第1話「十歳、魔力0の烙印」
レオンハルト・フォン・アルディアは、愛されていた。
少なくとも、十歳になるまでは。
朝、目を覚ませば、侍女たちが微笑みながらカーテンを開けてくれた。
「おはようございます、レオンハルト殿下」
「おはよう、ミーナ。今日もいい天気だね」
「はい。殿下の魔力測定の日にふさわしい晴天でございます」
侍女の言葉に、レオンハルトは寝台の上でぱっと顔を輝かせた。
「魔力測定……!」
今日。
この日は、アルディア王国の王族にとって特別な日だった。
十歳になった王族は、神殿の大水晶によって魔力量と属性を測定される。
王族は生まれながらに高い魔力を持つ。
それはこの国の常識であり、誇りであり、王家が王家である証だった。
レオンハルトも、ずっとそう教えられてきた。
王族とは民を導く者。
強き魔力を持ち、弱き民を守る者。
父である国王は何度も言った。
王家の血は尊い。
王家の魔力は神より授かりし祝福である、と。
幼いレオンハルトは、その言葉を疑わなかった。
王族とは偉そうにする者ではない。
みんなを守る者なのだ。
だから自分も、いつか父のように強くなり、母のように美しく誇り高く、民に優しい王子になりたい。
そう、心から思っていた。
「今日はエリシアも来るんだよね?」
着替えを手伝われながら、レオンハルトは嬉しそうに尋ねた。
侍女のミーナはくすりと笑う。
「はい。ローゼンベルク公爵家のエリシア様も、ご家族と共に神殿へお越しになる予定です」
「そっか」
レオンハルトは照れくさそうに頬を緩めた。
エリシア・フォン・ローゼンベルク。
ローゼンベルク公爵家の令嬢であり、レオンハルトの婚約者。
金糸のような髪に、宝石のような瞳。
少し高飛車で、いつも背筋をぴんと伸ばしていて、同年代なのに大人びて見える少女。
最初に会った時、エリシアはこう言った。
『あなたがわたくしの婚約者? ふうん。王子様なら、もっと堂々となさい』
きつい言葉だった。
でも、その後に彼女は少しだけ顔を赤くして、小さく付け足した。
『……でも、悪くはないわ』
レオンハルトはその言葉が嬉しかった。
だから今日、立派なところを見せたかった。
測定で素晴らしい魔力が出れば、父も母も喜んでくれる。
エリシアも、少しは見直してくれるかもしれない。
そう思っていた。
「殿下」
ミーナが礼服の襟を整えながら、静かに言う。
「本日は、きっと素晴らしい日になります」
「うん!」
レオンハルトは笑った。
曇りのない、真っ直ぐな笑顔だった。
その笑顔を見て、ミーナの目が少しだけ潤んだ。
だが、幼いレオンハルトは気づかない。
その日が、彼にとって最後の幸福な朝になることを。
誰も、教えてはくれなかった。
王都中央神殿。
白大理石で造られた巨大な神殿には、朝から多くの貴族が集まっていた。
王族の魔力測定は、王国の未来を占う儀式でもある。
第一王子レオンハルト。
国王と王妃の間に生まれた正統なる王位継承者。
その魔力量がいかほどか。
貴族たちは皆、期待と好奇の視線を向けていた。
「見ろ、レオンハルト殿下だ」
「おお……まだ十歳とは思えぬ品格だ」
「王太子となられる方だ。さぞ高い魔力を示されるだろう」
「国王陛下と王妃陛下の御子だぞ。低いはずがない」
「アルディア王家の未来は安泰だな」
囁き声が波のように広がる。
その言葉は甘かった。
温かく聞こえた。
だが、それはレオンハルト自身へ向けられた愛情ではない。
王族の血へ。
第一王子という肩書きへ。
未来の権力へ向けられた期待だった。
けれど十歳のレオンハルトには、それがわからなかった。
自分は祝福されている。
みんなが喜んでくれている。
そう思っていた。
レオンハルトは少し緊張しながらも、背筋を伸ばして歩いた。
隣には父、アルディア国王。
そして母、王妃。
父は威厳に満ちた表情で民と貴族を見下ろしている。
母は美しく微笑み、まるで自分たちこそ祝福そのものであるかのように佇んでいた。
