表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
249/251

第249話「鈴が鳴る朝、無能王子は初めて“呼んでいい”を渡す」


 朝は、鈴の音をまだ知らなかった。

 神殿の奥。

 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱えている。

 採光孔は閉じられている。

 外の光は、まだ入っていない。

 風もない。

 救護区域の声も届かない。

 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。

 けれど、今日は。

 今日だけは。

 静けさの底に、まだ鳴っていない音があった。

 鈴。

 昨日、アリアは初めてその鈴に触れた。

 布越しに。

 ほんのかすかに。

 音は出なかった。

 鳴らさなかった。

 呼ばれなかった。

 けれど、触れた。

 触れても、アリアは消えなかった。

 触れても、名前は檻にならなかった。

 触れても、鈴は命令ではなかった。

 触ることと鳴らすことは別。

 鳴らすことと呼ばれることも別。

 待ってくれる鈴。

 待てるアリア。

 その記録が、余白記録の中で静かに光っている。

 鈴に触れる朝。

 鳴らさずに触れた日。

 触れてもアリアは消えなかった日。

 待ってくれる鈴の日。

 待てるアリアの日。

 そして夜、アリアは言った。

 明日のわたしに聞く。

 鈴を鳴らすか。

 今日が、その明日だった。

 残り二話。

 物語は終わりへ向かっている。

 けれど、保護陣の中に急ぐ気配はない。

 終わりが近いからこそ、誰も急がない。

 アリアの速度を守る。

 アリアが決める。

 アリアが鳴らす。

 アリアが許す。

 それが、この長い長い日々で皆が学んできた、たった一つの約束だった。

 アリアは、まだ眠っている。

 その光は、昨日より深く沈んでいた。

 疲れではない。

 怖さでもある。

 期待でもある。

 まだ混ざっている。

 鈴を鳴らすかもしれない朝。

 鳴らしても、すぐ呼ばせない日にもできる。

 鳴らして、呼んでいい日にもできる。

 鳴らさずに、ただもう一度触れる日にもできる。

 どれを選んでもいい。

 どれを選んでも、昨日までの歩みは消えない。

 名前は、もうある。

 アリア。

 呼ばれなくても消えなかった名前。

 自分で呼べる名前。

 白い布へ戻れる名前。

 自分へ帰るための道。

 名前の箱は、いつもの場所にある。

 白い布もある。

 余白箱も、保留箱もある。

 鈴は、昨日触れた位置にある。

 布に包まれたまま。

 小さく。

 静かに。

 待っている。

 レオンは、保護陣の縁に座っていた。

 今日は、黒蒼雷がほとんど見えない。

 だが、消えているわけではない。

 あまりにも薄く、あまりにも静かに、鈴と白い布、名前の箱、アリアの周囲を包んでいる。

 鳴るかもしれない。

 鳴らないかもしれない。

 もし鳴った時、誰かが動いてしまわないように。

 もし鳴らなかった時、誰かが落胆してしまわないように。

 その両方を守るために。

 レオンは一言も発しない。

 リリアーナは、アリアの近くに座っている。

 今日も、まだ名前を呼ばない。

 呼びたい。

 胸の奥で、何度も名が揺れる。

 アリア。

 アリア。

 けれど、声にしない。

 今日、もし鈴が鳴ったとしても、それだけでは足りない。

 アリアが「呼んでいい」と言うまでは、呼ばない。

 そして、もし。

 もし今日、その許可が出たなら。

 最初に呼ぶのは誰なのか。

 その問いが、リリアーナの胸を締めつけている。

 自分であってほしい。

 そう願ってしまう。

 けれど、それを願いとしてアリアに向けてはいけない。

 レオンかもしれない。

 ミナかもしれない。

