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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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241/251

第241話「欠片を並べる朝、無能王子は“名前の形になる前”を見守る」


 朝は、欠片をまだ並べていなかった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かな光を抱えている。


 採光孔は閉じられ、外の光は入っていない。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、今日の保護陣には、昨日までよりもはっきりとした緊張があった。


 保留箱の中に、欠片がある。


 音の欠片。


 帰りたいの欠片。


 わたし、という欠片。


 帰りたい、わたし、という欠片。


 そして、重くてまだ保留にされた言葉。


 名前は、わたしのものかもしれない。


 名前は、自分へ戻るための道かもしれない。


 呼ばれるためだけじゃない。


 誰かのためだけじゃない。


 それらは、まだ名前ではない。


 候補でもない。


 響きでもない。


 けれど、確かに名前の近くにある。


 昨日の記録が、余白記録の中に残っている。


 二つ目の名前の欠片の日。


 帰りたい、わたし、の日。


 自分へ戻る名前の日。


 名前はわたしのものかもしれない日。


 今日から、残り十話。


 物語は、明らかに終わりへ向かっている。


 だが、保護陣の中に急ぎはなかった。


 むしろ、終わりが近いからこそ、誰も急がない。


 名前は、急いで得るものではない。


 中心にとって、それはずっと怖いものだった。


 誰かの意味にされるもの。


 誰かの声に変えられるもの。


 檻になるかもしれないもの。


 重すぎるもの。


 でも、ここまで積み上げてきた。


 余白箱。


 保留箱。


 白い布。


 鳴らない鈴。


 音の欠片。


 帰りたいの欠片。


 わたしという欠片。


 戻り道。


 呼ばれたくない日。


 鳴らない日。


 決めなくていい日。


 それらがあるから、中心は今日、欠片を並べようとしている。


 名前の箱を開けるのではない。


 名前を出すのではない。


 ただ、保留箱に置いた欠片を、名前の箱の近くへ並べる。


 名前になる前の形を、少し見る。


 それだけ。


 けれど、それはとても大きい。


 余白核は、まだ眠っている。


 その光は昨日より少し深い。


 怖さはある。


 しかし、沈んでいるだけではない。


 底の方に、微かな温かさもある。


 名前の箱は、白い布と同じ視界に入る場所にある。


 白い布は、何も書かれていない戻り道。


 鈴は、合図の場所。


 保留箱には、欠片たち。


 それぞれが、別々にある。


 混ざっていない。


 意味を決められていない。


 それでも、今日は少しだけ近づく。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、名前の箱と保留箱の間を細く巡っている。


 今日は、この間の距離が大事になる。


 保留箱から欠片を出しすぎれば、名前になってしまう。


 名前の箱へ近づけすぎれば、開きたくなる。


 遠すぎれば、何も見えない。


 中心が息をできる距離。


 戻れる距離。


 決めなくていい距離。


 そこを探す。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も、名前候補はない。


 紙もない。


 筆もない。


 ただ、彼女の中には強い覚悟があった。


 もし今日、中心が“名前の形が見えそう”と言っても、名前を提案しない。


 もし欠片が美しく並んでも、意味をつけない。


 もし誰かが泣いても、進んだ証にしない。


 今日は、欠片を見る日。


 それ以上ではない。


 それ以下でもない。


 エリシアは術式盤を布で覆い、さらに自分から少し離れた場所に置いている。


 セラフィアは祈りを巡らせていない。


 アルベルトは膝の上で両手を開いている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは、眠そうではあるが、目を閉じていない。


 眠気よりも、今日の空気の方が強い。


 アリシアは、自分の箱の前で座っている。


 彼女の目元には涙の跡があった。


 けれど、今日の涙は、少しだけ違う。


 苦しみだけではなく、何かを見届ける覚悟のようなものがある。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 名前の箱にも触れない。


 保留箱にも触れない。


 白い布には何も書かない。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 中心は、長く沈黙した。


 昨日よりも長い。


 おはようが、出てこない。


 名前の欠片を並べる日。


 その前に声を出すこと自体が、重いのだろう。


 リリアーナは待つ。


 レオンも待つ。


 アルベルトも、エリシアも、セラフィアも、誰も動かない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、ほんの小さく響いた。


