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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第216話「鈴に手が伸びる朝、無能王子は“外を心配するわたし”を知る」


 朝は、まだ鈴を鳴らさなかった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣の中に、いつもの静けさがあった。


 外の光は入っていない。


 風もない。


 声もない。


 子供たちの紙束も、まだ届いていない。


 ただ、そこには。


 鳴らない鈴があった。


 布に包まれた、小さな鈴。


 名前の前の鈴。


 わたしの鈴。


 鈴待ちの日を越えても、その鈴はまだ鳴っていない。


 昨日、中心は知った。


 鈴を誰が鳴らすのかは、まだ決めなくていい。


 誰かが勝手に鳴らしてはいけない。


 願いで鳴らしてはいけない。


 心配でも、守るためでも、勝手に鳴らしてはいけない。


 その鈴は、中心のものだから。


 名前の前に置かれた、大切な線だから。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 ただある石。


 返事をしない石。


 呼ばれなくても、呼ばなくても、そこにある石。


 そして、保護陣の端には、鳴らない鈴。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細く、床に沿っている。


 今日は、昨日よりも少しだけ鋭い。


 理由はない。


 異常はまだない。


 だが、レオンは、朝の空気にわずかな硬さを感じていた。


 こういう日は、何かが起きる。


 経験で分かる。


 誰かの声が乱れる前。


 誰かの足音が急ぐ前。


 空気が、先に硬くなる。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 手は空だ。


 鈴には触れない。


 名前に関わるものへ、朝一番で不用意に触れない。


 それが、この数日で皆が覚えたことだった。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組んでいた。


 いつもなら、朝の沈黙に少しむずむずする。


 だが今日は、彼も黙っていた。


 クラウスは入口側に立っている。


 ラウルは盾を床に置いている。


 ミリオは眠そうな顔をしているが、今日は外側の精神線をかなり細く伸ばしていた。


 昨日よりも、さらに薄く。


 拾うためではない。


 異常を見逃さないために。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っている。


 彼女の箱にも、昨日の札がある。


 鳴らしたくなる願い。


 それを箱へ置いた。


 救われてほしい。


 名前を得てほしい。


 笑ってほしい。


 その願いで、鈴を鳴らしてはいけない。


 アリシアは、そのことを誰よりも痛く受け止めていた。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 目覚めの揺れ。


 誰も呼ばない。


 鈴も鳴らさない。


 ただ、待つ。


 保護陣の光が、一度、二度、淡く明滅する。


 少し長い沈黙。


 それでも、誰も急かさない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは、いつもと同じ温度で微笑んだ。


