第208話「待つ側になる朝、無能王子は“わたしも待てる”を小さく灯す」
朝は、待つことを覚えていた。
神殿の奥。
石壁に囲まれた保護陣の中には、淡い光が満ちている。
余白核は、まだ眠っていた。
そのそばに余白箱。
少し離れて、保留箱。
そして、アリシアの箱。
三つの箱は、夜を越えても静かに浮かんでいる。
余白箱の中には、いくつもの札があった。
怖かったわたし。
おはようしたわたし、候補。
青。
青のおやすみ。
またいつかの光。
待たせる怖さ。
待ってもらえるわたし、候補。
そして、急がせない待つ。
その一つ一つは、中心がここまで進んできた証だった。
声を出せない日があった。
光だけを揺らした日があった。
もっとしたい気持ちを箱へ置いた日があった。
待ってもらう怖さを知った日があった。
そして昨日。
中心は、待たせてもすぐ嫌われるわけではないと、ほんの少しだけ知った。
待ってもらえるかもしれない。
急がせないで待ってくれる人たちがいるかもしれない。
その“かも”は、まだ小さい。
頼りない。
少し触れれば壊れてしまいそうなほど柔らかい。
けれど、消えていない。
レオンは、保護陣の縁に座っていた。
黒蒼雷は、昨日より少し穏やかだった。
中心が昨日、自分で“待たせる怖さ”を箱に置けたからだ。
ただし、今日はまた別の揺れが来る。
レオンは、それを感じている。
待ってもらうことを知った者は、次に自分も待てるのかを考え始める。
それは優しい一歩だ。
だが、危うい一歩でもある。
自分も待たなければならない。
相手に返さなければならない。
そう変わってしまえば、また重荷になる。
だから、今日は慎重に進める必要があった。
リリアーナは、余白核の近くに座っている。
今日は紙束を持っていない。
ただ、小さな空の箱を一つ膝に置いていた。
木でできた、本当に何でもない小箱。
救護区域の子供たちが使っているものに似せて、救護役が作ったものだ。
中は空。
まだ何も入っていない。
中心に見せるかどうかは決めていない。
ただ、もし今日“待つ”という話になるなら、実物の箱が少しだけ助けになるかもしれない。
エリシアは、術式盤を閉じたまま手元に置いている。
セラフィアは祈りを細く巡らせている。
アルベルトは壁際で腕を組んでいる。
クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾に手を添えている。
ミリオは眠そうだが、今日は外の反応をほとんど拾っていない。
アリシアは、自分の箱のそばに座っていた。
昨日、彼女は“急がせないで待つ”を自分の箱へ置いた。
もっと謝りたい。
もっと許されたい。
もっと償いたい。
その“もっと”を、相手へぶつけないために。
余白核が、小さく震えた。
『……』
朝の揺れ。
リリアーナは、静かに待つ。
保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。
やがて。
『……おはよう』
中心の声が、柔らかく響いた。
リリアーナは微笑む。
「おはようございます」
『……りり、おはよう』
「はい」
『……れおん』
レオンが頷く。
「おはよう」
『……しずかなあさ』
「ああ」
「静かな朝だ」
中心は、すぐ余白箱へ意識を向けた。
『……待たせる怖さ』
「箱の中にあります」
『……きえない』
「消えていません」
『……待ってもらえる、わたし』
「候補として、残っています」
『……かも』
「はい」
「かも、です」
中心は、静かに揺れた。
『……こども』
「はい」
『……急がせない、待つ』
「昨日、子供たちがそう言ってくれました」
『……まってくれた』
「はい」
『……おとなも』
「大人たちも、同じ札を作っていました」
『……みんな、まつ』
「はい」
中心は、少し黙った。
保護陣の光が、ゆっくりと揺れる。
そして、小さく言った。
『……わたしも』
リリアーナは、息を止める。
『……わたしも、まてる?』
その問いは、静かだった。