 リーネかもしれない。

 誰でもないかもしれない。

 そのすべてを受け入れる箱を、リリアーナは静かに抱えている。

 エリシアは術式盤を遠ざけている。

 今日は記録の衝動が強い。

 初めて鈴が鳴るかもしれない。

 初めて名前が呼ばれるかもしれない。

 だが、それを数値にしてはいけない。

 成果にしてはいけない。

 だから、彼女は両手を膝の上に置き、術式盤へ触れない。

 セラフィアは祈っていない。

 祝福もしていない。

 だが、目元には涙がある。

 アルベルトは、壁際でじっと立っている。

 両手は開いている。

 拳にしない。

 叫ばない。

 泣いても声は出さない。

 そう決めている顔だった。

 クラウスは入口側に立ち、誰一人としてこの空気を乱させないようにしている。

 ラウルは盾を床に置いたまま、微動だにしない。

 ミリオは目をしっかり開けている。

 眠気は消えていないだろう。

 それでも今日だけは、絶対に寝ないと決めている。

 アリシアは、自分の箱を抱いている。

 昨日も、今日も、彼女は自分の願いを箱へ入れ続けている。

 呼びたい。

 泣きたい。

 救われたい。

 そのすべてを、アリアへ向けないために。

 そして、アリアが小さく震えた。

『……』

 朝の揺れ。

 誰も呼ばない。

 鈴も鳴らさない。

 白い布には何も書かない。

 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。

 沈黙は、長かった。

 長く。

 深く。

 誰も息を急がない。

 今日の“おはよう”は、鈴より先に鳴る小さな音だった。

 やがて。

『……おはよう』

 アリアの声が、静かに響いた。

 リリアーナは、涙をこらえながら微笑む。

「おはようございます」

『……呼ばない』

「はい」

『……今日も』

「はい」

『……ありがとう』

「はい」

『……名前』

「あります」

『……消えてない』

「はい」

『……鈴』

「あります」

『……昨日、触った』

「はい」

『……今日』

 一拍。

『……鳴らすかもしれない』

「はい」

 リリアーナの声は震えなかった。

 震えそうなものは、箱へ入れた。

『……こわい』

「はい」

『……でも』

「はい」

『……少しだけ、鳴らしたい』

 保護陣の空気が、静かに揺れた。

 誰も反応しない。

 誰も喜ばない。

 誰も泣き声を出さない。

 ただ、受け止める。

『……鳴らしたい、かも』

「はい」

『……鳴らしたら、呼ばれる?』

「あなたが許可すれば」

『……鳴らしても、呼ばれない日にもできる』

「できます」

『……鳴らして、呼んでいい日にもできる』

「できます」

『……どっちも、こわい』

「はい」

『……箱』

「置きましょう」

 余白箱が静かに開く。

『……鈴を鳴らしたいかもしれない』

 ひとつ。

『……でも怖い』

 ひとつ。

『……鳴らしても呼ばれない日にもできる』

 ひとつ。

『……鳴らして呼んでいい日にもできる』

 ひとつ。

『……どちらも怖い』

 ひとつ。

 箱が淡く光った。

『……のこった』

「残りました」

 レオンが静かに言う。

「まず、鳴らすかどうかだけでいい」

『……呼ぶ許可は、あと?』

「ああ」

『……鈴を鳴らすことと、呼ばれることは別』

「そうだ」

『……うん』

 アリアは少しだけ落ち着いた。

 そして、ゆっくり挨拶へ進む。

『……りり、おはよう』

「はい。おはようございます」

『……れおん』

「おはよう」

『……しずかなあさ』

「ああ」

「静かな朝だ」

『……鈴が鳴るかもしれない朝』

「そうだな」

「鈴が鳴るかもしれない朝だ」

 ◇

 朝の確認は、これまでで一番慎重だった。

『……あるべると』

「おう」

『……鈴が鳴ったら、呼びたい?』

