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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第187話「期待される怖さ、無能王子は“残りたい願い”に境界を作る」


 朝は、静かに来た。


 神殿の奥には、まだ外の光は届かない。


 石壁は冷たく、床には古い紋様の跡が残っている。


 黒い王冠の気配はもうない。


 外殻の怒りもない。


 だが、深部から持ち帰ったものは、ここにある。


 名簿束。


 第五領域の水路。


 そして、保護陣の中央に浮かぶ余白核。


 淡い光の繭の中で、中心は静かに眠っていた。


 昨日。


 中心は子供たちへ、おはようを届けた。


 怖いまま。


 嬉しいまま。


 もっと残りたいと願いながら。


 それでも、自分が壊れないように、子供たちを壊さないように、短い言葉だけを届けた。


 おきた、よかった。


 また、おはよう。


 またね。


 その声は、子供たちの中に残った。


 そして、そのことが中心を嬉しくさせた。


 同時に、怖くさせた。


 嬉しいほど、もっと欲しくなる。


 もっと会いたくなる。


 もっと残りたくなる。


 けれど、残りたいと思えば思うほど、消えることが怖くなる。


 会いたいと思えば思うほど、会って壊すことが怖くなる。


 その揺れを抱えたまま、余白核は夜を越えた。


 そして今。


 保護陣が、ゆっくりと明滅する。


『……おはよう』


 小さな声が、朝の静けさをほどいた。


 リリアーナは、すぐに顔を上げた。


 眠っていたわけではない。


 うつらうつらしていただけだ。


 喉はまだ完全ではないが、昨日よりはずっと楽になっている。


 彼女は優しく微笑んだ。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


「リリです」


『……れおん』


 レオンは保護陣の縁で腕を組んでいた。


 座ってはいるが、眠った様子は薄い。


 中心はすぐに反応する。


『……れおん、ねてない』


「少し寝た」


『……すこし、だめ』


 リリアーナが小さく笑った。


「言われていますよ」


 レオンは、少しだけ目を細める。


「覚えがいいな」


『……おぼえた』


「悪いことまで覚える」


『……わるい?』


「いや」


 一拍。


「悪くない」


 中心は、その言葉を安心するように受け取った。


『……わるくない』


 アルベルトが壁際で欠伸をしながら言う。


「朝から説教されてやんの」


 中心が、そちらへ反応する。


『……あるべると、おはよう』


「おう、おはよう」


『……おおきい、きょうは、すこし、しずか』


「成長したからな」


 エリシアが術式盤を起動しながら言う。


「昨日、子供たちの前で少しは学んだようです」


「お前の中の俺、雑すぎない?」


「事実です」


『……じじつ』


 中心が真似るように震える。


 アルベルトは肩を落とした。


「また覚えた……」


 リリアーナが笑う。


 その笑いに、中心も小さく揺れた。


『……わらう』


「はい」


「怖くない笑うです」


『……こわくない』


 朝の空気が少し柔らかくなる。


 けれど、その柔らかさの中に、今日は別のものも混じっていた。


 保護陣の外側。


 神殿入口へ続く通路。


 そこから、遠いざわめきが聞こえていた。


 兵士の声。


 救護役の声。


 そして、子供たちの声。


 昨日より多い。


 まだ近づいてはいない。


 グレイヴが線を引いている。


 だが、確かに増えている。


 中心も、それに気づいた。


『……こども』


 リリアーナの表情が少し引き締まる。


「聞こえますか」


『……うん』


『……たくさん』


 エリシアが術式盤を見る。


「救護区域側からの接近希望が増えています」


 アルベルトが眉を寄せた。


「また増えたのか?」


「はい」


「昨日の六人に加えて、話を聞いた子供たちが数名」


「全員が会いたいわけではありませんが、“おはようを聞きたい”という反応は増えています」


 中心が強く震えた。


『……おはよう、ききたい』


 リリアーナは、すぐに声を落ち着かせる。


「そうみたいです」


『……わたし?』


「はい」


『……わたしの、おはよう』


「あなたのおはようです」


 余白核の光が、ほんの少し強くなった。


 嬉しい。


 けれど、その直後に揺れる。


 怖い。


『……うれしい』


『……でも』


 沈黙。


『……こわい』


 レオンが頷く。


「そうだろうな」


『……いっぱい』


「ああ」


「増えている」


『……わたし、できる?』


 リリアーナは、すぐには答えなかった。


 できると言えば、中心は無理をするかもしれない。


 できないと言えば、怖さが強くなるかもしれない。