「レオンハルト」
父が低く言った。
「王族として、恥じぬ結果を示せ」
「はい、父上」
レオンハルトは力強く頷いた。
母もまた、柔らかく微笑む。
「あなたはわたくしと陛下の子です。必ず素晴らしい魔力を示すでしょう」
「はい、母上。頑張ります」
頑張る。
そう言った瞬間、近くにいた数人の貴族が微笑んだ。
幼い言葉だ。
だが、その純粋さは好ましいものとして受け取られた。
その中に、エリシアもいた。
彼女はローゼンベルク公爵夫妻の隣に立ち、白と金のドレスを纏っていた。
レオンハルトと目が合う。
エリシアは少しだけ顎を上げた。
「レオンハルト様」
「エリシア」
「本日は大切な日ですわ。わたくしの婚約者なのですから、情けない結果など許しませんわよ」
きつい言い方。
けれど、その頬はほんのり赤い。
レオンハルトは笑った。
「うん。ちゃんと頑張るよ」
「頑張る、ではありません。結果を出すのです」
「わかった。結果を出す」
「よろしいですわ」
エリシアは満足げに頷いた。
そのやり取りを見て、周囲の貴族たちが微笑ましそうに目を細める。
未来の国王と王妃。
誰もがそう思っていた。
誰もが、疑わなかった。
神殿の奥。
そこには巨大な水晶が安置されていた。
大人の背丈を遥かに超える透明な結晶。
内部には淡い光が満ち、呼吸をするように明滅している。
神託水晶。
魔力測定に用いられる神殿最高位の聖遺物。
この水晶に手を触れれば、その者の魔力量と属性が浮かび上がる。
火。
水。
風。
土。
光。
闇。
雷。
氷。
そして複合属性。
王族ならば、最低でも上級。
優れた者ならば特級。
歴代でも稀に、神話級と呼ばれる魔力量を示す者がいる。
「では、これよりアルディア王国第一王子、レオンハルト・フォン・アルディア殿下の魔力測定を執り行う」
大神官の声が神殿に響いた。
空気が張り詰める。
レオンハルトの胸が高鳴る。
緊張していた。
けれど怖くはなかった。
父がいる。
母がいる。
エリシアが見ている。
民も、貴族も、自分に期待してくれている。
ならば応えたい。
王族として。
未来の王として。
みんなを守れる人間になるために。
「レオンハルト殿下。水晶へ御手を」
「はい」
レオンハルトは一歩前へ出た。
神殿の床に靴音が響く。
白い手袋を外す。
小さな手を、神託水晶へ伸ばす。
その瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。
理由はわからない。
けれど、ほんの一瞬だけ、水晶の奥に暗い影が見えた気がした。
「……?」
気のせいだ。
そう思い、レオンハルトは水晶に触れた。
冷たい。
透き通るような冷たさが指先から腕へ伝わる。
神殿内が静まり返った。
誰もが水晶を見つめる。
光が強くなる。
なるはずだった。
火なら赤。
水なら青。
風なら緑。
光なら黄金。
魔力がある者なら、必ず何かしらの反応が出る。
だが。
水晶は沈黙した。
「……?」
レオンハルトは首を傾げた。
もう一度、手に力を込める。
何も起こらない。
淡い光すら、揺れない。
神殿内にざわめきが走った。
「どういうことだ?」
「反応がない?」
「まさか、手順を誤ったのでは」
「王族だぞ?」
大神官の顔から血の気が引いていく。
彼は慌てて水晶に近づき、確認の術式を展開した。
何度も。
何度も。
しかし結果は変わらない。
水晶は無色透明のまま、冷たく沈黙していた。
レオンハルトの胸が不安に締め付けられる。
「大神官様……?」
幼い声で尋ねる。
大神官は答えない。
代わりに、震える唇で、神殿全体へ告げた。
「測定結果……」
ざわめきが止まる。
すべての視線が集まる。
大神官は、まるで死刑宣告でもするように声を絞り出した。
「魔力量……零」
一瞬、時間が止まった。
零。
魔力、零。
その言葉の意味を、レオンハルトはすぐには理解できなかった。
