第175話「深部に灯る帰路、無能王子は“また会うための道”を作る」
深部に、静けさが降りていた。
さっきまで、ここには叫びがあった。
名を喰う外殻の怒り。
王冠が崩れる音。
名前の洪水。
助けてと叫ぶ声。
帰りたいと震える感情。
怖いと流れる水面。
黒蒼雷。
紅炎。
風。
剣。
盾。
祈り。
すべてが入り乱れていた。
けれど、今は違う。
静かだった。
何もない静けさではない。
消えた静けさでもない。
たくさんのものが残ったまま、ようやく息を潜めている静けさだった。
四枚の記録面が、淡く光っている。
そこには数えきれないほどの名が刻まれていた。
ひとつひとつが、まだ弱い。
完全に戻ったわけではない。
呼べば返事をする名もあれば、ただ文字として震えるだけの名もある。
でも、もう王冠の飾りではない。
虚ろの中で混ぜられた塊でもない。
名前として、そこにある。
第五領域は、記録面の外周をゆっくり流れていた。
恐怖。
痛み。
悲しみ。
帰りたいという願い。
助けてという声。
それらは沈まず、押し潰されず、水面のような光の中を流れている。
そして中央の余白。
そこには、名もない中心が休んでいた。
『……また』
『……おやすみ』
最後にそう震えてから、反応は穏やかになっている。
眠りと呼んでいいのかは分からない。
身体があるわけではない。
目を閉じているわけでもない。
だが、確かに休んでいる。
消えたのではなく。
次に目覚めるために、静かになっている。
レオンは、その余白を見つめていた。
黒蒼雷は、もう細い線だけになっている。
記録面と第五領域と余白の境界を保つための線。
戦うための雷ではない。
守るための雷。
それでも、右腕は重かった。
指先が痺れている。
肩が熱い。
深く息を吸うと、胸の奥まで痛む。
だが、今はその痛みすら、現実へ戻してくれるものだった。
外殻は消えた。
王冠は崩れた。
中心は守られた。
そして。
ここから、戻らなければならない。
リリアーナが、余白の前に座り込んだままだった。
膝を抱えるほどではないが、もう立つ力が残っていないのが分かる。
彼女は喉に手を当て、何度か息を整えている。
声はほとんど出ない。
それでも、余白から目を逸らさない。
レオンは、少しだけ身を屈めた。
「リリアーナ」
彼女が顔を上げる。
「……はい」
かすれた返事。
「喉は」
「痛いです」
正直だった。
「すごく」
「休め」
「休みたいです」
少しだけ笑う。
「でも、まだ見ていたいです」
「消えない」
「分かっています」
彼女は余白を見る。
「でも、見ていたいんです」
レオンは、何も言わなかった。
その気持ちは分かった。
ここまで呼び続けた相手。
怖いも、助けても、ごめんも、あるも、ここも、またも、おやすみも聞いた相手。
今、ようやく休んだ中心。
目を離すのが怖いのだ。
たとえ消えないと分かっていても。
レオンは、リリアーナの隣に腰を下ろした。
立っているのが限界だったこともある。
ただ、それ以上に。
一緒に見ていたかった。
リリアーナが小さく息を吐く。
「レイさんも、座りましたね」
「ああ」
「疲れましたか」
「かなり」
「正直でよろしいです」
少しだけ、彼女の口元が緩む。
レオンも、わずかに目を細めた。
深部の空気が、少しだけ柔らかくなる。
◇
離れた場所では、グレイヴが大剣を地面に立てたまま、静かに周囲を警戒していた。
外殻反応は消えた。
だが、彼はまだ剣を手放さない。
長年の習性でもある。
そして、ここがまだ完全に安全ではないと分かっているからでもある。
クラウスが近くに立つ。
剣は下ろしているが、鞘には収めていない。
「団長」
「何だ」
「腕は」
「動く」
「痛むのですね」
「動く」
クラウスは、わずかに眉を上げた。
「答えになっていません」
「戦場では十分な答えだ」
「今は、戦闘直後です」
「まだ戦場だ」
「……そうですね」
二人は短く言葉を交わし、また深部を見た。
その視線の先には、四枚の記録面がある。
びっしりと並んだ名前。
それを見て、グレイヴは低く息を吐いた。
「これほどの名が……」
クラウスが頷く。
「王冠として組み込まれていた」
「人の名を冠にするとはな」
「ええ」
一拍。
「二度と、あのようなものを作らせてはいけません」
グレイヴの目が細くなる。
「そのためにも、戻らねばならん」
クラウスは黙って頷いた。
戻る。
それは簡単な言葉ではない。
