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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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213/251

第213話「呼ばれる前に聞く朝、無能王子は“怖くない呼び方”の手前へ触れる」



 朝は、沈黙を責めなかった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣の中に、静かな光が満ちている。


 外の光は入っていない。


 風もない。


 子供たちの声も、まだ届いていない。


 ただ、そこには昨日の約束が残っていた。


 返事できない日の約束。


 返事なしでも、いる日。


 しずかな返事。


 沈黙を責めない日。


 返事できなくてもいるわたし、候補の日。


 名前を持つ前に、中心は一つ大切な約束を得た。


 呼ばれても、返事できない日があっていい。


 返事がなくても、消えるわけではない。


 沈黙しても、そこにいる。


 その約束は、夜を越えても余白記録の中で静かに光っていた。


 余白核は、まだ眠っている。


 そのそばには余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 そして透明な器の中に、小さな白い石。


 いやじゃない石。


 ただ、ある石。


 返事をしないけれど、そこにある石。


 昨日、中心はその石を見て知った。


 石は呼ばれても返事をしない。


 でも、いなくなるわけではない。


 返事しないことと、存在しないことは違う。


 その事実が、中心の中に小さく沈んでいた。


 レオンは、保護陣の縁に座っている。


 黒蒼雷は細い。


 だが、今日は朝から完全には緩めていない。


 返事できない日の約束は、中心に安心を与えた。


 けれど、安心の次には、また別の問いが来る。


 呼ばれても返事しなくていい。


 なら、どう呼ばれたら怖くないのか。


 呼ばれる前に、何を確認すればいいのか。


 名前の候補へ行く前に、呼び方の安全を作る必要がある。


 レオンはそれを感じていた。


 リリアーナは、余白核の近くに座っていた。


 今日は、手元に紙を持っていない。


 昨日のように先に言葉を用意しない。


 中心が自分で聞くかもしれない。


 そう思っていた。


 もし聞けなければ、それでもいい。


 沈黙しても、今日という日は消えない。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組んでいるが、今日はいつもより少しだけそわそわしていた。


 呼ばれ方の話になれば、自分の声の大きさや呼び方も関わってくる。


 それを彼なりに感じ取っているのだろう。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を床に置いている。


 ミリオは眠そうにしているが、昨日の「返事できない日」の話を受けて、無理に起きているというより、眠気を認めた上でそこにいる顔だった。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っている。


