第169話「聞こえた声を憎む鎖、無能王子は“届いた痛み”を否定させない」
中心の空洞は、もう沈黙ではなかった。
怖い。
嫌だ。
助けて。
泣きたい。
聞こえた。
そのどれもが、まだ弱い。
言葉としては不完全で、息のようにかすれていて、深部の闇が少し強く揺れれば消えてしまいそうだった。
それでも。
そこにあった。
第五領域の水面に、確かに流れていた。
レオンは、その波を見つめていた。
右腕の痛みは、もう痛みというより熱に近い。
黒蒼雷を細く保ち続けたせいで、指先の感覚が曖昧になっている。
膝も重い。
呼吸も浅い。
それでも、倒れない。
倒れられない。
中心を縛る主要拘束は、残り二本。
ゼクトの鎖。
ルカの鎖。
ミルとダリオの鎖。
三本を外した。
そのたびに中心は少しずつ、外殻から離れ始めている。
そしてそのたびに、虚ろの王の外殻は壊れていく。
王冠は大きく歪み、中層は崩れ、名の残骸が四枚の記録面へ流れ込み続けている。
リーネは必死に聞き取り、リリアーナは掠れた声で呼び、セラフィアは祈りを保ち、エリシアは術式で記録面を支え、ミリオは精神線を繋ぎ、ラウルは盾で背後を守っている。
グレイヴ、クラウス、アルベルトは前線で外殻の攻撃を受け止めていた。
全員が限界に近い。
それでも、誰も引かない。
ここまで来て、引けるわけがなかった。
『違う』
虚ろの王の外殻が呻く。
『聞こえてなどいない』
『届いてなどいない』
『助けなどない』
『声など無意味』
『届いた声など』
一拍。
『憎い』
その言葉に、深部の空気が変わった。
レオンは、息を止めた。
リリアーナの手が強くなる。
「……憎い?」
彼女が呟く。
第五領域の水面が、不安定に揺れた。
助けて。
聞こえた。
その感情の上へ、黒い影が落ちる。
王冠の奥から、四本目の主要拘束鎖が姿を現した。
それは、これまでの鎖とは違っていた。
黒い。
だが、赤く燃えている。
鉄が熱せられたような赤。
怒りと憎しみが染みついた鎖。
その表面には、無数の耳のような歪な模様が浮かんでいた。
聞くためのもの。
だが、聞いてしまったことを憎むもの。
エリシアが術式盤を見て、表情を強ばらせる。
「反応、極めて不安定」
「これは……聴覚記憶と憎悪反応が結合しています」
アルベルトが顔をしかめた。
「聞いたことを憎んでるってことか?」
クラウスが低く言う。
「助けてを聞いてしまったから」
「無視した自分が生まれる」
グレイヴが大剣を握り直した。
「聞こえなければ、罪にはならない」
「そう思いたかった者の鎖か」
セラフィアが静かに頷く。
「そして、中心にもそれを強いている」
「聞こえた声を憎め」
「聞かなかったことにしろ」
「届いたことを認めるな」
リリアーナが、喉を押さえたまま第五領域を見る。
「だから……」
「聞こえた、を押し潰そうとしてるんですね」
レオンは頷いた。
ミルの声は届いた。
ダリオは聞かなかったことにできなかった。
中心も、聞こえたと反応した。
だから次に出てきた鎖は、“聞こえた声そのものを憎む鎖”。
聞いたから苦しくなった。
聞いたから罪になった。
聞いたから、助けられなかった自分を知ってしまった。
なら、聞こえたことを憎め。
声を憎め。
助けを求めた者を憎め。
そういう鎖だ。
レオンは、奥歯を噛みしめる。
「悪い鎖だな」
アルベルトが低く吐き捨てる。
「ほんと、最悪だ」
リリアーナが静かに言う。
「でも、ほどきましょう」
その声は震えていた。
だが、強かった。
「聞こえた声が、憎しみに変わる前に」
レオンは頷く。
「ああ」
◇
四本目の主要拘束鎖へ、黒蒼雷が伸びる。
触れた瞬間、耳鳴りがした。
鋭い。
深い。
何度も何度も同じ声を聞かされるような、胸を抉る耳鳴り。
『助けて』
『助けて』
『助けて』