「おはようございます」


『……鈴』


「鳴っていません」


『……呼ばなかった』


「はい」


『……よかった』


 余白核が、ほっとするように揺れる。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


 レオンは、少しだけ間を置いた。


 そして答えた。


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、そのわずかな間に気づいた。


『……れおん?』


「何でもない」


『……なにか、ある?』


 レオンは、すぐには否定しなかった。


 中心は、もう少しずつ空気の変化を感じ取れるようになっている。


 嘘で安心させるのは違う。


「まだ、何も起きていない」


『……まだ』


「ああ」


「ただ、少し硬い」


『……空気?』


「そうだ」


 中心が、少し震えた。


『……こわい?』


「怖がらなくていい」


『……でも、硬い』


「硬いだけだ」


 リリアーナがそっと続ける。


「怖くなったら、箱に置けます」


『……うん』


 中心は、余白箱へ少し意識を向けた。


『……朝の硬さ』


 その言葉を、まだ箱へ入れるほどではない。


 けれど、覚えておく。


 中心は、そんなふうに揺れた。


 ◇


 朝の挨拶は、いつもより少し静かだった。


 中心は、呼ぶ前に少し間を置く。


 昨日覚えた“待つ合図”。


 名前の前の間。


 呼ぶ前に、急がないこと。


『……あるべると』


「おう」


『……こえ、静か』


「選んでる」


『……硬い?』


 アルベルトは、少しだけ眉を上げた。


「……少しな」


『……あるべるとも?』


「ああ」


『……こわい?』


「怖いっていうか」


 アルベルトは、壁に背を預けたまま、視線を入口側へ向ける。


「何か来そうな感じはする」


 エリシアがすぐに言う。


「不安を煽らないでください」


「でも嘘じゃねぇだろ」


 中心が震える。


『……なにか、くる?』


 リリアーナが優しく言った。


「まだ、分かりません」


『……まだ』


「はい」


『……まだ、はこ?』


「今は、箱に置いてもいいです」


 中心は、余白箱へ小さな光を置いた。


『……なにか来そう、こわい』


 箱が淡く受け止める。


『……のこった』


「残りました」


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……なにか、ある?』


 エリシアは、術式盤を開くか迷った。


 少しだけ手が動く。


 けれど、すぐには開かない。


「まだ、明確な異常はありません」


『……めいかく』


「はっきりした変化はない、ということです」


『……でも、見る?』


「必要なら見ます」


『……今は?』


 エリシアは、リリアーナを見る。


 リリアーナは小さく頷いた。


「今は、まだ待ちます」


 エリシアは手を止める。


「はい」


「待ちます」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……祈り、硬い?』


「少しだけ」


『……祈りも?』


「ええ」


「外が少しざわつく前、祈りの流れも硬くなることがあるわ」


『……外』


「でも、まだ届いていません」


『……まだ』


「はい」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……入口』


「静かです」


『……でも?』


「足音は、まだありません」


 ラウルへ。


『……らうる』


「おう」


『……盾』


「まだ取らない」


『……でも、近く』


「ああ」


 ミリオへ。


『……みりお』


「はい……」


『……外、ひろってる?』


「少しだけです」


『……こわい?』


「まだ、大きな怖さはありません」


 中心は、その言葉に少し安心した。


 最後に、アリシア。


『……ありしあ』


「はい」


『……硬い?』


 アリシアは、自分の胸元に手を置いた。


「少し」


『……こわい?』


「少し」


『……でも、箱』


「はい」


「箱があります」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……箱、ある』


 その言葉が、保護陣の中に小さく広がった。


 箱がある。


 鈴がある。


 石がある。


 待つ仲間がいる。


 だから、朝の硬さを感じても、すぐ崩れなくていい。


 ◇


 それは、朝の確認が終わってすぐだった。


 神殿の外側。


 救護区域へ通じる通路の方から、足音が聞こえた。


 早い。


 複数ではない。


 一人。


 だが、乱れている。


