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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第172話「名前の大波、無能王子は“呼ばれた者たちの輪”で受け止める」


 大波が来た。


 王冠崩壊の、最後の大波。


 それは、ただの光ではなかった。


 ただの声でもなかった。


 名前。


 記憶。


 感情。


 痛み。


 後悔。


 願い。


 帰りたい場所。


 呼ばれたかった声。


 書かれたはずの記録。


 誰にも届かなかった助け。


 それら全てが、ひとつの巨大な奔流になって押し寄せた。


 深部の闇が、光で塗り潰される。


 黒い空間だったはずなのに、そこは一瞬、星空の底のように見えた。


 無数の小さな光。


 その一つ一つに、誰かがいた。


 けれど、綺麗だと思える余裕はなかった。


 美しさの裏側で、悲鳴が重なっている。


『呼んで』


『混ぜないで』


『私じゃない』


『僕はここ』


『帰りたい』


『助けて』


『寒い』


『怖い』


『書いて』


『消さないで』


『誰か』


『名前』


 数が多すぎる。


 声が多すぎる。


 感情が多すぎる。


 まともに聞けば、こちらが壊れる。


 だが、聞かなければ落ちる。


 落ちれば、虚ろに戻る。


 また混ざる。


 また王冠にされる。


 それだけは、させられない。


 レオンは、黒蒼雷を最大まで広げた。


 右腕に激痛が走る。


 肩が裂けるように痛む。


 胸の奥が焼ける。


 それでも、雷を引かない。


「名前は、虚ろへ戻さない!!」


 叫んだ声が、深部に響く。


 大波が、レオンたちへ激突した。


 ◇


 最初に受けたのは、グレイヴだった。


 大剣を横に構え、巨大な波の正面へ踏み出す。


 黒い名の奔流が、大剣へぶつかった。


 重い。


 これまでの比ではない。


 名の重さ。


 記憶の重さ。


 感情の重さ。


 それらが、剣を通じて腕へ、胸へ、過去へ食い込む。


『守れ』


『守れなかった』


『今度も遅い』


『全部は無理』


『剣一本で何を守る』


 声が大剣へ絡む。


 グレイヴの膝が沈む。


 だが、彼は倒れない。


「グレイヴ・アルディオス!!」


 大剣が鈍く光る。


「全部を一人で守るなど、もう言わん!!」


 一拍。


「だが、前には立つ!!」


 彼は大波の正面を押し開く。


 完全に止めるのではない。


 真正面から受け止めて潰されるのではなく、左右へ流すために。


 その隙へ、クラウスが入った。


「クラウス・ベルン!!」


 白銀の剣が、奔流の中を走る。


「守るべきものを選ぶために進む!!」


 彼の剣は、名を切らない。


 絡みだけをほどく。


 声同士が混ざりかけた場所へ刃を入れ、名の芯を傷つけずに分ける。


「右へ、感情波!」


「左へ、名の芯!」


「中央に記憶片、混入している!」


 エリシアが即座に応える。


「風で分けます!」


 彼女の術式盤が激しく明滅する。


 風が奔流へ入り、クラウスが示した通りに流れを作る。


「名前は記録面へ!」


「感情は第五領域へ!」


「記憶片は水面で一度緩衝!」


「余白へ直接入れないでください!」


 アルベルトの紅炎が、奔流の外側へ走った。


「黒だけ燃えろ!!」


 虚ろの膜だけを焼く。


 名の光には触れない。


 それは、今の彼にとって最も難しい制御だった。


 燃やすのは得意だ。


 吹き飛ばすのも得意だ。


 だが、燃やしすぎてはいけない。


 消し炭にしてはいけない。


 怒りを乗せすぎれば、名まで焼く。


「くっそ……!」


 アルベルトは歯を食いしばる。


