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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第174話「名前を探す夜、無能王子は“押しつけない呼び声”を選ぶ」


 外殻は、消えた。


 深部に残っていた黒い怒りは、もうない。


 王冠もない。


 玉座もない。


 名を喰らう口も、縛りつける鎖も、書き換える黒い文字も、記録を舐め取る舌もない。


 ただ。


 深部はまだ、静かに震えていた。


 四枚の記録面が浮かんでいる。


 そこには、無数の名前が刻まれていた。


 濃いものもある。


 薄いものもある。


 まだ完全に戻りきっていないものもある。


 だが、そこにある。


 消されずに。


 混ぜられずに。


 誰かのものとして、並んでいる。


 その外側には、第五領域が淡く流れていた。


 怖い。


 痛い。


 帰りたい。


 助けて。


 悲しい。


 泣きたい。


 そうした感情たちが、沈まず、濁らず、ゆっくりと流れている。


 中央には余白があった。


 何も書かれていない。


 けれど、何もないわけではない。


 そこには、中心がいる。


 かつて虚ろの王の欠片の中心にあった空白。


 王冠に隠され、外殻に縛られ、名を喰らうことでしか形を保てなかったもの。


 それが、今は余白の中で小さく震えている。


『……なまえ』


 その反応が、静かに流れた。


 リリアーナは、喉を押さえながら、その余白の前に膝をついていた。


 声はもう、ほとんど出ない。


 それでも、彼女は笑おうとした。


 疲れ切った顔で。


 涙の跡を残したまま。


「はい」


 掠れた声。


「名前、ですね」


 中心が揺れる。


『……さがす』


 レオンは、その隣に立っていた。


 黒蒼雷は、完全には消していない。


 けれど、もう外殻へ向けて放つための雷ではない。


 記録面と余白と第五領域を繋ぐ、細い境界線。


 まだ不安定なすべてを守るための、静かな雷。


 腕は痛い。


 指先は痺れている。


 立っているだけで、身体が倒れたがっている。


 だが、レオンは目を逸らさなかった。


「急がない」


 そう言った。


 中心が、かすかに揺れる。


『……いそがない』


「ああ」


「急がない」


 リリアーナも頷く。


「はい」


「名前は、急いで決めるものじゃありません」


 中心がまた揺れる。


『……きめる?』


 リリアーナは、言葉を探した。


 その表情は、いつもの優しさと、今までの疲れが混ざっていた。


「うーん……」


 少しだけ困ったように笑う。


「決める、というより……」


 一拍。


「見つける、の方が近いかもしれません」


『……みつける』


「はい」


「誰かに無理やり押しつけられるものじゃなくて」


「でも、一人で全部分からなくてもいいものです」


「呼ばれて」


「考えて」


「嫌なら違うと言って」


「少しずつ、自分に合う形を探していくものだと思います」


 中心は、長く沈黙した。


 その沈黙に、誰も割り込まなかった。


 グレイヴも。


 クラウスも。


 アルベルトも。


 エリシアも。


 ラウルも。


 ミリオも。


 セラフィアも。


 リーネも、戻った名たちも。


 皆、静かに待った。


 深部に、初めて本当の意味で“待つ”時間が生まれていた。


 急かさない。


 問わない。


 押しつけない。


 ただ、そこにいる。


 それだけの時間。


 やがて、中心が震えた。


『……わからない』


 リリアーナは頷いた。


「はい」


「分からなくていいです」


『……なまえ、わからない』


「はい」


「今は、それでいいです」


 レオンも言った。


「分からないって言えた」


 中心が揺れる。


『……いえた』


「ああ」


「それも、ある」


 余白が淡く光った。


 ◇


 セラフィアが、静かに近づいた。


 金色の祈りは弱くなっているが、まだ穏やかに彼女の周囲を包んでいる。


 彼女は余白の前に立ち、少しだけ目を細めた。


「名前を探すには、まず確認しなければならないことがあるわ」


 リリアーナが顔を上げる。


「確認……?」


「ええ」


 セラフィアは中心を見る。


「この子は、誰かの名前を奪って自分のものにしてはいけないと学んだ」


「王冠ではないと知った」


「外殻ではないと知った」