魔力が少ない、ではない。
属性が弱い、でもない。
零。
何もない。
王族であるにもかかわらず。
王の血を引いているにもかかわらず。
魔力が、ない。
「……え?」
レオンハルトの声が、神殿に小さく落ちた。
次の瞬間。
静寂は、嘲笑へ変わった。
「魔力零だと?」
「ありえない……王族で?」
「欠陥ではないか」
「神に見放された王子……」
「いや、王子と呼べるのか?」
「恐ろしいな。王家にあのようなものが生まれるとは」
「不吉だ」
「災いの前触れではないのか」
さっきまで微笑んでいた貴族たち。
期待していた者たち。
褒めていた者たち。
その顔が、信じられないほど簡単に変わっていく。
驚き。
困惑。
失望。
嫌悪。
そして、侮蔑。
彼らの視線が変わった。
未来の王を見る目ではない。
人を見る目でもない。
汚れたものを見つけた時の目だった。
レオンハルトは立ち尽くした。
何が起きているのか、わからなかった。
父を見る。
助けてほしかった。
何か言ってほしかった。
これは間違いだ、と。
水晶がおかしいのだ、と。
お前は私の息子だ、と。
けれど、父の顔には愛情などなかった。
そこにあったのは、激しい怒りと恥辱。
「レオンハルト」
低い声。
今まで聞いたことのないほど冷たい声だった。
「貴様……我が王家に泥を塗ったな」
「ち、父上……?」
「黙れ」
たった一言で、レオンハルトの喉が凍った。
母を見る。
母なら。
母だけは。
「母上……僕……」
王妃は扇で口元を隠していた。
その目は、汚物を見るように冷たかった。
「陛下」
王妃は静かに言った。
「この子は、本当にわたくしたちの子なのでしょうか」
神殿が、さらにざわめいた。
レオンハルトの心臓が大きく跳ねる。
「母上……?」
「王族に魔力がないなど、ありえません。ましてや、わたくしと陛下の子に」
「母上、僕は……僕は母上の子です……!」
「その名で呼ばないでちょうだい」
王妃の声は、美しいまま冷たかった。
「わたくしに、魔力なき欠陥品を産んだ覚えはありません」
欠陥品。
その言葉が、レオンハルトの胸に突き刺さった。
痛い。
息ができない。
けれど涙すら出なかった。
今朝まで、自分に微笑んでくれた母。
優しく髪を撫でてくれた母。
その人が、別人のような顔で自分を見ている。
いや。
もしかしたら。
これが本当の顔だったのかもしれない。
「お母……さま……」
「不愉快です」
王妃は顔を背けた。
「その声で、わたくしを呼ばないで」
レオンハルトの視界が滲む。
手が震える。
でも、周囲は止まらない。
貴族たちは口元を隠しながら囁き合う。
「王妃陛下がお気の毒だ」
「十年も愛情を注がれた結果がこれか」
「まるで王家に巣食った汚点だな」
「あれを生かしておくのか?」
「王位継承者など、とんでもない」
「早急に処分を考えるべきでは」
処分。
その言葉が聞こえた。
レオンハルトはゆっくりと周囲を見回した。
昨日まで、自分に頭を下げていた貴族たち。
誕生日には祝辞を述べた者たち。
廊下ですれ違えば笑顔で挨拶してくれた者たち。
そのすべてが、今は自分を避けるように見ていた。
まるで近づくだけで汚れると言わんばかりに。
「陛下」
ローゼンベルク公爵が進み出た。
彼の隣にいたエリシアは、青ざめた顔でレオンハルトを見ていた。
レオンハルトは、かすかな希望を抱いた。
エリシア。
君なら。
さっきまで、婚約者だと言ってくれた君なら。
「我がローゼンベルク公爵家は、王家への忠誠を第一としております」
公爵は深く頭を下げる。
「しかし、魔力なき者に娘を嫁がせることはできません」
レオンハルトの足元が崩れるような感覚がした。
「え……」
「よって、レオンハルト殿下と娘エリシアの婚約は、白紙とさせていただきたく存じます」
婚約破棄。
その言葉を理解するより早く、周囲が当然のように頷いた。
「無理もない」