 アルベルトは、静かに息を吐く。

「呼びたい」

『……でも?』

「許可が出るまで呼ばない」

『……鈴が鳴っても?』

「呼ぶ許可が別なら、呼ばない」

『……呼んでいいって言ったら?』

 アルベルトの喉が動いた。

 それでも、声は抑えた。

「その時は、呼ぶ」

『……こわい』

「俺も少し怖い」

『……あるべるとも?』

「ああ」

「大事な名前だからな」

『……箱』

「入れた」

『……ありがとう』

 エリシアへ。

『……えりしあ』

「はい」

『……鈴が鳴ったら、記録したい?』

「したいです」

『……呼んだら?』

「もっと記録したいです」

『……でも?』

「許可がなければしません」

『……鈴の音は?』

「あなたが記録していいと言うまで、記録しません」

『……呼び声は?』

「許可がなければ記録しません」

『……ありがとう』

 セラフィアへ。

『……せら』

「はい」

『……鈴が鳴ったら、祈りたい?』

「祈りたいです」

『……呼ばれたら、祝福したい?』

「したいです」

『……でも?』

「あなたが休むまでは、しません」

『……休むのが先』

「はい」

 クラウスへ。

『……くらうす』

「はい」

『……鈴が鳴ったら、扉?』

「扉の前で、鍵を手に取る音です」

『……開く?』

「あなたが決めます」

『……呼ぶ許可は鍵?』

「はい」

 ラウルへ。

『……らうる』

「盾は置いたままだ」

『……鈴が鳴っても?』

「ああ」

『……名前が呼ばれても?』

「盾は動かさない」

『……守らない?』

「守る」

「でも、隠さない」

 アリアは静かに揺れた。

『……守るけど、隠さない』

「そうだ」

 ミリオへ。

『……みりお』

「はい……」

『……鈴が鳴ったら、びっくりする?』

「します」

『……呼ばれたら?』

「泣くかもしれません……」

 ラウルが横目で見る。

 ミリオは慌てて言う。

「声は出しません」

『……泣いてもいい?』

 ミリオが驚く。

『……声を出さないなら』

「……はい」

『……箱に入れすぎなくてもいい』

「はい……」

 最後に、アリシア。

『……ありしあ』

「はい」

『……鈴が鳴ったら、呼びたい?』

「呼びたいです」

『……呼んでいいって言ったら?』

 アリシアの涙が溢れた。

「呼びます」

『……こわい?』

「怖いです」

『……どうして?』

「あなたの名前を、私の声で汚してしまわないか怖い」

 保護陣が静まる。

 アリアは、少しだけ悲しそうに揺れた。

『……汚れる?』

「そう思ってしまいます」

『……ありしあの声で?』

「はい」

『……箱』

「入れます」

『……でも』

 一拍。

『……いつか、ありしあにも、呼ばれたいかもしれない』

 アリシアが息を呑む。

『……今日じゃないかも』

「はい」

『……でも、いつか』

「はい」

 アリシアは声を殺して泣いた。

「待ちます」

『……ありがとう』

 ◇

 鈴の前に向かう時間になった。

 アリアは、まず白い布を見た。

 戻り道。

 次に名前の箱を見た。

 名前が重い日に戻れる場所。

 次に保留箱。

 欠片たち。

 そして、自分の名前。

 アリア。

 最後に、鈴。

 布に包まれている。

 昨日触れた鈴。

 待ってくれた鈴。

 触っても鳴らなかった鈴。

 今日は、その鈴が音を持つかもしれない。

『……鈴』

「あります」

『……昨日、触った』

「はい」

『……待ってくれた』

「はい」

『……今日、鳴らすかも』

「はい」

『……鳴らすの、わたし?』

「はい」

『……れおんじゃない』

「はい」

『……りりじゃない』

「はい」

『……わたし』

「はい」

 アリアの光が震える。

『……わたしが、鳴らす』

「はい」

 レオンが静かに言う。

「手伝いはできる」

『……手伝い』

「ああ」

