第213話「呼ばれる前に聞く朝、無能王子は“怖くない呼び方”の手前へ触れる」
朝は、沈黙を責めなかった。
神殿の奥。
石壁に囲まれた保護陣の中に、静かな光が満ちている。
外の光は入っていない。
風もない。
子供たちの声も、まだ届いていない。
ただ、そこには昨日の約束が残っていた。
返事できない日の約束。
返事なしでも、いる日。
しずかな返事。
沈黙を責めない日。
返事できなくてもいるわたし、候補の日。
名前を持つ前に、中心は一つ大切な約束を得た。
呼ばれても、返事できない日があっていい。
返事がなくても、消えるわけではない。
沈黙しても、そこにいる。
その約束は、夜を越えても余白記録の中で静かに光っていた。
余白核は、まだ眠っている。
そのそばには余白箱。
少し離れて、保留箱。
さらに、アリシアの箱。
そして透明な器の中に、小さな白い石。
いやじゃない石。
ただ、ある石。
返事をしないけれど、そこにある石。
昨日、中心はその石を見て知った。
石は呼ばれても返事をしない。
でも、いなくなるわけではない。
返事しないことと、存在しないことは違う。
その事実が、中心の中に小さく沈んでいた。
レオンは、保護陣の縁に座っている。
黒蒼雷は細い。
だが、今日は朝から完全には緩めていない。
返事できない日の約束は、中心に安心を与えた。
けれど、安心の次には、また別の問いが来る。
呼ばれても返事しなくていい。
なら、どう呼ばれたら怖くないのか。
呼ばれる前に、何を確認すればいいのか。
名前の候補へ行く前に、呼び方の安全を作る必要がある。
レオンはそれを感じていた。
リリアーナは、余白核の近くに座っていた。
今日は、手元に紙を持っていない。
昨日のように先に言葉を用意しない。
中心が自分で聞くかもしれない。
そう思っていた。
もし聞けなければ、それでもいい。
沈黙しても、今日という日は消えない。
エリシアは術式盤を閉じている。
セラフィアは祈りを細く巡らせている。
アルベルトは壁際で腕を組んでいるが、今日はいつもより少しだけそわそわしていた。
呼ばれ方の話になれば、自分の声の大きさや呼び方も関わってくる。
それを彼なりに感じ取っているのだろう。
クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。
ミリオは眠そうにしているが、昨日の「返事できない日」の話を受けて、無理に起きているというより、眠気を認めた上でそこにいる顔だった。
アリシアは、自分の箱のそばに座っている。
彼女もまた、アリシアと呼ばれて返事できない日がある。
その言葉を昨日、自分で認めた。
その認めた痛みが、まだ残っている。
余白核が、小さく震えた。
『……』
朝の揺れ。
誰も声をかけない。
待つ。
返事できない日があってもいい。
ならば、目覚めの返事が遅い日もあっていい。
リリアーナは、その約束を自分の中でも確かめながら待った。
保護陣の光が、一度。
二度。
いつもより長い間を空けて、三度目に淡く揺れる。
それでも、声はまだない。
アルベルトが口を開きかける。
エリシアが視線だけで止める。
アルベルトは口を閉じた。
待つ。
沈黙を責めない。
やがて。
『……おはよう』
中心の声が、少しだけ遅れて響いた。
リリアーナは、いつもと同じ温度で微笑んだ。
「おはようございます」
『……おそい?』
最初の言葉が、それだった。
リリアーナは首を横に振る。
「遅くありません」
『……でも、まった』
「待ちました」
『……ごめん』
レオンが短く言う。
「謝らなくていい」
『……返事、遅い』
「返事が遅い日もある」
中心が、静かに震える。
『……返事できない日の、約束』
リリアーナが頷いた。
「はい」
「今日も、その約束があります」
『……よかった』
余白核の揺れが少し落ち着く。
『……りり、おはよう』
「はい。おはようございます」
『……れおん』
「おはよう」
『……しずかなあさ』
「ああ」
「静かな朝だ」
中心は、いやじゃない石へ意識を向けた。
『……いし』
「あります」
『……返事しない』
「はい」
