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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第1話「十歳、魔力0の烙印」


 レオンハルト・フォン・アルディアは、愛されていた。


 少なくとも、十歳になるまでは。


 朝、目を覚ませば、侍女たちが微笑みながらカーテンを開けてくれた。


「おはようございます、レオンハルト殿下」


「おはよう、ミーナ。今日もいい天気だね」


「はい。殿下の魔力測定の日にふさわしい晴天でございます」


 侍女の言葉に、レオンハルトは寝台の上でぱっと顔を輝かせた。


「魔力測定……!」


 今日。


 この日は、アルディア王国の王族にとって特別な日だった。


 十歳になった王族は、神殿の大水晶によって魔力量と属性を測定される。


 王族は生まれながらに高い魔力を持つ。


 それはこの国の常識であり、誇りであり、王家が王家である証だった。


 レオンハルトも、ずっとそう教えられてきた。


 王族とは民を導く者。


 強き魔力を持ち、弱き民を守る者。


 父である国王は何度も言った。


 王家の血は尊い。


 王家の魔力は神より授かりし祝福である、と。


 幼いレオンハルトは、その言葉を疑わなかった。


 王族とは偉そうにする者ではない。


 みんなを守る者なのだ。


 だから自分も、いつか父のように強くなり、母のように美しく誇り高く、民に優しい王子になりたい。


 そう、心から思っていた。


「今日はエリシアも来るんだよね?」


 着替えを手伝われながら、レオンハルトは嬉しそうに尋ねた。


 侍女のミーナはくすりと笑う。


「はい。ローゼンベルク公爵家のエリシア様も、ご家族と共に神殿へお越しになる予定です」


「そっか」


 レオンハルトは照れくさそうに頬を緩めた。


 エリシア・フォン・ローゼンベルク。


 ローゼンベルク公爵家の令嬢であり、レオンハルトの婚約者。


 金糸のような髪に、宝石のような瞳。


 少し高飛車で、いつも背筋をぴんと伸ばしていて、同年代なのに大人びて見える少女。


 最初に会った時、エリシアはこう言った。


『あなたがわたくしの婚約者? ふうん。王子様なら、もっと堂々となさい』


 きつい言葉だった。


 でも、その後に彼女は少しだけ顔を赤くして、小さく付け足した。


『……でも、悪くはないわ』


 レオンハルトはその言葉が嬉しかった。


 だから今日、立派なところを見せたかった。


 測定で素晴らしい魔力が出れば、父も母も喜んでくれる。


 エリシアも、少しは見直してくれるかもしれない。


 そう思っていた。


「殿下」


 ミーナが礼服の襟を整えながら、静かに言う。


「本日は、きっと素晴らしい日になります」


「うん!」


 レオンハルトは笑った。


 曇りのない、真っ直ぐな笑顔だった。


 その笑顔を見て、ミーナの目が少しだけ潤んだ。


 だが、幼いレオンハルトは気づかない。


 その日が、彼にとって最後の幸福な朝になることを。


 誰も、教えてはくれなかった。


 王都中央神殿。


 白大理石で造られた巨大な神殿には、朝から多くの貴族が集まっていた。


 王族の魔力測定は、王国の未来を占う儀式でもある。


 第一王子レオンハルト。


 国王と王妃の間に生まれた正統なる王位継承者。


 その魔力量がいかほどか。


 貴族たちは皆、期待と好奇の視線を向けていた。


「見ろ、レオンハルト殿下だ」


「おお……まだ十歳とは思えぬ品格だ」


「王太子となられる方だ。さぞ高い魔力を示されるだろう」


「国王陛下と王妃陛下の御子だぞ。低いはずがない」


「アルディア王家の未来は安泰だな」


 囁き声が波のように広がる。


 その言葉は甘かった。


 温かく聞こえた。


 だが、それはレオンハルト自身へ向けられた愛情ではない。


 王族の血へ。


 第一王子という肩書きへ。


 未来の権力へ向けられた期待だった。


 けれど十歳のレオンハルトには、それがわからなかった。


 自分は祝福されている。


 みんなが喜んでくれている。


 そう思っていた。


 レオンハルトは少し緊張しながらも、背筋を伸ばして歩いた。


 隣には父、アルディア国王。


 そして母、王妃。


 父は威厳に満ちた表情で民と貴族を見下ろしている。


