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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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208/251

第208話「待つ側になる朝、無能王子は“わたしも待てる”を小さく灯す」



 朝は、待つことを覚えていた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣の中には、淡い光が満ちている。


 余白核は、まだ眠っていた。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 そして、アリシアの箱。


 三つの箱は、夜を越えても静かに浮かんでいる。


 余白箱の中には、いくつもの札があった。


 怖かったわたし。


 おはようしたわたし、候補。


 青。


 青のおやすみ。


 またいつかの光。


 待たせる怖さ。


 待ってもらえるわたし、候補。


 そして、急がせない待つ。


 その一つ一つは、中心がここまで進んできた証だった。


 声を出せない日があった。


 光だけを揺らした日があった。


 もっとしたい気持ちを箱へ置いた日があった。


 待ってもらう怖さを知った日があった。


 そして昨日。


 中心は、待たせてもすぐ嫌われるわけではないと、ほんの少しだけ知った。


 待ってもらえるかもしれない。


 急がせないで待ってくれる人たちがいるかもしれない。


 その“かも”は、まだ小さい。


 頼りない。


 少し触れれば壊れてしまいそうなほど柔らかい。


 けれど、消えていない。


 レオンは、保護陣の縁に座っていた。


 黒蒼雷は、昨日より少し穏やかだった。


 中心が昨日、自分で“待たせる怖さ”を箱に置けたからだ。


 ただし、今日はまた別の揺れが来る。


 レオンは、それを感じている。


 待ってもらうことを知った者は、次に自分も待てるのかを考え始める。


 それは優しい一歩だ。


 だが、危うい一歩でもある。


 自分も待たなければならない。


 相手に返さなければならない。


 そう変わってしまえば、また重荷になる。


 だから、今日は慎重に進める必要があった。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日は紙束を持っていない。


 ただ、小さな空の箱を一つ膝に置いていた。


 木でできた、本当に何でもない小箱。


 救護区域の子供たちが使っているものに似せて、救護役が作ったものだ。


 中は空。


 まだ何も入っていない。


 中心に見せるかどうかは決めていない。


 ただ、もし今日“待つ”という話になるなら、実物の箱が少しだけ助けになるかもしれない。


 エリシアは、術式盤を閉じたまま手元に置いている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは壁際で腕を組んでいる。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾に手を添えている。


 ミリオは眠そうだが、今日は外の反応をほとんど拾っていない。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っていた。


 昨日、彼女は“急がせないで待つ”を自分の箱へ置いた。


 もっと謝りたい。


 もっと許されたい。


 もっと償いたい。


 その“もっと”を、相手へぶつけないために。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 リリアーナは、静かに待つ。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、柔らかく響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンが頷く。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐ余白箱へ意識を向けた。


