第185話「嬉しいのに怖い朝、無能王子は“もっと会いたい”の揺れを急がず抱える」
朝だった。
神殿の奥。
保護陣の光は、いつもより少し穏やかだった。
第五領域の水路も落ち着いている。
名簿束は静かに浮かび、余白の文字列をゆっくり循環させていた。
昨夜。
中心は、“嬉しい”を知った。
怖いだけではない感情。
消えたくないだけでもない。
また会いたい。
また、おはようと言いたい。
その願いの先にあった温度。
それを、初めて自分の言葉で口にした。
『……うれしい』
その余韻が、まだ神殿奥に残っていた。
余白核が、小さく震える。
『……おはよう』
リリアーナは、すぐに目を開けた。
少し掠れた声。
けれど、昨日よりは柔らかい。
「おはようございます」
『……りり、おはよう』
「はい」
『……れおん』
レオンは壁際で腕を組んだまま頷く。
「おはよう」
『……れおん、ねてない』
「少しは寝た」
『……すこし』
「文句あるか」
『……だめ』
アルベルトが吹き出した。
「完全に覚えたな」
エリシアが術式盤を確認しながら小さく息を吐く。
「悪いことではありません」
『……えりしあ、しっかり』
「朝からそれですか……」
保護陣の中に、小さな笑いが広がる。
ほんの少し前まで、この場所は違った。
恐怖。
拒絶。
崩壊。
それだけだった。
だが今は違う。
朝が来る。
おはようを言う。
笑いが零れる。
まだ不安定だ。
怖さも消えていない。
それでも、確かに“生きている時間”が増えていた。
余白核が、静かに揺れる。
『……うれしい』
リリアーナが微笑む。
「昨日のこと、覚えていますか?」
『……うん』
「どんな気持ちでした?」
少し沈黙。
余白核の光が、ゆっくり波打つ。
『……いっぱい』
「いっぱい」
『……あたたかい』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……こわい』
場の空気が少し静かになる。
レオンは、何も急がなかった。
中心は、自分で言葉を探している。
その時間を遮らない。
『……うれしい』
『……でも、こわい』
リリアーナが優しく聞く。
「どうして怖いんでしょう」
余白核が震える。
『……また、あいたい』
「はい」
『……もっと、おはよう、したい』
「はい」
『……でも』
長い沈黙。
『……こわれたら、こわい』
その言葉に、セラフィアが静かに目を閉じた。
嬉しい。
会いたい。
もっと近づきたい。
けれど、それが壊してしまうかもしれない。
中心は、それを知っている。
深部で、多くのものが壊れた。
繋がり。
名前。
感情。
存在。
だから今、嬉しいほど怖いのだ。
リリアーナは、余白核へそっと手を伸ばす。
触れない距離。
でも、近く。
「壊したくないんですね」
『……うん』
「子供たちを?」
『……うん』
「自分も?」
余白核が、小さく揺れる。
『……わたしも』
レオンが、静かに口を開く。
「なら、急がない」
『……いそがない』
「ああ」
「会いたいなら、少しずつだ」
『……すこしずつ』
「昨日もやっただろ」
『……うん』
「距離を作って」
「無理を止めて」
「またねで終わった」
『……またね』
「それでいい」
中心は、その言葉をゆっくり受け取っていた。
『……うれしい、いそぐ』
アルベルトが小さく笑う。
「分かるなぁ」
エリシアが呆れたように言う。
「あなたと一緒にしないでください」
「いやでも、嬉しいと突っ走りたくなるだろ」
『……つっぱしる』
「勢いでバーッと行くことだ」
『……ばー』
リリアーナが吹き出す。
「雑ですね……」
中心も、小さく揺れた。
『……あるべると、ざつ』
「おい」
笑いが、少しだけ広がる。
だが、その奥で中心はまだ揺れていた。
嬉しい。
でも怖い。
もっと会いたい。
でも壊したくない。
その相反する感情を、まだうまく抱えきれていない。