 母は美しく微笑み、まるで自分たちこそ祝福そのものであるかのように佇んでいた。


「レオンハルト」


 父が低く言った。


「王族として、恥じぬ結果を示せ」


「はい、父上」


 レオンハルトは力強く頷いた。


 母もまた、柔らかく微笑む。


「あなたはわたくしと陛下の子です。必ず素晴らしい魔力を示すでしょう」


「はい、母上。頑張ります」


 頑張る。


 そう言った瞬間、近くにいた数人の貴族が微笑んだ。


 幼い言葉だ。


 だが、その純粋さは好ましいものとして受け取られた。


 その中に、エリシアもいた。


 彼女はローゼンベルク公爵夫妻の隣に立ち、白と金のドレスを纏っていた。


 レオンハルトと目が合う。


 エリシアは少しだけ顎を上げた。


「レオンハルト様」


「エリシア」


「本日は大切な日ですわ。わたくしの婚約者なのですから、情けない結果など許しませんわよ」


 きつい言い方。


 けれど、その頬はほんのり赤い。


 レオンハルトは笑った。


「うん。ちゃんと頑張るよ」


「頑張る、ではありません。結果を出すのです」


「わかった。結果を出す」


「よろしいですわ」


 エリシアは満足げに頷いた。


 そのやり取りを見て、周囲の貴族たちが微笑ましそうに目を細める。


 未来の国王と王妃。


 誰もがそう思っていた。


 誰もが、疑わなかった。


 神殿の奥。


 そこには巨大な水晶が安置されていた。


 大人の背丈を遥かに超える透明な結晶。


 内部には淡い光が満ち、呼吸をするように明滅している。


 神託水晶。


 魔力測定に用いられる神殿最高位の聖遺物。


 この水晶に手を触れれば、その者の魔力量と属性が浮かび上がる。


 火。


 水。


 風。


 土。


 光。


 闇。


 雷。


 氷。


 そして複合属性。


 王族ならば、最低でも上級。


 優れた者ならば特級。


 歴代でも稀に、神話級と呼ばれる魔力量を示す者がいる。


「では、これよりアルディア王国第一王子、レオンハルト・フォン・アルディア殿下の魔力測定を執り行う」


 大神官の声が神殿に響いた。


 空気が張り詰める。


 レオンハルトの胸が高鳴る。


 緊張していた。


 けれど怖くはなかった。


 父がいる。


 母がいる。


 エリシアが見ている。


 民も、貴族も、自分に期待してくれている。


 ならば応えたい。


 王族として。


 未来の王として。


 みんなを守れる人間になるために。


「レオンハルト殿下。水晶へ御手を」


「はい」


 レオンハルトは一歩前へ出た。


 神殿の床に靴音が響く。


 白い手袋を外す。


 小さな手を、神託水晶へ伸ばす。


 その瞬間、なぜか胸の奥がざわついた。


 理由はわからない。


 けれど、ほんの一瞬だけ、水晶の奥に暗い影が見えた気がした。


「……?」


 気のせいだ。


 そう思い、レオンハルトは水晶に触れた。


 冷たい。


 透き通るような冷たさが指先から腕へ伝わる。


 神殿内が静まり返った。


 誰もが水晶を見つめる。


 光が強くなる。


 なるはずだった。


 火なら赤。


 水なら青。


 風なら緑。


 光なら黄金。


 魔力がある者なら、必ず何かしらの反応が出る。


 だが。


 水晶は沈黙した。


「……?」


 レオンハルトは首を傾げた。


 もう一度、手に力を込める。


 何も起こらない。


 淡い光すら、揺れない。


 神殿内にざわめきが走った。


「どういうことだ?」


「反応がない?」


「まさか、手順を誤ったのでは」


「王族だぞ?」


 大神官の顔から血の気が引いていく。


 彼は慌てて水晶に近づき、確認の術式を展開した。


 何度も。


 何度も。


 しかし結果は変わらない。


 水晶は無色透明のまま、冷たく沈黙していた。


 レオンハルトの胸が不安に締め付けられる。


「大神官様……?」


 幼い声で尋ねる。


 大神官は答えない。


 代わりに、震える唇で、神殿全体へ告げた。


「測定結果……」


 ざわめきが止まる。


 すべての視線が集まる。


 大神官は、まるで死刑宣告でもするように声を絞り出した。


「魔力量……零」


 一瞬、時間が止まった。


 零。


 魔力、零。


 その言葉の意味を、レオンハルトはすぐには理解できなかった。


 魔力が少ない、ではない。