この深部から戻る道はまだない。
名たちをどう扱うかも決まっていない。
中心をどう保つかも、分からない。
だが、戻らなければならない。
外で待っている者がいる。
アリシアも。
子供たちも。
王都も。
東の塔も。
この深部で起きたことを、表へ持ち帰らなければならない。
◇
アルベルトは、少し離れた場所に腰を下ろしていた。
炎剣は消えている。
完全に消したわけではなく、手元に小さな火種だけを残している。
その火種を見ながら、彼は深く息を吐いた。
「……いや、ほんと疲れた」
隣でエリシアが術式盤を確認している。
顔色は良くない。
だが、彼女はまだ記録と数値を見続けていた。
「疲れたで済めば、良い方です」
「いや、済んでないけどな」
「でしょうね」
「お前も座れよ」
「座っています」
「それ、座ってるっていうか、半分倒れてるだろ」
エリシアは、術式盤から目を離さずに言った。
「失礼ですわね」
「事実だろ」
「事実でも言い方があります」
「じゃあ、お疲れ様です、エリシア様」
「急に丁寧にしないでください。気持ち悪いです」
「ひでぇ」
そんな会話をしながらも、二人の視線は記録面と第五領域から離れない。
アルベルトは、火種を小さく揺らした。
「なぁ」
「何ですか」
「結局、あれ……中心ってやつは、どうなるんだ」
エリシアは、少しだけ手を止めた。
「分かりません」
「分かんねぇのか」
「はい」
珍しく、彼女ははっきり言った。
「名前も身体もありません」
「でも、反応はある」
「学習もしている」
「感情も増えた」
「対象識別も始まった」
「“また”や“休む”を理解し始めている」
一拍。
「存在としては、きわめて不安定です」
「危険なのか」
「危険ではあります」
アルベルトの表情が少し険しくなる。
エリシアは続けた。
「ただし、それは“敵だから危険”という意味ではありません」
「今にも消えるかもしれない」
「何かの刺激で崩れるかもしれない」
「名前を押しつければ、また鎖になるかもしれない」
「そういう危険です」
アルベルトは黙る。
そして、火種を見つめた。
「……赤ん坊みたいだな」
エリシアが、わずかに目を見開く。
アルベルトは頭を掻いた。
「いや、変な意味じゃなくてさ」
「何も分かんなくて」
「でも覚えていって」
「強く触ったら壊れそうで」
「でも放っておけなくて」
エリシアは、少しだけ目を伏せた。
「……乱暴な表現ですが」
「今回は、少し近いかもしれません」
「だろ?」
「少しだけです」
「そこ強調する?」
「します」
アルベルトは苦笑した。
だが、その表情はすぐに真剣へ戻る。
「じゃあ、守らなきゃな」
「はい」
「レオンたちだけにやらせるわけにもいかねぇし」
「当然です」
エリシアは術式盤を閉じずに、静かに言った。
「ここからは、維持と帰還の準備です」
「戦闘と同じくらい、慎重に進めなければなりません」
◇
ラウルは盾を横に置き、ミリオの背を支えていた。
ミリオは完全に座り込んでいる。
精神線を使い続けた疲労で、手が震えていた。
「線、切れてないか」
ラウルが聞く。
ミリオは、目を閉じて確認する。
「切れてません」
「薄いですけど」
「記録面、第五領域、余白、中心……全部、繋がっています」
「そうか」
「でも、僕が寝たら多分切れます」
「寝るな」
「無茶言いますね」
「今寝られると困る」
「分かってます」
ミリオは、力なく笑った。
「でも、正直、まぶたが重いです」
ラウルは、しばらく黙ってから言った。
「線を全員で分けられないのか」
ミリオが目を開ける。
「分ける?」
「お前一人で繋いでいるから重いんだろ」
「なら、俺たちにも少し持たせろ」
ミリオは、困ったように笑った。
「簡単に言いますね」
「簡単じゃないのか」
「簡単じゃないです」
「でも、できるのか」
ミリオは、少し考える。
そして、視線を記録面へ向けた。
「……できなくは、ないかもしれません」
「ならやれ」
「本当に簡単に言う……」
けれど、ミリオの表情には少しだけ光が戻った。
「精神線を太く張るんじゃなくて、みんなに細い補助点を持ってもらう形なら」
「僕が全部を支えなくても、負荷を分散できるかもしれません」
ラウルは頷く。
「それをやろう」
「はい」
「ただし、全員疲れています」
「それでもやる」
「そうですね」
ミリオは小さく息を吸った。
「やりましょう」
彼の声を聞いて、セラフィアが振り向く。
「補助点を作るのね」
