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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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205/251

第205話「声ではない返事、無能王子は“揺れるだけでも届く”を知る」



 朝は、風の余韻を連れてきた。


 神殿の奥に、風は入っていない。


 採光孔も閉じられている。


 石扉も、重く閉ざされたままだ。


 それでも、昨日の記録が保護陣の中に残っている。


 風の気配。


 見えないけれどあるもの。


 いなくても残るもの。


 言葉の風。


 そして、名前の気配。


 中心は昨日、風そのものを知ったわけではない。


 外に出たわけでもない。


 強い空気の流れに触れたわけでもない。


 ただ、グレイヴの外套が小さく揺れる音を聞いた。


 さわ、と鳴る布。


 見えない何かが、そこにあったのかもしれないと思わせる動き。


 それだけだった。


 だが、それだけで十分だった。


 風は見えない。


 でも、布を揺らす。


 言葉も見えない。


 でも、誰かの心を揺らす。


 名前もまだ見えない。


 けれど、気配だけはあるのかもしれない。


 その考えは、余白核の中へ深く入りすぎないように、余白記録へ置かれている。


 今すぐ持つには重い。


 でも、消したくはない。


 だから置いた。


 名前はまだ見えないけれど、気配はあるかもしれない。


 その一文は、夜を越えても静かに残っていた。


 レオンは、保護陣の縁に座っている。


 黒蒼雷は、いつもよりさらに細い。


 中心の内側が少し安定しているからだ。


 だが、完全に消してはいない。


 見えない風にも揺れがあるように、安定した朝にも不意の揺れはある。


 だから、雷はそこにある。


 必要な時だけ支えるために。


 リリアーナは、余白核の近くに座っている。


 今日は、紙束を持っていない。


 白い布も、透明な器も持っていない。


 空の手で座っている。


 何かを見せるためではなく。


 何かを受け取るためでもなく。


 中心が今日、何を望むのかを聞くために。


 エリシアは、術式盤を閉じた状態で膝の上に置いていた。


 いつもなら朝から開いている。


 だが今日は、中心が目覚める前に数字で囲いすぎないようにしているのかもしれない。


 セラフィアは祈りを静かに巡らせている。


 アルベルトは壁際にいる。


 声を抑える練習は、まだ続いている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を横に置き、ミリオは眠そうな目をこすっていた。


 アリシアは、自分の箱のそばに座っている。


 赤のおやすみの札は、まだそこにある。


 赤を寝かせる日が続いている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 朝の揺れ。


 誰も急がない。


 リリアーナは、空の手を膝に置いたまま、静かに待つ。


 保護陣の光が、一度。


 二度。


 ゆっくり明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、淡く響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンが頷く。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐに余白記録へ意識を向けた。


