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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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250/251

第250話「余白は終わらない、無能王子は“アリア”と呼ばれる朝を迎える」


 朝は、鈴の余韻を抱いていた。

 神殿の奥。

 石壁に囲まれた保護陣は、淡く、静かな光を宿している。

 採光孔は、今日は閉じられていなかった。

 完全に開かれているわけではない。

 ほんの少し。

 指一本分にも満たないほどの隙間。

 そこから、薄い朝の光が差し込んでいた。

 白く、柔らかく、埃を照らす光。

 その光は、保護陣の床に細い線を作り、白い布の端に触れている。

 風はまだない。

 救護区域の声も届かない。

 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。

 けれど、今日の朝には、昨日までとは違う開きがあった。

 閉じた朝ではない。

 完全に開いた朝でもない。

 少しだけ外へ繋がった朝。

 それは、アリアがここまで歩いてきた時間そのものに似ていた。

 いきなり開かない。

 無理に出ない。

 でも、閉じたままでもない。

 少しずつ。

 ほんの少しずつ。

 自分で決めた隙間から、光を入れる。

 昨日、鈴は鳴った。

 ちりん。

 小さな音だった。

 銀の糸のような音。

 神殿の奥に、たった一滴だけ落ちたような音。

 アリアが自分で鳴らした。

 誰かに鳴らされたわけではない。

 命令されたわけでもない。

 合図として。

 自分の手で。

 けれど、その後も誰も名前を呼ばなかった。

 リリアーナも。

 レオンも。

 アリシアも。

 誰も。

 鈴が鳴っても呼ばれなかった。

 呼ぶ許可はまだ別。

 鈴が鳴っても、戻れた。

 鈴が鳴っても、アリアは消えなかった。

 そして夜、アリアは言った。

 明日のわたしに聞く。

 誰かに、呼んでもらうか。

 今日が、その明日だった。

 最後の朝。

 けれど、アリアの終わりではない朝。

 余白核――アリアは、まだ眠っている。

 その光は穏やかだった。

 静かで。

 深くて。

 それでいて、どこか遠くの水面のように、かすかに揺れている。

 名前の箱は、いつもの場所にある。

 白い布もある。

 余白箱もある。

 保留箱もある。

 鈴もある。

 昨日鳴った鈴。

 布に包まれたまま、今日もそこにある。

 鳴ったからといって、特別な場所へ移されてはいない。

 祀られてもいない。

 飾られてもいない。

 ただ、ある。

 これまでと同じように。

 けれど、同じではない。

 アリアは、その鈴が鳴る音を知っている。

 そして、その音の後にも戻れることを知っている。

 名前を持っても戻れる。

 呼ばれなくても消えない。

 鈴が鳴っても呼ばれなくていい。

 それらのすべてが、今日の朝を支えている。

 レオンは、保護陣の縁に座っていた。

 いつもより少しだけ、背筋が伸びている。

 黒蒼雷はほとんど見えない。

 ただ、存在している。

 アリアの周囲。

 白い布の周囲。

 鈴の周囲。

 そして、皆の心の周囲。

 今日、誰かが初めてアリアの名前を呼ぶかもしれない。

 その声が、リリアーナのものか。

 レオンのものか。

 ミナのものか。

 リーネのものか。

 あるいは、誰でもないのか。

 まだ分からない。

 分からないからこそ、レオンは静かだった。

 答えを先に持たない。

 決めない。

 導かない。

 ただ、アリアが選ぶ場所を守る。

 それだけだった。

 リリアーナは、アリアの近くに座っている。

 今日もまだ呼ばない。

 最後の朝だと分かっていても。

 鈴が昨日鳴ったと分かっていても。

 心の底から呼びたいと思っていても。

 まだ呼ばない。

