第2話「水氷の人魚は、涙を凍らせる」
炎が、暗闇を照らしていた。
東の塔の奥。
誰にも知られぬ隠し空間。
王家がその存在を知っていたなら、決してレオンハルトをこの塔へ閉じ込めなかっただろう。
そう思えるほど、そこは異質だった。
石造りの通路のはずなのに、壁には淡い光の筋が走っている。
赤。
青。
緑。
金。
黒。
それらが脈打つように揺れ、まるで生き物の血管のように奥へ奥へと伸びていた。
レオンハルトは無言で歩いていた。
その肩には、小さくなった炎の不死鳥が留まっている。
先ほどまで大広間を覆うほど巨大だった不死鳥は、今は子鳥ほどの大きさになっていた。
黄金と緋色の羽。
静かに燃える尾羽。
だが熱くはない。
むしろ、冷え切ったレオンハルトの体をわずかに温めていた。
「……便利だな」
レオンハルトがぽつりと言う。
肩の上の不死鳥――イグニスが、淡々と返した。
「神霊とはそういうものだ。契約者に合わせて在り方を変える」
「大きくもなれるのか」
「必要ならば。大人三人を乗せて飛ぶことも可能だ」
「そうか」
短い返事。
それきりレオンハルトは黙った。
以前の彼なら、目を輝かせていただろう。
空を飛べるのか。
どれくらい速いのか。
羽は熱くないのか。
何を食べるのか。
きっと次々に質問していた。
けれど、今のレオンハルトの表情は動かない。
目だけが、暗く冷えていた。
イグニスはその横顔を見つめる。
「レオンハルト」
「レオンでいい」
即答だった。
「レオンハルト・フォン・アルディアは、王族の名だ」
「……では、レオン」
「何だ」
「苦しいか」
レオンは歩みを止めなかった。
答えも、すぐには返さなかった。
ただ、数歩進んだ後で、淡々と言った。
「わからない」
「わからない、か」
「ああ。痛いのか、苦しいのか、怒っているのか、悲しいのか、もうよくわからない。ただ……」
レオンは自分の胸に手を当てた。
そこには、神力の炎が静かに宿っている。
けれど、心の奥はまだ凍っていた。
「空っぽだ」
イグニスは何も言わなかった。
慰めもしない。
励ましもしない。
ただ、肩の上で静かに目を細めた。
その沈黙が、今のレオンにはありがたかった。
下手な優しさを向けられたら、壊れてしまいそうだったから。
通路の奥から、水音が聞こえた。
ぽたり。
ぽたり。
静かな雫の音。
近づくにつれ、空気が冷たくなる。
炎の温もりとは違う。
肌を刺す冷気ではなく、泣き腫らした目元に当てられる濡れ布のような、静かな冷たさ。
レオンは足を止めた。
目の前に、巨大な扉があった。
青白い石で造られた扉。
表面には、人魚の紋様が刻まれている。
長い髪を水面に広げ、両腕で何かを抱くように胸元へ寄せる人魚。
その下半身は優美な尾を描き、鱗の一枚一枚には氷の花のような模様が彫られていた。
人魚は微笑んでいる。
だが、その瞳だけは深く、悲しげで、すべての涙を見つめてきたようだった。
その瞳に、青い宝石が埋め込まれている。
レオンが近づくと、宝石が淡く輝いた。
扉に文字が浮かぶ。
『炎に名を与えし者よ』
レオンは目を細めた。
イグニスが低く告げる。
「次の神霊だ」
「水か」
「水。そして氷。癒やしと静寂を司る者でもある」
「水氷だけじゃないのか」
「契約後に理解できる。神霊の属性とは、人間の分類ほど単純ではない」
レオンは扉に手を伸ばした。
その瞬間。
扉の向こうから、歌が聞こえた。
言葉にならない旋律。
静かで、優しくて、胸の奥に染み込むような歌。
それは子守唄にも似ていた。
遠い昔、熱を出して眠れなかった夜に、誰かがそばで歌ってくれたような。
もう思い出したくない温もりに触れるような。
レオンの指先が止まる。
歌声は、やがて言葉になった。
「……泣いていたのね」
女性の声だった。
優しく、深く、穏やかで。
けれど、聞いた瞬間、レオンの胸の奥が強く揺れた。
泣いていた。
誰にも見せたくなかった事実を、あまりにも自然に言われたから。