「ローゼンベルク家の判断は正しい」
「魔力零など、家名に傷がつく」
「未来の王妃があのような者に縛られるなど、あってはならぬ」
レオンハルトはエリシアを見た。
彼女は唇を震わせていた。
怒っているのか。
悲しんでいるのか。
わからない。
「エリシア……」
レオンハルトは一歩だけ近づこうとした。
だが、エリシアは反射的に後ずさった。
それはほんの小さな動きだった。
けれど、レオンハルトには刃より鋭く見えた。
「……っ」
エリシアは目を逸らした。
「わ、わたくしは……ローゼンベルク公爵家の娘ですもの」
声が震えていた。
「魔力のない方と、婚約を続けることは……できませんわ」
「……そっか」
レオンハルトは、小さく呟いた。
泣きそうだった。
叫びたかった。
どうして、と聞きたかった。
でも、神殿中の視線が突き刺さっていた。
第一王子として。
王族として。
泣いてはいけない。
そう教えられてきた。
だから泣けなかった。
ただ、胸の中で何かが壊れていく音だけがした。
「陛下、ご決断を」
大神官が震える声で言った。
「魔力零の王族など、前例がございません。このまま王位継承者とすることは……」
「わかっている」
国王は玉座のような椅子から立ち上がった。
その魔力が神殿を満たす。
圧倒的な威圧。
誰もが頭を垂れた。
ただ一人、レオンハルトだけが立ち尽くしていた。
父を見る。
最後の希望を込めて。
「父上……僕は……」
「第一王子レオンハルト・フォン・アルディア」
国王は冷酷に告げた。
「貴様を王位継承権より除外する」
ざわめきが広がる。
だが、国王の言葉は止まらない。
「さらに本日をもって、貴様を東の塔へ幽閉する」
「幽閉……?」
レオンハルトは聞き返した。
「父上、僕、何か悪いことをしましたか……?」
その問いに、神殿の空気が一瞬だけ揺れた。
十歳の少年の声だった。
純粋な疑問だった。
魔力がなかった。
ただそれだけ。
それだけで、なぜすべてを奪われるのか。
なぜ父に捨てられるのか。
なぜ母に拒絶されるのか。
なぜ婚約者に離れられるのか。
なぜ、みんなが自分を見下すのか。
レオンハルトにはわからなかった。
国王は答えた。
「存在そのものが罪だ」
世界が、音を失った。
存在そのものが罪。
父が。
自分の父が。
そう言った。
レオンハルトの瞳から、ようやく涙が一粒落ちた。
だが、その涙を拭ってくれる者はいなかった。
「連れて行け」
国王の命令で、騎士たちが動いた。
いつも自分に敬礼してくれた騎士たち。
剣の稽古を褒めてくれた騎士たち。
その手が、レオンハルトの両腕を掴む。
「痛い……」
思わず呟いた。
騎士の一人がわずかに表情を歪めた。
だが、手は離さなかった。
「父上! 母上! 僕、ちゃんと勉強します! 剣も頑張ります! 魔力がなくても、民を守れるようになります! だから……だから、捨てないで……!」
叫びが神殿に響いた。
貴族たちは顔を背けた。
母は目を閉じた。
父は冷たく見下ろした。
「魔力なき者に、守れるものなどない」
その言葉で、レオンハルトはもう何も言えなくなった。
引きずられるように神殿を出る。
最後に振り返った。
エリシアが見えた。
彼女は泣いていなかった。
ただ、青ざめた顔で、唇を噛んでいた。
目が合う。
何か言ってくれるかもしれない。
そう思った。
でも、彼女は何も言わなかった。
レオンハルトは笑おうとした。
いつものように。
大丈夫だよ、と。
けれど、笑えなかった。
神殿の外へ連れ出された時、空はまだ青かった。
今朝と同じ空。
けれど、世界はまったく違って見えた。
王城へ戻る馬車は、来なかった。
代わりに用意されていたのは、罪人を移送するための黒い護送車だった。
鉄格子の嵌められた小さな箱。
王族が乗るようなものではない。
レオンハルトは騎士たちに押され、その中へ入れられた。
「待って……僕、まだ部屋に……」
「黙って乗れ」
騎士の声は硬かった。
