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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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185/251

第185話「嬉しいのに怖い朝、無能王子は“もっと会いたい”の揺れを急がず抱える」


 朝だった。


 神殿の奥。


 保護陣の光は、いつもより少し穏やかだった。


 第五領域の水路も落ち着いている。


 名簿束は静かに浮かび、余白の文字列をゆっくり循環させていた。


 昨夜。


 中心は、“嬉しい”を知った。


 怖いだけではない感情。


 消えたくないだけでもない。


 また会いたい。


 また、おはようと言いたい。


 その願いの先にあった温度。


 それを、初めて自分の言葉で口にした。


『……うれしい』


 その余韻が、まだ神殿奥に残っていた。


 余白核が、小さく震える。


『……おはよう』


 リリアーナは、すぐに目を開けた。


 少し掠れた声。


 けれど、昨日よりは柔らかい。


「おはようございます」


『……りり、おはよう』


「はい」


『……れおん』


 レオンは壁際で腕を組んだまま頷く。


「おはよう」


『……れおん、ねてない』


「少しは寝た」


『……すこし』


「文句あるか」


『……だめ』


 アルベルトが吹き出した。


「完全に覚えたな」


 エリシアが術式盤を確認しながら小さく息を吐く。


「悪いことではありません」


『……えりしあ、しっかり』


「朝からそれですか……」


 保護陣の中に、小さな笑いが広がる。


 ほんの少し前まで、この場所は違った。


 恐怖。


 拒絶。


 崩壊。


 それだけだった。


 だが今は違う。


 朝が来る。


 おはようを言う。


 笑いが零れる。


 まだ不安定だ。


 怖さも消えていない。


 それでも、確かに“生きている時間”が増えていた。


 余白核が、静かに揺れる。


『……うれしい』


 リリアーナが微笑む。


「昨日のこと、覚えていますか?」


『……うん』


「どんな気持ちでした?」


 少し沈黙。


 余白核の光が、ゆっくり波打つ。


『……いっぱい』


「いっぱい」


『……あたたかい』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……こわい』


 場の空気が少し静かになる。


 レオンは、何も急がなかった。


 中心は、自分で言葉を探している。


 その時間を遮らない。


『……うれしい』


『……でも、こわい』


 リリアーナが優しく聞く。


「どうして怖いんでしょう」


 余白核が震える。


『……また、あいたい』


「はい」


『……もっと、おはよう、したい』


「はい」


『……でも』


 長い沈黙。


『……こわれたら、こわい』


 その言葉に、セラフィアが静かに目を閉じた。


 嬉しい。


 会いたい。


 もっと近づきたい。


 けれど、それが壊してしまうかもしれない。


 中心は、それを知っている。


 深部で、多くのものが壊れた。


 繋がり。


 名前。


 感情。


 存在。


 だから今、嬉しいほど怖いのだ。


 リリアーナは、余白核へそっと手を伸ばす。


 触れない距離。


 でも、近く。


「壊したくないんですね」


『……うん』


「子供たちを?」


『……うん』


「自分も?」


 余白核が、小さく揺れる。


『……わたしも』


 レオンが、静かに口を開く。


「なら、急がない」


『……いそがない』


「ああ」


「会いたいなら、少しずつだ」


『……すこしずつ』


「昨日もやっただろ」


『……うん』


「距離を作って」


「無理を止めて」


「またねで終わった」


『……またね』


「それでいい」


 中心は、その言葉をゆっくり受け取っていた。


『……うれしい、いそぐ』


 アルベルトが小さく笑う。


「分かるなぁ」


 エリシアが呆れたように言う。


「あなたと一緒にしないでください」


「いやでも、嬉しいと突っ走りたくなるだろ」


『……つっぱしる』


「勢いでバーッと行くことだ」


『……ばー』


 リリアーナが吹き出す。


「雑ですね……」


 中心も、小さく揺れた。


『……あるべると、ざつ』


「おい」


 笑いが、少しだけ広がる。