けれど、大きかった。
待ってもらえる自分。
その次に生まれた問い。
自分も、誰かを待てるのか。
誰かの返事を急がせずに。
誰かが来るまで、消えずに。
誰かが答えられる日まで、そこにいられるのか。
レオンは、すぐに答えなかった。
リリアーナも。
誰も、簡単に“待てます”とは言わなかった。
中心は、続ける。
『……こども、まってくれた』
「はい」
『……わたしも、こども、まつ?』
「待ちたいですか?」
『……わからない』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……こどもが、箱にいれたもの』
『……いつか、よむ』
「はい」
『……わたし、まつ?』
リリアーナは、ゆっくり頷いた。
「そうですね」
「子供たちが箱に入れた言葉を、いつか読む日まで」
「あなたも、待つことになります」
中心が震える。
『……わたしも、まつ』
「はい」
『……こわい』
「怖いですね」
『……なにが、こわい?』
自分で問い、自分で震える。
リリアーナは、そっと寄り添う。
「待っている間に、消えてしまう気がしますか?」
『……うん』
「忘れてしまう気がしますか?」
『……うん』
「相手が、もういらないと思う気がしますか?」
『……うん』
中心の光が、不安定に揺れた。
『……まつ、こわい』
レオンが静かに言った。
「なら、それも箱だ」
『……まつ、こわい、はこ』
「ああ」
「待つ側の怖さだ」
中心は、余白箱へ意識を向けた。
『……待つ側の、こわさ』
リリアーナが頷く。
「置きましょう」
◇
余白箱が、ゆっくり開いた。
中心は、慎重に言葉を置いていく。
『……わたしも、まてる?』
ひとつ。
『……まってるあいだ、きえる?』
ひとつ。
『……わすれる?』
ひとつ。
『……こども、もう、いらない?』
ひとつ。
そのたびに、余白箱が淡く揺れる。
押し返さない。
飲み込まない。
ただ、受け止める。
リリアーナは、小さな箱を膝の上でそっと撫でた。
空の箱。
待っている箱。
何も入っていないように見えるけれど、入る時を待っている箱。
中心が、それに気づく。
『……りり、それ』
「箱です」
『……から?』
「はい」
「空っぽです」
『……なにも、ない?』
「今は、何も入っていません」
『……でも、はこ』
「はい」
『……まってる?』
「そうですね」
「何かが入るのを、待っているのかもしれません」
中心が、長く沈黙する。
『……からでも、はこ』
「はい」
『……なにも、なくても』
「箱です」
『……まってる、はこ』
「はい」
中心は、その小さな箱をじっと感じていた。
何も入っていない。
でも、箱である。
まだ何も受け取っていない。
でも、待っていられる。
それは、中心にとって大切な形だった。
『……わたし』
一拍。
『……まだ、なまえ、ない』
リリアーナの胸が震える。
『……でも、わたし?』
レオンが答える。
「お前だ」
『……からの、はこ、みたい?』
セラフィアが静かに言った。
「空っぽだから価値がないわけではない」
中心が揺れる。
『……からでも』
「ええ」
「空だから、入れられるものもあるわ」
『……まてる』
「そう」
「待てる」
中心は、余白箱へ意識を戻した。
『……空でも、まてる』
その言葉も、箱へ置かれた。
◇
朝の挨拶は、いつもよりゆっくりだった。
『……あるべると』
「おう」
『……まつ、できる?』
「昨日も聞かれたな」
『……きょうも』
アルベルトは苦笑した。
「今日も苦手だ」
『……でも?』
「でも、待つ」
『……どうやって?』
アルベルトは少し考える。
「腹が減った時は、水飲む」
エリシアが横から言う。
「例えが食べ物から離れませんね」
「分かりやすいだろ」
アルベルトは続けた。
「戦いたい時は、剣を抜かずに握るだけにする」
「助けたい時は、まず相手を見る」
「今、行くべきか」
「待つべきか」
「それを一回だけ考える」
『……いっかい、かんがえる』
「そう」