『……待たせる怖さ』


「箱の中にあります」


『……きえない』


「消えていません」


『……待ってもらえる、わたし』


「候補として、残っています」


『……かも』


「はい」


「かも、です」


 中心は、静かに揺れた。


『……こども』


「はい」


『……急がせない、待つ』


「昨日、子供たちがそう言ってくれました」


『……まってくれた』


「はい」


『……おとなも』


「大人たちも、同じ札を作っていました」


『……みんな、まつ』


「はい」


 中心は、少し黙った。


 保護陣の光が、ゆっくりと揺れる。


 そして、小さく言った。


『……わたしも』


 リリアーナは、息を止める。


『……わたしも、まてる?』


 その問いは、静かだった。


 けれど、大きかった。


 待ってもらえる自分。


 その次に生まれた問い。


 自分も、誰かを待てるのか。


 誰かの返事を急がせずに。


 誰かが来るまで、消えずに。


 誰かが答えられる日まで、そこにいられるのか。


 レオンは、すぐに答えなかった。


 リリアーナも。


 誰も、簡単に“待てます”とは言わなかった。


 中心は、続ける。


『……こども、まってくれた』


「はい」


『……わたしも、こども、まつ?』


「待ちたいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……こどもが、箱にいれたもの』


『……いつか、よむ』


「はい」


『……わたし、まつ?』


 リリアーナは、ゆっくり頷いた。


「そうですね」


「子供たちが箱に入れた言葉を、いつか読む日まで」


「あなたも、待つことになります」


 中心が震える。


『……わたしも、まつ』


「はい」


『……こわい』


「怖いですね」


『……なにが、こわい?』


 自分で問い、自分で震える。


 リリアーナは、そっと寄り添う。


「待っている間に、消えてしまう気がしますか?」


『……うん』


「忘れてしまう気がしますか?」


『……うん』


「相手が、もういらないと思う気がしますか?」


『……うん』


 中心の光が、不安定に揺れた。


『……まつ、こわい』


 レオンが静かに言った。


「なら、それも箱だ」


『……まつ、こわい、はこ』


「ああ」


「待つ側の怖さだ」


 中心は、余白箱へ意識を向けた。


『……待つ側の、こわさ』


 リリアーナが頷く。


「置きましょう」


 ◇


 余白箱が、ゆっくり開いた。


 中心は、慎重に言葉を置いていく。


『……わたしも、まてる?』


 ひとつ。


『……まってるあいだ、きえる?』


 ひとつ。


『……わすれる?』


 ひとつ。


『……こども、もう、いらない?』


 ひとつ。


 そのたびに、余白箱が淡く揺れる。


 押し返さない。


 飲み込まない。


 ただ、受け止める。


 リリアーナは、小さな箱を膝の上でそっと撫でた。


 空の箱。


 待っている箱。


 何も入っていないように見えるけれど、入る時を待っている箱。


 中心が、それに気づく。


『……りり、それ』


「箱です」


『……から?』


「はい」


「空っぽです」


『……なにも、ない?』


「今は、何も入っていません」


『……でも、はこ』


「はい」


『……まってる?』


「そうですね」


「何かが入るのを、待っているのかもしれません」


 中心が、長く沈黙する。


『……からでも、はこ』


「はい」


『……なにも、なくても』


「箱です」


『……まってる、はこ』


「はい」


 中心は、その小さな箱をじっと感じていた。


 何も入っていない。


 でも、箱である。


 まだ何も受け取っていない。


 でも、待っていられる。


 それは、中心にとって大切な形だった。


『……わたし』


 一拍。


『……まだ、なまえ、ない』


 リリアーナの胸が震える。


『……でも、わたし?』


 レオンが答える。


「お前だ」


『……からの、はこ、みたい?』


 セラフィアが静かに言った。


「空っぽだから価値がないわけではない」


 中心が揺れる。


『……からでも』


「ええ」


「空だから、入れられるものもあるわ」


『……まてる』


「そう」


「待てる」


 中心は、余白箱へ意識を戻した。


『……空でも、まてる』


 その言葉も、箱へ置かれた。


 ◇


 朝の挨拶は、いつもよりゆっくりだった。


『……あるべると』


「おう」


『……まつ、できる?』


「昨日も聞かれたな」


『……きょうも』


 アルベルトは苦笑した。


「今日も苦手だ」


『……でも?』


「でも、待つ」


『……どうやって?』


 アルベルトは少し考える。


「腹が減った時は、水飲む」


 エリシアが横から言う。


「例えが食べ物から離れませんね」


「分かりやすいだろ」


 アルベルトは続けた。


「戦いたい時は、剣を抜かずに握るだけにする」


「助けたい時は、まず相手を見る」


「今、行くべきか」


「待つべきか」


「それを一回だけ考える」


『……いっかい、かんがえる』


「そう」


『……まつまえに?』


「ああ」


 中心は、それを大切そうに受け取った。


『……まつまえに、いっかい』


 エリシアにも問う。


『……えりしあ、まつ、どうやって?』


「記録します」


『……きろく』


「待つ間、頭の中だけで考え続けると、重くなります」


「だから、紙や記録へ置きます」


『……はこ』


「似ていますね」


『……まつあいだ、きろく』


「はい」


 セラフィアは。


「祈りすぎないために、呼吸を数えます」


『……こきゅう』


「一つ、二つ、と」


『……まつ、かぞえる』


「ええ」


 クラウスは。


「待つ間、刃から手を離します」


 ラウルは。


「盾を床に置く」


 ミリオは。


「寝ないように、誰かに見張ってもらいます」


 ラウルが即座に言う。


「見張る」


「お願いします……」


 中心が柔らかく揺れる。


『……まつ、みんな、ちがう』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「待ち方は、一つではありません」