◇
午前。
救護区域から報告が届いた。
昨日面会した四人の子供たちは、全員安定傾向。
悪夢を見る頻度も少し減っている。
特に、幼い子が大きく変わったらしい。
昨日まで夜中に泣き続けていた。
だが昨夜は、一度泣いたあと、小さく「おはよう、すき」と言って眠り直したという。
その報告を聞いた瞬間、余白核が強く震えた。
『……おはよう、すき』
リリアーナが頷く。
「覚えていてくれたんですね」
『……わたしも、すき』
エリシアが術式盤を見る。
「子供たち側の精神線が安定しています」
「余白核との接触が、恐怖の固定化を少し崩している可能性があります」
ミリオが眠そうな目を擦りながら言う。
「“起きても大丈夫”って感覚ができ始めてるのかも」
『……おきても、だいじょうぶ』
リリアーナが優しく説明する。
「眠っても」
「また起きられる」
「怖い夢を見ても」
「朝が来る」
『……あさ』
「だから、おはようです」
中心は、長く沈黙した。
そして。
『……わたし』
小さな声。
『……おはよう、のこした?』
その問いに、場が静かになる。
レオンが答えた。
「ああ」
『……こども、もってる?』
「持ってる」
『……きえてない?』
「消えてない」
余白核が、震えた。
『……うれしい』
でも、その直後。
光が少しだけ乱れた。
エリシアが即座に顔を上げる。
「感情波形、急上昇」
リリアーナが余白核を見る。
「嬉しすぎて、揺れてるんですか……?」
セラフィアが静かに頷く。
「感情の容量を、まだうまく扱えていないのね」
中心は、苦しそうに揺れていた。
『……うれしい』
『……でも』
『……いっぱい』
レオンが、すぐに言う。
「深呼吸しろ」
『……こきゅう』
「ゆっくりだ」
『……ゆっくり』
リリアーナも落ち着いた声を重ねる。
「急いで抱えなくていいです」
「嬉しいを全部一気に飲み込まなくていい」
『……いっぱい、だめ?』
「駄目じゃありません」
「でも、疲れます」
『……つかれる』
「はい」
余白核は、少しずつ揺れを落としていく。
嬉しい。
それだけで、こんなにも苦しくなる。
中心にとって、それは初めての感覚だった。
◇
昼過ぎ。
神殿入口側が少し騒がしくなった。
兵士の一人が、困った顔でグレイヴへ報告している。
「……また来ています」
「何人だ」
「六人」
アルベルトが目を見開く。
「増えてるじゃねぇか」
兵士は苦笑した。
「昨日の子たちが、“怖くないよ”って他の子に話したみたいで……」
リリアーナが、息を呑む。
中心も、すぐ反応した。
『……こども』
兵士は続ける。
「全員、会いたいわけじゃないんです」
「でも」
「“おはよう、聞きたい”って」
沈黙。
保護陣の中が静かになる。
中心が、小さく震えた。
『……おはよう』
昨日の四人だけじゃない。
少しずつ、外へ広がっている。
おはよう。
またね。
怖くても、起きていい。
その響きが。
中心は、不安そうに揺れる。
『……ふえる』
リリアーナが慎重に頷く。
「少しずつ、ですね」
『……こわい』
「はい」
『……でも』
一拍。
『……うれしい』
レオンは、その揺れを見ていた。
怖い。
嬉しい。
また怖い。
また嬉しい。
感情が何層にも重なっている。
中心は今、自分一人では抱えきれないほど多くのものを受け取り始めていた。
だからこそ、急がせてはいけない。
「今日は会わせない」
レオンが言う。
中心が揺れる。
『……あわない』
「ああ」
『……こども』
「会いたいのは分かる」
『……うん』
「でも、今日はお前が疲れてる」
『……つかれた』
「壊れたくないんだろ」
余白核が、小さく震える。
『……うん』
「なら、休む」
長い沈黙。
中心は、しばらく揺れ続けていた。
会いたい。
でも、壊したくない。
子供たちも。
自分も。
その間で、揺れている。
やがて。