レオンの指先が止まる。
「泣いていない」
声は冷たく出た。
扉の向こうの声は、責めなかった。
ただ、静かに言った。
「そう。なら、泣けなかったのね」
「……」
レオンは唇を噛んだ。
イグニスが肩の上でわずかに羽を動かす。
「扉を開けろ、レオン」
「……命令するな」
「助言だ」
「同じだ」
そう言いながらも、レオンは扉に手を押し当てた。
青白い光が広がる。
水の流れる音が強くなる。
扉が、ゆっくりと開いた。
中は、湖だった。
塔の中のはずなのに。
地下深くでもないはずなのに。
そこには、星空を映したような巨大な湖が広がっていた。
天井は見えない。
空間そのものが夜のように暗く、しかし湖面だけが淡く輝いている。
湖の周囲には氷の花が咲いていた。
青く透き通った花弁。
触れれば砕けそうなのに、不思議な生命力を感じる。
湖面には細い霧が漂っていた。
白く、冷たく、けれど恐ろしくはない。
むしろ傷ついた肌をそっと覆う包帯のように、静かに空間を満たしていた。
レオンは一歩踏み出した。
足元に水がある。
だが沈まない。
湖面の上を歩いている。
波紋が広がるたび、遠い記憶のように光が揺れた。
「すごい……」
思わず、声が漏れた。
その声には、ほんの少しだけ十歳の少年らしさが戻っていた。
イグニスは何も言わず、ただその変化を見守った。
湖の中央。
そこに、彼女はいた。
水面から上半身を出した、美しい女性。
長い髪は銀青色。
月光を溶かしたように淡く輝き、湖面の上に広がっている。
肌は透き通るほど白く、肩から腕にかけて薄い氷の紋様が浮かんでいた。
瞳は深い青。
サファイアよりも澄み、海よりも深い。
下半身は人ではなかった。
水面の下で、蒼白い魚尾がゆっくりと揺れている。
尾ひれは薄い氷の翼のように広がり、動くたびに湖へ銀の光を散らした。
美しい。
そう思った。
怖い、ではなく。
荘厳、でもなく。
ただ、美しいと。
人魚はレオンを見つめた。
巨大な力を秘めた存在。
けれど、その眼差しは驚くほど柔らかかった。
「来てくれたのね」
人魚が言った。
「小さな契約者」
レオンは表情を変えずに見つめる。
「俺は小さくない」
「十歳でしょう?」
「……小さいか」
「ええ。とても」
人魚はくすりと笑った。
その笑い声は、水面を撫でる風のようだった。
「でも、心に負った傷は大人より深い」
レオンの目が冷える。
「勝手に見るな」
「見てしまうの。水は記憶を映す。氷は痛みを閉じ込める。あなたがここに足を踏み入れた瞬間、あなたの涙がこの湖に落ちた」
「涙なんて落としてない」
「体から落ちたものだけが涙ではないわ」
人魚の言葉は優しかった。
だが、逃げ道を塞ぐ優しさだった。
レオンは拳を握る。
「同情するならいらない」
「同情ではないわ」
「じゃあ何だ」
「怒っているの」
人魚の声が、ほんの少しだけ低くなった。
湖面がぴたりと止まる。
空気が、凍る。
霧が細い氷の粒となり、音もなく宙に浮いた。
「十歳の子どもを、魔力がないという理由で辱め、婚約を奪い、名前を奪い、親の愛を奪い、暗い塔に閉じ込めた者たちへ」
人魚の瞳が鋭くなる。
その瞬間、レオンは本能的に理解した。
この神霊は優しい。
大らかで、包み込むような存在だ。
だが。
怒らせてはいけない。
絶対に。
人魚の周囲の湖面が凍りつく。
氷は一瞬で広がり、青白い刃のように尖った。
「あなたを傷つけた者たちを、今すぐ湖の底へ沈めてもいい」
静かな声だった。
だからこそ、恐ろしかった。
「息が続く間だけ後悔させて、それでも足りないなら、涙ごと凍らせて砕くわ」
レオンは息を呑む。
肩のイグニスが淡々と言った。
「相変わらずだな」
「イグニス」
人魚が視線を向ける。
「あなたも怒っているでしょう」
「当然だ」
「なら燃やす?」
「契約者が命じるなら」
レオンは二体の神霊を見た。
炎と水氷。
属性は相反しているはずなのに、二体の怒りは同じ方向を向いていた。
自分を傷つけた者たちへ。
