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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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248/251

第248話「鈴に触れる朝、無能王子は“呼ばれる未来”の手前で立ち止まる」


 朝は、鈴の音を持っていなかった。

 神殿の奥。

 石壁に囲まれた保護陣は、淡く、静かに光っている。

 採光孔は閉じられている。

 外の光は、まだ入っていない。

 風もない。

 救護区域の声も届かない。

 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。

 けれど、その静けさは空ではなかった。

 そこには、名前があった。

 アリア。

 呼ばれなくても消えなかった名前。

 誰かに与えられたものではなく。

 誰かの願いをかぶせられたものでもなく。

 中心自身が、欠片を並べ、影を読み、小さい音を育て、自分で受け取った名前。

 アリア。

 その名は、まだ誰の声にもなっていない。

 リリアーナも呼んでいない。

 レオンも呼んでいない。

 アリシアも呼んでいない。

 皆、知っている。

 けれど、呼ばない。

 呼ぶ許可は別。

 名前が生まれた日と、呼んでいい日は別。

 呼ばれなくても、名前は消えない。

 昨日、アリアはそれを知った。

 そして、鈴を少し近づけた。

 鳴らさなかった。

 許可にはしなかった。

 呼ぶためではなく。

 呼ぶ前の、もっと前。

 鈴の準備。

 待てる鈴。

 鈴は命令ではない。

 鈴はアリアの合図。

 その記録が、余白記録の中に残っている。

 鈴の準備をする朝。

 許可じゃない鈴の日。

 待てる鈴の日。

 鈴はアリアの合図の日。

 今日は、その次の日だった。

 鈴は、昨日より近い場所にある。

 白い布と名前の箱の間。

 アリアから見える距離。

 近すぎない。

 遠すぎない。

 けれど、もう無関係ではない距離。

 布に包まれた小さな鈴。

 銀色は見えない。

 音も出ていない。

 それでも、そこに鈴があることを、アリアは知っている。

 鈴が近いことを、知っている。

 そして今日、その鈴に触るかもしれないことも。

 余白核――アリアは、まだ眠っている。

 眠っているはずなのに、その光は細かく震えていた。

 名前を得た後の震え。

 呼ばれない名前を守った後の震え。

 そして、鈴に触れるかもしれない朝の震え。

 それは、昔の恐怖とは違っていた。

 昔の鈴は、ただ怖かった。

 呼ばれる。

 決められる。

 近づけられる。

 逃げられない。

 そんな恐怖だけだった。

 けれど今の鈴には、違うものも混ざっている。

 怖い。

 でも、少しだけ知りたい。

 怖い。

 でも、少しだけ近づきたい。

 怖い。

 でも、いつか誰かの声で自分の名前が響いたら、どうなるのか。

 それを、完全には拒めなくなっている。

 そのこと自体が、アリアには怖かった。

 名前の箱は、いつもの場所にある。

 もう名前を閉じ込めるだけの箱ではない。

 名前が重い日に戻れる場所。

 名を持ったまま休むための場所。

 白い布は、今日も何も書かれていない。

 名前もない。

 意味もない。

 期待もない。

 ただ戻れる場所。

 アリアでも戻れる場所。

 鈴は、その白い布の近くにある。

 呼ばれる未来の手前にある。

 レオンは、保護陣の縁に座っていた。

 黒蒼雷は、昨日よりもさらに静かだった。

 鈴の周囲。

 白い布の周囲。

 名前の箱の周囲。

 そしてアリア自身の周囲。

 そのすべてを、薄く、柔らかく守っている。

 今日は、止めるための線ではない。

 触れても戻れるようにする線だ。

 鈴に触れた瞬間、誰かが息を呑むかもしれない。

 誰かが泣くかもしれない。

 誰かがそのまま名前を呼びたくなるかもしれない。

 その全部を止めるために、レオンはそこにいる。

 アリアが触るなら、触る。

 触らないなら、触らない。