「でも、ミーナに……」
「侍女の名など口にするな。今のお前は殿下ではない」
その言葉に、レオンハルトの体が固まった。
殿下ではない。
今朝まで、誰もがそう呼んでくれた。
優しく。
敬意を込めて。
けれど今、その呼び名は奪われた。
護送車の扉が閉められる。
鉄の音が響く。
外から鍵がかけられた。
小さな格子の隙間から、王都の街並みが見える。
道端には人々が集まっていた。
噂は早かった。
王族の魔力測定。
第一王子、魔力零。
婚約破棄。
幽閉。
そのすべてが、もう街へ流れていた。
「あれが魔力なしの王子か」
「しっ、王子じゃないらしいぞ」
「王家から捨てられたんだって」
「まあ当然だろ。魔力がない王族なんて気味が悪い」
「神様に嫌われた子なんじゃないの」
民の声。
守りたいと思っていた人たちの声。
レオンハルトは格子を握った。
爪が鉄に当たって痛い。
けれど、その痛みより胸が痛かった。
馬車が進む。
王都の中心を抜ける。
石畳の音が単調に響く。
かつて自分に手を振ってくれた子どもが、母親の後ろに隠れた。
菓子屋の老人が目を逸らした。
花売りの少女が、小さく呟いた。
「かわいそう……」
その一言だけが、少しだけ人間らしく聞こえた。
だがすぐに、その少女の母親が腕を引いた。
「見てはいけません。穢れます」
穢れる。
レオンハルトは、格子から手を離した。
自分は、そんな存在になったのか。
見るだけで穢れる。
近づくだけで不吉。
魔力がないだけで。
何も悪いことをしていないのに。
護送車はやがて王城の東側へ進んだ。
華やかな庭園を越え、騎士の訓練場を越え、人の気配が少なくなる。
そこから先は、普段なら王族すら近づかない区域だった。
古い石壁。
枯れた木々。
誰も手入れしていない道。
その先に、東の塔はあった。
王城の端に立つ、灰色の塔。
高く、細く、空を刺すように伸びている。
窓は少ない。
その窓には鉄格子が嵌められている。
周囲には花もなく、噴水もなく、ただ冷たい風だけが吹いていた。
レオンハルトは、その塔を見上げた。
「ここ……?」
騎士は答えない。
護送車の扉が開き、レオンハルトは乱暴に外へ引き出された。
足がもつれ、石畳に膝をつく。
「痛っ……」
「立て」
腕を掴まれる。
もう誰も、彼を丁寧に扱わなかった。
塔の入口には、分厚い鉄扉があった。
王城のどの扉よりも重々しく、どの門よりも冷たい。
扉の下部には、小さな金属の小窓がついている。
食事を差し入れるためだけの扉。
人が通るには小さすぎる。
レオンハルトはそれを見た瞬間、ぞっとした。
ここは、人を生かす場所ではない。
死なない程度に閉じ込めておく場所だ。
そう、本能で理解した。
騎士の一人が魔法鍵を開ける。
重い扉が軋んだ。
中から冷たい空気が流れ出す。
湿った石の匂い。
古い埃。
日の当たらない場所の匂い。
「入れ」
「待ってください……せめて、着替えとか、本とか……」
「不要だ」
「でも……」
「お前に与えられるものは塔の中にある。それ以上を望むな」
レオンハルトは唇を噛んだ。
「……ミーナに、会わせてください」
小さな声だった。
「僕の侍女です。きっと心配して……」
騎士は、一瞬だけ黙った。
それから低く言った。
「あの侍女は配置を外された」
「え……?」
「魔力なしに長く仕えていたことを不吉とされた。処遇は知らん」
レオンハルトの顔から血の気が引いた。
自分のせいだ。
自分が魔力零だったから。
ミーナまで。
「そんな……僕、ミーナに何も……」
「もう関係ない」
騎士は冷たく言い捨てた。
「入れ」
背中を押される。
レオンハルトは塔の中へ倒れ込んだ。
石の床に手をつく。
冷たい。
痛い。
後ろで扉が閉まる。
慌てて振り返る。
「待って! 待ってください!」
レオンハルトは扉に駆け寄った。
小さな手で鉄扉を叩く。