「怖いも、助けても、ごめんも、あると知った」


 一拍。


「でも、まだ“自分が呼ばれる”ということを知らない」


 中心が揺れる。


『……よばれる』


「そう」


「名前は、名乗るためだけではない」


「呼ばれるためのものでもある」


 中心が、さらに小さく震える。


『……よばれる』


 その反応は、怖がっているようにも、興味を示しているようにも見えた。


 リリアーナが優しく言う。


「怖いですか?」


『……こわい』


「はい」


「初めてですもんね」


『……はじめて』


「はい」


「たぶん、初めてです」


 中心の反応が、第五領域へ流れる。


『……こわい』


『……でも』


 全員が息を呑んだ。


 “でも”。


 それは新しい接続だった。


 怖い。


 でも。


 その先が、まだ出てこない。


 余白が揺れる。


 中心は、何かを探している。


 リリアーナは急かさない。


 レオンも、ただ待つ。


 やがて。


『……ききたい』


 中心が、そう震えた。


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「聞きたい……?」


『……よばれる、ききたい』


 セラフィアが、静かに息を吐いた。


「呼ばれることを、聞きたいのね」


 中心が揺れる。


『……ききたい』


 アルベルトが、小さく呟いた。


「……なんか」


 言葉が続かない。


 彼は頭を掻こうとして、腕の疲労でやめた。


「すげぇな」


 エリシアが、その隣で目を伏せる。


「ええ」


「本当に」


 クラウスは剣を下ろしたまま、静かに見守っていた。


「呼ばれたことがない存在が」


「呼ばれることを聞きたいと言った」


 グレイヴが低く頷く。


「大きな一歩だ」


 リーネの光も揺れた。


『記録します』


『呼ばれることを聞きたい、と』


 中心が、少しだけ反応する。


『……きろく』


 リーネは優しく揺れる。


『はい』


『消さないために』


『忘れないために』


『でも、押しつけないために』


 中心が、静かに震えた。


『……おしつけない』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「押しつけません」


 レオンも言う。


「だから、試す」


『……ためす』


「ああ」


「呼び方をいくつか」


「嫌なら、違うと言えばいい」


「怖かったら、怖いと言えばいい」


「分からないなら、分からないでいい」


 中心は、長く沈黙した。


 それから、小さく。


『……ためす』


 と震えた。


 ◇


 最初に声を出したのは、リリアーナだった。


 けれど、その前に彼女は喉を押さえ、少し顔をしかめた。


 レオンがすぐに言う。


「無理するな」


「無理では、あります」


 リリアーナは正直に答えた。


「でも、これは……言いたいです」


 レオンは黙る。


 リリアーナは余白へ向き直った。


「まずは、名前じゃなくて」


「呼び方からにしましょう」


 中心が震える。


『……よびかた』


「はい」


「前に、“あなた”って呼びました」


『……あなた』


「嫌でしたか?」


 中心は、少し揺れた。


『……いや、じゃない』


 リリアーナの顔が緩む。


「よかったです」


「じゃあ、今は“あなた”から始めますね」


『……あなた』


 中心は、その響きを確かめるように何度も震えた。


『……あなた』


『……あなた』


 リリアーナは、優しく頷く。


「はい」


「あなたです」


 レオンが続けた。


「でも、“あなた”は名前じゃない」


『……なまえじゃない』


「ああ」


「でも、呼びかけるための言葉だ」


『……よびかける』


「そうだ」


 中心は、第五領域へ小さな感情を流した。


『……こわい』


 リリアーナが返す。


「怖いですね」


『……でも』


 少し間が空く。


『……あたたかい?』


 リリアーナが、目を見開いた。


「温かい……?」


 中心が揺れる。


『……わからない』


「分からないけど、そう感じたんですね」


『……たぶん』


 レオンは、その反応を見つめた。


 “あなた”。


 名前ではない。


 けれど、呼ばれた。


 自分へ向けられた言葉。


 それが怖くて、でも温かいかもしれない。


 中心は、それを感じ始めている。


 セラフィアが静かに言う。


「良いわ」


「無理に真名へ進む必要はない」


