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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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209/251

第209話「同じものを見る朝、無能王子は“ひとりじゃない待ち時間”を灯す」


 朝は、待つ仲間の静けさを連れてきた。


 神殿の奥。


 石壁は冷たく、採光孔は閉じられている。


 外の光も、風も、声も、まだ入ってきていない。


 それでも、保護陣の中には昨日とは違う温度があった。


 待つ仲間。


 いっしょに待つわたし。


 その言葉が、余白記録の中で淡く光っている。


 昨日、中心は知った。


 待ってもらうだけではない。


 自分も待つ側になれるかもしれない。


 子供たちの箱が開く日を。


 ミナの名前の紙が少し怖くなくなる日を。


 アリシアが自分の札を変えられる日を。


 大人たちが急がせないでいられる日を。


 そして、自分自身が名前へ近づける日を。


 待つ。


 一人で耐えるのではなく。


 同じ明日を信じる誰かと、同じ時間の中にいる。


 それが、待つ仲間だった。


 余白核はまだ眠っている。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 三つの箱は、夜を越えても静かにそこにあった。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、床を細く巡っている。


 今日は昨日より穏やかだ。


 中心が、待つことを少しだけ受け入れたからだろう。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日は、膝の上に小さな透明な器を置いていた。


 空の器ではない。


 中には、小さな白い石が一つ入っている。


 救護区域の子供が拾ったものではない。


 神殿の内側、崩れた床の隙間に落ちていた欠片を、クラウスが磨いたものだ。


 ただの石。


 けれど、光を受けると少しだけ白く光る。


 中心が直接外を見られない今。


 “同じものを見る”練習として、使えるかもしれない。


 ただし、見せるかどうかはまだ決めない。


 今日の中心に聞く。


 それが、すべての始まりだった。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを静かに巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組み、今日は少しだけ落ち着いていた。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を横に置いている。


 ミリオは眠そうだが、精神線を外へ伸ばさず、内側で丸めている。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っていた。


 彼女もまた、待つ仲間という言葉を夜の間ずっと抱えていたのだろう。


 赤のおやすみの札は、まだ箱のそばにある。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も急がない。


 リリアーナは、膝の上の器へ触れず、静かに待つ。


 保護陣の光が一度、二度、淡く明滅した。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、柔らかく響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンが頷く。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、少しだけ余白記録へ意識を向けた。