 クラウスが入口側で顔を上げた。


 ラウルが盾へ手を伸ばしかける。


 レオンの黒蒼雷が、床を細く走った。


 中心が震える。


『……足音』


 リリアーナが立ち上がる。


「大丈夫です」


 だが、その声にも少し緊張が混ざる。


 扉の外で、兵士の声がした。


「報告を!」


 グレイヴではない。


 若い兵士だ。


 息が上がっている。


 クラウスが扉へ向かう。


 開ける前に、レオンを見る。


 レオンは頷いた。


 クラウスが扉を少しだけ開く。


 兵士は中へ駆け込まず、入口の手前で止まった。


 この神殿では、もう誰も不用意に踏み込まない。


 中心の線を守るためだ。


 だが、その兵士の顔は青ざめていた。


「救護区域で、子供が一人、強い発作を起こしています」


 保護陣の空気が凍った。


 中心が、大きく震える。


『……こども』


 兵士は続ける。


「名前の箱を抱えたまま泣き出し、呼吸が乱れています」


「救護役が対応中ですが、周囲の子供たちにも動揺が広がりかけています」


 リリアーナが息を呑む。


「誰ですか」


 兵士は一瞬迷った。


 そして答えた。


「ミナではありません」


 その言葉に、皆がわずかに息を吐く。


 だが、安心にはならない。


「幼い子です」


「昨日、“鈴はまだ鳴らない日”と言っていた子です」


 中心の光が強く揺れた。


『……幼い子』


 ミリオが目を閉じる。


 外側の精神線が震える。


「……確かに、救護区域が揺れています」


 エリシアが術式盤を開く。


「外部感情波、上昇」


「ただし、神殿奥への流入は遮断できています」


 兵士は続ける。


「その子が……」


 一拍。


「“ぴかが見たい”と」


 中心が、大きく揺れる。


『……ぴか』


 リリアーナの顔が曇る。


 ぴか待ち。


 またいつかの光。


 昨日、今日と待っていたもの。


 救護区域の幼い子が、恐怖の中でそれを求めている。


 いるよの光を。


 中心の返事を。


 そこにいる証を。


 アルベルトが壁から身体を起こした。


「行く」


 レオンが短く言う。


「待て」


「でもよ」


「待て」


 その声は低かった。


 だが、強かった。


 ラウルも盾を握る。


 クラウスの表情が険しくなる。


 リリアーナは、中心へ振り返る。


 中心は震えている。


『……こども』


「はい」


『……泣いてる?』


 ミリオが、慎重に言う。


「泣いています」


『……苦しい?』


「救護役が呼吸を見ています」


『……ぴか、見たい』


「そう言っています」


 中心の光が、不安定に揺れる。


『……いるよの光』


 余白箱の中で、“またいつかの光”の札が反応する。


 昨日、もっとを箱へ置いた。


 今日はしないと決めていた。


 鈴も鳴らさない。


 でも、外で子供が泣いている。


 苦しんでいる。


 ぴかを見たいと言っている。


 中心の中で、初めて別の揺れが生まれた。


 自分が怖い。


 鈴を鳴らされたくない。


 応えなければならないのは怖い。


 でも。


 子供が心配。


 『……』


 中心は言葉を失った。


 リリアーナは、すぐに何かを求めなかった。


「中心さん」


『……』


「返事できない日もあります」


『……』


「今、何もしなくてもいいです」


 そう言った瞬間。


 アルベルトの拳が震えた。


 彼は何か言いたそうだった。


 子供が苦しんでいる。


 何もしなくていい。


 その言葉は、正しい。


 でも、痛い。


 エリシアも唇を引き結んでいる。


 セラフィアは祈りを強めたいのを抑えていた。


 アリシアは、自分の箱を握りしめている。


 鳴らしたくなる願い。


 それが今、彼女の中で暴れているのが分かった。


 そして。


 リリアーナの視線が、鈴へ向いた。


 ほんの一瞬。


 本当に一瞬だった。


 だが、中心は気づいた。


『……鈴』


 リリアーナの肩が震える。


「……触れません」


 レオンの黒蒼雷が、鈴と全員の間に細く走った。


 攻撃ではない。


 境界だ。


「誰も触るな」


 その声は、神殿の奥を冷たく貫いた。


 アルベルトが息を止める。


 エリシアの手も止まる。


 セラフィアの祈りも、鈴へ向かわず保護陣の外縁へ逃がされる。


 アリシアは、涙を浮かべたまま自分の手を胸に押し当てた。


「……鳴らしません」


 リリアーナも、震えながら頷く。


「鳴らしません」


 中心が、泣くように揺れる。


『……こども』


 レオンが言う。


「助けに行くのは俺たちだ」


『……れおん』


「お前の鈴は鳴らさない」


『……でも』


「子供は放っておかない」


 中心が強く震える。