父へ。
母へ。
貴族へ。
エリシアへ。
民へ。
あの神殿にいたすべての者へ。
もし命じれば、本当に彼らは燃やし、凍らせるのだろう。
沈め、閉ざし、砕くのだろう。
レオンの心臓が強く鳴る。
ほんの一瞬。
本当にほんの一瞬だけ。
見たいと思った。
父が怯える姿を。
母が泣き叫ぶ姿を。
自分を欠陥品と呼んだ貴族たちが、助けを求める姿を。
存在そのものが罪だと言った男へ、同じ絶望を返すことを。
けれど。
「……しない」
レオンは言った。
イグニスが目を細める。
人魚は静かに見つめる。
「なぜ」
人魚が問う。
「憎くないの?」
「憎い」
即答だった。
「許せない?」
「許せない」
「なら、なぜ止めるの」
レオンは湖面に視線を落とした。
そこには自分の顔が映っていた。
十歳の顔。
だが目だけが子どもではない。
冷たく、乾いて、傷ついている。
「俺が命じれば、たぶんお前たちはやる」
「ええ」
「王城を燃やせるか」
「できる」
イグニスが答えた。
「王妃を凍らせられるか」
「できるわ」
人魚が答えた。
「貴族たちを全部潰せるか」
「可能だ」
「沈めることも、凍らせることも、砕くこともできるわ」
二体は当然のように言う。
それが神霊の力なのだろう。
人間の魔法とは違う。
魔力では届かぬ領域。
神力によって振るわれる、本物の力。
レオンは拳を握りしめた。
「でも、それをしたら……あいつらと同じになる」
湖面に、小さな波紋が広がった。
「力があるから踏みにじる。気に入らないから奪う。弱いから捨てる。俺は……それが嫌いだ」
言葉にした瞬間、胸の奥が痛んだ。
なぜなら、それは昔の自分が信じていた正義だったから。
弱き者を守る。
力はそのためにある。
父から教わったはずの言葉。
けれど、父はそれを守らなかった。
なら、自分はどうする。
同じように捨てるのか。
同じように傷つけるのか。
違う。
「俺は王族が嫌いだ」
レオンは静かに言った。
「あの血も、あの冠も、あの玉座も、全部嫌いだ。自分たちを神だと思い込んで、人を魔力で測る連中が嫌いだ」
人魚は黙って聞いている。
イグニスも、何も言わない。
「でも」
レオンは顔を上げた。
「俺は、弱い人間まで燃やしたいわけじゃない」
湖が揺れた。
人魚の瞳が、ほんの少しだけ柔らかくなる。
「あなたは、まだ優しいのね」
「違う」
レオンは即座に否定した。
「優しくなんかない。俺はただ、同じになりたくないだけだ」
「それを優しさと言うのよ」
「勝手に決めるな」
「ふふ。頑固ね」
人魚が小さく笑う。
空気の冷たさが、少しだけ和らいだ。
レオンはその笑みに、わずかに戸惑った。
塔に閉じ込められてから、誰かにこんなふうに笑いかけられたのは初めてだった。
侮蔑でもなく。
嘲笑でもなく。
哀れみでもなく。
ただ、そこにいていいと言うような笑み。
それが、ひどく痛かった。
「……やめろ」
「何を?」
「そんな顔をするな」
「どんな顔?」
「……わからない」
レオンは視線を逸らした。
胸の奥が熱い。
炎ではない。
痛みとも少し違う。
押し込めていた何かが、ゆっくりと溶けかけているような感覚だった。
人魚は水面を滑るように近づいてきた。
尾ひれが揺れるたび、湖面に銀の波紋が広がる。
彼女はレオンのすぐ前で止まり、水面から白い腕を伸ばした。
その指先は細く、触れれば消えてしまいそうに見えた。
けれど、そこに宿る力は圧倒的だった。
「泣いてもいいのよ」
「泣かない」
「怒ってもいい」
「怒っている」
「弱いと言ってもいい」
「弱くない」
「寂しいと言ってもいい」
「……」
その言葉だけ、レオンは返せなかった。
寂しい。
認めたくなかった。
そんなものを認めたら、今まで必死に凍らせてきた心が崩れてしまう。
父に捨てられた。
母に拒絶された。
婚約者に背を向けられた。
民に気味悪がられた。
侍女のミーナも、きっと自分のせいで処遇を変えられた。
扉の向こうに誰もいない。