「お願いします! 父上にもう一度だけ会わせてください! 母上に謝ります! 魔力がなくてごめんなさいって、ちゃんと言います! だから……だからここから出してください!」
扉の向こうから、鍵の音がした。
重い。
決定的な音だった。
「ねえ! 開けて! 開けてください! 僕、ちゃんとします! 王子じゃなくてもいいです! 邪魔しません! だから一人にしないで!」
返事はない。
足音が遠ざかっていく。
レオンハルトは扉を叩き続けた。
何度も。
何度も。
手のひらが赤くなる。
爪が割れる。
痛い。
それでも叩いた。
「誰か……!」
声が掠れる。
「誰か、お願い……!」
だが、東の塔は返事をしなかった。
やがてレオンハルトは、扉の前に崩れ落ちた。
肩が震える。
息が乱れる。
涙が床に落ちる。
「……なんで」
誰にも届かない声で、呟いた。
「なんで……僕、何もしてないのに……」
東の塔の内部は薄暗かった。
螺旋階段が上へ続き、その先にいくつかの部屋がある。
レオンハルトに与えられた部屋は、塔の中腹にある小さな一室だった。
寝台。
机。
椅子。
古びた本棚。
それだけ。
王子の部屋とは思えないほど質素だった。
壁は石のまま。
床には薄い敷物が一枚。
窓には鉄格子。
外は見えるが、出ることはできない。
暖炉はある。
しかし薪は少なく、炎は弱かった。
夜になれば、きっと凍える。
レオンハルトは部屋の中央に立ち尽くした。
ここで暮らすのか。
明日も。
明後日も。
その先も。
誰にも会えず。
誰にも呼ばれず。
ただ、魔力がないという理由だけで。
その日の夕方。
塔の入口の方で、金属の音がした。
小さな扉が開く音。
レオンハルトは階段を駆け下りた。
「誰か来たの!?」
返事はない。
入口の鉄扉の下。
小さな差し入れ口から、木の盆が押し込まれていた。
硬いパン。
薄いスープ。
水。
それだけ。
差し入れ口はすぐに閉じられた。
「待って!」
レオンハルトは叫んだ。
「誰ですか!? お願いします、少しだけ話を……!」
返事はない。
足音すら聞こえない。
食事を入れた者は、顔を見せることもなかった。
まるで、動物に餌を与えるように。
いや。
顔を見る価値すらないと言うように。
レオンハルトは盆の前に膝をついた。
腹は空いていた。
朝から何も食べていない。
でも、喉を通らなかった。
パンを持つ手が震える。
かじる。
硬い。
味がしない。
涙が落ちて、パンが濡れた。
「……おいしくない」
今朝は、焼きたてのパンがあった。
果物も。
温かなスープも。
ミーナが淹れてくれた甘い紅茶も。
全部、あった。
それが当たり前だと思っていた。
でも違った。
あれは王子だから与えられていたもの。
愛されていたからではない。
価値があると思われていたから与えられていたもの。
価値がないと判断された瞬間、すべて消えた。
夜。
レオンハルトは寝台の上で丸くなった。
薄い毛布だけでは寒かった。
暖炉の火は小さく、部屋の隅までは届かない。
風が窓の隙間から入り、石壁を撫でる。
塔が鳴いているようだった。
「父上……」
小さく呼ぶ。
返事はない。
「母上……」
返事はない。
「エリシア……」
返事はない。
「ミーナ……」
誰も来ない。
誰も。
その夜、レオンハルトは泣いた。
声を殺して。
誰にも聞こえないように。
聞こえても、きっと誰も来ないとわかっていたから。
翌朝。
目を覚ましても、世界は変わっていなかった。
夢ではなかった。
自分は塔にいた。
扉は閉ざされていた。
誰も迎えに来なかった。
決まった時間になると、差し入れ口から食事が入れられる。
それだけ。
見回りはない。
声かけもない。
生存確認すらない。
食事がなくなっていれば、生きている。
それだけなのだろう。
レオンハルトは最初の数日、毎回差し入れ口に縋った。
「お願いします。誰かと話したいんです」
「父上に手紙を……」
「母上に謝ります」
「僕、ここでいい子にしています。だから、せめて……」