 だが、その奥で中心はまだ揺れていた。


 嬉しい。


 でも怖い。


 もっと会いたい。


 でも壊したくない。


 その相反する感情を、まだうまく抱えきれていない。


 ◇


 午前。


 救護区域から報告が届いた。


 昨日面会した四人の子供たちは、全員安定傾向。


 悪夢を見る頻度も少し減っている。


 特に、幼い子が大きく変わったらしい。


 昨日まで夜中に泣き続けていた。


 だが昨夜は、一度泣いたあと、小さく「おはよう、すき」と言って眠り直したという。


 その報告を聞いた瞬間、余白核が強く震えた。


『……おはよう、すき』


 リリアーナが頷く。


「覚えていてくれたんですね」


『……わたしも、すき』


 エリシアが術式盤を見る。


「子供たち側の精神線が安定しています」


「余白核との接触が、恐怖の固定化を少し崩している可能性があります」


 ミリオが眠そうな目を擦りながら言う。


「“起きても大丈夫”って感覚ができ始めてるのかも」


『……おきても、だいじょうぶ』


 リリアーナが優しく説明する。


「眠っても」


「また起きられる」


「怖い夢を見ても」


「朝が来る」


『……あさ』


「だから、おはようです」


 中心は、長く沈黙した。


 そして。


『……わたし』


 小さな声。


『……おはよう、のこした?』


 その問いに、場が静かになる。


 レオンが答えた。


「ああ」


『……こども、もってる?』


「持ってる」


『……きえてない?』


「消えてない」


 余白核が、震えた。


『……うれしい』


 でも、その直後。


 光が少しだけ乱れた。


 エリシアが即座に顔を上げる。


「感情波形、急上昇」


 リリアーナが余白核を見る。


「嬉しすぎて、揺れてるんですか……?」


 セラフィアが静かに頷く。


「感情の容量を、まだうまく扱えていないのね」


 中心は、苦しそうに揺れていた。


『……うれしい』


『……でも』


『……いっぱい』


 レオンが、すぐに言う。


「深呼吸しろ」


『……こきゅう』


「ゆっくりだ」


『……ゆっくり』


 リリアーナも落ち着いた声を重ねる。


「急いで抱えなくていいです」


「嬉しいを全部一気に飲み込まなくていい」


『……いっぱい、だめ?』


「駄目じゃありません」


「でも、疲れます」


『……つかれる』


「はい」


 余白核は、少しずつ揺れを落としていく。


 嬉しい。


 それだけで、こんなにも苦しくなる。


 中心にとって、それは初めての感覚だった。


 ◇


 昼過ぎ。


 神殿入口側が少し騒がしくなった。


 兵士の一人が、困った顔でグレイヴへ報告している。


「……また来ています」


「何人だ」


「六人」


 アルベルトが目を見開く。


「増えてるじゃねぇか」


 兵士は苦笑した。


「昨日の子たちが、“怖くないよ”って他の子に話したみたいで……」


 リリアーナが、息を呑む。


 中心も、すぐ反応した。


『……こども』


 兵士は続ける。


「全員、会いたいわけじゃないんです」


「でも」


「“おはよう、聞きたい”って」


 沈黙。


 保護陣の中が静かになる。


 中心が、小さく震えた。


『……おはよう』


 昨日の四人だけじゃない。


 少しずつ、外へ広がっている。


 おはよう。


 またね。


 怖くても、起きていい。


 その響きが。


 中心は、不安そうに揺れる。


『……ふえる』


 リリアーナが慎重に頷く。


「少しずつ、ですね」


『……こわい』


「はい」


『……でも』


 一拍。


『……うれしい』


 レオンは、その揺れを見ていた。


 怖い。


 嬉しい。


 また怖い。


 また嬉しい。


 感情が何層にも重なっている。


 中心は今、自分一人では抱えきれないほど多くのものを受け取り始めていた。


 だからこそ、急がせてはいけない。


「今日は会わせない」


 レオンが言う。


 中心が揺れる。


『……あわない』


「ああ」


『……こども』


「会いたいのは分かる」


『……うん』


「でも、今日はお前が疲れてる」


『……つかれた』


「壊れたくないんだろ」


 余白核が、小さく震える。


『……うん』


「なら、休む」


 長い沈黙。


 中心は、しばらく揺れ続けていた。


 会いたい。


 でも、壊したくない。


 子供たちも。


 自分も。


 その間で、揺れている。