「こんな細かい火加減、料理人じゃねぇんだぞ俺は!!」


 エリシアが叫ぶ。


「文句を言いながらでも制御できているなら続けてください!」


「してる!」


「ならよろしいです!」


 炎と風が絡み、奔流の黒い部分だけを削る。


 その先で、リーネが待っていた。


 四枚の記録面が広がる。


 一枚目、二枚目、三枚目、四枚目。


 金色の祈りに支えられた紙のような光。


 そこへ、名前が流れ込む。


 リーネの青黒い光が、必死に聞き取る。


『……アト』


 リリアーナが、掠れた声で呼ぶ。


「アトさん!」


 一枚目へ刻まれる。


『……シーナ』


「シーナさん!」


 二枚目へ。


『……モル』


「モルさん!」


 三枚目へ。


『……エナ』


「エナさん!」


 四枚目へ。


 だが、流れはそれだけでは済まない。


『……グリ』


『……ノール』


『……サヤ』


『……テオ』


『……リム』


『……カサ』


『……オウ』


『……ニルカ』


 次々に来る。


 リリアーナの声が詰まりかける。


「っ……」


 その瞬間、ミオの光が揺れた。


『グリ』


 リリアーナがすぐに繰り返す。


「グリさん!」


 リセが続く。


『ノール』


「ノールさん!」


 ノアが。


『サヤ』


「サヤさん!」


 サナが。


『テオ』


「テオさん!」


 エルドが鐘のような光を鳴らす。


『リム』


「リムさん!」


 マリが。


『カサ』


「カサさん!」


 ガレスが低く。


『オウ』


「オウさん!」


 ユーナが旗の光で示す。


『ニルカ』


「ニルカさん!」


 呼ばれた名が、記録面へ刻まれていく。


 リリアーナ一人ではもう足りない。


 だから、戻った名たちが呼ぶ。


 リリアーナが繰り返す。


 リーネが書く。


 セラフィアが祝福で固定する。


 レオンが黒蒼雷で虚ろとの境界を守る。


 名が、紙へ留まる。


 感情は、第五領域へ流れる。


『怖い』


『痛い』


『帰りたい』


『寒い』


『置いていかないで』


 リリアーナが、喉を震わせながら水面へ声をかける。


「流れていいです!」


「消えなくていいです!」


「ここは、泣いても壊れません!」


 第五領域の水面が、大きく波打つ。


 中心の余白が、その近くで静かに揺れる。


『……すごい』


 中心の小さな反応が、また流れた。


 リリアーナが涙を浮かべながら頷く。


「はい」


「みんな、すごいんです」


 レオンも、奔流を抑えながら言う。


「お前も、見てる」


『……みてる』


 その小さな反応に、余白が淡く光った。


 だが、安心する暇はなかった。


 大波は、さらに厚くなる。


 ◇


 外殻が動いた。


 王冠を失った虚ろの外殻。


 輪郭が崩れ、王という形を保てなくなった黒い影。


 それが、名前の洪水の向こうで両腕を広げた。


『返せ』


『返せ』


『返せ』


『それは我の形』


『それは我の王冠』


『それは我の名』


 外殻の黒い腕が、奔流の中へ伸びる。


 今度は名を握り潰すのではない。


 もっと悪い。


 外殻は、流れ込む名と感情を無理やり混ぜようとしていた。


 名前と怖いを混ぜる。


 記録と痛みを混ぜる。


 助けてと罪を混ぜる。


 帰りたいと怒りを混ぜる。


 そうして、もう一度“誰でもない塊”に戻そうとしている。


 エリシアが叫んだ。


「外殻、混合干渉!」


「名前と感情の境界を崩そうとしています!」


 セラフィアの表情が険しくなる。


「それを許せば、記録面が壊れる」


「第五領域も濁るわ」


 レオンは黒蒼雷を外殻の腕へ伸ばした。


「混ぜるな!!」


 雷が黒い腕に絡む。


 外殻が呻く。


『分けるな』


『名は痛み』