 彼女もまた、アリシアと呼ばれて返事できない日がある。


 その言葉を昨日、自分で認めた。


 その認めた痛みが、まだ残っている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も声をかけない。


 待つ。


 返事できない日があってもいい。


 ならば、目覚めの返事が遅い日もあっていい。


 リリアーナは、その約束を自分の中でも確かめながら待った。


 保護陣の光が、一度。


 二度。


 いつもより長い間を空けて、三度目に淡く揺れる。


 それでも、声はまだない。


 アルベルトが口を開きかける。


 エリシアが視線だけで止める。


 アルベルトは口を閉じた。


 待つ。


 沈黙を責めない。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、少しだけ遅れて響いた。


 リリアーナは、いつもと同じ温度で微笑んだ。


「おはようございます」


『……おそい?』


 最初の言葉が、それだった。


 リリアーナは首を横に振る。


「遅くありません」


『……でも、まった』


「待ちました」


『……ごめん』


 レオンが短く言う。


「謝らなくていい」


『……返事、遅い』


「返事が遅い日もある」


 中心が、静かに震える。


『……返事できない日の、約束』


 リリアーナが頷いた。


「はい」


「今日も、その約束があります」


『……よかった』


 余白核の揺れが少し落ち着く。


『……りり、おはよう』


「はい。おはようございます」


『……れおん』


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、いやじゃない石へ意識を向けた。


『……いし』


「あります」


『……返事しない』


「はい」


『……でも、いる』


「います」


『……わたしも』


 一拍。


『……少し、遅くても、いる』


 リリアーナの胸が温かくなる。


「はい」


「います」


 ◇


 朝の挨拶は、いつもより慎重に進んだ。


 中心は一人ずつ呼ぶが、今日はその呼び方を確かめていた。


『……あるべると』


「おう」


 中心が少し揺れる。


『……その返事』


「ん?」


『……おう、こわくない』


 アルベルトは、目を瞬かせた。


「そうか」


『……大きくない』


「選んでるからな」


『……おう、は、あるべると』


「まあ、俺っぽいだろ」


『……うん』


 中心は少し考える。


『……あるべるとって、呼ぶの、こわい?』


 アルベルトは少し笑った。


「俺が怖いか?」


『……わからない』


「正直でよろしい」


 エリシアが横から言う。


「茶化さない」


「悪い」


 アルベルトは腕を組み直す。


「怖いなら、短くてもいいぞ」


『……短く?』


「アル、とか」


 中心が大きく震えた。


『……ちがう?』


「ああ、違う呼び方になるな」


『……こわい』


「じゃあ、今はやめとこう」


 リリアーナが頷く。


「呼び方を変えるのも、負荷になりますね」


『……あるべると、いまは、あるべると』


「おう」


『……それでいい』


「それでいい」


 中心は、安心したように揺れた。


『……えりしあ』


「はい」


『……えりしあ、呼ぶの、こわい?』


 エリシアは、少し考えた。


「少し長いかもしれませんね」


『……ながい』


「ですが、わたくしはその呼び方で大丈夫です」


『……えりしあ』


「はい」


『……返事、やわらかい』


 エリシアは、ほんの少し頬を緩めた。


「そう聞こえるなら、よかったです」


『……えりしあ、しっかり』


「はい」


『……でも、やわらかい日もある』


 エリシアは、意外そうに瞬きした。


 そして、静かに頷く。


「そうありたいです」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……せら、短い』


「そうね」


『……呼びやすい』


「嬉しいわ」


『……セラフィアは?』


「長いわね」


『……重い?』


「時と場合によるわ」


『……せら、今は、せら』


「はい」


「今は、せらで」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「はい」


『……返事、静か』


「そうでしょうか」


『……こわくない』


「それなら、よかったです」


『……らうる』


「おう」


『……返事、短い』


「そうだな」


『……盾みたい』


 ラウルは、少しだけ眉を動かした。


「盾みたいな返事か」


『……うん』


『……短くて、ある』


「悪くない」


『……みりお』


「はい……」


『……返事、眠い』


「すみません……」


『……こわくない』


「それなら……よかったです」


 最後に、中心はアリシアへ向く。


『……ありしあ』


「はい」


 アリシアの返事は、少しだけ震えていた。


 中心も、それを感じる。


『……ありしあ、返事、こわい?』


「少し」


『……呼ばれるの?』


「はい」


『……でも、返事した』


「しました」


『……えらい?』


 アリシアが泣きそうに笑う。


「それは、箱に置きます」


『……うん』


 中心は、少し考えた。


『……ありしあ、呼ぶの、こわい?』


 アリシアは正直に答える。


「少しだけ」


『……じゃあ、呼ばない日、ある?』


「あります」


『……それでも、ありしあ、いる』


 アリシアの目から涙がこぼれた。