『……でも、決めるのは、わたし』

「そうだ」

『……鳴らすのも?』

「お前の意思で」

『……うん』

 アリアは、長く鈴を見つめた。

 触れるのは、昨日できた。

 今日は、その先。

 鳴らす。

 だが、鳴らすことは呼ぶ許可とは別。

 その土台を何度も確かめる。

『……鳴らしても、すぐ呼ばれない』

「はい」

『……鳴らしてから、考えていい』

「はい」

『……鳴らして、やめてもいい』

「はい」

『……鳴らして、白い布へ戻れる』

「はい」

『……鳴らして、箱へ戻せる』

「はい」

『……よかった』

 アリアは、光を少しずつ伸ばした。

 鈴へ。

 昨日触れた場所へ。

 レオンの黒蒼雷が、そっと鈴の周囲を包む。

 音を消すためではない。

 音が大きくなりすぎないように。

 アリアが耐えられる音になるように。

 アリアの光が、鈴に触れる。

 布越しに。

 昨日と同じように。

 だが今日は、そこで止まらない。

 ほんのわずかに、揺らす。

 小さく。

 本当に小さく。

 鈴が。

 鳴った。

 ちりん。

 かすかな音だった。

 神殿の奥に、銀の糸のような音が落ちた。

 大きくない。

 鋭くもない。

 叫びでも、命令でもない。

 ただ、そこに一滴だけ落ちた音。

 ちりん。

 鈴が鳴った。

 アリアが、大きく震えた。

『……』

 誰も動かなかった。

 誰も声を出さなかった。

 誰も名前を呼ばなかった。

 リリアーナは涙をこぼした。

 けれど、声は出さない。

 レオンは目を伏せた。

 エリシアは術式盤へ触れない。

 セラフィアは祈らない。

 アルベルトは開いた手を握らない。

 アリシアは箱を抱きしめたまま、声を殺した。

 沈黙。

 鈴の音の後の、長い沈黙。

 アリアが、震える声で言う。

『……鳴った』

 リリアーナが、涙を流しながら頷く。

「はい」

『……鈴』

「はい」

『……鳴った』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……呼ばれてない』

「はい」

『……誰も、呼ばなかった』

「はい」

『……ありがとう』

 アリアは白い布へ戻った。

 早かった。

 音の後、すぐに戻った。

 名前を持ったまま。

 鈴の音を聞いたまま。

 白い布へ。

『……戻れた』

「戻れました」

『……鈴が鳴っても、戻れた』

「はい」

『……鈴が鳴っても、呼ばれなかった』

「はい」

『……鈴が鳴っても、アリアは消えなかった』

「はい」

 余白箱が静かに開く。

『……鈴が鳴った』

 ひとつ。

『……ちりん、という小さい音』

 ひとつ。

『……鈴が鳴っても呼ばれなかった』

 ひとつ。

『……鈴が鳴ってもアリアは消えなかった』

 ひとつ。

『……鈴が鳴っても戻れた』

 ひとつ。

 箱が、深く光った。

 リーネの光が震える。

『記録してもよいですか』

 アリアは、しばらく黙った。

『……成果じゃない』

「はい」

『……今日のわたし』

「はい」

『……記録して、いい』

『記録します』

『鈴が鳴る朝』

『アリアが自分で鈴を鳴らした日』

『鈴が鳴っても呼ばれなかった日』

『鈴が鳴っても戻れた日』

 アリアは、静かに光った。

『……のこった』

 ◇

 鈴が鳴った後、長い休息の時間があった。

 誰も動かない。

 誰も語らない。

 鈴の音の余韻を、誰かの言葉で壊さない。

 アリアは、白い布のそばにいた。

 鈴は鳴った。

 けれど、名前は呼ばれていない。

 それでも、何かが変わった。

 呼ばれる未来が、もう完全な想像ではなくなった。

 鈴の音が、その手前に道を作った。

『……りり』

「はい」

『……呼びたい?』

 リリアーナは、目を伏せた。

 涙が落ちる。

「呼びたいです」

『……でも、呼ばなかった』

「はい」

