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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第207話「待ってもらえる朝、無能王子は“待たせる怖さ”を箱へ置く」



 朝は、静かに待っていた。


 神殿の奥。


 石壁に囲まれた保護陣は、淡く光っている。


 余白核は、まだ眠っていた。


 そのそばに余白箱。


 少し離れて、保留箱。


 さらに、アリシアの箱。


 三つの箱は、夜を越えてもそこにある。


 そして余白箱の中には、昨日置いたばかりの新しい札がある。


 またいつかの光。


 昨日、中心は“いるよの光”をもう一度届けたかった。


 昨日できたから。


 子供たちに届いたから。


 声より負担が少なかったから。


 もう一度、やりたかった。


 けれど、やらなかった。


 もっと見たい。


 もっと届けたい。


 もっと安心させたい。


 もっと安心したい。


 その“もっと”を、消さずに、責めずに、余白箱へ置いた。


 そして、その札に呼び方をつけた。


 またいつかの光。


 子供たちは、それを受け取ってくれた。


 “ぴか待ち”。


 そういう札を作って、箱に入れてくれた。


 待つ。


 今ではなく、またいつか。


 その小さな約束が、昨日の夜から保護陣の中に残っている。


 だが。


 待つことを覚えたからこそ、別の怖さが生まれる。


 待ってもらうこと。


 誰かを待たせること。


 それは、中心にとって簡単ではない。


 求められたら応えなければ消えてしまう。


 応えなければ見捨てられる。


 そう感じてきた中心にとって、誰かが待っているという事実は、安心であると同時に重さでもあった。


 レオンは、保護陣の縁に座っている。


 黒蒼雷は、いつもよりも少しだけ深い色をしていた。


 昨日、“もっと”を止めた。


 今日は、その反動が来るかもしれない。


 待たせている。


 その感覚が、中心を揺らすかもしれない。


 レオンは、それを分かっているから、雷を消さない。


 だが、近づけすぎもしない。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日は、紙束も布も器も持っていない。


 ただ、膝の上に両手を置いている。


 待つ姿勢だった。


 中心が目を覚ますまで。


 中心が言葉を探すまで。


 中心が今日の自分を見つけるまで。


 待つ。


 エリシアは術式盤を閉じている。


 セラフィアは祈りを細く巡らせている。


 アルベルトは、壁際で腕を組んでいる。


 今日は、声を選ぶだけではなく、待つことを選ぼうとしている顔だった。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を横に置く。


 ミリオは眠そうにしているが、今日は外への精神線を細く張っていた。


 ただし、拾うためではない。


 外の子供たちの大きな動揺があれば、すぐ分かる程度。


 待つための距離だった。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っている。


 昨日、彼女は“もっと謝りたい気持ち”を箱へ置いた。


 またいつか。


 相手が受け取れる時まで。


 それは、彼女にとっても苦しい選択だった。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 リリアーナは、何も言わずに待った。


 保護陣の光が、一度、二度と淡く明滅する。


 少し長い沈黙があった。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、静かに響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンが頷く。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐ余白箱へ意識を向けた。