ミリオは頷いた。
「はい」
「帰還準備にも必要になると思います」
セラフィアは静かに頷く。
「良い判断よ」
ミリオの顔が少し赤くなる。
「ありがとうございます」
ラウルが短く言う。
「褒められて照れるな」
「照れてません」
「照れてる」
「照れてません」
そんな短いやり取りが、また深部に人の温度を戻す。
余白の中心が、かすかに反応した。
『……あたたかい』
リリアーナが、その反応に気づいて微笑む。
「はい」
「温かいですね」
レオンも、少しだけ頷いた。
温かい。
ここまで来て、その言葉が中心から出ることが、どれほど大きなことか。
◇
セラフィアは、全員を見渡した。
そして、静かに告げた。
「これから、帰還のための準備を始めるわ」
疲れ切った空気が、わずかに張り直される。
「まず、四枚の記録面を固定する」
「深部に置いたままでは不安定すぎる」
「けれど、表へそのまま持ち出すには量が多い」
エリシアが頷く。
「圧縮が必要です」
「ただし、混ぜてはいけない」
リーネの光が揺れる。
『混ぜずに、束ねる』
セラフィアが頷く。
「そう」
「名簿として束ねる」
「一人一人の名を分けたまま、記録の束として保持する」
リーネが、青黒い光を強めた。
『できます』
『時間はかかります』
セラフィアが言う。
「急がない」
中心が、余白の中で揺れる。
『……いそがない』
リリアーナが微笑む。
「そうです」
「急がない」
リーネは、四枚の記録面へ向き直る。
そこに刻まれた名前たちを、一つずつ確認し始めた。
『第一記録面』
『外縁名群』
『呼称確認済み』
『感情紐づけ、一部未完了』
セリアが横で補助する。
『聞こえた声、補足します』
『救助要請系統、第五領域側へ関連線あり』
ユーナが旗を立てる。
『迷子にならないように、区分する』
マリが布の光で、記録面の端を繕う。
『ほどけないように』
名前たちが、ゆっくり整えられていく。
それは戦いではない。
だが、戦いと同じくらい集中力がいる作業だった。
名前を混ぜない。
感情を切らない。
記憶を潰さない。
そして、急がない。
レオンは、それを見ながら思った。
これこそが、本当の意味で“返す”ということなのかもしれない。
敵を倒すだけでは終わらない。
奪われたものを、雑に手渡して終わりでもない。
誰のものかを確かめ。
どの痛みと繋がっているかを見て。
どう戻せるかを考える。
それは地味で、長く、苦しい。
けれど、必要な時間だ。
◇
第二に、第五領域の安定が必要だった。
感情の水面は、まだ大きく揺れることがある。
名前の整理が進むたび、対応する感情が波打つ。
怖い。
帰りたい。
助けて。
怒り。
悲しみ。
それらが、それぞれの名へ戻ろうとしている。
だが、いきなり戻せば名が耐えられない。
だから、少しずつ紐づける必要がある。
サナが、薬草色の光で第五領域の縁に立っていた。
『痛いもの……急に戻さない』
ルカが隣で揺れる。
『泣ける場所、残す』
ミルが小さく言う。
『聞こえるけど……少しずつ』
ダリオが離れたところから、静かに頷くように震える。
『聞く』
ガレスが低く言う。
『逃げない』
それぞれが、自分の傷を抱えたまま、他の感情を支えようとしている。
リリアーナは、それを見て小さく呟いた。
「すごいですね」
中心が反応する。
『……すごい』
「はい」
「本当に、すごいです」
『……みんな』
「みんな、です」
中心が揺れる。
『……みんな、すごい』
リリアーナの目が潤む。
「そうですね」
レオンも言った。
「ああ」
「みんな、すごい」
その言葉に、戻った名たちの光が少しだけ揺れる。
照れているのか、戸惑っているのか。
分からない。
だが、悪い揺れではなかった。
◇
第三に、余白の中心をどう持ち帰るか。
これが一番難しかった。
セラフィアは、余白の前に膝をつくように光を落とした。
「この子は、まだ名前を持たない」
「そのまま表へ出すと、外の刺激が強すぎる可能性がある」
「深部は危険だったけれど、今は余白と祈りと黒蒼雷に守られている」
「外へ出れば、音も、光も、人の気配も、あまりに多い」
リリアーナが心配そうに余白を見る。
「じゃあ、ここに置いていくんですか?」
中心が小さく震える。
『……おいていく?』
その反応には、明らかに不安があった。
リリアーナはすぐに首を横に振る。
「置いていくって決まったわけじゃないです」
「ごめんなさい、不安にさせました」
