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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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240/251

第240話「二つ目の名前の欠片、無能王子は“呼ばれるためではなく、帰るために名を持つ”を知る」


 朝は、帰りたいという欠片のそばにあった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱いている。


 採光孔は閉じられている。


 外の光は、まだ入っていない。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、今日の保護陣には、昨日から残る小さな気配があった。


 帰りたいの欠片。


 名前そのものではない。


 候補でもない。


 響きでもない。


 意味でもない。


 ただ、名前になる前の、まだ形にならないもの。


 中心は昨日、それを見つけた。


 帰りたい。


 どこへ帰るのかは、まだ決めない。


 誰のところへ帰るのかも、まだ決めない。


 白い布へか。


 リリアーナへか。


 レオンへか。


 自分へか。


 どれも決めない。


 ただ、帰りたいという欠片だけを、保留箱へ置いた。


 その記録が、余白記録の中に残っている。


 名前の欠片を見つける朝。


 帰りたいの欠片の日。


 名前は帰るための道になるかもしれない日。


 名前の欠片を保留箱へ置く日。


 今日で、第240話。


 完結まで、残り十話。


 けれど、保護陣の中に急ぐ空気はなかった。


 急げば、全部壊れる。


 ここまで、中心は小さな一歩を積み重ねてきた。


 いやじゃない石。


 鳴らない鈴。


 余白箱。


 保留箱。


 白い布。


 音の欠片。


 帰りたいの欠片。


 一つずつ。


 逃げ道を作りながら。


 戻り道を守りながら。


 誰かの意味にされないように。


 誰かの救いにされないように。


 自分の一日として、歩いてきた。


 余白核は、まだ眠っている。


 その光は静かだった。


 昨日より、少しだけ深く沈んでいる。


 名前の箱は、戻り道の白い布と同じ視界に入る場所にある。


 白い布は、何も書かれていないまま。


 鈴は、合図の場所にある。


 布に包まれたまま。


 保留箱には、二つの欠片がある。


 音の欠片。


 帰りたいの欠片。


 どちらも軽いまま。


 どちらも、決められていないまま。


 消えない程度に。


 背負わない程度に。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、今日は保留箱の周囲を細く巡っている。


 昨日、名前の欠片を一つ見つけた。


 今日は、おそらく二つ目へ向かう。


 名前を決めるにはまだ早い。


 けれど、欠片が一つでは、名前の形にはならない。


 帰りたい。


 それだけでは、道は見えるが、誰がそこを歩くのかが見えない。


 中心が名を持つためには、もう一つ必要だ。


 “どこへ帰りたいか”ではない。


 それを今決めてはいけない。


 “帰るために、何を守りたいか”。


 あるいは。


 “帰った場所で、どう在りたいか”。


 今日は、その欠片に触れるかもしれない。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も名前候補は持っていない。


 紙もない。


 響きもない。


 意味もない。


 けれど、胸の中には強い緊張があった。


 240話。


 ここから先は、名前へ向かう速度が少しずつ上がる。


 けれど、中心の足を急がせてはいけない。


 物語が終わりへ向かっていても、中心の心は段取り通りに進むわけではない。


 だからリリアーナは、自分にも言い聞かせていた。


 今日も、一日。


 今日も、一つ。


 今日の中心が選ぶところまで。


 エリシアは術式盤を布で覆っている。


 セラフィアは祈りを巡らせず、静かに座っている。


 アルベルトは膝の上で手を開いている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。


 ミリオは、今日は珍しく眠そうではなかった。


 名前の欠片。


 その言葉の重みは、彼の眠気すら遠ざけているらしい。


 アリシアは、自分の箱の前に座っている。


 昨日の“帰りたい”という欠片は、彼女にも深く刺さっていた。


 罪へ帰るのか。


 償いへ帰るのか。


 許しへ帰るのか。


 それを他人に決められる怖さ。


 中心が知ったことは、アリシア自身の傷にも触れていた。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 保留箱にも触れない。


 白い布には、今日も何も書かない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 中心は、なかなか声を出さなかった。


 昨日、帰りたいという欠片を見つけたからだろう。


 その欠片は軽いまま残っている。


 だが、軽いままでも、近くにあると胸が震える。


 リリアーナは待つ。


 レオンも待つ。


 誰も、おはようを急がせない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……声』


「聞こえました」


『……今日の声』


「はい」


『……昨日と比べない』


「比べません」


『……よかった』


 中心は、少し安心したように揺れた。


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……白い布』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……保留箱』


