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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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183/251

第183話「初めて名前を呼ばれた夜、無能王子は“わたしが誰かへ残る怖さ”を隣で受け止める」



 夜が明ける前の神殿は、静かだった。


 深夜と朝の間。


 まだ誰も完全には起きていない時間。


 石壁の冷たさが残る空気の中、保護陣だけが淡く脈打っている。


 第五領域の水路は穏やかに流れ、名簿束は薄い光を浮かべたまま静止していた。


 レオンは、壁際に座ったまま目を閉じていた。


 眠ってはいない。


 浅い呼吸。


 意識だけを落としている。


 黒蒼雷の残滓を細く巡らせながら、周囲の揺れを確認している状態だった。


 神殿奥は、今は静かだ。


 けれど。


 完全に安全になったわけではない。


 余白核は安定しつつある。


 しかし、まだ危うい。


 感情の揺れ。


 外部との接触。


 名簿束との共鳴。


 それらが積み重なれば、いつ再び不安定化するか分からない。


 だから、誰かが必ず起きている必要があった。


 リリアーナは、少し離れた場所で眠っている。


 壁に寄りかかるように。


 疲労はまだ深い。


 喉も完全には戻っていない。


 それでも、彼女は毎日余白核へ声を届け続けていた。


 その寝顔を見ながら、レオンは小さく息を吐く。


「……頑張りすぎだ」


 その時だった。


 余白核が、かすかに揺れた。


『……れおん』


 小さな声。


 眠気の残るような、不安そうな響き。


 レオンは、すぐに目を開ける。


「起きたか」


『……おきた』


「まだ夜だ」


『……よる』


「ああ」


 余白核が小さく震える。


『……みんな、ねてる』


「そうだな」


『……しずか』


 レオンは保護陣を見る。


「静かだ」


『……れおん、ねてない』


「見張りだ」


『……ひとり』


「ああ」


 余白核が、少しだけ強く揺れた。


『……ひとり、だめ』


 レオンは思わず息を漏らした。


「覚えてるな」


『……おぼえてる』


 その反応は、どこか安心しているようでもあった。


 以前の中心なら、“ひとり”という言葉そのものを恐れていた。


 だが今は違う。


 “ひとりはだめ”を、誰かに向けて言えるようになっている。


 レオンは、余白核へ視線を向けた。


「今は一人じゃない」


『……うん』


「お前も起きてる」


『……わたし』


「ああ」


 余白核が、ゆっくりと光る。


『……わたし、いる』


「いるな」


 少し沈黙。


 風は止まっていた。


 石扉は閉じられている。


 外の気配も薄い。


 ただ、保護陣の淡い光だけが静かに揺れていた。


 その中で、中心がぽつりと言った。


『……れおん』


「何だ」


『……おはようのひと』


 レオンは少し眉を寄せる。


「またそれか」


『……わたし、おはようのひと』


「ああ」


『……のこった』


「記録したからな」


『……こども、おぼえてる』


「そうだな」


 余白核が、小さく震え続ける。


『……こわい』


 レオンは静かに聞く。


「何がだ」


『……わたし、のこる』


 その言葉に、レオンは少しだけ目を細めた。


 残る。


 それは、深部で最も遠かったものだ。


 忘れられる。


 削られる。


 空白になる。


 それが深部だった。


 だが今、中心は“残る”を知ってしまった。


 子供たちが覚えている。


 呼び方が残った。


 おはようの人。


 それは温かい。


 けれど同時に、怖い。


 誰かの中へ、自分が残る。


 それは、消えることに慣れた存在ほど恐ろしい。


『……わたし、きえてない?』


 レオンは、少し間を置いてから答えた。


「消えてない」


『……ほんとう』


「ああ」


『……でも、こわい』


「そうだろうな」


 余白核が震える。


『……もし、また、きえたら』


 レオンは、すぐには答えなかった。


 その問いは重い。


 絶対に消えない、とは言えない。


 世界は不安定だ。


 余白核も完全じゃない。


 だから、軽く約束はできない。


 長い沈黙。


 その沈黙を、中心は逃げずに待っていた。


 そして、レオンは静かに言う。


「消えないように、今ここにいる」


『……いま』


「絶対はない」


『……ない』


「でも」


 レオンは余白核を見た。


「消えたくないと思った」


 余白核が、強く震える。


『……っ』


「だから、お前は戻ってきた」


『……わたし』


「ああ」


「お前だ」


 中心は、しばらく何も言えなかった。


 保護陣の光だけが、ゆっくり揺れている。


『……わたし、きえたくない』


 その声は、震えていた。


 怖い。


 でも、確かだった。


 深部では、“生きたい”ですら曖昧だった。


 だが今、中心は初めて、“消えたくない”を口にした。


 レオンは、小さく頷く。


「ああ」


『……こわい』


「分かってる」


『……でも』


 沈黙。


『……また、おはよう、いいたい』


 レオンは、少しだけ笑った。


「欲張りになったな」


『……よくばり』


