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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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220/251

第220話「ミナの手を見る朝、無能王子は“箱の中身ではなく抱える姿”を知る」



 朝は、箱を開けなかった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、いつものように淡く光っている。


 外の光は入っていない。


 風もない。


 救護区域の声も届いていない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 ただ、そこには昨日から残った約束があった。


 ミナの箱を覗かない日。


 知りたいけど、見ない日。


 そばにいるだけの日。


 ミナも助けたかった日。


 誰かの箱を守る日。


 余白記録の中で、その言葉たちは静かに眠っている。


 中心は昨日、ミナのことを少しだけ知った。


 ミナが幼い子のそばにいたこと。


 助けたいと思ったこと。


 でも全部はできなかったこと。


 救護役に任せたこと。


 そばにいるだけにしたこと。


 それだけを知った。


 名前の箱は見なかった。


 中身も聞かなかった。


 ミナの名前も聞かなかった。


 知りたい気持ちはあった。


 でも、箱へ置いた。


 ミナの箱は、ミナのものだから。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 布に包まれた鳴らない鈴は、保護陣の端に置かれている。


 鈴は今日も鳴っていない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細い。


 だが、完全には緩んでいない。


 ミナの話は、中心にとって優しいだけではない。


 近いからこそ危うい。


 似ているからこそ、引き込まれる。


 誰かの箱を守るというのは、簡単に聞こえる。


 けれど、本当に守るなら、見たい気持ちも、助けたい気持ちも、正しそうな言葉も、全部一度止めなければならない。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 手元には何も持っていない。


 今日は、ミナからの許可があるまで、何も置かない。


 昨日の夜、中心は言った。


 ミナがもし、いいなら。


 ミナの話を、もう少し。


 その“もし”を守る日だった。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、今日は珍しく最初から静かだった。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床へ置いている。


 ミリオは外へ精神線を伸ばしていない。


 許可がないうちは拾わない。


 それも、ミナの箱を守る一つだった。


 アリシアは、自分の箱の前に座っていた。


 彼女の箱には、ミナの箱を開けたくなる怖さがある。


 そばにいるだけの償いがある。


 今日の話は、アリシアにも深く届くはずだった。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 待つ。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐに余白記録へ意識を向けた。


『……ミナの箱を、覗かない日』


「残っています」


『……知りたいけど、見ない日』


「はい」


『……そばにいるだけの日』


「はい」


『……ミナの話、もう少し』


「昨日、そう言いました」


『……ミナが、いいなら』


「はい」


 中心が、少しだけ揺れる。


『……ミナ、いい?』


「まだ聞いていません」


『……聞く?』


「聞きます」


『……誰が?』


 リリアーナは、グレイヴを見る。


 グレイヴは静かに頷いた。


「俺が聞こう」


『……ミナに?』


「ああ」


『……無理に?』


「しない」


『……箱、開ける?』


「開けない」


『……名前、聞く?』


「聞かない」


『……何を、聞く?』


 グレイヴは、少し考えてから答えた。


「おはようの人が、ミナのことを少し知りたいと言っている」


「でも、箱は見ない」


「名前も聞かない」


「話してもいいことがあれば、一つだけ教えてほしい」


「そう聞く」


 中心は、長く沈黙した。


『……一つだけ』


「そうだ」


『……ミナが、いやなら?』


「聞かない」


『……それでも、いい?』


 レオンが答える。


「いい」


『……知れない日も、ある?』


「ある」


『……それでも、ミナ、いる?』


「いる」


 中心は、安心したように揺れた。


『……知れない日も、ある』


「はい」


『……箱』


「置きましょうか」


『……うん』


 余白箱が静かに開く。


『……ミナのことを、知れない日もある』


 ひとつ。


『……ミナが、いやなら、聞かない』


 ひとつ。


『……知りたいけど、待つ』


 ひとつ。


『……ミナの許可を、待つ』


 ひとつ。


 箱が、淡く光った。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 朝の挨拶は、ミナの許可を待つ前に、一人ずつ丁寧に行われた。