 属性が弱い、でもない。


 零。


 何もない。


 王族であるにもかかわらず。


 王の血を引いているにもかかわらず。


 魔力が、ない。


「……え?」


 レオンハルトの声が、神殿に小さく落ちた。


 次の瞬間。


 静寂は、嘲笑へ変わった。


「魔力零だと?」


「ありえない……王族で?」


「欠陥ではないか」


「神に見放された王子……」


「いや、王子と呼べるのか?」


「恐ろしいな。王家にあのようなものが生まれるとは」


「不吉だ」


「災いの前触れではないのか」


 さっきまで微笑んでいた貴族たち。


 期待していた者たち。


 褒めていた者たち。


 その顔が、信じられないほど簡単に変わっていく。


 驚き。


 困惑。


 失望。


 嫌悪。


 そして、侮蔑。


 彼らの視線が変わった。


 未来の王を見る目ではない。


 人を見る目でもない。


 汚れたものを見つけた時の目だった。


 レオンハルトは立ち尽くした。


 何が起きているのか、わからなかった。


 父を見る。


 助けてほしかった。


 何か言ってほしかった。


 これは間違いだ、と。


 水晶がおかしいのだ、と。


 お前は私の息子だ、と。


 けれど、父の顔には愛情などなかった。


 そこにあったのは、激しい怒りと恥辱。


「レオンハルト」


 低い声。


 今まで聞いたことのないほど冷たい声だった。


「貴様……我が王家に泥を塗ったな」


「ち、父上……?」


「黙れ」


 たった一言で、レオンハルトの喉が凍った。


 母を見る。


 母なら。


 母だけは。


「母上……僕……」


 王妃は扇で口元を隠していた。


 その目は、汚物を見るように冷たかった。


「陛下」


 王妃は静かに言った。


「この子は、本当にわたくしたちの子なのでしょうか」


 神殿が、さらにざわめいた。


 レオンハルトの心臓が大きく跳ねる。


「母上……?」


「王族に魔力がないなど、ありえません。ましてや、わたくしと陛下の子に」


「母上、僕は……僕は母上の子です……!」


「その名で呼ばないでちょうだい」


 王妃の声は、美しいまま冷たかった。


「わたくしに、魔力なき欠陥品を産んだ覚えはありません」


 欠陥品。


 その言葉が、レオンハルトの胸に突き刺さった。


 痛い。


 息ができない。


 けれど涙すら出なかった。


 今朝まで、自分に微笑んでくれた母。


 優しく髪を撫でてくれた母。


 その人が、別人のような顔で自分を見ている。


 いや。


 もしかしたら。


 これが本当の顔だったのかもしれない。


「お母……さま……」


「不愉快です」


 王妃は顔を背けた。


「その声で、わたくしを呼ばないで」


 レオンハルトの視界が滲む。


 手が震える。


 でも、周囲は止まらない。


 貴族たちは口元を隠しながら囁き合う。


「王妃陛下がお気の毒だ」


「十年も愛情を注がれた結果がこれか」


「まるで王家に巣食った汚点だな」


「あれを生かしておくのか?」


「王位継承者など、とんでもない」


「早急に処分を考えるべきでは」


 処分。


 その言葉が聞こえた。


 レオンハルトはゆっくりと周囲を見回した。


 昨日まで、自分に頭を下げていた貴族たち。


 誕生日には祝辞を述べた者たち。


 廊下ですれ違えば笑顔で挨拶してくれた者たち。


 そのすべてが、今は自分を避けるように見ていた。


 まるで近づくだけで汚れると言わんばかりに。


「陛下」


 ローゼンベルク公爵が進み出た。


 彼の隣にいたエリシアは、青ざめた顔でレオンハルトを見ていた。


 レオンハルトは、かすかな希望を抱いた。


 エリシア。


 君なら。


 さっきまで、婚約者だと言ってくれた君なら。


「我がローゼンベルク公爵家は、王家への忠誠を第一としております」


 公爵は深く頭を下げる。


「しかし、魔力なき者に娘を嫁がせることはできません」


 レオンハルトの足元が崩れるような感覚がした。


「え……」


「よって、レオンハルト殿下と娘エリシアの婚約は、白紙とさせていただきたく存じます」


 婚約破棄。


 その言葉を理解するより早く、周囲が当然のように頷いた。


「無理もない」


「ローゼンベルク家の判断は正しい」


「魔力零など、家名に傷がつく」