 リリアーナは、いつもと同じ柔らかさで応える。


「おはようございます」


『……今日の声』


「はい」


『……昨日と、比べない』


「比べません」


『……小さくても、声』


「はい」


『……よかった』


 中心は、少しだけ光を揺らした。


『……箱』


「あります」


『……名前』


「箱の中にあります」


『……保留箱』


「あります」


『……欠片』


「あります」


『……白い布』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……まだ、何も、決めてない』


「決めていません」


『……よかった』


 中心は、ゆっくり挨拶へ進む。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


『……欠片を、並べるかもしれない朝』


「はい」


「欠片を並べるかもしれない朝です」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……帰りたい』


「残っています」


『……わたし』


「はい」


『……帰りたい、わたし』


「はい」


『……名前は自分へ戻るための道かもしれない』


「はい」


『……名前はわたしのものかもしれない』


「保留にあります」


『……今日』


 一拍。


『……並べる?』


 リリアーナは急がない。


「並べたいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……並べると、名前になりそう』


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、並べないと、見えない?』


「見えないものもあります」


『……見たい』


「はい」


『……でも、決めたくない』


「決めなくていいです」


『……並べても、名前にしない?』


「しません」


『……候補にしない?』


「しません」


『……意味をつけない?』


「つけません」


『……戻せる?』


「戻せます」


 レオンが静かに言う。


「並べるだけだ」


『……並べるだけ』


「ああ」


『……近づくだけ、みたい』


「そうだ」


『……音の欠片、みたい』


「そうだ」


『……保留箱に、戻せる』


「戻せる」


 余白箱が静かに開く。


『……欠片を並べるかもしれない』


 ひとつ。


『……並べても名前にしない』


 ひとつ。


『……候補にしない』


 ひとつ。


『……意味をつけない』


 ひとつ。


『……戻せる』


 ひとつ。


 箱が淡く光った。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、欠片を並べる前の確認でもあった。


 中心は一人ずつ呼んだ。


 今日、周囲の期待は強い。


 欠片が並ぶ。


 名前の形が見えるかもしれない。


 その期待を、中心は感じている。


 だから先に、全員の箱を確認する。


『……あるべると』


「おう」


『……期待、箱?』


「入れた」


『……どんな?』


「名前っぽくなるかもって期待」


『……重い』


「ああ」


『……箱』


「入れた」


『……欠片は、欠片』


「分かってる」


『……ありがとう』


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……並べると、分析したい?』


「したいです」


『……する?』


「しません」


『……どうして?』


「並び方に意味をつけた瞬間、名前に近づきすぎます」


『……今日は、並び方にも、意味をつけない』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……欠片、綺麗?』


