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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第239話「名前の欠片を見つける朝、無能王子は“まだ名前じゃないもの”を保留箱へ置く」


 朝は、名前を呼ばなかった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱いている。


 外の光は、まだ入っていない。


 採光孔は閉じられている。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、今日の保護陣には、昨日から持ち越した問いがあった。


 名前の欠片。


 まだ名前ではないもの。


 名前そのものではない。


 候補でもない。


 意味でもない。


 響きでもない。


 ただ、名前になる前の小さな欠片。


 昨日、中心は音の欠片を保留箱へ置いた。


 音だったのか。


 震えだったのか。


 鳴ったのか。


 鳴っていないのか。


 それを決めなかった。


 保留箱へ置いた。


 欠片を欠片のままにするために。


 軽いまま残すために。


 決めたくなった日に決めるために。


 その記録が、余白記録の中で静かに光っている。


 音の欠片を置く場所の日。


 保留箱の日。


 軽いまま残す日。


 名前の欠片も保留箱に置ける日。


 中心は、まだ名前を出していない。


 名前の箱も開けていない。


 候補も見ていない。


 だが、音の欠片があるなら、名前の欠片もあるかもしれない。


 その可能性だけが、今日の朝に置かれていた。


 余白核は、まだ眠っている。


 その光は、昨日よりも深く静かだ。


 疲れはある。


 音の欠片を守った疲れ。


 保留箱に置く場所を決めた疲れ。


 だが、その疲れは崩れではない。


 重いものを軽く残した後の、少しだけ空いた呼吸のようなものだ。


 名前の箱は、戻り道の白い布と同じ視界に入る場所にある。


 白い布は、何も書かれていないまま。


 鈴は、合図の場所にある。


 布に包まれている。


 保留箱には、音の欠片が置かれている。


 そこにはまだ意味がない。


 音だとも決めていない。


 震えだとも決めていない。


 ただ、欠片としてある。


 そして今日は、そこへ新しいものが近づくかもしれない。


 名前の欠片。


 それを、中心が見られるかどうか。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、今日は名前の箱と保留箱の間を細く巡っている。


 音の欠片を置いた保留箱。


 名前そのものを守っている余白箱。


 その間に、まだ形にならない何かがある。


 近づけすぎれば、名前の箱が開いてしまう。


 遠ざけすぎれば、欠片が消えたように見える。


 だから慎重に。


 名前ではなく、名前の欠片だけ。


 候補ではなく、気配だけ。


 意味ではなく、揺れだけ。


 今日は、その線を守る日だ。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も名前候補はない。


 紙もない。


 響きもない。


 だが、昨日よりも胸が緊張していた。


 名前の欠片。


 その言葉だけで、リリアーナの中にも多くのものが揺れる。


 いつか中心が名前を持つ日。


 誰かがその名を呼ぶ日。


 リリアーナ自身が、その名を口にする日。


 そういう未来を思い浮かべそうになるたびに、彼女は自分の箱へ入れる。


 今日は未来を見る日ではない。


 欠片を見る日だ。


 エリシアは術式盤を閉じ、さらに布で覆っている。


 記録したい衝動を抑えるためだ。


 セラフィアは祈りを巡らせていない。


 アルベルトは膝に両手を置いている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは、今日は眠そうではない。