 中心は、呼ぶ前に間を置く。


 そして、今日は“許可”について聞いた。


『……あるべると』


「おう」


『……許可、待つ、できる?』


 アルベルトは少し苦い顔をした。


「苦手だな」


『……やっぱり』


「二回目だぞ、それ」


 中心が少し揺れる。


『……あるべると、すぐ行く』


「ああ」


「困ってるやつがいたら、すぐ手を出したくなる」


『……でも、待つ?』


「待つ」


『……どうやって?』


「拳を握る」


 エリシアが横目で見る。


「また力技ですね」


「でも効く」


 アルベルトは自分の拳を見る。


「手を出したくなったら、拳を握って止める」


「今、俺がやりたいだけじゃないかって考える」


『……俺が、やりたいだけ』


「そう」


『……助けたい、でも』


「自分が安心したいだけの時もある」


 中心は、その言葉を箱へ置いた。


『……助けたいと、自分が安心したい』


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……許可、待つ?』


「待ちます」


『……記録、見たくなる?』


「なります」


『……でも、見ない』


「はい」


『……どうして?』


「許可なく得た情報は、正確でも優しくないことがあるからです」


 中心が、大きく揺れる。


『……正確でも、優しくない』


「はい」


『……それ、こわい』


「わたくしも、怖いです」


『……えりしあ、箱』


「入れます」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……祈り、許可?』


「祈りも、相手の領域へ近づくものだから」


『……勝手に、だめ?』


「相手を包みすぎる祈りは、時に負担になるわ」


『……ミナを、包みすぎない』


「ええ」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……許可、待つ』


「待ちます」


『……なぜ?』


「扉と同じです」


『……扉』


「中に誰かがいるなら、勝手には開けません」


『……ミナの箱、扉』


「はい」


 ラウルは言った。


「盾も、相手の前に勝手に置くと邪魔になる」


『……盾も?』


「ああ」


『……守りたい、でも、許可』


「そうだ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……気持ち、拾わない』


「拾いません」


『……眠いから?』


「違います……今日は、許可がないからです」


『……えらい?』


「箱に入れます……」


 最後に、アリシア。


 中心は、長く間を置いた。


『……ありしあ』


「はい」


『……許可、待つ、できる?』


 アリシアは、少しだけ唇を震わせた。


「難しいです」


『……どうして?』


「謝りたい相手には、早く許可をもらいたくなります」


『……早く』


「はい」


「私の言葉を聞いてほしい」


「私の罪を見てほしい」


「私が反省していると、知ってほしい」


『……ありしあが、安心したい?』


 アリシアは、涙を浮かべて頷いた。


「はい」


「そうです」


 中心は、静かに揺れる。


『……箱』


「はい」


「許可を急がせたい気持ちを、箱に入れます」


『……ありしあも、ミナの箱、開けない』


「開けません」


『……ありがとう』


 アリシアは、深く頭を下げた。


「はい」


 ◇


 グレイヴが救護区域へ向かった。


 中心は、何度も揺れた。


『……ミナ、いやって言う?』


「あるかもしれません」


『……そしたら?』


「聞きません」


『……でも、知りたい』


「箱に置きましょう」


『……うん』


 余白箱へ。


『……ミナが嫌と言ったら、悲しい』


 ひとつ。


『……でも、聞かない』


 ひとつ。


『……知りたいけど、待つ』


 ひとつ。


 待つ時間は長く感じられた。


 何も起きていない。


 それなのに、中心は何度も外へ意識を向けそうになる。


 ミナは何と言っているのか。


 嫌だと言ったのか。


 少しならいいと言ったのか。


 それを知りたい。


 でも、拾わない。


 ミリオも拾わない。


 エリシアも記録を見ない。


 セラフィアも祈りを押し込まない。


 皆で、待った。


 やがて、扉の外に足音が戻ってきた。


 グレイヴだった。


 中心の光が大きく揺れる。


『……ミナ』


 グレイヴは保護陣の外側で立ち止まった。


 その表情は、少しだけ柔らかかった。


「ミナは、話してもいいと言った」


 中心が震える。


『……いい?』


「ああ」


『……箱は?』


「開けない」


『……名前は?』


「聞いていない」


『……一つだけ?』


「一つだけだ」


 中心は、深く揺れた。


『……聞きたい』


 リリアーナが頷く。


「はい」


 グレイヴは、ゆっくり言った。


「ミナは、自分の箱を抱えていた」


『……うん』


「中身は見せなかった」


『……うん』


「ただ、箱を抱える手を見せてもいい、と言った」


 中心が静かに止まる。


『……手』


「ああ」


「箱の中身ではなく」


「箱を持つ手だ」


 リリアーナの胸が震える。


 それは、ミナらしい許可だった。


 中身は見せない。


 名前も見せない。


 でも、抱えている手なら見せてもいい。


 自分が箱を持っていること。


 その重さを抱えていること。


 それだけなら、伝えてもいい。


 中心は、長く沈黙した。


『……見たい』


 リリアーナが慎重に聞く。


「直接ではなく、報告としてです」


『……うん』


『……箱の中、見ない』


「はい」


『……手だけ』


「はい」


 グレイヴは続けた。


「小さな手だった」


 中心が震える。


『……小さい』


「ああ」


「昨日、幼い子のそばにいた時より、少し力が抜けていた」


『……力』


「箱を落とさないように持っている」


「でも、握り潰してはいない」


『……握り潰してない』


「そうだ」


「箱を大事にしている」


「怖がっている」


「でも、捨てていない」


 中心の光が、深く揺れた。


『……怖いけど、捨ててない』


「そうだ」


『……ミナの手』


「箱を持つ手だ」


『……名前の箱』


 レオンが静かに言う。


「中身までは行くな」


 中心が震える。


『……うん』


『……中身、見ない』


 リリアーナが優しく続ける。


