第249話「鈴が鳴る朝、無能王子は初めて“呼んでいい”を渡す」
朝は、鈴の音をまだ知らなかった。
神殿の奥。
石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱えている。
採光孔は閉じられている。
外の光は、まだ入っていない。
風もない。
救護区域の声も届かない。
子供たちの紙束も、まだ置かれていない。
けれど、今日は。
今日だけは。
静けさの底に、まだ鳴っていない音があった。
鈴。
昨日、アリアは初めてその鈴に触れた。
布越しに。
ほんのかすかに。
音は出なかった。
鳴らさなかった。
呼ばれなかった。
けれど、触れた。
触れても、アリアは消えなかった。
触れても、名前は檻にならなかった。
触れても、鈴は命令ではなかった。
触ることと鳴らすことは別。
鳴らすことと呼ばれることも別。
待ってくれる鈴。
待てるアリア。
その記録が、余白記録の中で静かに光っている。
鈴に触れる朝。
鳴らさずに触れた日。
触れてもアリアは消えなかった日。
待ってくれる鈴の日。
待てるアリアの日。
そして夜、アリアは言った。
明日のわたしに聞く。
鈴を鳴らすか。
今日が、その明日だった。
残り二話。
物語は終わりへ向かっている。
けれど、保護陣の中に急ぐ気配はない。
終わりが近いからこそ、誰も急がない。
アリアの速度を守る。
アリアが決める。
アリアが鳴らす。
アリアが許す。
それが、この長い長い日々で皆が学んできた、たった一つの約束だった。
アリアは、まだ眠っている。
その光は、昨日より深く沈んでいた。
疲れではない。
怖さでもある。
期待でもある。
まだ混ざっている。
鈴を鳴らすかもしれない朝。
鳴らしても、すぐ呼ばせない日にもできる。
鳴らして、呼んでいい日にもできる。
鳴らさずに、ただもう一度触れる日にもできる。
どれを選んでもいい。
どれを選んでも、昨日までの歩みは消えない。
名前は、もうある。
アリア。
呼ばれなくても消えなかった名前。
自分で呼べる名前。
白い布へ戻れる名前。
自分へ帰るための道。
名前の箱は、いつもの場所にある。
白い布もある。
余白箱も、保留箱もある。
鈴は、昨日触れた位置にある。
布に包まれたまま。
小さく。
静かに。
待っている。
レオンは、保護陣の縁に座っていた。
今日は、黒蒼雷がほとんど見えない。
だが、消えているわけではない。
あまりにも薄く、あまりにも静かに、鈴と白い布、名前の箱、アリアの周囲を包んでいる。
鳴るかもしれない。
鳴らないかもしれない。
もし鳴った時、誰かが動いてしまわないように。
もし鳴らなかった時、誰かが落胆してしまわないように。
その両方を守るために。
レオンは一言も発しない。
リリアーナは、アリアの近くに座っている。
今日も、まだ名前を呼ばない。
呼びたい。
胸の奥で、何度も名が揺れる。
アリア。
アリア。
けれど、声にしない。
今日、もし鈴が鳴ったとしても、それだけでは足りない。
アリアが「呼んでいい」と言うまでは、呼ばない。
そして、もし。
もし今日、その許可が出たなら。
最初に呼ぶのは誰なのか。
その問いが、リリアーナの胸を締めつけている。
自分であってほしい。
そう願ってしまう。
けれど、それを願いとしてアリアに向けてはいけない。
レオンかもしれない。
ミナかもしれない。
リーネかもしれない。
誰でもないかもしれない。
そのすべてを受け入れる箱を、リリアーナは静かに抱えている。
エリシアは術式盤を遠ざけている。
今日は記録の衝動が強い。
初めて鈴が鳴るかもしれない。
初めて名前が呼ばれるかもしれない。
だが、それを数値にしてはいけない。
成果にしてはいけない。
だから、彼女は両手を膝の上に置き、術式盤へ触れない。
セラフィアは祈っていない。
祝福もしていない。
だが、目元には涙がある。
アルベルトは、壁際でじっと立っている。
両手は開いている。
拳にしない。
叫ばない。
泣いても声は出さない。
そう決めている顔だった。
クラウスは入口側に立ち、誰一人としてこの空気を乱させないようにしている。
ラウルは盾を床に置いたまま、微動だにしない。