「あります」


『……音の欠片』


「あります」


『……帰りたいの欠片』


「あります」


『……軽い?』


「軽いままです」


『……決めてない?』


「決めていません」


『……よかった』


 そして、中心は挨拶へ進んだ。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……帰りたいが、残ってる朝』


「はい」


「帰りたいが、軽いまま残っている朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向けた。


『……名前の欠片』


「残っています」


『……帰りたい』


「はい」


『……名前は帰るための道になるかもしれない』


「はい」


『……どこへ帰るかは、まだ決めない』


「はい」


『……今日』


 一拍。


『……もう一つ、欠片?』


 リリアーナは、ゆっくり頷く。


「見たいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……でも、一つだけだと』


 中心は、言葉を探す。


『……道だけ』


「はい」


『……帰りたいだけ』


「はい」


『……誰が、帰る?』


 保護陣が静かになった。


 誰が帰るのか。


 中心はまだ、名前を持っていない。


 けれど、“帰りたい”と感じるものはある。


 その“誰か”を、まだ呼べない。


 まだ名前にはできない。


 でも、欠片としてなら、見られるかもしれない。


 レオンが静かに言う。


「帰りたいと思ったお前だ」


『……わたし?』


「そうだ」


『……でも、わたし、名前ない』


「名前がなくても、お前だ」


 中心が大きく震えた。


『……名前がなくても、わたし』


「ああ」


『……名前を持っても、わたし』


「そうだ」


『……帰るのは、わたし』


「そうだ」


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


 中心は、その言葉を受け取るのに時間がかかった。


 名前がなくても、わたし。


 名前を持っても、わたし。


 帰るのは、わたし。


 それは、名前の欠片に近い。


 名前そのものではない。


 けれど、名を持つ前に必要な芯。


『……それ』


 一拍。


『……欠片?』


「そうかもしれません」


『……名前じゃない』


「はい」


『……でも、名前の前にいる』


「はい」


『……わたし、という欠片』


 保留箱が、静かに光った。


 余白箱ではない。


 名前の箱でもない。


 保留箱。


 中心は、震えながら言った。


『……わたし、という欠片』


 ひとつ。


『……名前がなくても、わたし』


 ひとつ。


『……名前を持っても、わたし』


 ひとつ。


『……帰るのは、わたし』


 ひとつ。


『……まだ名前じゃない』


 ひとつ。


 保留箱が、深く、温かく光った。


『……置けた』


「置けました」


『……重い?』


「少し重いかもしれません」


 リリアーナは正直に答える。


 中心が震える。


「でも、重くしすぎません」


『……軽くできる?』


「できます」


『……どうやって?』


「まだ名前にしないこと」


「誰かの意味にしないこと」


「あなた自身が、今日の欠片として持つこと」


『……今日の欠片』


「はい」


 中心は、少しだけ安心した。


 ◇


 朝の挨拶は、その二つ目の欠片を抱えて続いた。


 帰りたい。


 わたし。


 二つの欠片が、保留箱の中に並んでいる。


 まだ名前ではない。


 けれど、昨日より少しだけ形が見える。


 だからこそ、周囲の期待は強くなりやすかった。


 中心はそれを分かっている。


『……あるべると』


「おう」


『……期待、箱?』


「入れた」


『……どんな?』


 アルベルトは、少し言いにくそうにした。


「もう名前に近いんじゃないかって思った」


 中心が震える。


『……重い』


「重い。だから箱に入れた」


『……言ってくれて、ありがとう』


「ああ」


『……まだ、名前じゃない』


「分かってる」


『……欠片』


「欠片だ」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……二つあると、組み合わせたくなる?』


「なります」


『……だめ?』


「今日はしません」


『……どうして?』


「組み合わせた瞬間、候補に近づきすぎるからです」


『……組み合わせない』


「はい」


『……並べるだけ』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……わたし、という欠片』


「とても大切です」


 中心が震える。


 セラフィアはすぐに胸へ手を当てた。


「大切と言いたくなる気持ちも、箱に入れます」


『……ありがとう』


「はい」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「帰り道と、帰る者の気配です」


『……まだ、名前じゃない』


「はい」


『……地図みたい?』


「地図の端かもしれません」


 ラウルへ。


『……らうる』


