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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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203/251

第203話「青を寝かせる朝、無能王子は“増やさない色”を大切にする」



 朝は、青の余韻を残していた。


 神殿の奥に、空はない。


 高い天井も、開けた地平も、流れる雲も見えない。


 あるのは石壁。


 古い紋様の残る床。


 淡く浮かぶ名簿束。


 静かに流れる第五領域の水路。


 余白核。


 余白箱。


 保留箱。


 アリシアの箱。


 そして昨日、中心が知ったばかりの色。


 青。


 白い布に落とされた、薄く柔らかな青。


 本物の空ではない。


 外の景色でもない。


 ただ、光を濾過し、祈りを重ね、中心が受け止められるだけの強さにした青だった。


 けれど中心は、それを見た。


 青は静か。


 少し遠い。


 でも、怖くない。


 息ができる色。


 そして。


 青い肉はだめ。


 その記録まで、しっかり余白記録に残っている。


 アルベルトは、それを聞いた時、昨夜ずっと複雑な顔をしていた。


 リリアーナは思い出すたびに少し笑ってしまい、エリシアは咳払いをして記録から消そうか迷っていた。


 だが、中心はそれも大切そうにしていた。


 怖くない笑いが、青の記録に混ざったからだ。


 青は、怖くない。


 青は、息ができる。


 青は、笑える。


 それが中心に残った。


 レオンは保護陣の縁に座っている。


 黒蒼雷は、床を細く巡っていた。


 昨日よりさらに穏やかだ。


 今日は採光孔をすぐ開ける予定はない。


 光の時間も、青の提示も、朝一番には行わない。


 昨日知ったばかりの青を、すぐ次の色で上書きしないためだ。


 リリアーナは、余白核の近くに座っていた。


 今日は白い布も持っていない。


 紙束も置いていない。


 朝の最初に置くものは、新しい刺激ではなく。


 昨日の青が、夜を越えてどう残ったか。


 それを確認する時間だ。


 エリシアは術式盤を開いている。


 セラフィアは祈りを静かに巡らせていた。


 アルベルトは壁際で腕を組み、いつもよりさらに口を閉じている。


 クラウスは入口側に立ち、ラウルは盾を横に置いて座っている。


 ミリオは、少し眠そうにしているが、精神線を外へ伸ばしていない。


 アリシアは、自分の箱のそばで、静かに目を伏せていた。


 昨日、彼女は言った。


 いつか、本物の青を。


 赤い眼でも青は見える。


 その言葉は、彼女の中にも残っている。


 余白核が、小さく震えた。


『……』


 目覚めの揺れ。


 誰も急がない。


 リリアーナは、静かに待った。


 保護陣の光が、ゆっくり明滅する。


 やがて。


『……おはよう』


 中心の声が、柔らかく響いた。


 リリアーナは微笑む。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンが頷く。


「おはよう」


『……しずかなあさ』


「ああ」


「静かな朝だ」


 中心は、すぐに余白記録へ意識を向けた。


『……あお』


 リリアーナが頷く。


「残っています」


『……あお、きえてない』


「消えていません」


『……あお、すきかも』


「はい」


『……すきかも、きえてない』


「消えていません」


 中心が、少し安心したように揺れる。


『……よかった』


 少し沈黙。


 そして、中心はぽつりと言った。


『……ほかの、いろ』


 リリアーナの表情が、少しだけ引き締まる。


「他の色が気になりますか?」


『……うん』


『……あか』


 アリシアの肩が小さく揺れた。


『……きいろ』


 セラフィアが静かに目を伏せる。


『……しろ』


 リリアーナは、黙って聞く。


『……くろ』


 余白核が、少し震えた。


『……たくさん』


「はい」


『……しりたい』


「知りたいんですね」


『……うん』


『……でも』


 一拍。


『……こわい』


 レオンが言う。


「今日は増やさない」


 中心が揺れる。


『……ふやさない』


「ああ」


「昨日は青を知った」


『……うん』


「今日は青を置く」


『……おく?』


 リリアーナが優しく説明する。


「昨日知った青を、急いで次の色で隠さないということです」


『……かくさない』


「はい」


「青を、青のまま少し置いておく」


『……あおを、ねかせる?』


 リリアーナが少し驚いた。


 そして、微笑む。


「そうですね」


「青を寝かせる」


『……あお、ねる?』


「ゆっくり休ませて、あなたの中で落ち着かせる、という意味です」


 セラフィアが穏やかに頷く。


「良い言葉ね」


 中心は、その響きを気に入ったようだった。


『……あおを、ねかせる日』


 レオンが頷く。


「今日はそれでいい」


『……いろ、ふやさない』


「ああ」


『……あお、ひとつ』


「昨日の一つを大事にする」


 中心は、ゆっくり光った。


『……ひとつを、だいじ』


 ◇


 朝の挨拶は、青を抱えたまま進んだ。


『……あるべると、おはよう』


「おう、おはよう」


『……あおいにく、だめ』


 アルベルトが額を押さえた。


「朝一でそれか……」


 エリシアが横で肩を震わせる。


「記録されていますから」


「お前、消さなかったのか」


