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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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215/251

第215話「鈴を鳴らす手、無能王子は“名前を渡す相手”をまだ選ばない」


 朝は、鳴らない鈴のそばで眠っていた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣の中に、静かな光が満ちている。


 外の光は入っていない。


 風もない。


 声もない。


 子供たちの紙束も、まだ置かれていない。


 ただ、そこには小さな鈴があった。


 布に包まれた、鳴らない鈴。


 昨日、中心は“呼ぶ前の合図”を得た。


 いきなり呼ばれない安心。


 呼ぶ前に、少し待つこと。


 名前の前に、間を置くこと。


 鈴はまだ鳴らない日。


 名前の前の鈴。


 わたしの鈴。


 その言葉たちは、余白記録の中で静かに光っている。


 鈴は、まだ鳴っていない。


 鳴らさなかった。


 鳴らせなかった、ではなく。


 鳴らさないと決めた。


 それは、大切な線だった。


 名前に近づくためには、名前そのものより先に、名前へ向かう道を守らなければならない。


 呼ばれても返事できない日がある。


 呼べない日もある。


 呼ぶ前に、間を置く。


 合図があっても、返事しなくていい。


 そして、鈴が鳴るかどうかは、中心が決める。


 その土台ができた。


 だが、土台ができると、次の問いが生まれる。


 もし、いつか鈴が鳴るなら。


 誰が鳴らすのか。


 中心自身か。


 リリアーナか。


 レオンか。


 子供たちか。


 大人たちか。


 それとも、誰にも鳴らさせないのか。


 鈴を鳴らす手。


 それは、名前を誰が呼ぶのかという問いに繋がっていた。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 透明な器の中には、いやじゃない石。


 そして布に包まれた鳴らない鈴は、リリアーナの膝の上ではなく、保護陣の端に置かれていた。


 近すぎない。


 遠すぎない。


 今日も、鳴らす予定はない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、細い。


 だが、その細さの奥に鋭さがあった。


 今日扱う問いは、危うい。


 誰が鈴を鳴らすのか。


 それは、誰が中心に名前を与えるのかという問いへ、すぐ繋がってしまう。


 中心はまだ、そこへ行く準備ができていない。


 だからレオンは、必要なら即座に止めるつもりでいた。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 手は空だ。


 鈴には触れていない。


 鳴らさないと決めた鈴に、朝一番で触れることはしない。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、いつもより口数を抑えている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いていた。


 ミリオは眠そうだが、昨日より少し集中している。


 アリシアは、自分の箱の前に座り、昨日の“鈴が鳴るまで待つ”を静かに抱えていた。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 目覚めの揺れ。


