第186話「求められる朝、無能王子は“全部はできない”を責めさせない」
朝は、昨日より少しだけ早く来た。
神殿の奥。
石壁に囲まれた保護陣の中で、余白核が淡く震える。
まだ外の光は届かない。
けれど、中心はもう朝を知っている。
おやすみ。
また。
おはよう。
その順番を、少しずつ身体のない場所に覚え始めている。
保護陣の外周を流れる第五領域の水路は、穏やかだった。
名簿束も、夜の間に大きく崩れていない。
リーネたち戻った名の光が、静かに名簿の縁を支えている。
昨日の記録。
おはようの人。
いてくれて、よかった。
怖いけれど、少し温かい。
わたし、少し残った日。
その文字たちは、余白記録の端に柔らかく残っていた。
中心が、小さく反応する。
『……おはよう』
リリアーナは、目を開ける。
昨日より、少し声が出やすくなっている。
それでも急がず、喉に手を当ててから微笑んだ。
「おはようございます」
『……りり、おはよう』
「はい」
『……れおん』
レオンは保護陣の反対側で、黒蒼雷の細い線を整えていた。
「おはよう」
『……れおん、きょう、ねた?』
「少し寝た」
『……すこし』
「昨日よりは」
『……よかった?』
レオンは、わずかに目を細める。
「ああ」
「よかった」
中心が、少し満足したように揺れた。
『……れおん、すこし、やすんだ』
リリアーナが小さく笑う。
「報告されていますよ」
アルベルトが壁際から眠そうな声で言った。
「いいじゃねぇか。レオンが休んだのは重大ニュースだろ」
エリシアが術式盤を起動しながら返す。
「重大ニュースにしないためにも、普段から休むべきです」
『……えりしあ、しっかり、おはよう』
「おはようございます」
『……あるべると、おおきい、おはよう』
「おう」
『……きょうも、すこし、しずか』
「俺、めちゃくちゃ気を遣ってんだよ」
エリシアが静かに言う。
「ようやくですか」
「朝から刺すな」
小さな笑いが生まれる。
中心が、それを拾って穏やかに揺れた。
『……わらう、こわくない』
リリアーナは頷く。
「はい」
「怖くない笑うです」
その朝の挨拶は、ずいぶん自然になってきた。
最初は、一つの言葉を言うだけで余白核が揺れていた。
今も揺れる。
けれど、崩れない。
おはようが、中心の中に居場所を持ち始めている。
レオンは、それを静かに見守っていた。
◇
朝の確認が始まった。
エリシアが術式盤を展開し、余白核の安定率を読む。
「余白核、夜間安定」
「昨日の外部接触後の負荷は、休息により軽減しています」
「ただし、反応域が広がっています」
リリアーナが聞く。
「反応域?」
「外部の声や感情に対して、以前より敏感になっています」
エリシアは少し眉を寄せた。
「良い面もあります」
「子供たちの安心を受け取れる」
「小さな喜びにも反応できる」
「ですが、その分、不安や期待にも強く反応します」
中心が揺れる。
『……きたい』
リリアーナが、少し慎重に説明する。
「期待」
「誰かに、こうしてほしいと願われることです」
『……おはよう、ほしい?』
「そうですね」
「子供たちが、おはようを聞きたいと思うのも、期待に近いです」
中心が小さく震える。
『……きたい、こわい』
レオンが言う。
「怖いな」
『……うん』
「応えられないこともある」
『……こたえられない』
「ああ」
『……だめ?』
リリアーナが、すぐに首を横に振る。
「駄目じゃありません」
「全部に応えられなくても、駄目じゃないです」
『……ぜんぶ、できない』
「はい」
『……でも、こども、まってる』
「待っている子もいます」
『……わたし、できないと、こども、かなしい?』
その問いに、少し空気が重くなる。
リリアーナは、すぐには答えなかった。
期待に応えられない。
誰かを悲しませるかもしれない。
それは、中心にとって新しい恐怖だった。
今までの恐怖は、自分が消えること。
外殻に戻ること。
誰かを壊すこと。
だが今は違う。
誰かが自分を待っている。
自分が応えられないと、その誰かが悲しむかもしれない。
それが怖い。
リリアーナは、静かに答えた。
「悲しむ子も、いるかもしれません」
余白核が揺れる。
『……っ』
「でも」
リリアーナは声を柔らかくする。
「それは、あなたが悪いという意味ではありません」
『……わるくない?』
「はい」
「会えない日があっても」