『……まつ仲間』


「残っています」


『……いっしょに待つ、わたし』


「候補として、残っています」


『……きえてない』


「消えていません」


『……よかった』


 中心は、安心したように揺れた。


 少し沈黙。


『……まつ』


「はい」


『……まつ、なにする?』


 その問いに、リリアーナは一瞬だけ目を見開いた。


 待つ間、何をするのか。


 昨日は、待つことそのものを知った。


 今日は、その待ち時間の中身へ意識が向いている。


 待つという時間は、ただ何もせず耐えるだけなのか。


 それとも、何かを大切にしながら過ごせるものなのか。


 レオンが静かに言う。


「人による」


『……ひとによる』


「ああ」


「座って待つ者もいる」


「歩いて待つ者もいる」


「食べながら待つ者もいる」


 アルベルトが反応しかけたが、レオンは続けた。


「考えながら待つ者もいる」


「何かを見ながら待つ者もいる」


 中心が揺れる。


『……なにかを、みながら』


 リリアーナは、膝の上の器へそっと手を置いた。


「同じものを見る、という待ち方もあります」


『……おなじもの』


「はい」


『……みんなで?』


「はい」


『……そと?』


 少し怖そうに揺れる。


 リリアーナはすぐに首を横に振った。


「外ではありません」


『……ひかり?』


「光でもありません」


『……いろ?』


「新しい色でもありません」


『……なに?』


 リリアーナは、透明な器を少しだけ持ち上げた。


「小さな石です」


 中心が反応する。


『……いし』


「はい」


『……ころころ?』


「前に、子供たちの紙にありましたね」


『……手の中で、ころころ』


「はい」


『……こわいとき、落ち着く』


「そう書いてありました」


 リリアーナは器の中の白い石を見せる。


「これは、神殿の中にあった小さな石です」


『……そとじゃない』


「はい」


『……こどもの、じゃない』


「違います」


『……でも、いし』


「はい」


 中心は、少しだけ興味を示すように揺れた。


『……みたい』


 レオンが確認する。


「今日は石を見るのか」


『……うん』


『……ひとつ』


「一つだけだ」


『……いろ、ふやさない?』


 リリアーナは頷く。


「白に近い石です」


「新しい色として扱わず、石として見ましょう」


『……いし、ひとつ』


「はい」


『……みんなも、みる?』


「見ます」


『……おなじもの』


「はい」


 中心は、少しだけ明るく揺れた。


『……おなじもの、みる』


 ◇


 朝の挨拶は、石を見る前に行われた。


 中心は、今日は落ち着いていた。


『……あるべると』


「おう」


『……おはよう』


「おはよう」


『……まつあいだ、食べる?』


 アルベルトが少し笑う。


「待つ間に食うのは得意だな」


 エリシアが横から言う。


「食べすぎるのは別問題です」


「分かってるよ」


『……食べながら、まつ』


「そうだな」


『……でも、きょう、いし、みる』


「おう」


「石は食わない」


『……いし、食べない』


 中心が真面目に繰り返し、リリアーナが笑いをこらえた。


 アルベルトが慌てる。


「いや、普通食わないからな?」


『……ふつう』


 エリシアが静かに言う。


「中心にとっては、まだ普通ではありません」


「そうだった」


 アルベルトは頭を掻く。


「石は見るもの。たまに握るもの。食わない」


『……いし、みる。にぎる。食べない』


「そう」


『……おぼえた』


 エリシアへ。


『……えりしあ』


「おはようございます」


『……いし、きろく?』


「します」


『……きろく、しすぎない?』


 エリシアは少しだけ目を伏せた。


「はい」


「今日も、しすぎないようにします」


『……こころのはこ』


「使います」


 セラフィアへ。


『……せら』


「おはよう」


『……いし、つつむ?』


「今日は、石をそのまま見ましょう」


『……そのまま』


「怖くなった時だけ、祈りで包みます」


『……そのまま、こわい?』


「怖い時もあります」


『……でも、みる』


「はい」


 クラウスへ。


『……くらうす』


「おはようございます」


『……いし、みつけた?』


「見つけたのはラウルです」


 ラウルが少しだけ眉を動かす。


『……らうる?』


「ああ」


『……いし、ひろった?』


「拾った」


『……ありがとう』


 ラウルは、少しだけ視線を逸らした。


「ただの石だ」


『……ただのいし』


 中心は、その言葉を大切そうに繰り返す。


『……ただのいし、いい』


 ミリオへ。


『……みりお』


「おはようございます……」


『……いし、ねむい?』


「石は……たぶん眠くありません」


『……そう』


 少し残念そうに揺れる中心に、アルベルトが小さく吹き出した。


 アリシアへ。


『……ありしあ』


「はい」


『……おはよう』


「おはようございます」


『……いし、みる?』


「はい」


「一緒に見ます」


『……赤のおやすみ』


「まだ、おやすみです」


『……今日は、いし』


「はい」


「今日は、石です」


 ◇


 石を見る準備は、光の時間よりも静かだった。


 採光孔は開けない。


 外部の声も入れない。


 ただ、保護陣の内側に、透明な器を置く。