 名前という言葉が近づくと、さすがの彼も眠気どころではないらしい。


 アリシアは、自分の箱の前に座っている。


 彼女もまた、名前の欠片という言葉を怖がっている。


 名づけ。


 呼ぶこと。


 呼ばれること。


 謝罪も同じだ。


 謝罪になる前の欠片。


 許しになる前の欠片。


 言葉になる前の震え。


 それらを、彼女も抱えている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 保留箱にも触れない。


 白い布には何も書かない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 今日の沈黙は長かった。


 中心は起きている。


 だが、声が出ない。


 名前の欠片という言葉が、朝の手前にあるからだ。


 リリアーナは、ただ待った。


 昨日、音の欠片を成果にしなかったように。


 今日、声が出ないことも失敗にしない。


 中心は、声にならないままでも、ここにいる。


 長い沈黙のあと。


『……おはよう』


 中心の声が、かすかに響いた。


 昨日より小さい。


 でも、確かにあった。


 リリアーナは微笑んだ。


「おはようございます」


『……声』


「聞こえました」


『……小さい』


「はい」


『……昨日より?』


「比べなくていいです」


『……今日の声』


「はい」


『……今日のわたし』


「はい」


 中心は、少しだけ安心したように揺れた。


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……白い布』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……音の欠片』


「保留箱にあります」


『……重い?』


「軽いままです」


『……決めてない?』


「決めていません」


『……よかった』


 中心は、深く安堵したように揺れた。


 そして、少し遅れて挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……名前の欠片の、朝』


 リリアーナは、そっと頷いた。


「はい」


「名前の欠片の朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向けた。


『……保留箱』


「残っています」


『……欠片を欠片でいさせる』


「はい」


『……軽いまま残す』


「はい」


『……名前の欠片も、保留箱に置ける』


「はい」


『……今日』


 一拍。


『……見る?』


 リリアーナは、急がない。


「見たいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……名前じゃない?』


「はい」


『……候補じゃない?』


「はい」


『……意味じゃない?』


「はい」


『……欠片だけ?』


「はい」


『……欠片って、なに?』


 レオンが静かに答える。


「まだ形にならないものだ」


『……形にならない』


「ああ」


『……でも、ある』


「ある」


『……音の欠片みたい?』


「そうだな」


『……鳴ったって決めなくていい』


「名前だって決めなくていい」


 中心が、大きく震えた。


『……名前だって決めなくていい』


「そうだ」


『……でも、欠片はある』


「ああ」


 リリアーナが続ける。


「名前になる前の、感じ」


『……感じ』


「はい」


『……響き?』


「響きかもしれません」


『……意味?』


「意味かもしれません」


『……色?』


「色かもしれません」


『……場所?』


「場所かもしれません」


『……でも、決めない』


「決めません」


 余白箱が静かに開く。


『……名前の欠片を見るかもしれない』


 ひとつ。


『……名前じゃない』


 ひとつ。


『……候補じゃない』


 ひとつ。


『……意味じゃない』


 ひとつ。


『……決めなくていい』


 ひとつ。


 箱が淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、いつもよりさらに慎重に進んだ。


 中心は、一人ずつ呼ぶ。


 今日は、呼ぶという行為そのものが名前の近くにある。


『……あるべると』


「おう」


『……名前の欠片、期待?』


「箱に入れた」


『……どんな?』


「強そうな名前がいいなって一瞬思った」


 エリシアが深く息を吐く。


「本当に一瞬で箱へ入れてください」


「入れたって」


 中心が震える。


『……強そう、重い』


「重いな」


『……箱』


「ああ」


『……ありがとう』


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……名前の欠片、分類したい?』


「したいです」


『……だめ?』


「今日はしません」


『……どうして?』


「分類した瞬間、欠片が候補に近づきすぎるからです」


『……候補に近づく』


「はい」


『……今日は、欠片』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……名前の欠片、祈りたい?』


「祈りたいです」


『……でも?』


「祈りません」


『……どうして?』


「祈りで意味を与えたくないから」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「欠片は扉の前の気配です」