『……ふあん』
「不安」
『……ふあん』
第五領域に小さな波が流れる。
レオンは、中心へ言った。
「置いていかない」
中心が震える。
『……おいていかない』
「ああ」
「ただ、どう連れていくかを考える」
『……どう』
「そうだ」
セラフィアが頷く。
「余白ごと、簡易的な祈りの核に包む必要があるわ」
「その外側を、レオンの黒蒼雷で境界固定する」
「さらに、リリアーナの呼びかけを繋いでおく」
リリアーナが目を見開く。
「わたしの声ですか?」
「ええ」
「この子が最も安定して反応するのは、あなたの呼びかけよ」
リリアーナは、喉に手を当てた。
「でも、声が……」
セラフィアは優しく言う。
「今すぐ大声で呼び続ける必要はない」
「声の記憶でいい」
「あなたが呼んだ“あなた”という響き」
「“ここ”という言葉」
「“また”という約束」
「それらを、呼びかけの糸として余白に結ぶ」
リリアーナは、少しだけ目を伏せた。
「……できますか」
「できるわ」
セラフィアは言った。
「ただし、あなたが怖がらないこと」
「声が出なくても、この子との約束は消えないと信じること」
リリアーナは、余白を見た。
中心が小さく揺れる。
『……りり』
リリアーナの目が大きくなる。
中心は、もう一度震えた。
『……りり』
彼女は、泣きそうな顔で笑った。
「はい」
「リリです」
『……こわくない』
「はい」
「怖くないです」
『……また』
「また、です」
『……おいていかない』
「置いていきません」
リリアーナは、両手を胸の前で握った。
「信じます」
「声が出なくても」
「この子に、ちゃんと届いたものは消えないって」
セラフィアは頷いた。
「それでいい」
レオンは、余白を見た。
「俺は境界を張る」
中心が反応する。
『……くろい、ぴりぴり』
アルベルトが遠くで小さく笑った。
レオンは真顔で頷く。
「ああ」
「黒いぴりぴりだ」
『……こわい』
「そうか」
『……でも、まもる』
「守る」
中心が揺れる。
『……まもる』
レオンは、静かに黒蒼雷を余白の周囲へ回した。
中心は怖がる。
それでいい。
怖いまま、守られる感覚を覚えればいい。
恐怖を否定しなくていい。
リリアーナが怖くない。
レオンは怖いけれど守る。
それが、今の中心にとっての事実だった。
◇
帰還のための仮核作りが始まった。
セラフィアの祈りが、余白の外側に薄い膜を作る。
金色ではなく、白に近い淡い光。
そこへレオンの黒蒼雷が細く絡む。
強く巻きつけすぎると、中心が怖がる。
緩すぎると、余白が崩れる。
だから、少しずつ。
リリアーナが、声ではなく、意識の中で言葉を添える。
あなた。
ここ。
また。
おやすみ。
休む。
置いていかない。
中心が、そのたびに小さく揺れる。
『……ここ』
『……また』
『……やすむ』
エリシアが術式盤を見て報告する。
「余白核、形成開始」
「安定率……低いですが、上昇しています」
「レオン様、雷が少し強いです」
レオンはすぐに出力を下げる。
「こうか」
「はい」
「リリアーナ様、呼びかけの糸は維持できています」
リリアーナが小さく頷く。
声を出さずに。
けれど、中心へ向けて。
中心が揺れる。
『……りり』
リリアーナは、涙を浮かべて微笑む。
声を出さずに唇だけで言った。
ここにいます。
中心が、淡く光る。
仮核の膜が少し安定した。
セラフィアが静かに言う。
「良いわ」
「この状態なら、短時間なら深部から移動できる」
アルベルトが息を吐く。
「短時間ってのが怖いな」
「急がないと言ったばかりですが、帰還に関しては遅すぎても危険です」
エリシアが言う。
「深部自体が、外殻消滅後に再構成を始めています」
「ここに長く留まれば、構造変化に巻き込まれる可能性があります」
クラウスが顔を上げる。
「つまり、準備は急がず」
「しかし、出発は遅らせすぎない」
「そうです」
グレイヴが大剣を持ち直した。
「なら、帰路を作る必要がある」
セラフィアが頷く。
「ええ」
「帰路は、名の流れを逆に辿る」
「ここへ落ちてきた道を、上へ戻す」
ラウルが顔をしかめる。
「簡単に言うけど、それ大丈夫なのか?」
「大丈夫ではないわ」
セラフィアは正直に言った。
「でも、他に道はない」
ミリオが精神線を確認する。
「僕の線で、表層側の反応を探ります」
「たぶん、アリシアさんや外にいる人たちの気配を辿れるはずです」
レオンが言う。
「無理はするな」
