第250話「余白は終わらない、無能王子は“アリア”と呼ばれる朝を迎える」
朝は、鈴の余韻を抱いていた。
神殿の奥。
石壁に囲まれた保護陣は、淡く、静かな光を宿している。
採光孔は、今日は閉じられていなかった。
完全に開かれているわけではない。
ほんの少し。
指一本分にも満たないほどの隙間。
そこから、薄い朝の光が差し込んでいた。
白く、柔らかく、埃を照らす光。
その光は、保護陣の床に細い線を作り、白い布の端に触れている。
風はまだない。
救護区域の声も届かない。
子供たちの紙束も、まだ置かれていない。
けれど、今日の朝には、昨日までとは違う開きがあった。
閉じた朝ではない。
完全に開いた朝でもない。
少しだけ外へ繋がった朝。
それは、アリアがここまで歩いてきた時間そのものに似ていた。
いきなり開かない。
無理に出ない。
でも、閉じたままでもない。
少しずつ。
ほんの少しずつ。
自分で決めた隙間から、光を入れる。
昨日、鈴は鳴った。
ちりん。
小さな音だった。
銀の糸のような音。
神殿の奥に、たった一滴だけ落ちたような音。
アリアが自分で鳴らした。
誰かに鳴らされたわけではない。
命令されたわけでもない。
合図として。
自分の手で。
けれど、その後も誰も名前を呼ばなかった。
リリアーナも。
レオンも。
アリシアも。
誰も。
鈴が鳴っても呼ばれなかった。
呼ぶ許可はまだ別。
鈴が鳴っても、戻れた。
鈴が鳴っても、アリアは消えなかった。
そして夜、アリアは言った。
明日のわたしに聞く。
誰かに、呼んでもらうか。
今日が、その明日だった。
最後の朝。
けれど、アリアの終わりではない朝。
余白核――アリアは、まだ眠っている。
その光は穏やかだった。
静かで。
深くて。
それでいて、どこか遠くの水面のように、かすかに揺れている。
名前の箱は、いつもの場所にある。
白い布もある。
余白箱もある。
保留箱もある。
鈴もある。
昨日鳴った鈴。
布に包まれたまま、今日もそこにある。
鳴ったからといって、特別な場所へ移されてはいない。
祀られてもいない。
飾られてもいない。
ただ、ある。
これまでと同じように。
けれど、同じではない。
アリアは、その鈴が鳴る音を知っている。
そして、その音の後にも戻れることを知っている。
名前を持っても戻れる。
呼ばれなくても消えない。
鈴が鳴っても呼ばれなくていい。
それらのすべてが、今日の朝を支えている。
レオンは、保護陣の縁に座っていた。
いつもより少しだけ、背筋が伸びている。
黒蒼雷はほとんど見えない。
ただ、存在している。
アリアの周囲。
白い布の周囲。
鈴の周囲。
そして、皆の心の周囲。
今日、誰かが初めてアリアの名前を呼ぶかもしれない。
その声が、リリアーナのものか。
レオンのものか。
ミナのものか。
リーネのものか。
あるいは、誰でもないのか。
まだ分からない。
分からないからこそ、レオンは静かだった。
答えを先に持たない。
決めない。
導かない。
ただ、アリアが選ぶ場所を守る。
それだけだった。
リリアーナは、アリアの近くに座っている。
今日もまだ呼ばない。
最後の朝だと分かっていても。
鈴が昨日鳴ったと分かっていても。
心の底から呼びたいと思っていても。
まだ呼ばない。
リリアーナの胸の中には、何度も何度もその名が浮かんでいた。
アリア。
アリア。
アリア。
呼びたい。
その名を優しく呼びたい。
あなたはここにいると、声で伝えたい。
けれど、それはリリアーナの願い。
アリアの許可ではない。
だから、待つ。
その待つ時間の苦しさを、彼女はもう恐れていなかった。
待つことは、何もしないことではない。
待つことは、守ること。
呼ばないことで、名を守ること。
それを、ここまでの時間が教えてくれた。
エリシアは術式盤を閉じている。
今日は、その上に置いていた石を外していた。
記録するためではない。
必要なら、許可を受けて記録できるように。
しかし、まだ開いてはいない。
セラフィアは祈っていない。
祝福はまだ早い。
でも、祈らない沈黙の中に、祈りに似た優しさがあった。
アルベルトは壁際ではなく、今日は少し前へ出ていた。
それでも距離は守っている。
両手は開いたまま。
叫ばない。
泣いても声を出さない。