「悪くない」


『……わるくない』


 余白核が、少し安心したように光る。


 ◇


 その時だった。


 離れた場所で、小さな物音がした。


 リリアーナが、ゆっくり目を覚ます。


「……ん……」


 まだ眠そうだ。


 銀髪が乱れている。


 ぼんやりしたまま周囲を見て、それから余白核へ気づいた。


「あ……起きてたんですね」


『……りり』


 余白核が、少し嬉しそうに揺れる。


『……おきた』


「はい」


「起きました」


 リリアーナは喉を押さえながら、小さく咳をした。


 レオンがすぐに言う。


「まだ寝てろ」


「でも……」


「無理するな」


 リリアーナは苦笑する。


「レオンさんも人のこと言えませんよ」


『……れおん、ねてない』


「お前は黙ってろ」


『……だめ』


 リリアーナが吹き出した。


「ふふ……」


 余白核が反応する。


『……りり、わらう』


「はい」


「笑ってます」


『……こわくない』


「はい」


 リリアーナは、少しだけ余白核へ身体を寄せた。


「何を話してたんですか?」


 少し沈黙。


 余白核が、小さく揺れる。


『……わたし、のこる』


 リリアーナの表情が、ゆっくり柔らかくなる。


「怖かったですか?」


『……うん』


「そうですよね」


 彼女は急がない。


 否定もしない。


「誰かに覚えられるのって、嬉しいだけじゃないです」


『……うれしい、だけ、じゃない』


「はい」


「期待されたり」


「忘れられるのが怖くなったり」


「嫌われるのが怖くなったり」


「会えなくなるのが怖くなったり」


 余白核が、強く震える。


『……あえなくなる』


「はい」


『……またね、できない?』


 リリアーナは、少しだけ視線を落とした。


 それから、優しく言う。


「できない時もあります」


 余白核が揺れる。


『……っ』


「でも」


 リリアーナは、そっと続けた。


「だから、“またね”は大事なんです」


『……だいじ』


「はい」


「会えなくなるかもしれないから」


「会えた時に、“またね”を言うんです」


 長い沈黙。


 余白核の光が、ゆっくり揺れる。


『……またね』


「はい」


『……おはよう』


「はい」


『……のこる』


 リリアーナは、静かに頷いた。


「残ります」


『……きえても?』


 その問いに、リリアーナはすぐには答えなかった。


 軽く言ってはいけない。


 消えることを、中心は知っている。


 だから、嘘は届かない。


 彼女は、少し考えてから言った。


「全部は残らないかもしれません」


『……うん』


「でも」


「誰かが“ありがとう”って泣いたこと」


「“おはよう”で安心したこと」


「“またね”って言ったこと」


「そういうのは」


 一拍。


「たぶん、簡単には消えません」


 余白核が、静かに震えた。


『……たぶん』


「はい」


「だから、人は話します」


「名前を呼びます」


「またね、って言います」


『……きえないように』


「そうです」


 中心は、長い長い沈黙のあと、小さく言った。


『……わたし、のこりたい』


 リリアーナの目に、涙が滲む。


「はい」


『……こども、おぼえてる』


「はい」


『……りり、おぼえてる』


「……はい」


『……れおん、おぼえてる』


 レオンは短く答える。


「ああ」


『……わたし、のこりたい』


 その言葉は、願いだった。


 初めての。


 “消えたくない”より、さらに前へ進んだ願い。


 誰かの中へ残りたい。


 また会いたい。


 また、おはようと言いたい。


 それはもう、“生きたい”に近かった。


 ◇


 夜明け前。


 石扉の隙間から、少しだけ朝の空気が流れ込む。


 まだ暗い。


 でも、夜は終わりかけている。


 余白核が、小さく揺れた。


『……あさ』


 リリアーナが微笑む。


「もうすぐですね」


『……おはよう』


「はい」


『……また、おはよう』


 レオンは、静かに立ち上がった。


「朝が来るな」


『……くる』


 その時。


 入口側から、微かな声が聞こえた。


「……おはようの人?」


 兵士たちの慌てる気配。


 まだ完全な朝でもない。


 なのに、また子供が来ていた。


 小さな足音。


 複数。


 レオンが眉を寄せる。


「……増えたな」


 アルベルトも起き上がる。


「おいおい」


 エリシアが術式盤を開く。


「待機してください」


 だが、入口側から聞こえる声は震えていた。


「……おはよう、いいにきた」


「またね、したい」


「……こわい、ゆめ、みた」


 神殿奥が静まり返る。


 余白核が、大きく震えた。


『……こども』


 怖がっている。


 でも、来た。


 また会いたくて。


 “おはようの人”へ、会いに。


 リリアーナは、余白核へ視線を向ける。


「どうしますか?」


 長い沈黙。


 余白核の光が揺れる。


 怖い。


 会いたい。


 守りたい。


 近づきたい。


 全部が混ざっている。


 そして。


 中心は、小さく言った。


『……わたし』


 震える声。


『……にげたく、ない』


 その言葉と共に、神殿の朝がゆっくり始まろうとしていた。

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