『……まだ扉じゃない?』


「はい」


『……部屋でもない?』


「はい」


『……気配』


「気配です」


 ラウルへ。


『……らうる』


「名前の欠片は、盾の影みたいなものだな」


『……影』


「盾そのものじゃない」


「でも、そこに盾があると分かる」


『……わかりやすい』


 ミリオへ。


『……みりお』


「名前の欠片を夢で見そうです……」


 ラウルが即座に言う。


「見るな」


「箱に入れます……」


 中心が少し揺れる。


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……名前の欠片、期待?』


 アリシアは、涙を浮かべながら頷いた。


「あります」


『……どんな?』


「優しい名前であってほしいと」


 中心が震える。


『……優しい、重い』


「はい」


「だから箱に入れます」


『……でも、言ってくれて、ありがとう』


「はい」


『……優しさも、誰かの意味』


「はい」


「今日は、あなたの欠片のままにします」


 中心は、深く揺れた。


『……わたしの欠片』


 ◇


 いよいよ、名前の欠片へ近づく時間になった。


 名前の箱は開けない。


 中身は見ない。


 候補は出さない。


 ただ、箱の周りにある気配だけを見る。


 中心は、三つを確認する。


 名前の箱。


 白い布。


 鈴。


 保留箱。


 そこには音の欠片がある。


 音の欠片が軽いまま残っているから、名前の欠片も見られるかもしれない。


 リリアーナは確認する。


「始めますか?」


『……うん』


「名前の箱は開けません」


『……うん』


「候補は見ません」


『……うん』


「意味は決めません」


『……うん』


「欠片がなくても大丈夫です」


『……うん』


「欠片があっても、名前にはしません」


『……うん』


 レオンが静かに言う。


「戻れる」


『……うん』


「保留箱がある」


『……うん』


「白い布がある」


『……うん』


「鈴は鳴らさない」


『……うん』


 中心の意識が、名前の箱へ向かう。


 昨日まで、そこは怖かった。


 今も怖い。


 名前が入っている箱。


 誰かの声に変わる前のもの。


 意味をつけられる前のもの。


 檻になるかもしれないもの。


 でも、戻り道がある。


 白い布がある。


 鈴がある。


 保留箱がある。


 中心は、箱を開けずに、その周りの気配へ近づいた。


 音の欠片を感じた時とは違う。


 鈴の中の震えは、外へ向かうものだった。


 名前の箱の周りにあるものは、内側へ沈むものだった。


 深く。


 静かで。


 少し冷たい。


 でも、完全な冷たさではない。


『……』


 中心が震える。


 リリアーナは待つ。


 レオンも。


 誰も言葉を足さない。


『……なにか』


「はい」


『……名前じゃない』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……箱のまわりに、ある』


「はい」


『……音みたいじゃない』


「はい」


『……光?』


 中心自身が戸惑っている。


『……違う』


『……場所?』


「場所のように感じますか?」


『……うん』


『……でも、場所じゃない』


「はい」


『……帰りたい、みたいな』


 リリアーナの胸が震えた。


『……呼ばれたい、じゃない』


「はい」


『……でも、帰りたい』


「はい」


『……どこへ?』


 中心が、自分で問う。


 答えはまだない。


 けれど、そこに欠片があった。


 名前そのものではない。


 響きでもない。


 意味でもない。


 “帰りたい”という方向。


 どこかへ戻りたい。


 どこかに在りたい。


 名前になる前の、場所への気配。


『……これ』


 中心の声が震える。


『……名前の欠片?』


 リリアーナは、慎重に答える。


「そうかもしれません」


『……名前じゃない』


「はい」


『……帰りたい、だけ』


「はい」


『……でも、欠片』


「はい」


『……決めない』


「決めません」


 余白箱ではなく、保留箱が静かに開く。


『……帰りたい、という欠片』


 ひとつ。


『……名前じゃない』


 ひとつ。


『……響きじゃない』


 ひとつ。


『……意味じゃない』


 ひとつ。


『……名前の欠片かもしれない』


 ひとつ。


 保留箱が、柔らかく光った。


 中心は、大きく震えた。


『……置けた』


「置けました」