『……どうする?』


 レオンは、すぐに指示を出す。


「グレイヴを呼べ」


 兵士が頷き、すぐ外へ走る。


「リリアーナはここに残れ」


「でも――」


「お前が動くと中心が揺れる」


 リリアーナは唇を噛む。


 その通りだった。


 彼女が外へ行けば、中心は置いていかれる不安で揺れる。


 レオンは続ける。


「セラフィア、祈りを外へ通す。ただし中心を経由させるな」


「分かったわ」


「ミリオ、状態だけ拾え。感情を中心に流すな」


「はい」


「アルベルト、救護区域へ行く。大声を出すな。力で押さえるな」


「……分かってる」


「クラウス、同行」


「はい」


「ラウル、入口を守れ」


「ああ」


「エリシア、遮断維持。鈴に触れさせるな」


「了解しました」


 動きが一気に生まれる。


 だが、鈴は鳴らない。


 中心の鈴は、誰にも触れられない。


 そのまま、布に包まれている。


 中心は震えながら、そのすべてを感じていた。


『……こども』


 リリアーナが近くに座り直す。


「助けに行きます」


『……わたしは?』


「ここにいていいです」


『……何もしない?』


「何もしなくてもいいです」


『……でも』


 一拍。


『……心配』


 その言葉に、神殿の奥が静まった。


 中心が、初めてはっきりと言った。


 心配。


 外の子供を。


 自分ではない誰かを。


 自分が応えられるかどうかではなく。


 自分の鈴が鳴るかどうかではなく。


 その子が苦しいことを、心配した。


 リリアーナの目から涙が落ちる。


「はい」


「心配ですね」


『……これ』


「はい」


『……なに?』


「心配です」


『……外を』


 一拍。


『……心配する、わたし』


 リリアーナは、震える声で言った。


「箱に置きますか?」


『……うん』


 余白箱が開く。


『……外を心配する、わたし』


 その言葉が、淡く箱の中へ置かれた。


 中心は、泣くように揺れ続けた。


 ◇


 救護区域では、混乱が広がりかけていた。


 幼い子は、箱を抱えたまま床に座り込んでいた。


 呼吸が浅い。


 涙で顔が濡れている。


 周囲の子供たちは、不安そうに距離を取っている。


 救護役がそばで声をかけていた。


「大丈夫」


「息をゆっくり」


「箱は持っていていい」


 だが、幼い子は首を振る。


「ぴか……」


「ぴか、見たい……」


「おはようの人、いる?」


「いるよって……」


 その言葉に、周りの子供たちも揺れた。


 ぴか待ち。


 またいつかの光。


 我慢していた気持ちが、幼い子の涙で呼び起こされる。


「ぼくも見たい」


「でも、待つ日だよ」


「でも、泣いてる」


「どうするの?」


 そこへ、アルベルトとクラウスが到着した。


 アルベルトは大きく息を吸った。


 いつもの彼なら、ここで「大丈夫だ!」と大声を出していた。


 だが、出さなかった。


 拳を握り、声を抑える。


「……大丈夫だ」


 低い声。


 でも、届く声。


「ぴかは、今日はない」


 子供たちが、びくっとする。


 アルベルトは続けた。


「でも、いないわけじゃない」


 幼い子が、涙だらけの顔を上げる。


「ほんと?」


「ああ」


「俺が見てきた」


「おはようの人は、いる」


 クラウスが静かに補足する。


「ただ、光は出しません」


「鈴も鳴りません」


「でも、こちらを心配しています」


 その言葉に、救護区域が静まった。


 ミナが立ち上がる。


「心配?」


 クラウスは頷いた。


「はい」


「あなたたちを、心配しています」


 幼い子が、箱を抱えたまま震えた。


「おはようの人が?」


 アルベルトは、膝をついた。


 視線を合わせる。


「そうだ」


「だから、ぴかを出さないでも、いないわけじゃない」


「ぴかじゃなくても、心配してる」


 幼い子は、泣きながら息を吸った。


 まだ呼吸は乱れている。


 でも、さっきより少しだけ深い。


 ミナが、自分の箱を持って近づく。


「ぴか見たい、箱に入れる?」


 幼い子は、泣きながら首を振りかける。


「でも……」


 ミナは、自分の箱を見せた。


「私も、名前見たい時ある」


「でも、怖いから箱」


「見たいって気持ちは、捨てない」


「でも、今は開けない」


 幼い子は、ミナを見る。


 涙でぐしゃぐしゃの顔。


「ぴか……」


「うん」


「ぴか見たい、って書こう」


 救護役が紙を差し出す。


 幼い子の手は震えていて、うまく書けない。


 ミナが隣に座った。


「一緒に書く?」


 幼い子は、少しだけ頷いた。


 紙に、震えた字が書かれる。


 ぴか見たい。


 その下に、ミナが小さく書いた。