 だから、言葉を選ぶ。


「全部は、できません」


 中心が揺れる。


『……ぜんぶ、できない』


「はい」


「でも、少しならできます」


『……すこし』


「昨日と同じです」


「一度に全部ではなく」


「少しずつ」


 中心は、その言葉を何度も繰り返した。


『……ぜんぶ、できない』


『……すこし、できる』


『……すこしずつ』


 セラフィアが静かに頷く。


「大切な確認ね」


「今日は、境界を作りましょう」


『……きょうかい』


 リリアーナが説明する。


「ここまでなら大丈夫」


「ここから先は休む」


「そういう線のことです」


『……せん』


 レオンが言う。


「守るための線だ」


『……まもるため』


「ああ」


「お前も、子供たちも」


 中心は、しばらく沈黙した。


 そして、小さく言った。


『……せん、いる』


 ◇


 午前。


 保護陣の中で、会うための線が決められた。


 今日、直接の面会はしない。


 まずは、おはようの響きを短く届けるだけ。


 その後、余白核の反応を見る。


 余裕があれば、子供たちからの一言だけを受け取る。


 それ以上はしない。


 名前を呼ぶことも、長いやり取りも、今日はしない。


 リリアーナが、余白核へ一つずつ確認した。


「今日は、まずおはようだけです」


『……おはよう、だけ』


「はい」


「たくさんの子がいても、全部に返そうとしなくていいです」


『……ぜんぶ、しない』


「そうです」


「聞こえたものを全部抱えなくていいです」


『……ぜんぶ、もたない』


 レオンが言う。


「重いなら、重いと言え」


『……おもい』


「怖いなら、怖い」


『……こわい』


「疲れたなら、疲れた」


『……つかれた』


「その時点で止める」


『……とめる』


 中心は、その言葉を覚えるように揺れた。


『……とめる、まもる』


「そうだ」


「止めるのも守ることだ」


 アルベルトが小さく頷く。


「俺、それ苦手だわ」


 エリシアが即座に言う。


「自覚があるだけ進歩ですね」


「褒めてる?」


「半分は」


「もう半分は?」


「察してください」


 中心が揺れる。


『……あるべると、とめる、にがて』


 アルベルトは額を押さえた。


「子供の前で変なこと言えねぇな……」


 リリアーナが微笑む。


「本当に、よく聞いていますからね」


 中心が少し得意げに揺れる。


『……きく、たいせつ』


 リーネの光が名簿束のそばで揺れた。


『聞くのは大切』


『でも、全部聞くと壊れることもあります』


 セリアも鈴の光を震わせる。


『聞こえすぎた時は、休む』


 中心が、セリアへ反応する。


『……せりあ、きこえすぎた』


『はい』


 短い返事。


 でも、その中には重さがあった。


 中心は、その重さを感じたのか、静かに言った。


『……きく、でも、やすむ』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「それが今日の約束です」


『……やくそく』


 中心は、少し落ち着いた。


『……やくそく、まもる』


 ◇


 昼前。


 石扉は開けられなかった。


 代わりに、扉の外側に子供たちが集められた。


 救護役と兵士たちがそばにいる。


 近づきすぎないよう、線が引かれている。


 昨日より人数は多い。


 十人ほど。


 全員が余白核の存在を知っているわけではない。


 ただ、おはようを聞くと少し怖くなくなる、という話を聞いて来た子もいる。


 中には、まだ疑うような顔をしている子もいた。


 怖がりながら、誰かの袖を握っている子もいる。


 昨日のミナもいる。


 最初に来た女の子もいる。


 幼い子も、救護役に抱かれたまま小さく顔を出していた。


 神殿奥では、余白核が強く震えていた。


『……たくさん』


 リリアーナが近くで囁く。


「たくさんですね」


『……こわい』


「はい」


『……でも、おはよう、する』


「はい」


「短く」


『……みじかく』


 セラフィアが保護陣を整える。


 エリシアが術式盤を見つめる。


 ミリオが精神線を細く伸ばす。


 レオンが黒蒼雷で境界を支える。


 ラウルが盾を構える。


 グレイヴとクラウスは入口側の距離を守る。


 アリシアは少し離れた場所で、祈るように両手を握っていた。


 余白核が光る。


 小さく。


 でも、昨日よりもはっきりと。


『……おはよう』


 その響きが、扉の向こうへ流れた。


 廊下の子供たちが、静かになる。


 一瞬。


 本当に一瞬。


 ざわめきが止まった。


 それから、小さな返事がいくつも返ってくる。


「……おはよう」


「おはよう……」


「きこえた」


「また、きこえた」


「こわくない」


「……ちょっと、こわい」


 その中の一人が、正直に言った。


 怖い、と。