ミリオは苦笑した。
「みんなに言われ続けてますね、それ」
「言われる状態だ」
「はい」
「でも、やります」
ミリオは目を閉じる。
精神線が、深部の上方へ細く伸びていく。
暗い水の中へ糸を垂らすように。
どこかにある出口を探す。
外の気配。
表層の空気。
アリシアの赤い眼。
子供たちの眠る気配。
仲間たちが降りてきた道。
それを、探る。
しばらく沈黙が続いた。
全員が待つ。
急かさない。
やがて、ミリオの眉が動いた。
「……あります」
ラウルが身を乗り出す。
「道か?」
「細いです」
「でも、あります」
ミリオは目を開けた。
「上へ戻る流れがあります」
「ただ……」
エリシアが聞く。
「ただ?」
「名の記録面と余白核を持ったまま通るには、細すぎます」
沈黙。
アルベルトが小さく呟く。
「また面倒な……」
セラフィアが考える。
「道を広げる必要がある」
クラウスが言う。
「無理に広げれば崩れるか」
「ええ」
レオンは、ミリオの線を見る。
「なら、通る順番を決める」
全員が彼を見る。
「まず、記録面の束」
「次に第五領域の感情流」
「そのあと余白核」
「最後に俺たち」
リリアーナが首を横に振った。
声が出にくいまま、必死に言う。
「余白は……最後じゃ駄目です」
レオンが見る。
リリアーナは、余白核を見つめる。
「この子、置いていかれるって思います」
中心が、小さく震えた。
『……おいていく?』
リリアーナはすぐに手を伸ばす。
「置いていきません」
「だから、近くに」
レオンは頷いた。
「分かった」
「余白核は、俺たちと一緒に動かす」
セラフィアが言う。
「なら、記録面の束を先行させ、第五領域をその周囲に流す」
「余白核はレオンとリリアーナの近く」
「残りの者が周囲を守る」
グレイヴが頷く。
「隊列を組む」
クラウスがすぐに言う。
「前衛は団長と俺」
「中核にレオン、リリアーナ、余白核」
「左右にアルベルトとエリシア」
「後方はラウル、ミリオ」
「セラフィアは全体の祈りを維持」
ラウルが頷く。
「後ろは任せろ」
アルベルトが火種を灯す。
「左右の黒は焼く」
エリシアが術式盤を整える。
「流れはわたくしが調整します」
リーネが記録面を束ねながら言う。
『名簿束、形成します』
四枚の記録面が、ゆっくり重なる。
混ざらない。
一枚一枚の層を保ったまま、冊子のような形へ変わっていく。
そこに刻まれた名前たちが、淡く光る。
リーネがその表紙のような場所に、青黒い光で言葉を刻んだ。
『深部返還名簿』
セリアが、その横に補足する。
『未帰還名・感情紐づけ保持』
ユーナが旗の光で印を添える。
『迷わないように』
マリが布の縁で名簿束を包む。
『ほどけないように』
セラフィアが祈る。
「名簿よ、混ざらず留まりなさい」
名簿束が安定する。
第五領域の水面が、その周囲を薄く流れる帯のように変わっていく。
感情を抱えた水の帯。
名簿束と繋がりながら、飲み込まず、濁らず、外側を巡る。
余白核は、レオンとリリアーナの間に浮かんだ。
小さな光の繭のようだった。
中心が、その中で震える。
『……ここ』
リリアーナが、声を出さずに唇で答える。
ここです。
レオンも短く言う。
「ここにいる」
『……れおん』
「ああ」
『……りり』
リリアーナが頷く。
中心が少し落ち着く。
◇
帰還の隊列が整った。
だが、誰もすぐには動かなかった。
深部に長くいたせいで、戻るという行為そのものが重く感じられる。
ここで起きたことが、あまりにも大きすぎた。
王冠。
外殻。
中心。
名前の洪水。
記録面。
第五領域。
余白。
すべてを背負って、上へ戻る。
アルベルトが、ぽつりと言った。
「なぁ」
誰も急かさない。
「戻ったらさ」
「外、どうなってんだろうな」
エリシアが、術式盤を見つめたまま答える。
「分かりません」
「時間経過も不明です」
「こちらでの体感時間と、表層での時間が一致している保証はありません」
アルベルトは顔をしかめる。
「やめろよ、怖いこと言うな」
「事実です」
「事実でもさ」
クラウスが静かに言う。
「戻れば分かる」
グレイヴも頷く。
「進むしかない」
ラウルが盾を担ぎ直す。
「後ろは見る」
ミリオが精神線を道へ伸ばす。
「道、維持します」
セラフィアが金色の祈りを広げる。
「では、行きましょう」
リリアーナが、余白核を見る。
そして、小さく、掠れた声で言った。
「行きますよ」
中心が震える。