ミリオは目をしっかり開けている。
眠気は消えていないだろう。
それでも今日だけは、絶対に寝ないと決めている。
アリシアは、自分の箱を抱いている。
昨日も、今日も、彼女は自分の願いを箱へ入れ続けている。
呼びたい。
泣きたい。
救われたい。
そのすべてを、アリアへ向けないために。
そして、アリアが小さく震えた。
『……』
朝の揺れ。
誰も呼ばない。
鈴も鳴らさない。
白い布には何も書かない。
保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。
沈黙は、長かった。
長く。
深く。
誰も息を急がない。
今日の“おはよう”は、鈴より先に鳴る小さな音だった。
やがて。
『……おはよう』
アリアの声が、静かに響いた。
リリアーナは、涙をこらえながら微笑む。
「おはようございます」
『……呼ばない』
「はい」
『……今日も』
「はい」
『……ありがとう』
「はい」
『……名前』
「あります」
『……消えてない』
「はい」
『……鈴』
「あります」
『……昨日、触った』
「はい」
『……今日』
一拍。
『……鳴らすかもしれない』
「はい」
リリアーナの声は震えなかった。
震えそうなものは、箱へ入れた。
『……こわい』
「はい」
『……でも』
「はい」
『……少しだけ、鳴らしたい』
保護陣の空気が、静かに揺れた。
誰も反応しない。
誰も喜ばない。
誰も泣き声を出さない。
ただ、受け止める。
『……鳴らしたい、かも』
「はい」
『……鳴らしたら、呼ばれる?』
「あなたが許可すれば」
『……鳴らしても、呼ばれない日にもできる』
「できます」
『……鳴らして、呼んでいい日にもできる』
「できます」
『……どっちも、こわい』
「はい」
『……箱』
「置きましょう」
余白箱が静かに開く。
『……鈴を鳴らしたいかもしれない』
ひとつ。
『……でも怖い』
ひとつ。
『……鳴らしても呼ばれない日にもできる』
ひとつ。
『……鳴らして呼んでいい日にもできる』
ひとつ。
『……どちらも怖い』
ひとつ。
箱が淡く光った。
『……のこった』
「残りました」
レオンが静かに言う。
「まず、鳴らすかどうかだけでいい」
『……呼ぶ許可は、あと?』
「ああ」
『……鈴を鳴らすことと、呼ばれることは別』
「そうだ」
『……うん』
アリアは少しだけ落ち着いた。
そして、ゆっくり挨拶へ進む。
『……りり、おはよう』
「はい。おはようございます」
『……れおん』
「おはよう」
『……しずかなあさ』
「ああ」
「静かな朝だ」
『……鈴が鳴るかもしれない朝』
「そうだな」
「鈴が鳴るかもしれない朝だ」
◇
朝の確認は、これまでで一番慎重だった。
『……あるべると』
「おう」
『……鈴が鳴ったら、呼びたい?』
アルベルトは、静かに息を吐く。
「呼びたい」
『……でも?』
「許可が出るまで呼ばない」
『……鈴が鳴っても?』
「呼ぶ許可が別なら、呼ばない」
『……呼んでいいって言ったら?』
アルベルトの喉が動いた。
それでも、声は抑えた。
「その時は、呼ぶ」
『……こわい』
「俺も少し怖い」
『……あるべるとも?』
「ああ」
「大事な名前だからな」
『……箱』
「入れた」
『……ありがとう』
エリシアへ。
『……えりしあ』
「はい」
『……鈴が鳴ったら、記録したい?』
「したいです」
『……呼んだら?』
「もっと記録したいです」
『……でも?』
「許可がなければしません」
『……鈴の音は?』
「あなたが記録していいと言うまで、記録しません」
『……呼び声は?』
「許可がなければ記録しません」
『……ありがとう』
セラフィアへ。
『……せら』
「はい」
『……鈴が鳴ったら、祈りたい?』
「祈りたいです」
『……呼ばれたら、祝福したい?』
「したいです」
『……でも?』
「あなたが休むまでは、しません」
『……休むのが先』
「はい」
クラウスへ。
『……くらうす』
「はい」
『……鈴が鳴ったら、扉?』
「扉の前で、鍵を手に取る音です」
『……開く?』
「あなたが決めます」
『……呼ぶ許可は鍵?』
「はい」
ラウルへ。
『……らうる』