「おはようを言えない日があっても」
「疲れて休む日があっても」
「それは悪いことではありません」
『……やすむ、わるくない』
「そうです」
レオンも続ける。
「守るために止めるんだろ」
『……とめる、まもる』
「ああ」
「お前も、子供たちも」
中心は、長く沈黙した。
そして、小さく言う。
『……でも、かなしい』
リリアーナは頷いた。
「悲しいは、あると思います」
『……かなしい、ある』
「はい」
「でも、悲しいからって、全部壊れるわけじゃありません」
『……こわれない?』
「壊れないように、説明します」
『……せつめい』
「今日は休む日です」
「また明日です」
「そうやって伝えれば、子供たちも少しずつ分かってくれます」
『……また、あした』
「はい」
中心は、少し落ち着いたように揺れた。
『……また、あした、まもる』
「そうです」
「また明日も、守る言葉です」
◇
しかし、外の状況は穏やかさだけでは進まなかった。
午前の半ば。
グレイヴが入口側から戻ってきた。
顔が険しい。
レオンは、その表情だけで何かがあったと分かった。
「どうした」
グレイヴは短く答える。
「子供ではない者たちが、接触を求めている」
神殿奥の空気が冷える。
アルベルトが眉を寄せた。
「大人か?」
「ああ」
グレイヴは頷く。
「子供の親たちだ」
リリアーナが息を呑む。
アリシアは、少し離れた場所で肩を震わせた。
子供たちの親。
当然だった。
子供たちが、神殿奥の“おはようの人”に会った。
おはようを聞くと落ち着いた。
またねを交わした。
名前を言えるようになった子もいる。
それを知れば、親たちは来る。
感謝したい者もいる。
理由を知りたい者もいる。
何かに縋りたい者もいる。
そして。
恐れている者もいるはずだ。
セラフィアが静かに問う。
「様子は?」
「分かれている」
グレイヴの声は重い。
「感謝を伝えたいという親」
「子供をもう一度会わせたいという親」
「正体を確認したいという親」
「危険なものではないのかと問う者」
「……アリシアの赤い眼と関連しているのかと疑う者もいる」
アリシアの顔色が青ざめた。
「……当然、です」
彼女は小さく呟く。
「当然です。私が……」
レオンが遮る。
「今は、自分を刺すな」
アリシアが息を止める。
レオンは続ける。
「状況を見ろ」
「自分を責めるのは後だ」
アリシアは、震えながら頷く。
「……はい」
中心が、余白核の中で不安定に揺れた。
『……おとな』
リリアーナが答える。
「大人たちです」
『……こども、の、おとな』
「はい」
『……こわい?』
誰もすぐには答えられなかった。
大人は、子供より複雑だ。
感謝もする。
疑いもする。
責めることもある。
守ろうとして、強い言葉を使うこともある。
中心にはまだ早い。
レオンは、はっきり言った。
「今日は会わせない」
中心が揺れる。
『……あわない』
「ああ」
「大人は、まだ早い」
『……こわい?』
「怖いことも言う」
中心が小さく震えた。
『……わたし、わるい?』
リリアーナが、すぐに余白核へ向き直る。
「違います」
『……でも、おとな、こわい』
「怖いかもしれません」
「でも、あなたが悪いと決まったわけではありません」
『……きまってない』
「はい」
セラフィアも静かに言う。
「大人たちにも説明が必要なの」
「子供たちとは違う形で」
『……せつめい』
「ええ」
「けれど、今それをあなたが受ける必要はない」
中心は不安そうに揺れた。
『……りり?』
「わたしも一緒にいます」
『……れおん?』
「ここにいる」
『……みんな?』
アルベルトが声を抑えて言う。
「いるぞ」
エリシアも。
「います」
クラウスが静かに。
「守ります」
グレイヴが低く。
「通さない」
アリシアも、震えながら言った。
「……私も、逃げません」
中心は、少しだけ落ち着いた。
『……ひとりじゃない』
リリアーナが頷く。
「はい」
「一人じゃありません」
◇
大人たちへの対応は、グレイヴとクラウス、そしてセラフィアが行うことになった。
レオンは余白核のそばから離れない。
リリアーナも残る。
エリシアは保護陣の状態を管理する。
アルベルトとラウルは万一に備え、入口側と保護陣の間に立つ。
アリシアは、前へ出ない。
出れば、感情の矛先になりかねないからだ。
けれど、完全に隠れるわけでもなかった。