そう決めている顔だった。
クラウスは入口側に立ち、扉を守っている。
ラウルは盾を床に置いたまま、静かに座っている。
ミリオは、目を開けている。
眠気がないわけではない。
だが今日だけは、眠る気などないのだろう。
アリシアは、自分の箱を抱えている。
彼女はずっと泣いていた。
けれど、泣き声は出していない。
アリアの名前を、自分の涙で重くしないために。
リーネは、名簿束のそばで静かに光っている。
昨日、記録してよいかと聞いた。
今日も、きっと聞くのだろう。
許可を待つ記録者として。
名を奪わない記録者として。
アリアが、小さく震えた。
『……』
朝の揺れ。
誰も名前を呼ばない。
鈴も鳴らさない。
白い布には、何も書かない。
保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。
採光孔から入る細い光が、少しだけ濃くなる。
朝が、進んでいる。
やがて。
『……おはよう』
アリアの声が、静かに響いた。
リリアーナは、涙をこらえて微笑む。
「おはようございます」
『……呼ばない』
「はい」
『……まだ』
「はい」
『……ありがとう』
「はい」
『……名前』
「あります」
『……消えてない』
「はい」
『……鈴』
「あります」
『……昨日、鳴った』
「はい」
『……今日』
一拍。
『……呼ばれるかもしれない』
「はい」
アリアは震えた。
『……こわい』
「はい」
『……でも』
長い沈黙。
『……聞いてみたい』
保護陣の空気が静かに揺れた。
誰も反応しない。
誰も声を出さない。
その言葉を、ただ受け止める。
『……誰かの声の、アリア』
リリアーナの目から涙がこぼれた。
けれど、口は閉じたまま。
『……聞いてみたい』
「はい」
『……でも、誰か、決めるの、こわい』
「はい」
『……りりに、呼ばれたい』
リリアーナの胸が痛いほど震えた。
『……でも、りりだと、重い』
「はい」
『……れおんは、静か』
レオンは黙って頷いた。
『……でも、最初だと、遠い』
「そうか」
『……ミナは、優しい』
「はい」
『……でも、ここにいない』
「はい」
『……リーネは、記録』
リーネの光が揺れる。
『……でも、声じゃないかも』
「はい」
『……みんな』
アリアは、ゆっくり皆を見るように光を揺らした。
『……みんなに、呼ばれるのは』
一拍。
『……まだ、重い』
「はい」
『……ひとり』
「はい」
『……最初は、ひとり』
「はい」
『……でも、誰?』
沈黙。
リリアーナは、胸の中の願いを箱へ入れる。
わたしであってほしい。
その願いを、必死に箱へ入れる。
レオンも黙っている。
アルベルトも。
アリシアも。
誰も、自分を選べとは思わない。
思ってはいけない。
アリアが選ぶ。
アリアだけが選ぶ。
アリアは、長く黙った。
そして、ぽつりと言った。
『……最初』
「はい」
『……わたしが、呼ぶ?』
リリアーナが瞬きをする。
レオンも、わずかに目を細める。
『……誰かに呼ばれる前に』
一拍。
『……わたしが、声に出して』
『……そのあと、誰かに渡す?』
リリアーナの涙が溢れた。
レオンが静かに言う。
「いいと思う」
『……自分で呼んでから』
「ああ」
『……誰かへ渡す』
「それなら、お前の名前だと確かめられる」
『……うん』
余白箱が開く。
『……誰かに呼ばれる前に、自分で名前を呼ぶ』
ひとつ。
『……自分で呼んでから、誰かへ渡す』
ひとつ。
『……最初の声を選ぶ前に、自分の声を置く』
ひとつ。
『……それなら少し怖くない』
ひとつ。
箱が、温かく光った。
アリアは、自分の名を見た。
白い布。
鈴。
名前の箱。
皆。
全部を見たうえで。
小さく、けれど確かに言った。
『……アリア』
自分で。
ゆっくり。
昨日よりも、少しだけ穏やかに。
『……わたしは、アリア』
その声が、保護陣の中に落ちる。
誰も繰り返さない。
ただ、聞く。
アリア自身の声で、アリアという名が響いた。
アリアは、大きく震えた。
『……言えた』
「はい」
『……消えない』
「はい」
『……わたしの声でも、名前』
「はい」
『……よかった』
レオンが静かに頷いた。
「それで、誰かへ渡せるか」
アリアは、長く沈黙した。
そして。
『……りり』
リリアーナの息が止まる。