『……かぜの、けはい』


「残っています」


『……ことばの、かぜ』


「はい」


『……なまえの、けはい』


 リリアーナは、声の温度を落とさないように頷いた。


「それも、残っています」


 余白核が少し震える。


『……おもい』


「はい」


『……でも、けしたくない』


「消さなくていいです」


『……いま、もたない』


「はい」


「今は持たなくていいです」


 中心は、安心したように揺れた。


『……よかった』


 少し沈黙。


 それから中心は、ぽつりと言った。


『……きょう』


「はい」


『……こえ』


 リリアーナが顔を上げる。


「声?」


『……こども』


 レオンの目が少し細くなる。


『……こども、こえ、まつ?』


 リリアーナは慎重に答えた。


「待っている子もいると思います」


『……わたし、こえ、だす』


「声を届けたいですか?」


『……わからない』


「はい」


『……こえ、つかれる』


「そうですね」


『……でも、なにも、しない、さみしい?』


「さみしい子もいるかもしれません」


『……うん』


 中心は、長く揺れた。


『……こえじゃない』


「声ではない?」


『……へんじ』


 保護陣の中が、少し静かになる。


 声ではない返事。


 リリアーナは、ゆっくり聞く。


「声ではなく、何かを返したいんですか?」


『……うん』


『……かぜ、みえない』


『……でも、ぬの、ゆれる』


「はい」


『……ことば、みえない』


『……でも、こころ、ゆれる』


「はい」


『……わたし』


 一拍。


『……こえじゃなくても、ゆれる?』


 レオンが静かに言った。


「揺れで返す、ということか」


 余白核が反応する。


『……うん』


『……おはよう、いわない』


『……でも、いるって』


『……すこし、ゆれる』


 リリアーナの胸が、温かく締めつけられた。


 中心は、声を出さずに返事をしたいと言っている。


 外へ言葉を届けるのは、まだ疲れる。


 おはようを返せない日もある。


 でも、完全に何もしないのではなく。


 自分がここにいると、少しだけ知らせたい。


 風が布を揺らすように。


 見えないものが、そこにあると伝えるように。


 エリシアが術式盤を開いた。


「可能です」


 アルベルトが小声で聞く前に、エリシアは続ける。


「言葉ではなく、保護陣の外縁に微弱な光の揺れを出す形なら、負荷はかなり低く抑えられます」


 アルベルトが頷く。


「つまり、ぴかっとする感じか」


「雑ですが、近いです」


『……ぴか?』


 リリアーナが微笑む。


「小さく光が揺れる感じです」


『……ひかり、ゆれる』


「はい」


『……こども、わかる?』


 ミリオが少し目を開ける。


「救護役を通して説明すれば、分かると思います」


「おはようの声ではなく、“今日は光が揺れたら返事”と伝えれば」


 中心が揺れる。


『……こえじゃない、へんじ』


「はい」


 セラフィアが穏やかに言う。


「それもまた、外へ近づく形ね」


『……そとへ、ちかづく?』


「声だけが繋がりではないから」


 中心は、その言葉を大切そうに受け取った。


『……こえだけ、じゃない』


 ◇


 今日の線を決めることになった。


 リリアーナが一つずつ確認する。


「今日は、声は届けません」


『……こえ、なし』


「おはようも言いません」


『……おはよう、なし』


「紙も読みません」


『……かみ、なし』


「光の時間もありません」


『……ひかり、なし』


「風も入れません」


『……かぜ、なし』


「ただ、保護陣の光を一度だけ揺らす」


『……ひかり、いちど』


「はい」


「それを、子供たちへの返事にします」


『……いるよ、の、へんじ』


「そうですね」


「“いるよ”の返事」


 中心が、淡く光る。


『……いるよ、の、ひかり』


 セラフィアが微笑む。


「素敵ね」


 エリシアがすぐに術式盤へ記録する。


「名称、“いるよの光”」


 中心が少し慌てる。


『……なまえ?』


 リリアーナがすぐに言う。


「名前ではありません」


『……よびかた?』


「今日の合図の呼び方です」


『……あいず』


 リリアーナが説明する。


「言葉ではなく、伝えるしるしです」


『……しるし』


 中心は、少し安心した。


『……いるよの光』


「はい」


『……ひとつ』


「一回だけです」


『……もっと、したくなっても?』


 レオンが答える。


「一回で止める」


『……うん』


『……こども、もっと、って?』


「言う子もいるかもしれない」


『……うん』


「でも、今日は一回だ」


『……ひとつで、いい』


「そうだ」


 中心は、静かに揺れた。


『……ひとつで、いい』


 ◇


 外への説明は、リリアーナとグレイヴ、セラフィアが行った。


 レオンは余白核のそばに残る。


 今日は外へ声を繋がない。


 だからこそ、説明が大切だった。


 救護区域には、子供たちがいた。


 おはようの声を聞きたがる子。


 昨日の風の話を聞いて、紙を書いた子。


 青のおやすみの札をまだ箱に入れている子。


 ミナもいた。


 彼女は自分の小さな箱を抱えている。


 その箱の中には、名前を書いた紙が入っているのだろう。