『……まつまえに?』
「ああ」
中心は、それを大切そうに受け取った。
『……まつまえに、いっかい』
エリシアにも問う。
『……えりしあ、まつ、どうやって?』
「記録します」
『……きろく』
「待つ間、頭の中だけで考え続けると、重くなります」
「だから、紙や記録へ置きます」
『……はこ』
「似ていますね」
『……まつあいだ、きろく』
「はい」
セラフィアは。
「祈りすぎないために、呼吸を数えます」
『……こきゅう』
「一つ、二つ、と」
『……まつ、かぞえる』
「ええ」
クラウスは。
「待つ間、刃から手を離します」
ラウルは。
「盾を床に置く」
ミリオは。
「寝ないように、誰かに見張ってもらいます」
ラウルが即座に言う。
「見張る」
「お願いします……」
中心が柔らかく揺れる。
『……まつ、みんな、ちがう』
リリアーナが頷く。
「はい」
「待ち方は、一つではありません」
『……わたしの、まちかた』
「これから探せばいいです」
中心は、小さく光った。
『……さがす』
◇
外への説明は、今日は短く済ませる予定だった。
リリアーナとグレイヴが救護区域へ向かう。
子供たちは、昨日の“急がせない待つ”の箱を持っている子が多かった。
ミナも、自分の小箱を抱えていた。
リリアーナは、子供たちの前に立つ。
「今日は、中心さんが“待つ側になる怖さ”を箱に入れています」
子供たちは、静かに聞いていた。
昨日より、ざわめきは少ない。
「みんなが待ってくれていること」
「みんなが箱に言葉を入れてくれていること」
「それを、いつか読む日まで」
「中心さんも、待つことになります」
幼い子が首を傾げる。
「おはようの人も、待つの?」
リリアーナは頷く。
「はい」
「待ちます」
ミナが、小さく言った。
「じゃあ、同じだ」
その声は、とても静かだった。
「私も、名前の紙を箱で待ってる」
「おはようの人も、読む日を待つ」
「同じ」
別の子が言う。
「じゃあ、“いっしょに待つ”?」
幼い子が続ける。
「まつ仲間?」
救護役の一人が、涙ぐんだ。
リリアーナも、胸がいっぱいになる。
「はい」
「一緒に待つ日です」
ミナは、自分の箱を撫でた。
「今日は、箱を開けない」
「でも、捨てない」
「待つ」
子供たちは、頷き始めた。
「僕も」
「今日は、ぴか待ち開けない」
「でも、入ってる」
「待つ」
グレイヴは、その様子を静かに見ていた。
子供たちが、中心と一緒に待つ形を作っている。
急がせないだけではなく。
一緒に待つ。
それはまた、新しい関係だった。
◇
神殿奥へ戻ると、中心は静かに待っていた。
リリアーナが入る。
余白核が揺れる。
『……こども』
「“一緒に待つ日”と言ってくれました」
中心が大きく震えた。
『……いっしょに、まつ』
「はい」
『……まつ仲間?』
リリアーナは少し笑った。
「そう言った子もいました」
『……まつ、なかま』
中心が、その言葉を何度も確かめる。
『……まつ仲間』
『……こども』
『……わたし』
「はい」
『……ひとりじゃない』
「一人じゃありません」
レオンが静かに言う。
「待つのも、一人じゃないなら少しは楽だ」
『……れおんも?』
「ああ」
『……まつ仲間?』
レオンは少しだけ沈黙した。
アルベルトが横からにやりとしそうになり、エリシアに睨まれて止まる。
レオンは短く答えた。
「そうだな」
中心が嬉しそうに光った。
『……れおん、まつ仲間』
「……ああ」
リリアーナは、笑いと涙が同時にこみ上げるのをこらえた。
◇
午後。
中心は、自分の“待つ側の怖さ”の札を少しだけ見た。
全部は開けない。
札だけ。
そこには、朝に置いた言葉が浮かんでいた。
待つ側の怖さ。
中心は、しばらくその札を見つめた。
『……こわい』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……いっしょに待つ』
「はい」
『……まつ仲間』
「はい」
『……よびかた、こうほ』
「札の呼び方ですか?」