『痛みは名』


『全部混ぜれば楽になる』


『誰の痛みでもなくなる』


 レオンは、歯を食いしばる。


「楽になるんじゃない」


「分からなくなるだけだ!!」


 グレイヴが外殻の腕を大剣で押し返す。


「クラウス!」


「絡みを切る!」


 クラウスの剣が、名と感情の混ざりかけた部分へ走る。


 だが、ここで切るのは危険だった。


 名と感情は本来繋がっている。


 完全に切り離せば、薄い名前になる。


 混ざりすぎれば、壊れる。


 必要なのは、離すことではない。


 流れを分けること。


 名前を記録し、感情を第五領域へ流し、記憶片を沈めずに回す。


 クラウスは、眉間に深い皺を刻みながら剣を動かす。


「これは……細いな」


 アルベルトが叫ぶ。


「手伝えるか!?」


「燃やしたら壊れる!」


「じゃあ無理だ!」


「外側の虚ろだけ削れ!」


「分かった!」


 アルベルトの炎が、外殻の黒い干渉だけを焼く。


 エリシアの風が、混ざりかけた流れをゆっくりと解く。


「急がないで!」


「急に分けると名前が裂けます!」


 その言葉に、レオンは一瞬だけ目を閉じた。


 急がない。


 ここでも、同じだ。


 急げば壊す。


 遅すぎれば呑まれる。


 だから、ゆっくり進み続ける。


「リリアーナ」


「はい」


「呼べるか」


「呼びます」


 彼女の声はもう、ほとんど掠れている。


 それでも、彼女は大波の中へ向かって叫んだ。


「混ざらなくていいです!」


「痛いままでいい!」


「怖いままでいい!」


「でも、あなたの名前は、あなたの名前です!」


 その声に、混ざりかけていた名のひとつが震えた。


『……私』


 リーネが聞き取る。


『……ミト』


「ミトさん!」


 記録面へ刻まれる。


 別の名が震える。


『……オリエ』


「オリエさん!」


 その感情は第五領域へ流れる。


『怖い』


『痛い』


 リリアーナが受け止める。


「怖かったんですね!」


「痛かったんですね!」


「でも、名前はここにあります!」


 名前と感情が、別々の場所へ収まる。


 切り離すのではない。


 同じ人のものとして、記録面と第五領域が光で繋がる。


 エリシアが術式盤を見て叫ぶ。


「成功!」


「名前と感情を別領域に分けつつ、関連線を保持できています!」


 アルベルトが言う。


「つまり!?」


「名前は紙、気持ちは水、でも同じ人のものとして繋がっているということです!」


「分かりやすい!」


 セラフィアが微笑む余裕もなく頷く。


「その形を維持して!」


「これが大波を受け止める鍵よ!」


 中心の余白が、大きく揺れた。


『……つながる』


 レオンが息を呑む。


 中心は、今の構造を見ている。


 名前と感情は混ぜなくてもいい。


 分けても、切り捨てなくていい。


 別々の場所に置いても、繋がっていられる。


 それを、学んでいる。


 リリアーナが、微笑む。


「はい」


「繋がります」


「混ざらなくても」


「なくならなくても」


「繋がります」


 外殻が絶叫した。


『繋がるな!!』


 黒い腕がさらに増える。


 だが、もう完全には混ぜられない。


 レオンたちは構造を掴んだ。


 名前は記録面へ。


 感情は第五領域へ。


 返事未満のものは余白へ。


 それぞれを黒蒼雷と祈りと精神線で繋ぐ。


 混ぜずに、切らずに、繋ぐ。


 それこそが、虚ろへの最大の反撃だった。


 ◇


 大波の中盤で、ミリオが限界を迎えかけた。


 精神線が、突然大きく揺れる。


 繋がれていた記録面の一部が薄くなる。


 ラウルがすぐに支える。


「ミリオ!」


「……線が、重い……!」


 ミリオは膝をついた。


 額から汗が落ちる。


