第23話「弟王子の逆恨み、銀髪令嬢は手を伸ばす」
王立アルディア学園・図書館。
放課後の静寂は、昼間の喧騒が嘘のようだった。
高い窓から差し込む夕陽が、本棚の列へ橙色の影を落としている。
革装丁の匂い。
紙の乾いた香り。
ページをめくる音だけが遠くで響く。
その穏やかな空間の中、リリアーナ・ヴァイスは胸へ一冊の本を抱いていた。
薬草基礎辞典。
レオンが選び、渡してくれた本だった。
表紙を指先でそっと撫でる。
「……嬉しい」
小さく漏れた声は、自分でも驚くほど柔らかかった。
「何か言ったか」
「い、いえっ!」
レオンがすぐ隣で棚の背表紙を眺めている。
無表情。
静か。
相変わらず言葉は少ない。
なのに不思議と、隣にいるだけで落ち着く。
リリアーナは自分の頬が熱くなるのを感じ、慌てて本へ視線を落とした。
「れ、レイさんは借りる本、決まりましたか?」
「もう決めた」
いつの間にか三冊持っていた。
戦術論。
古代王国史。
魔力測定制度の変遷。
「……難しそうです」
「普通だ」
「普通ではないです……」
レオンは答えず、貸出カウンターへ向かう。
歩幅が一定だ。
背筋も真っ直ぐ。
無駄な動きが一切ない。
リリアーナは後ろからついていきながら思う。
この人は、何者なのだろう。
平民というには、所作が整いすぎている。
剣も強い。
頭もいい。
時々、誰より高い場所に立っていた人のような目をする。
けれど、本人は何も語らない。
「……秘密だらけです」
「何が」
「ひゃっ!?」
すぐ横から返事が来て飛び上がる。
「近いです!」
「お前が遅い」
「わ、わたしの独り言です!」
「なら聞こえる場所で言うな」
「うぅ……」
少しだけ悔しい。
でも、また笑ってしまう。
その時だった。
図書館入口側でざわめきが起きる。
「アルベルト殿下だ……」
「また来たのか」
「機嫌悪そう……」
空気が変わる。
第二王子アルベルト・フォン・アルディアが、取り巻きを連れて入ってきた。
放課後の図書館に似つかわしくない騒々しさだった。
レオンは面倒そうに眉を寄せる。
「……帰るか」
「待て!」
アルベルトが一直線にこちらへ来る。
周囲の生徒たちは距離を取った。
「貴様、また女を侍らせているのか」
第一声がそれだった。
リリアーナの顔色が変わる。
「ち、違います……!」
「黙れ没落令嬢」
「っ……」
レオンの瞳が冷えた。
「口を慎め」
「何?」
「ここは図書館だ」
「そこか!?」
周囲の何人かが吹き出しそうになる。
レオンは本気だった。
「騒がしい」
「貴様……!」
「用件だけ言え」
アルベルトは歯ぎしりし、声を抑えながらも怒気を滲ませる。
「次の実技合同訓練で決着をつける」
「断る」
「またか!」
「飽きた」
「貴様ぁぁ!!」
司書の老女性が奥から顔を出した。
「静かにしてくださいます?」
アルベルトが固まる。
王子でも図書館では弱い。
レオンは少し感心した。
「……すごいな」
「図書館の司書は最強です」
リリアーナが小声で囁く。
妙に説得力があった。
アルベルトは咳払いし、声量を落とした。
「……とにかく逃げるな」
「逃げていない」
「なら受けろ!」
「価値がない」
「ぐっ……!」
毎回同じところを刺されていた。
取り巻きの一人が慌てて口を挟む。
「殿下! 今回は別件も……!」
「……ああ、そうだった」
アルベルトがリリアーナを見る。
嫌な予感がした。
「ヴァイス家への学費補助申請、再審査に入るらしいな」
リリアーナの顔が青ざめる。
「え……」
「貧乏貴族への温情など不要だと、上層部で話題になっている」
足元が揺れる感覚。
リリアーナは本を抱きしめた。
特待合格で得た学費免除。
それがなければ通えない。
家族も期待している。
母も、妹も、泣いて喜んでくれた。
それが失われる?
