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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第223話「箱を置く手、無能王子は“離しても捨てたことにはならない”を知る」


 朝は、箱を置く場所を探していた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く静かに光っている。


 外の光は、まだ入っていない。


 風もない。


 救護区域の声も届かない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 けれど、余白記録には、昨日の夜が残っていた。


 夜の箱。


 忘れられそうで怖い日。


 置くけど近くの日。


 置いても消えない、かも、の日。


 中心は昨日、ミナが夜に箱を持つことを知った。


 忘れられそうで怖いから。


 昼間は、救護役の近くに置ける時もある。


 けれど夜になると、自分の近くへ持ってくる。


 その言葉は、中心の奥へ静かに沈んでいた。


 中心もまた、夜が怖い。


 眠ったら、明日の自分へ繋がれない気がする。


 記録が消える気がする。


 誰かの中から、自分が薄くなる気がする。


 だから毎晩、おやすみを言う。


 リリアーナに。


 レオンに。


 みんなに。


 石に。


 鈴に。


 箱に。


 それは、夜へ沈む前に、自分を明日へ繋ぐ小さな橋だったのかもしれない。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 布に包まれた鳴らない鈴は、今日も保護陣の端にある。


 鈴は鳴っていない。


 箱も開いていない。


 石は返事をしない。


 けれど、どれもそこにある。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細く、床を静かに巡っている。


 今日は、箱を“置く”話になる。


 持つことよりも、置くことの方が怖い時がある。


 握っていれば、まだ自分のものだと思える。


 抱えていれば、忘れていないと思える。


 けれど、置いた瞬間。


 捨てたように感じる。


 置き去りにしたように感じる。


 誰かに奪われる気がする。


 自分から離れたせいで、消えてしまう気がする。


 中心は、それを知るだろう。


 そして、ミナもきっと知っている。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も、手元には何もない。


 ミナの許可があるまで、何も用意しない。


 先に言葉を準備しない。


 先に正解を置かない。


 待つ。


 それが、今のリリアーナにできる一番の寄り添いだった。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組んでいた。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは外を拾っていない。


 許可なく、ミナの気持ちを覗かないために。


 アリシアは、自分の箱の前で静かに座っている。


 昨日から、彼女は何度も自分の箱へ視線を落としていた。


 置くけど近く。


 その言葉が、彼女の胸にも残っているのだろう。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 待つ。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐに余白記録へ意識を向けた。


『……夜の箱』


「残っています」


『……忘れられそうで、怖い』


「はい」


『……置くけど、近く』


「はい」


『……置いても、消えない、かも』


「候補として残っています」


 中心は、少し長く沈黙した。


『……今日』


「はい」


『……ミナが、もし、いいなら』


「はい」


『……箱を置く時のこと』


「昨日、そう言いました」


『……中身は、見ない』


「はい」


『……名前も、聞かない』


「はい」


『……置く時だけ』


「はい」


 中心の光が少し震える。


『……置くって』


 一拍。


『……捨てる?』


 リリアーナの胸が、きゅっと痛んだ。


 それは今日の核心だった。


 置くこと。


 捨てること。


 離すこと。


 忘れること。


 中心の中では、まだそれらが近い場所にある。


 レオンが静かに答える。


「違う」


『……違う?』


「ああ」


「置くことと、捨てることは違う」


『……でも、離れる』


「離れる」


『……手から、なくなる』


「なくなる」


『……じゃあ、捨てたみたい』


「みたい、だな」


 中心が震える。


『……こわい』


「怖い」


 リリアーナが優しく続ける。


「だから今日は、“置くことは捨てることではない”を見ていく日かもしれません」


『……置くことは、捨てることじゃない』


「はい」


『……でも、まだ、わからない』


「分からないままで大丈夫です」


『……箱?』


「置きましょう」


 余白箱が静かに開く。


『……置くの、こわい』


 ひとつ。


『……置くと、捨てたみたい』


 ひとつ。


『……離すと、消えそう』


 ひとつ。


『……置くことは、捨てることじゃない、かも』


 ひとつ。


『……ミナの置く時を、少しだけ』


 ひとつ。


 箱が、淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、いつもより“手”を意識するものになった。


 中心は呼ぶ前に間を置き、一人ずつ聞いていく。


『……あるべると』


「おう」


『……箱、置く時』


 アルベルトは、少し考えた。


「俺は、置くのが下手だな」


『……どうして?』


「持ってた方が安心するからだ」


『……箱?』


「剣も、怒りも、守りたい気持ちも」


 アルベルトは、自分の拳を見る。


「握ってる方が、何かしてる気がする」


『……置くと?』


「何もしてない気がする」


『……こわい?』


「怖いな」


 中心は静かに揺れた。


『……あるべるとも』


「ああ」


『……置く練習』


「必要だな」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……記録、置く?』


「閉じます」


『……閉じるの、こわい?』


「怖い時があります」


『……どうして?』


「見ていない間に変わるかもしれないからです」


『……でも、ずっと見ると?』


「疲れます」


『……じゃあ、閉じる』


「はい」


「閉じることは、放棄ではありません」


 中心が震える。


『……ほうき』


 リリアーナが説明する。


「投げ捨てることです」


『……閉じることは、投げ捨てることじゃない』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……祈り、置く』