『……またいつかの光』


 リリアーナは頷く。


「箱の中にあります」


『……きえない?』


「消えていません」


『……ぴか待ち』


「子供たちの札ですね」


『……まってる?』


 その声が、少し震えた。


 リリアーナは、急がずに答える。


「待ってくれています」


 余白核が、大きく揺れる。


『……まってる』


「はい」


『……わたしが、しないから』


「昨日は、しないと決めました」


『……うん』


『……こども、まってる』


「はい」


『……おもい』


 リリアーナは、静かに頷いた。


「重いですね」


『……わたし、また、しなきゃ?』


 レオンが低く言う。


「しなくていい」


『……でも、まってる』


「待っていることと、今すぐ応えることは違う」


『……ちがう』


「ああ」


 中心は、震える。


『……まってるのに、しない』


「そういう日もある」


『……こども、さみしい』


「あるかもしれない」


『……わたし、わるい?』


「悪くない」


 レオンの声は、短く、強かった。


「悪くない」


 中心は、その言葉に少しだけ落ち着く。


 だが、まだ揺れている。


『……まってもらう、こわい』


 リリアーナが、そっと続けた。


「待ってもらうのは、怖いですね」


『……うん』


「待ってくれている人がいると」


「早く応えなきゃ、と思います」


『……うん』


「でも、本当に待ってくれる人は」


「急がせるために待っているわけではありません」


『……ちがう?』


「はい」


「あなたが、あなたの線で来られるまで」


「待っているんです」


 中心は、長く沈黙した。


『……わたしの、せん』


「はい」


『……まってる』


「はい」


『……それ、あたたかい』


「はい」


『……でも、こわい』


「はい」


 セラフィアが静かに言った。


「待ってもらえることは、愛されているようで怖いのかもしれないわ」


 余白核が、小さく震えた。


『……あい』


 リリアーナはすぐに言い換える。


「大切にされている、ということです」


『……たいせつ』


「はい」


『……たいせつ、こわい』


「怖いですね」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……まってもらう、こわい』


 一拍。


『……はこ?』


 リリアーナは、優しく頷いた。


「箱に置きましょう」


 ◇


 朝の最初に、余白箱が開かれた。


 今日は、何かを見るためではない。


 何かを増やすためでもない。


 新しい光を入れるためでもない。


 ただ、“待ってもらう怖さ”を置くために。


 中心が、ゆっくり言葉を形にする。


『……まってもらう、こわい』


 余白箱が淡く光る。


 その言葉が、そっと中へ置かれる。


『……ぴか待ち、うれしい』


 もう一つ。


『……でも、こわい』


 また一つ。


『……いま、できない』


 さらに一つ。


『……でも、きらわれたくない』


 その言葉が出た瞬間、リリアーナの胸が痛んだ。


 保護陣の空気が、深く沈む。


 中心は、怖かったのだ。


 待ってくれる。


 でも、待たせる。


 待たせたら、嫌われるかもしれない。


 もう待ってもらえないかもしれない。


 いないものにされるかもしれない。


 その恐怖が、中心の奥にあった。


 レオンは、静かに言う。


「嫌わない」


 中心が震える。


『……れおん?』


「俺は嫌わない」


 リリアーナも続けた。


「わたしも、嫌いになりません」