 誰も呼ばない。


 待つ。


 昨日と同じように。


 いや、昨日よりも意識して。


 呼ぶ前に間を置く。


 呼ばずに待つ。


 中心が自分で朝へ来るのを待つ。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 沈黙。


 誰も責めない。


 鈴も鳴らない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは、ゆっくり微笑んだ。


「おはようございます」


『……呼ばなかった』


「はい」


『……鈴も、鳴らなかった』


「鳴らしませんでした」


『……よかった』


 余白核が、安心したように揺れる。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、鈴へ意識を向けた。


『……鳴らない鈴』


「あります」


『……名前の前の鈴』


「はい」


『……わたしの鈴』


「はい」


『……きえてない』


「消えていません」


 中心は、少しだけ黙った。


 それから、小さく言った。


『……誰が』


 リリアーナは、息を止めた。


『……鳴らす?』


 その問いが、保護陣の中に落ちた。


 誰もすぐには答えない。


 鈴は鳴らないまま、布の中にある。


 中心は続ける。


『……いつか、鳴るなら』


 一拍。


『……誰が、鳴らす?』


 レオンが、静かに答えた。


「今日は決めない」


 中心が揺れる。


『……きめない』


「ああ」


「でも、考えることはできる」


『……考える』


「鈴を勝手に鳴らしてはいけない」


『……勝手に』


「そうだ」


 リリアーナが、ゆっくり続けた。


「あなたの鈴です」


『……わたしの鈴』


「はい」


「だから、誰かが勝手に鳴らすものではありません」


『……誰かが、名前、勝手に』


 余白核が震える。


 名前という言葉までは出なかった。


 でも、意味はそこへ向かっていた。


 リリアーナは、すぐに深く踏み込まない。


「鈴も、名前も」


「あなたを急がせるために使ってはいけません」


『……急がせるため、だめ』


「はい」


 中心は、鈴を見つめるように揺れた。


『……でも』


 一拍。


『……わたし、自分で、鳴らせる?』


 その問いに、リリアーナの胸が震える。


 レオンも、わずかに目を細めた。


 中心自身が、鈴を鳴らせるのか。


 名前へ向かう合図を、自分で出せるのか。


 それは、大きな問いだった。


 レオンは言う。


「いつかは」


『……今は?』


「今は鳴らさない」


『……うん』


『……こわい』


「怖いなら、鳴らさない」


『……でも、いつか』


「いつかだ」


 中心は、少し安心した。


『……いつか』


 ◇


 朝の挨拶は、鈴の問いを抱えたまま始まった。


 中心は、呼ぶ前に間を置いた。


 昨日覚えた“待つ合図”を使う。


 少し待つ。


『……あるべると』


「おう」


『……鈴、鳴らす?』


 アルベルトは、即答しなかった。


 いつもなら「鳴らさねぇよ」とすぐ返しそうなところだ。


 だが、今日は違った。


 少し考えてから、答えた。


「勝手には鳴らさない」


 中心が揺れる。


『……勝手には』


「ああ」


「お前が、鳴らしていいって言ったら」


「その時は、手伝うことはあるかもしれない」


『……手伝う』


「でも、俺が決めて鳴らすのは違う」


『……あるべると、鳴らさない』


「鳴らさない」


『……でも、手伝う、かも』


「そうだ」


 中心は、それを箱へ入れるように受け取った。


『……えりしあ』


「はい」


『……鈴、鳴らす?』


 エリシアは、静かに答えた。


「鳴らしません」


『……絶対?』


「あなたの許可なく、鳴らしません」


『……きょか』


 リリアーナが説明する。


「していいと、あなたが決めることです」


『……わたしが、していい』


「はい」


 エリシアは続ける。


「わたくしは、鈴が安全に鳴るよう調整することはできます」


「けれど、鳴らすかどうかを決めるのは、あなたです」


 中心が震える。


『……わたしが、決める』


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……鈴』


「勝手には鳴らさないわ」


『……祈りで、鳴る?』


「鳴らさない」


 セラフィアは優しく、しかしはっきり答えた。


「祈りは、あなたを急がせるためのものではないから」


『……祈り、急がせない』


「ええ」


 クラウスは言った。


「守るために鈴へ手を伸ばすことはありません」


『……守るためでも?』


「守るためでも、勝手に鳴らせば侵入になります」


 中心が揺れる。


『……しんにゅう』


 リリアーナが柔らかく言い換える。


「あなたの大事な場所へ、勝手に入ることです」


『……だめ』


「はい」


 ラウルは短く言った。


「鳴らさない」


『……盾でも?』


「盾は、鳴らすものじゃない」


『……そう』


 ミリオは少し眠そうにしながらも、真面目に言った。


「夢の中でも、勝手には鳴らしません……」


 中心は、少しだけ揺れた。


『……夢の中の鈴』