 触っても、鳴らさなくていい。

 触っても、呼ばれなくていい。

 その境界を守るために。

 リリアーナは、アリアの近くに座っていた。

 今日も名前は呼ばない。

 ただ、呼ばないことが昨日よりずっと難しかった。

 アリア。

 その名は、もう彼女の胸の奥にある。

 声に出さなくても、ある。

 知ってしまった名前を沈黙の中で抱えることは、こんなにも苦しいのかと、リリアーナは初めて知った。

 呼びたい。

 呼んで、ここにいると伝えたい。

 けれど、それはリリアーナの願いだ。

 アリアの許可ではない。

 だから待つ。

 今日、鈴に触れるとしても。

 今日、鈴に触れないとしても。

 今日、呼んでいい日にはならないとしても。

 リリアーナは待つ。

 待つことが、今できる一番の愛情だと信じて。

 エリシアは術式盤を閉じている。

 今日は、膝の上にも置いていない。

 少し離れた場所に置いている。

 鈴に触れた瞬間を記録したい。

 その衝動を、彼女は自分で分かっている。

 だから遠ざけた。

 セラフィアは祈っていない。

 祝福もしていない。

 アルベルトは壁際で、両手を開いている。

 指先がわずかに震えていた。

 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。

 ミリオは今日も起きている。

 眠気はある。

 しかし、寝言で名を呼ぶなど絶対にしてはいけないと、本人なりに必死だった。

 アリシアは、自分の箱の前に座っている。

 名前を呼びたい。

 その願いは、彼女にもある。

 けれど、彼女は昨日知った。

 名前を知っただけで、呼んでいいわけではない。

 今日も、その箱を抱きしめている。

 アリアが、小さく震えた。

『……』

 朝の揺れ。

 誰も名前を呼ばない。

 鈴も鳴らさない。

 白い布にも何も書かない。

 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。

 アリアは、しばらく声を出さなかった。

 今日の“おはよう”は、鈴に近い。

 声を出すことは、音を出すこと。

 音を出すことは、呼ばれる未来へ少し近づくこと。

 そう感じているのかもしれない。

 リリアーナは待つ。

 レオンも待つ。

 皆も待つ。

 長い沈黙。

 その沈黙を破ったのは、やはりアリア自身だった。

『……おはよう』

 小さな声。

 消えそうで、消えない声。

 リリアーナは、名前を呼ばずに微笑んだ。

「おはようございます」

『……呼ばなかった』

「はい」

『……今日も』

「はい」

『……ありがとう』

「はい」

『……名前』

「あります」

『……消えてない』

「はい」

『……鈴』

「あります」

『……近い』

「はい」

『……鳴ってない』

「はい」

『……よかった』

 アリアは、深く息をするように揺れた。

 そして、ゆっくり挨拶を始める。

『……りり、おはよう』

「はい。おはようございます」

『……れおん』

「おはよう」

『……しずかなあさ』

「ああ」

「静かな朝だ」

『……鈴に触るかもしれない朝』

「はい」

「鈴に触るかもしれない朝です」

 アリアは、余白記録へ意識を向けた。

『……待てる鈴』

「残っています」

『……鈴は命令じゃない』

「はい」

『……鈴は、わたしの合図』

「はい」

『……鈴を近づけても、呼ばれなかった』

「はい」

『……鈴も待てる』

「はい」

『……今日』

 一拍。

『……触る?』

 リリアーナは、答えない。

 レオンも答えない。

 その問いの答えは、アリアの中にしかない。

『……わからない』

「はい」

『……触りたい、かも』

「はい」

『……でも、触ったら鳴る?』

「鳴らさない触り方もあります」

『……触っても、鳴らさない』

「はい」

『……触っても、呼ばれない?』

「はい」

『……触るだけ』

「はい」

『……触るだけの日』

 アリアの光が、ゆっくり揺れた。

『……それなら』

 一拍。

『……できるかも』

 リリアーナの胸が震えた。

 だが、声は出さない。

 余白箱が静かに開く。