「未来の王妃があのような者に縛られるなど、あってはならぬ」


 レオンハルトはエリシアを見た。


 彼女は唇を震わせていた。


 怒っているのか。


 悲しんでいるのか。


 わからない。


「エリシア……」


 レオンハルトは一歩だけ近づこうとした。


 だが、エリシアは反射的に後ずさった。


 それはほんの小さな動きだった。


 けれど、レオンハルトには刃より鋭く見えた。


「……っ」


 エリシアは目を逸らした。


「わ、わたくしは……ローゼンベルク公爵家の娘ですもの」


 声が震えていた。


「魔力のない方と、婚約を続けることは……できませんわ」


「……そっか」


 レオンハルトは、小さく呟いた。


 泣きそうだった。


 叫びたかった。


 どうして、と聞きたかった。


 でも、神殿中の視線が突き刺さっていた。


 第一王子として。


 王族として。


 泣いてはいけない。


 そう教えられてきた。


 だから泣けなかった。


 ただ、胸の中で何かが壊れていく音だけがした。


「陛下、ご決断を」


 大神官が震える声で言った。


「魔力零の王族など、前例がございません。このまま王位継承者とすることは……」


「わかっている」


 国王は玉座のような椅子から立ち上がった。


 その魔力が神殿を満たす。


 圧倒的な威圧。


 誰もが頭を垂れた。


 ただ一人、レオンハルトだけが立ち尽くしていた。


 父を見る。


 最後の希望を込めて。


「父上……僕は……」


「第一王子レオンハルト・フォン・アルディア」


 国王は冷酷に告げた。


「貴様を王位継承権より除外する」


 ざわめきが広がる。


 だが、国王の言葉は止まらない。


「さらに本日をもって、貴様を東の塔へ幽閉する」


「幽閉……?」


 レオンハルトは聞き返した。


「父上、僕、何か悪いことをしましたか……?」


 その問いに、神殿の空気が一瞬だけ揺れた。


 十歳の少年の声だった。


 純粋な疑問だった。


 魔力がなかった。


 ただそれだけ。


 それだけで、なぜすべてを奪われるのか。


 なぜ父に捨てられるのか。


 なぜ母に拒絶されるのか。


 なぜ婚約者に離れられるのか。


 なぜ、みんなが自分を見下すのか。


 レオンハルトにはわからなかった。


 国王は答えた。


「存在そのものが罪だ」


 世界が、音を失った。


 存在そのものが罪。


 父が。


 自分の父が。


 そう言った。


 レオンハルトの瞳から、ようやく涙が一粒落ちた。


 だが、その涙を拭ってくれる者はいなかった。


「連れて行け」


 国王の命令で、騎士たちが動いた。


 いつも自分に敬礼してくれた騎士たち。


 剣の稽古を褒めてくれた騎士たち。


 その手が、レオンハルトの両腕を掴む。


「痛い……」


 思わず呟いた。


 騎士の一人がわずかに表情を歪めた。


 だが、手は離さなかった。


「父上! 母上! 僕、ちゃんと勉強します! 剣も頑張ります! 魔力がなくても、民を守れるようになります! だから……だから、捨てないで……!」


 叫びが神殿に響いた。


 貴族たちは顔を背けた。


 母は目を閉じた。


 父は冷たく見下ろした。


「魔力なき者に、守れるものなどない」


 その言葉で、レオンハルトはもう何も言えなくなった。


 引きずられるように神殿を出る。


 最後に振り返った。


 エリシアが見えた。


 彼女は泣いていなかった。


 ただ、青ざめた顔で、唇を噛んでいた。


 目が合う。


 何か言ってくれるかもしれない。


 そう思った。


 でも、彼女は何も言わなかった。


 レオンハルトは笑おうとした。


 いつものように。


 大丈夫だよ、と。


 けれど、笑えなかった。


 神殿の外へ連れ出された時、空はまだ青かった。


 今朝と同じ空。


 けれど、世界はまったく違って見えた。


 王城へ戻る馬車は、来なかった。


 代わりに用意されていたのは、罪人を移送するための黒い護送車だった。


 鉄格子の嵌められた小さな箱。


 王族が乗るようなものではない。


 レオンハルトは騎士たちに押され、その中へ入れられた。


「待って……僕、まだ部屋に……」


「黙って乗れ」


 騎士の声は硬かった。


「でも、ミーナに……」


「侍女の名など口にするな。今のお前は殿下ではない」