「中心が大切にしている記録を勝手に消すわけにはいきません」


『……あおいにく、こわくない、わらう』


 中心が言う。


 アルベルトは、少しだけ諦めたように笑った。


「まあ、怖くない笑いならいいか」


『……あるべると、えらぶこえ』


「選ぶ声、な」


『……きょう、えらぶ?』


「ああ」


「今日は小さくいく」


『……けさない』


「消さない」


『……えりしあ』


「おはようございます」


『……こころのはこ』


「あります」


『……あお、きろく』


「残っています」


『……あおいにくも?』


 エリシアは一瞬だけ目を閉じた。


「残っています」


 アルベルトが笑う。


「ほらな」


『……えりしあ、こまる?』


「少し」


『……こまる、でも、けさない』


「はい」


「消しません」


 中心は満足したように揺れた。


『……せら』


「おはよう」


『……あお、ねかせる』


「今日は、そうしましょう」


『……きらきら、しずか』


「青が眠れるように」


『……くらうす』


「おはようございます」


『……いろ、ふやさない』


「はい」


「今日は刃も色も増やしません」


 中心は少し不思議そうに揺れる。


『……はも、ふやさない』


 クラウスは淡々と頷く。


「増やすと危ないものもあります」


『……なるほど』


 アルベルトが小さく笑う。


「中心、納得したぞ」


 クラウスは表情を変えない。


『……らうる』


「おはよう」


『……いしぶた、きょう、あけない?』


「今は開けない」


『……あと?』


「今日のわたしに聞いてからだ」


 中心が嬉しそうに揺れる。


『……らうる、わかる』


 ラウルは、少しだけ目を細めた。


「覚えた」


『……みりお』


「おはようございます……」


『……ひるね、いろ?』


 ミリオは真面目に考える。


「昼寝の色……ですか」


 エリシアが小さく息を吐く。


「考えなくていいです」


 ミリオは眠そうに言った。


「たぶん、柔らかい灰色です……」


『……はいいろ』


 リリアーナが慌てて補足する。


「今日は増やしませんよ」


『……うん』


『……はいいろ、いつか』


 ミリオは満足そうに頷いた。


「いつか……」


 ラウルがぼそっと言う。


「寝るな」


「起きています……」


 中心は最後にアリシアへ向いた。


『……ありしあ』


「はい」


『……おはよう』


「おはようございます」


『……あか』


 アリシアの赤い眼が、小さく揺れた。


 中心はすぐに続ける。


『……きょう、みない』


 アリシアは、静かに頷いた。


「はい」


『……でも、ある』


「あります」


『……こわい?』


「少し」


『……あお、ねかせる日』


「はい」


「赤は、またいつか」


『……また、いつか』


 アリシアは、少しだけ笑った。


「はい」


「また、いつか」


 ◇


 朝の確認では、青の記録について慎重に確認された。


 エリシアが術式盤を見ながら言う。


「青に関する記録は安定しています」


「恐怖反応は低く、好意反応に近い揺れがあります」


 中心が反応する。


『……こうい』


 リリアーナが少し考えて説明する。


「好きかも、に近い気持ちです」


『……すきかも』


「はい」


 エリシアは続ける。


「ただし、色の概念そのものへの興味が広がり始めています」


「今日新しい色を追加すると、刺激が連鎖する可能性があります」


 アルベルトが首を傾げる。


「簡単に言うと?」


「もっともっと知りたくなって疲れる可能性があります」


『……もっともっと』


 中心が少し震える。


『……こわい』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「知りたい気持ちは大切です」


「でも、急ぐと疲れます」


『……しりたい、でも、つかれる』


「そうです」


 セラフィアが静かに言う。


「今日は、青を寝かせる日」


『……あおを、ねかせる』


「ええ」


「昨日知った色を、今日のあなたの中に落ち着かせる日」


『……おちつく』


「はい」


 中心は、穏やかに揺れた。


『……あお、おやすみ?』


 リリアーナが微笑む。


「そうですね」


「青にも、おやすみを言う日かもしれません」


『……あお、おやすみ』


 その響きに、中心は安心したようだった。


 ◇


 午前。


 子供たちからの紙は届いていた。


 だが、今日は読まないことになった。


 中心が自分で決めた。


『……きょう、かみ、よまない』


 リリアーナは頷く。


「はい」


『……あお、ねかせる』


「そうですね」


『……こども、かなしい?』


「少し寂しい子もいるかもしれません」


『……うん』


「でも、伝えます」


『……なんて?』


「今日は、青を寝かせる日です」


『……あおを、ねかせる日』


「はい」


『……こども、わかる?』


 レオンが言う。


「分からなくてもいい」


 中心が揺れる。


『……いい?』


「ああ」


「全部すぐ分かってもらう必要はない」


『……ぜんぶ、すぐ、わからない』


「そうだ」


 リリアーナも続ける。


「でも、子供たちはきっと、自分たちなりに受け取ってくれます」


『……こども、すごい』


「はい」


「すごいです」


 グレイヴが外へ伝えに向かった。


 今日は、子供たちを神殿入口へ近づけない。


 声も繋がない。


 紙も読まない。


 ただ、伝言だけ。


 “今日は青を寝かせる日”