『……いく』
レオンが頷く。
「ああ」
「行く」
『……また?』
リリアーナが微笑む。
「はい」
「また、会うために」
中心が、静かに光った。
『……また』
その言葉を合図に。
レオンたちは、深部から戻るための道へ踏み出した。
◇
帰路は、暗かった。
降りてきた時のような、明確な道ではない。
ミリオの精神線とセラフィアの祈りが示す、細い流れ。
名の奔流がかつて落ちてきた跡を、逆に辿る。
足元は曖昧だ。
石畳でも土でもない。
時折、水面のように揺れ、時折、記憶の破片が浮かぶ。
誰かの声が聞こえそうになる。
誰かの名前が、まだ遠くで震える。
そのたびに、リーネの名簿束が反応する。
『未記録反応』
エリシアが術式盤を見る。
「拾えますか?」
リーネは少し揺れる。
『断片のみ』
『帰路を優先しながら、標識として残します』
セラフィアが頷く。
「今は立ち止まれない」
「でも、忘れない」
リーネが記録する。
『帰路周辺、未回収名反応あり』
『後日探索必要』
レオンは、その言葉を聞いて胸が重くなる。
まだいるのか。
まだ、全ては拾いきれていないのか。
リリアーナも同じことを感じたのだろう。
彼女の表情が沈む。
だが、セラフィアが静かに言った。
「今拾えるものと、今は記録して戻るべきものがある」
「全部をここで拾おうとすれば、全員が戻れなくなる」
レオンは、ゆっくり頷いた。
「分かってる」
「でも」
「忘れない」
リーネの光が揺れる。
『記録します』
中心が、余白核の中で震える。
『……わすれない』
リリアーナが目を細める。
「そうです」
「忘れない」
『……あとで』
「はい」
「あとで」
また、新しい未来の言葉。
中心は、それを覚えようとしている。
『……あとで』
帰路の闇が、少しだけ薄くなった気がした。
◇
途中、黒い残滓が現れた。
外殻のものではない。
深部の崩れた構造が、まだ残していた虚ろの澱。
それが、名簿束へ向かって伸びようとする。
アルベルトがすぐに炎を放つ。
「寄るな!」
紅炎が黒い澱を焼く。
エリシアの風が、灰のような残滓を横へ流す。
「道の外へ」
クラウスが剣で細い筋を断つ。
「残滓に名はない」
グレイヴが頷く。
「なら、止めるだけだ」
外殻と違い、そこに中心はない。
奪われた名も混じっていない。
ただの残滓。
だからこそ、処理は早かった。
だが、余白核が震える。
『……こわい』
リリアーナがすぐに意識を向ける。
「怖いですね」
「でも、今のは外殻ではありません」
「もう、あれは戻ってきません」
中心が揺れる。
『……もどってこない』
レオンが言う。
「ああ」
「倒した」
『……たおした』
「止めた」
『……とめた』
「もう、お前を縛らない」
中心は、長く沈黙した。
それから。
『……こわい、でも、ここ』
リリアーナが、涙を浮かべて頷いた。
「はい」
「怖くても、ここです」
余白核が少し安定する。
レオンは、黒蒼雷を細く保ちながら前を見た。
帰路は続く。
遠くに、かすかな光が見え始めていた。
表層の光か。
出口か。
それとも、また別の記憶の残滓か。
まだ分からない。
だが、進むしかない。
◇
進むうちに、名簿束が重くなった。
リーネだけでは支えきれない。
セリア、ユーナ、マリが補助しているが、それでも光が揺れる。
ミリオの精神線も細くなる。
そこで、ラウルが盾を背に回し、名簿束の下へ片腕を伸ばすように構えた。
「持てるか?」
リーネが揺れる。
『触れれば、声が流れます』
「流れたら?」
『重いです』
「持つ」
ラウルは短く答えた。
ミリオが慌てる。
「ラウル、無理に触ると」
「お前も限界だろ」
「そうですけど」
「なら分ける」
ラウルの盾の光が、名簿束の下へ入る。
瞬間、彼の顔が歪んだ。
名前の重み。
記録の重み。
帰りたいという願い。
全部ではないが、支える分だけ流れてくる。
「っ……」
ミリオが叫ぶ。
「ラウル!」
「重い」
ラウルは言った。
「でも、持てる」
リーネの光が震える。
『ありがとうございます』
ラウルは、少しだけ顔を逸らす。
「礼は戻ってからにしろ」
中心が反応する。
『……ありがとう』
ラウルが固まった。
「……俺に言ったのか?」
中心が揺れる。
『……らうる、ありがとう』
ミリオが目を丸くする。
リリアーナが微笑む。
「覚えましたね」
ラウルは、困ったように眉を寄せた。
「……どう返せばいいんだ」
レオンが言う。