 その中にある小さな白い石を、中心と皆で見る。


 エリシアが術式盤を少しだけ開く。


「視覚刺激に相当する記録伝達を低負荷で行います」


 アルベルトが言う。


「簡単に言うと、石を見るだけだな」


「はい」


「今日は合ってるだろ」


「合っています」


 セラフィアが微笑む。


 リリアーナは、器を保護陣の中央近くへ置いた。


 余白核から近すぎない場所。


 遠すぎない場所。


 中心が怖くなったら、すぐ意識を逸らせる距離。


 器の中で、小さな白い石が静かに転がっている。


 丸くはない。


 少し角がある。


 でも、クラウスが磨いてくれたせいか、尖りすぎてはいない。


 光を受けていないから、強く輝くわけでもない。


 ただ、そこにある。


『……いし』


 中心が言った。


 リリアーナは頷く。


「石です」


『……ちいさい』


「はい」


『……かたい?』


「硬いです」


『……こわれる?』


「強く叩けば、欠けるかもしれません」


『……でも、いま、ある』


「はい」


『……なにもしない』


「何もしません」


『……ただ、ある』


「はい」


 中心は、長くその石を見ていた。


 ただの石。


 誰かの名前ではない。


 誰かの声でもない。


 期待でもない。


 返事でもない。


 泣いていない。


 急かしていない。


 待っているとも言わない。


 ただ、そこにある。


『……しずか』


 リリアーナが微笑む。


「静かですね」


『……ひかりも、しずか』


「はい」


『……いしも、しずか』


「はい」


『……ちがう、しずか』


 セラフィアが穏やかに頷いた。


「光の静けさと、石の静けさは違うかもしれないわ」


『……いしの、しずか』


 中心は、その言葉を繰り返す。


『……いしの、しずか』


 ラウルが、ぽつりと言った。


「石は、急がない」


 中心がラウルへ向く。


『……いそがない』


「ああ」


「そこにある」


「動かない」


「待つとも言わない」


「ただ、ある」


 中心が、小さく震えた。


『……ただ、ある』


 レオンが静かに言う。


「お前も、ただあっていい」


 保護陣の中が、深く静まった。


 中心が大きく揺れる。


『……わたしも?』


「ああ」


『……なにか、しなくても?』


「しなくても」


『……こえ、なくても?』


「なくても」


『……ひかり、ゆらさなくても?』


「ゆらさなくても」


『……名前、なくても?』


 レオンは、短く、はっきり言った。


「なくても」


 中心は、長く、長く沈黙した。


 石は、何も言わない。


 ただ、そこにある。


 それが、中心には不思議だった。


 存在するために、何かを返さなくていい。


 誰かを安心させなくていい。


 名前を持っていなくてもいい。


 石は石として、ただそこにある。


『……ただ、ある』


 中心の声は、震えていた。


『……むずかしい』


 リリアーナは頷く。


「難しいですね」


『……なにか、したくなる』


「はい」


『……しないと、こわい』


「はい」


『……でも、いし』


「はい」


『……ただ、ある』


「はい」


 中心は、その言葉をゆっくり余白記録へ置くように繰り返した。


『……ただ、ある』


 ◇


 石を見る時間は、長くしなかった。


 中心は、もっと見たいとは言わなかった。


 ただ、石の静けさに深く揺れていた。


 リリアーナが、そっと聞く。


「今日は、ここまでにしますか?」


『……うん』


「石は、片づけますか?」


 中心が少し揺れる。


『……おいておく?』


「ここにですか?」


『……うん』


『……まつ仲間?』


 リリアーナの胸が、温かくなる。


「石も、待つ仲間ですか?」


『……わからない』


『……でも、ここに、ある』


「はい」


『……みんな、みる』


「はい」


『……おなじもの』


「そうですね」


 レオンが言う。


「置いておけばいい」


 エリシアが術式盤を見る。


「負荷は低いです」


「ただし、常時意識が向きすぎない位置に置くべきです」


 クラウスが、器を少しだけ保護陣の端へ移動させた。


 遠すぎず、近すぎず。


 そこに石がある。


 中心は安心したように揺れた。


『……いし、いる』


「はい」


『……ただ、ある』


「はい」


『……いし、すきかも?』


 リリアーナが微笑んだ。


「好きかも、ですか?」


 中心は、少し考えた。


『……まだ』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……そばに、あって、いやじゃない』


「それで十分です」


『……いやじゃない、いし』


 エリシアが記録する。


「余白記録、追加」


「いやじゃない石」


 アルベルトが小声で言う。


「それ、呼び方にするのか?」


 中心が反応する。


『……いやじゃない石』


 少し考えて。


『……いい』


 リリアーナが笑う。


「いいんですね」


『……うん』


『……まだ、すきかも、じゃない』


『……いやじゃない』


「はい」


「それも大切です」


 ◇


 午後。


 子供たちへは、今日は中心が小さな石を見たことが伝えられた。


 声は繋がない。


 紙も読まない。


 ただ、救護役を通じた報告だけ。


 子供たちは、それを聞いて静かに反応したという。


 “ころころ石?”