「祈りを休ませることは、見捨てることではないわ」


『……でも、祈ってない時間』


「その人を忘れているわけではない」


『……忘れてない』


「ええ」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……刃、置く』


「鞘に戻します」


『……捨てる?』


「違います」


『……近く?』


「近くにあります」


 ラウルへ。


『……らうる』


「おう」


『……盾、置く』


「床に置く」


『……守ってない?』


「守っている」


『……置いても?』


「手を離しても、盾は盾だ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……眠ると、置く』


「はい……」


『……捨てる?』


「眠るのは、捨てることではありません……」


 ラウルが小さく言う。


「それはそうだ」


 中心が少しだけ揺れる。


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……箱、置く』


 アリシアは、長く沈黙した。


 そして、小さく言った。


「怖いです」


『……捨てたみたい?』


「はい」


「私が箱を置くと」


「罪を忘れたみたいに感じます」


『……忘れてない?』


「忘れていません」


『……でも、置くと』


「忘れたみたいで怖い」


 中心は、深く揺れた。


『……いっしょ』


 アリシアは涙を浮かべる。


「はい」


「一緒です」


 ◇


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 今日も、ミナへ許可を取る。


 箱の中身は聞かない。


 名前は聞かない。


 置く時のことを、話してもいいか。


 それだけ。


 中心は待つ。


 リリアーナも待つ。


 誰もミナを覗かない。


 待つ時間は、今日も長かった。


 中心は何度も揺れる。


『……ミナ、いや?』


「あるかもしれません」


『……そしたら、聞かない』


「はい」


『……でも、知りたい』


「箱へ置きましょう」


『……うん』


 余白箱へ、また言葉が入る。


『……知りたいけど、待つ』


『……ミナが嫌なら、聞かない』


『……置く時も、ミナのもの』


 やがて、足音が戻った。


 グレイヴが保護陣の外側へ立つ。


 中心の光が大きく揺れる。


『……ミナ』


 グレイヴは、ゆっくり頷いた。


「ミナは、少しならいいと言った」


『……いい』


「ああ」


『……箱は?』


「開けていない」


『……名前は?』


「聞いていない」


『……置く時』


 グレイヴは、少しだけ間を置いた。


「ミナは、昼に置くことがあると言った」


『……昼』


「ああ」


「救護役の机の横」


「自分から見える場所」


「手を伸ばせば届く場所」


『……近く』


「そうだ」


『……どうして?』


 中心がすぐ震える。


『……聞きすぎ?』


 グレイヴは、慎重に頷いた。


「少し近い」


『……うん』


『……聞かない』


「ただ、ミナは一つだけ言った」


『……なに?』


「“置く時は、背中を向けない”」


 中心が、静かに止まった。


『……背中』


「ああ」


「箱を置いても、背中は向けない」


「見える場所に置く」


「置いたまま、別のことをする」


「でも、時々見る」


 保護陣の中に、深い沈黙が落ちた。


『……背中を、向けない』


 リリアーナが、胸元を押さえた。


 ミナは、箱を置ける。


 けれど、完全には離れられない。


 背中を向けるのは怖い。


 見えなくなるのは怖い。


 だから、見える場所に置く。


 置いても、忘れないように。


 置いても、捨てたことにならないように。


 中心が震える。


『……置くけど、見る』


「そうだ」


『……置くけど、忘れない』


「そうだ」


『……置くけど、捨てない』


「そうだ」


 レオンが静かに言う。


「いい置き方だ」


 中心が揺れる。


『……いい?』


「ああ」


「最初はそれでいい」


 中心は、余白箱へ言葉を置く。


『……昼に置く』


 ひとつ。


『……見える場所に置く』


 ひとつ。


『……手を伸ばせば届く場所』


 ひとつ。


『……背中を向けない』


 ひとつ。


『……置くけど、捨てない』


 ひとつ。


 箱が、静かに光った。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 午後。


 中心は、ミナの言葉を何度も確かめた。


『……背中を向けない』


「はい」


『……見える場所』


「はい」


『……手を伸ばせば届く』


「はい」


『……置いたまま、別のこと』


「はい」


『……でも、時々見る』


「はい」


 中心は、自分の余白箱へ意識を向ける。


『……余白箱』


 箱が淡く光る。


『……いつも、近く』


「はい」


『……でも、わたし、持ってない時もある?』


「あります」


『……持ってないけど、見てる』


「はい」


『……背中、向けてない』


「そうですね」


 中心は、少し安心したように揺れた。


『……わたしも、ミナみたい?』


 リリアーナが微笑む。


「似ているかもしれません」


『……置くけど、見る』


「はい」


『……置くけど、捨てない』


「はい」