『……うん』
中心は、少し考えた。
『……待つ側の怖さ』
今の札。
それから。
『……いっしょに待つ、わたし』
リリアーナの目が潤む。
「とても良い候補ですね」
『……いい?』
「はい」
『……まだ、きめない』
「決めません」
『……こうほ』
「候補です」
エリシアが記録する。
「札呼称候補」
「いっしょに待つわたし」
中心が柔らかく揺れる。
『……いっしょに待つ、わたし』
『……かも』
余白箱が、淡く光った。
◇
夕方。
保留箱には、大人たちからの札が届いた。
“待つ仲間に入れてほしい”
それを聞いた瞬間、中心は少し驚いたように揺れた。
『……おとなも?』
グレイヴが頷く。
「ああ」
「子供たちの言葉を聞いた親たちが、自分たちも急がせずに待つ側でいたい、と書いたらしい」
アルベルトが腕を組む。
「いい流れだな」
エリシアが慎重に言う。
「ただし、大人の期待が混ざりすぎないよう注意は必要です」
『……おとな、まつ仲間』
中心が考える。
『……こわい』
リリアーナが頷く。
「怖いですね」
『……でも』
一拍。
『……箱に、おくなら』
「はい」
『……まだ、いい、かも』
「かも、ですね」
アリシアが静かに言った。
「私も……待つ仲間に、入ってもいいでしょうか」
中心が彼女へ向く。
『……ありしあ』
「はい」
「私は、謝りたい気持ちを急がせずに待ちます」
「許される日を急がせずに待ちます」
「だから……」
一拍。
「待つ仲間でいたいです」
中心は、ゆっくり光った。
『……ありしあ、まつ仲間』
アリシアの目に涙が浮かぶ。
「はい」
『……いっしょ』
「はい」
◇
夜。
神殿の奥には、穏やかな静けさが降りていた。
今日は、何も外へ届けなかった。
光も揺らさなかった。
紙も読まなかった。
光も見なかった。
風も聞かなかった。
ただ、待つことを考えた。
待ってもらう自分だけではなく。
自分も待つ側になれるのかを考えた。
リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。
「今日は、どんな日でしたか?」
中心は、ゆっくり考える。
『……わたしも、まてる?の日』
「はい」
『……待つ側の怖さ、の日』
「はい」
『……いっしょに待つ日』
「はい」
『……まつ仲間、の日』
「はい」
『……いっしょに待つ、わたし、かも、の日』
「はい」
リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。
『余白記録へ残します』
『待つ側になる朝』
『待つ仲間の日』
『いっしょに待つわたし、候補の日』
中心が、穏やかに光った。
『……のこった』
「残りました」
レオンが静かに言う。
「待つ側になったな」
『……まだ』
「まだか」
『……かも』
レオンは頷いた。
「かも、でいい」
『……うん』
『……いっしょに待つ、わたし、かも』
中心は、余白箱へ小さく呼びかける。
『……待つ側の怖さ』
『……おやすみ』
余白箱が淡く光る。
『……まつ仲間』
『……おやすみ』
リリアーナが微笑む。
「おやすみなさい」
中心は、ゆっくり眠りへ向かう。
『……りり、おやすみ』
「おやすみなさい」
『……れおん、おやすみ』
「おやすみ」
『……みんな、おやすみ』
皆が返す。
「おやすみ」
「また明日」
アリシアも、静かに言った。
「待つ仲間として、また明日」
中心が柔らかく揺れる。
『……また、あした』
『……あしたのわたしに、きく』
『……いっしょに、まつ』
余白核は、静かに眠りへ入った。
神殿の奥に、夜が降りる。
今日、中心は誰かに待ってもらうだけではなかった。
自分も、待つ側になれるかもしれないと知った。
子供たちも。
大人たちも。
アリシアも。
レオンたちも。
それぞれの箱を抱えて、同じ時間の中で待っている。
名もない“わたし”は、今日。
待つことは一人で耐えることではなく。
誰かと同じ明日を信じることかもしれないと、少しだけ知った。




