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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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182/251

第182話「もう一度近づきたい朝、無能王子は“怖くても会いたい”を守る」


 女の子が去った後も、神殿の奥にはしばらく誰の声もなかった。


 石扉の隙間から入ってきた風だけが、保護陣の端を微かに揺らしている。


 外の匂い。


 土の匂い。


 遠くの人の気配。


 そして、泣きながら笑った子供の残した温度。


 それが、まだ空気の中に残っていた。


 余白核は、淡く震えていた。


『……ありがとう』


 小さな反応。


 誰かに言われた言葉。


 自分が返した言葉。


 それを、何度も確かめるように。


『……ありがとう、きた』


 リリアーナは、喉を押さえながら優しく頷いた。


「はい」


「ありがとうを言いに、来てくれました」


『……こわかった』


「そうですね」


「怖かったと思います」


『……でも、きた』


「はい」


「来てくれました」


 中心は、長く沈黙した。


 その沈黙は、深部での沈黙とは違う。


 何もない沈黙ではない。


 考えている沈黙。


 怖さと温かさを、どこへ置けばいいのか探している沈黙。


 レオンは、その余白核をじっと見ていた。


 外殻が消えた後。


 中心は少しずつ言葉を覚えた。


 おはよう。


 また。


 みんな。


 わたし。


 そして今、外の子供と直接言葉を交わした。


 それは小さな出来事に見える。


 だが、レオンには分かっていた。


 戦いと同じくらい、大きな出来事だった。


 刃を交えたわけではない。


 雷を放ったわけでもない。


 しかし、中心にとっては、外の世界そのものに触れた瞬間だった。


 怖い世界。


 泣いている世界。


 でも、ありがとうを言いに来る誰かがいる世界。


 中心は、その両方を同時に受け取った。


『……そと』


 小さな声。


 リリアーナが答える。


「外ですね」


『……こわい』


「はい」


『……でも、あたたかい』


「はい」


『……こわい、でも、あたたかい』


 リリアーナは、涙を浮かべて微笑んだ。


「どちらも、本当です」


 中心が揺れる。


『……どちらも』


「怖いだけじゃなくて」


「あたたかいだけでもなくて」


「どちらもあります」


『……どちらも、ある』


 レオンが頷く。


「そうだ」


 中心が、少しだけレオンの方へ反応を向ける。


『……れおんも?』


「俺も?」


『……こわい、でも、まもる』


 アルベルトが遠くで笑いを堪えた。


 エリシアが小さく咳払いをする。


 レオンは真顔のまま答えた。


「そうだな」


「怖いけど、守る」


『……どちらも』


「ああ」


「どちらも」


 中心は、安心したように淡く光った。


『……どちらも、ある』


 それは、中心にとって大切な学びだった。


 ひとつのものに、ひとつの意味だけがあるわけではない。


 外は怖い。


 でも温かい。


 人は怖い。


 でもありがとうを言う。


 レオンは怖い。


 でも守る。


 アリシアは悲しい。


 でも助けたい。


 世界は、ひとつの感情だけでできていない。


 それを、中心は少しずつ知り始めていた。


 ◇


 その日の午後、神殿入口付近は少し騒がしくなった。


 もちろん、奥殿へ人を入れることは許されていない。


 グレイヴが厳しく線を引いている。


 兵士たちは、それを守っていた。


 だが、女の子が「おはようの人」にありがとうを言いに行ったという話は、救護区域で広がっていたらしい。


 子供たちの間で。


 そして、子供たちを看ている大人たちの間で。


 おはようの人。


 その呼び方が、外で生まれていた。


 エリシアが報告を受けて、微妙な顔をした。


「……呼称が発生しています」


 アルベルトが眉を寄せる。


「呼称?」


「“おはようの人”です」


 中心がすぐに反応した。


『……おはようのひと』


 リリアーナが驚いたように余白核を見る。


「あなたのこと、みたいですね」


『……わたし?』


「はい」


「あなたが届けたおはようを、覚えてくれているんだと思います」


 中心は、強く震えた。


『……わたし、おはようのひと?』


 レオンは少し考える。


「名前ではない」


 中心が揺れる。


『……なまえ、じゃない』


「ああ」


「でも、呼び方だ」


『……よびかた』


 リリアーナが優しく続ける。


「前に“あなた”って呼びましたよね」


「それと少し似ています」


「誰かが、あなたを思い出すための呼び方です」


 中心は、余白核の中で揺れ続けた。


『……おはようのひと』


『……こわい』


「怖いですか?」


『……うん』


「嫌ですか?」


 少し沈黙。


『……いや、じゃない』


 リリアーナの表情が柔らかくなる。


「嫌ではないんですね」


『……でも、わからない』


「分からないままで大丈夫です」


 中心は、何度もその呼び方を確かめた。


『……おはようのひと』


『……わたし?』


『……なまえ、じゃない』


『……でも、よびかた』


 セラフィアが静かに言った。


「とても自然なことよ」


「名前の前に、呼び方が生まれる」