 “手で持つと落ち着くやつ?”


 “おはようの人、石見たの?”


 “石は急がないって、いいね”


 “ただあるって、むずかしい”


 ミリオが、それらを慎重に濾過して、一つだけ中心へ伝える。


「子供たちが、“石は急がない”と言っています」


 中心が、静かに揺れた。


『……いし、いそがない』


「はい」


『……こどもも』


「はい」


『……わたしも、いそがない?』


 リリアーナが答える。


「はい」


「急がなくていいです」


『……ただ、ある』


「はい」


 中心は、器の石へ意識を向けた。


『……いやじゃない石』


 石は、何も返さない。


 でも、そこにある。


 中心は、少し安心したように光った。


 ◇


 夕方。


 保留箱には、大人たちからの札が一つ入った。


 “ただ見守る”。


 グレイヴがそれだけを報告した。


 中心が揺れる。


『……ただ、みまもる』


 リリアーナが頷く。


「大人たちも、今日の石の話を聞いたのかもしれません」


『……ただ、ある』


「はい」


『……ただ、みまもる』


「似ていますね」


 アリシアが、自分の箱を見つめながら言った。


「私は、償うために何かをし続けなければと思っていました」


 中心が彼女へ向く。


『……ありしあ』


「でも、今日は……ただ逃げずにいることも、必要なのかもしれないと思いました」


『……ただ、いる』


「はい」


「何かを急いで返そうとせず」


「許されようとせず」


「消えようともせず」


「ただ、いる」


 中心が、静かに揺れる。


『……むずかしい』


 アリシアは微笑んだ。


「難しいです」


『……でも、いっしょ』


「はい」


「一緒です」


 レオンは、黙って石を見ていた。


 ただある。


 それは簡単に見えて、とても難しい。


 役目を背負っている者ほど。


 罪を背負っている者ほど。


 期待を背負っている者ほど。


 ただそこにいることができなくなる。


 だから、今日は大切な日だった。


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、静かな余白があった。


 今日は、外の光を見なかった。


 風の気配も聞かなかった。


 子供たちの紙も読まなかった。


 いるよの光も届けなかった。


 ただ、小さな石を見た。


 皆で同じものを見た。


 石は、急がなかった。


 何も言わなかった。


 ただ、そこにあった。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……おなじものを、みた日』


「はい」


『……いしの、しずか、の日』


「はい」


『……ただ、ある、の日』


「はい」


『……いやじゃない石、の日』


「はい」


『……ただ、みまもる、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『同じものを見る朝』


『石の静けさの日』


『ただ、ある日』


『いやじゃない石の日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は、何もしない練習に近かったな」


『……なにもしない』


「ただ、ある」


『……むずかしい』


「ああ」


『……でも、いし、いた』


「いたな」


『……わたしも、いた?』


「いた」


 中心は、安心したように揺れた。


『……よかった』


 リリアーナは、器の中の石をそっと見た。


 小さな白い石。


 いやじゃない石。


 待つ仲間かもしれない石。


 それは、何も言わず、今日の夜にもそこにある。


 中心は、眠りへ向かってゆっくり光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、小さく言った。


「ただ、いる練習を」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……ただ、ある』


 余白核は、静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は世界へ何かを返さなかった。


 誰かを安心させるための光も出さなかった。


 声も届けなかった。


 ただ、小さな石と一緒にそこにいた。


 名もない“わたし”は、今日。


 存在するために、必ず何かをしなくてもいいのだと。


 静かな石から、少しだけ教わった。

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