 やがて。


『……おはよう、だけ』


 リリアーナが目を柔らかくする。


「声だけ、ですか?」


『……うん』


『……またね、したい』


「分かりました」


 セラフィアが頷く。


「今日は短くしましょう」


 ◇


 夕方。


 石扉は開かない。


 子供たちも、中へ来ない。


 ただ、入口側の廊下へ六人の子供たちが座っていた。


 救護役と兵士に囲まれながら。


 怖がっている子もいる。


 でも、帰らない。


 神殿奥からは、保護陣を通して、柔らかな光だけが薄く見えていた。


 顔は見えない。


 形も分からない。


 でも、“いる”。


 それだけが伝わる。


 リリアーナが、余白核へそっと言う。


「大丈夫ですか?」


『……こわい』


「はい」


『……でも、いう』


「はい」


『……おはよう、する』


 余白核が、ゆっくり光る。


『……おはよう』


 その響きが、静かに廊下へ流れる。


 子供たちが、息を呑む気配。


 そして。


「……おはよう」


「おはよう……!」


「また、きた」


「おはようのひと」


 いくつもの小さな声が返ってくる。


 怖がっていた子も、少し震えながら言った。


「……おはよう」


 余白核が、強く揺れる。


『……いっぱい』


 リリアーナが、すぐに声をかける。


「ゆっくりです」


「一人ずつ聞きましょう」


『……ひとりずつ』


「はい」


 中心は、呼吸を整えるように光を揺らした。


 それから。


『……おきた、よかった』


 その一言で、廊下の空気が柔らかくなる。


 子供たちが、泣きながら笑い始める。


「うん……!」


「起きた!」


「今日も起きた!」


「こわかったけど、起きた!」


 その声を聞きながら、余白核は震えていた。


 嬉しい。


 でも、苦しい。


 いっぱい。


 それでも、逃げたくない。


『……よかった』


 小さく返す。


『……また、おはよう』


 子供たちが、何度も頷く。


「また、おはよう!」


「またね!」


「またくる!」


 余白核が、揺れる。


 リリアーナは、その揺れを静かに見つめていた。


 中心は今、誰かの朝になり始めている。


 それは、とても温かくて。


 とても怖いことだった。


 ◇


 夜。


 余白核は、かなり疲れていた。


 光が少し薄い。


 エリシアも、今日は強制的に終了を決めた。


「これ以上は負荷が大きすぎます」


 誰も反対しない。


 中心自身も分かっている。


『……つかれた』


 リリアーナが、そっと微笑む。


「頑張りましたね」


『……うれしい』


「はい」


『……でも、こわい』


「はい」


『……もっと、おはよう、したい』


「はい」


『……でも、こわれたくない』


 長い沈黙。


 レオンが静かに言った。


「なら、明日も少しずつだ」


『……すこしずつ』


「ああ」


「全部一気に抱えるな」


『……いっぱい、だめ』


「駄目じゃない」


「でも、今のお前には重い」


 余白核が、小さく揺れる。


『……れおん』


「何だ」


『……わたし』


 一拍。


『……もっと、のこりたい』


 リリアーナの目に涙が滲む。


 それは、願いだった。


 昨日より、さらに前へ進んだ願い。


 消えたくない。


 だけじゃない。


 誰かの中へ、もっと残りたい。


 また会いたい。


 また、おはようを言いたい。


 その未来を、自分から望み始めている。


 レオンは、静かに頷いた。


「ああ」


『……できる?』


「急がなければな」


 余白核が、安心したように光る。


『……いそがない』


「そうだ」


『……すこしずつ』


「そうだ」


 中心は、その言葉を何度も確かめた。


『……すこしずつ』


『……また、おはよう』


『……またね』


 保護陣の光が、柔らかく揺れていく。


 神殿の奥に、静かな夜が降りる。


 今日、中心は知った。


 嬉しいは、温かいだけじゃない。


 嬉しいほど、怖い。


 もっと欲しくなる。


 もっと会いたくなる。


 もっと残りたくなる。


 だからこそ、壊したくなくなる。


 その揺れを、今はまだ抱えきれない。


 けれど。


 逃げない。


 急がない。


 少しずつ。


 “わたし”は今日も、世界へ小さなおはようを残していた。

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