彼女は神殿奥の一角に立ち、聞こえる範囲で大人たちの声を受け止めることを選んだ。
「逃げません」
アリシアはそう言った。
声は震えていた。
「でも、今は近づきません」
「それが守ることなら」
中心が、その言葉を拾う。
『……あわない、まもる』
アリシアは余白核を見る。
「はい」
「今は、そうします」
グレイヴたちが入口側へ向かう。
石扉の向こうから、大人たちのざわめきが聞こえ始めた。
「子供が落ち着いたと聞いた」
「どういう力なんだ」
「本当に安全なのか」
「会わせてくれ」
「礼を言いたいだけだ」
「でも、また危険なものだったらどうする」
「赤い眼の女はどうなった」
「神殿の中に何を隠している」
声が重なる。
子供たちの声とは違う。
大きい。
硬い。
疑いと不安が混ざっている。
中心が、強く震えた。
『……おおきい』
リリアーナがすぐに言う。
「大丈夫です」
『……こわい』
「怖いですね」
『……わたし、なにか、した?』
「今は、あなたが直接何か言う必要はありません」
『……せつめい、しない?』
「しません」
レオンも言う。
「今日は聞かなくていい」
『……きこえる』
「なら、俺を見る」
『……れおん』
余白核がレオンの方へ揺れる。
『……ぴりぴり』
「ああ」
「怖いなら、こっちを見てろ」
『……まもる?』
「守る」
中心は、レオンの黒蒼雷の細い光へ意識を向けた。
外の声が聞こえる。
だが、それを全部受け取らない。
黒蒼雷の線を見る。
リリアーナの声を聞く。
保護陣の内側にいる。
少しずつ、落ち着く。
◇
入口側では、グレイヴの低い声が響いていた。
「奥には入れられない」
「現在、救護と調査を進めている」
「子供たちへの影響については、順に説明する」
大人の一人が言う。
「説明って、いつだ!」
「うちの子は、あの“おはよう”を聞いて泣き止んだんだ!」
「何か知ってるなら教えてくれ!」
別の声が重なる。
「でも、あれがまた子供を操ってるんじゃないのか?」
「おはようなんて優しい言葉で近づいているだけかもしれない!」
その言葉に、中心が大きく揺れた。
『……あやつる?』
リリアーナの表情が険しくなる。
「違います」
『……わたし、あやつる?』
「違います」
『……でも、おとな、いった』
「大人も、怖いんです」
『……こわい、いう?』
「怖いと、強い言葉を言ってしまうことがあります」
中心が震える。
『……こわい、つよい』
「はい」
『……いたい』
リリアーナは、ぎゅっと胸元を握った。
「痛いですね」
『……うん』
レオンは、扉の方を見た。
声は届く。
中心を傷つける言葉も。
完全には遮断できない。
だが、ここで中心を隠し続ければ、外の不安も膨らむ。
線引きは難しい。
グレイヴが入口側で声を強めた。
「子供たちは操られていない」
「確認済みだ」
大人の声。
「本当か!」
セラフィアの穏やかな声が続く。
「少なくとも、現在確認できる範囲では、子供たちの意識は本人のものです」
「むしろ、怖い夢から戻る支えを得ている」
「ただし、それを無制限に求めることは危険です」
ざわめきが少し弱まる。
クラウスが静かに補足した。
「接触は管理する」
「子供たちを守るために」
「そして、神殿内のものを不安定にしないために」
大人の一人が言う。
「神殿内のもの?」
沈黙。
クラウスは答えすぎない。
「詳細は今後、正式に説明する」
「今は子供たちの回復を優先する」
また別の大人が叫ぶ。
「隠すのか!」
その声に、中心がまた震える。
『……かくす』
リリアーナが言う。
「守るために隠すこともあります」
『……まもるため』
「はい」
『……でも、おとな、いや?』
「嫌な人もいます」
『……いや、かなしい』
「はい」
中心は、苦しそうに揺れる。
『……わたし、でたら、いい?』
レオンがすぐに言った。
「駄目だ」
余白核が止まる。
レオンの声は強かった。
だが、怒りではない。
「今出れば、お前が壊れる」
『……でも』
「駄目だ」
『……おとな、こわい』
「だからだ」
『……せつめい』
「説明は俺たちがする」
『……わたし、しない?』
「しない」
中心が、しばらく震え続けた。
リリアーナが優しく続ける。
「あなたが何もしないことも、今は大切です」
『……なにもしない』
「はい」
「全部、自分でどうにかしなくていいです」
『……ぜんぶ、しない』
「そうです」