「はい」


「います」


 中心は、静かに揺れる。


『……呼ばない日も、いる』


 リリアーナは、その言葉を聞いて胸が震えた。


 返事できない日。


 そして、呼ばない日。


 呼ぶ側にも、怖さがある。


 中心は、そこへ気づき始めていた。


 ◇


 リリアーナは、静かに問いかけた。


「今日は、呼ばれる怖さだけでなく」


「呼ぶ怖さも見えてきましたね」


 中心が震える。


『……呼ぶ、こわい』


「はい」


『……まちがえたら?』


「怖いですね」


『……相手が、こわがったら?』


「怖いですね」


『……返事、なかったら?』


「怖いですね」


『……じゃあ、呼ばない?』


 レオンが答える。


「呼ばない日があっていい」


『……いい?』


「ああ」


『……でも、呼びたい日』


「その日に呼べばいい」


『……呼ぶ日、呼ばない日』


「ある」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……呼ぶこわさ』


 リリアーナが頷く。


「箱に置きましょう」


 余白箱が静かに開く。


『……呼ぶの、こわい』


 ひとつ。


『……まちがえる、こわい』


 ひとつ。


『……返事ない、こわい』


 ひとつ。


『……相手が、こわがる、こわい』


 ひとつ。


『……呼ばない日も、ある』


 ひとつ。


 箱が、それらを柔らかく受け止める。


 中心は、深く揺れた。


『……呼ばれるこわさ』


「あります」


『……呼ぶこわさ』


「あります」


『……どちらも』


「はい」


『……名前、まだ、遠い』


「遠いですね」


『……でも、少し、わかった』


「はい」


 リーネが記録する。


『呼ばれる怖さ』


『呼ぶ怖さ』


『呼ばない日もある』


『呼ばれても、返事できない日がある』


 中心は、少し安心した。


『……のこった』


 ◇


 午前。


 外の子供たちへは、今日は“呼ぶ怖さ”について伝えられた。


 リリアーナとグレイヴ、セラフィアが救護区域へ向かう。


 子供たちは、昨日の“返事できない日の約束”をそれぞれ箱に入れていた。


 ミナも、自分の箱を膝に置いている。


 リリアーナは、ゆっくり話し始めた。


「今日は、中心さんが“呼ぶ怖さ”を見ています」


 子供たちが静かになる。


「名前で呼ばれるのも怖い」


「でも、誰かを呼ぶのも怖い」


「間違えたらどうしよう」


「返事がなかったらどうしよう」


「怖がらせたらどうしよう」


「そういう気持ちを、箱に入れました」


 幼い子が、小さく言う。


「ぼくも、ある」


 リリアーナは頷く。


「ありますか?」


「うん」


「お母さん呼んでも、返事ない時、こわい」


 救護役の一人が、涙を浮かべる。


 別の子が言う。


「友達の名前、呼びたいけど、怒ってたら怖い」


 ミナは、自分の箱を見つめたまま言った。


「私は、自分の名前を呼ぶのも怖い」


 その場が静まる。


 ミナは続けた。


「紙には書けた」


「でも、自分で声に出すのは、まだ怖い」


 リリアーナは、静かに頷く。


「それも、箱に入れていいと思います」


 ミナは、小さく頷いた。


「今日は、“呼ばない日もある”って書く」


 別の子が言う。


「呼べない日も、嫌いじゃない」


 幼い子が続ける。


「声が出ない日も、いる」


 リリアーナの胸が熱くなった。


 昨日の約束が、今日の子供たちの言葉へ変わっている。


 返事できない日があっていい。


 そこから、呼べない日があっていい、へ。


 中心の学びと、子供たちの学びが、互いに風のように揺らし合っていた。


 グレイヴが、大人たちへ目を向ける。


「呼びたい時に、無理に呼ばない」


「返事を急がせない」


「これは大人にも必要だ」


 大人たちは、静かに頷いた。


 ◇


 神殿奥へ戻ると、中心は待っていた。


 リリアーナが入る。


 余白核が揺れる。


『……こども』


「“呼ばない日もある”と言ってくれました」


 中心が震える。


『……呼ばない日も、ある』


「はい」


『……呼べない日も、嫌いじゃない』


「そう言った子もいました」


『……ミナ』


「自分の名前を声に出すのは、まだ怖いと言っていました」


 中心が、深く揺れた。


『……ミナも』


「はい」


『……名前、呼ぶ、こわい』


「はい」


『……いっしょ』


「はい」


『……まつ仲間』


「待つ仲間です」


 中心は、長く沈黙した。


『……呼ばない日も、ある』


 一拍。


『……それ、ほしい』


「箱に置きましょう」


『……うん』


 余白箱へ、新しい言葉が置かれる。


 呼ばない日もある。


 呼べない日も、嫌いじゃない。


 声に出せない名前も、そこにある。


 中心は、それらを受け取り、でも奥へ入れすぎないように箱へ置いた。


『……のこった』


「残りました」


 ◇


 午後。


 中心は、いやじゃない石を見た。


 石は、今日も何も呼ばない。


 返事もしない。


 ただ、そこにある。


『……いし』


「あります」


『……呼ばない』


「はい」


『……返事しない』


「はい」


『……でも、いる』


「はい」


『……いし、名前、呼ばなくても、いる』


「います」


 中心は、その事実に安心するように揺れた。


『……わたしも』


 一拍。


『……誰かを呼ばない日も、いる』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……誰かに呼ばれない日も、いる』