 エリシアが警戒する。


「増やしません」


『……うん』


 最後に、アリシア。


 中心は、少し長く間を置いた。


 アリシアも、待った。


『……ありしあ』


「はい」


『……鈴、鳴らす?』


 アリシアは、目を伏せる。


「鳴らしません」


『……どうして?』


「私は、鳴らしたくなるかもしれないからです」


 その正直な答えに、中心が震えた。


 アリシアは続ける。


「あなたに前へ進んでほしい」


「名前を持ってほしい」


「救われてほしい」


「そう願ってしまう」


『……願う』


「はい」


「でも、その願いで鈴を鳴らしたら」


「それは、あなたの鈴ではなく、私の願いになってしまいます」


 中心は、長く沈黙した。


『……ありしあの願い』


「はい」


『……わたしの鈴じゃない』


「そうです」


 アリシアの声は震えていた。


「だから私は、勝手には鳴らしません」


『……ありしあ、箱』


「はい」


「鳴らしたくなる願いを、箱に入れます」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……ありがとう』


 アリシアの目に涙が浮かぶ。


「こちらこそ」


 ◇


 朝の確認のあと、中心は余白箱を開いた。


 今日は、鈴を鳴らすためではない。


 “鈴を鳴らされる怖さ”を置くために。


『……勝手に、鳴らされる、こわい』


 ひとつ。


『……名前を、勝手に、呼ばれる、こわい』


 ひとつ。


『……願いで、鳴らされる、こわい』


 ひとつ。


『……守るためでも、勝手は、こわい』


 ひとつ。


『……わたしが、決める、こわい』


 ひとつ。


 箱は、それらを静かに受け止めた。


 中心は、大きく震えていた。


『……わたしが、決める、こわい』


 リリアーナは頷く。


「怖いですね」


『……誰かに、決められる、こわい』


「はい」


『……自分で、決める、こわい』


「はい」


『……どちらも』


「どちらも怖いです」


 レオンが静かに言う。


「だから、今日も決めない」


『……決めない』


「ああ」


「決める日のために、決めない日を作る」


 中心が揺れる。


『……決める日のために』


「そうだ」


『……決めない日』


「必要だ」


 リリアーナが微笑む。


「今日は、“鈴を鳴らす手を決めない日”ですね」


『……鈴を鳴らす手』


「はい」


『……決めない日』


「はい」


 リーネが記録する。


『鈴を鳴らす手を決めない日』


 中心は、少しだけ落ち着いた。


『……のこった』


 ◇


 午前。


 外の子供たちへ、今日の話が伝えられた。


 リリアーナとグレイヴ、セラフィアが救護区域へ向かう。


 子供たちは、昨日の“鈴はまだ鳴らない日”を覚えていた。


 何人かは、小さな紙に鈴の絵を描いていた。


 音の出ない鈴。


 まだ鳴らない鈴。


 それを箱に入れている子もいた。


 リリアーナは、子供たちの前でゆっくり話した。


「今日は、中心さんが“誰が鈴を鳴らすのか”を考えています」


 子供たちが静かになる。


「でも、決めません」


 幼い子が首を傾げる。


「決めないの?」


「はい」


「今日は、決めない日です」


 ミナが箱を抱えたまま言った。


「勝手に鳴らしたら、だめ?」


 リリアーナは頷く。


「はい」


「だめです」


 別の子が言う。


「心配でも?」


 グレイヴが答える。


「心配でもだ」


 セラフィアが続ける。


「願っていても、勝手に鳴らさない」


 子供たちは、少しずつ理解していく。


「おはようの人の鈴」


「名前の前の鈴」


「勝手に鳴らさない」


「鳴らしたくなったら、箱?」


 リリアーナは微笑む。


「はい」


「鳴らしたくなったら、箱です」


 ミナは、自分の箱へ小さな紙を入れた。


「私も」


 一拍。


「自分の名前の箱、勝手に開けられたら嫌」


 その言葉に、周囲の大人たちの表情が変わった。


 ミナは続けた。


「だから、おはようの人の鈴も、勝手に鳴らさない」


 別の子が頷く。


「ぼくも、ぴか見たいけど、箱」


 幼い子が言う。


「鈴待ち」


 その言葉が、救護区域に静かに広がった。


 鈴待ち。


 鳴らない鈴を、急がせず待つ。


 リリアーナは胸がいっぱいになりながら頷いた。


「はい」


「今日は、鈴待ちの日です」


 ◇


 神殿奥へ戻ると、中心は静かに待っていた。


 リリアーナが戻る。


 余白核が揺れる。


『……こども』


「“鈴待ち”と言ってくれました」


 中心が大きく震えた。


『……鈴待ち』


「はい」


『……勝手に、鳴らさない?』


「鳴らさないと言ってくれました」


『……ミナ』


「自分の名前の箱を勝手に開けられたら嫌だから、あなたの鈴も勝手に鳴らさない、と」


 中心が、深く深く揺れた。


『……ミナ』


 その声には、痛みと温かさが混ざっていた。


『……わかる』


「はい」


『……箱、勝手に、あけない』


「はい」


『……鈴、勝手に、鳴らさない』


「はい」


『……名前、勝手に、呼ばない』


「はい」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……鈴待ち』