「今日は、その練習です」
中心が、小さく揺れる。
『……ぜんぶ、しない、れんしゅう』
「はい」
レオンは、少しだけ目を伏せた。
全部自分でどうにかしない。
それは、中心だけではなく、レオン自身にも必要な言葉だった。
◇
大人たちへの説明は長く続いた。
怒る者。
泣く者。
感謝する者。
疑う者。
何度も同じことを聞く者。
自分の子供だけを早く会わせてほしいと訴える者。
神殿を閉ざせと言う者。
逆に、もっと早く救ってくれればよかったのにと責める者。
その声を、アリシアは離れた場所で聞いていた。
顔色は真っ青だった。
だが、逃げない。
拳を握り、震えながら立っている。
中心が、その揺れに気づく。
『……ありしあ』
アリシアが余白核を見る。
「……はい」
『……いたい?』
アリシアは、少しだけ微笑もうとした。
でも、うまくできなかった。
「痛いです」
『……おとな、こわい』
「はい」
「怖いです」
『……でも、にげない』
「はい」
「逃げません」
中心が、小さく揺れる。
『……ありしあ、がんばる』
アリシアの目に涙が浮かぶ。
「……はい」
「今は、ただ立っているだけですが」
『……たつ、たいせつ』
その言葉に、アリシアは涙をこぼした。
「……ありがとうございます」
リリアーナは、そのやり取りを見て胸が締めつけられた。
中心は、人の痛みも拾うようになっている。
その分、苦しくなる。
けれど、それは成長でもある。
誰かの悲しみを、ただ怖いだけで終わらせない。
そこに言葉を返そうとしている。
◇
昼過ぎ。
大人たちは一旦下がった。
全員が納得したわけではない。
むしろ、不安も不満も残っている。
だが、グレイヴとセラフィア、クラウスの説明により、今日これ以上の接触はないと伝えられた。
子供たちへの面会も、体調と安全を見ながら管理する。
神殿奥への立ち入りは禁止。
アリシアへの接触も禁止。
それが決まった。
グレイヴが戻ってきた時、神殿奥には重い空気が残っていた。
アルベルトが低く呟く。
「……きついな、大人は」
エリシアが疲れた顔で頷く。
「子供より言葉が複雑ですから」
「悪意だけではないのが厄介です」
レオンは、余白核を見る。
中心は疲れていた。
直接会っていないのに。
ただ声を聞いただけで、大きく消耗している。
『……おとな、いっぱい』
リリアーナが頷く。
「いっぱいでしたね」
『……こわい』
「はい」
『……かなしい』
「はい」
『……ありがとう、も、あった』
「ありましたね」
『……うたがう、も、あった』
「はい」
中心は、少し苦しそうに揺れた。
『……ぜんぶ、ある』
レオンが答える。
「ああ」
「全部ある」
『……ぜんぶ、もつ?』
「持たない」
はっきり言った。
中心が揺れる。
『……もたない』
「全部持てば壊れる」
『……こわれる』
「だから、選ぶ」
『……えらぶ』
リリアーナが優しく言う。
「今持つもの」
「後で考えるもの」
「誰かに預けるもの」
「持たなくていいもの」
「そうやって分けます」
『……わける』
「はい」
「深部で、名前と感情を分けたように」
中心が反応する。
『……なまえ、かみ』
「はい」
『……きもち、みず』
「はい」
『……まだ、よはく』
「はい」
「外の声も、分けていいんです」
中心は、長く沈黙した。
『……ありがとう、のこす』
リリアーナが頷く。
「はい」
『……うたがう、いま、もたない』
レオンが頷く。
「ああ」
『……こわい、みず』
「第五領域へ流しましょう」
『……かなしい、みず』
「はい」
『……おとな、あと』
「後で考えましょう」
中心は、少しずつ落ち着いていった。
外の大人たちの声を、全部自分の中へ抱えなくていい。
それを覚える。
それもまた、境界だった。
◇
午後は、面会をしなかった。
子供たちには、今日は神殿奥も休む日だと伝えられた。
数人は寂しがった。
だが、救護役が「また明日」と伝えると、少し落ち着いたらしい。
その報告を聞いた中心は、小さく反応した。
『……また、あした』
リリアーナが微笑む。
「守れましたね」
『……こども、かなしい?』
「少し、寂しかったみたいです」
『……さみしい』
「はい」
『……でも、また、あした』
「はい」
『……こわれない?』
「壊れません」
『……よかった』
中心は、今日初めて少し安心したように光った。
会えない日。
おはようをしない日。