 その言葉に、レオンハルトの体が固まった。


 殿下ではない。


 今朝まで、誰もがそう呼んでくれた。


 優しく。


 敬意を込めて。


 けれど今、その呼び名は奪われた。


 護送車の扉が閉められる。


 鉄の音が響く。


 外から鍵がかけられた。


 小さな格子の隙間から、王都の街並みが見える。


 道端には人々が集まっていた。


 噂は早かった。


 王族の魔力測定。


 第一王子、魔力零。


 婚約破棄。


 幽閉。


 そのすべてが、もう街へ流れていた。


「あれが魔力なしの王子か」


「しっ、王子じゃないらしいぞ」


「王家から捨てられたんだって」


「まあ当然だろ。魔力がない王族なんて気味が悪い」


「神様に嫌われた子なんじゃないの」


 民の声。


 守りたいと思っていた人たちの声。


 レオンハルトは格子を握った。


 爪が鉄に当たって痛い。


 けれど、その痛みより胸が痛かった。


 馬車が進む。


 王都の中心を抜ける。


 石畳の音が単調に響く。


 かつて自分に手を振ってくれた子どもが、母親の後ろに隠れた。


 菓子屋の老人が目を逸らした。


 花売りの少女が、小さく呟いた。


「かわいそう……」


 その一言だけが、少しだけ人間らしく聞こえた。


 だがすぐに、その少女の母親が腕を引いた。


「見てはいけません。穢れます」


 穢れる。


 レオンハルトは、格子から手を離した。


 自分は、そんな存在になったのか。


 見るだけで穢れる。


 近づくだけで不吉。


 魔力がないだけで。


 何も悪いことをしていないのに。


 護送車はやがて王城の東側へ進んだ。


 華やかな庭園を越え、騎士の訓練場を越え、人の気配が少なくなる。


 そこから先は、普段なら王族すら近づかない区域だった。


 古い石壁。


 枯れた木々。


 誰も手入れしていない道。


 その先に、東の塔はあった。


 王城の端に立つ、灰色の塔。


 高く、細く、空を刺すように伸びている。


 窓は少ない。


 その窓には鉄格子が嵌められている。


 周囲には花もなく、噴水もなく、ただ冷たい風だけが吹いていた。


 レオンハルトは、その塔を見上げた。


「ここ……?」


 騎士は答えない。


 護送車の扉が開き、レオンハルトは乱暴に外へ引き出された。


 足がもつれ、石畳に膝をつく。


「痛っ……」


「立て」


 腕を掴まれる。


 もう誰も、彼を丁寧に扱わなかった。


 塔の入口には、分厚い鉄扉があった。


 王城のどの扉よりも重々しく、どの門よりも冷たい。


 扉の下部には、小さな金属の小窓がついている。


 食事を差し入れるためだけの扉。


 人が通るには小さすぎる。


 レオンハルトはそれを見た瞬間、ぞっとした。


 ここは、人を生かす場所ではない。


 死なない程度に閉じ込めておく場所だ。


 そう、本能で理解した。


 騎士の一人が魔法鍵を開ける。


 重い扉が軋んだ。


 中から冷たい空気が流れ出す。


 湿った石の匂い。


 古い埃。


 日の当たらない場所の匂い。


「入れ」


「待ってください……せめて、着替えとか、本とか……」


「不要だ」


「でも……」


「お前に与えられるものは塔の中にある。それ以上を望むな」


 レオンハルトは唇を噛んだ。


「……ミーナに、会わせてください」


 小さな声だった。


「僕の侍女です。きっと心配して……」


 騎士は、一瞬だけ黙った。


 それから低く言った。


「あの侍女は配置を外された」


「え……?」


「魔力なしに長く仕えていたことを不吉とされた。処遇は知らん」


 レオンハルトの顔から血の気が引いた。


 自分のせいだ。


 自分が魔力零だったから。


 ミーナまで。


「そんな……僕、ミーナに何も……」


「もう関係ない」


 騎士は冷たく言い捨てた。


「入れ」


 背中を押される。


 レオンハルトは塔の中へ倒れ込んだ。


 石の床に手をつく。


 冷たい。


 痛い。


 後ろで扉が閉まる。


 慌てて振り返る。


「待って! 待ってください!」


 レオンハルトは扉に駆け寄った。


 小さな手で鉄扉を叩く。


「お願いします! 父上にもう一度だけ会わせてください! 母上に謝ります! 魔力がなくてごめんなさいって、ちゃんと言います! だから……だからここから出してください!」


