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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第21話「銀髪令嬢を笑うなら、まず俺を越えていけ」


 中庭の木陰には、穏やかな風が流れていた。


 昼休みの喧騒は遠い。


 校舎の方からは生徒たちの笑い声や食堂のざわめきが聞こえるが、ここだけは少し世界から外れているようだった。


 木漏れ日が草の上に揺れ、白い花が風に合わせて小さく揺れる。


 リリアーナ・ヴァイスは、その木陰で小さく膝を揃えて座っていた。


 膝の上には、包み布。


 中には彼女が朝早くから作ってきた弁当。


 そしてその隣では、レイ・ノクト――レオンが無表情で卵焼きを食べていた。


「……うまい」


 ぽつりと、レオンが言った。


 その一言だけで、リリアーナの胸がふわっと温かくなる。


「ほ、本当ですか……?」


「ああ」


「よかった……」


 リリアーナはほっと息を吐いた。


 昨夜からずっと不安だった。


 何を作ればいいのか。


 味は濃すぎないか。


 量は足りるか。


 そもそも、迷惑ではないか。


 何度も何度も考えて、結局、家にあるもので作れるものを丁寧に詰めただけの弁当になった。


 貴族令嬢が持ってくるような豪華な昼食ではない。


 高価な食材など使っていない。


 彩りだって、できる範囲で整えただけだ。


 それでも。


 レオンが「うまい」と言ってくれた。


 それだけで、昨日までの緊張が少しだけ報われた気がした。


「れ、レイさんは……」


「何だ」


「その……いつも、お昼はどうされていたんですか?」


 聞いた瞬間、リリアーナは少し後悔した。


 もしかしたら、踏み込みすぎたかもしれない。


 レイ・ノクトという少年は、どう見ても普通の平民ではない。


 けれど自分から過去を語ろうとはしない。


 なら、聞くべきではなかったかもしれない。


 しかしレオンは、少しだけ空を見上げた後で答えた。


「最近はミーアが作る」


「ミーアさん……?」


「俺の世話係だ」


「せ、世話係……?」


 平民ではないのでは。


 という疑問が、リリアーナの顔にそのまま出た。


 レオンはそれを見て、淡々と言った。


「雇っている」


「そ、そうなんですね」


「便利だ」


「便利……」


 リリアーナは苦笑する。


 きっとそのミーアという人は、ただ便利というだけではないのだろう。


 レオンの口調は淡々としているが、どこか柔らかい。


 ほんのわずかだが、その名前を出した時だけ、空気が冷たくなかった。


「……大切な方なんですね」


 思わず口にすると、レオンの箸が止まった。


「……」


「あっ、す、すみません! 変な意味ではなくて……!」


「別に」


 レオンは短く返し、また弁当を食べ始める。


「昔、世話になった」


「昔……」


「だから今度は俺が雇った」


 それ以上は語らない。


 けれど、それだけで十分だった。


 リリアーナにはわかる。


 この人は、恩を忘れない人だ。


 助けられたことを覚えていて、自分が力を持った時に返す。


 それは簡単なようで、なかなかできることではない。


 力を持てば、人は変わる。


 上に立てば、過去に受けた優しさすら忘れる者が多い。


 けれど、レオンは違う。


 少なくとも、リリアーナにはそう見えた。


「……素敵ですね」


「何が」


「そういうところです」


「意味がわからない」


 レオンは本当にわからないような顔をした。


 リリアーナは少しだけ笑う。


「レイさんは、優しいです」


「違う」


「また否定しました」


「事実だからだ」


「では、優しくない人は、わたしを助けたり、一緒にお昼を食べたりしません」


「腹が減っていただけだ」


「それでもです」


「……」


 レオンは答えなかった。


 代わりに、弁当の肉団子を一つ口に入れる。


 味付けは少し濃い。


 だが、悪くない。


 塔の硬いパンや薄いスープに比べれば、ずっと人の温度がある。


 東の塔で食べていた冷えた食事を思い出す。


 小さな扉から差し込まれるだけの、顔も声もない食事。


 誰かが自分のために作ってくれたものではなかった。


 ただ、死なせないための餌。


 それを思い出すと、今この瞬間が妙に現実離れして見える。


 学園の中庭。


 誰かと一緒に食べる昼食。


 それは、十歳の頃の自分なら当たり前だったかもしれない。


 だが今のレオンにとっては、ひどく遠くて、少しだけ眩しいものだった。


『レオン様、また少ししんみりしてます』


 ルミアの声が胸元の羽ブローチから響く。


『いい雰囲気』


 ノワールが短く言う。


『青春だなぁ!』


 ヴァルガが笑う。


『だからその単語を使うな』


 レオンは心の中で返す。


『照れてる照れてる』


『違う』


『主、わかりやすい』


『黙れ』


 頭の中が騒がしい。


 だが、この騒がしさももう少しずつ慣れてきた。