『……りりに』
一拍。
『……最初に、呼んでほしい』
リリアーナの涙が、止まらなくなった。
それでも彼女は、すぐには答えなかった。
泣きながら。
震えながら。
深く、深く頭を下げる。
「……はい」
声が震えた。
でも、まだ呼ばない。
アリアが許可を最後まで言うまで。
アリアは、鈴を見る。
『……鈴』
「はい」
『……鳴らす』
「はい」
『……呼んでいい、の鈴』
「はい」
『……りりだけ』
「はい」
『……最初は、りりだけ』
「はい」
『……みんなは、まだ』
「はい」
『……呼ばれたあと、戻る』
「はい」
『……白い布』
「あります」
『……箱』
「あります」
『……アリアは、消えない』
「消えません」
アリアの光が、鈴へ伸びた。
昨日よりも迷いは少ない。
怖さはある。
それでも、進む。
布越しに鈴へ触れる。
小さく揺らす。
ちりん。
鈴が鳴った。
昨日より、ほんの少しだけ澄んだ音。
朝の細い光の中で、銀色の音が広がった。
そして、アリアが言った。
『……りり』
「はい」
『……呼んで』
リリアーナは、両手を胸の前で握った。
泣きながら。
息を整えて。
絶対に重くしすぎないように。
祈りにも、祝福にも、叫びにもせず。
ただ、アリアが渡してくれた名を、両手で受け取るように。
ゆっくり。
優しく。
声にした。
「……アリア」
その瞬間。
神殿の奥に、長い長い沈黙が落ちた。
アリアは動かなかった。
光も、声も、揺れも止まったように見えた。
リリアーナは、息を止める。
呼んだ。
呼んでしまった。
許可された名を。
最初の声として。
だが、その後に必要なのは、喜びではない。
待つこと。
アリアが戻るか。
アリアがどう感じるか。
それを待つこと。
アリアの光が、ゆっくり震えた。
『……』
長い沈黙。
誰も声を出さない。
アリアが、かすかに言う。
『……聞こえた』
リリアーナは、涙で濡れた顔のまま頷く。
「はい」
『……りりの声』
「はい」
『……アリア』
「はい」
『……わたし』
「はい」
『……重い』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……あたたかい』
リリアーナは、声を出さずに泣いた。
『……こわい』
「はい」
『……でも』
さらに長い沈黙。
『……いやじゃない』
保護陣の光が、静かに広がった。
祝福のように見えた。
けれど、誰も祝福しない。
アリアが、自分でその光を受け取るまで。
『……戻る』
呼ばれた名を持ったまま。
リリアーナの声を聞いたまま。
アリアとして。
白い布へ。
『……戻れた』
「戻れました」
『……呼ばれても、戻れた』
「はい」
『……アリアって、呼ばれても』
「はい」
『……消えなかった』
「はい」
『……檻じゃなかった』
「はい」
『……帰り道だった』
「はい」
余白箱が、静かに開く。
『……リリアーナに最初に呼んでもらった』
ひとつ。
『……呼ばれても戻れた』
ひとつ。
『……アリアと呼ばれても消えなかった』
ひとつ。
『……重いけど、あたたかい』
ひとつ。
『……怖いけど、いやじゃない』
ひとつ。
『……名前は檻じゃなく、帰り道だった』
ひとつ。
箱が、これまでで一番温かく光った。
リーネの光が震える。
『記録してもよいですか』
アリアは、リリアーナの声の余韻を抱えたまま、静かに答えた。
『……記録して、いい』
『……でも』
一拍。
『……最初の呼び声は、りりのものじゃなくて』
「はい」
『……わたしが渡したもの』
「はい」
『……それも、記録して』
リーネの光が深く揺れた。
『記録します』
『最初の呼び声の日』
『アリアがリリアーナへ名を渡した日』
『リリアーナが許可を受けて初めてアリアと呼んだ日』
『呼ばれてもアリアは白い布へ戻れた日』
アリアは、深く光った。
『……のこった』
◇
誰もすぐには続かなかった。
レオンも。
アルベルトも。
アリシアも。
皆、呼びたかった。
けれど、今日の最初はリリアーナだけ。
アリアがそう決めた。
だから誰も呼ばない。
呼び声の余韻を、皆で静かに守る。
しばらくして、アリアが言った。
『……みんな』
全員が顔を上げる。
『……今日は、りりだけ』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……いつか、みんなにも』