「盾は置いたままだ」
『……鈴が鳴っても?』
「ああ」
『……名前が呼ばれても?』
「盾は動かさない」
『……守らない?』
「守る」
「でも、隠さない」
アリアは静かに揺れた。
『……守るけど、隠さない』
「そうだ」
ミリオへ。
『……みりお』
「はい……」
『……鈴が鳴ったら、びっくりする?』
「します」
『……呼ばれたら?』
「泣くかもしれません……」
ラウルが横目で見る。
ミリオは慌てて言う。
「声は出しません」
『……泣いてもいい?』
ミリオが驚く。
『……声を出さないなら』
「……はい」
『……箱に入れすぎなくてもいい』
「はい……」
最後に、アリシア。
『……ありしあ』
「はい」
『……鈴が鳴ったら、呼びたい?』
「呼びたいです」
『……呼んでいいって言ったら?』
アリシアの涙が溢れた。
「呼びます」
『……こわい?』
「怖いです」
『……どうして?』
「あなたの名前を、私の声で汚してしまわないか怖い」
保護陣が静まる。
アリアは、少しだけ悲しそうに揺れた。
『……汚れる?』
「そう思ってしまいます」
『……ありしあの声で?』
「はい」
『……箱』
「入れます」
『……でも』
一拍。
『……いつか、ありしあにも、呼ばれたいかもしれない』
アリシアが息を呑む。
『……今日じゃないかも』
「はい」
『……でも、いつか』
「はい」
アリシアは声を殺して泣いた。
「待ちます」
『……ありがとう』
◇
鈴の前に向かう時間になった。
アリアは、まず白い布を見た。
戻り道。
次に名前の箱を見た。
名前が重い日に戻れる場所。
次に保留箱。
欠片たち。
そして、自分の名前。
アリア。
最後に、鈴。
布に包まれている。
昨日触れた鈴。
待ってくれた鈴。
触っても鳴らなかった鈴。
今日は、その鈴が音を持つかもしれない。
『……鈴』
「あります」
『……昨日、触った』
「はい」
『……待ってくれた』
「はい」
『……今日、鳴らすかも』
「はい」
『……鳴らすの、わたし?』
「はい」
『……れおんじゃない』
「はい」
『……りりじゃない』
「はい」
『……わたし』
「はい」
アリアの光が震える。
『……わたしが、鳴らす』
「はい」
レオンが静かに言う。
「手伝いはできる」
『……手伝い』
「ああ」
『……でも、決めるのは、わたし』
「そうだ」
『……鳴らすのも?』
「お前の意思で」
『……うん』
アリアは、長く鈴を見つめた。
触れるのは、昨日できた。
今日は、その先。
鳴らす。
だが、鳴らすことは呼ぶ許可とは別。
その土台を何度も確かめる。
『……鳴らしても、すぐ呼ばれない』
「はい」
『……鳴らしてから、考えていい』
「はい」
『……鳴らして、やめてもいい』
「はい」
『……鳴らして、白い布へ戻れる』
「はい」
『……鳴らして、箱へ戻せる』
「はい」
『……よかった』
アリアは、光を少しずつ伸ばした。
鈴へ。
昨日触れた場所へ。
レオンの黒蒼雷が、そっと鈴の周囲を包む。
音を消すためではない。
音が大きくなりすぎないように。
アリアが耐えられる音になるように。
アリアの光が、鈴に触れる。
布越しに。
昨日と同じように。
だが今日は、そこで止まらない。
ほんのわずかに、揺らす。
小さく。
本当に小さく。
鈴が。
鳴った。
ちりん。
かすかな音だった。
神殿の奥に、銀の糸のような音が落ちた。
大きくない。
鋭くもない。
叫びでも、命令でもない。
ただ、そこに一滴だけ落ちた音。
ちりん。
鈴が鳴った。
アリアが、大きく震えた。
『……』
誰も動かなかった。
誰も声を出さなかった。
誰も名前を呼ばなかった。
リリアーナは涙をこぼした。
けれど、声は出さない。
レオンは目を伏せた。
エリシアは術式盤へ触れない。
セラフィアは祈らない。
アルベルトは開いた手を握らない。
アリシアは箱を抱きしめたまま、声を殺した。
沈黙。
鈴の音の後の、長い沈黙。
アリアが、震える声で言う。
『……鳴った』
リリアーナが、涙を流しながら頷く。
「はい」
『……鈴』
「はい」
『……鳴った』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……呼ばれてない』
