領域。


 神力によって振るわれる、本物の力。


 レオンは拳を握りしめた。


「でも、それをしたら……あいつらと同じになる」


 湖面に、小さな波紋が広がった。


「力があるから踏みにじる。気に入らないから奪う。弱いから捨てる。俺は……それが嫌いだ」


 言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。


 なぜなら、それは昔の自分が信じていた正義だったから。


 弱き者を守る。


 力はそのためにある。


 父から教わったはずの言葉。


 けれど、父はそれを守らなかった。


 なら、自分はどうする。


 同じように捨てるのか。


 同じように傷つけるのか。


 違う。


「俺は王族が嫌いだ」


 レオンは静かに言った。


「あの血も、あの冠も、あの玉座も、全部嫌いだ。自分たちを神だと思い込んで、人を魔力で測る連中が嫌いだ」


 人魚は黙って聞いている。


 イグニスも、何も言わない。


「でも」


 レオンは顔を上げた。


「俺は、弱い人間まで燃やしたいわけじゃない」


 湖が揺れた。


 人魚の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。


「あなたは、まだ優しいのね」


「違う」


 レオンは即座に否定した。


「優しくなんかない。俺はただ、同じになりたくないだけだ」


「それを優しさと言うのよ」


「勝手に決めるな」


「ふふ。頑固ね」


 人魚が小さく笑う。


 空気の冷たさが、少しだけ和らいだ。


 レオンはその笑みに、わずかに戸惑った。


 塔に閉じ込められてから、誰かにこんなふうに笑いかけられたのは初めてだった。


 侮蔑でもなく。


 嘲笑でもなく。


 哀れみでもなく。


 ただ、そこにいていいと言うような笑み。


 それが、ひどく痛かった。


「……やめろ」


「何を?」


「そんな顔をするな」


「どんな顔?」


「……わからない」


 レオンは視線を逸らした。


 胸の奥が熱い。


 炎ではない。


 痛みとも少し違う。


 押し込めていた何かが、ゆっくりと溶けかけているような感覚だった。


 人魚は水面を滑るように近づいてきた。


 尾ひれが揺れるたび、湖面に銀の波紋が広がる。


 彼女はレオンのすぐ前で止まり、水面から白い腕を伸ばした。


 その指先は細く、触れれば消えてしまいそうに見えた。


 けれど、そこに宿る力は圧倒的だった。


「泣いてもいいのよ」


「泣かない」


「怒ってもいい」


「怒っている」


「弱いと言ってもいい」


「弱くない」


「寂しいと言ってもいい」


「……」


 その言葉だけ、レオンは返せなかった。


 寂しい。


 認めたくなかった。


 そんなものを認めたら、今まで必死に凍らせてきた心が崩れてしまう。


 父に捨てられた。


 母に拒絶された。


 婚約者に背を向けられた。


 民に気味悪がられた。


 侍女のミーナも、きっと自分のせいで処遇を変えられた。


 扉の向こうに誰もいない。


 毎日、食事だけが差し入れ口から押し込まれる。


 声をかけても返事はない。


 生きていても、誰にも必要とされない。


 その日々を、寂しくないと言えるほど、レオンは壊れていなかった。


 唇が震える。


「……言ったら」


 かすれた声が出た。


「どうなる」


 人魚は静かに答えた。


「何も変わらないわ」


「……なら意味がない」


「でも、あなたが一人で抱えなくてよくなる」


 その言葉が、レオンの胸に落ちた。


 一人で抱えなくてよくなる。


 今までずっと、一人だった。


 泣くのも。


 怒るのも。


 考えるのも。


 耐えるのも。


 全部一人だった。


 誰も来なかった。


 誰も答えなかった。


 誰も、レオンハルトという人間を見なかった。


「……俺は」


 声が震えた。


 レオンは歯を食いしばる。


 泣きたくない。


 泣くのは嫌だ。


 泣けば、あの神殿の自分に戻ってしまう。


 父に捨てないでと叫んだ、惨めな自分に。


 だが。


 人魚の瞳は、彼を責めなかった。