 それだけ。


 しばらくして、グレイヴが戻ってきた。


 彼の表情は少しだけ柔らかい。


「子供たちは、受け取った」


 中心がすぐ反応する。


『……こども』


「ああ」


「最初は不思議そうにしていた」


「だが、ミナがこう言った」


 グレイヴは、少しだけ間を置いた。


「“名前を書いた紙も、すぐ好きにならなかった。箱で寝かせた。青もそれと同じかも”」


 余白核が、大きく揺れた。


『……みな』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「ミナさん……」


『……なまえも、ねかせた』


「はい」


『……あおも、ねかせる』


「はい」


『……すごい』


 グレイヴは続ける。


「それで、子供たちは今日の箱の札を一つ決めたらしい」


『……ふだ』


「“青のおやすみ”」


 中心が静かに震えた。


『……あおの、おやすみ』


 リリアーナが微笑む。


「いい札ですね」


『……いい』


 中心は、余白記録へ意識を向ける。


『……のこす?』


 リーネの光が揺れた。


『記録します』


『青のおやすみ』


 中心は、安心したように光った。


 ◇


 昼。


 光の時間を行うかどうか、リリアーナは確認した。


「今日は、光も見ないでおきますか?」


 中心は、少し考えた。


『……ひかり、みたい』


「はい」


『……でも、あお、ねかせる』


「はい」


『……ひかり、みたら、あお、また、みたい』


「そうかもしれません」


『……だから』


 一拍。


『……きょう、ひかりも、やすむ』


 レオンが頷く。


「いい判断だ」


『……いい?』


「ああ」


「増やさないだけじゃない」


「呼び起こしすぎないのも大事だ」


『……よびおこす』


 リリアーナが説明する。


「眠っているものを、起こすことです」


『……あお、ねてる』


「はい」


『……だから、ひかり、やすむ』


「はい」


 中心は、少し寂しそうに揺れた。


『……みたい、でも、やすむ』


 セラフィアが微笑む。


「とても大切な休み方ね」


『……やすみかた』


「ええ」


「好きかもしれないものを、大切にするために休ませる」


『……すきかも、やすませる』


 中心は、その言葉を大切そうに繰り返した。


『……すきかも、やすませる』


 ◇


 午後は、静かだった。


 紙も読まない。


 光も見ない。


 札も増やさない。


 呼び方も増やさない。


 青を寝かせる。


 ただ、それだけの日。


 だが、何もしない日ではない。


 中心は、時々余白記録へ意識を向けた。


『……あお』


 リリアーナが答える。


「あります」


『……あお、すきかも』


「はい」


『……あお、おやすみ』


「はい」


『……ねてる』


「寝かせています」


『……きえない?』


「消えません」


『……よかった』


 そのやり取りを、何度か繰り返した。


 同じ確認。


 同じ答え。


 けれど、それでよかった。


 中心は、まだ覚えている途中なのだ。


 好きかもしれないものを休ませても、消えない。


 見ない日があっても、なくならない。


 それを身体のない中心が知るには、何度も確認が必要だった。


 アリシアも、自分の箱を見つめながら言った。


「私も……今日は赤を寝かせます」


 中心が反応する。


『……あかを、ねかせる』


「はい」


「見ない」


「考えすぎない」


「でも、消さない」


『……ありしあの、あか』


「はい」


『……おやすみ』


 アリシアは、少しだけ微笑んだ。


「赤のおやすみ、ですね」


 セラフィアが穏やかに頷く。


「それも良い札ね」


 アリシアは、少し迷ってから、自分の箱のそばに小さな札を置いた。


 赤のおやすみ。


 まだ、赤い眼を好きとは言えない。


 許したわけでもない。


 でも、今日は責めすぎない。


 赤を寝かせる。


