第183話「初めて名前を呼ばれた夜、無能王子は“わたしが誰かへ残る怖さ”を隣で受け止める」
夜が明ける前の神殿は、静かだった。
深夜と朝の間。
まだ誰も完全には起きていない時間。
石壁の冷たさが残る空気の中、保護陣だけが淡く脈打っている。
第五領域の水路は穏やかに流れ、名簿束は薄い光を浮かべたまま静止していた。
レオンは、壁際に座ったまま目を閉じていた。
眠ってはいない。
浅い呼吸。
意識だけを落としている。
黒蒼雷の残滓を細く巡らせながら、周囲の揺れを確認している状態だった。
神殿奥は、今は静かだ。
けれど。
完全に安全になったわけではない。
余白核は安定しつつある。
しかし、まだ危うい。
感情の揺れ。
外部との接触。
名簿束との共鳴。
それらが積み重なれば、いつ再び不安定化するか分からない。
だから、誰かが必ず起きている必要があった。
リリアーナは、少し離れた場所で眠っている。
壁に寄りかかるように。
疲労はまだ深い。
喉も完全には戻っていない。
それでも、彼女は毎日余白核へ声を届け続けていた。
その寝顔を見ながら、レオンは小さく息を吐く。
「……頑張りすぎだ」
その時だった。
余白核が、かすかに揺れた。
『……れおん』
小さな声。
眠気の残るような、不安そうな響き。
レオンは、すぐに目を開ける。
「起きたか」
『……おきた』
「まだ夜だ」
『……よる』
「ああ」
余白核が小さく震える。
『……みんな、ねてる』
「そうだな」
『……しずか』
レオンは保護陣を見る。
「静かだ」
『……れおん、ねてない』
「見張りだ」
『……ひとり』
「ああ」
余白核が、少しだけ強く揺れた。
『……ひとり、だめ』
レオンは思わず息を漏らした。
「覚えてるな」
『……おぼえてる』
その反応は、どこか安心しているようでもあった。
以前の中心なら、“ひとり”という言葉そのものを恐れていた。
だが今は違う。
“ひとりはだめ”を、誰かに向けて言えるようになっている。
レオンは、余白核へ視線を向けた。
「今は一人じゃない」
『……うん』
「お前も起きてる」
『……わたし』
「ああ」
余白核が、ゆっくりと光る。
『……わたし、いる』
「いるな」
少し沈黙。
風は止まっていた。
石扉は閉じられている。
外の気配も薄い。
ただ、保護陣の淡い光だけが静かに揺れていた。
その中で、中心がぽつりと言った。
『……れおん』
「何だ」
『……おはようのひと』
レオンは少し眉を寄せる。
「またそれか」
『……わたし、おはようのひと』
「ああ」
『……のこった』
「記録したからな」
『……こども、おぼえてる』
「そうだな」
余白核が、小さく震え続ける。
『……こわい』
レオンは静かに聞く。
「何がだ」
『……わたし、のこる』
その言葉に、レオンは少しだけ目を細めた。
残る。
それは、深部で最も遠かったものだ。
忘れられる。
削られる。
空白になる。
それが深部だった。
だが今、中心は“残る”を知ってしまった。
子供たちが覚えている。
呼び方が残った。
おはようの人。
それは温かい。
けれど同時に、怖い。
誰かの中へ、自分が残る。
それは、消えることに慣れた存在ほど恐ろしい。
『……わたし、きえてない?』
レオンは、少し間を置いてから答えた。
「消えてない」
『……ほんとう』
「ああ」
『……でも、こわい』
「そうだろうな」
余白核が震える。
『……もし、また、きえたら』
レオンは、すぐには答えなかった。
その問いは重い。
絶対に消えない、とは言えない。
世界は不安定だ。
余白核も完全じゃない。
だから、軽く約束はできない。
長い沈黙。
その沈黙を、中心は逃げずに待っていた。
そして、レオンは静かに言う。
「消えないように、今ここにいる」
『……いま』
「絶対はない」
『……ない』
「でも」
レオンは余白核を見た。
「消えたくないと思った」
余白核が、強く震える。
『……っ』
「だから、お前は戻ってきた」
『……わたし』
「ああ」
「お前だ」
中心は、しばらく何も言えなかった。
保護陣の光だけが、ゆっくり揺れている。
『……わたし、きえたくない』
その声は、震えていた。
怖い。
でも、確かだった。
深部では、“生きたい”ですら曖昧だった。
だが今、中心は初めて、“消えたくない”を口にした。
レオンは、小さく頷く。
「ああ」
『……こわい』
「分かってる」
『……でも』
沈黙。
『……また、おはよう、いいたい』
レオンは、少しだけ笑った。
「欲張りになったな」
『……よくばり』
「悪くない」
『……わるくない』
余白核が、少し安心したように光る。
◇
その時だった。