「誰かがその子を見て、感じて、覚えた印として」


 リーネの光が名簿束のそばで揺れる。


『記録しますか?』


 中心がびくりと震える。


『……きろく』


 リリアーナがすぐに言う。


「嫌なら、しなくていいです」


『……きろく、こわい?』


 レオンが答える。


「怖いなら怖いと言っていい」


 中心は、少し考えた。


『……きろく、して』


 リリアーナが目を見開く。


「いいんですか?」


『……わすれない』


 その言葉に、場が静かになった。


『……おはよう、わすれない』


 リーネの光が、静かに強くなる。


『記録します』


『ただし、名前ではなく呼称として』


『おはようの人』


『外の子供たちが、安心の響きとして呼んだもの』


 名簿束とは別の、小さな余白記録の端に、その言葉が刻まれる。


 おはようの人。


 中心は、それを見つめるように揺れた。


『……のこった』


 リリアーナが頷く。


「残りました」


『……こわい、でも、あたたかい』


「はい」


 その呼び方は、中心にとって名前ではない。


 でも、自分が外へ触れた証だった。


 ◇


 夕方近く。


 救護区域から新しい要望が届いた。


 昨日の女の子が、もう一度「おはようの人」に会いたいと言っている。


 そして、その話を聞いた他の子供たちの中にも、遠くからでいいから声を聞きたいと言う子が何人かいるらしい。


 その報告が入った瞬間、神殿奥の空気は重くなった。


 当然だった。


 一人の子供が偶然来た時とは違う。


 複数の子供。


 意図的な接触。


 中心にとっても、子供たちにとっても、負荷が大きすぎる可能性がある。


 エリシアは術式盤を見ながら言った。


「現段階で複数人との直接接触は推奨できません」


「余白核の不安定化リスクがあります」


「子供たち側にも、恐怖反応が戻る可能性があります」


 グレイヴが低く頷く。


「同意する」


「まだ早い」


 リリアーナは、何も言わず余白核を見た。


 中心は、震えている。


『……こども』


 レオンが問う。


「会いたいか」


 中心は、すぐには答えなかった。


 長い沈黙。


 保護陣の光が揺れる。


『……こわい』


「ああ」


『……でも、あいたい?』


 リリアーナが優しく聞く。


「自分でも、まだ分からないですか?」


『……わからない』


「そうですね」


「怖いと会いたいが、一緒にありますか?」


『……いっしょ』


『……こわい、あいたい、いっしょ』


 セラフィアが静かに言った。


「なら、今すぐ会わない方がいい」


 中心が揺れる。


『……あわない?』


「会いたいを消すのではないわ」


「会えるように、準備するの」


『……じゅんび』


「そう」


 リリアーナが続ける。


「前にも覚えましたね」


「会わないことで守ることもあります」


『……あわない、まもる』


「はい」


「でも、ずっと会わないわけではありません」


『……いつか』


「はい」


「いつか」


 中心は、不安そうに揺れた。


『……こども、まってる?』


 その問いが、胸に刺さった。


 待たせている。


 そう感じたのだろう。


 レオンは静かに答えた。


「待つのも大事だ」


『……まつ』


「待つのは、見捨てることじゃない」


『……みすてる?』


 リリアーナがそっと説明する。


「置いていくことに近いです」


 中心が強く震える。


『……おいていく、こわい』


 レオンがすぐに言う。


「違う」


「待つのは、置いていくことじゃない」


『……ちがう』


「安全に会うための時間だ」


 中心は、その言葉を受け取ろうとしていた。


『……まつ、あんぜん』


「そうだ」


 セラフィアが頷く。


「子供たちにも、そう伝えるわ」


「会わないのではなく、怖くない形を探している、と」


 中心は、少し落ち着いた。


『……こわくない、かたち』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「怖くない形を探しましょう」


 ◇


 結果として、直接面会は見送られた。


 代わりに、短い“おはようの響き”を夕方にも届けることになった。


 朝ではない。


 けれど、子供たちにとっては“目を開けても大丈夫”という意味になっている。


 だから、時間にこだわりすぎなくていい。


 中心は少し迷っていた。


『……ゆうがた、おはよう?』


 アルベルトが笑う。


「まあ、普通は違うな」


 エリシアが睨む。


「今それを言う必要はありません」


「いや、でも説明は必要だろ」


 リリアーナが優しく言う。


「本当は、朝の挨拶です」


「でも、今の子供たちには“また起きられてよかった”という意味で届いています」


『……いみ』


「はい」


「言葉には、使い方で少し意味が広がることがあります」


 中心が揺れる。


『……おはよう、よかった』


「そうです」


『……こども、よかった』


「はい」


 中心は、ゆっくり光った。


『……いう』


 セラフィアが祈りを整える。


 ミリオが細い精神線で救護区域への道を探る。


 エリシアが術式で反応を薄める。


 レオンが黒蒼雷で境界を安定させる。


 リリアーナが、余白核へ意識を寄せる。


「大きくしなくていいです」


「少しだけ」


『……すこし』


「怖くなったら止めます」


『……うん』


 余白核が、淡く光る。


『……おはよう』


 その響きは、昨日より少しだけ柔らかかった。


『……こわくても、おきた』


