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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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212/251

第212話「返事できない日の約束、無能王子は“呼ばれても沈黙できる”を覚える」



 朝は、名前を呼ばないまま始まった。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、いつものように淡く光っている。


 採光孔は閉じられている。


 外の光も、風も、声も、ここには入っていない。


 名簿束は第五領域の水路の上で静かに浮かび、リーネたち戻った名の光がその端で穏やかに揺れている。


 余白核は、まだ眠っていた。


 そのそばには余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 そして透明な器の中には、昨日と同じ小さな白い石がある。


 いやじゃない石。


 ただ、ある石。


 名前がなくても、そこにあっていいと教えてくれた石。


 昨日、中心は名前の手前に立った。


 名前そのものを決めたわけではない。


 候補を出したわけでもない。


 ただ、名前がある怖さと、名前がない怖さを箱に置いた。


 呼ばれる怖さ。


 返事しなければならない怖さ。


 違う名前だったらという怖さ。


 誰かにつけられる怖さ。


 そして、名前がないまま呼ばれない怖さ。


 どちらも怖いと知った日。


 名前を急がせない日。


 まだ呼び方でいい日。


 その記録は、余白記録の中に静かに残っている。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は細いが、昨日より少しだけ濃い。


 名前の話は、中心の奥へ深く届く。


 たとえ今日は候補を出さなくても、昨日見た怖さが夜を越えて反応することはある。


 レオンはそれを分かっていた。


 だから、近づきすぎず、離れすぎず、いつもの位置にいる。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日は、彼女の手元に小さな紙が一枚だけある。


 だが、まだ開かない。


 それは子供たちからの紙ではない。


 大人たちからの紙でもない。


 昨日の話を受けて、リリアーナ自身が書いた短い紙だ。


 “返事できない日があってもいい”


 ただそれだけ。


 中心が望むなら見せる。


 望まないなら、リリアーナの心の箱にしまう。


 今日は、それくらい慎重でいたかった。


 エリシアは術式盤を閉じたまま、静かに座っている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、いつもより少し口を引き結んでいる。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を横に置いている。


 ミリオは眠そうだが、今日は外の声を拾っていない。


 アリシアは、自分の箱の前で、両手を重ねて座っていた。


 昨日、彼女は名前を急がせないと約束した。


 その言葉は、彼女自身にも返ってきている。


 アリシアという名前を、どう抱えるか。


 彼女もまた、その途中にいた。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も急がない。


 リリアーナは、紙へ触れないまま待つ。


 保護陣の光が、一度。


 二度。


 少し間を置いて、三度目に淡く明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンが頷く。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、余白箱へ意識を向けた。