「そ、そんな……」
アルベルトは口元を吊り上げる。
「身の程を知れという話だ」
レオンは数秒黙った。
そして静かに問う。
「お前がやったのか」
「俺が進言した」
誇らしげだった。
「不正ではない。没落貴族へ税を使う必要はないからな」
図書館の空気が冷える。
リリアーナは唇を噛んだ。
悔しい。
怖い。
でも反論できない。
家は貧しい。
助けがなければ厳しい。
その現実は否定できない。
レオンが一歩前へ出る。
「なら俺も進言しよう」
「何?」
「成績第二席の王子が、首席へ二連敗している件を再審査すべきだと」
静寂。
周囲の生徒たちが肩を震わせる。
アルベルトの顔が一瞬で真っ赤になった。
「き、貴様ぁぁ!!」
「静かに」
司書の声が飛ぶ。
「……申し訳ありません」
反射的に謝っていた。
王子なのに。
図書館の支配者は別にいた。
レオンは続ける。
「彼女は第五席だ」
「だから何だ!」
「結果を出した者への補助だろう」
「没落貴族だぞ!」
「だから何だ」
同じ言葉で返す。
「家が落ちたら努力も消えるのか」
「……っ」
「貴族とは便利だな。失敗しても家名が残る」
アルベルトの拳が震える。
「平民風情が……!」
「違う」
レオンの声が低くなる。
「努力した者を踏む人間が下等だと言っている」
その圧に、アルベルトが一歩下がった。
まただ。
この男の前に立つと、息が詰まる。
王族として育った自分が、見下してきた相手に、何故押されるのか理解できない。
リリアーナは震えながらレオンを見る。
また守ってくれている。
自分のために怒ってくれている。
胸が熱く、苦しくなる。
「……レイさん」
無意識に袖を掴んでいた。
レオンが少しだけ視線を向ける。
「何だ」
「もう……大丈夫です」
震える声だった。
「これ以上、レイさんが悪く言われるの……嫌です」
レオンは一瞬黙った。
そしてアルベルトへ向き直る。
「聞こえたか」
「何がだ!」
「彼女の方が大人だ」
周囲がまたざわつく。
アルベルトは怒りで言葉を失った。
司書が近づいてくる。
「騒ぎなら外でどうぞ」
絶対者の登場だった。
アルベルトは取り巻きに引きずられるように去っていく。
「覚えていろ、レイ・ノクト!」
「毎回それだな」
「うるさい!」
去った。
図書館に静寂が戻る。
リリアーナはその場で力が抜けそうになる。
「……補助、本当に取り消されるでしょうか」
「まだ決まっていない」
「でも……」
「なら決まってから考えろ」
「簡単に言います……」
「今不安になっても結果は変わらない」
淡々とした言葉。
だが、妙に支えになる。
リリアーナは小さく頷いた。
「……はい」
その時、レオンが手を差し出した。
「行くぞ」
「え?」
「司書に怒られる前に貸出を済ませる」
リリアーナは数秒固まり、差し出された手を見る。
大きく、しっかりした手。
自分なんかが触れていいのか迷う。
「……早く」
「は、はい!」
そっと手を乗せる。
温かい。
思ったよりずっと温かかった。
レオンはそのまま歩き出す。
自然に。
何でもないことのように。
リリアーナの心臓は壊れそうだった。
『手ぇぇぇ!!』
『進展』
『主、無自覚すぎる』
『罪深いです!』
神霊たちが大騒ぎする。
レオンは内心でため息をついた。
ただ、歩き出すタイミングが面倒だっただけだ。
そう思っている。
たぶん。
放課後の図書館。
銀髪令嬢は、初めて自分から誰かへ手を伸ばした。
そしてその手は、確かに掴まれていた。