 それだけ。


 中心は、静かに揺れた。


『……ありしあも、ねかせる』


「はい」


『……いっしょ』


「はい」


「一緒です」


 ◇


 夕方。


 大人たちの保留箱にも、新しい札が一枚入った。


 “急がない色”


 グレイヴが、それだけを報告した。


 リリアーナが少し驚く。


「大人たちからですか?」


「ああ」


 グレイヴは頷く。


「中心が青を寝かせると聞いた親の一人が、自分も子供にいろいろなことを急がせすぎていたと書いたらしい」


 中心が揺れる。


『……いろいろ、いそがせる』


「はい」


 リリアーナが説明する。


「早く元気になってほしい」


「早く笑ってほしい」


「早く怖くなくなってほしい」


「そう思う気持ちです」


『……おとな、こども、すき?』


「はい」


「好きだからこそ、急がせてしまうこともあります」


『……すき、でも、いそがせる』


「あります」


『……こわい』


「はい」


 レオンが低く言う。


「だから箱に置く」


『……ぶつけない』


「ああ」


『……急がない色』


 中心は、その札を繰り返した。


『……おとなも、ねかせる?』


 グレイヴが頷く。


「そうだな」


「少しずつ、覚えている」


 中心は、安心したように光った。


『……みんな、れんしゅう』


「そうだ」


『……わたしも』


「そうだ」


 ◇


 夜。


 神殿の奥には、穏やかな静けさがあった。


 今日は、何かを見た日ではない。


 何かを読んだ日でもない。


 新しい色を知った日でもない。


 ただ、昨日知った青を寝かせた日だった。


 紙を読まなかった。


 光も見なかった。


 色も増やさなかった。


 それでも、青は消えなかった。


 好きかもは、消えなかった。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに問いかける。


「今日は、どんな日でしたか?」


 中心は、ゆっくり考えた。


『……あおを、ねかせる日』


「はい」


『……あおの、おやすみの日』


「はい」


『……ひかりも、やすむ日』


「はい」


『……すきかも、やすませる日』


「はい」


『……きえない、しる日』


「はい」


 リーネの光が、名簿束のそばで揺れる。


『余白記録へ残します』


『青を寝かせる日』


『青のおやすみの日』


『好きかもを休ませても消えない日』


 中心が、穏やかに光った。


『……のこった』


「残りました」


 レオンが静かに言う。


「今日は進まなかったようで、進んだな」


 中心が揺れる。


『……すすんだ?』


「ああ」


「増やさずに守った」


『……まもった』


「そうだ」


『……あお、まもった』


「そうだな」


 中心は、少し嬉しそうに光った。


『……あお、まもった』


 リリアーナは微笑む。


「はい」


「青を大切にできました」


『……たいせつ』


「はい」


 中心は、眠りへ向かってゆっくり光を弱めていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 アリシアも、自分の箱へ小さく言った。


「赤のおやすみ」


 中心が柔らかく揺れる。


『……また、あした』


『……あしたのわたしに、きく』


『……あお、おやすみ』


 余白核は、静かに眠りへ入っていった。


 神殿の奥に、夜が降りる。


 今日、中心は新しい色を知らなかった。


 光も見なかった。


 誰かの紙も読まなかった。


 ただ、青を寝かせた。


 好きかもしれないものを、急いで増やさず、急いで確かめ直さず、休ませた。


 それでも、青は消えなかった。


 好きかもは、消えなかった。


 名もない“わたし”は、今日。


 大切なものを大切にするためには、見ない日も必要なのだと知った。

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