 目の焦点が揺れている。


「名前も、感情も、余白も、中心も……全部、繋ぐには……多すぎる……!」


 ラウルが盾を構えたまま叫ぶ。


「切れそうなのはどこだ!」


「第三記録面と第五領域の関連線!」


「あと、戻った名たちへの補助線!」


 リーネが叫ぶ。


『第三記録面が薄くなっています!』


 そこには、さっき刻まれた名前がいくつもある。


 シド、ルミ、エイン、ハナ、トト、レムナ。


 他にも、ミト、オリエの感情関連線が近い。


 このまま線が切れれば、名前と感情の繋がりが失われる。


 外殻は、そこを狙ってきた。


『切れろ』


『名前だけ残れ』


『感情だけ沈め』


『分かれろ』


『壊れろ』


 黒い影が第三記録面へ伸びる。


 レオンは向かおうとする。


 だが、正面の大波を抑える黒蒼雷を外せない。


 グレイヴとクラウスも前線を離れられない。


 アルベルトとエリシアも外殻の混合干渉を処理している。


 一瞬、穴が空く。


 その時。


 ノアの光が前へ出た。


『守る』


 木の騎士の小さな輪郭が、第三記録面の前に立つ。


 マリの布の光が、その周囲へ広がる。


『ほどけないように』


 サナの薬草色の光が第五領域へ流れ、痛みの感情を水面へ誘導する。


『こっち』


 エルドの鐘が鳴る。


『来たよ』


 ユーナの旗が立つ。


『迷わない』


 カイルの剣士の光が、黒い影の前に出る。


『ここは通さない』


 戻った名たちが、第三記録面を守り始めた。


 リーネが震える。


『みんな……』


 セリアが、聞こえた声を拾う。


『シド、まだいます』


『ルミ、感情線あります』


『エイン、消えていません』


 リリアーナが掠れた声で呼ぶ。


「シドさん!」


「ルミさん!」


「エインさん!」


「ハナさん!」


「トトさん!」


「レムナさん!」


 ミオとリセも呼ぶ。


『いる』


『消えない』


 第三記録面が、かすかに光を取り戻す。


 ミリオは涙目になりながら、精神線を繋ぎ直す。


「ごめん……!」


 ラウルが短く言う。


「謝るな」


「戻せ」


「うん……!」


 ミリオは、震える手で線を結ぶ。


「ミリオ・ハーグ!」


「皆の声を繋ぐために進みます!」


 精神線が再び光る。


 第三記録面と第五領域の関連線が戻る。


 黒い影が弾かれた。


 レオンは、胸の奥から息を吐く。


「助かった」


 ノアの光が小さく揺れる。


『守れた……』


 リリアーナが涙を浮かべる。


「はい」


「守れました」


 中心の余白が、また震える。


『……まもる』


 新しい反応。


 守る。


 レオンは、中心を見る。


「ああ」


「守るんだ」


『……まもる』


 外殻が、怒りに身をよじる。


『守るな!!』


『名は守るものではない!!』


『喰らうものだ!!』


 レオンは低く返した。


「違う」


「守るものだ」


 ◇


 大波は、終わらない。


 何度も押し寄せる。


 そのたびに、全員が少しずつ削られる。


 グレイヴの大剣には黒い亀裂が走りかける。


 クラウスの剣筋はまだ正確だが、肩で息をしている。


 アルベルトの炎は小さく揺れ、エリシアの風は時折乱れる。


 ラウルの盾は欠け、ミリオの精神線は細く細くなっている。


 セラフィアの金色の祈りも、薄くなり始めている。


 リーネの記録面には名前が増え続け、セリアやユーナや他の戻った名たちの支援がなければ整理が追いつかない。


 リリアーナの声は、もう叫びというより、必死に絞り出す息に近い。


 レオンの黒蒼雷も、何度も消えかける。


 それでも、進む。


 一つずつ。


 一人ずつ。


 流れを分ける。


 名前を呼ぶ。


 感情を流す。


 記憶を沈めず回す。


 中心を守る。