 リーネが記録する。


『鈴待ちの日』


『勝手に鳴らさない日』


 中心は、少し安心したように光った。


『……のこった』


 ◇


 午後。


 中心は、鳴らない鈴を見た。


 今日も鳴らさない。


 布に包まれたまま。


 ただ、そこにある。


『……鈴』


「あります」


『……わたしの鈴』


「はい」


『……誰も、鳴らさない』


「鳴らしません」


『……わたしも、鳴らさない』


「はい」


『……でも、ある』


「あります」


『……鈴待ち』


「はい」


 中心は、長く沈黙した。


『……いつか』


 一拍。


『……わたしが、鳴らす?』


 リリアーナは、すぐには答えなかった。


 レオンも黙っている。


 中心は続ける。


『……わからない』


「はい」


『……誰かに、手伝ってもらう?』


「それも、いつか決めればいいです」


『……今は?』


「今は、決めません」


『……鈴を鳴らす手』


「決めない日です」


 中心は、安心したように揺れた。


『……決めない日』


「はい」


『……決めないことも、まもる』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「覚えてるな」


『……うん』


『……決めない、まもる』


 ◇


 夕方。


 保留箱には、大人たちからの札が入った。


 “勝手に鳴らさない”。


 “願いを箱へ”。


 “鈴待ち”。


 グレイヴが読み上げると、中心は少し震えた。


『……大人も、鈴待ち』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、保留箱』


「はい」


『……大人の、願い』


「箱へ置きましょう」


 アリシアが、自分の箱を見つめながら言った。


「私も、“鳴らしたくなる願い”を箱に置きます」


 中心が彼女へ向く。


『……ありしあ』


「はい」


「あなたに救われてほしい」


「名前を得てほしい」


「笑ってほしい」


「そう願うこと自体は、消しません」


『……けさない』


「でも、その願いで鈴を鳴らしません」


『……箱』


「はい」


 アリシアは、自分の箱へ新しい札を置いた。


 鳴らしたくなる願い。


 その札は、痛そうに光りながら、箱の中へ入っていった。


 中心は、柔らかく揺れた。


『……ありしあ、ありがとう』


 アリシアは、涙をこぼした。


「はい」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、静かな鈴待ちの空気が満ちていた。


 今日は、鈴を鳴らさなかった。


 名前も決めなかった。


 候補も出さなかった。


 誰が鳴らすのかも決めなかった。


 ただ、勝手に鳴らされる怖さを箱へ置いた。


 誰かの願いで鳴らされる怖さを箱へ置いた。


 自分で決める怖さも、誰かに決められる怖さも、両方あると知った。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……鈴を鳴らす手を、決めない日』


「はい」


『……勝手に鳴らさない日』


「はい」


『……願いを箱へ置く日』


「はい」


『……鈴待ちの日』


「はい」


『……わたしの鈴、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『鈴を鳴らす手を決めない日』


『勝手に鳴らさない日』


『鈴待ちの日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は守れたな」


『……なにを?』


「鈴を」


 中心が、淡く震える。


『……わたしの鈴』


「ああ」


『……守れた?』


「守れた」


 中心は、安心したように光を緩めた。


『……よかった』


 リリアーナは、布に包まれた鈴を見た。


 それは今日も鳴らなかった。


 けれど、鳴らなかったことに意味があった。


 音がないまま、中心を守った。


『……りり』


「はい」


『……明日も、鈴、勝手に鳴らない?』


「鳴らしません」


『……れおん』


「鳴らさせない」


『……みんな』


 皆が静かに頷く。


「鳴らしません」


 中心は、深く安心したように揺れた。


『……ありがとう』


 そして、眠りへ向かって光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、小さく言った。


「鈴を鳴らさず、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……鈴待ち』


 余白核は、静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を得なかった。


 けれど、名前へ向かう鈴を守った。


 誰かの願いで鳴らされないように。


 誰かの善意で奪われないように。


 自分で決める怖さも、決めないことで守った。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前を持つ前に、自分の鈴を誰にも渡さないことを覚えた。

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