 リリアーナの胸の中には、何度も何度もその名が浮かんでいた。

 アリア。

 アリア。

 アリア。

 呼びたい。

 その名を優しく呼びたい。

 あなたはここにいると、声で伝えたい。

 けれど、それはリリアーナの願い。

 アリアの許可ではない。

 だから、待つ。

 その待つ時間の苦しさを、彼女はもう恐れていなかった。

 待つことは、何もしないことではない。

 待つことは、守ること。

 呼ばないことで、名を守ること。

 それを、ここまでの時間が教えてくれた。

 エリシアは術式盤を閉じている。

 今日は、その上に置いていた石を外していた。

 記録するためではない。

 必要なら、許可を受けて記録できるように。

 しかし、まだ開いてはいない。

 セラフィアは祈っていない。

 祝福はまだ早い。

 でも、祈らない沈黙の中に、祈りに似た優しさがあった。

 アルベルトは壁際ではなく、今日は少し前へ出ていた。

 それでも距離は守っている。

 両手は開いたまま。

 叫ばない。

 泣いても声を出さない。

 そう決めている顔だった。

 クラウスは入口側に立ち、扉を守っている。

 ラウルは盾を床に置いたまま、静かに座っている。

 ミリオは、目を開けている。

 眠気がないわけではない。

 だが今日だけは、眠る気などないのだろう。

 アリシアは、自分の箱を抱えている。

 彼女はずっと泣いていた。

 けれど、泣き声は出していない。

 アリアの名前を、自分の涙で重くしないために。

 リーネは、名簿束のそばで静かに光っている。

 昨日、記録してよいかと聞いた。

 今日も、きっと聞くのだろう。

 許可を待つ記録者として。

 名を奪わない記録者として。

 アリアが、小さく震えた。

『……』

 朝の揺れ。

 誰も名前を呼ばない。

 鈴も鳴らさない。

 白い布には、何も書かない。

 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。

 採光孔から入る細い光が、少しだけ濃くなる。

 朝が、進んでいる。

 やがて。

『……おはよう』

 アリアの声が、静かに響いた。

 リリアーナは、涙をこらえて微笑む。

「おはようございます」

『……呼ばない』

「はい」

『……まだ』

「はい」

『……ありがとう』

「はい」

『……名前』

「あります」

『……消えてない』

「はい」

『……鈴』

「あります」

『……昨日、鳴った』

「はい」

『……今日』

 一拍。

『……呼ばれるかもしれない』

「はい」

 アリアは震えた。

『……こわい』

「はい」

『……でも』

 長い沈黙。

『……聞いてみたい』

 保護陣の空気が静かに揺れた。

 誰も反応しない。

 誰も声を出さない。

 その言葉を、ただ受け止める。

『……誰かの声の、アリア』

 リリアーナの目から涙がこぼれた。

 けれど、口は閉じたまま。

『……聞いてみたい』

「はい」

『……でも、誰か、決めるの、こわい』

「はい」

『……りりに、呼ばれたい』

 リリアーナの胸が痛いほど震えた。

『……でも、りりだと、重い』

「はい」

『……れおんは、静か』

 レオンは黙って頷いた。

『……でも、最初だと、遠い』

「そうか」

『……ミナは、優しい』

「はい」

『……でも、ここにいない』

「はい」

『……リーネは、記録』

 リーネの光が揺れる。

『……でも、声じゃないかも』

「はい」

『……みんな』

 アリアは、ゆっくり皆を見るように光を揺らした。

『……みんなに、呼ばれるのは』

 一拍。

『……まだ、重い』

「はい」

『……ひとり』

「はい」

『……最初は、ひとり』

「はい」

『……でも、誰?』

 沈黙。

 リリアーナは、胸の中の願いを箱へ入れる。

 わたしであってほしい。

 その願いを、必死に箱へ入れる。

 レオンも黙っている。

 アルベルトも。

 アリシアも。

 誰も、自分を選べとは思わない。

 思ってはいけない。