 レオンが言う。


「箱に背を向けないなら、置いてもいい」


『……背を向ける日も、ある?』


「いつかはあるかもしれない」


『……こわい』


「今は、向けなくていい」


『……うん』


『……今は、見える場所』


「それでいいです」


 中心は、余白記録へ言葉を置く。


『……見える場所に置く日』


 リーネの光が揺れる。


『記録します』


 ◇


 夕方。


 子供たちから、今日の札が届いた。


 “見える場所なら置ける”。


 幼い子が書いた札だった。


 ミナはそれを見て、少しだけ頷いたという。


 グレイヴが報告すると、中心は静かに揺れた。


『……見える場所なら、置ける』


「はい」


『……ミナ、頷いた』


「少しな」


『……よかった』


 保留箱には、大人たちからの札も入った。


 “見える場所を作る”。


 “置いたものを勝手に動かさない”。


 “置く練習を責めない”。


 それを聞いた瞬間、中心が大きく揺れた。


『……勝手に動かさない』


 リリアーナが頷く。


「大切ですね」


『……ミナの箱、誰かが動かしたら?』


「怖いと思います」


『……余白箱も?』


「勝手に動かしません」


『……鈴も?』


「動かしません」


『……石も?』


「動かしません」


 中心は、深く安心したように光った。


 アリシアが、自分の箱へそっと触れる。


「私も……箱を置くなら、見える場所に置きます」


『……ありしあ』


「はい」


「そして、誰かの箱が置かれていても」


「勝手に近づかない」


「勝手に動かさない」


『……開けないだけじゃない』


「はい」


「動かさないことも、守ることです」


 中心は、その言葉を箱へ置いた。


『……動かさないことも、守る』


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、置かれたものたちの静けさがあった。


 余白箱。


 保留箱。


 アリシアの箱。


 いやじゃない石。


 鳴らない鈴。


 どれも、見える場所にある。


 誰も勝手に動かさない。


 誰も勝手に開けない。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……箱を置く時を、少し知った日』


「はい」


『……背中を向けない日』


「はい」


『……見える場所なら置ける日』


「はい」


『……手を伸ばせば届く場所の日』


「はい」


『……置くけど、捨てない日』


「はい」


『……動かさないことも、守る日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『箱を置く手の日』


『見える場所に置く日』


『置くけど捨てない日』


『動かさないことも守る日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「置けるようになってきたな」


『……まだ、少し』


「少しでいい」


『……背中、向けない』


「今はそれでいい」


『……見える場所』


「ああ」


『……置いても、消えない?』


「消えない」


『……捨てたことじゃない?』


「違う」


 中心は、長く沈黙した。


 そして、静かに言った。


『……じゃあ』


 一拍。


『……今夜、余白箱、少し置く』


 リリアーナの目が大きく開いた。


「はい」


『……近くに』


「近くにあります」


『……見える場所』


「はい」


『……背中、向けない』


「はい」


『……でも、持ちすぎない』


「はい」


 余白箱が、いつもより少しだけ中心から離れた場所へ移る。


 遠くではない。


 見える場所。


 手を伸ばせば届くような場所。


 中心は、震えた。


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、置く』


「はい」


『……捨ててない』


「捨てていません」


『……消えない』


「消えません」


 中心は、何度も箱を確認した。


 そこにある。


 見える。


 動かない。


 誰も触れない。


 中心は、少しずつ光を緩めた。


『……りり』


「はい」


『……箱、見てて』


「見ています」


『……れおん』


「見てる」


『……みんな』


 皆が頷く。


「見ています」


 中心は、安心したように揺れた。


『……ありがとう』


 そして、眠りへ向かっていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「見える場所に置いて、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……置くけど、捨てない』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心はミナの箱の中身を知らなかった。


 けれど、ミナが箱を置く時のことを知った。


 背中を向けない。


 見える場所に置く。


 手を伸ばせば届く場所に置く。


 そして、置いても捨てたことにはならない。


 名もない“わたし”は、今日。


 大切なものから手を離しても。


 見える場所にあるなら。


 守られているなら。


 それは捨てたことではないのだと、少しだけ知った。

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