 イグニスも、黙って肩に留まっていた。


 炎が少しだけ暖かくなる。


 逃げてもいい。


 そう言われている気がした。


「……寂しかった」


 小さな声だった。


 湖面に、ぽたりと雫が落ちた。


「ずっと……誰かに来てほしかった」


 言葉が溢れる。


「父上でも、母上でも、エリシアでも、ミーナでも、誰でもよかった。怒られてもよかった。謝れって言われてもよかった。魔力がないって責められてもよかった。ただ……」


 レオンの顔が歪む。


 ずっと無表情だった顔が、初めて子どものように歪んだ。


「誰かに、名前を呼んでほしかった」


 湖に雫が落ちる。


 一つ。


 二つ。


 涙だった。


 レオンは慌てて拭おうとした。


 しかし、人魚の指先がそっと動き、水の薄い膜が彼の頬に触れた。


 冷たい。


 でも優しい。


 涙を拭うように、水が頬を撫でた。


「レオン」


 人魚が呼んだ。


 レオンは肩を震わせた。


「レオン」


 もう一度。


 その名は、王子としての名ではなかった。


 失敗作を呼ぶ声でもない。


 欠陥品を見下す声でもない。


 一人の少年を呼ぶ声だった。


「あなたはここにいるわ」


「……っ」


「あなたは罪ではない」


 その瞬間。


 レオンは泣いた。


 声を殺そうとした。


 でも無理だった。


 涙が溢れた。


 塔で何度も泣いたはずなのに。


 もう枯れたと思っていたのに。


 それでも涙は出た。


 イグニスは肩から飛び立ち、少し離れた氷の花の上に降りた。


 人魚は水面からさらに身を起こし、両腕を伸ばした。


 抱きしめるには、彼女は水の中にいた。


 けれど、水が動いた。


 湖面から柔らかな水の腕が伸び、レオンの体を包み込む。


 冷たいはずなのに。


 温かかった。


 まるで母に抱かれるとは、こういうものだったのではないかと思ってしまうほどに。


 レオンは膝をつく。


 泣く。


 ただ、泣く。


 十歳の少年として。


 捨てられた子どもとして。


 ずっと我慢していた名前のない痛みを、ようやく吐き出すように。


 イグニスは何も言わなかった。


 人魚も、何も急かさなかった。


 湖だけが静かに揺れ、彼の涙を受け止めていた。


 そして、彼女は静かに歌った。


 言葉にならない歌。


 傷を消す歌ではない。


 悲しみをなかったことにする歌でもない。


 ただ、泣いている子どもが一人で壊れてしまわないように、そっと寄り添う歌だった。


 どれほど時間が経ったのか。


 レオンはゆっくりと顔を上げた。


 目元は赤い。


 呼吸も乱れている。


 それでも、その瞳には先ほどまでとは違う光があった。


 弱く、頼りない。


 だが確かに、消えてはいない光。


「……見苦しいところを見せた」


 レオンが低く言う。


 人魚は微笑んだ。


「子どもが泣くことは見苦しくないわ」


「俺は子どもじゃない」


「十歳でしょう?」


「……それを言うな」


「ふふ」


 人魚の笑い声が湖面に広がる。


 イグニスが静かに口を挟んだ。


「少しは楽になったか」


「……わからない」


「またそれか」


「本当にわからないんだ。ただ……」


 レオンは胸に手を当てた。


「少し、息がしやすい」


「なら十分だ」


 イグニスは短く言った。


 人魚は満足そうに目を細める。


「では、契約をしましょう」


 レオンは人魚を見つめた。


「お前も名がないのか」


「ええ。契約者が名を与えることで、私たちはこの世界に個として定着する」


「名をつけるのは苦手だ」


「イグニスは良い名よ」


 人魚が言うと、イグニスは羽をわずかに膨らませた。


「当然だ」


「褒められるとすぐそれね」


「事実を述べただけだ」


「はいはい」


 二体のやり取りに、レオンは少しだけ目を瞬いた。


 神霊同士も、こんな会話をするのか。


 もっと神聖で、厳かで、近寄りがたい存在だと思っていた。


 だがイグニスは冷静だがどこか頑固で。


 目の前の人魚は優しいが、意外と遠慮なく突いてくる。


 人ではない。


 けれど、人よりずっと近い。


 不思議な存在だった。


「名前……」