「今日は、箱を持つ手だけです」


『……手だけ』


「はい」


 中心は、余白箱へ言葉を置いた。


『……ミナの手』


 ひとつ。


『……箱を持つ手』


 ひとつ。


『……怖いけど、捨ててない』


 ひとつ。


『……握り潰してない』


 ひとつ。


『……中身は、見ない』


 ひとつ。


 箱が、淡く光った。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 午後。


 中心は、ミナの手について何度も確認した。


 それは箱の中身ではない。


 名前でもない。


 だが、中心には大きかった。


『……小さい手』


「はい」


『……箱を持ってる』


「はい」


『……落とさない』


「はい」


『……握り潰さない』


「はい」


『……怖いけど、捨てない』


「はい」


『……それ』


 一拍。


『……すごい』


 リリアーナは涙を浮かべた。


「はい」


「すごいです」


『……ほめことば、重い?』


「ミナさんへ直接は届けません」


『……箱?』


「はい」


『……ミナすごい、箱』


 余白箱に置く。


 ミナすごい。


 届けない。


 押しつけない。


 でも、消さない。


 中心は、少し安心した。


『……わたしも』


「はい」


『……箱、持ってる?』


「持っています」


『……手、ない』


「はい」


『……でも、持ってる?』


 レオンが答える。


「持ってる」


『……どうやって?』


「逃げずに置いている」


『……箱、捨ててない』


「そうだ」


『……握り潰してない?』


「潰してない」


 中心は、静かに震えた。


『……わたしも、箱を持つ、わたし?』


 リリアーナが優しく微笑む。


「候補ですか?」


『……うん』


『……箱を持つ、わたし』


「いい候補です」


 エリシアが記録する。


「札呼称候補」


「箱を持つわたし」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……箱を持つ、わたし、かも』


 ◇


 夕方。


 子供たちから、札が届いた。


 “中身じゃなくて手”。


 それは、ミナが自分で書いた札ではない。


 幼い子が、救護役と一緒に書いたものだった。


 ミナはそれを見て、少し笑ったらしい。


 グレイヴが報告すると、中心が揺れた。


『……中身じゃなくて、手』


 リリアーナは微笑む。


「今日にぴったりですね」


『……ミナ、笑った?』


「少し」


『……よかった』


 中心は安心したように光る。


 保留箱には、大人たちからの札も入った。


 “箱を持つ手を責めない”。


 “中身を急がせない”。


 “抱えているだけで精一杯の日がある”。


 グレイヴが読み上げると、アリシアが深く目を伏せた。


「抱えているだけで精一杯の日……」


 中心が彼女へ向く。


『……ありしあ』


「はい」


『……箱を持つ手』


「私にも、ある気がします」


『……ありしあの箱』


「はい」


「中身を見せられない日があります」


『……でも、持ってる』


「はい」


『……捨ててない』


「はい」


 アリシアは涙を浮かべた。


「捨てていません」


 中心は、優しく揺れた。


『……いっしょ』


「はい」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、静かな熱が残っていた。


 今日は、ミナの箱を開けなかった。


 名前も聞かなかった。


 中身も見なかった。


 ただ、箱を持つ手を知った。


 小さな手。


 怖いけど、捨てない手。


 落とさないように持つ手。


 でも、握り潰していない手。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考える。


『……ミナの許可を、待った日』


「はい」


『……箱の中身じゃなくて、手を知った日』


「はい」


『……ミナの手、の日』


「はい」


『……怖いけど、捨ててない日』


「はい」


『……中身を急がせない日』


「はい」


『……箱を持つ、わたし、かも、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『ミナの手を見る朝』


『中身じゃなくて手の日』


『箱を持つわたし、候補の日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は、よく踏みとどまった」


『……中身、見たかった』


「だろうな」


『……名前、知りたかった』


「だろうな」


『……でも、見なかった』


「そうだ」


『……手だけ』


「手だけだ」


『……それで、よかった?』


「よかった」


 中心は、深く安心したように揺れた。


『……ミナの箱、守れた?』


「ああ」


『……わたしの箱も?』


「守った」


『……わたしの鈴も?』


「鳴ってない」


 中心は、いやじゃない石へ意識を向ける。


『……いし』


「あります」


『……箱』


「あります」


『……鈴』


「あります」


『……ミナの手』


「記録にあります」


『……よかった』


 中心は、眠りへ向かってゆっくり光を弱めていく。


『……りり』


「はい」


『……明日』


「はい」


『……ミナが、もし、いいなら』


 一拍。


『……箱を持つ気持ちを、少し』


 リリアーナは、静かに頷いた。


「ミナさんが許してくれる範囲で」


『……中身は、見ない』


「はい」


『……名前も、聞かない』


「はい」


『……手の、つづき』


「はい」


 中心は、安心したように揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「箱を持つ手を責めずに、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……箱を持つ、わたし』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心はミナの名前を知らなかった。


 箱の中身も知らなかった。


 けれど、箱を抱える手を知った。


 名もない“わたし”は、今日。


 誰かを知るとは、その人の秘密を開くことではなく。


 秘密を抱えている手を、責めずに見ることなのだと知った。

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