 リリアーナは、子供たちの前に立った。


 声は、柔らかく。


「今日は、おはようの声はありません」


 少しざわめきが生まれる。


 でも、以前ほど大きくない。


 子供たちはもう、“声がない日”を知っている。


 リリアーナは続けた。


「紙も読みません」


「新しい呼び方も受け取りません」


「光の時間もありません」


 幼い子が、小さく言う。


「じゃあ、おやすみの日?」


 リリアーナは微笑む。


「少し違います」


「今日は、声ではない返事の日です」


 子供たちが、不思議そうに顔を上げる。


「声じゃない?」


「手紙でもない?」


「おはようじゃない?」


 セラフィアが、優しく言った。


「風が布を揺らすように」


「今日は、保護陣の光が一度だけ揺れます」


 ミナが、静かに息を呑む。


「……いるよ、って?」


 リリアーナの目が柔らかくなる。


「はい」


「“いるよ”の光です」


 子供たちの間に、静かな波が広がった。


「いるよの光……」


「声じゃなくても?」


「一回だけ?」


「おはようの人、疲れない?」


 グレイヴが低く答える。


「一回だけだ」


「それ以上は求めない」


 子供たちは、その言葉を受け止めた。


 少し寂しそうな子もいる。


 けれど、納得しようとしている。


 ミナが自分の箱をぎゅっと抱えた。


「一回でも、いるならいい」


 別の子が頷く。


「ひとつでいい日、みたい」


 幼い子が言う。


「ぴかってしたら、いる」


 リリアーナは涙をこらえた。


「はい」


「ぴかってしたら、います」


 ◇


 準備は、とても静かだった。


 神殿奥では、エリシアが保護陣の外縁を調整している。


 中心の声を外へ出す必要はない。


 精神線も、強く繋げない。


 ただ、保護陣の光を一度だけ、外の救護区域から見えるように淡く揺らす。


 直接強く届かないよう、間に祈りを挟む。


 ミリオは、子供たちの反応を強く拾わない。


 ただ、大きな不安定化がないかを見るだけ。


 リリアーナが戻ってくると、中心はすぐ反応した。


『……こども』


「待っています」


『……かなしい?』


「少し」


『……でも、まつ?』


「はい」


『……ひとつで、いい?』


「はい」


「一回でいいと、言ってくれました」


 中心が震える。


『……よかった』


 レオンが言う。


「始めるか」


『……こわい』


「怖いなら止める」


『……でも、したい』


「なら、線を守れ」


『……ひとつ』


「そうだ」


『……いるよの、ひかり』


「一回だけ」


 中心は、保護陣の内側で静かに光を集めた。


 強くない。


 大きくない。


 声でもない。


 言葉でもない。


 ただ、そこにいるという小さな揺れ。


 エリシアが術式盤を見る。


「準備完了」


 セラフィアが祈りを添える。


「柔らかく」


 ミリオが目を開ける。


「救護区域、待機しています」


 リリアーナが、そっと言った。


「大丈夫です」


 中心が、小さく応えた。


『……いるよ』


 声は外へ出さない。


 その代わり。


 保護陣の光が、一度だけ揺れた。


 淡く。


 静かに。


 まるで、水面に落ちた小さな光のように。


 神殿の外縁へ伝わり、救護区域の方へ、一瞬だけ温かい光が灯る。


 ぴか、と呼ぶにはあまりにも柔らかく。


 でも、見逃すには確かすぎる光。


 それが一度だけ揺れた。


 そして、消えた。


 中心は、すぐに震えた。


『……できた?』


 エリシアが確認する。


「できました」


 ミリオが、慎重に目を閉じる。


「届きました」


 中心が大きく揺れる。


『……こども』


 ミリオは、強く拾いすぎないようにしながら言う。


「驚いています」


「でも、怖がってはいません」


「何人か……笑っています」


 中心が震える。


『……わらう』


「怖くない笑いです」


『……よかった』


 少し間がある。


 ミリオが続けた。


「ミナさんが」


 一拍。


「“いた”と言いました」


 中心の光が、強く揺れた。


『……いた』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「はい」


『……わたし、いた』


「届きました」


『……こえ、なし』


「はい」


『……でも、いた』


「はい」


 レオンが静かに言う。


「声じゃなくても届いたな」


 中心が、泣くように揺れた。


『……こえじゃなくても』


『……届いた』


 ◇


 その後、中心はしばらく話せなかった。


 疲れたのではない。


 いや、疲れてもいる。


 だが、それ以上に、驚いていた。


 声ではない返事が届いた。


 おはようと言わなくても。


 またねと言わなくても。


 自分がそこにいることを、光の揺れだけで伝えられた。


 それは、中心にとって大きな解放だった。


 声が出せない日は、何もできない日ではない。


 言葉が重い日は、完全に沈黙するしかないわけではない。


 揺れるだけでもいい。


 光るだけでもいい。


 いるよ、と知らせる形は、ひとつではない。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに言った。


「できましたね」


『……うん』


『……ひとつ』