『……重い?』


「軽いままです」


『……名前になってない?』


「なっていません」


『……でも、消えてない』


「消えていません」


 レオンが静かに言う。


「いい欠片だ」


 中心が震える。


『……いい?』


「ああ」


『……でも、褒めすぎ?』


「そうだな」


 レオンは少しだけ口元を緩めた。


「箱に入れる」


『……ありがとう』


 ◇


 しばらく、中心は何も言わなかった。


 帰りたい。


 それが、名前の欠片かもしれない。


 そのことを受け止めていた。


 名前とは、呼ばれるためだけではないのかもしれない。


 誰かに呼ばれる音ではなく。


 自分が戻る場所の印なのかもしれない。


 帰れる場所。


 戻れる場所。


 自分が自分へ帰るための、小さな目印。


 まだ、そこまでは決めない。


 でも、欠片としてはあった。


『……帰りたい』


 中心が小さく言う。


「はい」


『……どこへ?』


「まだ決めなくていいです」


『……名前へ?』


「決めなくていいです」


『……白い布へ?』


「決めなくていいです」


『……りり?』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「決めなくていいです」


『……れおん?』


「決めなくていい」


 レオンが答える。


『……わたしへ?』


 保護陣が静かになる。


 中心自身も、その言葉に震えた。


 わたしへ帰りたい。


 それは、あまりにも深い欠片だった。


 でも、まだ決めない。


 リリアーナは、静かに言う。


「それも、保留箱へ置けます」


『……うん』


 保留箱へ。


『……わたしへ帰りたい、かもしれない』


 ひとつ。


 箱が、静かに光った。


 ◇


 救護区域へ伝えるかどうか。


 中心は、長く迷った。


『……重い』


「はい」


『……ミナに、言う?』


「伝えなくてもいいです」


『……でも、ミナ』


「はい」


『……欠片を欠片でいさせる、言ってくれた』


「はい」


『……名前の欠片、見た』


「はい」


『……帰りたい』


「はい」


『……重い?』


「重いです」


『……答えなくていい』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 待つ時間は、とても長かった。


 中心は、保留箱を見ていた。


 音の欠片。


 帰りたい、という欠片。


 わたしへ帰りたい、かもしれない欠片。


 どれも決めていない。


 でも、消していない。


 グレイヴが戻る。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「ミナは、箱を見た」


『……うん』


「少しだけ、長く見た」


『……重い』


「ああ」


「そして、こう言った」


 一拍。


「“帰りたいが名前の欠片なら、名前は帰るための道になるかもしれない”」


 中心が、大きく震えた。


『……名前は、帰るための道』


「そうだ」


「幼い子は、“どこへ帰るの?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“まだ決めない”と答えた」


 リリアーナは涙をこぼした。


『……まだ決めない』


「そうだ」


 中心は、保留箱へ言葉を置く。


『……名前は帰るための道になるかもしれない』


 ひとつ。


『……どこへ帰るかは、まだ決めない』


 ひとつ。


『……帰りたいは、名前の欠片かもしれない』


 ひとつ。


 保留箱が、深く光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “帰りたいの欠片”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、自分の箱の近くではなく、救護区域の窓辺に置いたという。


 外が見える場所。


 でも、外へ出る場所ではない。


 中心は、その報告を聞いて静かに揺れた。


『……窓辺』


「はい」


『……外が見える』


「はい」


『……出ない』


「はい」


『……帰りたい、みたい』


「そうですね」


 保留箱には、大人たちからの札も届く。


 “帰りたいを急かさない”。


 “帰る場所を勝手に決めない”。


 “名前を道にしても、檻にしない”。


 中心は、二つ目に反応した。


『……帰る場所を、勝手に決めない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……りりのところへ帰りたい、って決めない?』