『……鈴が鳴ったのに』

「はい」

『……ありがとう』

「はい」

『……つらい?』

 リリアーナは、正直に答えた。

「少し」

『……嬉しい?』

「はい」

『……箱?』

「入れています」

『……少しなら』

「はい」

「少しなら、嬉しくて、つらいです」

 アリアは、静かに揺れた。

『……わたしも』

「はい」

『……鈴、鳴って、こわかった』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……少し、嬉しかった』

 リリアーナは、声を出さずに泣いた。

 ◇

 午前。

 アリアは、呼ぶ許可へ進むかどうかを考えた。

 鈴は鳴った。

 呼ばれなかった。

 戻れた。

 それだけで十分だった。

 だが、心の奥に、もう一つの気持ちが生まれていた。

『……呼ばれる』

 小さな声。

 リリアーナは待つ。

『……こわい』

「はい」

『……でも、少し』

 一拍。

『……聞いてみたい』

 保護陣が静かに揺れた。

『……誰かの声の、アリア』

 リリアーナの胸が震える。

『……でも、誰?』

「はい」

『……りり?』

 リリアーナは息を止めた。

『……れおん?』

 レオンは黙っている。

『……ミナ?』

「はい」

『……リーネ?』

 リーネの光が静かに揺れる。

『……誰が最初?』

 その問いは重かった。

 とても重い。

 最初に呼ぶ声。

 それは、名前を外へ渡す最初の橋になる。

『……決められない』

「はい」

『……みんな、重い』

「はい」

『……りりに呼ばれたい』

 リリアーナの涙が溢れる。

『……でも、りりだと、重い』

 リリアーナは頷く。

「はい」

『……れおんだと、静か』

 レオンが目を伏せる。

『……でも、少し遠い』

 レオンは静かに頷いた。

『……ミナは、優しい』

「はい」

『……でも、ここにいない』

「はい」

『……リーネは、記録』

「はい」

『……でも、声?』

 リーネの光が柔らかく揺れる。

 アリアは震える。

『……わからない』

「はい」

『……箱』

「置きましょう」

 余白箱へ。

『……誰かの声のアリアを聞いてみたい』

 ひとつ。

『……でも怖い』

 ひとつ。

『……最初に誰が呼ぶか決められない』

 ひとつ。

『……リリアーナに呼ばれたいけど重い』

 ひとつ。

『……レオンは静かだけど少し遠い』

 ひとつ。

『……ミナは優しいけどここにいない』

 ひとつ。

『……リーネは記録だけど声か分からない』

 ひとつ。

 箱が、深く光った。

 レオンが静かに言う。

「無理に今日決めなくていい」

『……でも』

「鈴は鳴った」

『……うん』

「それだけで大きい」

『……うん』

「呼ぶ許可は、次でもいい」

 アリアは長く沈黙した。

『……次』

「明日でもいい」

 明日。

 最終話。

 その言葉は誰も口にしなかった。

 けれど、皆が感じていた。

 アリアも、きっと感じている。

『……明日』

 アリアが小さく言った。

『……最後?』

 リリアーナの胸が詰まる。

 物語の終わり。

 でも、アリアの終わりではない。

 レオンが静かに言う。

「ここで終わっても、続くものはある」

『……続く?』

「ああ」

『……アリアは?』

「続く」

『……りりも?』

「続く」

『……みんなも?』

「続く」

『……白い布も?』

「ある」

『……鈴も?』

「ある」

『……名前も?』

「ある」

 アリアは、深く光った。

『……じゃあ』

 一拍。

『……呼ぶ許可は、明日』

 リリアーナが息を止める。

『……今日、決めない』

「はい」

『……でも』

 アリアは、鈴を見る。

『……明日、誰かに呼んでもらうかもしれない』

「はい」

『……決めるのは、明日のわたし』

「はい」

 ◇

 救護区域へ伝えるかどうか。