 中心が強く反応した。


『……こわい、いい』


 扉の向こうが静かになる。


 中心は続ける。


『……こわい、いっていい』


 幼い子の声が聞こえた。


「……こわい」


『……うん』


「でも、おはよう、すき」


『……わたしも、すき』


 そのやり取りで、何人かの子供が泣き出した。


 声を上げる泣き方ではない。


 ほっとしたような泣き方。


 泣いてもいい場所を見つけたような泣き方。


 ルカの光が第五領域のそばで揺れる。


『泣いてもいい』


 中心が、その言葉を借りるように続けた。


『……ないても、こわれない』


 子供たちの中で、誰かが小さく言った。


「ほんと?」


 中心は少し揺れた。


『……たぶん』


 アルベルトが小さく笑いそうになって、すぐ口を押さえた。


 リリアーナが優しく補足する。


「本当、に近いです」


「でも、まだ中心さんも練習中なんです」


 扉の向こうで、ミナが言った。


「……たぶんで、いいよ」


 中心が反応する。


『……みな』


「うん」


「ミナ、いる」


『……みな、いる』


「おはようの人も、いる?」


 余白核が震える。


『……わたし、いる』


 その瞬間、神殿奥が静かになった。


 中心は、はっきりそう言った。


 わたし、いる。


 名前ではない。


 でも、存在の返事。


 扉の向こうで、子供たちが息を呑む。


 そして、誰かが小さく言った。


「……いてくれて、よかった」


 余白核が、強く揺れた。


 嬉しい。


 でも重い。


 期待される怖さ。


 残る怖さ。


 そこにいてほしいと言われる怖さ。


 それが、一気に流れ込む。


 エリシアが即座に言う。


「負荷上昇」


 リリアーナがすぐ余白核に向き直る。


「止めますか?」


 中心は震えている。


『……うれしい』


「はい」


『……こわい』


「はい」


『……おもい』


「はい」


『……でも』


 長い沈黙。


『……ありがとう』


 扉の向こうへ、中心の声が流れる。


『……いてくれて、ありがとう』


 今度は、子供たちの方が静かになった。


 まさか返されると思っていなかったのだろう。


 やがて、小さな声が重なる。


「……ありがとう」


「またね」


「また、おはよう」


「おはようの人、またね」


 中心は、今度は無理に全部返さなかった。


 リリアーナが決めた線を覚えていたから。


 レオンの言葉を覚えていたから。


 全部抱えなくていい。


 全部返さなくていい。


 中心は、ひとつだけ返した。


『……またね』


 そこで、保護陣の光が静かに閉じた。


 面会は終わった。


 ◇


 扉の外で子供たちが去っていく気配がする。


 救護役たちが優しく声をかける。


 兵士たちも、今日は昨日より静かだった。


 誰も、子供たちを急かしていない。


 神殿奥には、余白核の荒い揺れだけが残った。


 リリアーナが、そっと声をかける。


「重かったですね」


『……おもい』


「嬉しかったですね」


『……うれしい』


「怖かったですね」


『……こわい』


「全部、ありましたね」


『……ぜんぶ、あった』


 中心は、少し苦しそうに光る。


『……いてくれて、よかった』


 その言葉を繰り返した。


『……わたし、いて、よかった?』


 リリアーナの目が揺れる。


「はい」


『……ほんとう?』


「本当です」


『……こわい』


「はい」


「信じるのも怖いですね」


『……うん』


 レオンが静かに言った。


「怖いなら、今は全部信じなくていい」


 中心が揺れる。


『……しんじない?』


「少しずつでいい」


『……すこしずつ』


「ああ」


「今日は、“言われた”だけでいい」


『……いわれた』


「いてくれて、よかった」


 中心は、その言葉を抱えるように揺れた。


『……いてくれて、よかった』


 セラフィアが金色の光を細く重ねる。


「それは、祝福に近い言葉ね」


『……しゅくふく』


「存在していることを、よかったと受け取る言葉」


 中心は、長く沈黙した。


 そして。


『……こわい、しゅくふく』


 セラフィアが静かに頷く。


「そうね」


「祝福は、怖いこともあるわ」


『……こわいのに?』


「ええ」


「怖いのに、温かい」


 中心が、ゆっくり言葉を重ねる。


『……どちらも、ある』


 レオンが頷く。


「そうだ」


 ◇


 午後。


 中心は少し休んだ。


 余白核の光は穏やかに落ち着いたが、いつもより薄い。


 疲れている。


 それでも、不安定ではない。


 エリシアは術式盤を見ながら言った。


「今日は、これ以上の外部接触は避けるべきです」


 誰も反対しなかった。


 中心自身も、小さく反応する。


『……きょう、もう、しない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「今日はここまでです」