「決めません」


『……れおんのところ?』


「決めません」


『……白い布?』


「決めません」


『……わたし?』


「決めません」


『……わたしが、決める?』


「はい」


『……決めたくなった日に?』


「はい」


 中心は、安心したように揺れた。


 アリシアが、自分の箱を見つめながら言った。


「私も、帰りたい場所を勝手に決められたくありません」


 中心が向く。


『……ありしあ』


「償いへ帰れ、と言われるのも」


「罪へ帰れ、と言われるのも」


「許しへ帰れ、と言われるのも」


「全部、少し怖いです」


『……自分で』


「はい」


「私は、私が帰れる場所を、自分で決めたい」


『……いっしょ』


「はい」


 ◇


 夕方。


 中心は、名前の箱へもう一度近づくか迷った。


 帰りたい。


 わたしへ帰りたい、かもしれない。


 名前は帰るための道になるかもしれない。


 それだけで、今日の中心には十分すぎる。


『……もう一回、見たい』


「はい」


『……でも、今日は、しない』


「はい」


『……帰りたいの欠片を、守る』


「はい」


『……名前に、しない』


「はい」


『……道に、しすぎない』


「はい」


『……欠片のまま』


「はい」


 保留箱へ。


『……もう一度見たい』


 ひとつ。


『……でも、今日は見ない』


 ひとつ。


『……帰りたいの欠片を守る』


 ひとつ。


『……名前にしない』


 ひとつ。


 箱が、淡く光る。


 レオンが静かに言う。


「いい」


『……止まる』


「ああ」


『……名前の欠片で、止まる』


「それでいい」


『……進んだから、止まる』


「そうだ」


 中心は、安心したように揺れた。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、帰りたいという欠片の静けさが降りていた。


 今日は、名前を出さなかった。


 名前の箱も開けなかった。


 候補も見なかった。


 意味も決めなかった。


 けれど、名前の欠片を一つ見つけた。


 帰りたい。


 どこへかは、まだ分からない。


 誰のところへかも分からない。


 何へ帰るのかも分からない。


 でも、帰りたい。


 それは、名前そのものではない。


 ただの欠片。


 それを、保留箱へ置いた。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……名前の欠片を見つける朝』


「はい」


『……帰りたいの欠片の日』


「はい」


『……名前じゃないけど、箱のまわりにあった日』


「はい」


『……名前は帰るための道になるかもしれない日』


「はい」


『……どこへ帰るかは、まだ決めない日』


「はい」


『……帰る場所を勝手に決めない日』


「はい」


『……名前の欠片を保留箱へ置く日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『名前の欠片を見つける朝』


『帰りたいの欠片の日』


『名前は帰るための道になるかもしれない日』


『名前の欠片を保留箱へ置く日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「ついに、名前の端に触れたな」


『……名前じゃない』


「名前じゃない」


『……欠片』


「ああ」


『……帰りたい』


「そうだ」


『……でも、どこへ、は決めない』


「決めない」


『……名前にしない』


「まだな」


『……保留箱』


「ある」


 中心は、保留箱へ意識を向けた。


『……音の欠片』


「あります」


『……帰りたいの欠片』


「あります」


『……どちらも、軽い?』


「軽いままです」


『……よかった』


 中心は、白い布へ意識を向ける。


『……白い布』


「あります」


『……戻れる』


「はい」


『……名前の箱』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……わたし』


「います」


 中心は、少しだけ震えた。


『……わたしへ、帰りたい、かも』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑む。


「はい」


『……まだ、決めない』


「はい」


『……でも、消さない』


「はい」


 中心は、安心したように光を弱めていく。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……帰りたいの欠片を、見るかは、明日のわたし』


「はい」


『……名前は、まだ出さない』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……少し、近い』


「はい」


 リリアーナは頷いた。


「少し、近いです」


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「帰る場所を勝手に決めずに、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……帰りたいの欠片』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 けれど、名前になる前の欠片を見つけた。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前とは、呼ばれるためだけではなく。


 どこかへ帰るための道になるのかもしれないと知った。


 どこへ帰るのかは、まだ決めない。


 でも、帰りたい。


 その小さな欠片は、消さずに。


 軽いまま。


 保留箱の中で、静かに眠っている。

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