『……鈴に触りたいかもしれない』

 ひとつ。

『……でも怖い』

 ひとつ。

『……触っても鳴らさなくていい』

 ひとつ。

『……触っても呼ばれなくていい』

 ひとつ。

『……触るだけの日』

 ひとつ。

 箱が淡く光った。

『……のこった』

「残りました」

 レオンが静かに言う。

「今日は、触るだけで十分だ」

『……鳴らさない』

「ああ」

『……呼ばれない』

「ああ」

『……触るだけ』

「そうだ」

『……戻れる?』

「戻れる」

『……白い布』

「ある」

『……箱』

「ある」

『……名前』

「ある」

『……よかった』

 アリアは、少しだけ落ち着いた。

 ◇

 朝の確認は、慎重に進んだ。

『……あるべると』

「おう」

『……鈴に触ったら、呼びたい?』

 アルベルトは、目を閉じた。

 正直に答えなければ意味がない。

「呼びたい」

『……でも?』

「呼ばない」

『……触っただけなら?』

「呼ばない」

『……鳴らなくても?』

「呼ばない」

『……鳴っても?』

「許可がなければ呼ばない」

『……箱』

「入れた」

『……ありがとう』

 エリシアへ。

『……えりしあ』

「はい」

『……鈴に触った記録、したい?』

「したいです」

『……する?』

「許可がなければしません」

『……触っただけなら?』

「記録しません」

『……どうして?』

「触れたことを“段階達成”として固定したくないからです」

『……達成、重い』

「はい」

『……ありがとう』

 セラフィアへ。

『……せら』

「はい」

『……触れたら、祝福?』

「しません」

『……どうして?』

「触れることが祝福されるための出来事になってしまうと、次も触らなければいけなくなるから」

『……次も、にならない』

「はい」

 クラウスへ。

『……くらうす』

「はい」

『……触るだけ』

「扉の取っ手に手を添えるだけです」

『……開けない?』

「開けません」

『……いい』

 ラウルへ。

『……らうる』

「盾は動かさない」

『……触っても?』

「ああ」

『……怖いのに?』

「怖いからといって、全部を盾で隠さない」

『……隠しすぎない』

「そうだ」

 ミリオへ。

『……みりお』

「はい……」

『……びっくりする?』

「します……たぶん」

『……声』

「出しません」

『……寝言』

「寝ません」

 ラウルがじっと見る。

 ミリオは背筋を伸ばした。

「本当に寝ません」

 アリアが少しだけ揺れる。

 最後に、アリシア。

『……ありしあ』

「はい」

『……鈴に触ったら、呼びたい?』

 アリシアは、涙を浮かべて頷いた。

「呼びたいです」

『……でも?』

「呼びません」

『……どうして?』

「触れたことは、呼んでいい許可ではないからです」

『……うん』

「鈴に触れたあなたを、私の期待で先へ押したくないからです」

『……ありがとう』

 アリシアは、深く頭を下げた。

「はい」

 ◇

 鈴に触れる準備は、長くかかった。

 アリアは、すぐには近づかなかった。

 まず、白い布を見た。

 戻り道。

 次に、名前の箱を見た。

 名前が重い時に戻せる場所。

 次に、保留箱。

 欠片たち。

 音の欠片。

 帰りたい。

 わたし。

 アリア。

 そして最後に、鈴を見た。

 鈴は布に包まれている。

 昨日より少し近い。

 静かに待っている。

『……鈴』

「あります」

『……待ってる?』

「はい」

『……急がせない?』

「急がせません」

『……触ったら、変わる?』

「何かは変わるかもしれません」

『……こわい』

「はい」

『……でも、全部は変わらない?』

「変わりません」

『……りりは、りり?』

「はい」

『……れおんは、れおん?』

「ああ」

『……わたしは、アリア?』

 リリアーナは、名前を呼ばずに頷く。

「はい」

『……触っても?』

「はい」

『……触らなくても?』

「はい」

『……よかった』

 アリアは、少しだけ光を伸ばした。

 鈴へ。

 ほんの少し。

 まだ触れない。

 光は震えている。