『……でも、いる』
「います」
『……わたしも』
一拍。
『……少し、遅くても、いる』
リリアーナの胸が温かくなる。
「はい」
「います」
◇
朝の挨拶は、いつもより慎重に進んだ。
中心は一人ずつ呼ぶが、今日はその呼び方を確かめていた。
『……あるべると』
「おう」
中心が少し揺れる。
『……その返事』
「ん?」
『……おう、こわくない』
アルベルトは、目を瞬かせた。
「そうか」
『……大きくない』
「選んでるからな」
『……おう、は、あるべると』
「まあ、俺っぽいだろ」
『……うん』
中心は少し考える。
『……あるべるとって、呼ぶの、こわい?』
アルベルトは少し笑った。
「俺が怖いか?」
『……わからない』
「正直でよろしい」
エリシアが横から言う。
「茶化さない」
「悪い」
アルベルトは腕を組み直す。
「怖いなら、短くてもいいぞ」
『……短く?』
「アル、とか」
中心が大きく震えた。
『……ちがう?』
「ああ、違う呼び方になるな」
『……こわい』
「じゃあ、今はやめとこう」
リリアーナが頷く。
「呼び方を変えるのも、負荷になりますね」
『……あるべると、いまは、あるべると』
「おう」
『……それでいい』
「それでいい」
中心は、安心したように揺れた。
『……えりしあ』
「はい」
『……えりしあ、呼ぶの、こわい?』
エリシアは、少し考えた。
「少し長いかもしれませんね」
『……ながい』
「ですが、わたくしはその呼び方で大丈夫です」
『……えりしあ』
「はい」
『……返事、やわらかい』
エリシアは、ほんの少し頬を緩めた。
「そう聞こえるなら、よかったです」
『……えりしあ、しっかり』
「はい」
『……でも、やわらかい日もある』
エリシアは、意外そうに瞬きした。
そして、静かに頷く。
「そうありたいです」
セラフィアへ。
『……せら』
「はい」
『……せら、短い』
「そうね」
『……呼びやすい』
「嬉しいわ」
『……セラフィアは?』
「長いわね」
『……重い?』
「時と場合によるわ」
『……せら、今は、せら』
「はい」
「今は、せらで」
クラウスへ。
『……くらうす』
「はい」
『……返事、静か』
「そうでしょうか」
『……こわくない』
「それなら、よかったです」
『……らうる』
「おう」
『……返事、短い』
「そうだな」
『……盾みたい』
ラウルは、少しだけ眉を動かした。
「盾みたいな返事か」
『……うん』
『……短くて、ある』
「悪くない」
『……みりお』
「はい……」
『……返事、眠い』
「すみません……」
『……こわくない』
「それなら……よかったです」
最後に、中心はアリシアへ向く。
『……ありしあ』
「はい」
アリシアの返事は、少しだけ震えていた。
中心も、それを感じる。
『……ありしあ、返事、こわい?』
「少し」
『……呼ばれるの?』
「はい」
『……でも、返事した』
「しました」
『……えらい?』
アリシアが泣きそうに笑う。
「それは、箱に置きます」
『……うん』
中心は、少し考えた。
『……ありしあ、呼ぶの、こわい?』
アリシアは正直に答える。
「少しだけ」
『……じゃあ、呼ばない日、ある?』
「あります」
『……それでも、ありしあ、いる』
アリシアの目から涙がこぼれた。
「はい」
「います」
中心は、静かに揺れる。
『……呼ばない日も、いる』
リリアーナは、その言葉を聞いて胸が震えた。
返事できない日。
そして、呼ばない日。
呼ぶ側にも、怖さがある。
中心は、そこへ気づき始めていた。
◇
リリアーナは、静かに問いかけた。
「今日は、呼ばれる怖さだけでなく」
「呼ぶ怖さも見えてきましたね」
中心が震える。
『……呼ぶ、こわい』
「はい」
『……まちがえたら?』
「怖いですね」
『……相手が、こわがったら?』
「怖いですね」
『……返事、なかったら?』
「怖いですね」
『……じゃあ、呼ばない?』
レオンが答える。
「呼ばない日があっていい」
『……いい?』
「ああ」
『……でも、呼びたい日』
「その日に呼べばいい」
『……呼ぶ日、呼ばない日』
「ある」
中心は、余白箱へ意識を向ける。