『助けて』
それは、ミルの声ではない。
もっと多い。
別の声たち。
何人も。
何十人も。
助けて。
助けて。
助けて。
その声を聞き続けた誰かがいる。
だが、その誰かは助けられなかった。
いや。
助けなかった。
あるいは、助けられる立場ではなかった。
助けたいと願うことさえ、許されなかった。
声だけが、耳に残った。
残り続けた。
やがて、その人は声を憎んだ。
助けてと言うな。
聞こえなければ苦しくない。
聞こえなければ罪にならない。
助けを求める声こそが、自分を壊す。
そう思うようになった。
レオンの胸へ、その歪んだ痛みが流れ込む。
「……っ」
足元が揺れる。
リリアーナがすぐに呼ぶ。
「レイさん!」
「聞こえすぎてる」
「戻ってください!」
「俺はここにいる」
「はい、ここにいます!」
リリアーナの声が支えになる。
レオンは息を整える。
一人で全部聞くな。
一つずつ。
鎖の中心にある名を探せ。
レオンは、黒蒼雷を細く絞った。
助けての声の洪水。
その奥。
耳を塞ぎたいのに塞げなかった記憶。
暗い部屋。
小さな窓。
机。
書きかけの報告書。
外から聞こえる声。
壁の向こうから聞こえる泣き声。
記録官か。
監視役か。
それとも、救助要請を受ける役目の者か。
女の声が、鎖の奥から漏れた。
『やめて』
『もう呼ばないで』
『聞こえる』
『聞こえてしまう』
リリアーナが、鎖へ向かって優しく言った。
「聞こえています」
『聞くな』
「聞こえています」
『聞くな!!』
「あなたも、ずっと聞いていたんですね」
鎖が、赤く燃える。
『うるさい』
『助けてばかり』
『痛いばかり』
『帰りたいばかり』
『私には、何もできないのに』
『どうして呼ぶの』
その声は、怒っていた。
怒りに震えていた。
だが、奥には悲鳴がある。
リリアーナは、それを聞き逃さなかった。
「何もできないのに、聞こえ続けたんですね」
『黙れ』
「苦しかったんですね」
『黙れ』
「助けたかったんですか」
『黙れ!!』
赤黒い鎖がリリアーナへ伸びようとする。
ラウルが盾で受ける。
「彼女に触るな!」
鎖が盾に絡む。
『聞くな』
『聞けば壊れる』
『切れ』
『声など切れ』
ラウルの腕が震える。
「ぐっ……!」
ミリオが精神線を繋ぐ。
「ラウル!」
「ラウル・ゼクト!」
「背後を閉ざさないために進む!」
ラウルの盾が光る。
「聞こえた声を切るために盾を持ってるんじゃない!」
「守るために持ってる!」
鎖が押し返される。
アルベルトの炎が鎖の外側を焼く。
「怒りだけ燃えろ!」
「声は燃やすな!」
エリシアの風が、耳鳴りのような圧を流す。
「音圧干渉を分散!」
「リリアーナ様、呼びかけを続けてください!」
リリアーナは頷く。
喉は痛い。
声は掠れている。
それでも、続ける。
「あなたの名前を聞かせてください」
『嫌』
「聞こえた声から、逃げなくていいです」
『嫌!!』
「逃げたいなら、逃げたいって言っていいです」
鎖の奥の声が、止まった。
リリアーナは、そっと言う。
「聞くのが苦しかったなら」
「苦しいって言っていいです」
「助けられなくて悔しかったなら」
「悔しいって言っていいです」
「でも」
一拍。
「助けてって言った人たちを、憎まなくていいです」
鎖が、激しく震えた。
『憎い』
声が漏れる。
『憎い』
『呼ぶから』
『私に聞こえるから』
『何もできない私に、助けてなんて言うから』
『私が、壊れる』
『私が、悪者になる』
『私が』
『私が』
レオンは、その声の奥に触れる。
そこにあるのは、自責だ。
助けられなかった自分。
聞くだけしかできなかった自分。
その痛みを抱えきれず、声そのものを憎むことで自分を守ろうとした。
レオンは静かに言った。
「声を憎めば、楽になったか」