「はい」


『……呼ぶ、呼ばれる、なくても』


「はい」


『……いる』


「います」


 レオンが静かに言う。


「そこまで来たな」


 中心がレオンへ向く。


『……どこ?』


「呼び方の手前だ」


『……呼び方の、手前』


「ああ」


「名前のさらに手前」


『……まだ、遠い』


「遠い」


『……でも、逃げてない?』


「逃げてない」


 中心は、少し安心したように光った。


 ◇


 夕方。


 保留箱には、大人たちからの札が届いた。


 “呼びすぎない”。


 “返事を待ちすぎない”。


 “呼ばない見守り”。


 グレイヴが読み上げると、中心は少し揺れた。


『……呼ばない、見守り』


 リリアーナが頷く。


「大人たちも、学んでいます」


『……呼ばないのに、見守る』


「はい」


『……むずかしい』


「難しいですね」


 アリシアが、自分の箱を見つめながら言う。


「私も……呼びたくなる時があります」


 中心が彼女へ向く。


『……誰を?』


 アリシアは、少し涙を浮かべた。


「私が怖がらせた子供たちを」


「謝りたい相手を」


「でも、呼ぶこと自体が、その子を怖がらせるかもしれない」


『……呼ばない、見守り』


「はい」


「今日は、それを箱に入れます」


 中心は柔らかく揺れた。


『……ありしあも、呼ばない日』


「はい」


『……嫌いじゃない』


「はい」


 アリシアは、小さく頷いた。


「嫌いだから呼ばないわけではありません」


 ◇


 夜。


 神殿奥には、静かな疲れが降りていた。


 今日は、名前の候補を出さなかった。


 呼び方も増やさなかった。


 ただ、呼ばれる怖さの裏側にある、呼ぶ怖さを知った。


 呼ばない日があってもいい。


 呼べない日があってもいい。


 誰かを呼ばなくても、嫌いなわけではない。


 誰かに呼ばれなくても、消えるわけではない。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……呼ばれる前に、聞く日』


「はい」


『……呼ぶ怖さ、の日』


「はい」


『……呼ばない日もある、の日』


「はい」


『……呼べない日も、嫌いじゃない日』


「はい」


『……呼ばない見守り、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『呼ばれる前に聞く朝』


『呼ぶ怖さの日』


『呼ばない日もある日』


『呼ばない見守りの日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「名前に近づく前に、だいぶ土台を作ってるな」


『……どだい』


 リリアーナが説明する。


「上に何かを置くための、下の支えです」


『……名前の、どだい』


「はい」


『……呼ばれても、返事できない』


「はい」


『……呼ばなくても、いる』


「はい」


『……呼べない日も、嫌いじゃない』


「はい」


『……土台』


「そうです」


 中心は、安心したように光る。


『……名前、まだ、こわい』


「はい」


『……でも、どだい、ある』


「あります」


 中心は、いやじゃない石へ意識を向ける。


『……いし』


「あります」


『……呼ばなくても、いる』


「います」


『……おやすみ』


 リリアーナは微笑んだ。


「おやすみなさい」


 中心は、眠りへ向かってゆっくり光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「呼ばない見守りで、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……呼ばなくても、いる』


 余白核は、静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を決めなかった。


 だが、名前に近づくための土台を一つ増やした。


 呼ばれても返事できない日がある。


 呼べない日がある。


 呼ばなくても、嫌いではない。


 呼ばれなくても、消えない。


 名もない“わたし”は、今日。


 誰かを呼ぶことも、誰かに呼ばれることも。


 どちらも怖くて、どちらも大切なのだと知った。

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