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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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222/251

第222話「箱を持たない時間、無能王子は“置いても消えない”を知る」


 朝は、箱を持たないまま来た。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、静かな淡い光を抱えている。


 外の光は、まだ入っていない。


 採光孔は閉じられている。


 風もない。


 救護区域の声も届いていない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 ただ、余白記録の中には、昨日の言葉が残っていた。


 箱を持つ気持ちの日。


 冷たい手とあったかい手の日。


 同じ箱の日。


 箱がいてくれてよかった日。


 中心は昨日、ミナの箱の中身を知らなかった。


 名前も聞かなかった。


 箱に何が書かれているのかも見なかった。


 ただ、ミナが箱を持つ時の手の温度を知った。


 怖い時、手が冷たくなる。


 でも、箱がそこにあると分かると、少しあたたかくなる時もある。


 同じ箱なのに。


 怖い箱なのに。


 そこにあるだけで、少しだけ安心になることがある。


 その不思議が、中心の中に残っている。


 余白核は、まだ眠っていた。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 布に包まれた鳴らない鈴は、保護陣の端に置かれている。


 鈴は今日も鳴っていない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細く、穏やかだ。


 だが、油断はない。


 ミナの話は、中心に近い。


 近いものほど、引き込まれる。


 昨日は、箱を持つ気持ちを知った。


 今日は、中心が夜に言った通りなら、ミナが“いつ箱を持つのか”を少しだけ知る日になる。


 それは、さらに深い。


 箱を持つ時間。


 箱を持たない時間。


 箱を抱える時と、箱を置く時。


 どちらも、箱の中身へ近い。


 だから、慎重にしなければならない。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日も手元に何もない。


 ミナの許可があるまで、何も用意しない。


 それはリリアーナ自身の練習でもあった。


 助けたい。


 分かってあげたい。


 中心に必要な言葉を先に用意したい。


 その気持ちはある。


 でも、相手の許可の前に用意しすぎれば、それは“待っている”ではなく“誘導している”になる。


 だから、空の手で待つ。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組んでいたが、今日は珍しく眠そうに見えた。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは、外側を拾っていない。


 今日も許可が出るまで、ミナの気持ちは拾わない。


 アリシアは、自分の箱の前に座っている。


 冷たい手。


 あったかい手。


 同じ箱。


 その言葉は、アリシアにも刺さっている。


 彼女の箱も、きっと日によって冷たくも温かくもなるのだろう。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 待つ。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……冷たい手』