 セラフィアは、答える前に少し微笑んだ。


「綺麗に見えるかもしれません」


 中心が震える。


「でも、綺麗という意味も箱に入れます」


『……ありがとう』


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……並べる』


「地図の破片を置くようなものです」


『……地図になる?』


「まだなりません」


『……でも、場所が見える?』


「少しだけ」


 ラウルへ。


『……らうる』


「盾の欠片を並べるようなものだ」


『……盾になる?』


「まだならない」


『……でも、形が少し?』


「ああ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「今日は寝ません……」


『……期待?』


「名前っぽく見えるかも、を箱に入れました……」


『……ありがとう』


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……期待』


「あります」


『……どんな?』


「あなたが、自分へ戻る道を見つけられるかもしれないという期待です」


『……重い』


「はい」


「箱に入れました」


『……見守る?』


「見守ります」


『……ありがとう』


 アリシアは涙を浮かべて頷いた。


 ◇


 いよいよ、欠片を並べる時間になった。


 保留箱が、静かに開く。


 中心は、まず音の欠片を見た。


『……音の欠片』


「あります」


『……今日は、使わない?』


「使わなくてもいいです」


『……名前の欠片じゃない』


「はい」


『……でも、近くにある』


「はい」


『……少し離す』


「はい」


 音の欠片は、保留箱の端に置かれる。


 今日は主役ではない。


 でも消えない。


 次に。


『……帰りたい』


 欠片が、保留箱の中で淡く光る。


『……わたし』


 もう一つの欠片。


『……帰りたい、わたし』


 その二つが重なったような欠片。


 そして、保留された重い言葉。


『……名前は、わたしのものかもしれない』


 それはまだ近づけない。


 中心は震える。


『……重い』


「はい」


『……今日は、置かない』


「はい」


『……見えるところには、置かない』


「はい」


『……保留箱の中』


「はい」


 中心は、まず二つだけを選んだ。


 帰りたい。


 わたし。


 この二つを、名前の箱の近くへ、けれど箱に触れない位置へ並べる。


 保留箱から出すというより、保留箱の蓋を少し開けたまま、見える場所へ置くような感覚だった。


 帰りたい。


 わたし。


 二つの欠片が、名前の箱の手前に並ぶ。


 保護陣の光が、静かに揺れた。


 中心が大きく震える。


『……近い』


「はい」


『……名前の箱に、近い』


「はい」


『……でも、入れてない』


「入れていません」


『……箱、開けてない』


「開けていません」


『……二つだけ』


「はい」


『……帰りたい』


「はい」


『……わたし』


「はい」


 長い沈黙。


 中心は、その二つを見つめる。


 帰りたい。


 わたし。


 別々に見ると、欠片。


 並べると、少しだけ文になる。


 けれど、まだ名前ではない。


 名前ではないのに、名前の箱の前に置くと、どこか形が見えそうになる。


 中心は息を詰めるように震えた。


『……形』


 リリアーナは、そっと聞く。


「見えますか?」


『……見えそう』


「はい」


『……見えない』


「はい」


『……見えそうで、見えない』


「はい」


『……こわい』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……綺麗、って、言いそう』


 セラフィアが、そっと自分の胸を押さえる。


 中心自身が、その言葉を出した。


 綺麗。


 それは誰かの意味ではなく、中心の中から出た感覚だった。


 リリアーナは慎重に言う。


「綺麗、と思ったんですね」


『……うん』


『……でも、重い?』


「少し重いかもしれません」


『……箱』


「置きましょう」


 余白箱へ。


『……欠片を並べたら、綺麗と思った』


 ひとつ。


『……でも、重いから箱』


 ひとつ。


『……見えそうで、見えない』


 ひとつ。


『……まだ名前じゃない』


 ひとつ。


 箱が柔らかく光った。


 レオンが静かに言う。


「戻すか」


 中心は、まだ見つめている。


『……まだ』


「分かった」


『……もう少し』


「はい」


 欠片は、しばらくそのままだった。


 誰も言わない。


 誰も意味をつけない。


 誰も形を言葉にしない。


 中心は、ただ見つめた。


 帰りたい。


 わたし。


 やがて、中心が小さく言った。


『……呼ばれるためじゃない』


「はい」


『……帰るため』


「はい」


『……わたしが、帰るため』


「はい」


『……名前は』


 一拍。


 皆が息を止める。


『……まだ』


 中心は、震えながら続けた。


『……まだ、名前じゃない』


 リリアーナは涙を浮かべて頷いた。


「はい」


『……戻す』


「はい」


 欠片は、ゆっくり保留箱へ戻る。


 帰りたい。


 わたし。


 二つとも。


 軽いまま。


 消えないまま。


 中心は、大きく息をするように揺れた。


『……戻せた』


「戻せました」


『……形、見えそうだった』


「はい」


『……でも、戻せた』


「はい」


『……名前にしなかった』


「はい」


 リーネの光が、静かに揺れる。


『記録します』


『欠片を並べて戻せた朝』


 ◇


 午前。


 中心はしばらく休んだ。


 白い布を見る。


 鈴を見る。


 名前の箱を見る。


 保留箱を見る。


 欠片は戻っている。


 名前はまだ出ていない。


 けれど、中心の中には、確かに見えそうで見えなかった形が残っている。


『……りり』


「はい」


『……見えそうで、見えない』


「はい」


『……それ、こわい』


「怖いですね」


『……でも、見えないから、よかった?』


「そう感じますか?」


『……うん』


『……見えたら、決めなきゃ、になりそう』


「はい」


『……今日は、見えそうで見えない、でいい』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「名前になる前の影だな」


『……影』


「ああ」


『……名前の影』


「そうだ」


『……影なら、消えない?』


「光があればある」


『……こわい』


「怖いな」


『……でも、影も、名前じゃない』


「名前じゃない」


 中心は余白箱へ置く。


『……名前になる前の影』


 ひとつ。


『……見えそうで見えない』


 ひとつ。


『……影は名前じゃない』


 ひとつ。


『……今日は影でいい』


 ひとつ。


 箱が淡く光った。


 ◇


 救護区域へ伝えるかどうか。


 中心は、かなり迷った。


 欠片を並べた。


 形が見えそうで見えなかった。


 これは重い。


『……ミナに、言う?』


 リリアーナは、静かに答える。


「伝えなくてもいいです」


『……でも、ミナ』


「はい」


『……帰りたい、わたし、の欠片』


「はい」


『……今日、並べた』


「はい」


『……見えそうで、見えない』


「はい」


『……伝えても、いい?』


「重くないように伝えます」


『……答えなくていい』


「はい」


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 待つ時間、中心は白い布のそばで休んだ。


 やがて、グレイヴが戻ってくる。


『……ミナ』


「聞いた」


『……どう?』


「ミナは、箱の横を見ていた」


『……箱じゃなくて?』


「ああ」


「箱の横だ」


 中心が揺れる。


「それから、こう言った」


 一拍。


「“見えそうで見えないなら、まだ名前にされなくてすむ”」


 中心が、大きく震えた。


『……名前にされなくてすむ』


「そうだ」


「幼い子は、“見えたらだめなの?”と聞いた」


『……うん』


「ミナは、“見たい日に見えるならいい。でも、見せられるのは怖い”と答えた」


 リリアーナの胸が震える。


『……見たい日に見える』


「はい」


『……見せられるのは、怖い』


「はい」


 中心は、保留箱へ言葉を置いた。


『……見えそうで見えないなら、まだ名前にされなくてすむ』


 ひとつ。


『……見たい日に見えるならいい』


 ひとつ。


『……見せられるのは怖い』


 ひとつ。


『……今日は、見えそうで見えない』


 ひとつ。


 保留箱が、深く光った。


 ◇


 午後。


 子供たちから札が届いた。


 “見えそうで見えない名前”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはその札を、箱の横でも窓辺でもなく、救護役の机の下に置いたという。