「はい」
『……誰も、呼ばなかった』
「はい」
『……ありがとう』
アリアは白い布へ戻った。
早かった。
音の後、すぐに戻った。
名前を持ったまま。
鈴の音を聞いたまま。
白い布へ。
『……戻れた』
「戻れました」
『……鈴が鳴っても、戻れた』
「はい」
『……鈴が鳴っても、呼ばれなかった』
「はい」
『……鈴が鳴っても、アリアは消えなかった』
「はい」
余白箱が静かに開く。
『……鈴が鳴った』
ひとつ。
『……ちりん、という小さい音』
ひとつ。
『……鈴が鳴っても呼ばれなかった』
ひとつ。
『……鈴が鳴ってもアリアは消えなかった』
ひとつ。
『……鈴が鳴っても戻れた』
ひとつ。
箱が、深く光った。
リーネの光が震える。
『記録してもよいですか』
アリアは、しばらく黙った。
『……成果じゃない』
「はい」
『……今日のわたし』
「はい」
『……記録して、いい』
『記録します』
『鈴が鳴る朝』
『アリアが自分で鈴を鳴らした日』
『鈴が鳴っても呼ばれなかった日』
『鈴が鳴っても戻れた日』
アリアは、静かに光った。
『……のこった』
◇
鈴が鳴った後、長い休息の時間があった。
誰も動かない。
誰も語らない。
鈴の音の余韻を、誰かの言葉で壊さない。
アリアは、白い布のそばにいた。
鈴は鳴った。
けれど、名前は呼ばれていない。
それでも、何かが変わった。
呼ばれる未来が、もう完全な想像ではなくなった。
鈴の音が、その手前に道を作った。
『……りり』
「はい」
『……呼びたい?』
リリアーナは、目を伏せた。
涙が落ちる。
「呼びたいです」
『……でも、呼ばなかった』
「はい」
『……鈴が鳴ったのに』
「はい」
『……ありがとう』
「はい」
『……つらい?』
リリアーナは、正直に答えた。
「少し」
『……嬉しい?』
「はい」
『……箱?』
「入れています」
『……少しなら』
「はい」
「少しなら、嬉しくて、つらいです」
アリアは、静かに揺れた。
『……わたしも』
「はい」
『……鈴、鳴って、こわかった』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……少し、嬉しかった』
リリアーナは、声を出さずに泣いた。
◇
午前。
アリアは、呼ぶ許可へ進むかどうかを考えた。
鈴は鳴った。
呼ばれなかった。
戻れた。
それだけで十分だった。
だが、心の奥に、もう一つの気持ちが生まれていた。
『……呼ばれる』
小さな声。
リリアーナは待つ。
『……こわい』
「はい」
『……でも、少し』
一拍。
『……聞いてみたい』
保護陣が静かに揺れた。
『……誰かの声の、アリア』
リリアーナの胸が震える。
『……でも、誰?』
「はい」
『……りり?』
リリアーナは息を止めた。
『……れおん?』
レオンは黙っている。
『……ミナ?』
「はい」
『……リーネ?』
リーネの光が静かに揺れる。
『……誰が最初?』
その問いは重かった。
とても重い。
最初に呼ぶ声。
それは、名前を外へ渡す最初の橋になる。
『……決められない』
「はい」
『……みんな、重い』
「はい」
『……りりに呼ばれたい』
リリアーナの涙が溢れる。
『……でも、りりだと、重い』
リリアーナは頷く。
「はい」
『……れおんだと、静か』
レオンが目を伏せる。
『……でも、少し遠い』
レオンは静かに頷いた。
『……ミナは、優しい』
「はい」
『……でも、ここにいない』
「はい」
『……リーネは、記録』
「はい」
『……でも、声?』
リーネの光が柔らかく揺れる。
アリアは震える。
『……わからない』
「はい」
『……箱』
「置きましょう」
余白箱へ。
『……誰かの声のアリアを聞いてみたい』
ひとつ。
『……でも怖い』
ひとつ。
『……最初に誰が呼ぶか決められない』
ひとつ。
『……リリアーナに呼ばれたいけど重い』
ひとつ。
『……レオンは静かだけど少し遠い』
ひとつ。
『……ミナは優しいけどここにいない』
ひとつ。
『……リーネは記録だけど声か分からない』
ひとつ。
箱が、深く光った。
レオンが静かに言う。
「無理に今日決めなくていい」