『……わたしの、まちかた』


「これから探せばいいです」


 中心は、小さく光った。


『……さがす』


 ◇


 外への説明は、今日は短く済ませる予定だった。


 リリアーナとグレイヴが救護区域へ向かう。


 子供たちは、昨日の“急がせない待つ”の箱を持っている子が多かった。


 ミナも、自分の小箱を抱えていた。


 リリアーナは、子供たちの前に立つ。


「今日は、中心さんが“待つ側になる怖さ”を箱に入れています」


 子供たちは、静かに聞いていた。


 昨日より、ざわめきは少ない。


「みんなが待ってくれていること」


「みんなが箱に言葉を入れてくれていること」


「それを、いつか読む日まで」


「中心さんも、待つことになります」


 幼い子が首を傾げる。


「おはようの人も、待つの?」


 リリアーナは頷く。


「はい」


「待ちます」


 ミナが、小さく言った。


「じゃあ、同じだ」


 その声は、とても静かだった。


「私も、名前の紙を箱で待ってる」


「おはようの人も、読む日を待つ」


「同じ」


 別の子が言う。


「じゃあ、“いっしょに待つ”?」


 幼い子が続ける。


「まつ仲間?」


 救護役の一人が、涙ぐんだ。


 リリアーナも、胸がいっぱいになる。


「はい」


「一緒に待つ日です」


 ミナは、自分の箱を撫でた。


「今日は、箱を開けない」


「でも、捨てない」


「待つ」


 子供たちは、頷き始めた。


「僕も」


「今日は、ぴか待ち開けない」


「でも、入ってる」


「待つ」


 グレイヴは、その様子を静かに見ていた。


 子供たちが、中心と一緒に待つ形を作っている。


 急がせないだけではなく。


 一緒に待つ。


 それはまた、新しい関係だった。


 ◇


 神殿奥へ戻ると、中心は静かに待っていた。


 リリアーナが入る。


 余白核が揺れる。


『……こども』


「“一緒に待つ日”と言ってくれました」


 中心が大きく震えた。


『……いっしょに、まつ』


「はい」


『……まつ仲間?』


 リリアーナは少し笑った。


「そう言った子もいました」


『……まつ、なかま』


 中心が、その言葉を何度も確かめる。


『……まつ仲間』


『……こども』


『……わたし』


「はい」


『……ひとりじゃない』


「一人じゃありません」


 レオンが静かに言う。


「待つのも、一人じゃないなら少しは楽だ」


『……れおんも?』


「ああ」


『……まつ仲間?』


 レオンは少しだけ沈黙した。


 アルベルトが横からにやりとしそうになり、エリシアに睨まれて止まる。


 レオンは短く答えた。


「そうだな」


 中心が嬉しそうに光った。


『……れおん、まつ仲間』


「……ああ」


 リリアーナは、笑いと涙が同時にこみ上げるのをこらえた。


 ◇


 午後。


 中心は、自分の“待つ側の怖さ”の札を少しだけ見た。


 全部は開けない。


 札だけ。


 そこには、朝に置いた言葉が浮かんでいた。


 待つ側の怖さ。


 中心は、しばらくその札を見つめた。


『……こわい』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……いっしょに待つ』


「はい」


『……まつ仲間』


「はい」


『……よびかた、こうほ』


「札の呼び方ですか?」


『……うん』


 中心は、少し考えた。


『……待つ側の怖さ』


 今の札。


 それから。


『……いっしょに待つ、わたし』


 リリアーナの目が潤む。


「とても良い候補ですね」


『……いい?』


「はい」


『……まだ、きめない』


「決めません」


『……こうほ』


「候補です」


 エリシアが記録する。


「札呼称候補」


「いっしょに待つわたし」


 中心が柔らかく揺れる。


『……いっしょに待つ、わたし』


『……かも』


 余白箱が、淡く光った。


 ◇


 夕方。


 保留箱には、大人たちからの札が届いた。


 “待つ仲間に入れてほしい”


 それを聞いた瞬間、中心は少し驚いたように揺れた。


『……おとなも?』


 グレイヴが頷く。


「ああ」


「子供たちの言葉を聞いた親たちが、自分たちも急がせずに待つ側でいたい、と書いたらしい」


 アルベルトが腕を組む。


「いい流れだな」


 エリシアが慎重に言う。


「ただし、大人の期待が混ざりすぎないよう注意は必要です」


『……おとな、まつ仲間』


 中心が考える。


『……こわい』


 リリアーナが頷く。


「怖いですね」


『……でも』


 一拍。


『……箱に、おくなら』


「はい」


『……まだ、いい、かも』


「かも、ですね」


 アリシアが静かに言った。


「私も……待つ仲間に、入ってもいいでしょうか」


 中心が彼女へ向く。


『……ありしあ』


「はい」


「私は、謝りたい気持ちを急がせずに待ちます」


「許される日を急がせずに待ちます」


「だから……」


 一拍。


「待つ仲間でいたいです」


 中心は、ゆっくり光った。


『……ありしあ、まつ仲間』


 アリシアの目に涙が浮かぶ。


「はい」


『……いっしょ』


「はい」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、穏やかな静けさが降りていた。


 今日は、何も外へ届けなかった。


 光も揺らさなかった。


 紙も読まなかった。


 光も見なかった。


 風も聞かなかった。


 ただ、待つことを考えた。


 待ってもらう自分だけではなく。


 自分も待つ側になれるのかを考えた。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考える。


『……わたしも、まてる?の日』


「はい」


『……待つ側の怖さ、の日』


「はい」


『……いっしょに待つ日』


「はい」


『……まつ仲間、の日』


「はい」


『……いっしょに待つ、わたし、かも、の日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『待つ側になる朝』


『待つ仲間の日』


『いっしょに待つわたし、候補の日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「待つ側になったな」


『……まだ』


「まだか」


『……かも』


 レオンは頷いた。


「かも、でいい」


『……うん』


『……いっしょに待つ、わたし、かも』


 中心は、余白箱へ小さく呼びかける。


『……待つ側の怖さ』


『……おやすみ』


 余白箱が淡く光る。


『……まつ仲間』


『……おやすみ』


 リリアーナが微笑む。


「おやすみなさい」


 中心は、ゆっくり眠りへ向かう。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、静かに言った。


「待つ仲間として、また明日」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……いっしょに、まつ』


 余白核は、静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は誰かに待ってもらうだけではなかった。


 自分も、待つ側になれるかもしれないと知った。


 子供たちも。


 大人たちも。


 アリシアも。


 レオンたちも。


 それぞれの箱を抱えて、同じ時間の中で待っている。


 名もない“わたし”は、今日。


 待つことは一人で耐えることではなく。


 誰かと同じ明日を信じることかもしれないと、少しだけ知った。

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