『……おきて、よかった』


『……また、おはよう』


 光が、保護陣から細く外へ流れていく。


 神殿の廊下を抜け。


 救護区域へ。


 子供たちの眠る場所へ。


 しばらくして、ミリオが目を開けた。


「届きました」


 皆が息を呑む。


「昨日より、拒絶反応が少ないです」


「泣いていた子が、二人、落ち着きました」


「あと……」


 ミリオの声が少し震える。


「昨日の女の子が、“またね”って言いました」


 中心が、強く反応した。


『……またね』


 リリアーナが涙を浮かべる。


「またね、です」


『……また、あう?』


「はい」


「また会おうね、という意味です」


『……また、あう』


「そうです」


 中心は、余白核の中で震え続けた。


『……こども、またね』


『……わたし、またね』


 レオンは静かに言った。


「返すか」


 中心が揺れる。


『……かえす』


「ああ」


「短く」


『……またね』


 その響きが、もう一度外へ流れた。


 小さく。


 優しく。


 怖さを含んだまま。


 それでも、確かに。


 ◇


 その夜、神殿奥はいつもより少しだけ温かかった。


 直接会わなかった。


 でも、言葉は届いた。


 子供たちから“またね”が返ってきた。


 それは中心にとって、大きな出来事だった。


 リリアーナは、余白核のそばで静かに座っていた。


「今日は、頑張りましたね」


『……がんばった』


「はい」


『……こわかった』


「はい」


『……でも、またね、きた』


「来ましたね」


『……また、あう?』


「きっと」


 中心が揺れる。


『……きっと』


 リリアーナは微笑む。


「たぶん、より少し強い言葉です」


『……たぶん、より、つよい』


「はい」


 レオンが余白核を見る。


「でも、約束しすぎるな」


 中心が少し揺れる。


『……だめ?』


「できない約束は、重くなる」


 リリアーナも頷いた。


「だから、“きっと”くらいがいいです」


『……きっと』


「はい」


「会えるように準備しましょう、という気持ちです」


 中心は安心したようだった。


『……きっと、またね』


 アリシアが、少し離れた場所から静かに言った。


「私も……いつか、子供たちに“またね”と言えるでしょうか」


 沈黙が落ちた。


 その問いは重い。


 アリシア自身が一番分かっている。


 今の彼女が子供たちに会うことは、まだ早い。


 赤い眼は弱まっているが、影響は残っている。


 何より、子供たちの恐怖がどう反応するか分からない。


 リリアーナが、ゆっくり答えた。


「きっと」


 アリシアが顔を上げる。


「今すぐじゃないです」


「でも」


「助けたいって思って」


「会わないことで守って」


「ちゃんと準備して」


「その先に」


 一拍。


「またね、はあると思います」


 アリシアの目から涙が落ちた。


「……はい」


 中心が、アリシアへ反応を向ける。


『……ありしあ、きっと、またね』


 アリシアは、涙のまま笑った。


「はい」


「きっと、またね」


 その言葉は、アリシア自身への救いでもあった。


 許されたわけではない。


 償いが終わったわけでもない。


 でも、未来を完全に閉ざされたわけではない。


 ◇


 夜が深まる。


 保護陣の光が柔らかく落ち着いていく。


 名簿束は静かに浮かび、第五領域の水路は穏やかに流れている。


 余白核は、少し疲れたように揺れていた。


『……りり』


「はい」


『……れおん』


「ここにいる」


『……こども、またね』


「ああ」


『……ありしあ、きっと、またね』


 アリシアが静かに頷く。


「はい」


『……わたし』


 その一言に、レオンとリリアーナが視線を向ける。


 中心は、ゆっくり続けた。


『……わたし、こわい』


「はい」


『……でも、あいたい』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「はい」


『……あわない、まもる』


「はい」


『……じゅんび、する』


「はい」


『……きっと、またね』


 レオンは、静かに頷いた。


「そうだ」


「きっと、またね」


 中心は、安心したように光を弱めていく。


『……おやすみ』


 リリアーナが答える。


「おやすみなさい」


 レオンも言った。


「おやすみ」


 皆も、静かに返す。


「おやすみ」


「また明日」


 余白核が最後に、かすかに震えた。


『……また、あした』


 その言葉を残して、中心は休んだ。


 神殿の奥には、穏やかな沈黙が降りる。


 今日、中心は外の風を知った。


 ありがとうを受け取った。


 おはようの人と呼ばれた。


 そして、子供たちと“またね”を交わした。


 名前はまだない。


 でも、距離が生まれた。


 関係が生まれた。


 怖くても、会いたいという気持ちが生まれた。


 レオンは、保護陣を見つめながら静かに息を吐く。


 これから先、中心はもっと多くを知る。


 温かいものも。


 痛いものも。


 嬉しいものも。


 苦しいものも。


 それでも、急がない。


 壊さない。


 少しずつ。


 またね、と言える距離を守りながら。


 名もない“わたし”は、外の世界へ向かって、ほんの少しだけ歩き始めていた。

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