毎日、食事だけが差し入れ口から押し込まれる。
声をかけても返事はない。
生きていても、誰にも必要とされない。
その日々を、寂しくないと言えるほど、レオンは壊れていなかった。
唇が震える。
「……言ったら」
かすれた声が出た。
「どうなる」
人魚は静かに答えた。
「何も変わらないわ」
「……なら意味がない」
「でも、あなたが一人で抱えなくてよくなる」
その言葉が、レオンの胸に落ちた。
一人で抱えなくてよくなる。
今までずっと、一人だった。
泣くのも。
怒るのも。
考えるのも。
耐えるのも。
全部一人だった。
誰も来なかった。
誰も答えなかった。
誰も、レオンハルトという人間を見なかった。
「……俺は」
声が震えた。
レオンは歯を食いしばる。
泣きたくない。
泣くのは嫌だ。
泣けば、あの神殿の自分に戻ってしまう。
父に捨てないでと叫んだ、惨めな自分に。
だが。
人魚の瞳は、彼を責めなかった。
イグニスも、黙って肩に留まっていた。
炎が少しだけ暖かくなる。
逃げてもいい。
そう言われている気がした。
「……寂しかった」
小さな声だった。
湖面に、ぽたりと雫が落ちた。
「ずっと……誰かに来てほしかった」
言葉が溢れる。
「父上でも、母上でも、エリシアでも、ミーナでも、誰でもよかった。怒られてもよかった。謝れって言われてもよかった。魔力がないって責められてもよかった。ただ……」
レオンの顔が歪む。
ずっと無表情だった顔が、初めて子どものように歪んだ。
「誰かに、名前を呼んでほしかった」
湖に雫が落ちる。
一つ。
二つ。
涙だった。
レオンは慌てて拭おうとした。
しかし、人魚の指先がそっと動き、水の薄い膜が彼の頬に触れた。
冷たい。
でも優しい。
涙を拭うように、水が頬を撫でた。
「レオン」
人魚が呼んだ。
レオンは肩を震わせた。
「レオン」
もう一度。
その名は、王子としての名ではなかった。
失敗作を呼ぶ声でもない。
欠陥品を見下す声でもない。
一人の少年を呼ぶ声だった。
「あなたはここにいるわ」
「……っ」
「あなたは罪ではない」
その瞬間。
レオンは泣いた。
声を殺そうとした。
でも無理だった。
涙が溢れた。
塔で何度も泣いたはずなのに。
もう枯れたと思っていたのに。
それでも涙は出た。
イグニスは肩から飛び立ち、少し離れた氷の花の上に降りた。
人魚は水面からさらに身を起こし、両腕を伸ばした。
抱きしめるには、彼女は水の中にいた。
けれど、水が動いた。
湖面から柔らかな水の腕が伸び、レオンの体を包み込む。
冷たいはずなのに。
温かかった。
まるで母に抱かれるとは、こういうものだったのではないかと思ってしまうほどに。
レオンは膝をつく。
泣く。
ただ、泣く。
十歳の少年として。
捨てられた子どもとして。
ずっと我慢していた名前のない痛みを、ようやく吐き出すように。
イグニスは何も言わなかった。
人魚も、何も急かさなかった。
湖だけが静かに揺れ、彼の涙を受け止めていた。
そして、彼女は静かに歌った。
言葉にならない歌。
傷を消す歌ではない。
悲しみをなかったことにする歌でもない。
ただ、泣いている子どもが一人で壊れてしまわないように、そっと寄り添う歌だった。
どれほど時間が経ったのか。
レオンはゆっくりと顔を上げた。
目元は赤い。
呼吸も乱れている。
それでも、その瞳には先ほどまでとは違う光があった。
弱く、頼りない。
だが確かに、消えてはいない光。
「……見苦しいところを見せた」
レオンが低く言う。
人魚は微笑んだ。
「子どもが泣くことは見苦しくないわ」
「俺は子どもじゃない」
「十歳でしょう?」
「……それを言うな」
「ふふ」
人魚の笑い声が湖面に広がる。
イグニスが静かに口を挟んだ。
「少しは楽になったか」
「……わからない」
「またそれか」
「本当にわからないんだ。ただ……」
レオンは胸に手を当てた。
「少し、息がしやすい」
「なら十分だ」
イグニスは短く言った。