 扉の向こうから、鍵の音がした。


 重い。


 決定的な音だった。


「ねえ! 開けて! 開けてください! 僕、ちゃんとします! 王子じゃなくてもいいです! 邪魔しません! だから一人にしないで!」


 返事はない。


 足音が遠ざかっていく。


 レオンハルトは扉を叩き続けた。


 何度も。


 何度も。


 手のひらが赤くなる。


 爪が割れる。


 痛い。


 それでも叩いた。


「誰か……!」


 声が掠れる。


「誰か、お願い……!」


 だが、東の塔は返事をしなかった。


 やがてレオンハルトは、扉の前に崩れ落ちた。


 肩が震える。


 息が乱れる。


 涙が床に落ちる。


「……なんで」


 誰にも届かない声で、呟いた。


「なんで……僕、何もしてないのに……」


 東の塔の内部は薄暗かった。


 螺旋階段が上へ続き、その先にいくつかの部屋がある。


 レオンハルトに与えられた部屋は、塔の中腹にある小さな一室だった。


 寝台。


 机。


 椅子。


 古びた本棚。


 それだけ。


 王子の部屋とは思えないほど質素だった。


 壁は石のまま。


 床には薄い敷物が一枚。


 窓には鉄格子。


 外は見えるが、出ることはできない。


 暖炉はある。


 しかし薪は少なく、炎は弱かった。


 夜になれば、きっと凍える。


 レオンハルトは部屋の中央に立ち尽くした。


 ここで暮らすのか。


 明日も。


 明後日も。


 その先も。


 誰にも会えず。


 誰にも呼ばれず。


 ただ、魔力がないという理由だけで。


 その日の夕方。


 塔の入口の方で、金属の音がした。


 小さな扉が開く音。


 レオンハルトは階段を駆け下りた。


「誰か来たの!?」


 返事はない。


 入口の鉄扉の下。


 小さな差し入れ口から、木の盆が押し込まれていた。


 硬いパン。


 薄いスープ。


 水。


 それだけ。


 差し入れ口はすぐに閉じられた。


「待って!」


 レオンハルトは叫んだ。


「誰ですか!? お願いします、少しだけ話を……!」


 返事はない。


 足音すら聞こえない。


 食事を入れた者は、顔を見せることもなかった。


 まるで、動物に餌を与えるように。


 いや。


 顔を見る価値すらないと言うように。


 レオンハルトは盆の前に膝をついた。


 腹は空いていた。


 朝から何も食べていない。


 でも、喉を通らなかった。


 パンを持つ手が震える。


 かじる。


 硬い。


 味がしない。


 涙が落ちて、パンが濡れた。


「……おいしくない」


 今朝は、焼きたてのパンがあった。


 果物も。


 温かなスープも。


 ミーナが淹れてくれた甘い紅茶も。


 全部、あった。


 それが当たり前だと思っていた。


 でも違った。


 あれは王子だから与えられていたもの。


 愛されていたからではない。


 価値があると思われていたから与えられていたもの。


 価値がないと判断された瞬間、すべて消えた。


 夜。


 レオンハルトは寝台の上で丸くなった。


 薄い毛布だけでは寒かった。


 暖炉の火は小さく、部屋の隅までは届かない。


 風が窓の隙間から入り、石壁を撫でる。


 塔が鳴いているようだった。


「父上……」


 小さく呼ぶ。


 返事はない。


「母上……」


 返事はない。


「エリシア……」


 返事はない。


「ミーナ……」


 誰も来ない。


 誰も。


 その夜、レオンハルトは泣いた。


 声を殺して。


 誰にも聞こえないように。


 聞こえても、きっと誰も来ないとわかっていたから。


 翌朝。


 目を覚ましても、世界は変わっていなかった。


 夢ではなかった。


 自分は塔にいた。


 扉は閉ざされていた。


 誰も迎えに来なかった。


 決まった時間になると、差し入れ口から食事が入れられる。


 それだけ。


 見回りはない。


 声かけもない。


 生存確認すらない。


 食事がなくなっていれば、生きている。


 それだけなのだろう。


 レオンハルトは最初の数日、毎回差し入れ口に縋った。


「お願いします。誰かと話したいんです」


「父上に手紙を……」


「母上に謝ります」


「僕、ここでいい子にしています。だから、せめて……」


 返事は一度もなかった。


 ただ食事が置かれる。