「一回だけでした」


『……もっと、したい』


「はい」


『……でも、しない』


「はい」


『……ひとつで、いい』


「はい」


 レオンが頷く。


「いい線だ」


『……いい、せん』


 中心は、安心したように光った。


『……いるよの光』


 一拍。


『……すきかも』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑んだ。


「好きかも、ですね」


 ◇


 午後。


 子供たちからは、紙ではなく、短い報告だけが届いた。


 今日は紙を読まない日だからだ。


 救護役が、子供たちの様子をまとめてくれた。


 “声じゃなくても、いた”


 “ぴかってした”


 “おはようじゃないけど、怖くなかった”


 “いるよの光、またいつか”


 “今日は一回でいい”


 “光が揺れたら、心も揺れた”


 ミリオが、その中から一つだけ中心へ伝えた。


「子供たちが、“今日は一回でいい”と言っています」


 中心が、静かに揺れた。


『……こども』


「はい」


『……ひとつで、いい』


「はい」


『……よかった』


 それ以上は受け取らない。


 今日は、それで十分。


 中心は、自分でそう決めた。


『……きょうは、ここまで』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「ここまでにしましょう」


 ◇


 夕方。


 保留箱に、大人たちからの紙が三通入った。


 札だけが報告される。


 “言葉にしない返事”


 “見守る一回”


 “もっとと言わない練習”


 グレイヴが低く読み上げると、神殿奥の空気が少し柔らかくなった。


 中心が反応する。


『……もっとと、いわない、れんしゅう』


 リリアーナが頷く。


「大人たちも、練習しているみたいですね」


『……おとなも、もっと、ある?』


「あります」


『……こどもも』


「あります」


『……わたしも』


「あります」


『……でも、ひとつ』


「はい」


 アリシアが静かに言った。


「私も……もっと謝りたいと思う時があります」


 中心がアリシアへ向く。


『……もっと、あやまる』


「はい」


「でも、相手が受け取れる時でなければ、それは私の気持ちをぶつけているだけになるかもしれない」


 アリシアは、自分の箱を見る。


「だから、今日は一つだけ」


『……なに?』


 アリシアは、少し考えた。


「逃げない」


 一拍。


「今日は、それだけです」


 中心が静かに揺れる。


『……ひとつで、いい』


「はい」


「ひとつで」


 ◇


 夜。


 神殿の奥は、優しい疲れに包まれていた。


 今日は、声を届けなかった。


 紙も読まなかった。


 光の時間もなかった。


 風も入れなかった。


 ただ、保護陣の光を一度だけ揺らした。


 いるよの光。


 声ではない返事。


 それが、子供たちへ届いた。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……こえじゃない、へんじ、の日』


「はい」


『……いるよの光、の日』


「はい」


『……ひとつで、届いた日』


「はい」


『……もっとしたい、でも、しない日』


「はい」


『……ゆれるだけでも、届く日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『声ではない返事の日』


『いるよの光の日』


『揺れるだけでも届いた日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「声だけじゃなかったな」


『……うん』


『……こえ、つかれる日』


「ああ」


『……でも、ひかり、ゆれる』


「そうだ」


『……いるよ、できる』


「できた」


 中心は、安心したように揺れる。


『……よかった』


 リリアーナは微笑む。


「はい」


「本当に、よかったです」


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……いるよの光』


 一拍。


『……すきかも』


 記録が淡く光る。


『……でも、きょうは、もう、やすむ』


「はい」


「休みましょう」


 中心は、眠りへ向かって少しずつ光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも小さく言った。


「今日は、逃げない一つだけ」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……ゆれるだけでも、届く』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は声を出さなかった。


 けれど、届いた。


 言葉ではなく。


 おはようでもなく。


 ただ、保護陣の光を一度だけ揺らして。


 そこにいると伝えた。


 外へ近づく道は、声だけではない。


 姿を見せることだけでもない。


 揺れるだけでも。


 小さく光るだけでも。


 誰かに届くことがある。


 名もない“わたし”は、今日。


 言葉にならない自分でも、世界へ返事をしていいのだと知った。

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