返事は一度もなかった。
ただ食事が置かれる。
差し入れ口が閉じる。
静寂が戻る。
それだけ。
十日が過ぎる頃、レオンハルトは扉を叩かなくなった。
一ヶ月が過ぎる頃、食事を運ぶ者へ声をかけなくなった。
三ヶ月が過ぎる頃、泣く回数が減った。
半年が過ぎる頃、笑い方を忘れた。
一年が過ぎる頃。
レオンハルトは、窓辺に座ることが増えた。
外を見る。
王都の灯りが遠くに見える。
人々の暮らしがある。
笑い声は聞こえない。
けれど、あそこには生きた世界がある。
自分だけが、死んだような場所にいる。
レオンハルトは指先で窓の鉄格子に触れた。
冷たい。
この冷たさにも慣れてしまった。
「……僕は、本当に罪なのかな」
小さく呟く。
答える者はいない。
でも、最近はその沈黙が少しだけ考える時間をくれた。
魔力がないことは罪なのか。
魔力があれば、人を捨ててもいいのか。
王族なら、子を欠陥品と呼んでもいいのか。
民を守る者だと教えられた王族が、たった一人の子どもすら守らない。
それは、本当に正しいのか。
父は言った。
王族は神に近い存在だと。
母は言った。
王家の血は尊いと。
貴族たちは言った。
魔力なき者は不吉だと。
だが。
本当に神に近い者が、弱者を踏みにじるのか。
本当に尊き血なら、なぜ愛を捨てられる。
本当に王なら、なぜ守るべき者を見捨てる。
「……おかしい」
塔の窓辺で、レオンハルトは呟いた。
その声は、以前より低くなっていた。
幼さは残っている。
けれど、そこにはもう無邪気な明るさはなかった。
「おかしいだろ……」
王族は神に近い。
父はそう言った。
だが違う。
少なくとも、あの神殿にいた者たちは神などではなかった。
あれは、力を持った人間だ。
魔力というものに酔い、自分たちを特別だと信じ、弱い者を切り捨てる人間。
レオンハルトの拳が震えた。
怒りではない。
いや、怒りもあった。
だがそれ以上に、冷たい何かが胸の奥に沈んでいく。
失望。
諦め。
そして、決意にも似た感情。
「王族なんて……」
小さく呟く。
「くだらない」
その瞬間だった。
部屋の奥で、かすかな音がした。
こつん。
石がずれるような音。
レオンハルトは振り向いた。
本棚の裏。
古びた壁の一部が、わずかに光っていた。
「……何だ?」
立ち上がる。
警戒しながら近づく。
本棚を押すと、ぎぎ、と重い音を立てて動いた。
その奥に、扉があった。
扉というより、石壁に刻まれた小さな入口。
王族の部屋にはなかったはずの、隠し通路。
レオンハルトは息を呑んだ。
扉には文字が刻まれていた。
古代語。
学んだことのない文字。
だが、不思議と読めた。
『偽りの王冠に捨てられし者よ』
レオンハルトの心臓が、強く鳴った。
『汝、まだ人を憎みきれぬなら』
壁の文字が淡く輝く。
『汝、まだ弱き者を見捨てぬなら』
息が詰まる。
『この奥へ進め』
レオンハルトは扉に手を伸ばした。
その手は震えていた。
恐怖ではない。
期待でもない。
ただ、長い絶望の中で初めて見つけた、何かだった。
誰かが自分を呼んでいる。
魔力零の欠陥品ではなく。
存在そのものが罪だと言われた子どもではなく。
レオンハルトという、一人の人間を。
「……僕は」
いや。
違う。
もう、僕ではない。
塔に閉じ込められ、捨てられ、泣き続けた子どもは、あの日死んだ。
レオンハルトは静かに息を吸った。
そして、冷たい目で扉を見据えた。
「俺は、進む」
石扉が音もなく開いた。
中から吹き込んできたのは、風だった。
塔の中のはずなのに。
窓もないはずなのに。
炎の熱。
水の冷たさ。
土の匂い。
風のざわめき。
雷の気配。
光の温もり。
闇の静けさ。
すべてが混じり合った、不思議な空気。
レオンハルトは一歩、踏み出した。
その背後で、塔の部屋が遠ざかる。
孤独だった世界。
捨てられた日々。
泣き尽くした夜。
すべてを置き去りにして。