 でも、鈴は鳴らさない。


 幼い子は、その文字を見て、また泣いた。


 でも、今度は呼吸が少しだけ整っていた。


「箱……」


 救護役が頷く。


「入れよう」


 紙は、小さな箱へ入れられた。


 救護区域の空気が、少しずつ戻っていく。


 アルベルトは、拳を緩めた。


 クラウスは、静かに目を伏せる。


 ミナは幼い子の隣に座ったまま、小さく言った。


「おはようの人、心配してくれたんだ」


 幼い子は、箱を抱えて頷いた。


「……うん」


 ◇


 神殿奥。


 ミリオが目を開けた。


「落ち着き始めています」


 中心が、大きく震える。


『……こども』


「呼吸が、少し整いました」


『……泣いてる?』


「まだ泣いています」


『……でも?』


「箱に入れました」


『……なにを?』


「“ぴか見たい”」


 一拍。


「そして、“でも、鈴は鳴らさない”」


 中心の光が、震えながら強くなった。


『……こども』


 リリアーナが涙をこぼす。


「はい」


『……鈴、鳴らさない』


「はい」


『……でも、ぴか、見たい』


「はい」


『……けさない』


「消していません」


『……箱』


「箱に入れました」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……外を心配する、わたし』


 その札が淡く光る。


『……こども、箱に入れた』


「はい」


『……わたしも』


 一拍。


『……ぴか、出したかった』


 リリアーナは頷く。


「はい」


『……でも、出さなかった』


「はい」


『……鈴、鳴らなかった』


「はい」


『……でも、助かった?』


 ミリオが静かに答える。


「今は、落ち着いています」


『……よかった』


 中心は、深く、深く揺れた。


『……よかった』


 その言葉は、何度も繰り返された。


 自分が光を出したからではない。


 鈴を鳴らしたからではない。


 中心が何かを直接したからではない。


 それでも、子供は落ち着き始めた。


 周囲が動いた。


 箱が使われた。


 ミナが寄り添った。


 アルベルトが大声を出さずに伝えた。


 クラウスが言葉を置いた。


 救護役が支えた。


 中心は、心配した。


 そして、鈴は守られた。


 それでも、助けは届いた。


 ◇


 午後。


 救護区域から、短い報告が届いた。


 幼い子は眠った。


 箱を抱えたまま。


 泣き疲れて眠ったらしい。


 ミナはそのそばに座り、しばらく離れなかったという。


 紙には、こう書かれていた。


 ぴか見たい。


 でも、鈴は鳴らさない。


 心配してくれた。


 いる。


 その報告を、ミリオが慎重に一文ずつ伝えた。


 中心は、全部を一度には受け取れなかった。


 だから、余白箱へ一つずつ置いた。


『……ぴか見たい』


 置く。


『……でも、鈴は鳴らさない』


 置く。


『……心配してくれた』


 中心は、そこで震えた。


『……これ』


 リリアーナが優しく聞く。


「重いですか?」


『……うん』


「箱に置きましょう」


『……うん』


 置く。


『……いる』


 最後の一語。


 中心は、それを聞いて長く沈黙した。


『……いる』


「はい」


『……ぴか、なくても』


「はい」


『……鈴、鳴らなくても』


「はい」


『……心配、届いた?』


「届きました」


 中心は、泣くように揺れた。


『……心配も、届く』


 レオンが静かに言う。


「そうだな」


『……こえじゃない』


「違う」


『……ひかりじゃない』


「違う」


『……でも、届いた』


「届いた」


 中心は、その言葉を余白記録へ置いた。


 心配も、届く。


 リーネの光が、名簿束のそばで柔らかく揺れた。


『記録します』


 ◇


 夕方。


 アルベルトとクラウスが戻った。


 アルベルトは、いつもより少し疲れた顔をしていた。


 だが、大声は出さない。


 中心がすぐ反応する。


『……あるべると』


「おう」


『……ありがとう』


 アルベルトは、少し困ったように笑った。


「俺は、別に」


『……大声、出さなかった』


「……まあな」


『……こども、こわくなかった?』


「たぶん」


 ミリオが補足する。


「怖がってはいませんでした」


 中心が安心したように揺れる。


『……よかった』


 クラウスにも。


『……くらうす』


「はい」


『……心配、言った?』


「言いました」


『……ありがとう』


「どういたしまして」


 リリアーナは、二人を見てから中心へ言った。


「今日は、みんなで鈴を守りました」


『……みんなで』


「はい」