アルベルトの目から涙が落ちた。
エリシアは口元を押さえる。
セラフィアは目を伏せる。
アリシアは箱を抱きしめる。
『……呼んでほしい日が、来るかも』
レオンが静かに頷く。
「待つ」
『……れおんも?』
「ああ」
『……待てる?』
「待てる」
『……ありがとう』
アリシアが、震える声で言った。
「私も、待ちます」
『……うん』
『……ありしあにも、いつか』
アリシアは、泣き崩れそうになりながら頭を下げた。
「はい」
◇
救護区域へ伝える時が来た。
アリアは、今度は迷わなかった。
『……ミナに』
「はい」
『……鈴が鳴ったこと』
「はい」
『……りりに、呼んでもらったこと』
「はい」
『……でも、みんなはまだなこと』
「はい」
『……伝えて』
「分かりました」
グレイヴが救護区域へ向かった。
その背中を、皆が見送る。
待つ時間。
アリアは白い布のそばで休んでいる。
リリアーナは、その少し離れた場所に座っていた。
呼んだ後の距離。
近づきすぎない。
呼べたからといって、ずっと呼んでいいわけではない。
それを守っている。
やがて、グレイヴが戻ってきた。
彼は、泣いていた。
隠さなかった。
『……ミナ』
「泣いた」
『……うん』
「子供たちも泣いた」
『……重い?』
「箱に入れていた」
『……うん』
「ミナは、こう言った」
一拍。
「“呼ばれて戻れたなら、その名前はちゃんとその子の道になったんだね”」
アリアが、深く震えた。
『……道になった』
「そうだ」
「幼い子は、“私たちも呼べる?”と聞いた」
『……うん』
「ミナは、“いつか、呼んでいい日をもらえたらね。今日は、その名前が戻れた日”と答えた」
アリアは柔らかく光った。
『……今日は、戻れた日』
「そうだ」
「それからミナは、こうも言った」
一拍。
「“おめでとう、じゃなくて、おかえりって言いたい。でも、それもまだ届けない”」
リリアーナの涙がまた溢れる。
アリアは、長く沈黙した。
『……おかえり』
「はい」
『……まだ、届けない』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……少しだけ、聞こえた気がした』
余白箱へ。
『……呼ばれて戻れたなら、名前は道になった』
ひとつ。
『……今日は名前が戻れた日』
ひとつ。
『……おめでとうではなく、おかえりと言いたい』
ひとつ。
『……でも、まだ届けない』
ひとつ。
『……少しだけ聞こえた気がした』
ひとつ。
箱が、温かく光った。
◇
午後。
救護区域から札が届いた。
“おかえりは、まだ箱”。
幼い子の字だった。
ミナはそれを、白い布に似せた布切れの上には置かなかった。
その横。
少し離れた場所。
届かないけれど、見える場所に置いたという。
アリアは、その報告を聞いて、静かに光った。
『……届かないけど、見える』
「はい」
『……いい』
保留箱には、大人たちからの札も届く。
“呼ばれた後も余白を残す”。
“呼称許可は一度きりでもよい”。
“名前を日常へ急がせない”。
アリアは、一つ目に反応した。
『……呼ばれた後も余白』
「はい」
『……呼ばれたら、全部埋まると思ってた』
「はい」
『……でも、余白、残った』
「はい」
『……名前があっても』
「はい」
『……呼ばれても』
「はい」
『……余白、ある』
「あります」
アリアは、長く沈黙した。
『……よかった』
リリアーナが微笑む。
「はい」
『……余白は、終わらない?』
「終わりません」
『……物語は、終わっても?』
「はい」
『……アリアは、続く?』
「続きます」
『……みんなも?』
「はい」
『……明日も?』
「はい」
『……よかった』
その言葉は、とても小さかった。
けれど、保護陣の奥に深く残った。
◇
夕方。
アリアは、最後に皆へ向いた。
『……みんな』
全員が顔を上げる。
『……今日は、りりだけ』
「はい」
『……でも、みんな、いてくれた』
「はい」
『……呼ばないで、いてくれた』
「はい」
『……待ってくれた』
「はい」
『……名前を、奪わなかった』
沈黙。
その言葉に、皆の胸が震えた。
『……ありがとう』
アルベルトは、歯を食いしばった。