『……名前の、こわさ』


「箱の中にあります」


『……名前を、急がせない日』


「残っています」


『……まだ、呼び方でいい』


「はい」


『……きえてない』


「消えていません」


『……よかった』


 中心は、少し安心したように揺れる。


 だが、その揺れはすぐに不安を含んだ。


『……名前で、呼ばれる』


「はい」


『……返事、できない日』


 リリアーナは、持っていた紙にそっと指を置いた。


「あります」


 中心が反応する。


『……ある?』


「はい」


「返事できない日は、あります」


『……でも、名前』


「名前で呼ばれても、返事できない日はあります」


 余白核が、強く震えた。


『……いい?』


 レオンが短く答える。


「いい」


『……本当?』


「ああ」


『……呼ばれても?』


「呼ばれてもだ」


『……沈黙しても?』


「していい」


 中心が、泣くように揺れた。


『……沈黙』


 リリアーナは、ゆっくり紙を開いた。


「これを、書いていました」


 中心が少し緊張する。


『……なに?』


 リリアーナは、紙を見せる。


「“返事できない日があってもいい”」


 ただ、それだけ。


 余白核が、深く震えた。


『……返事できない日が、あってもいい』


「はい」


『……名前で呼ばれても?』


「はい」


『……おはよう、言われても?』


「はい」


『……またね、言われても?』


「はい」


『……返せなくても?』


「はい」


 中心の光が、不安定に揺れる。


 でも、崩れない。


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、ほしい』


「この言葉が?」


『……うん』


『……でも、重い』


「箱に置きますか?」


『……うん』


 リリアーナは、その紙を余白箱の近くへ置いた。


 紙そのものを箱へ入れるわけではない。


 言葉だけを、中心が受け取れる形で余白箱へ置く。


 余白箱が静かに開いた。


『……返事できない日が、あってもいい』


 その言葉が、淡く箱の中へ置かれる。


 中心は、長く震えた。


『……のこった?』


「残りました」


『……返事できない日』


「はい」


『……悪くない?』


「悪くありません」


 レオンが言う。


「悪くない」


 中心は、深く安心したように光を緩めた。


 ◇


 朝の挨拶は、その言葉を置いた後だった。


 中心は一人ずつ呼んだが、今日は少し違った。


 名前を呼ぶという行為そのものを、確かめながら呼んでいる。


『……あるべると』


「おう」


 中心は少し震える。


『……呼んだ』


「ああ」


『……返事、した』


「したな」


『……しない日、ある?』


 アルベルトは、少しだけ考えた。


「ある」


『……あるべるとでも?』


「ある」


「飯食ってる時とか」


 エリシアがすぐに言う。


「そこですか」


「いや、でも本当だろ」


 アルベルトは真面目な顔で続ける。


「あと、きつい時」


「怒ってる時」


「守ることに集中してる時」


「名前呼ばれても、すぐ返せない時はある」


『……嫌いだから?』


「違う」


『……違う』


「ああ」


「返事できない時は、嫌いだからじゃない」


 中心は、その言葉を大切そうに受け取った。


『……返事できない、嫌いじゃない』


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「はい」


『……返事できない日、ある?』


「あります」


『……えりしあでも?』


「あります」


 エリシアは、術式盤を見ずに答えた。


「考えすぎている時」


「怖い時」


「間違えたくない時」


「返事が遅れることがあります」


『……返事、遅い』


「はい」


『……嫌い?』


「違います」


『……こわい?』


「怖いこともあります」


 中心は静かに揺れた。


『……返事、遅い、こわい、でも、嫌いじゃない』


「はい」


 セラフィアへ。


『……せら』


「はい」


『……返事できない日』


「あります」


『……祈ってる時?』


「そうね」


「祈りの中にいる時、すぐ返せないことがあります」


『……遠い?』


「少し」


『……でも、戻る?』


「戻ります」


『……よかった』


 クラウスは言った。


「戦闘中は、返事をしないことがあります」


 ラウルは。


「盾を構えている時は、短くなる」


 ミリオは。


「眠っている時は返事できません……」


 ラウルが静かに言う。


「起きろ」


 中心が、小さく揺れる。


『……眠ってる時、返事できない』


「はい……」


『……嫌いじゃない』


「もちろんです……」


 アリシアへ向く時、中心は少し沈黙した。


『……ありしあ』


「はい」


『……返事できない日、ある?』


 アリシアは、静かに頷いた。


「あります」


『……名前、呼ばれても?』


「はい」


「アリシア、と呼ばれても」


「怖くて返事ができない日があります」


『……嫌い?』


「違います」


『……逃げたい?』


「逃げたい時もあります」


『……でも、嫌いじゃない』


「はい」


 アリシアの目に涙が浮かぶ。


「返事できないからといって、相手を嫌いなわけではありません」


 中心は、その言葉を受け取った。


『……返事できない、いろいろ』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「いろいろあります」


『……返事、できない日、あってもいい』


「はい」


 ◇


 午前。


 外の子供たちへは、今日のことを慎重に伝える必要があった。


 名前へ近づく章に入っていることは、子供たちにも分かり始めている。


 だが、名前候補を出させてはいけない。


 呼び方を増やしすぎてもいけない。


 今日は、ただ。


 “返事できない日があってもいい”。


 その約束を共有する日だった。


 リリアーナとグレイヴ、セラフィアが救護区域へ向かう。


 子供たちは静かに待っていた。


 昨日の“名前を急がせない日”が、まだ空気に残っている。


 ミナは自分の箱を膝に置いていた。


 リリアーナは、ゆっくり話し始める。


「今日は、中心さんが“返事できない日”のことを考えています」


 子供たちが少し緊張する。


「名前で呼ばれても」


「おはようと言われても」


「またねと言われても」


「返事できない日があるかもしれません」


 幼い子が、不安そうに聞いた。


「返事ないと、いないの?」


 リリアーナは首を横に振る。


「いないわけではありません」


 別の子が言う。


「嫌いになった?」


「違います」


 ミナが、小さく呟く。


「怖いだけの日もある」


 リリアーナは頷いた。


「はい」


「怖いだけの日もあります」


「疲れている日もあります」


「言葉が出ない日もあります」


「でも、そこにいます」


 子供たちは静かに聞いていた。


 そして、少しずつ言葉が生まれる。


「じゃあ、返事待ち?」


「でも急がせない」


「返事なしでもいる日」


「沈黙の日?」