「呼びかけを、身体に馴染ませる」


 アルベルトが眉を寄せる。


「身体っていうか……身体あるのか?」


 エリシアが疲れた顔で言う。


「今その指摘は必要ですか?」


「いや、ちょっと気になって」


「感覚に馴染ませる、という意味です」


「分かってるよ」


 中心が、微かに揺れた。


『……からだ?』


 アルベルトがぎょっとする。


「あ、聞いてた?」


 中心が揺れる。


『……からだ、ない?』


 リリアーナが、慌てずに答える。


「今は、はっきりした身体はありません」


『……ない』


「でも、だから駄目というわけではありません」


「形は、これから探せます」


 中心が少し不安定に揺れる。


『……ない』


『……ない』


 透明な鎖の残響のような反応が、余白に滲みかけた。


 レオンがすぐに言う。


「何もないとは違う」


 中心が止まる。


「身体はまだない」


「でも、反応はある」


「声もある」


「感じることもある」


「だから、全部がないわけじゃない」


 中心が、ゆっくり揺れた。


『……からだ、まだ』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「まだ、です」


『……まだ』


 その言葉を、中心は気に入ったように何度か繰り返した。


『……まだ』


『……まだ』


 セラフィアが、少しだけ笑った。


「“まだ”は良い言葉ね」


「終わりではないという意味だから」


 中心が揺れる。


『……おわりじゃない』


 レオンが頷く。


「ああ」


「終わりじゃない」


 ◇


 次に、ミオの光が小さく前へ出た。


 まだ弱い光だ。


 雨に濡れた白い光。


 けれど、その光は余白へ向かって震えた。


『あなた……いる』


 中心が反応する。


『……いる』


 ミオは、少し考えるように揺れる。


『ミオ……呼ばれた』


『こわかった』


『でも……いた』


 中心が静かに聞いている。


『あなたも……いる』


 余白が淡く光る。


『……いる』


 ミオが下がると、リセが前へ出た。


 花のような緑の光。


『リセ……花、名前あった』


『名前……花みたい』


『すぐ決めなくていい』


『咲くまで……待つ』


 中心が反応する。


『……さく』


 リセが嬉しそうに揺れる。


『うん』


『咲く』


 ノアが木の騎士の光を揺らす。


『名前……守るもの』


『でも、重い』


『だから……ゆっくり』


 サナが続く。


『名前……呼ぶ声』


『薬みたい』


『強すぎると、痛い』


『少しずつ』


 エルドの橙の光が鐘のように鳴る。


『来たよって、音』


『名前も……そんな感じ』


『遠くても、聞こえる音』


 マリが淡い布の光で揺れる。


『名前……ほどけたら、繕える』


『一度で、きれいじゃなくていい』


 ガレスが低く言う。


『名前は、逃げないための重さ』


『でも、潰れるためじゃない』


 カイルが続く。


『呼ばれると、立てる』


 ユーナが旗の光を立てる。


『迷わない印』


 リーネが記録面の前で揺れる。


『残す文字』


 ゼクトが笛の光を鳴らす。


『集める音』


 ルカが涙を拭う布のように揺れる。


『泣いても、呼ばれるもの』


 ミルが小さく震える。


『扉の内側でも、書けるもの』


 ダリオが少し離れた光で答える。


『聞かなければならないもの』


 セリアが鈴の光を震わせる。


『聞こえたら、記録し直すもの』


 次々に。


 戻った名たちが、名前について語る。


 完全ではない。


 言葉は拙い。


 でも、それぞれが自分の痛みと結びついた意味を持っている。


 名前とは何か。


 ひとつの答えではない。


 たくさんの答えがある。


 中心は、それを聞いていた。


 余白が何度も揺れる。


 第五領域へ、小さな感情が流れる。


『……たくさん』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「名前には、たくさん意味があります」


『……こわい』


「はい」


『……でも』


 少し沈黙。


『……きれい』


 その反応に、セラフィアが目を細めた。


「きれい、と思ったのね」


『……きれい』


 アルベルトが、ぼそっと言う。


「それも出たか」


 エリシアが頷く。


「感情反応が増えています」


「恐怖だけではなく、評価や好意に近い反応も出始めています」


 クラウスが静かに言う。