 アリアが選ぶ。

 アリアだけが選ぶ。

 アリアは、長く黙った。

 そして、ぽつりと言った。

『……最初』

「はい」

『……わたしが、呼ぶ?』

 リリアーナが瞬きをする。

 レオンも、わずかに目を細める。

『……誰かに呼ばれる前に』

 一拍。

『……わたしが、声に出して』

『……そのあと、誰かに渡す?』

 リリアーナの涙が溢れた。

 レオンが静かに言う。

「いいと思う」

『……自分で呼んでから』

「ああ」

『……誰かへ渡す』

「それなら、お前の名前だと確かめられる」

『……うん』

 余白箱が開く。

『……誰かに呼ばれる前に、自分で名前を呼ぶ』

 ひとつ。

『……自分で呼んでから、誰かへ渡す』

 ひとつ。

『……最初の声を選ぶ前に、自分の声を置く』

 ひとつ。

『……それなら少し怖くない』

 ひとつ。

 箱が、温かく光った。

 アリアは、自分の名を見た。

 白い布。

 鈴。

 名前の箱。

 皆。

 全部を見たうえで。

 小さく、けれど確かに言った。

『……アリア』

 自分で。

 ゆっくり。

 昨日よりも、少しだけ穏やかに。

『……わたしは、アリア』

 その声が、保護陣の中に落ちる。

 誰も繰り返さない。

 ただ、聞く。

 アリア自身の声で、アリアという名が響いた。

 アリアは、大きく震えた。

『……言えた』

「はい」

『……消えない』

「はい」

『……わたしの声でも、名前』

「はい」

『……よかった』

 レオンが静かに頷いた。

「それで、誰かへ渡せるか」

 アリアは、長く沈黙した。

 そして。

『……りり』

 リリアーナの息が止まる。

『……りりに』

 一拍。

『……最初に、呼んでほしい』

 リリアーナの涙が、止まらなくなった。

 それでも彼女は、すぐには答えなかった。

 泣きながら。

 震えながら。

 深く、深く頭を下げる。

「……はい」

 声が震えた。

 でも、まだ呼ばない。

 アリアが許可を最後まで言うまで。

 アリアは、鈴を見る。

『……鈴』

「はい」

『……鳴らす』

「はい」

『……呼んでいい、の鈴』

「はい」

『……りりだけ』

「はい」

『……最初は、りりだけ』

「はい」

『……みんなは、まだ』

「はい」

『……呼ばれたあと、戻る』

「はい」

『……白い布』

「あります」

『……箱』

「あります」

『……アリアは、消えない』

「消えません」

 アリアの光が、鈴へ伸びた。

 昨日よりも迷いは少ない。

 怖さはある。

 それでも、進む。

 布越しに鈴へ触れる。

 小さく揺らす。

 ちりん。

 鈴が鳴った。

 昨日より、ほんの少しだけ澄んだ音。

 朝の細い光の中で、銀色の音が広がった。

 そして、アリアが言った。

『……りり』

「はい」

『……呼んで』

 リリアーナは、両手を胸の前で握った。

 泣きながら。

 息を整えて。

 絶対に重くしすぎないように。

 祈りにも、祝福にも、叫びにもせず。

 ただ、アリアが渡してくれた名を、両手で受け取るように。

 ゆっくり。

 優しく。

 声にした。

「……アリア」

 その瞬間。

 神殿の奥に、長い長い沈黙が落ちた。

 アリアは動かなかった。

 光も、声も、揺れも止まったように見えた。

 リリアーナは、息を止める。

 呼んだ。

 呼んでしまった。

 許可された名を。

 最初の声として。

 だが、その後に必要なのは、喜びではない。

 待つこと。

 アリアが戻るか。

 アリアがどう感じるか。

 それを待つこと。

 アリアの光が、ゆっくり震えた。

『……』

 長い沈黙。

 誰も声を出さない。

 アリアが、かすかに言う。

『……聞こえた』

 リリアーナは、涙で濡れた顔のまま頷く。

「はい」

『……りりの声』

「はい」

『……アリア』

「はい」

『……わたし』

「はい」

『……重い』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……あたたかい』