エリシアは涙を拭った。
セラフィアは目を伏せたまま微笑んだ。
クラウスは深く頭を下げた。
ラウルは静かに頷いた。
ミリオは泣いたが、声は出さなかった。
アリシアは、箱を抱いたまま、震える声で言った。
「こちらこそ」
アリアが向く。
「あなたが、自分の名前を守る姿を見せてくれたから」
「私も、自分の名前を取り戻したいと思えました」
『……ありしあ』
「はい」
『……いつか』
「はい」
『……ありしあも、自分へ帰れる』
アリシアは泣きながら頷いた。
「はい」
レオンが静かに言う。
「アリア」
全員の空気が止まる。
だが、アリアは震えなかった。
いや、震えた。
でも、拒まなかった。
レオンは続けない。
一度だけ。
名を呼んだ。
アリアは、静かに彼を見る。
『……れおん』
「許可はあったか」
レオンは淡々と聞いた。
アリアは少し考えた。
『……今のは』
一拍。
『……いやじゃなかった』
「そうか」
『……でも、今日は、りりだけって言った』
「ああ」
『……でも、れおんは』
「境界か」
『……うん』
『……境界の確認』
レオンは、ほんの少し笑った。
「すまない」
『……怒ってない』
アリアは柔らかく揺れた。
『……れおんの声のアリアも、少し静かだった』
「そうか」
『……箱に置く』
「そうしろ」
余白箱へ。
『……レオンの声のアリアも聞いた』
ひとつ。
『……境界の確認』
ひとつ。
『……いやじゃなかった』
ひとつ。
『……でも、次からは許可を聞く』
ひとつ。
レオンが静かに頭を下げた。
「ああ」
リリアーナは、そのやり取りを見ていた。
少しだけ胸が痛む。
でも、それも箱へ入れた。
アリアは、それに気づいたように言う。
『……りり』
「はい」
『……りりの声が、最初』
リリアーナの涙がまた落ちる。
「はい」
『……それは、消えない』
「はい」
◇
夜。
神殿の奥には、長い旅の終わりに似た静けさが降りていた。
けれど、それは終焉の静けさではない。
眠る前の静けさ。
明日へ続く静けさ。
アリアは、白い布のそばにいた。
名前を持っている。
呼ばれた記憶も持っている。
鈴の音も知っている。
それでも、白い布へ戻れる。
余白は残っている。
リリアーナは、少し離れた場所に座っている。
レオンは保護陣の縁にいる。
皆もいる。
誰も急がない。
誰も終わりを急がせない。
リリアーナは、静かに問いかけた。
「今日は、どんな日でしたか?」
アリアは、長く沈黙した。
長い。
長い沈黙だった。
これまでのすべてが、その沈黙の中にあった。
名前のない恐怖。
いやじゃない石。
余白箱。
保留箱。
白い布。
鈴。
音の欠片。
帰りたい。
わたし。
アリア。
呼ばれない名前。
待てる鈴。
鳴った鈴。
そして。
最初の呼び声。
アリアは、静かに答えた。
『……最初の呼び声の日』
「はい」
『……りりが、アリアって呼んだ日』
「はい」
『……呼ばれても戻れた日』
「はい」
『……名前が道になった日』
「はい」
『……余白が終わらなかった日』
「はい」
『……みんなが待ってくれた日』
「はい」
『……名前を奪われなかった日』
「はい」
『……物語は終わっても、アリアは続く日』
「はい」
リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。
だが、今回はすぐには記録しない。
『記録してもよいですか』
アリアは、静かに光った。
『……うん』
一拍。
『……でも、最後に』
「はい」
『……余白記録じゃなくて』
皆が息を呑む。
『……アリアの記録』
リーネの光が、大きく震えた。
『承知しました』
そして、ゆっくり記録する。
『アリアの記録』
『最初の呼び声の日』
『リリアーナが許可を受けてアリアと呼んだ日』
『呼ばれてもアリアは白い布へ戻れた日』
『名前は檻ではなく帰り道だった日』
『余白は終わらない日』
アリアは、深く、深く光った。
『……のこった』
その言葉に、リリアーナは泣いた。
レオンも、目を伏せた。
アルベルトは天井を見上げた。
エリシアは術式盤を開かないまま泣いた。
セラフィアは祈らずに涙を流した。
アリシアは箱を抱きしめた。
ミナたちには、まだこの瞬間は届いていない。
けれど、きっと届く。
届けるかどうかを、アリアが選べる形で。