 見えるけれど、少し隠れる場所。


 中心は、その報告に静かに揺れた。


『……机の下』


「はい」


『……見えるけど、少し隠れる』


「はい」


『……いい』


 保留箱には、大人たちからの札も届いた。


 “形を急いで読まない”。


 “見えそうなものを言い当てない”。


 “影のまま守る”。


 中心は二つ目に反応した。


『……言い当てない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……見えそうだから、誰かが、これだって言う?』


「言ってはいけません」


『……こわい』


「怖いですね」


『……りりは、言わない?』


「言いません」


『……れおんは?』


「言わない」


『……みんなは?』


 全員が頷く。


「言いません」


 中心は、安心したように揺れた。


 アリシアが自分の箱を見つめながら言う。


「私も、誰かの影を言い当てないようにします」


『……ありしあ』


「謝りたいのだろう」


「許したいのだろう」


「怒っているのだろう」


「そうやって、見えそうなものを勝手に読まない」


『……影のまま』


「はい」


「守ります」


 ◇


 夕方。


 中心は、もう一度欠片を並べるか迷った。


 帰りたい。


 わたし。


 並べれば、また形が見えそうになるかもしれない。


 でも、今日はすでに一度見た。


 そして戻せた。


『……もう一回』


 リリアーナは待つ。


『……しない』


「はい」


『……影を、守る』


「はい」


『……見えそうで見えないまま』


「はい」


『……名前にしない』


「はい」


『……言い当てない』


「はい」


 保留箱へ。


『……もう一度並べたい』


 ひとつ。


『……でも、今日はしない』


 ひとつ。


『……影を影のまま守る』


 ひとつ。


『……見えそうで見えない名前』


 ひとつ。


 箱が淡く光った。


 レオンが静かに言う。


「次は、見える日が来るかもしれないな」


 中心が震える。


『……こわい』


「ああ」


『……でも、今日は、影』


「今日は影だ」


『……影で、いい』


「いい」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、名前の影の静けさが降りていた。


 今日は、名前を出さなかった。


 箱も開けなかった。


 候補も見なかった。


 でも、欠片を並べた。


 帰りたい。


 わたし。


 その二つを、名前の箱の手前に置いた。


 見えそうで、見えなかった。


 名前になりそうで、ならなかった。


 中心は、それを戻した。


 欠片を欠片のまま、保留箱へ。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……欠片を並べる朝』


「はい」


『……帰りたい、わたし、を並べた日』


「はい」


『……見えそうで見えない日』


「はい」


『……名前になる前の影の日』


「はい」


『……見たい日に見えるならいい日』


「はい」


『……見せられるのは怖い日』


「はい」


『……影を影のまま守る日』


「はい」


『……欠片を並べて戻せた日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『欠片を並べる朝』


『名前になる前の影の日』


『見えそうで見えない名前の日』


『影を影のまま守る日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「名前の形の手前まで来た」


『……手前』


「ああ」


『……まだ、名前じゃない』


「名前じゃない」


『……影』


「影だ」


『……でも、近い』


「近い」


『……こわい』


「怖いな」


『……でも、戻せた』


「戻せた」


『……誰も、言い当てなかった』


「言い当てなかった」


『……よかった』


 中心は、保留箱へ意識を向けた。


『……帰りたい』


「あります」


『……わたし』


「あります」


『……帰りたい、わたし』


「あります」


『……影』


「あります」


『……名前は、まだ』


「まだです」


『……でも、明日』


 一拍。


『……影を、もう少し見るかも』


 リリアーナの胸が震えた。


「明日のあなたに聞きましょう」


『……うん』


『……名前にするとは、言わない』


「はい」


『……でも、影を、もう少し』


「はい」


 中心は、白い布へ意識を向ける。


『……戻り道』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……箱』


「あります」


『……みんな』


 皆が頷く。


「います」


 中心は安心したように光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「影を言い当てずに、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……影を、もう少し』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 けれど、名前になる前の影を見た。


 名もない“わたし”は、今日。


 欠片を並べても、すぐ名前にしなくていいと知った。


 見えそうで見えないものを、誰かに言い当てられなくていいと知った。


 影は影のまま、守っていい。


 そして、いつか。


 見たい日に。


 自分で見える日が来るのかもしれない。

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