 差し入れ口が閉じる。


 静寂が戻る。


 それだけ。


 十日が過ぎる頃、レオンハルトは扉を叩かなくなった。


 一ヶ月が過ぎる頃、食事を運ぶ者へ声をかけなくなった。


 三ヶ月が過ぎる頃、泣く回数が減った。


 半年が過ぎる頃、笑い方を忘れた。


 一年が過ぎる頃。


 レオンハルトは、窓辺に座ることが増えた。


 外を見る。


 王都の灯りが遠くに見える。


 人々の暮らしがある。


 笑い声は聞こえない。


 けれど、あそこには生きた世界がある。


 自分だけが、死んだような場所にいる。


 レオンハルトは指先で窓の鉄格子に触れた。


 冷たい。


 この冷たさにも慣れてしまった。


「……僕は、本当に罪なのかな」


 小さく呟く。


 答える者はいない。


 でも、最近はその沈黙が少しだけ考える時間をくれた。


 魔力がないことは罪なのか。


 魔力があれば、人を捨ててもいいのか。


 王族なら、子を欠陥品と呼んでもいいのか。


 民を守る者だと教えられた王族が、たった一人の子どもすら守らない。


 それは、本当に正しいのか。


 父は言った。


 王族は神に近い存在だと。


 母は言った。


 王家の血は尊いと。


 貴族たちは言った。


 魔力なき者は不吉だと。


 だが。


 本当に神に近い者が、弱者を踏みにじるのか。


 本当に尊き血なら、なぜ愛を捨てられる。


 本当に王なら、なぜ守るべき者を見捨てる。


「……おかしい」


 塔の窓辺で、レオンハルトは呟いた。


 その声は、以前より低くなっていた。


 幼さは残っている。


 けれど、そこにはもう無邪気な明るさはなかった。


「おかしいだろ……」


 王族は神に近い。


 父はそう言った。


 だが違う。


 少なくとも、あの神殿にいた者たちは神などではなかった。


 あれは、力を持った人間だ。


 魔力というものに酔い、自分たちを特別だと信じ、弱い者を切り捨てる人間。


 レオンハルトの拳が震えた。


 怒りではない。


 いや、怒りもあった。


 だがそれ以上に、冷たい何かが胸の奥に沈んでいく。


 失望。


 諦め。


 そして、決意にも似た感情。


「王族なんて……」


 小さく呟く。


「くだらない」


 その瞬間だった。


 部屋の奥で、かすかな音がした。


 こつん。


 石がずれるような音。


 レオンハルトは振り向いた。


 本棚の裏。


 古びた壁の一部が、わずかに光っていた。


「……何だ?」


 立ち上がる。


 警戒しながら近づく。


 本棚を押すと、ぎぎ、と重い音を立てて動いた。


 その奥に、扉があった。


 扉というより、石壁に刻まれた小さな入口。


 王族の部屋にはなかったはずの、隠し通路。


 レオンハルトは息を呑んだ。


 扉には文字が刻まれていた。


 古代語。


 学んだことのない文字。


 だが、不思議と読めた。


『偽りの王冠に捨てられし者よ』


 レオンハルトの心臓が、強く鳴った。


『汝、まだ人を憎みきれぬなら』


 壁の文字が淡く輝く。


『汝、まだ弱き者を見捨てぬなら』


 息が詰まる。


『この奥へ進め』


 レオンハルトは扉に手を伸ばした。


 その手は震えていた。


 恐怖ではない。


 期待でもない。


 ただ、長い絶望の中で初めて見つけた、何かだった。


 誰かが自分を呼んでいる。


 魔力零の欠陥品ではなく。


 存在そのものが罪だと言われた子どもではなく。


 レオンハルトという、一人の人間を。


「……僕は」


 いや。


 違う。


 もう、僕ではない。


 塔に閉じ込められ、捨てられ、泣き続けた子どもは、あの日死んだ。


 レオンハルトは静かに息を吸った。


 そして、冷たい目で扉を見据えた。


「俺は、進む」


 石扉が音もなく開いた。


 中から吹き込んできたのは、風だった。


 塔の中のはずなのに。


 窓もないはずなのに。


 炎の熱。


 水の冷たさ。


 土の匂い。


 風のざわめき。


 雷の気配。


 光の温もり。


 闇の静けさ。


 すべてが混じり合った、不思議な空気。


 レオンハルトは一歩、踏み出した。


 その背後で、塔の部屋が遠ざかる。


 孤独だった世界。


 捨てられた日々。


 泣き尽くした夜。


 すべてを置き去りにして。


 少年は隠し部屋へ進む。


 まだ、彼は知らない。