 慣れてしまった自分が少し怖い。


「……レイさん?」


「何だ」


「急に難しい顔をしていました」


「神霊がうるさい」


「え?」


「何でもない」


 リリアーナは不思議そうに首を傾げた。


 レオンは誤魔化すように水筒へ手を伸ばす。


 その時、リリアーナが少しだけ躊躇うように口を開いた。


「あ、あの……レイさん」


「何だ」


「わたしの家のこと……もう、聞いていますよね」


「ヴァイス伯爵家のことか」


「はい……」


 リリアーナは視線を落とした。


 弁当の包み布を膝の上でぎゅっと握る。


「昔は、それなりに由緒ある家だったそうです。でも父が亡くなって、領地の収入も落ちて、母も体が弱くて……今は、伯爵家と名乗るのも恥ずかしいくらいで」


「恥ではない」


 即答だった。


 リリアーナが顔を上げる。


「え……?」


「家が苦しいことは恥ではない」


 レオンは水筒を置いた。


「苦しい者を笑う方が恥だ」


 リリアーナは言葉を失った。


 胸の奥に、じんわりと何かが広がる。


 今まで散々笑われてきた。


 没落伯爵家。


 名ばかり貴族。


 平民以下。


 貧乏令嬢。


 そう呼ばれるたび、自分が恥ずかしいのだと思っていた。


 家を立て直せないこと。


 綺麗なドレスを買えないこと。


 社交界で堂々と振る舞えないこと。


 全て、自分たちが劣っているからだと。


 けれど、今。


 目の前の少年は、まったく迷わず言った。


 恥ではないと。


 笑う方が恥だと。


「……レイさんは」


 声が震える。


「どうして、そんなふうに言えるんですか」


 レオンはしばらく黙った。


 木漏れ日が瞳に差す。


 右の蒼と左の金が、不思議な色で揺れた。


「……知っているからだ」


「何を、ですか?」


「見下される側の痛み」


 その言葉は、あまりにも静かだった。


 リリアーナは息を呑む。


 レオンはそれ以上語らない。


 けれど、彼の横顔に一瞬だけ深い影が落ちた。


 この人にも、何かがある。


 ただ強いだけではない。


 ただ冷たいだけでもない。


 きっと、リリアーナが想像もできないほど深い傷が。


「……ごめんなさい」


 思わず謝る。


 だがレオンはすぐに言った。


「謝るな」


「……はい」


「それも癖か」


「はい……たぶん」


「直せ」


「努力します」


 リリアーナは小さく頷いた。


 その時だった。


 ぱちぱちぱち、と乾いた拍手が響いた。


「まあ。随分と感動的なお昼ですこと」


 声がした。


 柔らかく、しかし棘のある声。


 リリアーナの体がびくりと震える。


 レオンは視線だけを向けた。


 木陰の入口に、三人の男子生徒と二人の女子生徒が立っていた。


 中心にいるのは、薄茶色の髪を後ろへ撫でつけた男子生徒。


 制服の装飾からして、上級貴族の子弟だろう。


 その隣には、先日リリアーナを旧校舎裏で囲んでいた令嬢の一人もいた。


 レオンはその顔を覚えていた。


 人を見下す目というものは、よく似ている。


「ヴァイス嬢」


 男子生徒が笑う。


「没落伯爵家の娘が、首席に媚びるとは。なかなか生き残る術を心得ていますね」


 リリアーナの顔から血の気が引く。


「ち、違います……」


「違う? では何です? 手作り弁当ですか? 随分と安上がりな誘惑ですね」


 取り巻きたちが笑う。


 リリアーナの手が震えた。


 弁当の包み布を抱きしめる。


 レオンは黙っていた。


 黙って、相手を見ていた。


 男子生徒はその沈黙を余裕と勘違いしたのか、さらに続ける。


「レイ・ノクト殿。貴方もお気をつけください。ヴァイス家は今や借金まみれ。近づけば面倒に巻き込まれますよ」


「……」


「もっとも、平民同士お似合いかもしれませんが」


 空気が、変わった。


 風が止まる。


 木の葉の揺れすら止まったように感じた。


 リリアーナが小さく息を呑む。


 レオンはゆっくり立ち上がった。


「名前は」


「は?」


「お前の名だ」


 男子生徒は一瞬眉をひそめたが、すぐに胸を張った。


「バルク・フォン・ダレイン。ダレイン侯爵家の――」


「長い」


 レオンは遮った。


「バルクでいい」


 取り巻きたちがざわつく。


「無礼だぞ!」


「ダレイン侯爵家に向かって!」


 レオンは聞いていない。


 ただバルクを見る。


「さっきの言葉を訂正しろ」


「何をです?」


「彼女が媚びたという言葉」


 バルクが笑った。


「事実でしょう」


「違う」


「では何だと?」


「彼女はただ、昼食を作っただけだ」


「それを媚びと言うのですよ」


「違う」


 レオンの声が、わずかに低くなる。


「人の好意を侮辱することを、無礼と言う」


 静かな声だった。


 だが、そこには確かな圧があった。


 バルクの笑みが少し引きつる。


 それでも彼は侯爵家の子息だ。


 平民相手に怯むわけにはいかない。


「何を偉そうに。首席だからといって、平民は平民でしょう?」