 余白を消さない。


 第五領域を濁らせない。


 大波の中で、時間の感覚は壊れていく。


 どれだけ続いたのか分からない。


 数十呼吸か。


 数百呼吸か。


 あるいは、もっと長い時間だったのか。


 深部では分からない。


 ただ、レオンは何度も同じことを繰り返した。


「名前は紙へ」


「感情は水へ」


「まだ言葉にならないものは余白へ」


「虚ろへ戻すな」


 その言葉が、仲間たちの合図になる。


 リリアーナが、時々それを繰り返す。


「名前は紙へ……」


「感情は水へ……」


「余白は、ここに……」


 戻った名たちも、拙く繰り返す。


『紙へ』


『水へ』


『余白へ』


『戻さない』


 中心も、やがて小さく反応する。


『……紙』


『……水』


『……よはく』


 リリアーナが目を見開く。


 中心が、構造を覚えようとしている。


 名前、感情、余白。


 それが別々にありながら、繋がっていることを。


 レオンは、胸が震えた。


「そうだ」


「紙」


「水」


「余白」


「それぞれある」


『……ある』


 中心が答える。


 外殻の声が、だんだん遠くなる。


 いや、外殻そのものはまだ強い。


 だが、中心には届きにくくなっている。


 王冠を失い、拘束鎖を失い、名前の洪水を奪い返されている外殻は、怒りだけで形を保とうとしている。


 その怒りは強い。


 だが、空っぽになっていく。


 反対に、中心は少しずつ“ある”を増やしている。


 怖い。


 助けて。


 ごめん。


 悲しい。


 すごい。


 見てる。


 繋がる。


 守る。


 紙。


 水。


 余白。


 その一つ一つが、まだ幼く弱い反応として、中心に残り始めていた。


 ◇


 大波の最後が見えた。


 洪水の奥。


 王冠崩壊の残り火のように、ひときわ濃い名の塊が迫ってくる。


 それは、今までの名の群れとは違った。


 中心がある。


 何人もの名が絡んでいるが、その中央に強い芯がある。


 エリシアが術式盤を見て叫ぶ。


「最終波!」


「中核名群が来ます!」


 セラフィアの顔が険しくなる。


「王冠の最深部に置かれていた名たち……!」


 アルベルトが炎剣を握り直す。


「それが最後か!」


「おそらく!」


 グレイヴが大剣を構える。


「全員、ここを越えるぞ!」


 クラウスが剣を低く構える。


「絡みが深い」


「一気にほどけない」


 レオンは、黒蒼雷を構え直した。


 正直、腕はもう動かしたくない。


 だが、最後だ。


 ここで崩れれば、最深部の名たちは虚ろへ戻る。


 リリアーナが、声にならないほど掠れた息で言った。


「……呼びます」


「無理するな」


「します」


「リリアーナ」


 彼女は、レオンを見た。


 涙と疲労で揺れる目。


 それでも、強い目。


「これが最後の波なら」


「呼びます」


「でも、声が出なくなったら」


 一拍。


「その時は、みんなで呼んでください」


 レオンは頷いた。


「ああ」


 最終波が迫る。


 外殻も、それを見て笑うように震えた。


『それは返せぬ』


『王冠の芯』


『我の最深』


『それを失えば、我は終わる』


 レオンは低く返す。


「終わらせる」


『できぬ』


「返す」


『できぬ』


「名前は」


 一拍。


「お前の王冠じゃない」


 黒蒼雷が、最後の波へ伸びる。


 触れた瞬間。


 圧倒的な数の名。


 その中心に、いくつかの強い声がある。


『ここ』


『まだ』


『忘れないで』


『最後まで』


『呼んで』


 リーネが叫ぶ。


『聞こえます!』


『でも、多い……!』


 セリアが補助する。


『声の層が深い』


 ユーナが旗を立てる。