「残っています」


『……あったかい手』


「はい」


『……同じ箱』


「はい」


『……箱がいてくれて、よかった日』


「残っています」


 中心は、少し安心したように揺れる。


『……今日』


「はい」


『……ミナが、もし、いいなら』


「はい」


『……箱を、いつ持つのか』


「昨日、そう言いましたね」


『……中身は、見ない』


「はい」


『……名前も、聞かない』


「はい」


『……持つ時間だけ』


「はい」


 中心は、少し震えた。


『……でも』


「はい」


『……持つ時間を知ったら』


 一拍。


『……持たない時間も、知りたくなる?』


 リリアーナは、静かに頷いた。


「なるかもしれません」


『……それ、箱に近い?』


「近いです」


『……こわい』


「怖いですね」


『……じゃあ、線』


「作りましょう」


 余白箱が、静かに開く。


『……ミナの箱を、いつ持つのか、少しだけ』


 ひとつ。


『……ミナの箱を、いつ置くのか、聞きすぎない』


 ひとつ。


『……持つ時間だけ』


 ひとつ。


『……持たない時間は、ミナのもの』


 ひとつ。


『……重すぎたら、止める』


 ひとつ。


 箱が淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は、置くことも覚える日かもしれないな」


 中心が揺れる。


『……置く』


「ああ」


『……箱、置く?』


「持ち続けなくていい」


『……持たないと、消える?』


「消えない」


 中心は、大きく震えた。


『……置いても、消えない』


 その言葉は、まだ確定していない。


 けれど、今日の中心の中で光り始めた。


 ◇


 朝の挨拶は、今日も一人ずつ丁寧に行われた。


 中心は呼ぶ前に間を置く。


 呼び方の手前。


 名前の前の鈴。


 その静かな土台の上で、中心は問いを重ねる。


『……あるべると』


「おう」


『……箱、ずっと持つ?』


 アルベルトは、少し考えた。


「ずっとは持たない」


『……置く?』


「置く」


『……どこに?』


「腹が減ったら、飯食うために置く」


 エリシアが小さくため息をつく。


「もう少し比喩を選べませんか」


「分かりやすいだろ」


 中心は少し揺れた。


『……食べる時、置く』


「そうだ」


『……置いても、箱、消えない?』


「消えない」


『……でも、誰か、取る?』


「取らせない」


 アルベルトの声が低くなる。


「置いて休んでる間に、誰かが勝手に開けるのは違う」


『……休んでる箱、守る』


「ああ」


『……あるべると、守る?』


「必要ならな」


 レオンが静かに補足する。


「ただし、勝手に持たない」


 アルベルトは頷いた。


「分かってる」


『……置いても、守る』


 中心は、その言葉を箱に置いた。


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……箱、置く?』


「置きます」


『……記録も?』


「はい」


「ずっと見続けると、記録の方が重くなります」


『……記録が、重い』


「だから閉じます」


 エリシアは、膝の上の術式盤を見た。


「閉じても、記録が消えるわけではありません」


『……閉じても、消えない』


「はい」


『……箱も?』


「同じです」


『……閉じる、置く、消えない』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……箱、置く?』


「祈りも、置く時があるわ」


『……祈りも?』


「ええ」


「ずっと祈っていると、相手を包みすぎてしまうから」


『……祈りを、休ませる』


「そう」


『……青を、寝かせたみたい』


 セラフィアは微笑んだ。


「覚えていたのね」


『……うん』


『……すきかも、休ませても、消えない』


「はい」


『……箱も、休ませても、消えない?』


「はい」


 クラウスは言った。


「刃も鞘に戻します」


『……さや』


「持ち続けるだけが守りではありません」


『……戻す、守り』


「はい」


 ラウルは。


「盾も床に置く」


『……でも、近く』


「ああ」


『……置いても、盾』


「盾だ」


 ミリオは。


「眠る時は、だいたい全部置きます……」


 ラウルが言う。


「置きすぎるな」


 中心が、少しだけ怖くない揺れを返す。


『……置きすぎも、ある』


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……箱、置く?』