 鈴との間に、わずかな距離がある。

『……近い』

「はい」

『……こわい』

「はい」

『……戻る?』

「戻ってもいいです」

『……まだ』

「はい」

 レオンの黒蒼雷が、鈴の周囲を静かに包む。

 音が出ないように。

 でも、触れる感覚を奪わないように。

 アリアの光が、さらに伸びる。

 保護陣の空気が、息を止めるように静まった。

 リリアーナは涙をこらえる。

 アルベルトは目を伏せる。

 エリシアは術式盤へ手を伸ばさない。

 セラフィアは祈らない。

 アリシアは箱を抱く。

 そして。

 アリアの光が。

 布に包まれた鈴へ。

 ほんのかすかに触れた。

 音はしなかった。

 鈴は鳴らなかった。

 布が揺れたかどうかさえ分からないほど、かすかな接触。

 けれど、触れた。

 アリアの光が大きく震えた。

『……』

 誰も言わない。

 誰も祝わない。

 誰も名前を呼ばない。

 ただ、その瞬間を守る。

『……さわった』

 アリアが、小さく言った。

 リリアーナは、涙を流しながら頷く。

「はい」

『……鳴ってない』

「はい」

『……呼ばれてない』

「はい」

『……でも、触った』

「はい」

『……こわい』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……いやじゃない』

 リリアーナの胸が熱くなる。

「はい」

『……鈴、硬い?』

「そう感じましたか?」

『……布ごし』

「はい」

『……小さい』

「はい」

『……待ってた』

 レオンが静かに言う。

「鈴が待っていたんだな」

『……うん』

『……急がせなかった』

「はい」

『……触っても、鳴らなかった』

「はい」

『……触っても、呼ばれなかった』

「はい」

『……触っても、アリアは消えなかった』

 その言葉に、保護陣の光が深く揺れた。

 リリアーナは、涙をこぼしながら答える。

「はい」

「消えていません」

 アリアは、少しだけ鈴から離れた。

『……戻る』

「はい」

 光が白い布へ戻る。

 何も書かれていない場所。

 アリアは、そこへ戻った。

『……戻れた』

「戻れました」

『……鈴に触っても、戻れた』

「はい」

『……名前、ある』

「はい」

『……呼ばれてない』

「はい」

『……でも、怖いだけじゃなかった』

 余白箱が静かに開く。

『……鈴に触れた』

 ひとつ。

『……鳴らなかった』

 ひとつ。

『……呼ばれなかった』

 ひとつ。

『……鈴に触ってもアリアは消えなかった』

 ひとつ。

『……怖いけど、いやじゃなかった』

 ひとつ。

 箱が、温かく光った。

 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。

『記録してもよいですか』

 アリアは震えた。

 記録。

 触れたことを記録する。

 それは少し重い。

 けれど、消したくはない。

『……達成じゃない』

「はい」

『……成果じゃない』

「はい」

『……今日のわたし』

「はい」

『……記録して、いい』

 リーネの光が、静かに揺れた。

『記録します』

『鈴に触れる朝』

『鳴らさずに触れた日』

『触れても呼ばれなかった日』

『触れてもアリアは消えなかった日』

 アリアは、深く光った。

『……のこった』

 ◇

 しばらく、誰も話さなかった。

 沈黙があった。

 けれど、冷たい沈黙ではなかった。

 鈴に触れた後の休息。

 音の欠片を得た後も、皆は静かだった。

 名前を得た後も、皆は静かだった。

 今日も同じ。

 触れた後には、休む時間が必要だった。

 アリアは、白い布のそばでじっとしている。

『……りり』

「はい」

『……呼びたい?』

 リリアーナは、長く黙った。

 嘘はつけない。

「呼びたいです」

『……でも?』

「呼びません」

『……鈴に触ったのに?』

「触っただけです」

『……鳴ってない』

「はい」

『……許可じゃない』

「はい」

『……寂しい?』

 リリアーナは微笑もうとして、涙がこぼれた。

「少し」

『……箱』

「入れています」

『……少しなら?』