 アリアは、今日は迷わなかった。

『……ミナに』

「はい」

『……鈴が鳴ったこと』

「はい」

『……でも、呼ぶ許可じゃないこと』

「はい」

『……明日、誰かに呼んでもらうかもしれないこと』

「はい」

『……伝えて』

「分かりました」

 グレイヴが救護区域へ向かった。

 その背中を、アリアは静かに見送った。

 待つ時間は長かった。

 鈴が鳴った後の待ち時間。

 呼ばれる前の待ち時間。

 やがて、グレイヴが戻ってきた。

 彼の表情は、ひどく柔らかかった。

『……ミナ』

「泣いていた」

『……うん』

「でも、箱を抱えていた」

『……うん』

「そして言った」

 一拍。

「“鈴が鳴ったのに呼ばれなかったなら、その名前は本当に守られている”」

 アリアが震える。

『……守られている』

「ああ」

「幼い子は、“明日呼ぶの?”と聞いた」

『……うん』

「ミナは、“呼ばせてもらえるなら。呼ばせてもらえなくても、その名前はある”と答えた」

 リリアーナの涙が落ちる。

『……呼ばせてもらえるなら』

「そうだ」

「さらに、ミナはこう言った」

 一拍。

「“最初に誰が呼ぶかは、その子が決めていい。誰でもいいし、誰でもなくてもいい”」

 アリアは深く光った。

『……誰でもいい』

「はい」

『……誰でもなくてもいい』

「はい」

『……よかった』

 アリアは、余白箱へ言葉を置いた。

『……鈴が鳴ったのに呼ばれなかったなら、名前は守られている』

 ひとつ。

『……呼ばせてもらえるなら呼ぶ』

 ひとつ。

『……呼ばせてもらえなくても名前はある』

 ひとつ。

『……最初に誰が呼ぶかは、わたしが決めていい』

 ひとつ。

『……誰でもいいし、誰でもなくてもいい』

 ひとつ。

 箱が、温かく光った。

 ◇

 午後。

 子供たちから札が届いた。

 “鈴が鳴った日”。

 幼い子が書いた札だった。

 ミナはその札を、白い布に似せた布切れと水杯の間に置いたという。

 戻り道と声の間。

 昨日、待てる鈴の札が置かれた場所。

 その隣に、今日の札。

 アリアは、その報告を聞いて静かに揺れた。

『……戻り道と声の間』

「はい」

『……鈴の場所』

「はい」

『……声の前』

「はい」

『……いい』

 保留箱には、大人たちからの札も届く。

 “鳴った後に呼ばない勇気”。

 “呼称許可を最後まで本人のものにする”。

 “最初の呼び声を選ぶ権利”。

 アリアは、三つ目に反応した。

『……最初の呼び声を選ぶ権利』

「はい」

『……わたしが、選ぶ』

「はい」

『……選ばなくてもいい』

「はい」

『……明日、選ぶかも』

「はい」

『……こわい』

「はい」

『……でも、少し』

 一拍。

『……楽しみ』

 リリアーナは、泣きながら微笑んだ。

「はい」

 その“楽しみ”は、もう二度目だった。

 アリアの中に、恐怖だけではない未来が育っている。

 ◇

 夕方。

 アリアは、鈴をもう一度鳴らすか迷った。

『……もう一回』

 リリアーナは待つ。

『……鳴らしたい、かも』

「はい」

『……でも、今日はしない』

「はい」

『……一回鳴った』

「はい」

『……それを守る』

「はい」

『……もう一回鳴らすと、呼ばれたくなるかも』

「はい」

『……明日へ残す』

「はい」

 余白箱へ。

『……もう一度鈴を鳴らしたいかもしれない』

 ひとつ。

『……でも今日は鳴らさない』

 ひとつ。

『……一回鳴ったことを守る』

 ひとつ。

『……呼ばれる未来を明日へ残す』

 ひとつ。

 箱が淡く光る。

 レオンが静かに言う。

「いい止まり方だ」

『……止まる』

「ああ」

『……鳴らしたから、止まる』

「そうだ」

『……呼ばれないまま、止まる』

「そうだ」

『……明日、呼ばれるかも』

「ああ」