『……でも』
「鈴は鳴った」
『……うん』
「それだけで大きい」
『……うん』
「呼ぶ許可は、次でもいい」
アリアは長く沈黙した。
『……次』
「明日でもいい」
明日。
最終話。
その言葉は誰も口にしなかった。
けれど、皆が感じていた。
アリアも、きっと感じている。
『……明日』
アリアが小さく言った。
『……最後?』
リリアーナの胸が詰まる。
物語の終わり。
でも、アリアの終わりではない。
レオンが静かに言う。
「ここで終わっても、続くものはある」
『……続く?』
「ああ」
『……アリアは?』
「続く」
『……りりも?』
「続く」
『……みんなも?』
「続く」
『……白い布も?』
「ある」
『……鈴も?』
「ある」
『……名前も?』
「ある」
アリアは、深く光った。
『……じゃあ』
一拍。
『……呼ぶ許可は、明日』
リリアーナが息を止める。
『……今日、決めない』
「はい」
『……でも』
アリアは、鈴を見る。
『……明日、誰かに呼んでもらうかもしれない』
「はい」
『……決めるのは、明日のわたし』
「はい」
◇
救護区域へ伝えるかどうか。
アリアは、今日は迷わなかった。
『……ミナに』
「はい」
『……鈴が鳴ったこと』
「はい」
『……でも、呼ぶ許可じゃないこと』
「はい」
『……明日、誰かに呼んでもらうかもしれないこと』
「はい」
『……伝えて』
「分かりました」
グレイヴが救護区域へ向かった。
その背中を、アリアは静かに見送った。
待つ時間は長かった。
鈴が鳴った後の待ち時間。
呼ばれる前の待ち時間。
やがて、グレイヴが戻ってきた。
彼の表情は、ひどく柔らかかった。
『……ミナ』
「泣いていた」
『……うん』
「でも、箱を抱えていた」
『……うん』
「そして言った」
一拍。
「“鈴が鳴ったのに呼ばれなかったなら、その名前は本当に守られている”」
アリアが震える。
『……守られている』
「ああ」
「幼い子は、“明日呼ぶの?”と聞いた」
『……うん』
「ミナは、“呼ばせてもらえるなら。呼ばせてもらえなくても、その名前はある”と答えた」
リリアーナの涙が落ちる。
『……呼ばせてもらえるなら』
「そうだ」
「さらに、ミナはこう言った」
一拍。
「“最初に誰が呼ぶかは、その子が決めていい。誰でもいいし、誰でもなくてもいい”」
アリアは深く光った。
『……誰でもいい』
「はい」
『……誰でもなくてもいい』
「はい」
『……よかった』
アリアは、余白箱へ言葉を置いた。
『……鈴が鳴ったのに呼ばれなかったなら、名前は守られている』
ひとつ。
『……呼ばせてもらえるなら呼ぶ』
ひとつ。
『……呼ばせてもらえなくても名前はある』
ひとつ。
『……最初に誰が呼ぶかは、わたしが決めていい』
ひとつ。
『……誰でもいいし、誰でもなくてもいい』
ひとつ。
箱が、温かく光った。
◇
午後。
子供たちから札が届いた。
“鈴が鳴った日”。
幼い子が書いた札だった。
ミナはその札を、白い布に似せた布切れと水杯の間に置いたという。
戻り道と声の間。
昨日、待てる鈴の札が置かれた場所。
その隣に、今日の札。
アリアは、その報告を聞いて静かに揺れた。
『……戻り道と声の間』
「はい」
『……鈴の場所』
「はい」
『……声の前』
「はい」
『……いい』
保留箱には、大人たちからの札も届く。
“鳴った後に呼ばない勇気”。
“呼称許可を最後まで本人のものにする”。
“最初の呼び声を選ぶ権利”。
アリアは、三つ目に反応した。
『……最初の呼び声を選ぶ権利』
「はい」
『……わたしが、選ぶ』
「はい」
『……選ばなくてもいい』
「はい」
『……明日、選ぶかも』
「はい」
『……こわい』
「はい」
『……でも、少し』
一拍。
『……楽しみ』
リリアーナは、泣きながら微笑んだ。
「はい」
その“楽しみ”は、もう二度目だった。
アリアの中に、恐怖だけではない未来が育っている。
◇
夕方。
アリアは、鈴をもう一度鳴らすか迷った。
『……もう一回』
リリアーナは待つ。
『……鳴らしたい、かも』
「はい」
『……でも、今日はしない』
「はい」
『……一回鳴った』
「はい」