 自分が魔力を持たない理由を。


 なぜ神託水晶が沈黙したのかを。


 王家が恐れる本当の力を。


 そして、この先で出会う四柱の神霊が、彼にとって本当の家族になることを。


 ただ一つだけ、確かなことがあった。


 レオンハルト・フォン・アルディアは、この日を境に変わる。


 王族に捨てられた無能王子ではなく。


 偽りの神を壊す者として。


 そして。


 東の塔の奥深く。


 暗闇の先で、最初の声が響いた。


「ようやく来たか、王に捨てられし子よ」


 低く、静かな声。


 けれどその声には、燃えるような熱があった。


 レオンハルトは足を止める。


 暗闇の中に、紅蓮の瞳が灯る。


 巨大な翼が広がる。


 炎が舞う。


 黄金と緋色の羽を持つ、不死鳥。


 その姿を見ても、レオンハルトは叫ばなかった。


 怯えなかった。


 ただ、冷たく乾いた瞳で見上げた。


「お前は、誰だ」


 不死鳥は静かに笑った。


「名はない。契約者よ、汝が名を与えよ」


 レオンハルトは黙る。


 名を与える。


 それは支配ではない。


 絆を結ぶこと。


 なぜか、そう理解できた。


 炎の不死鳥は、彼を見下ろす。


 人ではない。


 王族でもない。


 貴族でもない。


 魔力で価値を測る者でもない。


 それなのに。


 その瞳には、侮蔑がなかった。


 哀れみもなかった。


 ただ、待っていた。


 レオンハルトという存在を。


「……イグニス」


 自然と、その名が唇から零れた。


「お前の名は、イグニスだ」


 不死鳥の翼が燃え上がる。


 炎が部屋を満たす。


 だが、不思議と熱くない。


 むしろ冷え切った心の奥を、少しだけ温めるようだった。


「我が名はイグニス」


 不死鳥は深く頭を垂れた。


「契約は成った。レオンハルトよ。我が炎は、汝の敵を燃やし尽くす」


 その言葉を聞いた瞬間。


 レオンハルトの胸の奥で、何かが目覚めた。


 魔力ではない。


 もっと深く。


 もっと古く。


 もっと神聖で、もっと恐ろしい力。


 神力。


 人の水晶では測れぬ力。


 王家が知らぬ力。


 神に近いと驕る者たちが、決して届かぬ力。


 レオンハルトは自分の手を見た。


 炎が宿っていた。


 だが、焼けない。


 痛くない。


 ただ、静かに脈打っている。


「俺は……無能じゃなかったのか」


 ぽつりと呟いた。


 イグニスは答えた。


「無能と呼んだ者たちの目が、曇っていただけだ」


 その言葉は優しくなかった。


 慰めでもなかった。


 ただの事実のように響いた。


 だからこそ、レオンハルトの胸に深く刺さった。


 彼はゆっくりと目を閉じた。


 涙は出なかった。


 もう、泣く時期は過ぎた。


 代わりに、冷たい笑みがほんのわずかに唇へ浮かぶ。


「そうか」


 短く言う。


「なら、もういい」


 イグニスが目を細めた。


「何がだ」


「王族であることも、あの家に認められることも、全部だ」


 レオンハルトは炎を握りしめた。


「俺はもう、王家に期待しない」


 その声は静かだった。


 けれど、そこには十歳の少年とは思えぬ冷たさがあった。


 同時に、消えきらない正義があった。


 捨てられた。


 奪われた。


 壊された。


 それでもまだ、弱者を踏みにじる者を許せない。


 その心だけは、死んでいなかった。


 イグニスは翼を畳み、静かに告げる。


「ならば進め。炎は始まりにすぎぬ。この奥には、まだ汝を待つ者がいる」


 レオンハルトは顔を上げた。


 隠し部屋のさらに奥。


 暗闇の向こうで、別の気配が揺れている。


 水の音。


 氷の軋み。


 風の笑い。


 雷の唸り。


 光と闇の囁き。


 レオンハルトは歩き出した。


 もう、戻るつもりはなかった。


 東の塔は牢獄だった。


 だが同時に、始まりの場所でもあった。


 世界に見捨てられた王子が、世界の真実へ手を伸ばす場所。


 神に近いと驕る王家ではなく。


 本物の神霊たちが、彼を待つ場所。


 その日。


 アルディア王国はまだ知らなかった。


 魔力零と嘲笑った少年が、やがて王国の価値観そのものを焼き尽くすことを。


 そして、東の塔で目覚めた炎が。


 いつか偽りの玉座を照らす日が来ることを。

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