『……こどもも』


「子供たちも」


『……ミナも』


「ミナさんも」


『……わたしも?』


「あなたも」


 中心が震える。


『……わたし、なにした?』


 レオンが答えた。


「心配した」


『……それだけ』


「それだけじゃない」


 レオンは静かに続ける。


「鈴を鳴らさなかった」


『……それ、なにかした?』


「した」


 中心は、長く沈黙した。


『……鳴らさない、も、したこと?』


「ああ」


『……心配する、も?』


「そうだ」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……外を心配する、わたし』


 一拍。


『……鈴を守る、わたし』


 リリアーナの目が潤む。


「候補ですか?」


『……まだ、候補』


「はい」


 エリシアが記録する。


「札呼称候補」


「鈴を守るわたし」


 中心は、少しだけ落ち着いた光で揺れた。


『……鈴を守る、わたし、かも』


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、深い疲れが降りていた。


 今日は、事件があった。


 救護区域で、幼い子が泣いた。


 ぴかを見たいと求めた。


 誰かが、鈴へ手を伸ばしかけた。


 でも、止まった。


 鈴は鳴らなかった。


 中心は、光を出さなかった。


 声も届けなかった。


 それでも、外を心配した。


 そして、その心配は届いた。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかけた。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、長く沈黙した。


 いつもより長い。


 誰も急かさない。


 やがて、中心は言った。


『……こどもが、泣いた日』


「はい」


『……ぴか見たい、の日』


「はい」


『……でも、鈴は鳴らさない日』


「はい」


『……誰かが、鈴に手を伸ばしかけた日』


「はい」


『……でも、止まった日』


「はい」


『……外を心配する、わたし、の日』


「はい」


『……心配も、届く日』


「はい」


『……鈴を守る、わたし、かも、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで静かに揺れる。


『余白記録へ残します』


『鈴に手が伸びる朝』


『外を心配するわたしの日』


『心配も届く日』


『鈴を守るわたし、候補の日』


 中心が、ゆっくり光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は、進んだな」


『……こわかった』


「ああ」


『……でも、鈴、守れた』


「守れた」


『……こども、落ち着いた』


「そうだ」


『……ぴか、出してない』


「出してない」


『……でも、いる』


「いる」


 中心は、いやじゃない石へ意識を向けた。


『……いし』


「あります」


『……ただ、ある』


「はい」


『……今日、わたし』


 一拍。


『……ただ、ある、だけじゃなかった』


 リリアーナの胸が震える。


「はい」


『……心配した』


「はい」


『……こわかった』


「はい」


『……鈴を、守った』


「はい」


 中心は、静かに光を弱めていく。


 疲れている。


 深く疲れている。


 けれど、崩れてはいない。


『……りり』


「はい」


『……明日、こども』


「はい」


『……大丈夫か、知りたい』


 リリアーナは涙を浮かべて頷いた。


「分かりました」


『……でも、声、まだ』


「声でなくても大丈夫です」


『……鈴も』


「鳴らしません」


『……よかった』


 中心は、安心したように揺れた。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、涙を浮かべたまま言った。


「鈴を守って、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……外を、心配する、わたし』


 余白核は、静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 鈴も鳴らさなかった。


 けれど、外で泣く子供を心配した。


 自分の怖さだけではなく、誰かの苦しさへ意識を向けた。


 そして知った。


 心配も、届くことがある。


 光でなくても。


 声でなくても。


 名もない“わたし”は、今日。


 世界を怖がるだけではなく、世界を心配する自分に初めて出会った。

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