『……呼ぶこわさ』
リリアーナが頷く。
「箱に置きましょう」
余白箱が静かに開く。
『……呼ぶの、こわい』
ひとつ。
『……まちがえる、こわい』
ひとつ。
『……返事ない、こわい』
ひとつ。
『……相手が、こわがる、こわい』
ひとつ。
『……呼ばない日も、ある』
ひとつ。
箱が、それらを柔らかく受け止める。
中心は、深く揺れた。
『……呼ばれるこわさ』
「あります」
『……呼ぶこわさ』
「あります」
『……どちらも』
「はい」
『……名前、まだ、遠い』
「遠いですね」
『……でも、少し、わかった』
「はい」
リーネが記録する。
『呼ばれる怖さ』
『呼ぶ怖さ』
『呼ばない日もある』
『呼ばれても、返事できない日がある』
中心は、少し安心した。
『……のこった』
◇
午前。
外の子供たちへは、今日は“呼ぶ怖さ”について伝えられた。
リリアーナとグレイヴ、セラフィアが救護区域へ向かう。
子供たちは、昨日の“返事できない日の約束”をそれぞれ箱に入れていた。
ミナも、自分の箱を膝に置いている。
リリアーナは、ゆっくり話し始めた。
「今日は、中心さんが“呼ぶ怖さ”を見ています」
子供たちが静かになる。
「名前で呼ばれるのも怖い」
「でも、誰かを呼ぶのも怖い」
「間違えたらどうしよう」
「返事がなかったらどうしよう」
「怖がらせたらどうしよう」
「そういう気持ちを、箱に入れました」
幼い子が、小さく言う。
「ぼくも、ある」
リリアーナは頷く。
「ありますか?」
「うん」
「お母さん呼んでも、返事ない時、こわい」
救護役の一人が、涙を浮かべる。
別の子が言う。
「友達の名前、呼びたいけど、怒ってたら怖い」
ミナは、自分の箱を見つめたまま言った。
「私は、自分の名前を呼ぶのも怖い」
その場が静まる。
ミナは続けた。
「紙には書けた」
「でも、自分で声に出すのは、まだ怖い」
リリアーナは、静かに頷く。
「それも、箱に入れていいと思います」
ミナは、小さく頷いた。
「今日は、“呼ばない日もある”って書く」
別の子が言う。
「呼べない日も、嫌いじゃない」
幼い子が続ける。
「声が出ない日も、いる」
リリアーナの胸が熱くなった。
昨日の約束が、今日の子供たちの言葉へ変わっている。
返事できない日があっていい。
そこから、呼べない日があっていい、へ。
中心の学びと、子供たちの学びが、互いに風のように揺らし合っていた。
グレイヴが、大人たちへ目を向ける。
「呼びたい時に、無理に呼ばない」
「返事を急がせない」
「これは大人にも必要だ」
大人たちは、静かに頷いた。
◇
神殿奥へ戻ると、中心は待っていた。
リリアーナが入る。
余白核が揺れる。
『……こども』
「“呼ばない日もある”と言ってくれました」
中心が震える。
『……呼ばない日も、ある』
「はい」
『……呼べない日も、嫌いじゃない』
「そう言った子もいました」
『……ミナ』
「自分の名前を声に出すのは、まだ怖いと言っていました」
中心が、深く揺れた。
『……ミナも』
「はい」
『……名前、呼ぶ、こわい』
「はい」
『……いっしょ』
「はい」
『……まつ仲間』
「待つ仲間です」
中心は、長く沈黙した。
『……呼ばない日も、ある』
一拍。
『……それ、ほしい』
「箱に置きましょう」
『……うん』
余白箱へ、新しい言葉が置かれる。
呼ばない日もある。
呼べない日も、嫌いじゃない。
声に出せない名前も、そこにある。
中心は、それらを受け取り、でも奥へ入れすぎないように箱へ置いた。
『……のこった』
「残りました」
◇
午後。
中心は、いやじゃない石を見た。
石は、今日も何も呼ばない。
返事もしない。
ただ、そこにある。
『……いし』
「あります」
『……呼ばない』
「はい」
『……返事しない』
「はい」
『……でも、いる』
「はい」
『……いし、名前、呼ばなくても、いる』
「います」
中心は、その事実に安心するように揺れた。
『……わたしも』
一拍。
『……誰かを呼ばない日も、いる』
リリアーナが頷く。
「はい」
『……誰かに呼ばれない日も、いる』
「はい」