「どういたしまして、でいい」
ラウルは、少しぎこちなく余白核を見る。
「どういたしまして」
中心が揺れる。
『……どういたしまして』
アルベルトが笑いかけて、咳払いで誤魔化した。
「なんか、言葉覚えてくの早くね?」
エリシアが小さく言う。
「周囲の言葉を強く吸収しています」
「幼い反応ですが、極めて感受性が高い」
クラウスが静かに警告する。
「なら、迂闊な言葉は控えた方がいい」
アルベルトが目を逸らす。
「俺を見て言うな」
「見て言っている」
「分かってるよ」
中心が反応する。
『……うかつ』
エリシアが額に手を当てた。
「覚えなくていい言葉まで……」
リリアーナが、声を出さずに笑った。
中心が揺れる。
『……わらう』
余白核の光が少し明るくなる。
疲れの中でも、笑いがある。
それが、帰路を少しだけ軽くした。
◇
やがて、遠くの光が大きくなってきた。
ミリオが目を細める。
「出口……だと思います」
セラフィアが祈りで確認する。
「表層側の反応がある」
「アリシアの気配も、薄いけれど感じるわ」
レオンの胸が少しだけ動く。
アリシア。
赤い眼。
深部へ落ちるきっかけになった彼女。
彼女は無事なのか。
外ではどれだけ時間が経ったのか。
子供たちは。
王都は。
まだ分からない。
リリアーナが、余白核を見た。
「もう少しです」
中心が揺れる。
『……もうすこし』
「はい」
「もう少し」
『……そと?』
リリアーナは、少し驚いてから頷く。
「外です」
『……そと』
「ここではない場所です」
『……こわい』
「怖いですね」
「でも、一緒です」
『……いっしょ』
レオンが言う。
「一緒だ」
『……れおん、りり』
「ああ」
「俺とリリアーナもいる」
中心が揺れる。
『……みんな』
グレイヴが静かに言う。
「全員いる」
アルベルトが続ける。
「まぁ、ボロボロだけどな」
エリシアが小さく睨む。
「余計な補足です」
「事実だろ」
「事実でも言い方があると何度言えば」
中心が揺れる。
『……ぼろぼろ』
アルベルトが固まる。
エリシアが深いため息をついた。
「ほら」
「……悪い」
リリアーナが、声を出せないまま笑っている。
レオンも少しだけ目を細める。
中心は、その空気を受け取っている。
怖い。
でも、温かい。
外へ出る前に、その感覚を持てたことは大きい。
◇
出口の光が、目の前まで来た。
それは扉ではなかった。
裂け目に近い。
深部の闇に開いた、薄い光の割れ目。
向こう側に、ぼんやりとした空気がある。
表層。
現実に近い場所。
だが、裂け目は細い。
名簿束と第五領域と余白核を通すには、慎重に広げる必要がある。
セラフィアが言う。
「ここで最後の調整をするわ」
「無理に押し広げないで」
「名簿束を先に通し、第五領域の帯を追わせる」
「余白核はレオンとリリアーナの間に」
「全員、順番に」
グレイヴが頷く。
「俺が先に出て、向こう側を確認する」
クラウスが言う。
「俺も同行します」
「駄目だ」
レオンが言った。
二人が振り返る。
「向こう側で何かあった時、こちら側の流れを切る人間が必要だ」
「クラウスはここだ」
クラウスは、一瞬だけ目を細めた。
そして頷く。
「了解しました」
グレイヴがレオンを見る。
「一人で行く」
「ああ」
「短時間だ」
「すぐ戻るか、合図をくれ」
グレイヴは頷いた。
「分かった」
彼は大剣を背負い直し、裂け目へ向かう。
その背を、中心が見ていた。
『……ぐれいゔ』
グレイヴが足を止める。
中心が揺れる。
『……きをつけて』
深部が、静かになった。
グレイヴは、少しだけ振り向いた。
その表情は、厳しいままだ。
だが、目だけがわずかに柔らかい。
「承知した」
一拍。
「ありがとう」
中心が揺れる。
『……ありがとう』
グレイヴは裂け目をくぐった。
光の向こうへ姿が消える。
数呼吸。
誰も動かない。
リリアーナが、余白核を見つめる。
中心は不安そうに震えている。
『……こわい』
リリアーナが、声を出さずに唇で言う。
大丈夫。
中心が、少し落ち着く。
やがて、裂け目の向こうからグレイヴの声が届いた。
「問題ない」
「出られる」
全員が、息を吐いた。
セラフィアが頷く。
「行きましょう」
◇
まず、名簿束が通った。
リーネとセリア、ユーナ、マリが支え、ラウルの盾の光が下から持つ。
裂け目を通る時、名前たちがざわめいた。
『外』
『戻る』
『怖い』
『ここ』
リーネが優しく言う。