 レオンの左眼が、淡く金に光った。


 周囲の空気が重くなる。


 バルクの喉が鳴った。


 だが、後ろにいる取り巻きたちの手前、退けない。


「そ、それに貴方こそ何様ですか。王族でもあるまいし」


 その瞬間。


 レオンの雰囲気が、明確に変わった。


 リリアーナは思わず息を止める。


 怖い。


 でも、自分に向けられた怖さではない。


 それは、弱い者を踏みにじる相手だけへ向けられる冷たい怒りだった。


「王族?」


 レオンが呟く。


「くだらないものを基準にするな」


 その声に、全員が固まった。


 王族をくだらないと言った。


 ここは王立学園だ。


 誰が聞いているかわからない。


 それでもレオンは、一切怯まない。


「肩書きでしか立てないなら、黙っていろ」


「き、貴様……!」


「立場で勝ちたいなら、学園ではなく社交場へ行け」


 一歩近づく。


「ここは学ぶ場所だ」


 もう一歩。


「人を笑う場所ではない」


 バルクは後ずさった。


 なぜだ。


 相手は平民のはずだ。


 侯爵家の自分より下のはずだ。


 なのに。


 足が勝手に下がる。


 目が逸らせない。


 まるで、本物の王を前にしているような圧。


「謝れ」


 短い命令だった。


 バルクの膝が震える。


「だ、誰が……!」


「謝れ」


 二度目。


 その瞬間、地面に小さなひびが入った。


 神力ではない。


 ただの威圧。


 けれど十分だった。


 バルクは顔を青ざめさせ、リリアーナへ向き直る。


「……も、申し訳……ありませんでした」


 リリアーナは目を見開いた。


 信じられない光景だった。


 自分を見下していた貴族が、謝っている。


 しかも、自分へ。


「彼女だけではない」


 レオンが言う。


「弁当にも謝れ」


「……は?」


 全員が固まった。


 リリアーナも固まった。


 神霊たちも一瞬静かになった。


 ヴァルガが最初に吹き出す。


『弁当にも!?』


『主、そこ?』


『でも大事です!』


 ルミアは真面目に頷いている。


 バルクは混乱した。


「べ、弁当に……?」


「侮辱しただろ」


「……」


「謝れ」


 バルクは今にも泣きそうな顔で、包み布の上の弁当に頭を下げた。


「……申し訳ありませんでした」


 静寂。


 次の瞬間、遠くで見ていた数人の生徒が噴き出した。


「弁当に謝ってる……!」


「ダレイン侯爵家が……!」


「やばい、笑うな……!」


 バルクの顔が真っ赤になる。


 だがもう遅い。


 完全に場はレオンの支配下だった。


「行け」


 レオンが言うと、バルクたちは逃げるように去っていった。


 取り巻きの令嬢たちも顔を青ざめさせ、何度も頭を下げながら逃げる。


 木陰に静けさが戻る。


 リリアーナは呆然としていた。


「……レイさん」


「何だ」


「お弁当に謝らせる必要は……」


「ある」


 即答だった。


「作ったものを侮辱した」


「……」


「なら作った者と、作られたものに謝るべきだ」


 リリアーナの瞳が揺れた。


 この人は、本当に。


 本当に、信じられないところまで見てくれる。


 自分だけでなく、自分の努力まで守ってくれた。


 朝早く起きて、震える手で作った弁当。


 そんな小さなものまで、大事に扱ってくれた。


「……ありがとうございます」


 涙が落ちそうになり、慌てて拭う。


 レオンは少しだけ困ったように眉を寄せた。


「また泣くのか」


「泣きません……!」


「声が震えている」


「嬉しいんです……」


「そうか」


 レオンは腰を下ろし直す。


「食べるぞ」


「え?」


「昼休みが終わる」


「あ、はい……!」


 リリアーナは慌てて弁当を整える。


 その手は先ほどより少しだけ落ち着いていた。


 レオンは肉団子をもう一つ食べる。


「……やはりうまい」


 その一言で、リリアーナは今度こそ少し泣いた。


 けれど、それは悲しい涙ではなかった。


 遠く、校舎の窓からその様子を見ている人物がいた。


 エリシア・フォン・ローゼンベルク。


 彼女は扇子を閉じ、静かに目を細める。


「……本当に、不思議な方ですわ」


 人を守る。


 立場ではなく、心で。


 しかもそれを誇らない。


 当たり前のようにやる。


 かつて、そんな少年を知っていた気がする。


 幼い頃。


 誰より優しくて。


 自分に笑いかけてくれた、あの人。


 エリシアは胸の奥に走る違和感を押し殺した。


「まさか……ね」


 そう呟きながらも、彼女の視線はレオンから離れなかった。


 昼休みの終わりを告げる鐘が鳴る。


 穏やかな昼食は、また一つ学園の序列を揺らした。


 没落伯爵家の令嬢を笑えば、首席が動く。


 その噂は、その日のうちに学園中へ広がっていくことになる。


 そしてレイ・ノクトという少年は――


 また一つ、望まぬ形で目立つことになるのだった。

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