人魚は満足そうに目を細める。
「では、契約をしましょう」
レオンは人魚を見つめた。
「お前も名がないのか」
「ええ。契約者が名を与えることで、私たちはこの世界に個として定着する」
「名をつけるのは苦手だ」
「イグニスは良い名よ」
人魚が言うと、イグニスは羽をわずかに膨らませた。
「当然だ」
「褒められるとすぐそれね」
「事実を述べただけだ」
「はいはい」
二体のやり取りに、レオンは少しだけ目を瞬いた。
神霊同士も、こんな会話をするのか。
もっと神聖で、厳かで、近寄りがたい存在だと思っていた。
だがイグニスは冷静だがどこか頑固で。
目の前の人魚は優しいが、意外と遠慮なく突いてくる。
人ではない。
けれど、人よりずっと近い。
不思議な存在だった。
「名前……」
レオンは人魚を見つめる。
銀青の髪。
氷の鱗を持つ尾。
深い湖のような瞳。
優しさ。
大らかさ。
そして、怒れば何より恐ろしい静かな力。
水は包む。
氷は守る。
涙は、無理に止めるものではない。
流れた後で、凍らないように温めればいい。
そんな言葉が浮かぶ。
そして自然と、名が落ちた。
「セレネ」
人魚の瞳が大きく揺れた。
「お前の名は、セレネだ」
その瞬間、湖が輝いた。
星空を映していた湖面が、月光を浴びたように白く染まる。
氷の花が一斉に咲き誇った。
青。
白。
銀。
無数の光が空間を満たす。
人魚の体から蒼白い光が溢れ、髪の一房一房に、尾の鱗一枚一枚に、神紋が刻まれていく。
「セレネ……」
人魚はその名を慈しむように呟いた。
「ええ。とても綺麗な名」
彼女は湖面に両手を重ね、深く頭を垂れた。
「我が名はセレネ」
声が空間全体に響く。
「水氷を司り、傷を癒やし、涙を受け止める神霊」
湖面から水が立ち上る。
それは絹の帯のように舞い、レオンの周囲を巡った。
冷たい。
だが怖くない。
レオンの胸の奥で、神力がまた一つ目覚める。
炎とは違う。
熱く燃える力ではない。
静かに流れ、守り、凍らせ、癒やす力。
「契約は成った」
セレネが告げる。
「レオン。私の水はあなたの傷を癒やし、私の氷はあなたの敵を閉ざす。そして、あなたを泣かせる者がいれば――」
その瞬間、セレネの瞳が細くなる。
湖全体が凍った。
音もなく。
一瞬で。
「砕くわ」
優しい声だった。
なのに、背筋が凍るほど怖かった。
レオンはしばらく黙ってから、小さく言った。
「……ほどほどにしろ」
「努力するわ」
「それはしないやつの返事だ」
「ふふ。よくわかったわね」
レオンはため息をついた。
ほんの少しだけ、空気が緩む。
イグニスが肩に戻ってくる。
「セレネ。契約者はまだ不安定だ。過保護にしすぎるな」
「あら、あなたに言われたくないわ。さっき契約したばかりなのに、もう肩に乗っているじゃない」
「これは警護だ」
「私は涙を拭いただけよ」
「距離が近い」
「あなたも近いわ」
二体が静かに火花を散らす。
いや、片方は本当に小さな火の粉を散らしていた。
レオンは無表情のまま言った。
「喧嘩するなら契約を切る」
「しない」
「しないわ」
即答だった。
レオンは少しだけ目を細める。
「……神霊も必死なんだな」
「契約者を失えば、また永い眠りに戻る」
イグニスが言う。
セレネは穏やかに続けた。
「それだけではないわ。私たちは、あなたを待っていたの」
「俺を?」
「ええ」
「なぜ」
セレネはすぐには答えなかった。
湖の上に視線を落とす。
そこに映るのは、レオンの姿。
その奥に、遠い記憶のような影が揺れた。
「神力を宿す者は、長い間現れなかった」
イグニスが低く言う。
「人の世界は魔力に傾きすぎた。魔力量で価値を決め、属性で身分を分け、力ある者が弱き者を踏む。それが当たり前になった」
「王家のように?」
レオンの声が冷える。
「ああ」
イグニスは否定しなかった。
「アルディア王家は特にひどい。奴らは魔力の高さを神の証と呼び、自らを神に近いと驕った」
セレネの目が悲しげに伏せられる。