鎖が止まる。
『……』
「助けてを憎めば」
「聞こえたことは消えたか」
『……消えない』
声が、初めて弱くなる。
『消えない』
『ずっと聞こえる』
『夢でも』
『耳を塞いでも』
『助けてって』
『ずっと』
リーネの光が震えた。
『記録にも……残らない声』
『でも、聞こえた声』
セラフィアが金色の光を伸ばす。
「聞こえたことは、呪いだけではない」
鎖の奥の女が嗤うように言った。
『綺麗事』
セラフィアは否定しない。
「そう聞こえるでしょうね」
「でも」
「聞こえたから、今ここで探せる」
「聞こえたから、あなたは忘れなかった」
『忘れたかった!!』
その叫びは、深部に響いた。
『忘れたかった!』
『助けてなんて!』
『泣き声なんて!』
『名前なんて!』
『全部、忘れたかった!!』
沈黙が落ちる。
それは、責められない叫びだった。
忘れたかった。
それほど苦しかった。
リリアーナの目から涙が落ちる。
「忘れたかったんですね」
『……』
「それくらい、苦しかったんですね」
『……うん』
「でも、忘れられなかった」
『うん……』
レオンは、黒蒼雷を添える。
「なら、その聞こえた声を」
「憎しみじゃなく、名前へ戻そう」
『……名前』
「ああ」
「お前自身の名前も」
「聞こえた声たちも」
「まずは、お前からだ」
鎖の奥に、記憶が浮かぶ。
小さな鈴。
机の端に置かれている。
誰かが助けを求める時、その鈴が鳴る仕組みだった。
深部の監視室。
名を喰われた者たちの反応を知らせる鈴。
彼女は、その鈴が鳴るたびに報告書を書いた。
だが、救助命令は出なかった。
ただ記録しろと言われた。
異常なしと書けと言われた。
救助不要と書けと言われた。
鈴は鳴り続けた。
助けては聞こえ続けた。
彼女は、何もできなかった。
やがて鈴の音を憎んだ。
声を憎んだ。
助けてという言葉を憎んだ。
レオンの胸が重くなる。
「……記録を改ざんさせられたのか」
エリシアが息を呑む。
「救助不要と……?」
リーネの光が震える。
『記録を……歪められた人』
鎖の奥の女が、かすかに泣く。
『書いた』
『助けが必要って』
『でも、直された』
『不要って』
『私は、また書いた』
『また直された』
『最後は』
『私が、不要って書いた』
その言葉が、深く沈む。
自分で書いた。
救助不要と。
それが、彼女の罪。
彼女の折れた瞬間。
レオンは、何も言わなかった。
軽い言葉で埋めてはいけない。
リリアーナも、長い沈黙の後で言った。
「……苦しかったですね」
『そんな言葉で』
「はい」
「済みません」
『許されるわけがない』
「はい」
「許されることじゃないかもしれません」
リリアーナは、涙を拭わずに言った。
「でも、名前を失ったままだと」
「書き換えたことも」
「聞こえた声も」
「全部、虚ろの鎖になってしまいます」
『……』
「戻ってください」
「あなたの名前で」
「聞いた声を、憎むだけじゃなく」
「もう一度、記録し直すために」
リーネが前へ出る。
『一緒に書きます』
鎖が震える。
リーネは続けた。
『あなた一人に、もう書かせません』
『救助不要ではなく』
『聞こえた、と』
『助けを求めていた、と』
『今度は一緒に書きます』
鎖の奥の女が、泣く。
声にならない涙。
やがて、かすかに名前が漏れた。
『……セ』
レオンが集中する。
『セリア』
リリアーナが、優しく呼ぶ。
「セリアさん」
鎖が大きく震えた。
『セリア……』
『私は、セリア……』
セラフィアが祈りを広げる。
「セリア」
「あなたの名を祝うわ」
「そして、聞こえた声を憎しみだけにしないように」
リーネが呼ぶ。
『セリア』
『一緒に、書きましょう』
レオンが呼ぶ。
「セリア」
仲間たちも続く。
「セリア」
「セリアさん」