「名前に対する恐怖が、好奇心へ変わり始めている」


 グレイヴが頷く。


「なら、急ぐ必要はない」


 中心が、余白の中で小さく震えた。


『……きれい』


『……たくさん』


『……こわい』


『……でも』


『……ききたい』


 リリアーナは、涙を浮かべながら言った。


「はい」


「聞きましょう」


「たくさん」


「少しずつ」


 ◇


 だが、深部はまだ完全に安全ではなかった。


 外殻は消えた。


 王冠も崩れた。


 だが、記録面には無数の名が仮固定されている。


 第五領域には感情が流れている。


 余白には中心がいる。


 この状態を長く保つには、安定化が必要だった。


 エリシアが術式盤を見て、現実を告げる。


「このままでは、長時間の維持は困難です」


 リリアーナが顔を上げる。


「やっぱり……」


「はい」


「外殻は消えましたが、深部そのものはまだ不安定です」


「記録面にある名も、完全に帰還したわけではありません」


「第五領域の感情も、いずれはそれぞれの名へ紐づけ直す必要があります」


 アルベルトが肩を落とす。


「終わったと思ったら、やること山積みじゃねぇか……」


 エリシアが小さく息を吐く。


「そうですね」


「ですが、戦闘の山は越えました」


「今度は整理と定着です」


 クラウスが剣を鞘へ戻しかけ、まだ戻さずに止める。


「油断はできないな」


 グレイヴが頷く。


「だが、戦い方は変わる」


 セラフィアが静かに言った。


「ここからは、名を帰すための儀式に近い」


「まずは、記録面にある名を分類し、各感情を第五領域から紐づける」


「次に、余白の中心を安定化させる」


「最後に、この深部から表層へ戻る道を作る」


 ラウルが盾を下ろしながら言う。


「表へ戻れるんだよな?」


 セラフィアは、少しだけ間を置いた。


「戻る道は作る」


「ただし、全員そのまま戻れるかは、まだ分からない」


 空気が少し重くなる。


 ミリオが不安そうに言う。


「それは……記録面の名たちのことですか?」


「ええ」


「完全な身体や帰る場所が残っている名もいれば、そうでない名もいる」


「すぐに元の場所へ戻せるものばかりではない」


 リーネの光が震える。


『それでも、記録は必要』


 セラフィアが頷く。


「そう」


「帰る場所がすぐになくても、名前が記録されていれば、次へ繋げられる」


 中心が、余白の中で揺れる。


『……かえる』


 リリアーナが優しく答える。


「帰る、という言葉です」


『……かえる』


「はい」


「戻る場所へ行くこと」


「待っている場所へ行くこと」


「あるいは、これから場所を作ること」


 中心が静かに震える。


『……ばしょ』


「はい」


「場所」


『……ここ』


「今は、ここです」


『……あとで?』


 リリアーナは、少しだけ目を見開いた。


 中心が未来のような問いを出した。


 あとで。


 ここではない先。


 それを考えた。


 レオンも、胸が揺れる。


「あとで」


 彼は言った。


「お前の場所を探す」


『……さがす』


「ああ」


「名前と一緒に」


「場所も」


 中心は、ゆっくり揺れた。


『……なまえ』


『……ばしょ』


『……さがす』


 リリアーナが頷く。


「はい」


「一緒に探しましょう」


 ◇


 名前を探すための最初の試みが始まった。


 それは、儀式というにはあまりにも静かで、会話というにはあまりにも慎重だった。


 セラフィアが金色の光で余白を安定させる。


 エリシアが術式盤で反応を測る。


 リーネが記録する。


 ミリオが精神線を細く繋ぐ。


 ラウルが盾を置いて、万一の揺れに備える。


 グレイヴとクラウスは少し離れた位置で警戒を続け、アルベルトは炎を小さく灯して黒い残滓が出ないか見ている。


 リリアーナとレオンが、中心に一番近い場所に座った。


 立っているのも限界だったからだ。


 リリアーナは少し恥ずかしそうに言った。


「すみません、座ります……」


 レオンも、その横に膝を下ろす。


「俺もだ」


 アルベルトが遠くで笑った。


「むしろよく今まで立ってたよな」


 エリシアが小さく頷く。


「本当に」


 中心が揺れる。


『……すわる』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「座る、です」


『……すわる』


「疲れた時に、休むことです」


 中心が、第五領域へ小さな感情を流す。