 レオンは人魚を見つめる。


 銀青の髪。


 氷の鱗を持つ尾。


 深い湖のような瞳。


 優しさ。


 大らかさ。


 そして、怒れば何より恐ろしい静かな力。


 水は包む。


 氷は守る。


 涙は、無理に止めるものではない。


 流れた後で、凍らないように温めればいい。


 そんな言葉が浮かぶ。


 そして自然と、名が落ちた。


「セレネ」


 人魚の瞳が大きく揺れた。


「お前の名は、セレネだ」


 その瞬間、湖が輝いた。


 星空を映していた湖面が、月光を浴びたように白く染まる。


 氷の花が一斉に咲き誇った。


 青。


 白。


 銀。


 無数の光が空間を満たす。


 人魚の体から蒼白い光が溢れ、髪の一房一房に、尾の鱗一枚一枚に、神紋が刻まれていく。


「セレネ……」


 人魚はその名を慈しむように呟いた。


「ええ。とても綺麗な名」


 彼女は湖面に両手を重ね、深く頭を垂れた。


「我が名はセレネ」


 声が空間全体に響く。


「水氷を司り、傷を癒やし、涙を受け止める神霊」


 湖面から水が立ち上る。


 それは絹の帯のように舞い、レオンの周囲を巡った。


 冷たい。


 だが怖くない。


 レオンの胸の奥で、神力がまた一つ目覚める。


 炎とは違う。


 熱く燃える力ではない。


 静かに流れ、守り、凍らせ、癒やす力。


「契約は成った」


 セレネが告げる。


「レオン。私の水はあなたの傷を癒やし、私の氷はあなたの敵を閉ざす。そして、あなたを泣かせる者がいれば――」


 その瞬間、セレネの瞳が細くなる。


 湖全体が凍った。


 音もなく。


 一瞬で。


「砕くわ」


 優しい声だった。


 なのに、背筋が凍るほど怖かった。


 レオンはしばらく黙ってから、小さく言った。


「……ほどほどにしろ」


「努力するわ」


「それはしないやつの返事だ」


「ふふ。よくわかったわね」


 レオンはため息をついた。


 ほんの少しだけ、空気が緩む。


 イグニスが肩に戻ってくる。


「セレネ。契約者はまだ不安定だ。過保護にしすぎるな」


「あら、あなたに言われたくないわ。さっき契約したばかりなのに、もう肩に乗っているじゃない」


「これは警護だ」


「私は涙を拭いただけよ」


「距離が近い」


「あなたも近いわ」


 二体が静かに火花を散らす。


 いや、片方は本当に小さな火の粉を散らしていた。


 レオンは無表情のまま言った。


「喧嘩するなら契約を切る」


「しない」


「しないわ」


 即答だった。


 レオンは少しだけ目を細める。


「……神霊も必死なんだな」


「契約者を失えば、また永い眠りに戻る」


 イグニスが言う。


 セレネは穏やかに続けた。


「それだけではないわ。私たちは、あなたを待っていたの」


「俺を?」


「ええ」


「なぜ」


 セレネはすぐには答えなかった。


 湖の上に視線を落とす。


 そこに映るのは、レオンの姿。


 その奥に、遠い記憶のような影が揺れた。


「神力を宿す者は、長い間現れなかった」


 イグニスが低く言う。


「人の世界は魔力に傾きすぎた。魔力量で価値を決め、属性で身分を分け、力ある者が弱き者を踏む。それが当たり前になった」


「王家のように?」


 レオンの声が冷える。


「ああ」


 イグニスは否定しなかった。


「アルディア王家は特にひどい。奴らは魔力の高さを神の証と呼び、自らを神に近いと驕った」


 セレネの目が悲しげに伏せられる。


「でも、本当の神性とは魔力の量ではないわ。弱き声を聞くこと。涙を見捨てないこと。力を持ちながら、踏みにじらないこと」


「……俺にそれがあると?」


「少なくとも、あなたは復讐のために私たちを使わなかった」


「使わなかっただけだ。今後使わない保証はない」


「それでもいいの」


 セレネは優しく言った。


「怒りを持ってはいけないわけではない。憎しみを抱いてはいけないわけでもない。大切なのは、その力を誰に向けるか」


 レオンは黙った。


 誰に向けるか。


 今はまだ、わからない。


 王家を許す気はない。


 エリシアを許せるかもわからない。