「でも、本当の神性とは魔力の量ではないわ。弱き声を聞くこと。涙を見捨てないこと。力を持ちながら、踏みにじらないこと」
「……俺にそれがあると?」
「少なくとも、あなたは復讐のために私たちを使わなかった」
「使わなかっただけだ。今後使わない保証はない」
「それでもいいの」
セレネは優しく言った。
「怒りを持ってはいけないわけではない。憎しみを抱いてはいけないわけでもない。大切なのは、その力を誰に向けるか」
レオンは黙った。
誰に向けるか。
今はまだ、わからない。
王家を許す気はない。
エリシアを許せるかもわからない。
貴族たちの顔を思い出すだけで、胸の奥に黒いものが生まれる。
けれど、全部を壊したいわけじゃない。
そこだけは確かだった。
「……難しいな」
「生きることは難しいわ」
セレネが微笑む。
「特に、傷ついたまま正しくあろうとするのは」
「正しくなんてない」
「そう思っているうちは、きっと大丈夫」
レオンは眉をひそめた。
「意味がわからない」
「そのうちわかるわ」
「年長者みたいな言い方だな」
「実際、あなたよりずっと年上よ」
「そうか」
レオンは少し考え、真顔で言った。
「年寄りか」
空気が止まった。
イグニスが目を逸らす。
セレネの笑顔が固まる。
「……レオン?」
「何だ」
「女性に年寄りと言ってはいけないわ」
「女なのか」
「女性型でしょう?」
「人魚だろう」
「人魚でも女性型よ」
「そうなのか」
レオンは真剣に頷いた。
「覚えた」
セレネはにこりと微笑んだ。
その笑顔は優しい。
とても優しい。
だが、湖の端がぴしりと凍った。
イグニスが低く呟く。
「レオン。危険だ」
「何がだ」
「今後、セレネに年齢の話はするな」
「なぜ」
「砕かれる」
「誰が」
「空気が」
レオンはしばらく考えた後、セレネを見た。
「悪かった」
素直に謝った。
セレネは一瞬きょとんとし、それから柔らかく笑った。
「許します」
「意外と簡単だな」
「レオンだからよ」
「……そういうのもやめろ」
「どうして?」
「慣れていない」
その答えに、セレネの瞳がまた優しくなる。
レオンは居心地悪そうに視線を逸らした。
イグニスが小さく言った。
「慣れろ」
「命令するな」
「助言だ」
「同じだ」
同じやり取り。
けれど、さっきより少しだけ空気が柔らかい。
レオン自身も、それに気づいていた。
胸の空洞が埋まったわけではない。
傷が癒えたわけでもない。
王家への嫌悪も、消えていない。
でも。
一人ではない。
その事実が、思った以上に大きかった。
「セレネ」
「なあに?」
「普段はどうする」
「どう、とは?」
「イグニスは肩に乗っている。お前は湖から出られるのか」
「あら、出られるわ」
セレネの体が光に包まれた。
湖面が渦を巻く。
巨大な水の柱が立ち上り、その中でセレネの姿がゆっくりと変わっていく。
大人の女性ほどの姿から、十代半ばほどの少女のような大きさへ。
さらに小さく。
最後には、レオンの腕に抱えられるほどの小さな人魚になった。
銀青の髪。
小さな白い腕。
蒼白く輝く魚尾。
尾ひれは氷の花びらのようにひらひら揺れている。
彼女の周囲には、小さな水の球が浮かんでいた。
どうやらその中に半身を浸すことで、空中でも移動できるらしい。
威厳はある。
あるはずなのに。
どう見ても、可愛い。
「……」
レオンは黙って見下ろした。
小さなセレネが首を傾げる。
「どうかしら」
「……便利だな」
「それだけ?」
「可愛いと言ってほしいのか」
「言ってくれるの?」
「……言わない」
「あら」
セレネは少し残念そうにした。
イグニスが淡々と言う。
「契約者に媚びるな」
「媚びていないわ。愛情表現よ」
「まだ早い」
「あなたも肩に乗っているのに?」
「警護だ」
「便利な言葉ね」
二体の会話を聞きながら、レオンはふと小さく息を吐いた。
笑ったわけではない。
だが、胸の奥がほんの少しだけ軽くなった気がした。