『……つかれた』


 レオンが頷く。


「疲れたか」


『……つかれた?』


「たぶん、それが疲れたってことだ」


『……つかれた』


 中心は、その言葉を覚えるように震えた。


 リリアーナが優しく言う。


「疲れたら、休んでいいんです」


『……やすむ』


「はい」


「休む」


 中心が、静かに揺れる。


『……やすむ』


 その言葉が、余白の中に留まった。


 セラフィアが微笑む。


「これも大切ね」


「名前を探す前に、休むことを覚える」


 アルベルトが小さく言う。


「確かに、ずっと戦ってたもんな」


 クラウスが静かに頷く。


「戦い続けた後に必要なのは、次の戦いではなく休息だ」


 グレイヴが目を伏せる。


「そうだな」


 レオンは、中心を見た。


「休んでいい」


 中心が揺れる。


『……やすんで、いい』


「ああ」


『……こわれない?』


「壊れない」


 リリアーナが続ける。


「休んでも、消えません」


『……きえない』


「はい」


「消えません」


 中心が、小さく光った。


『……やすむ』


 余白が少し安定する。


 それは、名前を得る前の、さらに小さな土台だった。


 休んでも消えない。


 何もしなくても、そこにいていい。


 名前を急いで決めなくても、存在が消えるわけではない。


 その感覚を、中心は初めて受け取ったのかもしれない。


 ◇


 リリアーナは、少し考えてから言った。


「名前を探す前に」


「好きな響きとか、嫌な響きを試してみましょうか」


 中心が揺れる。


『……すき』


「はい」


「好き」


『……きらい』


「嫌い」


『……わからない』


「分からなくて大丈夫です」


 リリアーナは、自分の名前を指すように胸へ手を置いた。


「わたしは、リリアーナ・ヴァイスです」


『……りりあーな』


 中心が、不器用に震える。


 リリアーナの顔が赤くなる。


「はい」


「リリアーナです」


『……りり』


 アルベルトが思わず吹き出しそうになり、エリシアに睨まれて黙った。


 リリアーナは少し照れながらも笑う。


「リリ、でもいいですよ」


 中心が揺れる。


『……りり』


 レオンが、小さく息を吐いた。


 笑いだった。


 中心がそれに反応する。


『……わらう?』


 リリアーナが微笑む。


「はい」


「笑う、です」


『……わらう』


「嬉しい時とか、安心した時とかに出ます」


『……あんしん』


 中心が、また新しい言葉に触れる。


 リリアーナは優しく言う。


「安心」


「怖くない、に近いかもしれません」


『……こわくない』


「はい」


「少しだけ、怖くない」


 中心は、長く沈黙した。


 それから。


『……りり、こわくない』


 リリアーナの目が見開かれる。


 全員が、少しだけ息を呑んだ。


 リリアーナは、涙を浮かべて笑った。


「……はい」


「わたしは、怖くないです」


『……りり、こわくない』


「ありがとうございます」


 レオンが、中心を見た。


「俺は?」


 リリアーナが少し驚いて彼を見る。


 レオンは真面目だった。


 中心が、レオンへ反応を向ける。


『……れおん』


「ああ」


「レオンハルト」


『……れおん』


『……くろい、ぴりぴり』


 アルベルトが今度こそ笑った。


「黒いぴりぴり」


 エリシアが口元を押さえる。


「否定できませんわ」


 レオンは少しだけ眉を寄せる。


「……怖いか?」


 中心は、しばらく揺れた。


『……こわい』


 レオンは頷く。


「そうか」


 中心が続ける。


『……でも、まもる』


 レオンの胸が止まるような感覚があった。


『……れおん、こわい』


『……でも、まもる』


 リリアーナが静かに微笑む。


「そうですね」


「レイさんは少し怖いかもしれません」


「でも、守ってくれます」


 レオンは、何も言えなかった。


 黒いぴりぴり。


 怖い。


 でも、守る。


 中心は、レオンをそう認識した。


 名前ではない。


 でも、関係の認識だ。


 セラフィアが静かに言う。


「これも大切よ」


「他者を見分け始めている」


 エリシアが術式盤を確認する。


「中心核、対象識別反応が増えています」


「リリアーナ様を“怖くない”」


「レオン様を“怖いが守る”として認識」


 アルベルトがにやりとする。


「レオン、怖いってよ」


 レオンは静かに返す。


「聞こえている」