『混ざりません』
『一人ずつ、通ります』
セラフィアの祈りが裂け目を包み、名簿束はゆっくり向こう側へ抜けた。
次に、第五領域の帯。
感情の水面が、細く伸びながら裂け目を通る。
怖い。
悲しい。
帰りたい。
それらが一瞬強く揺れたが、サナやルカたちが流れを支えた。
『泣いてもいい』
『痛いもの、少しずつ』
『沈まない』
第五領域も通る。
そして、余白核。
レオンとリリアーナが、その左右に立つ。
黒蒼雷と呼びかけの糸。
金色の祈り。
精神線。
全てが余白核を包む。
中心が震える。
『……そと』
リリアーナが、掠れた声を絞り出した。
「一緒です」
レオンも言う。
「行くぞ」
『……いく』
二人は、余白核と共に裂け目へ踏み込んだ。
光が視界を満たす。
深部の重い空気が、背後へ遠ざかる。
一瞬、足元が消えた。
中心が強く震える。
『……こわい』
リリアーナが、手を伸ばすように意識で呼ぶ。
ここです。
レオンが黒蒼雷を締め直す。
「離さない」
光の中を抜ける。
そして。
空気が変わった。
冷たい。
でも、深部の冷たさではない。
現実の空気。
石の匂い。
崩れた祭壇の匂い。
遠くに、人の気配。
レオンは、目を開けた。
そこは、深部へ落ちる前にいた空間だった。
神殿の奥。
赤い眼のアリシアがいた場所。
床にはまだ、黒い紋様の跡が残っている。
だが、以前のような圧はない。
グレイヴがすでに周囲を警戒している。
名簿束と第五領域の帯も、セラフィアの祈りの中に保たれている。
余白核は、レオンとリリアーナの間に浮かんでいた。
中心が、小さく震える。
『……そと』
リリアーナは、涙を浮かべながら微笑んだ。
「はい」
「外です」
中心が揺れる。
『……こわい』
「怖いですね」
『……でも』
少し間が空く。
『……いっしょ』
レオンは、静かに頷いた。
「ああ」
「一緒だ」
背後から、クラウス、アルベルト、エリシア、ラウル、ミリオ、セラフィアたちも次々と戻ってくる。
全員、表層へ戻った。
深部から。
名簿束と、第五領域と、余白核を抱えたまま。
リリアーナが、力が抜けたように膝をつきかける。
レオンが支える。
「大丈夫か」
「……大丈夫じゃないです」
彼女は正直に言った。
「でも、戻ってきました」
「ああ」
「戻った」
その時。
奥の暗がりから、かすかな声がした。
「……レオン、様……?」
全員が振り向く。
そこに、アリシアがいた。
赤い眼の光は、以前より弱くなっている。
顔色は悪い。
けれど、彼女は立っていた。
そして、レオンたちの間に浮かぶ余白核を見て、息を呑む。
「それは……」
レオンは、すぐには答えられなかった。
リリアーナも、声が出ない。
セラフィアが静かに前へ出る。
「深部から戻したものよ」
アリシアの目が揺れる。
「虚ろの……中心……?」
余白核の中で、中心が震えた。
『……こわい』
リリアーナが、かすれた声で言う。
「大丈夫です」
そして、アリシアへ視線を向けた。
「外殻は、消えました」
「王冠も、崩れました」
「でも……」
一拍。
「この子は、まだ名前を探しています」
アリシアは、言葉を失ったまま余白核を見つめていた。
表層へ戻った瞬間から、新しい局面が始まっている。
深部での戦いは終わった。
だが、戻した名たちと、名もない中心をどうするのか。
それは、これから表で向き合わなければならない問題だった。
中心が、余白の中で小さく震える。
『……ここ?』
リリアーナが答える。
「はい」
「ここです」
レオンも言う。
「戻った」
『……もどった』
「ああ」
中心は、静かに反応した。
『……また、さがす』
レオンは頷いた。
「ああ」
「また、名前を探す」
アリシアは、そのやり取りを聞き、ゆっくりと膝をついた。
祈るようにではない。
力が抜けたように。
それでも、目を逸らさずに。
彼女は震える声で言った。
「……戻って、きたのですね」
レオンは、深く息を吐いた。
まだ終わっていない。
でも、戻ってきた。
名簿束も。
第五領域も。
余白核も。
仲間たちも。
全員で。
深部から、表層へ。
次にやるべきことは山ほどある。
それでも今は。
戻ってきたという事実だけを、確かめる時間だった。
余白核の中で、中心が小さく光る。
『……いっしょ』
リリアーナが、涙を浮かべて微笑んだ。
「はい」
「一緒です」
そして、神殿の奥に。
長い深部の夜を越えた者たちの、静かな呼吸だけが残った。