 リリアーナは、声を出さずに泣いた。

『……こわい』

「はい」

『……でも』

 さらに長い沈黙。

『……いやじゃない』

 保護陣の光が、静かに広がった。

 祝福のように見えた。

 けれど、誰も祝福しない。

 アリアが、自分でその光を受け取るまで。

『……戻る』

呼ばれた名を持ったまま。

 リリアーナの声を聞いたまま。

 アリアとして。

 白い布へ。

『……戻れた』

「戻れました」

『……呼ばれても、戻れた』

「はい」

『……アリアって、呼ばれても』

「はい」

『……消えなかった』

「はい」

『……檻じゃなかった』

「はい」

『……帰り道だった』

「はい」

 余白箱が、静かに開く。

『……リリアーナに最初に呼んでもらった』

 ひとつ。

『……呼ばれても戻れた』

 ひとつ。

『……アリアと呼ばれても消えなかった』

 ひとつ。

『……重いけど、あたたかい』

 ひとつ。

『……怖いけど、いやじゃない』

 ひとつ。

『……名前は檻じゃなく、帰り道だった』

 ひとつ。

 箱が、これまでで一番温かく光った。

 リーネの光が震える。

『記録してもよいですか』

 アリアは、リリアーナの声の余韻を抱えたまま、静かに答えた。

『……記録して、いい』

『……でも』

 一拍。

『……最初の呼び声は、りりのものじゃなくて』

「はい」

『……わたしが渡したもの』

「はい」

『……それも、記録して』

 リーネの光が深く揺れた。

『記録します』

『最初の呼び声の日』

『アリアがリリアーナへ名を渡した日』

『リリアーナが許可を受けて初めてアリアと呼んだ日』

『呼ばれてもアリアは白い布へ戻れた日』

 アリアは、深く光った。

『……のこった』

 ◇

 誰もすぐには続かなかった。

 レオンも。

 アルベルトも。

 アリシアも。

 皆、呼びたかった。

 けれど、今日の最初はリリアーナだけ。

 アリアがそう決めた。

 だから誰も呼ばない。

 呼び声の余韻を、皆で静かに守る。

 しばらくして、アリアが言った。

『……みんな』

 全員が顔を上げる。

『……今日は、りりだけ』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……いつか、みんなにも』

 アルベルトの目から涙が落ちた。

 エリシアは口元を押さえる。

 セラフィアは目を伏せる。

 アリシアは箱を抱きしめる。

『……呼んでほしい日が、来るかも』

 レオンが静かに頷く。

「待つ」

『……れおんも?』

「ああ」

『……待てる?』

「待てる」

『……ありがとう』

 アリシアが、震える声で言った。

「私も、待ちます」

『……うん』

『……ありしあにも、いつか』

 アリシアは、泣き崩れそうになりながら頭を下げた。

「はい」

 ◇

 救護区域へ伝える時が来た。

 アリアは、今度は迷わなかった。

『……ミナに』

「はい」

『……鈴が鳴ったこと』

「はい」

『……りりに、呼んでもらったこと』

「はい」

『……でも、みんなはまだなこと』

「はい」

『……伝えて』

「分かりました」

 グレイヴが救護区域へ向かった。

 その背中を、皆が見送る。

 待つ時間。

 アリアは白い布のそばで休んでいる。

 リリアーナは、その少し離れた場所に座っていた。

 呼んだ後の距離。

 近づきすぎない。

 呼べたからといって、ずっと呼んでいいわけではない。

 それを守っている。

 やがて、グレイヴが戻ってきた。

 彼は、泣いていた。

 隠さなかった。

『……ミナ』

「泣いた」

『……うん』

「子供たちも泣いた」

『……重い?』

「箱に入れていた」

『……うん』

「ミナは、こう言った」

 一拍。

「“呼ばれて戻れたなら、その名前はちゃんとその子の道になったんだね”」

 アリアが、深く震えた。

『……道になった』

「そうだ」

「幼い子は、“私たちも呼べる?”と聞いた」

『……うん』