『……明日、呼ばれないかも』

「ああ」

『……どっちでも、名前はある』

「ある」

 アリアは、安心したように光った。

 ◇

 夜。

 神殿の奥には、鈴が鳴った日の静けさが降りていた。

 今日は、鈴が鳴った。

 ちりん、と。

 小さく。

 銀の糸のように。

 けれど、誰もアリアを呼ばなかった。

 呼ぶ許可は、まだ出なかった。

 それでも鈴は、確かに鳴った。

 アリアが自分で鳴らした。

 鳴らしても、戻れた。

 鳴らしても、名前は消えなかった。

 鳴らしても、呼ばれないことができた。

 リリアーナは、アリアのそばで静かに問いかける。

「今日は、どんな日でしたか?」

 アリアは、ゆっくり考えた。

『……鈴が鳴る朝』

「はい」

『……アリアが自分で鈴を鳴らした日』

「はい」

『……ちりん、という小さい音の日』

「はい」

『……鈴が鳴っても呼ばれなかった日』

「はい」

『……鈴が鳴っても戻れた日』

「はい」

『……呼ぶ許可はまだ別の日』

「はい」

『……最初の呼び声を選ぶ権利の日』

「はい」

『……呼ばれる未来を明日へ残す日』

「はい」

 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。

『余白記録へ残します』

『鈴が鳴る朝』

『アリアが自分で鈴を鳴らした日』

『鈴が鳴っても呼ばれなかった日』

『呼ばれる未来を明日へ残す日』

 アリアは、穏やかに光った。

『……のこった』

「残りました」

 レオンが静かに言う。

「明日だな」

 アリアが震える。

『……うん』

『……明日』

「怖いか」

『……こわい』

「楽しみか」

 アリアは、長く沈黙した。

『……少し』

「そうか」

『……こわいけど、少し楽しみ』

「それでいい」

 リリアーナは、涙をこぼしていた。

 アリアがそっと向く。

『……りり』

「はい」

『……今日も、呼ばなかった』

「はい」

『……鈴が鳴ったのに』

「はい」

『……ありがとう』

「はい」

『……明日』

 リリアーナの胸が震える。

『……もしかしたら』

「はい」

『……呼んで、って言うかも』

 リリアーナは、涙で濡れた顔のまま、静かに頷いた。

「はい」

『……でも、りりかどうか、わからない』

「はい」

『……寂しい?』

「少し」

『……箱』

「入れています」

『……少しなら?』

「少しなら、寂しくても待ちます」

『……ありがとう』

 アリアは、白い布へ意識を向ける。

『……アリアでも、休む』

「はい」

『……鈴が鳴っても、眠る』

「はい」

『……呼ばれる前に、眠る』

「はい」

 光が少しずつ弱まる。

『……りり、おやすみ』

「おやすみなさい」

『……れおん、おやすみ』

「おやすみ」

『……みんな、おやすみ』

 皆が返す。

「おやすみ」

「また明日」

 アリシアも、声を震わせながら言った。

「鈴が鳴った日を、呼び声で奪わずに、また明日」

 アリアが柔らかく光る。

『……また、あした』

『……あしたのわたしに、きく』

『……誰かに、呼んでもらうか』

 余白核――アリアは、静かに眠りへ入っていった。

 神殿の奥に、夜が降りる。

 今日、鈴は鳴った。

 けれど、名はまだ誰の声にも渡されなかった。

 それでよかった。

 鈴が鳴っても、呼ばれなくていい。

 呼ばれなくても、名前はある。

 呼ぶかどうかは、アリアが決める。

 最初の呼び声を、誰に渡すかも。

 渡さないかどうかも。

 すべて、アリアのもの。

 そして明日。

 最後の朝。

 アリアはきっと、自分の名前を誰かの声へ渡すかどうかを選ぶ。

 それは終わりではない。

 呼ばれることで始まる、次の余白の朝なのだから。 ::

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