『……こども、また?』


「また、です」


『……またね』


「はい」


「またねで終われました」


 中心は、安心したように光った。


『……またね、まもる』


 レオンが少し目を細めた。


「またねを守る?」


『……うん』


『……すぐ、いかない』


『……でも、きえる、じゃない』


『……またね、ある』


 リリアーナの目が柔らかくなる。


「そうですね」


「またねがあるから、今は休めるんです」


『……またね、やすむ』


「はい」


 中心は、その言葉を気に入ったようだった。


『……またね、やすむ』


 ◇


 夕方。


 救護区域から報告が入った。


 今日、おはようを聞いた子供たちは、少し疲れた様子はあるものの、大きな不安定化はない。


 むしろ、何人かは自分から食事を取った。


 ミナは、他の子に「名前は取られなかった」と話しているらしい。


 幼い子は、「こわいって言っていい」と救護役に繰り返していた。


 最初の女の子は、紙に大きく「またね」と書いたという。


 そして、ある男の子が、寝る前にこう言った。


 “おはようの人が、いてくれてよかった”


 その報告を聞いた瞬間、中心はまた揺れた。


 だが、今度は少し違った。


 大きく乱れない。


 ゆっくり受け取る。


『……いてくれて、よかった』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


『……こわい』


「はい」


『……でも、すこし、あたたかい』


「はい」


『……ぜんぶ、しんじる、まだ』


「はい」


『……でも、のこす』


「残しますか?」


『……うん』


「記録しましょう」


 リーネが光る。


『余白記録へ残します』


『おはようの人』


『いてくれて、よかった』


『怖いけれど、少し温かい』


 中心が、静かに反応する。


『……のこった』


 レオンは、それを見つめていた。


 記録。


 それはかつて、中心を縛る鎖だった。


 外殻に歪められた記録。


 救助不要と書き換えられた記録。


 名を奪うための記録。


 だが今は違う。


 中心自身が、残したいものを選んでいる。


 それは、とても大きな変化だった。


 ◇


 夜。


 保護陣の周囲には、穏やかな静けさが降りていた。


 中心はいつもより早く眠そうにしている。


『……つかれた』


 リリアーナが頷く。


「今日はたくさん頑張りました」


『……がんばった』


「はい」


『……せん、まもった?』


 レオンが答える。


「守った」


『……ぜんぶ、もたなかった』


「ああ」


『……とめた』


「止めた」


『……またね、できた』


「できた」


 中心は、ほっとしたように光った。


『……よかった』


 リリアーナは、そっと微笑む。


「今日は、何の日でしたか?」


 中心は少し考える。


『……うれしい、こわい』


「はい」


『……おもい』


「はい」


『……いてくれて、よかった』


「はい」


『……しゅくふく、こわい』


「はい」


『……でも、あたたかい』


 リリアーナが頷く。


「そうですね」


 中心は、しばらく沈黙した。


 そして、小さく言った。


『……わたし、すこし、のこった日』


 その言葉に、場の空気が静かに止まった。


 わたし、少し残った日。


 それは、今日を指す言葉だった。


 中心が、自分の一日を名づけた。


 名前ではない。


 でも、意味をつけた。


 レオンは静かに息を吐く。


「いい日だな」


『……いい日?』


「ああ」


「怖かったけど、いい日だ」


 中心が小さく光る。


『……こわい、でも、いい日』


「そうだ」


 リリアーナは、涙を浮かべながら言った。


「はい」


「とても、いい日です」


 余白核の光が、ゆっくり穏やかになっていく。


『……りり、おやすみ』


「おやすみなさい」


『……れおん、おやすみ』


「おやすみ」


『……みんな、おやすみ』


 皆が返す。


「おやすみ」


「また明日」


 中心が、最後に小さく震える。


『……また、おはよう』


『……またね』


 そのまま、余白核は静かに眠りへ入った。


 神殿の奥に、夜が満ちる。


 今日、中心は知った。


 期待されることは怖い。


 いてくれてよかったと言われることは、温かいだけではない。


 重い。


 嬉しい。


 怖い。


 逃げたくなる。


 でも、少し残りたい。


 その全部を抱えて、中心は初めて自分で境界を守った。


 全部はできない。


 少しならできる。


 そして。


 少しでも残れたなら、それは“いい日”になる。


 名もない“わたし”は、今日もまた、世界の中に小さく灯った。

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