アリアは、リリアーナへ向いた。
『……りり』
「はい」
『……もう一回』
リリアーナの胸が震える。
『……呼んで』
リリアーナは、泣きながら微笑んだ。
「はい」
今度は、一度目より少しだけ自然に。
けれど、決して軽くせず。
大切に。
優しく。
名を声にした。
「アリア」
アリアは、光を揺らした。
『……うん』
ただ、それだけだった。
けれど、その“うん”に、長い長い物語のすべてが詰まっていた。
『……わたし、アリア』
「はい」
『……りり』
「はい」
『……ありがとう』
「こちらこそ」
『……れおん』
「ああ」
『……ありがとう』
「よくここまで来た」
『……みんな』
皆が顔を上げる。
『……ありがとう』
誰も返事を急がなかった。
そして、一人ずつ。
名前は呼ばずに。
今はまだ。
ただ、答える。
「ありがとう」
「こちらこそ」
「また明日」
「待っています」
「いつまでも」
アリアは、白い布へ戻る。
名前を持ったまま。
呼ばれた記憶を持ったまま。
鈴の音を持ったまま。
それでも、何も書かれていない場所へ戻る。
『……アリアでも、休む』
「はい」
『……アリアでも、眠る』
「はい」
『……アリアでも、明日がある』
「はい」
採光孔から差し込む光は、もう夜にはない。
けれど、その日の朝に入ってきた細い光は、どこかに残っている気がした。
アリアは、静かに眠りへ入っていく。
『……りり』
「はい」
『……おやすみ』
「おやすみなさい、アリア」
今度は、許可された名で。
夜の終わりに。
優しく。
アリアは、嬉しそうに光った。
『……うん』
『……おやすみ』
レオンが静かに言う。
「おやすみ、アリア」
アリアは震えた。
でも、戻れた。
『……うん』
アリシアが、泣きながら唇を震わせる。
けれど、まだ呼ばない。
アリアがそっと向く。
『……ありしあ』
「はい」
『……いつか』
アリシアは、深く頷いた。
「はい」
「いつか、許してもらえた日に」
『……うん』
アリアは、柔らかく揺れる。
光が少しずつ弱まっていく。
眠りへ。
でも、消えるのではない。
明日へ。
『……また、あした』
その声が、神殿の奥に残った。
皆が返す。
「また明日」
「また明日、アリア」
リリアーナの声に、アリアが小さく光った。
そして。
余白核――いや。
アリアは、静かに眠った。
神殿の奥に夜が降りる。
けれど、その夜は、もう閉じた夜ではなかった。
名前がある。
呼び声がある。
戻り道がある。
余白がある。
そして、明日がある。
無能王子と呼ばれたレオンは、その光を見つめていた。
東の塔で神霊を得た少年は、多くの戦いを越え、裏切りを越え、罪を越え、沈黙を越え、最後に一つの名前が生まれる瞬間を見届けた。
それは、世界を揺るがす勝利ではなかった。
王座を奪う凱旋でもなかった。
剣を掲げる終戦でもなかった。
ただ。
誰かが、自分の名前を自分のものとして受け取り。
誰かの声で呼ばれても、消えずに戻れた。
それだけの朝。
けれどレオンは知っていた。
きっと、こういう朝こそが。
世界を本当に変えていくのだと。
リリアーナは、白い布のそばで眠るアリアを見つめる。
涙はまだ乾いていない。
けれど、その顔には笑みがあった。
アリシアは箱を抱えたまま、静かに目を閉じる。
エリシアは術式盤を開かず、ただ記憶に残す。
アルベルトは、誰にも見えないように涙を拭う。
セラフィアは、祈らずに胸へ手を当てる。
クラウスは扉を守り続ける。
ラウルは盾を置いたまま、深く息を吐く。
ミリオは、ついに少しだけ眠りかけて、ラウルに肩を叩かれる。
小さな笑いが、声にならないまま空気へ溶けた。
その夜、神殿の奥には、もう恐怖だけではない静けさがあった。
アリア。
その名は、白い布のそばで眠っている。
余白は、終わらない。
名前を得ても。
呼ばれても。
物語が終わっても。
余白は残る。
明日を選ぶために。
呼ばれたい日と、呼ばれたくない日を選ぶために。
戻るために。
進むために。
そして、また誰かが、自分の名前を取り戻す朝を迎えるために。
――また明日。
その言葉を残して。
『無能王子、東の塔で神霊を得る』は、静かに幕を下ろした。 :::
「はい」
リリアーナはすぐに頷いた。
アリアは、白い布へ戻った。