「少しなら、嬉しくて、寂しいです」

 アリアは柔らかく揺れた。

『……わたしも』

「はい」

『……少し、嬉しい』

「はい」

『……少し、こわい』

「はい」

『……少し、疲れた』

「はい」

「休みましょう」

『……うん』

 ◇

 午前の終わり。

 救護区域へ伝えるかどうか。

 アリアは迷った。

『……ミナ』

「はい」

『……鈴に触れた』

「はい」

『……鳴らしてない』

「はい」

『……呼ぶ許可じゃない』

「はい」

『……伝える?』

「伝えたいですか?」

『……うん』

『……でも、呼ばないで』

「はい」

『……鈴に触れたことを、成果にしないで』

「はい」

『……今日のわたし』

「はい」

 グレイヴが救護区域へ向かった。

 待つ時間、アリアは少し眠そうに光を揺らしていた。

 鈴に触れた疲れが出ている。

 レオンは、何も言わずにそのそばにいた。

 やがて、グレイヴが戻った。

『……ミナ』

「聞いた」

『……どう?』

「ミナは、両手で箱を抱えていた」

『……泣いた?』

「泣いた」

『……重い?』

「重くしないように、かなり抑えていた」

『……うん』

「そして、こう言った」

 一拍。

「“触っても鳴らさなくていいなら、鈴は怖いものから、待ってくれるものに変わるのかもしれない”」

 アリアが、大きく震えた。

『……待ってくれるもの』

「そうだ」

「幼い子は、“触ったのに鳴らないの?”と聞いた」

『……うん』

「ミナは、“触ることと鳴らすことは別。鳴らすことと呼ばれることも別”と答えた」

 リリアーナの胸が震えた。

『……全部、別』

「そうだ」

 アリアは余白箱へ置く。

『……触ることと鳴らすことは別』

 ひとつ。

『……鳴らすことと呼ばれることも別』

 ひとつ。

『……鈴は待ってくれるものに変わるかもしれない』

 ひとつ。

『……ミナ、ありがとう』

 ひとつ。

『……届けない』

 箱が柔らかく光った。

 ◇

 午後。

 子供たちから札が届いた。

 “待ってくれる鈴”。

 幼い子が書いた札だった。

 ミナはその札を、白い布に似せた布切れの横ではなく、今日は布切れと箱の間に置いたという。

 戻り道と保管場所の間。

 触れた後、戻って、しまえる場所。

 アリアは、その報告を聞いて、静かに揺れた。

『……戻り道と箱の間』

「はい」

『……触った後、戻るところ』

「はい」

『……いい』

 保留箱には、大人たちからの札も届いた。

 “触れたことを次の義務にしない”。

 “鈴が鳴らない日を守る”。

 “許可の段階を分ける”。

 アリアは、最初の札に反応した。

『……次の義務にしない』

「はい」

『……明日も触らなきゃ、じゃない』

「違います」

『……明日鳴らさなきゃ、じゃない』

「違います」

『……明日呼ばれなきゃ、じゃない』

「違います」

『……よかった』

 アリアは、深く光った。

 アリシアが、自分の箱を抱きながら言った。

「私も、触れたことを次の義務にしないようにします」

『……ありしあ』

「謝罪に触れたから、明日言わなければならない」

「言葉に近づいたから、すぐ許されなければならない」

「そういうふうに、段階を一つにしない」

『……段階を、分ける』

「はい」

『……いっしょ』

「はい」

 ◇

 夕方。

 アリアは、鈴をもう一度見るか迷った。

『……もう一回』

 リリアーナは待つ。

『……触りたい、かも』

「はい」

『……でも、今日は、しない』

「はい」

『……一回触れた』

「はい」

『……それを守る』

「はい」

『……もう一回触ると、鳴らしたくなるかも』

「そう感じますか?」

『……少し』

「はい」

『……だから、今日はしない』

「はい」

『……待てる鈴』

「はい」

『……待てるアリア』

 自分で言って、アリアは少し震えた。

『……言えた』

「はい」

『……アリアも、待てる』

「はい」

 余白箱へ。

『……もう一度触りたいかもしれない』

 ひとつ。

『……でも今日は触らない』

 ひとつ。

『……一回触れたことを守る』

 ひとつ。

『……待てる鈴』