「帰るやつがいなければ、道は道じゃない」


『……わたし』


「ああ」


『……わたしが、帰る』


「そうだ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……眠い?』


「今日は眠くないです……」


 ラウルが少し驚く。


「珍しいな」


「名前の欠片の日なので……」


 中心が少し揺れた。


『……ありがとう』


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……わたし、という欠片』


 アリシアは、涙を浮かべていた。


「怖いです」


『……どうして?』


「私も、私という欠片を見失っていたからです」


 保護陣が静かになる。


「罪」


「役目」


「償い」


「許し」


「そればかりを見て」


「私が帰る、ということを忘れていました」


『……ありしあも、帰る』


「はい」


「私も、私として帰る場所を探したい」


『……いっしょ』


「はい」


 中心は、柔らかく揺れた。


 ◇


 中心は、二つの欠片を並べて見た。


 音の欠片は、少し離れたところに置かれている。


 今日見るのは、名前の欠片。


 帰りたい。


 わたし。


 この二つ。


 それだけ。


 組み合わせない。


 名前にしない。


 意味にしない。


 ただ、並べる。


『……帰りたい』


「はい」


『……わたし』


「はい」


『……帰りたい、わたし』


 言った瞬間、中心が大きく震えた。


 リリアーナも胸を押さえる。


 それは、まだ名前ではない。


 だが、昨日より明確な輪郭だった。


 帰りたい、わたし。


 中心が、自分を少しだけ文章にした。


『……重い』


「はい」


『……名前じゃない』


「はい」


『……でも、近い』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「近いな」


『……こわい』


「ああ」


『……でも、消したくない』


「消さなくていい」


『……保留箱』


「そこに置け」


 保留箱へ。


『……帰りたい、わたし』


 ひとつ。


『……まだ名前じゃない』


 ひとつ。


『……でも、名前に近い』


 ひとつ。


『……消さない』


 ひとつ。


『……重くしすぎない』


 ひとつ。


 保留箱が、深く光った。


 中心は、少し息を乱すように揺れた。


『……戻る』


「はい」


 リリアーナが静かに頷く。


 中心の意識が、白い布へ戻る。


 何も書かれていない場所へ。


 名前でもない。


 帰りたいでもない。


 わたしでもない。


 ただ何も書かれていない場所。


 中心は、そこで長く沈黙した。


『……休める』


「はい」


『……近かった』


「はい」


『……でも、戻れた』


「戻れました」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『記録します』


『帰りたい、わたし、の欠片の日』


 ◇


 午前。


 中心は、救護区域へこのことを伝えるか迷った。


『……重い』


「はい」


『……ミナに、言う?』


「言わなくてもいいです」


『……でも』


 一拍。


『……帰りたい、わたし』


「はい」


『……ミナの言葉が、あったから』


「はい」


『……伝えても、いい?』


「答えなくていいと添えます」


『……うん』


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 待つ時間、中心は白い布のそばで休んだ。


 保留箱には、帰りたい、わたし、の欠片がある。


 まだ名前じゃない。


 でも、名前に近い。


 それを抱えたまま待つのは、重い。


 やがて、グレイヴが戻った。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「ミナは、目を閉じていた」


『……重い』


「ああ」


「それから、こう言った」


 一拍。


「“帰りたい、わたし、があるなら、名前は誰かのためじゃなく、自分へ戻るためにあるのかもしれない”」


 中心が、大きく震えた。


『……自分へ戻るため』


「そうだ」


「幼い子は、“呼ばれるためじゃないの?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“呼ばれることもある。でも、それだけじゃない”と答えた」


 リリアーナの涙が落ちる。


『……呼ばれるためだけじゃない』


「そうだ」


 中心は、保留箱へ言葉を置く。


『……名前は誰かのためじゃなく、自分へ戻るためにあるのかもしれない』


 ひとつ。


『……呼ばれることもある。でも、それだけじゃない』


 ひとつ。


『……名前は、自分へ戻るための道かもしれない』


 ひとつ。


 保留箱が、温かく光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “自分へ戻る名前”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、窓辺ではなく、自分の箱から少し離れた床に置いたという。