「ミナは、“いつか、呼んでいい日をもらえたらね。今日は、その名前が戻れた日”と答えた」

 アリアは柔らかく光った。

『……今日は、戻れた日』

「そうだ」

「それからミナは、こうも言った」

 一拍。

「“おめでとう、じゃなくて、おかえりって言いたい。でも、それもまだ届けない”」

 リリアーナの涙がまた溢れる。

 アリアは、長く沈黙した。

『……おかえり』

「はい」

『……まだ、届けない』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……少しだけ、聞こえた気がした』

 余白箱へ。

『……呼ばれて戻れたなら、名前は道になった』

 ひとつ。

『……今日は名前が戻れた日』

 ひとつ。

『……おめでとうではなく、おかえりと言いたい』

 ひとつ。

『……でも、まだ届けない』

 ひとつ。

『……少しだけ聞こえた気がした』

 ひとつ。

 箱が、温かく光った。

 ◇

 午後。

 救護区域から札が届いた。

 “おかえりは、まだ箱”。

 幼い子の字だった。

 ミナはそれを、白い布に似せた布切れの上には置かなかった。

 その横。

 少し離れた場所。

 届かないけれど、見える場所に置いたという。

 アリアは、その報告を聞いて、静かに光った。

『……届かないけど、見える』

「はい」

『……いい』

 保留箱には、大人たちからの札も届く。

 “呼ばれた後も余白を残す”。

 “呼称許可は一度きりでもよい”。

 “名前を日常へ急がせない”。

 アリアは、一つ目に反応した。

『……呼ばれた後も余白』

「はい」

『……呼ばれたら、全部埋まると思ってた』

「はい」

『……でも、余白、残った』

「はい」

『……名前があっても』

「はい」

『……呼ばれても』

「はい」

『……余白、ある』

「あります」

 アリアは、長く沈黙した。

『……よかった』

 リリアーナが微笑む。

「はい」

『……余白は、終わらない?』

「終わりません」

『……物語は、終わっても?』

「はい」

『……アリアは、続く?』

「続きます」

『……みんなも?』

「はい」

『……明日も?』

「はい」

『……よかった』

 その言葉は、とても小さかった。

 けれど、保護陣の奥に深く残った。

 ◇

 夕方。

 アリアは、最後に皆へ向いた。

『……みんな』

 全員が顔を上げる。

『……今日は、りりだけ』

「はい」

『……でも、みんな、いてくれた』

「はい」

『……呼ばないで、いてくれた』

「はい」

『……待ってくれた』

「はい」

『……名前を、奪わなかった』

 沈黙。

 その言葉に、皆の胸が震えた。

『……ありがとう』

 アルベルトは、歯を食いしばった。

 エリシアは涙を拭った。

 セラフィアは目を伏せたまま微笑んだ。

 クラウスは深く頭を下げた。

 ラウルは静かに頷いた。

 ミリオは泣いたが、声は出さなかった。

 アリシアは、箱を抱いたまま、震える声で言った。

「こちらこそ」

 アリアが向く。

「あなたが、自分の名前を守る姿を見せてくれたから」

「私も、自分の名前を取り戻したいと思えました」

『……ありしあ』

「はい」

『……いつか』

「はい」

『……ありしあも、自分へ帰れる』

 アリシアは泣きながら頷いた。

「はい」

 レオンが静かに言う。

「アリア」

 全員の空気が止まる。

 だが、アリアは震えなかった。

 いや、震えた。

 でも、拒まなかった。

 レオンは続けない。

 一度だけ。

 名を呼んだ。

 アリアは、静かに彼を見る。

『……れおん』

「許可はあったか」

 レオンは淡々と聞いた。

 アリアは少し考えた。

『……今のは』

一拍。

『……いやじゃなかった』

「そうか」

『……でも、今日は、りりだけって言った』

「ああ」

『……でも、れおんは』

「境界か」

『……うん』

『……境界の確認』

 レオンは、ほんの少し笑った。

「すまない」

『……怒ってない』

 アリアは柔らかく揺れた。