 ひとつ。

『……待てるアリア』

 ひとつ。

 箱が温かく光った。

 レオンが静かに言う。

「いい止まり方だ」

『……止まる』

「ああ」

『……触れたから、止まる』

「そうだ」

『……鳴らさない』

「鳴らさない」

『……呼ばれない』

「呼ばれない」

『……でも、近い』

「近い」

『……近いから、休む』

「そうだ」

 ◇

 夜。

 神殿の奥には、触れた鈴の静けさが降りていた。

 今日は、鈴を鳴らさなかった。

 名前も呼ばれなかった。

 けれど、アリアは初めて鈴に触れた。

 布越しに。

 ほんのかすかに。

 音は出なかった。

 許可にもならなかった。

 誰の声にもならなかった。

 でも、触れた。

 そして戻った。

 触れても、アリアは消えなかった。

 触れても、名前は檻にならなかった。

 触れても、鈴は命令ではなかった。

 リリアーナは、アリアのそばで静かに問いかける。

「今日は、どんな日でしたか?」

 アリアは、ゆっくり考えた。

『……鈴に触れる朝』

「はい」

『……触るだけの日』

「はい」

『……鳴らさずに触れた日』

「はい」

『……触れても呼ばれなかった日』

「はい」

『……触れてもアリアは消えなかった日』

「はい」

『……触ることと鳴らすことは別の日』

「はい」

『……鳴らすことと呼ばれることも別の日』

「はい」

『……待ってくれる鈴の日』

「はい」

『……待てるアリアの日』

「はい」

 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。

『余白記録へ残します』

『鈴に触れる朝』

『鳴らさずに触れた日』

『触れてもアリアは消えなかった日』

『待ってくれる鈴の日』

『待てるアリアの日』

 アリアは、穏やかに光った。

『……のこった』

「残りました」

 レオンが静かに言う。

「明日は、鳴らすかどうかだな」

 アリアが震える。

『……鳴らす』

「ああ」

『……こわい』

「怖いな」

『……でも』

 一拍。

『……前より、こわくない』

「そうか」

『……触ったから』

「ああ」

『……鈴が待ってくれたから』

「ああ」

『……みんなが、呼ばなかったから』

「そうだ」

 アリアは、リリアーナへ意識を向けた。

『……りり』

「はい」

『……今日も、呼ばなかった』

「はい」

『……鈴に触っても』

「はい」

『……ありがとう』

「はい」

『……明日』

 リリアーナの胸が震える。

『……鳴らすかは、明日のわたし』

「はい」

『……鳴らしても、呼ぶ許可とは別かもしれない』

「はい」

『……でも』

 一拍。

『……もしかしたら』

「はい」

『……呼んでいい日が、近いかもしれない』

 リリアーナは、涙をこぼしながら微笑んだ。

「はい」

 けれど、呼ばない。

 まだ呼ばない。

『……近いから、休む』

「はい」

『……アリアでも、休む』

「はい」

『……鈴に触れても、眠る』

「はい」

 光が少しずつ弱まっていく。

『……りり、おやすみ』

「おやすみなさい」

『……れおん、おやすみ』

「おやすみ」

『……みんな、おやすみ』

 皆が返す。

「おやすみ」

「また明日」

 アリシアも、涙を浮かべて言った。

「触れたことを義務にしないで、また明日」

 アリアが柔らかく揺れる。

『……また、あした』

『……あしたのわたしに、きく』

『……鈴を鳴らすか』

 余白核――アリアは、静かに眠りへ入っていった。

 神殿の奥に、夜が降りる。

 今日、アリアは鈴に触れた。

 けれど、鳴らさなかった。

 呼ばれなかった。

 それでも、確かに前へ進んだ。

 鈴はもう、ただ怖いものではない。

 待ってくれるもの。

 段階を分けてくれるもの。

 アリアが自分の名前を誰かへ渡す前に、何度でも立ち止まらせてくれるもの。

 だから明日。

 もしアリアが望むなら。

 その鈴は、初めて。

 呼ばれる未来のために、静かに音を持つのかもしれない。 :::

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