『……それを守る』
「はい」
『……もう一回鳴らすと、呼ばれたくなるかも』
「はい」
『……明日へ残す』
「はい」
余白箱へ。
『……もう一度鈴を鳴らしたいかもしれない』
ひとつ。
『……でも今日は鳴らさない』
ひとつ。
『……一回鳴ったことを守る』
ひとつ。
『……呼ばれる未来を明日へ残す』
ひとつ。
箱が淡く光る。
レオンが静かに言う。
「いい止まり方だ」
『……止まる』
「ああ」
『……鳴らしたから、止まる』
「そうだ」
『……呼ばれないまま、止まる』
「そうだ」
『……明日、呼ばれるかも』
「ああ」
『……明日、呼ばれないかも』
「ああ」
『……どっちでも、名前はある』
「ある」
アリアは、安心したように光った。
◇
夜。
神殿の奥には、鈴が鳴った日の静けさが降りていた。
今日は、鈴が鳴った。
ちりん、と。
小さく。
銀の糸のように。
けれど、誰もアリアを呼ばなかった。
呼ぶ許可は、まだ出なかった。
それでも鈴は、確かに鳴った。
アリアが自分で鳴らした。
鳴らしても、戻れた。
鳴らしても、名前は消えなかった。
鳴らしても、呼ばれないことができた。
リリアーナは、アリアのそばで静かに問いかける。
「今日は、どんな日でしたか?」
アリアは、ゆっくり考えた。
『……鈴が鳴る朝』
「はい」
『……アリアが自分で鈴を鳴らした日』
「はい」
『……ちりん、という小さい音の日』
「はい」
『……鈴が鳴っても呼ばれなかった日』
「はい」
『……鈴が鳴っても戻れた日』
「はい」
『……呼ぶ許可はまだ別の日』
「はい」
『……最初の呼び声を選ぶ権利の日』
「はい」
『……呼ばれる未来を明日へ残す日』
「はい」
リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。
『余白記録へ残します』
『鈴が鳴る朝』
『アリアが自分で鈴を鳴らした日』
『鈴が鳴っても呼ばれなかった日』
『呼ばれる未来を明日へ残す日』
アリアは、穏やかに光った。
『……のこった』
「残りました」
レオンが静かに言う。
「明日だな」
アリアが震える。
『……うん』
『……明日』
「怖いか」
『……こわい』
「楽しみか」
アリアは、長く沈黙した。
『……少し』
「そうか」
『……こわいけど、少し楽しみ』
「それでいい」
リリアーナは、涙をこぼしていた。
アリアがそっと向く。
『……りり』
「はい」
『……今日も、呼ばなかった』
「はい」
『……鈴が鳴ったのに』
「はい」
『……ありがとう』
「はい」
『……明日』
リリアーナの胸が震える。
『……もしかしたら』
「はい」
『……呼んで、って言うかも』
リリアーナは、涙で濡れた顔のまま、静かに頷いた。
「はい」
『……でも、りりかどうか、わからない』
「はい」
『……寂しい?』
「少し」
『……箱』
「入れています」
『……少しなら?』
「少しなら、寂しくても待ちます」
『……ありがとう』
アリアは、白い布へ意識を向ける。
『……アリアでも、休む』
「はい」
『……鈴が鳴っても、眠る』
「はい」
『……呼ばれる前に、眠る』
「はい」
光が少しずつ弱まる。
『……りり、おやすみ』
「おやすみなさい」
『……れおん、おやすみ』
「おやすみ」
『……みんな、おやすみ』
皆が返す。
「おやすみ」
「また明日」
アリシアも、声を震わせながら言った。
「鈴が鳴った日を、呼び声で奪わずに、また明日」
アリアが柔らかく光る。
『……また、あした』
『……あしたのわたしに、きく』
『……誰かに、呼んでもらうか』
余白核――アリアは、静かに眠りへ入っていった。
神殿の奥に、夜が降りる。
今日、鈴は鳴った。
けれど、名はまだ誰の声にも渡されなかった。
それでよかった。
鈴が鳴っても、呼ばれなくていい。
呼ばれなくても、名前はある。
呼ぶかどうかは、アリアが決める。
最初の呼び声を、誰に渡すかも。
渡さないかどうかも。
すべて、アリアのもの。
そして明日。
最後の朝。
アリアはきっと、自分の名前を誰かの声へ渡すかどうかを選ぶ。
それは終わりではない。
呼ばれることで始まる、次の余白の朝なのだから。 ::