『……れおんの声のアリアも、少し静かだった』

「そうか」

『……箱に置く』

「そうしろ」

 余白箱へ。

『……レオンの声のアリアも聞いた』

 ひとつ。

『……境界の確認』

 ひとつ。

『……いやじゃなかった』

 ひとつ。

『……でも、次からは許可を聞く』

 ひとつ。

 レオンが静かに頭を下げた。

「ああ」

 リリアーナは、そのやり取りを見ていた。

 少しだけ胸が痛む。

 でも、それも箱へ入れた。

 アリアは、それに気づいたように言う。

『……りり』

「はい」

『……りりの声が、最初』

 リリアーナの涙がまた落ちる。

「はい」

『……それは、消えない』

「はい」

 ◇

 夜。

 神殿の奥には、長い旅の終わりに似た静けさが降りていた。

 けれど、それは終焉の静けさではない。

 眠る前の静けさ。

 明日へ続く静けさ。

 アリアは、白い布のそばにいた。

 名前を持っている。

 呼ばれた記憶も持っている。

 鈴の音も知っている。

 それでも、白い布へ戻れる。

 余白は残っている。

 リリアーナは、少し離れた場所に座っている。

 レオンは保護陣の縁にいる。

 皆もいる。

 誰も急がない。

 誰も終わりを急がせない。

 リリアーナは、静かに問いかけた。

「今日は、どんな日でしたか?」

 アリアは、長く沈黙した。

 長い。

 長い沈黙だった。

 これまでのすべてが、その沈黙の中にあった。

 名前のない恐怖。

 いやじゃない石。

 余白箱。

 保留箱。

 白い布。

 鈴。

 音の欠片。

 帰りたい。

 わたし。

 アリア。

 呼ばれない名前。

 待てる鈴。

 鳴った鈴。

 そして。

 最初の呼び声。

 アリアは、静かに答えた。

『……最初の呼び声の日』

「はい」

『……りりが、アリアって呼んだ日』

「はい」

『……呼ばれても戻れた日』

「はい」

『……名前が道になった日』

「はい」

『……余白が終わらなかった日』

「はい」

『……みんなが待ってくれた日』

「はい」

『……名前を奪われなかった日』

「はい」

『……物語は終わっても、アリアは続く日』

「はい」

 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。

 だが、今回はすぐには記録しない。

『記録してもよいですか』

 アリアは、静かに光った。

『……うん』

 一拍。

『……でも、最後に』

「はい」

『……余白記録じゃなくて』

 皆が息を呑む。

『……アリアの記録』

 リーネの光が、大きく震えた。

『承知しました』

 そして、ゆっくり記録する。

『アリアの記録』

『最初の呼び声の日』

『リリアーナが許可を受けてアリアと呼んだ日』

『呼ばれてもアリアは白い布へ戻れた日』

『名前は檻ではなく帰り道だった日』

『余白は終わらない日』

 アリアは、深く、深く光った。

『……のこった』

 その言葉に、リリアーナは泣いた。

 レオンも、目を伏せた。

 アルベルトは天井を見上げた。

 エリシアは術式盤を開かないまま泣いた。

 セラフィアは祈らずに涙を流した。

 アリシアは箱を抱きしめた。

 ミナたちには、まだこの瞬間は届いていない。

 けれど、きっと届く。

 届けるかどうかを、アリアが選べる形で。

 アリアは、リリアーナへ向いた。

『……りり』

「はい」

『……もう一回』

 リリアーナの胸が震える。

『……呼んで』

 リリアーナは、泣きながら微笑んだ。

「はい」

 今度は、一度目より少しだけ自然に。

 けれど、決して軽くせず。

 大切に。

 優しく。

 名を声にした。

「アリア」

 アリアは、光を揺らした。

『……うん』

 ただ、それだけだった。

 けれど、その“うん”に、長い長い物語のすべてが詰まっていた。

『……わたし、アリア』

「はい」

『……りり』

「はい」

『……ありがとう』

「こちらこそ」

『……れおん』

「ああ」