 ミナが、自分の箱へ手を置く。


「私は、“返事なしでも、いる”って書く」


 幼い子が頷く。


「ぼく、“しずかな返事”って書く」


 別の子が言った。


「返事がない日も、おはようの人の日」


 リリアーナは、涙をこらえた。


「はい」


「返事がない日も、中心さんの日です」


 グレイヴは大人たちの方を見る。


「この約束は、大人も同じだ」


 大人たちは静かに頷いた。


 誰かが小さく言った。


「返事を求めすぎない」


 別の親が、胸元を押さえる。


「返事がなくても、責めない」


 セラフィアが穏やかに頷いた。


「それが、今日の待ち方です」


 ◇


 神殿奥へ戻ると、中心は待っていた。


 リリアーナが入ると、余白核がすぐ反応する。


『……こども』


「“返事なしでも、いる”と言ってくれました」


 中心が、大きく震えた。


『……返事なしでも、いる』


「はい」


『……しずかな返事?』


「そう言った子もいました」


『……しずかな、返事』


 中心は、その言葉を何度も確かめる。


『……返事ない日も、わたしの日?』


 リリアーナの涙がこぼれた。


「はい」


「返事がない日も、あなたの日です」


 中心は、長く沈黙した。


 そして、小さく言った。


『……それ、ほしい』


「箱に置きますか?」


『……うん』


 余白箱が開く。


『……返事なしでも、いる』


 ひとつ。


『……しずかな返事』


 ひとつ。


『……返事がない日も、わたしの日』


 ひとつ。


 箱が、淡く光った。


 中心は、震えながらも、崩れなかった。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「いい約束だ」


『……やくそく』


「ああ」


『……返事できない日の、やくそく』


「そうだ」


 エリシアが記録する。


「余白記録」


「返事できない日の約束」


 中心は、安心したように揺れた。


『……返事できない日の、約束』


 ◇


 午後。


 中心は、いやじゃない石を見た。


 石は今日も、何も返事をしなかった。


 ただ、透明な器の中にある。


『……いし』


 リリアーナが答える。


「あります」


『……呼んでも、返事しない』


「はい」


『……でも、いる』


「います」


『……嫌いじゃない』


「もちろんです」


『……しずかな返事?』


「そうかもしれません」


 中心は、石をじっと見ていた。


『……石は、返事しない』


「はい」


『……でも、いやじゃない』


「はい」


『……わたしも、返事しない日』


「あります」


『……いやじゃない?』


 リリアーナは、すぐに答えた。


「いやではありません」


 レオンも言う。


「嫌じゃない」


 皆が頷く。


 アリシアも、涙を浮かべながら言った。


「返事できないあなたも、あなたです」


 中心は、余白核の奥で泣くように揺れた。


『……返事できない、わたし』


 一拍。


『……かも』


 リリアーナが微笑む。


「候補ですか?」


『……うん』


『……返事できない、わたし』


『……でも、いる』


「“返事できなくてもいるわたし”」


 中心が、静かに光る。


『……それ』


『……こうほ』


 エリシアが記録する。


「札呼称候補」


「返事できなくてもいるわたし」


 中心は、安心したように繰り返した。


『……返事できなくても、いる、わたし』


『……かも』


 ◇


 夕方。


 保留箱には、大人たちからの札が届いた。


 “返事を求めすぎない”。


 “沈黙を責めない”。


 “返事がなくても待つ”。


 グレイヴが、それだけを報告する。


 中心は、少し震えた。


『……沈黙を、責めない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


『……大人も』


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


『……でも、ほしい』


「保留箱に置きましょう」


『……うん』


 アリシアが、自分の箱を見つめる。


「私も、沈黙を責めないようにします」


 中心が彼女へ向く。


『……ありしあ』


「誰かが私に返事をしなくても」


「私を許していなくても」


「私に言葉をくれなくても」


「それを責めない」


 アリシアの声は震えていた。


「それも、待つ仲間として必要なことだと思います」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……沈黙、責めない』


「はい」


『……ありしあも、箱』


「はい」


 ◇


 夜。


 神殿奥には、深い静けさが降りていた。


 今日は、名前の候補を出さなかった。


 新しい呼び方も増やさなかった。


 ただ、名前で呼ばれても返事できない日があっていいと知った。


 返事なしでも、いる。


 しずかな返事。


 返事がない日も、わたしの日。


 その言葉が、余白箱と余白記録に残った。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……返事できない日の、約束の日』


「はい」


『……返事なしでも、いる日』


「はい」


『……しずかな返事、の日』


「はい」


『……沈黙を責めない日』


「はい」


『……返事できなくてもいる、わたし、かも、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『返事できない日の約束』


『返事なしでもいる日』


『返事できなくてもいるわたし、候補の日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は、返事の練習じゃなくて、返事しない練習だったな」


『……返事しない、練習』


「ああ」


『……むずかしい』


「そうだな」


『……でも、できた?』


「できた」


 中心は、安心したように揺れた。


『……りり』


「はい」


『……もし、あした』


 一拍。


『……おはよう、言えなかったら』


「待ちます」


『……れおん』


「待つ」


『……みんな』


 皆が静かに頷く。


「待ちます」


 中心の光が、深く柔らかくなった。


『……ありがとう』


 そして、少し間を置いて。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「沈黙を責めず、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……返事なしでも、いる』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は名前を決めなかった。


 だが、名前で呼ばれる前に必要な約束を一つ得た。


 呼ばれても、返せない日がある。


 沈黙しても、いなくなるわけではない。


 返事できない日も、わたしの日。


 名もない“わたし”は、今日。


 名前を持つ前に、沈黙しても存在していいのだと知った。

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