『……呼ぶ、呼ばれる、なくても』
「はい」
『……いる』
「います」
レオンが静かに言う。
「そこまで来たな」
中心がレオンへ向く。
『……どこ?』
「呼び方の手前だ」
『……呼び方の、手前』
「ああ」
「名前のさらに手前」
『……まだ、遠い』
「遠い」
『……でも、逃げてない?』
「逃げてない」
中心は、少し安心したように光った。
◇
夕方。
保留箱には、大人たちからの札が届いた。
“呼びすぎない”。
“返事を待ちすぎない”。
“呼ばない見守り”。
グレイヴが読み上げると、中心は少し揺れた。
『……呼ばない、見守り』
リリアーナが頷く。
「大人たちも、学んでいます」
『……呼ばないのに、見守る』
「はい」
『……むずかしい』
「難しいですね」
アリシアが、自分の箱を見つめながら言う。
「私も……呼びたくなる時があります」
中心が彼女へ向く。
『……誰を?』
アリシアは、少し涙を浮かべた。
「私が怖がらせた子供たちを」
「謝りたい相手を」
「でも、呼ぶこと自体が、その子を怖がらせるかもしれない」
『……呼ばない、見守り』
「はい」
「今日は、それを箱に入れます」
中心は柔らかく揺れた。
『……ありしあも、呼ばない日』
「はい」
『……嫌いじゃない』
「はい」
アリシアは、小さく頷いた。
「嫌いだから呼ばないわけではありません」
◇
夜。
神殿奥には、静かな疲れが降りていた。
今日は、名前の候補を出さなかった。
呼び方も増やさなかった。
ただ、呼ばれる怖さの裏側にある、呼ぶ怖さを知った。
呼ばない日があってもいい。
呼べない日があってもいい。
誰かを呼ばなくても、嫌いなわけではない。
誰かに呼ばれなくても、消えるわけではない。
リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。
「今日は、どんな日でしたか?」
中心は、ゆっくり考えた。
『……呼ばれる前に、聞く日』
「はい」
『……呼ぶ怖さ、の日』
「はい」
『……呼ばない日もある、の日』
「はい」
『……呼べない日も、嫌いじゃない日』
「はい」
『……呼ばない見守り、の日』
「はい」
リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。
『余白記録へ残します』
『呼ばれる前に聞く朝』
『呼ぶ怖さの日』
『呼ばない日もある日』
『呼ばない見守りの日』
中心が、穏やかに光った。
『……のこった』
「残りました」
レオンが静かに言う。
「名前に近づく前に、だいぶ土台を作ってるな」
『……どだい』
リリアーナが説明する。
「上に何かを置くための、下の支えです」
『……名前の、どだい』
「はい」
『……呼ばれても、返事できない』
「はい」
『……呼ばなくても、いる』
「はい」
『……呼べない日も、嫌いじゃない』
「はい」
『……土台』
「そうです」
中心は、安心したように光る。
『……名前、まだ、こわい』
「はい」
『……でも、どだい、ある』
「あります」
中心は、いやじゃない石へ意識を向ける。
『……いし』
「あります」
『……呼ばなくても、いる』
「います」
『……おやすみ』
リリアーナは微笑んだ。
「おやすみなさい」
中心は、眠りへ向かってゆっくり光を弱めていく。
『……りり、おやすみ』
「おやすみなさい」
『……れおん、おやすみ』
「おやすみ」
『……みんな、おやすみ』
皆が返す。
「おやすみ」
「また明日」
アリシアも、静かに言った。
「呼ばない見守りで、また明日」
中心が柔らかく揺れる。
『……また、あした』
『……あしたのわたしに、きく』
『……呼ばなくても、いる』
余白核は、静かに眠りへ入った。
神殿の奥に、夜が降りる。
今日、中心は名前を決めなかった。
だが、名前に近づくための土台を一つ増やした。
呼ばれても返事できない日がある。
呼べない日がある。
呼ばなくても、嫌いではない。
呼ばれなくても、消えない。
名もない“わたし”は、今日。
誰かを呼ぶことも、誰かに呼ばれることも。
どちらも怖くて、どちらも大切なのだと知った。