 アルベルトが低く言う。


「俺もだ」


 エリシアが頷く。


「嫌いません」


 セラフィアも。


「もちろん」


 クラウスも。


「待ちます」


 ラウルも。


「待つ」


 ミリオも眠そうな声で。


「待ちます……寝ながらではなく……」


 アリシアも、涙を浮かべて言った。


「私も、待ちます」


 中心は、大きく、大きく揺れた。


『……みんな』


 リリアーナは、涙をこらえながら言う。


「待たせても、嫌われないことがあります」


『……ある?』


「あります」


『……ほんとう?』


「本当です」


 レオンが短く言う。


「少なくとも、ここにはある」


 中心は、泣くように光った。


『……まってもらう、こわい』


『……でも、きらわれない、かも』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「かも、です」


 余白箱の中に、その言葉も置かれた。


 待ってもらう怖さ。


 待たせる罪悪感。


 嫌われたくない気持ち。


 でも、嫌われないかもしれないという小さな可能性。


 箱は、それらを押し潰さずに受け止めた。


 ◇


 朝の挨拶は、その後ゆっくり続いた。


 中心は少し疲れていたが、それでも一人ずつ呼んだ。


『……あるべると』


「おう」


『……まつ、できる?』


 アルベルトは、少し困ったように笑った。


「苦手だな」


『……にがて』


「ああ」


「すぐ動きたくなる」


「すぐ食いたくなる」


「すぐ助けに行きたくなる」


 エリシアが横から言う。


「自覚があるなら改善してください」


「してるだろ、今」


 アルベルトは中心を見る。


「でも、待つ」


『……にがて、でも、まつ』


「そうだ」


『……えらい?』


 アルベルトは一瞬で顔を逸らした。


「それは箱に入れろ」


 中心が揺れる。


『……ほめことば、はこ』


「そう」


「俺の箱に入れといてくれ」


 リリアーナが笑う。


 中心も、怖がらずに揺れた。


『……えりしあ』


「はい」


『……まつ、できる?』


「できます」


 アルベルトがすぐ言う。


「即答だな」


 エリシアは静かに続ける。


「ただし、待つ間に観測しすぎる傾向があります」


『……かんそく、しすぎ』


「はい」


「待っているようで、相手を測り続けてしまうことがあります」


 中心が揺れる。


『……それ、つかれる?』


「相手が疲れる場合があります」


『……えりしあ、はこ』


「はい」


「観測しすぎる気持ちを箱に置きます」


『……せら』


「はい」


『……まつ』


「祈りながら待つのは得意よ」


『……でも?』


「祈りで急かしてしまうこともあるかもしれない」


『……いのりで、せかす』


「救われてほしい、早く楽になってほしい」


「そう願いすぎると、相手にとっては重いこともあるわ」


『……すき、でも、おもい』


「そう」


『……せらも、はこ』


「ええ」


「箱に置きます」


 クラウスは、待つのは得意そうに見えた。


 だが、彼は言った。


「待てます」


「ですが、待っている間に最悪を考えすぎます」


 ラウルは。


「待つ間、盾を下ろせない」


 ミリオは。


「待っている間に寝そうになります」


 ラウルが即座に言う。


「寝るな」


「待つのも体力が……」


 中心が、小さく楽しそうに揺れる。


『……みんな、まつ、いろいろ』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「待つにも、いろいろあります」