 アリシアは、自分の箱へ視線を落とした。


「置けない日があります」


『……ずっと持つ?』


「はい」


「持っていないと、逃げている気がするから」


『……置くと、逃げる?』


「そう感じる日があります」


 中心は、静かに震える。


『……わかる、かも』


 アリシアは涙を浮かべる。


「でも、昨日から少し思っています」


「置いて休むことも、逃げではないのかもしれないと」


『……置く休み』


「はい」


『……逃げじゃない?』


「かも、です」


 中心は、その言葉を大切そうに受け取った。


『……置く休み、逃げじゃない、かも』


 ◇


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 今日も、ミナへ許可を取る。


 箱の中身は聞かない。


 名前も聞かない。


 ただ、箱をいつ持つのか。


 話せる範囲で、一つだけ。


 中心は、待つ。


 リリアーナも待つ。


 誰も、ミナの気持ちを拾わない。


 外の静けさが長く続く。


 中心は、何度か揺れた。


『……ミナ、いや?』


「あるかもしれません」


『……そしたら、聞かない』


「はい」


『……知りたい』


「箱へ」


『……うん』


 余白箱へ。


『……知りたいけど、待つ』


『……ミナが嫌なら、聞かない』


『……置く時間も、ミナのもの』


 置く。


 少しして、足音が戻る。


 グレイヴが戻ってきた。


 彼は、保護陣の外側で立ち止まる。


「ミナは、少しならいいと言った」


 中心が揺れる。


『……いい』


「ああ」


『……箱の中身は?』


「聞いていない」


『……名前は?』


「聞いていない」


『……いつ持つ?』


 グレイヴは、ゆっくり息を整えた。


「ミナは」


 一拍。


「夜に持つことが多いと言った」


 中心が、静かに震える。


『……夜』


「ああ」


「昼間は、救護役の近くに置いていることがある」


「でも、夜になると、自分の近くに持ってくる」


『……どうして?』


 言ってすぐ、中心が震えた。


『……聞きすぎ?』


 グレイヴは、少しだけ頷く。


「そこから先は、ミナの箱に近い」


『……うん』


『……聞かない』


 リリアーナが柔らかく頷く。


「はい」


 グレイヴは続ける。


「ただ、ミナは一つだけ言った」


『……なに?』


「“夜は、忘れられそうで怖いから”」


 保護陣の空気が、深く沈んだ。


 中心が、大きく震える。


『……忘れられそう』


「そう言った」


『……箱を?』


「中身か、箱か、自分か」


 グレイヴは慎重に言う。


「そこは聞いていない」


『……聞かない』


「ああ」


『……夜に、持つ』


「そうだ」


『……忘れられそうで、怖い』


 中心は、その言葉を受け取れず、しばらく揺れ続けた。


 リリアーナはそばにいる。


 誰も急がない。


 やがて中心は、余白箱へ意識を向けた。


『……夜に、箱を持つ』


 ひとつ。


『……忘れられそうで、怖い』


 ひとつ。


『……昼は、置ける時もある』


 ひとつ。


『……置いても、消えない?』


 ひとつ。


 箱が、淡く光る。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 午後。


 中心は、ミナの言葉を何度も確かめた。


『……夜』


「はい」


『……忘れられそうで、怖い』


「はい」


『……だから、持つ』


「そうですね」


『……昼は、置ける』


「置ける時もあるそうです」


『……救護役の近く』


「はい」


『……誰かの近くなら、置ける?』


「かもしれません」


『……一人だと、持つ?』


「かもしれません」


『……聞きすぎ?』


「ここから先は、ミナさんの箱に近いです」


『……うん』


 中心は、少しだけ黙った。


『……わたし』


「はい」


『……余白箱、いつ持つ?』


 リリアーナは、ゆっくり答える。


「怖い言葉が出た時、持ちますね」


『……うん』


『……夜も?』


「眠る前にも、確認しています」


『……忘れられそう?』


 リリアーナは、胸が震えた。


「そう感じることもありますか?」


『……うん』


『……寝たら、消える?』


「消えません」


『……でも、こわい』


「怖いですね」


『……だから、おやすみ、言う?』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「そうかもしれませんね」