「いや、怒るなよ」


「怒ってない」


「本当か?」


「たぶん」


 中心が揺れる。


『……たぶん』


 リリアーナが小さく笑う。


「たぶん、も覚えましたね」


『……たぶん』


 その場に、ほんの少しだけ温かい空気が流れた。


 深部で。


 あれほどの戦いの後で。


 それでも、笑いが生まれた。


 中心が、その笑いを聞いていた。


『……わらう』


『……こわくない』


 余白が、また少し安定した。


 ◇


 しかし、セラフィアは静かに告げた。


「今日は、ここまでにしましょう」


 リリアーナが顔を上げる。


「名前は……?」


「急がないと言ったでしょう」


 セラフィアは優しく言った。


「今、この子はたくさんの言葉を受け取った」


「あなた」


「まだ」


「ここ」


「休む」


「怖くない」


「守る」


「笑う」


「たぶん」


「それだけでも十分すぎるほどよ」


 中心が揺れる。


『……じゅうぶん』


「そう」


「十分」


 レオンも頷く。


「今日は休む」


 中心が反応する。


『……やすむ』


「ああ」


「名前は、次に探せばいい」


『……つぎ』


「次」


 リリアーナが優しく言う。


「また、という意味に近いです」


『……また』


「はい」


「また探しましょう」


『……また』


 中心は、その言葉をゆっくり味わうように震えた。


『……また』


 その反応に、レオンは胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。


 また。


 未来を示す言葉。


 一度きりではない。


 今終わらなくてもいい。


 次がある。


 中心は、その言葉を覚えた。


 リーネが記録する。


『また、名前を探す』


『休む』


『次がある』


 四枚の記録面の端に、新しい記録が刻まれる。


 それは奪われた名ではない。


 中心自身の記録。


 初めての、未来へ向かう記録だった。


 余白が、柔らかく光る。


 中心が小さく震えた。


『……また』


『……なまえ』


『……さがす』


 リリアーナは頷いた。


「はい」


「また、名前を探しましょう」


 レオンも言った。


「ああ」


「一緒に」


 中心が、静かに反応する。


『……いっしょ』


 リリアーナの目に、また涙が浮かぶ。


「はい」


「一緒です」


 深部の闇は、まだ完全には晴れていない。


 記録面の名たちも、第五領域の感情も、余白の中心も、すべて不安定なままだ。


 やるべきことは山ほどある。


 帰る道もまだ作っていない。


 記録された名をどう戻すかも決まっていない。


 中心の名前も、まだ見つかっていない。


 それでも。


 外殻は消えた。


 王冠は崩れた。


 怒りは閉じた。


 そして、中心は“また”を覚えた。


 レオンは、ゆっくり黒蒼雷を弱めた。


 完全には消さない。


 まだ境界は必要だ。


 だが、戦うための雷ではなくなった。


 守るための、静かな線。


 リリアーナが余白の前で、声を絞る。


「おやすみ、は……まだ早いかな」


 中心が揺れる。


『……おやすみ』


 リリアーナは微笑む。


「休む時の挨拶です」


『……あいさつ』


「はい」


「また起きるための言葉です」


 中心が、長く沈黙した。


 そして。


『……おやすみ』


 と、震えた。


 リリアーナは涙を零しながら笑った。


「おやすみなさい」


 レオンも、小さく言った。


「おやすみ」


 中心が、余白の中で淡く光る。


『……また』


 その一言を最後に、中心の反応はゆっくりと穏やかになっていった。


 眠る、というより。


 休む。


 消えるのではなく。


 次へ進むために、静かになる。


 深部に、ようやく本当の静けさが降りた。


 レオンたちは、その静けさの中で、立ち尽くしていた。


 戦いは終わった。


 けれど、終わりではない。


 名を探す時間が、ここから始まる。


 余白の中で眠る中心は、まだ名を持たない。


 だが、もう何もない存在ではなかった。


 怖いを知り。


 助けてを知り。


 ごめんを知り。


 あるを知り。


 ここを知り。


 またを知った。


 そして、いつか。


 自分の名前を見つけるために。


 今は、静かに休んでいた。

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