セレネはそれに気づいたのか、小さな水球ごとすいっとレオンの隣へ寄った。
「レオン」
「何だ」
「私は、あなたの涙を恥だとは思わない」
「……またその話か」
「大切なことだから」
セレネは小さな人魚の姿のまま、真っ直ぐに言った。
「泣いたことを忘れなくていい。傷ついたことも、寂しかったことも、捨てられたことも、なかったことにしなくていい」
レオンは動かない。
「でも、それらがあなたの価値を決めるわけではないわ」
「……」
「あなたは魔力零だから無価値なのではない。王家に捨てられたから罪なのでもない。あなたは、あなたよ」
レオンは目を伏せた。
そんな言葉を、もっと早く誰かに言ってほしかった。
父でも。
母でも。
エリシアでも。
誰でもよかった。
でも、誰も言ってくれなかった。
代わりに、今ここで、神霊が言ってくれている。
「……セレネ」
「ええ」
「俺は、まだ父上たちを許せない」
「許さなくていいわ」
「母上の顔を思い出すと、息が苦しくなる」
「当然よ」
「エリシアを思い出すと……胸が痛い」
「好きだったのね」
レオンは黙った。
好き。
その言葉はまだわからない。
でも、特別だった。
婚約者だった。
見てほしかった。
認めてほしかった。
笑ってほしかった。
だから、あの後ずさりは痛かった。
「……わからない」
「今はそれでいいわ」
「全部、ぐちゃぐちゃだ」
「なら、少しずつ整えましょう」
「どうやって」
「まずは、次の神霊に会いに行くの」
セレネが奥を見た。
湖のさらに向こう。
氷の花が並ぶ先に、新たな扉が見える。
緑と紫電の光が走る扉。
そこから、風が吹いていた。
軽く、自由で、少し騒がしい風。
同時に、雷鳴のような低い鼓動もある。
イグニスが言った。
「風雷の神霊だ」
「どんな奴だ」
レオンが問うと、イグニスは少しだけ沈黙した。
セレネも、なぜか微妙な顔をした。
「……何だ」
「悪い者ではない」
イグニスが言う。
「ええ。とても頼りになるわ」
セレネも頷く。
「ただし?」
レオンが目を細める。
イグニスは淡々と答えた。
「うるさい」
セレネはにこやかに言った。
「とても賑やかよ」
「同じ意味か」
「だいたい」
レオンは扉を見た。
炎。
水氷。
次は風雷。
自分はどこへ向かっているのか。
まだわからない。
けれど、ここで立ち止まるつもりはなかった。
東の塔は牢獄だった。
だが、その奥には神霊がいる。
自分を欠陥品と呼ばなかった存在がいる。
名を呼んでくれる者がいる。
それだけで、足を進める理由には十分だった。
レオンは歩き出す。
肩にはイグニス。
隣には小さな水球に包まれて浮かぶセレネ。
炎と水氷を従える少年は、まだ十歳だった。
けれど、その瞳にはもう、神殿で泣き叫んだだけの子どもはいない。
傷は残っている。
絶望も消えていない。
だが、ほんのわずかに。
本当にわずかに。
凍った心の奥で、何かが動き始めていた。
セレネがそっと寄り添う。
「レオン」
「何だ」
「次に泣きたくなったら、呼んでね」
「泣かない」
「そう言うと思った」
「なら言うな」
「言いたかったの」
レオンは小さくため息をつく。
「面倒な神霊だな」
「ええ。たっぷり甘やかすわ」
「いらない」
「拒否権は?」
「ある」
「そう。じゃあ、少しだけにしておくわ」
「聞いてないだろ」
「聞いているわ。少しだけ、ね」
イグニスが静かに羽を整える。
「レオン」
「今度は何だ」
「慣れろ」
「だから命令するな」
「助言だ」
セレネが楽しそうに笑う。
レオンは無表情のまま、前を向いた。
奥の扉から、強い風が吹く。
その風に混じって、誰かの笑い声が聞こえた気がした。
軽く。
明るく。
少しだけ馬鹿っぽい声。
レオンは眉をひそめた。
「……本当にうるさそうだな」
イグニスとセレネが同時に頷いた。
そして、緑と雷光の扉がゆっくりと開き始めた。
風が、レオンの黒く沈んだ髪を揺らす。
雷が、遠くで鳴る。
次の契約が、彼を待っていた。