鎖が、赤い火花を散らしながらほどけた。
中から、鈴の形をした小さな光が抜け出す。
それは震えていた。
鳴ることを恐れる鈴。
けれど、もう鎖ではない。
『セリア……』
『聞こえてた……』
『ごめんなさい……』
その光は、リーネの記録面のそばへ漂った。
リーネの光が寄り添う。
『一緒に、書きます』
セリアの光が、かすかに頷くように揺れた。
◇
四本目の主要拘束鎖が外れた。
中心と外殻の間が、さらに広がる。
第五領域が大きく波打った。
中心の空洞から、感情が流れ込む。
『……きこえた』
『……こわい』
『……たすけ』
そして。
『……ごめん』
レオンは息を呑んだ。
リリアーナも目を見開く。
ごめん。
それは、誰の感情か。
中心自身か。
セリアの残響か。
ミル、ダリオ、ゼクト、ルカ、ガレス、サナ、他の名たちの痛みが混ざったものか。
まだ分からない。
でも、第五領域に流れた。
外殻はそれを恐れるように震える。
『違う!!』
『謝るな!!』
『王は謝らぬ!!』
『喰らうものは謝らぬ!!』
レオンは、外殻を睨む。
「また、中心が言葉を増やした」
エリシアが術式盤を見る。
「中心核、感情語彙増加」
「“ごめん”に相当する反応を確認」
アルベルトが苦い顔をする。
「どんどんやりづらくなるな」
クラウスが低く言う。
「だが、それが中心の変化だ」
グレイヴが頷く。
「外殻と同じではなくなっている」
セラフィアが静かに言った。
「残る主要拘束は一本」
その言葉に、全員が息を呑む。
一本。
あと一本。
それを外せば、中心と外殻を分けられる。
だが、同時に誰もが分かっていた。
最後の一本が、最も深い。
外殻が最後まで残した拘束。
中心を王冠へ繋ぎ止める、最深の鎖。
虚ろの王の外殻が、静かに震えた。
今までのように叫ばない。
怒鳴らない。
ただ、低く、低く、笑うように呻いた。
『最後は』
『外せぬ』
『それを外せば』
『我は終わる』
王冠の奥から、最後の主要拘束鎖が姿を見せる。
それは、黒でも赤でもなかった。
透明に近い。
だが、そこにある。
見えないのに、重い。
何もないようで、中心を最も深く縛っている。
エリシアの術式盤が激しく乱れる。
「反応が……読めません」
「これは、名でも感情でもない……?」
セラフィアの顔色が変わる。
「違う」
「これは」
一拍。
「“自分には何もない”という拘束」
深部が、冷たくなる。
最後の鎖。
名を喰う外殻の、最深部。
自分には何もない。
だから喰うしかない。
だから王冠を被るしかない。
だから他者の名で自分を飾るしかない。
その思い込みそのもの。
レオンは、透明な鎖を見た。
これを外さなければ、中心は自由にならない。
だが、これを外すということは。
中心に、自分には何かがあると認めさせること。
名前もない。
過去もない。
祝福もない。
呼ばれたこともない。
そんな空白に。
それでも、何もないだけではないと伝えること。
リリアーナが、小さく息を吸った。
「最後……ですね」
「ああ」
レオンは頷いた。
中心の空洞が、第5領域へ小さく感情を流す。
『……こわい』
『……たすけ』
『……ごめん』
レオンは、その声を聞きながら黒蒼雷を握る。
「聞こえてる」
リリアーナも言う。
「聞こえています」
透明な鎖が、静かに中心を締めていた。
次に進めば、おそらく今までで一番深い場所へ触れることになる。
それでも。
もう、聞こえた声を憎む鎖は外れた。
助けては届いた。
ごめんも流れた。
残るのは、何もないという最初の嘘。
レオンは一歩前へ出る。
「次で、最後の鎖をほどく」
仲間たちが、疲れ切った身体で構え直す。
深部は静かに震えている。
王冠は崩れかけている。
中心は、もう完全な空白ではない。
そして最後の拘束が、彼らを待っていた。