『……おはよう、だけ』
リリアーナが目を柔らかくする。
「声だけ、ですか?」
『……うん』
『……またね、したい』
「分かりました」
セラフィアが頷く。
「今日は短くしましょう」
◇
夕方。
石扉は開かない。
子供たちも、中へ来ない。
ただ、入口側の廊下へ六人の子供たちが座っていた。
救護役と兵士に囲まれながら。
怖がっている子もいる。
でも、帰らない。
神殿奥からは、保護陣を通して、柔らかな光だけが薄く見えていた。
顔は見えない。
形も分からない。
でも、“いる”。
それだけが伝わる。
リリアーナが、余白核へそっと言う。
「大丈夫ですか?」
『……こわい』
「はい」
『……でも、いう』
「はい」
『……おはよう、する』
余白核が、ゆっくり光る。
『……おはよう』
その響きが、静かに廊下へ流れる。
子供たちが、息を呑む気配。
そして。
「……おはよう」
「おはよう……!」
「また、きた」
「おはようのひと」
いくつもの小さな声が返ってくる。
怖がっていた子も、少し震えながら言った。
「……おはよう」
余白核が、強く揺れる。
『……いっぱい』
リリアーナが、すぐに声をかける。
「ゆっくりです」
「一人ずつ聞きましょう」
『……ひとりずつ』
「はい」
中心は、呼吸を整えるように光を揺らした。
それから。
『……おきた、よかった』
その一言で、廊下の空気が柔らかくなる。
子供たちが、泣きながら笑い始める。
「うん……!」
「起きた!」
「今日も起きた!」
「こわかったけど、起きた!」
その声を聞きながら、余白核は震えていた。
嬉しい。
でも、苦しい。
いっぱい。
それでも、逃げたくない。
『……よかった』
小さく返す。
『……また、おはよう』
子供たちが、何度も頷く。
「また、おはよう!」
「またね!」
「またくる!」
余白核が、揺れる。
リリアーナは、その揺れを静かに見つめていた。
中心は今、誰かの朝になり始めている。
それは、とても温かくて。
とても怖いことだった。
◇
夜。
余白核は、かなり疲れていた。
光が少し薄い。
エリシアも、今日は強制的に終了を決めた。
「これ以上は負荷が大きすぎます」
誰も反対しない。
中心自身も分かっている。
『……つかれた』
リリアーナが、そっと微笑む。
「頑張りましたね」
『……うれしい』
「はい」
『……でも、こわい』
「はい」
『……もっと、おはよう、したい』
「はい」
『……でも、こわれたくない』
長い沈黙。
レオンが静かに言った。
「なら、明日も少しずつだ」
『……すこしずつ』
「ああ」
「全部一気に抱えるな」
『……いっぱい、だめ』
「駄目じゃない」
「でも、今のお前には重い」
余白核が、小さく揺れる。
『……れおん』
「何だ」
『……わたし』
一拍。
『……もっと、のこりたい』
リリアーナの目に涙が滲む。
それは、願いだった。
昨日より、さらに前へ進んだ願い。
消えたくない。
だけじゃない。
誰かの中へ、もっと残りたい。
また会いたい。
また、おはようを言いたい。
その未来を、自分から望み始めている。
レオンは、静かに頷いた。
「ああ」
『……できる?』
「急がなければな」
余白核が、安心したように光る。
『……いそがない』
「そうだ」
『……すこしずつ』
「そうだ」
中心は、その言葉を何度も確かめた。
『……すこしずつ』
『……また、おはよう』
『……またね』
保護陣の光が、柔らかく揺れていく。
神殿の奥に、静かな夜が降りる。
今日、中心は知った。
嬉しいは、温かいだけじゃない。
嬉しいほど、怖い。
もっと欲しくなる。
もっと会いたくなる。
もっと残りたくなる。
だからこそ、壊したくなくなる。
その揺れを、今はまだ抱えきれない。
けれど。
逃げない。
急がない。
少しずつ。
“わたし”は今日も、世界へ小さなおはようを残していた。