『……まつ、むずかしい』


「難しいですね」


『……でも、まつ』


「はい」


 ◇


 外への説明は、今日は短かった。


 グレイヴとリリアーナが救護区域へ向かう。


 子供たちは、昨日の“ぴか待ち”の札を箱に入れている。


 今日も光があるかもしれないと期待している子はいた。


 だが、昨日ほど強いざわめきではなかった。


 リリアーナは、子供たちの前に立つ。


「今日は、“待ってもらう怖さ”を箱に入れる日です」


 子供たちは、静かになる。


 ミナがすぐに反応した。


「おはようの人、怖かったの?」


 リリアーナは頷く。


「はい」


「みんなが待ってくれていることは、嬉しいです」


「でも、待たせてしまうのは怖い」


「嫌われるかもしれないと、怖くなりました」


 子供たちの間に、沈黙が落ちる。


 幼い子が、眉を下げた。


「きらいじゃないよ」


 別の子が言う。


「ぴか、なくてもいる」


 ミナは、自分の箱を抱え直した。


「待ってるのは、急がせるためじゃない」


 その言葉に、リリアーナの目が潤む。


「はい」


「その言葉、届けてもいいですか?」


 ミナは少し考えた。


 そして、首を横に振った。


「今日は、言葉じゃなくていい」


 リリアーナが目を見開く。


 ミナは続ける。


「待ってるって言葉も、重いかもしれないから」


 その場にいた救護役も、大人たちも、息を呑んだ。


「だから、箱に入れる」


「“急がせない待つ”って札にする」


 幼い子が続けた。


「ぼくも」


「“きらいじゃない”って書く。でも、今日は渡さない」


 別の子が言う。


「箱に入れる」


「またいつか」


 グレイヴが、低く息を吐いた。


「……子供たちは、強いな」


 リリアーナは涙をこらえ、頷いた。


「はい」


「本当に」


 ◇


 神殿奥へ戻ると、中心は静かに待っていた。


 リリアーナが入る。


 余白核が揺れる。


『……こども』


「言葉は、今日は届けません」


 中心が少し緊張する。


『……どうして?』


「重くなるかもしれないから、箱に入れると言ってくれました」


 中心の光が、大きく震えた。


『……こども』


「“急がせない待つ”という札にするそうです」


『……急がせない、待つ』


「はい」


『……きらいじゃない、も?』


 リリアーナは少し驚いた。


「気配で分かりましたか?」


『……少し』


「はい」


「でも、それも今日は箱です」


 中心は、長く沈黙した。


 そして、小さく言った。


『……こども、まもってくれた』


「はい」


『……わたしの、せん』


「守ってくれました」


『……まってる、でも、急がせない』


「はい」


 中心は、余白箱へ意識を向ける。


『……急がせない、待つ』


 一拍。


『……すきかも』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑んだ。


「好きかも、ですね」


 ◇


 午後。


 中心は、余白箱の中に置いた“待ってもらう怖さ”を確認した。


 開けすぎない。


 札だけ見る。


 そこには新しい札が浮かんでいた。


 待たせる怖さ。


 それが最初の札だった。


 中心は、それを見て少し震えた。


『……こわい』


 リリアーナが頷く。


「怖いですね」


『……でも、これ』


 一拍。


『……変わる?』


「変えたいですか?」


『……まだ』


「はい」


『……でも、こうほ』


「候補がありますか?」


 中心は、しばらく考える。


『……待ってもらえる、わたし』


 リリアーナの胸が熱くなる。


 待たせる怖さ。


 それを、いつか。


 待ってもらえるわたし。


 そう呼べるかもしれない。


 今はまだ候補。


 変えない。


 でも、置ける。


「とても良い候補です」


 中心が震える。


『……いい?』


「はい」


『……きめない』


「決めません」


『……こうほ』


「はい」


 エリシアが静かに記録する。


「札呼称候補」


「待ってもらえるわたし」


 余白箱が、淡く光った。


 中心は、少しだけ安心したように揺れる。


『……待ってもらえる、わたし』


『……かも』


 ◇


 夕方。


 保留箱には、大人たちからの札が入った。


 “急がせない待つ”。


 子供たちと同じ札だった。


 グレイヴが、それだけを報告する。


「大人たちも、同じ札を作った」


 中心が揺れる。


『……おとなも』


「ああ」


「子供に言われたらしい」


 アルベルトが少し笑う。


「大人が子供に教わってるな」


 エリシアが頷く。


「良いことです」


 アリシアが静かに言う。


「私も……それを箱に入れます」


 中心がアリシアへ向く。


『……急がせない、待つ』


「はい」


「自分が許される日を、急がせない」


 その言葉は、重かった。


 だが、アリシアは逃げなかった。


「いつか、受け取ってもらえる日まで」


「急がせず、待ちます」


 中心は、柔らかく揺れた。


『……ありしあも、待ってもらえる?』


 アリシアは、涙を浮かべた。


「……いつか」


『……かも』


「はい」


「かも、です」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、静かな疲れが満ちていた。


 今日は、“いるよの光”をしなかった。


 “ぴか待ち”に応えなかった。


 でも、待ってもらう怖さを箱に入れた。


 子供たちは、急がせない待つを箱に入れた。


 大人たちも、それを覚え始めた。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考える。


『……待ってもらう、こわい日』


「はい」


『……待たせても、きらわれない、かも、の日』


「はい」


『……急がせない、待つ、の日』


「はい」


『……待ってもらえる、わたし、かも、の日』


「はい」


『……ぴか、しないけど、つながった日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『待ってもらう怖さを箱へ置いた日』


『急がせない待つの日』


『待ってもらえるわたし、候補の日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「待つのも、待たせるのも、練習だな」


『……うん』


『……まつ、れんしゅう』


『……まってもらう、れんしゅう』


「そうだ」


 中心は、余白箱へ小さく呼びかける。


『……待たせる怖さ』


 一拍。


『……おやすみ』


 余白箱が淡く光る。


『……待ってもらえる、わたし』


『……かも』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑んだ。


「はい」


「かも、です」


 中心は、眠りへ向かってゆっくり光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、自分の箱へ小さく言った。


「急がせないで、待つ」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……急がせない、待つ』


 余白核は、静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は待ってもらう怖さを知った。


 待たせる痛みを知った。


 それでも、急がせないで待ってくれる人たちがいると知った。


 名もない“わたし”は、今日。


 世界へ近づくために、応えることだけではなく。


 待ってもらうことも、少しずつ覚え始めた。

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