 貴族たちの顔を思い出すだけで、胸の奥に黒いものが生まれる。


 けれど、全部を壊したいわけじゃない。


 そこだけは確かだった。


「……難しいな」


「生きることは難しいわ」


 セレネが微笑む。


「特に、傷ついたまま正しくあろうとするのは」


「正しくなんてない」


「そう思っているうちは、きっと大丈夫」


 レオンは眉をひそめた。


「意味がわからない」


「そのうちわかるわ」


「年長者みたいな言い方だな」


「実際、あなたよりずっと年上よ」


「そうか」


 レオンは少し考え、真顔で言った。


「年寄りか」


 空気が止まった。


 イグニスが目を逸らす。


 セレネの笑顔が固まる。


「……レオン?」


「何だ」


「女性に年寄りと言ってはいけないわ」


「女なのか」


「女性型でしょう?」


「人魚だろう」


「人魚でも女性型よ」


「そうなのか」


 レオンは真剣に頷いた。


「覚えた」


 セレネはにこりと微笑んだ。


 その笑顔は優しい。


 とても優しい。


 だが、湖の端がぴしりと凍った。


 イグニスが低く呟く。


「レオン。危険だ」


「何がだ」


「今後、セレネに年齢の話はするな」


「なぜ」


「砕かれる」


「誰が」


「空気が」


 レオンはしばらく考えた後、セレネを見た。


「悪かった」


 素直に謝った。


 セレネは一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。


「許します」


「意外と簡単だな」


「レオンだからよ」


「……そういうのもやめろ」


「どうして?」


「慣れていない」


 その答えに、セレネの瞳がまた優しくなる。


 レオンは居心地悪そうに視線を逸らした。


 イグニスが小さく言った。


「慣れろ」


「命令するな」


「助言だ」


「同じだ」


 同じやり取り。


 けれど、さっきより少しだけ空気が柔らかい。


 レオン自身も、それに気づいていた。


 胸の空洞が埋まったわけではない。


 傷が癒えたわけでもない。


 王家への嫌悪も、消えていない。


 でも。


 一人ではない。


 その事実が、思った以上に大きかった。


「セレネ」


「なあに?」


「普段はどうする」


「どう、とは?」


「イグニスは肩に乗っている。お前は湖から出られるのか」


「あら、出られるわ」


 セレネの体が光に包まれた。


 湖面が渦を巻く。


 巨大な水の柱が立ち上り、その中でセレネの姿がゆっくりと変わっていく。


 大人の女性ほどの姿から、十代半ばほどの少女のような大きさへ。


 さらに小さく。


 最後には、レオンの腕に抱えられるほどの小さな人魚になった。


 銀青の髪。


 小さな白い腕。


 蒼白く輝く魚尾。


 尾ひれは氷の花びらのようにひらひら揺れている。


 彼女の周囲には、小さな水の球が浮かんでいた。


 どうやらその中に半身を浸すことで、空中でも移動できるらしい。


 威厳はある。


 あるはずなのに。


 どう見ても、可愛い。


「……」


 レオンは黙って見下ろした。


 小さなセレネが首を傾げる。


「どうかしら」


「……便利だな」


「それだけ?」


「可愛いと言ってほしいのか」


「言ってくれるの?」


「……言わない」


「あら」


 セレネは少し残念そうにした。


 イグニスが淡々と言う。


「契約者に媚びるな」


「媚びていないわ。愛情表現よ」


「まだ早い」


「あなたも肩に乗っているのに?」


「警護だ」


「便利な言葉ね」


 二体の会話を聞きながら、レオンはふと小さく息を吐いた。


 笑ったわけではない。


 だが、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった気がした。


 セレネはそれに気づいたのか、小さな水球ごとすいっとレオンの隣へ寄った。


「レオン」


「何だ」


「私は、あなたの涙を恥だとは思わない」


「……またその話か」


「大切なことだから」


 セレネは小さな人魚の姿のまま、真っ直ぐに言った。


「泣いたことを忘れなくていい。傷ついたことも、寂しかったことも、捨てられたことも、なかったことにしなくていい」