それでも終わりではない。
また明日がある。
それを、子供たちも少しずつ受け取っている。
中心も、それを受け取っている。
◇
夕方。
アリシアが、静かにレオンへ近づいた。
余白核からは少し距離を置いたまま。
「レオン様」
「何だ」
「今日、外の声を聞いて思いました」
彼女は、胸元で手を握っている。
「私は、すぐに謝りに出てはいけないのですね」
レオンは黙って聞く。
アリシアは続けた。
「謝りたい気持ちはあります」
「でも、今日の大人たちの声を聞いて……」
「私が今出れば、彼らの怒りや恐怖が一気に向く」
「それは、私が受けるべき罰だと思っていました」
一拍。
「でも、それでは子供たちも怖がる」
「中心も揺れる」
「神殿の保護陣も乱れる」
アリシアは、涙を堪えるように目を伏せる。
「私が罰を受けたいから前へ出るのは」
「償いではなく、自分のためなのかもしれません」
リリアーナが、静かに目を見開いた。
レオンは短く答える。
「そうだな」
アリシアは、その言葉を受け止めるように目を閉じた。
「……はい」
「だから、今は出ません」
「逃げるのではなく」
「守るために」
中心が反応する。
『……ありしあ、あわない、まもる』
アリシアは、余白核へ向かって微笑んだ。
涙はある。
でも、昨日より少しだけ真っ直ぐだった。
「はい」
「会わないことで、守ります」
『……ありしあ、あと』
「はい」
「後で、ちゃんと」
『……あとで、せつめい』
「はい」
『……いそがない』
「急ぎません」
アリシアは、深く息を吐いた。
その姿を見て、リリアーナは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
アリシアもまた、境界を覚えている。
すぐに謝らない。
すぐに罰を受けに行かない。
自分の痛みだけで動かない。
それは、簡単ではない。
けれど必要なことだった。
◇
夜。
神殿奥は、いつもより早く静かになった。
中心は一日中、直接外へ言葉を届けていない。
それでも疲れていた。
大人たちの声。
期待。
疑い。
感謝。
恐怖。
それらを聞いたからだ。
余白核の光は薄いが、安定している。
リリアーナが、そっと声をかける。
「今日は、難しい日でしたね」
『……むずかしい、ひ』
「はい」
『……こども、まってた』
「はい」
『……でも、あわない』
「はい」
『……おとな、こわい』
「はい」
『……ありがとう、あった』
「はい」
『……うたがう、あった』
「ありました」
『……ぜんぶ、もたない』
「はい」
中心は、少し沈黙した。
そして。
『……わたし、ぜんぶ、できない』
リリアーナは頷く。
「はい」
『……でも、すこし、できる』
「はい」
『……できない、わるくない?』
レオンが答える。
「悪くない」
『……ほんとう?』
「ああ」
「悪くない」
中心は、その言葉を何度も確かめるように揺れた。
『……できない、わるくない』
『……やすむ、まもる』
『……あわない、まもる』
『……また、あした、まもる』
セラフィアが静かに微笑む。
「今日は、境界を学んだ日ね」
『……きょうかい』
「そう」
「自分と、誰かの間に線を引くこと」
「拒絶ではなく、守るために」
中心が、小さく光る。
『……きょうかい、まもる』
リリアーナは、涙を浮かべながら言った。
「はい」
「よく守りました」
余白核が、少しだけ明るくなる。
『……よく、まもった?』
レオンが頷く。
「守った」
『……わたし、まもった』
「ああ」
「お前も守った」
中心は、安心したように光を弱めていく。
『……りり、おやすみ』
「おやすみなさい」
『……れおん、おやすみ』
「おやすみ」
『……みんな、おやすみ』
皆が、静かに返す。
「おやすみ」
「また明日」
中心が、最後に小さく言った。
『……また、あした』
『……できない、わるくない』
『……すこし、できる』
その言葉を残して、余白核は休みに入った。
神殿の奥に、静かな夜が降りる。
今日、中心は知った。
求められることは、嬉しいだけではない。
期待は、時に重い。
応えられないことは怖い。
疑われることは痛い。
けれど。
全部できなくても、悪くない。
休むことも、会わないことも、止めることも、境界を引くことも。
守ることになる。
名もない“わたし”は、今日。
世界へ残るために、初めて“できない”を抱えた。