離れた場所で、小さな物音がした。
リリアーナが、ゆっくり目を覚ます。
「……ん……」
まだ眠そうだ。
銀髪が乱れている。
ぼんやりしたまま周囲を見て、それから余白核へ気づいた。
「あ……起きてたんですね」
『……りり』
余白核が、少し嬉しそうに揺れる。
『……おきた』
「はい」
「起きました」
リリアーナは喉を押さえながら、小さく咳をした。
レオンがすぐに言う。
「まだ寝てろ」
「でも……」
「無理するな」
リリアーナは苦笑する。
「レオンさんも人のこと言えませんよ」
『……れおん、ねてない』
「お前は黙ってろ」
『……だめ』
リリアーナが吹き出した。
「ふふ……」
余白核が反応する。
『……りり、わらう』
「はい」
「笑ってます」
『……こわくない』
「はい」
リリアーナは、少しだけ余白核へ身体を寄せた。
「何を話してたんですか?」
少し沈黙。
余白核が、小さく揺れる。
『……わたし、のこる』
リリアーナの表情が、ゆっくり柔らかくなる。
「怖かったですか?」
『……うん』
「そうですよね」
彼女は急がない。
否定もしない。
「誰かに覚えられるのって、嬉しいだけじゃないです」
『……うれしい、だけ、じゃない』
「はい」
「期待されたり」
「忘れられるのが怖くなったり」
「嫌われるのが怖くなったり」
「会えなくなるのが怖くなったり」
余白核が、強く震える。
『……あえなくなる』
「はい」
『……またね、できない?』
リリアーナは、少しだけ視線を落とした。
それから、優しく言う。
「できない時もあります」
余白核が揺れる。
『……っ』
「でも」
リリアーナは、そっと続けた。
「だから、“またね”は大事なんです」
『……だいじ』
「はい」
「会えなくなるかもしれないから」
「会えた時に、“またね”を言うんです」
長い沈黙。
余白核の光が、ゆっくり揺れる。
『……またね』
「はい」
『……おはよう』
「はい」
『……のこる』
リリアーナは、静かに頷いた。
「残ります」
『……きえても?』
その問いに、リリアーナはすぐには答えなかった。
軽く言ってはいけない。
消えることを、中心は知っている。
だから、嘘は届かない。
彼女は、少し考えてから言った。
「全部は残らないかもしれません」
『……うん』
「でも」
「誰かが“ありがとう”って泣いたこと」
「“おはよう”で安心したこと」
「“またね”って言ったこと」
「そういうのは」
一拍。
「たぶん、簡単には消えません」
余白核が、静かに震えた。
『……たぶん』
「はい」
「だから、人は話します」
「名前を呼びます」
「またね、って言います」
『……きえないように』
「そうです」
中心は、長い長い沈黙のあと、小さく言った。
『……わたし、のこりたい』
リリアーナの目に、涙が滲む。
「はい」
『……こども、おぼえてる』
「はい」
『……りり、おぼえてる』
「……はい」
『……れおん、おぼえてる』
レオンは短く答える。
「ああ」
『……わたし、のこりたい』
その言葉は、願いだった。
初めての。
“消えたくない”より、さらに前へ進んだ願い。
誰かの中へ残りたい。
また会いたい。
また、おはようと言いたい。
それはもう、“生きたい”に近かった。
◇
夜明け前。
石扉の隙間から、少しだけ朝の空気が流れ込む。
まだ暗い。
でも、夜は終わりかけている。
余白核が、小さく揺れた。
『……あさ』
リリアーナが微笑む。
「もうすぐですね」
『……おはよう』
「はい」
『……また、おはよう』
レオンは、静かに立ち上がった。
「朝が来るな」
『……くる』
その時。
入口側から、微かな声が聞こえた。
「……おはようの人?」
兵士たちの慌てる気配。
まだ完全な朝でもない。
なのに、また子供が来ていた。
小さな足音。
複数。
レオンが眉を寄せる。
「……増えたな」
アルベルトも起き上がる。
「おいおい」
エリシアが術式盤を開く。
「待機してください」
だが、入口側から聞こえる声は震えていた。
「……おはよう、いいにきた」
「またね、したい」
「……こわい、ゆめ、みた」
神殿奥が静まり返る。
余白核が、大きく震えた。
『……こども』
怖がっている。
でも、来た。
また会いたくて。
“おはようの人”へ、会いに。
リリアーナは、余白核へ視線を向ける。
「どうしますか?」
長い沈黙。
余白核の光が揺れる。
怖い。
会いたい。
守りたい。
近づきたい。
全部が混ざっている。
そして。
中心は、小さく言った。
『……わたし』
震える声。
『……にげたく、ない』
その言葉と共に、神殿の朝がゆっくり始まろうとしていた。