 レオンは動かない。


「でも、それらがあなたの価値を決めるわけではないわ」


「……」


「あなたは魔力零だから無価値なのではない。王家に捨てられたから罪なのでもない。あなたは、あなたよ」


 レオンは目を伏せた。


 そんな言葉を、もっと早く誰かに言ってほしかった。


 父でも。


 母でも。


 エリシアでも。


 誰でもよかった。


 でも、誰も言ってくれなかった。


 代わりに、今ここで、神霊が言ってくれている。


「……セレネ」


「ええ」


「俺は、まだ父上たちを許せない」


「許さなくていいわ」


「母上の顔を思い出すと、息が苦しくなる」


「当然よ」


「エリシアを思い出すと……胸が痛い」


「好きだったのね」


 レオンは黙った。


 好き。


 その言葉はまだわからない。


 でも、特別だった。


 婚約者だった。


 見てほしかった。


 認めてほしかった。


 笑ってほしかった。


 だから、あの後ずさりは痛かった。


「……わからない」


「今はそれでいいわ」


「全部、ぐちゃぐちゃだ」


「なら、少しずつ整えましょう」


「どうやって」


「まずは、次の神霊に会いに行くの」


 セレネが奥を見た。


 湖のさらに向こう。


 氷の花が並ぶ先に、新たな扉が見える。


 緑と紫電の光が走る扉。


 そこから、風が吹いていた。


 軽く、自由で、少し騒がしい風。


 同時に、雷鳴のような低い鼓動もある。


 イグニスが言った。


「風雷の神霊だ」


「どんな奴だ」


 レオンが問うと、イグニスは少しだけ沈黙した。


 セレネも、なぜか微妙な顔をした。


「……何だ」


「悪い者ではない」


 イグニスが言う。


「ええ。とても頼りになるわ」


 セレネも頷く。


「ただし?」


 レオンが目を細める。


 イグニスは淡々と答えた。


「うるさい」


 セレネはにこやかに言った。


「とても賑やかよ」


「同じ意味か」


「だいたい」


 レオンは扉を見た。


 炎。


 水氷。


 次は風雷。


 自分はどこへ向かっているのか。


 まだわからない。


 けれど、ここで立ち止まるつもりはなかった。


 東の塔は牢獄だった。


 だが、その奥には神霊がいる。


 自分を欠陥品と呼ばなかった存在がいる。


 名を呼んでくれる者がいる。


 それだけで、足を進める理由には十分だった。


 レオンは歩き出す。


 肩にはイグニス。


 隣には小さな水球に包まれて浮かぶセレネ。


 炎と水氷を従える少年は、まだ十歳だった。


 けれど、その瞳にはもう、神殿で泣き叫んだだけの子どもはいない。


 傷は残っている。


 絶望も消えていない。


 だが、ほんのわずかに。


 本当にわずかに。


 凍った心の奥で、何かが動き始めていた。


 セレネがそっと寄り添う。


「レオン」


「何だ」


「次に泣きたくなったら、呼んでね」


「泣かない」


「そう言うと思った」


「なら言うな」


「言いたかったの」


 レオンは小さくため息をつく。


「面倒な神霊だな」


「ええ。たっぷり甘やかすわ」


「いらない」


「拒否権は?」


「ある」


「そう。じゃあ、少しだけにしておくわ」


「聞いてないだろ」


「聞いているわ。少しだけ、ね」


 イグニスが静かに羽を整える。


「レオン」


「今度は何だ」


「慣れろ」


「だから命令するな」


「助言だ」


 セレネが楽しそうに笑う。


 レオンは無表情のまま、前を向いた。


 奥の扉から、強い風が吹く。


 その風に混じって、誰かの笑い声が聞こえた気がした。


 軽く。


 明るく。


 少しだけ馬鹿っぽい声。


 レオンは眉をひそめた。


「……本当にうるさそうだな」


 イグニスとセレネが同時に頷いた。


 そして、緑と雷光の扉がゆっくりと開き始めた。


 風が、レオンの黒く沈んだ髪を揺らす。


 雷が、遠くで鳴る。


 次の契約が、彼を待っていた。

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