少年は隠し部屋へ進む。
まだ、彼は知らない。
自分が魔力を持たない理由を。
なぜ神託水晶が沈黙したのかを。
王家が恐れる本当の力を。
そして、この先で出会う四柱の神霊が、彼にとって本当の家族になることを。
ただ一つだけ、確かなことがあった。
レオンハルト・フォン・アルディアは、この日を境に変わる。
王族に捨てられた無能王子ではなく。
偽りの神を壊す者として。
そして。
東の塔の奥深く。
暗闇の先で、最初の声が響いた。
「ようやく来たか、王に捨てられし子よ」
低く、静かな声。
けれどその声には、燃えるような熱があった。
レオンハルトは足を止める。
暗闇の中に、紅蓮の瞳が灯る。
巨大な翼が広がる。
炎が舞う。
黄金と緋色の羽を持つ、不死鳥。
その姿を見ても、レオンハルトは叫ばなかった。
怯えなかった。
ただ、冷たく乾いた瞳で見上げた。
「お前は、誰だ」
不死鳥は静かに笑った。
「名はない。契約者よ、汝が名を与えよ」
レオンハルトは黙る。
名を与える。
それは支配ではない。
絆を結ぶこと。
なぜか、そう理解できた。
炎の不死鳥は、彼を見下ろす。
人ではない。
王族でもない。
貴族でもない。
魔力で価値を測る者でもない。
それなのに。
その瞳には、侮蔑がなかった。
哀れみもなかった。
ただ、待っていた。
レオンハルトという存在を。
「……イグニス」
自然と、その名が唇から零れた。
「お前の名は、イグニスだ」
不死鳥の翼が燃え上がる。
炎が部屋を満たす。
だが、不思議と熱くない。
むしろ冷え切った心の奥を、少しだけ温めるようだった。
「我が名はイグニス」
不死鳥は深く頭を垂れた。
「契約は成った。レオンハルトよ。我が炎は、汝の敵を燃やし尽くす」
その言葉を聞いた瞬間。
レオンハルトの胸の奥で、何かが目覚めた。
魔力ではない。
もっと深く。
もっと古く。
もっと神聖で、もっと恐ろしい力。
神力。
人の水晶では測れぬ力。
王家が知らぬ力。
神に近いと驕る者たちが、決して届かぬ力。
レオンハルトは自分の手を見た。
炎が宿っていた。
だが、焼けない。
痛くない。
ただ、静かに脈打っている。
「俺は……無能じゃなかったのか」
ぽつりと呟いた。
イグニスは答えた。
「無能と呼んだ者たちの目が、曇っていただけだ」
その言葉は優しくなかった。
慰めでもなかった。
ただの事実のように響いた。
だからこそ、レオンハルトの胸に深く刺さった。
彼はゆっくりと目を閉じた。
涙は出なかった。
もう、泣く時期は過ぎた。
代わりに、冷たい笑みがほんのわずかに唇へ浮かぶ。
「そうか」
短く言う。
「なら、もういい」
イグニスが目を細めた。
「何がだ」
「王族であることも、あの家に認められることも、全部だ」
レオンハルトは炎を握りしめた。
「俺はもう、王家に期待しない」
その声は静かだった。
けれど、そこには十歳の少年とは思えぬ冷たさがあった。
同時に、消えきらない正義があった。
捨てられた。
奪われた。
壊された。
それでもまだ、弱者を踏みにじる者を許せない。
その心だけは、死んでいなかった。
イグニスは翼を畳み、静かに告げる。
「ならば進め。炎は始まりにすぎぬ。この奥には、まだ汝を待つ者がいる」
レオンハルトは顔を上げた。
隠し部屋のさらに奥。
暗闇の向こうで、別の気配が揺れている。
水の音。
氷の軋み。
風の笑い。
雷の唸り。
光と闇の囁き。
レオンハルトは歩き出した。
もう、戻るつもりはなかった。
東の塔は牢獄だった。
だが同時に、始まりの場所でもあった。
世界に見捨てられた王子が、世界の真実へ手を伸ばす場所。
神に近いと驕る王家ではなく。
本物の神霊たちが、彼を待つ場所。
その日。
アルディア王国はまだ知らなかった。
魔力零と嘲笑った少年が、やがて王国の価値観そのものを焼き尽くすことを。
そして、東の塔で目覚めた炎が。
いつか偽りの玉座を照らす日が来ることを。