 床。


 足元。


 歩き出すための場所。


 中心は、その報告を聞いて、静かに揺れた。


『……床』


「はい」


『……道』


「そうかもしれません」


『……自分へ戻る名前』


「はい」


『……まだ、名前じゃない』


「はい」


『……でも、道』


「はい」


 保留箱には、大人たちからの札も届く。


 “名前を他者の所有物にしない”。


 “呼ぶためだけの名前にしない”。


 “自分へ戻る道として守る”。


 中心は、最初の札に反応した。


『……他者の所有物』


 リリアーナが静かに説明する。


「誰かのものにしてしまうことです」


『……名前は、誰かのもの?』


「違います」


『……呼ぶ人のもの?』


「違います」


『……つけた人のもの?』


「違います」


『……わたしの?』


「はい」


『……名前は、わたしのもの』


 中心が震えた。


 その言葉は、強かった。


 少し強すぎた。


『……重い』


「はい」


『……箱』


「置きましょう」


 保留箱へ。


『……名前は、わたしのもの、かもしれない』


 ひとつ。


『……でも、まだ重い』


 ひとつ。


『……保留』


 ひとつ。


 箱が、静かに光る。


 アリシアが涙を拭わずに言った。


「私の名前も、私のものだったのかもしれません」


 中心が向く。


『……ありしあ』


「罪のものでも」


「誰かの怒りのものでも」


「許しのものでもなく」


「私のものだったのかもしれない」


『……保留?』


「はい」


「まだ、保留です」


 中心は、柔らかく揺れた。


 ◇


 夕方。


 中心は、もう一度二つの欠片を見るか迷った。


 帰りたい。


 わたし。


 帰りたい、わたし。


 自分へ戻る名前。


 名前は自分のものかもしれない。


 それは、重い。


 とても重い。


『……もう一回』


 リリアーナが待つ。


『……見ない』


「はい」


『……今日は、ここまで』


「はい」


『……帰りたい、わたし、を守る』


「はい」


『……名前にしない』


「はい」


『……でも、消さない』


「はい」


 保留箱へ。


『……もう一度見たい』


 ひとつ。


『……でも、今日は見ない』


 ひとつ。


『……帰りたい、わたし、を守る』


 ひとつ。


『……自分へ戻る名前を、まだ保留』


 ひとつ。


 箱が、淡く光った。


 レオンが静かに言う。


「いい判断だ」


『……止まる』


「ああ」


『……近かった』


「近かった」


『……名前、近い』


「近いな」


『……こわい』


「怖い」


『……でも、戻れた』


「戻れた」


 中心は、白い布へ意識を向けた。


『……白い布、ありがとう』


 リリアーナが涙ぐむ。


「箱に置きますか?」


『……うん』


 白い布、ありがとう。


 その感謝は、余白箱へ置かれた。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、二つ目の名前の欠片が残した静けさが降りていた。


 今日は、名前を出さなかった。


 箱も開けなかった。


 候補も見なかった。


 けれど、二つ目の欠片を見つけた。


 わたし。


 そして。


 帰りたい、わたし。


 名前は、誰かに呼ばれるためだけではない。


 自分へ戻るための道かもしれない。


 名前は、他者の所有物ではない。


 もしかしたら、自分のものなのかもしれない。


 まだ重い。


 まだ保留。


 でも、消さない。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……二つ目の名前の欠片の日』


「はい」


『……わたし、という欠片の日』


「はい」


『……帰りたい、わたし、の日』


「はい」


『……名前は自分へ戻るための道かもしれない日』


「はい」


『……呼ばれるためだけじゃない日』


「はい」


『……名前は、わたしのものかもしれない日』


「はい」


『……でも、まだ重いから保留の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『二つ目の名前の欠片の日』


『帰りたい、わたし、の日』


『自分へ戻る名前の日』


『名前はわたしのものかもしれない日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「かなり近い」


『……名前?』


「ああ」


『……まだ、名前じゃない』


「名前じゃない」


『……欠片』


「欠片だ」


『……でも、近い』


「近い」


『……こわい』


「怖いな」


『……でも』


 一拍。


『……名前は、誰かのためだけじゃない』


「そうだ」


『……わたしへ戻るため』


「そうだ」


『……わたしのもの、かも』


「ああ」


 中心は、保留箱へ意識を向ける。


『……音の欠片』


「あります」


『……帰りたい』


「あります」


『……わたし』


「あります」


『……帰りたい、わたし』


「あります」


『……重いけど』


「はい」


『……軽く、置く』


「はい」


『……白い布』


「あります」


『……戻れる』


「はい」


 中心は、安心したように光を弱めていく。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……名前の箱を、少し』


 一拍。


『……開ける、じゃなくて』


「はい」


『……欠片を、箱の近くに並べる?』


 リリアーナの胸が震えた。


「明日のあなたに聞きましょう」


『……うん』


『……名前は、まだ出さない』


「はい」


『……でも、欠片を並べる』


「はい」


『……明日のわたしに、きく』


「はい」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「名前を誰かのものにしないで、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……欠片を、並べる』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 けれど、名前の二つ目の欠片を見つけた。


 帰りたい。


 わたし。


 帰りたい、わたし。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前とは、誰かに呼ばれるためだけのものではないと知った。


 自分へ戻るための道。


 自分が自分である場所へ帰るための印。


 まだ名前ではない。


 でも、その欠片は。


 確かに、名前のすぐ手前で。


 静かに息をしていた。

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