『道、分ける』


 ガレスが低く言う。


『逃がすな』


 ルカが第五領域へ感情を流す。


『泣いていい』


 ミルが小さく言う。


『聞こえる』


 ダリオが目を逸らさないように震える。


『聞く』


 ゼクトが笛を鳴らすように光る。


『集まれ』


 戻った名たちが、全員で支える。


 リリアーナが、最後の力を振り絞る。


「聞こえています!」


「一人ずつ!」


「一人ずつ、呼びます!」


 レオンが黒蒼雷を広げる。


「流れを分ける!」


 グレイヴが受ける。


 クラウスがほどく。


 アルベルトが焼く。


 エリシアが流す。


 セラフィアが祈る。


 ラウルが守る。


 ミリオが繋ぐ。


 リーネが聞く。


 リリアーナが呼ぶ。


 中心が、余白の中で震える。


『……まもる』


 その小さな反応が、レオンの背中を押した。


 最終波が、全員へ激突した。


 深部が白く弾ける。


 無数の名が、四枚の記録面へ、第五領域へ、戻った名たちの輪へ流れ込む。


 誰も叫ぶ余裕がない。


 ただ、動く。


 ただ、呼ぶ。


 ただ、守る。


 名を虚ろへ戻さない。


 その一点だけを支えに。


 長い、長い波が過ぎていく。


 そして。


 少しずつ。


 洪水の勢いが落ち始めた。


 光の奔流が細くなる。


 声の数が減っていく。


 感情の波が穏やかになっていく。


 四枚の記録面は、びっしりと名前で埋まっていた。


 第五領域は、悲しみと恐怖と帰りたいという願いを流しながらも、濁らずに保たれていた。


 余白の中の中心は、震えながらも消えていない。


 戻った名たちの光は疲れ切ったように弱い。


 だが、そこにある。


 レオンは、荒く息を吐いた。


 黒蒼雷が、細く、細く揺れている。


「……終わった、か」


 誰もすぐには答えられなかった。


 エリシアが術式盤を見る。


 その手が震えている。


「王冠由来の名の奔流……」


 一拍。


「主要流入、停止」


 セラフィアが、目を閉じて祈りを確認する。


「記録面、保持」


「第五領域、保持」


「余白、保持」


 ミリオがへたり込みながら言う。


「線……切れてません……」


 ラウルが盾を下ろしかけ、また上げ直す。


「まだ、外殻がいる」


 その言葉に、全員が前を見る。


 名前の洪水が収まった向こう。


 王冠を失い。


 名を失い。


 中心も失った外殻が、そこに立っていた。


 もう王の形ではない。


 ただの黒い怒り。


 喰うものを失った虚ろの殻。


 それが、ゆっくりと顔のない頭を上げる。


『返せ』


 声は、掠れていた。


『返せ』


『名を』


『王冠を』


『中心を』


 レオンは、黒蒼雷を握る。


 腕は震えている。


 だが、立つ。


 リリアーナも隣に立つ。


 喉は限界。


 それでも、彼女は中心の余白を守るように前を見る。


 外殻が、低く呻く。


『返さぬなら』


『すべて』


『壊す』


 深部に、最後の黒が集まり始めた。


 名前の洪水は受け止めた。


 王冠は崩れた。


 中心は守った。


 だが、外殻はまだ残っている。


 怒りだけになった虚ろの殻が、最後の破壊へ向かおうとしていた。


 余白の中で、中心が震える。


『……こわい』


 リリアーナが、声にならないほど掠れた声で返す。


「怖いですね」


 レオンが続ける。


「でも、ここにいる」


 中心が、小さく震えた。


『……ここ』


 その反応に、レオンは頷いた。


「ああ」


「ここだ」


 そして、外殻へ向き直る。


 王冠崩壊の大波は越えた。


 次は、名を失った外殻との決着だった。

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