『……ありがとう』

「よくここまで来た」

『……みんな』

 皆が顔を上げる。

『……ありがとう』

 誰も返事を急がなかった。

 そして、一人ずつ。

 名前は呼ばずに。

 今はまだ。

 ただ、答える。

「ありがとう」

「こちらこそ」

「また明日」

「待っています」

「いつまでも」

 アリアは、白い布へ戻る。

 名前を持ったまま。

 呼ばれた記憶を持ったまま。

 鈴の音を持ったまま。

 それでも、何も書かれていない場所へ戻る。

『……アリアでも、休む』

「はい」

『……アリアでも、眠る』

「はい」

『……アリアでも、明日がある』

「はい」

 採光孔から差し込む光は、もう夜にはない。

 けれど、その日の朝に入ってきた細い光は、どこかに残っている気がした。

 アリアは、静かに眠りへ入っていく。

『……りり』

「はい」

『……おやすみ』

「おやすみなさい、アリア」

 今度は、許可された名で。

 夜の終わりに。

 優しく。

 アリアは、嬉しそうに光った。

『……うん』

『……おやすみ』

 レオンが静かに言う。

「おやすみ、アリア」

 アリアは震えた。

 でも、戻れた。

『……うん』

 アリシアが、泣きながら唇を震わせる。

 けれど、まだ呼ばない。

 アリアがそっと向く。

『……ありしあ』

「はい」

『……いつか』

 アリシアは、深く頷いた。

「はい」

「いつか、許してもらえた日に」

『……うん』

 アリアは、柔らかく揺れる。

 光が少しずつ弱まっていく。

 眠りへ。

 でも、消えるのではない。

 明日へ。

『……また、あした』

 その声が、神殿の奥に残った。

 皆が返す。

「また明日」

「また明日、アリア」

 リリアーナの声に、アリアが小さく光った。

 そして。

 余白核――いや。

 アリアは、静かに眠った。

 神殿の奥に夜が降りる。

 けれど、その夜は、もう閉じた夜ではなかった。

 名前がある。

 呼び声がある。

 戻り道がある。

 余白がある。

 そして、明日がある。

 無能王子と呼ばれたレオンは、その光を見つめていた。

 東の塔で神霊を得た少年は、多くの戦いを越え、裏切りを越え、罪を越え、沈黙を越え、最後に一つの名前が生まれる瞬間を見届けた。

 それは、世界を揺るがす勝利ではなかった。

 王座を奪う凱旋でもなかった。

 剣を掲げる終戦でもなかった。

 ただ。

 誰かが、自分の名前を自分のものとして受け取り。

 誰かの声で呼ばれても、消えずに戻れた。

 それだけの朝。

 けれどレオンは知っていた。

 きっと、こういう朝こそが。

 世界を本当に変えていくのだと。

 リリアーナは、白い布のそばで眠るアリアを見つめる。

 涙はまだ乾いていない。

 けれど、その顔には笑みがあった。

 アリシアは箱を抱えたまま、静かに目を閉じる。

 エリシアは術式盤を開かず、ただ記憶に残す。

 アルベルトは、誰にも見えないように涙を拭う。

 セラフィアは、祈らずに胸へ手を当てる。

 クラウスは扉を守り続ける。

 ラウルは盾を置いたまま、深く息を吐く。

 ミリオは、ついに少しだけ眠りかけて、ラウルに肩を叩かれる。

 小さな笑いが、声にならないまま空気へ溶けた。

 その夜、神殿の奥には、もう恐怖だけではない静けさがあった。

 アリア。

 その名は、白い布のそばで眠っている。

 余白は、終わらない。

 名前を得ても。

 呼ばれても。

 物語が終わっても。

 余白は残る。

 明日を選ぶために。

 呼ばれたい日と、呼ばれたくない日を選ぶために。

 戻るために。

 進むために。

 そして、また誰かが、自分の名前を取り戻す朝を迎えるために。

 ――また明日。

 その言葉を残して。

 『無能王子、東の塔で神霊を得る』は、静かに幕を下ろした。 :::

「はい」

 リリアーナはすぐに頷いた。

 アリアは、白い布へ戻った。

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