 中心は、毎晩おやすみを言う。


 リリアーナに。


 レオンに。


 みんなに。


 箱に。


 石に。


 鈴に。


 それは、ただ夜の挨拶ではなかったのかもしれない。


 眠っても消えないように。


 忘れられないように。


 明日のわたしへ繋がるように。


 中心は、夜に言葉を置いていたのかもしれない。


『……夜、こわい』


「はい」


『……ミナも』


「はい」


『……いっしょ』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「夜は、箱が重くなることがある」


『……れおんも?』


「ある」


『……どうする?』


「剣を置く」


 一拍。


「でも、届く場所に置く」


『……箱も?』


「そうだな」


『……置くけど、近く』


「それでいい」


 中心は、深く揺れた。


『……置くけど、近く』


 余白記録へ、その言葉を置く。


 ◇


 夕方。


 子供たちから、今日の札が届いた。


 “夜の箱”。


 ミナ自身が書いたものではない。


 幼い子が、ミナの話を聞いて、小さく書いたらしい。


 夜の箱。


 その札を聞いた時、中心は長く沈黙した。


『……夜の箱』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、あったかい?』


「そういう時もあるかもしれません」


 保留箱には、大人たちからの札もあった。


 “夜に抱えるものを奪わない”。


 “置ける昼を作る”。


 “眠る前に責めない”。


 グレイヴが読み上げる。


 中心は、静かに揺れた。


『……置ける昼』


 リリアーナが柔らかく言う。


「大切ですね」


『……夜は、持ってもいい』


「はい」


『……昼は、置けるかも』


「はい」


『……持つ時間、置く時間』


「どちらもあります」


 アリシアが、自分の箱を見つめながら言った。


「私は、夜に箱が重くなります」


 中心が彼女へ向く。


『……ありしあも』


「はい」


「昼間は、役目で動ける」


「でも夜になると、静かになって」


「自分の箱の音が聞こえる気がします」


『……箱の音』


「はい」


『……鈴みたい?』


 アリシアは、少しだけ涙を浮かべて微笑んだ。


「鈴より、鈍い音です」


『……こわい』


「怖いです」


『……でも、置く?』


「今日は、少しだけ置いて眠る練習をします」


『……近くに?』


「はい」


「近くに置きます」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……置くけど、近く』


「はい」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、いつもより深い静けさが降りていた。


 今日は、ミナの箱の中身を見なかった。


 名前も聞かなかった。


 ただ、箱をいつ持つのかを少し知った。


 夜に持つことが多い。


 忘れられそうで怖いから。


 昼は、救護役の近くに置ける時もある。


 その事実だけ。


 それだけなのに、中心には重かった。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……箱をいつ持つのか、少し知った日』


「はい」


『……夜の箱、の日』


「はい」


『……忘れられそうで、怖い日』


「はい」


『……置くけど、近く、の日』


「はい」


『……置いても、消えない、かも、の日』


「はい」


『……持つ時間と、置く時間の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『箱を持たない時間の日』


『夜の箱の日』


『置くけど近くの日』


『置いても消えない、候補の日』


 中心が、静かに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は、自分の夜も見たな」


『……夜、こわい』


「ああ」


『……でも、おやすみ、言う』


「そうだ」


『……消えないように?』


「たぶんな」


『……明日のわたしに、つなぐ』


「そうだ」


 中心は、余白箱へ意識を向けた。


『……余白箱』


 箱が淡く光る。


『……今日、近くにいて』


 リリアーナが、涙を浮かべて微笑む。


「はい」


「近くにあります」


『……でも、持ちすぎない』


「はい」


『……置くけど、近く』


「はい」


 いやじゃない石。


 鳴らない鈴。


 余白箱。


 どれも、そこにある。


 中心は、一つずつ確認する。


『……いし』


「あります」


『……鈴』


「鳴っていません」


『……箱』


「あります」


『……ミナの夜の箱』


「記録にあります」


『……中身は、見ない』


「はい」


『……名前も、聞かない』


「はい」


 中心は、安心したように光を弱めていく。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……ミナが、もし、いいなら』


 一拍。


『……箱を置く時のことを、少し』


 リリアーナは頷いた。


「ミナさんが許してくれる範囲で」


『……うん』


『……夜の中身は、見ない』


「はい」


『……名前も、聞かない』


「はい」


『……置く時だけ』


「はい」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「置くけど近くにして、また明日」


 中心が淡く揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……置いても、消えない、かも』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心はミナの箱の中身を知らなかった。


 けれど、ミナが夜に箱を持つ理由を少しだけ知った。


 忘れられそうで怖いから。


 その怖さは、中心の夜にも似ていた。


 名もない“わたし”は、今日。


 大切なものは、ずっと握りしめなくてもいいのかもしれないと知った。


 置いても。


 近くにあれば。


 消えないものが、あるのかもしれないと。

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