第167話「王冠から引き離す時、無能王子は“助けて”を聞いたまま雷を伸ばす」
第五領域の水面に、まだ波が残っていた。
怖い。
嫌だ。
助けて。
虚ろの王の中心から流れた、その三つの感情。
それは、深部の闇にとって異物だった。
王冠に押し潰されるはずだったもの。
外殻に否定されるはずだったもの。
王という言葉の下に沈められ、名を喰らうことで上塗りされるはずだったもの。
けれど、消えなかった。
第五領域は壊れなかった。
怖いも。
嫌だも。
助けても。
水面の中を、淡く、細く、震えながら流れている。
レオンは、その水面を見ていた。
右腕は重い。
黒蒼雷を保ち続けた痛みが、肩から胸へ広がっている。
足も重い。
息を吸うだけで、深部の冷たい空気が肺の奥へ刺さる。
それでも、目は逸らせない。
聞こえた。
助けてと。
敵の中心から。
虚ろの王の欠片の、名もない空白から。
その声を聞いてしまった。
なら、もう戻れない。
ただ倒すだけでは終われない。
ただ壊すだけでは、ここまで呼び戻した名も、記録も、感情も、余白も、全部が意味を失ってしまう。
レオンは、ゆっくり息を吐いた。
「王冠から、中心を引き離す」
その言葉を、もう一度自分の中で確かめる。
王冠。
奪った名で作った外殻。
王という役割。
支配という嘘。
喰らい続けることでしか形を保てなかった黒い鎧。
そして中心。
まだ名前もない。
怖いと言った。
嫌だと言った。
助けてと言った。
返事になる前の余白に触れ、第五領域へ感情を流したもの。
それらを分ける。
外殻と中心を、切り離す。
言葉にすれば、それだけだ。
だが、実際にはあまりにも危険だった。
外殻は奪った名でできている。
王冠を剥がせば、名が溢れる。
中心はまだ弱い。
外殻から切り離されれば、そのまま崩れるかもしれない。
王冠が暴れれば、四枚の記録面も、余白も、第五領域も押し潰されるかもしれない。
それでも。
やるしかない。
リリアーナが、隣で小さく息を整えていた。
喉を押さえている。
声はもうかなり掠れている。
それでも、彼女はレオンの手を握っている。
「レイさん」
「何だ」
「次、かなり危ないですよね」
「ああ」
「中心を助けるってことは」
一拍。
「外側が、もっと怒りますよね」
「たぶんな」
「怖いです」
「俺も怖い」
レオンは、迷わず答えた。
リリアーナは、その答えを聞いて少しだけ頷く。
「はい」
「じゃあ、怖いまま行きましょう」
「ああ」
「怖いって言ったまま」
「助けてって聞いたまま」
その言葉が、胸に沈む。
強がらない。
平気なふりをしない。
怖いまま進む。
この深部で、何度も学んできたことだった。
◇
セラフィアが、四枚の記録面と中央の余白、第五領域を見渡した。
金色の光はまだ保たれている。
だが、揺れていた。
彼女自身も消耗している。
真名を取り戻した古い祈りの神霊でさえ、この深部の負荷は軽くない。
「中心と外殻を分けるには、三つのことを同時に行う必要があるわ」
彼女の声に、全員が耳を向ける。
「一つ目」
「王冠に組み込まれた名を、これ以上押し潰させない」
「崩れた分は記録面へ受け止める」
リーネの光が震える。
『聞きます』
その声は弱い。
だが、芯があった。
『一つずつ』
『書けるものは書きます』
『聞き取れるものは、渡します』
セラフィアは頷く。
「二つ目」
「中心の余白と第五領域を守る」
「中心が再び感情を流した時、それが外殻に潰されないように」
リリアーナが喉を押さえながら言う。
「呼びます」
「言葉にならなくても」
「聞こえたら、返します」
セラフィアの瞳が柔らかくなる。
「三つ目」
「レオンの黒蒼雷で、外殻と中心の境界を探る」
「切るのではなく、ほどく」
「外殻を壊すのではなく」
「中心を引き剥がす」
アルベルトが炎剣を握った。
「壊すんじゃなくて、引き剥がす……か」
「また面倒なことを」
エリシアが術式盤を見ながら答える。
「面倒ですが、必要です」
「乱暴に切断すれば、中心核が崩壊する可能性があります」
「外殻に残った名も傷つきます」
クラウスが静かに言う。
「つまり、今までで一番繊細な戦いになる」
グレイヴが大剣を構える。
「その間、外殻の攻撃を受け続ける必要がある」
ラウルが盾を鳴らした。
「背後は守る」
ミリオが精神線を整える。
「線は……かなり限界です」
「でも、切れていません」
アルベルトが言う。
「倒れそうになったら言えよ」
「もう倒れそうです」
「早いな」
「でも倒れません」
「よし」
エリシアが小さく息を吐く。
「それ、励ましになっているのでしょうか」
「なってるだろ」
「……否定しきれないのが悔しいですわ」
深部の中に、ほんの小さな人の温度が戻る。
その瞬間でさえ、虚ろの王の外殻は軋んだ。
会話。
冗談。
支え合い。
そういうものが、虚ろには理解できない。
だから嫌がる。
だから、効いている。
レオンは、黒蒼雷を静かに灯した。
「始める」
リリアーナが手を握り直す。
「はい」
◇
虚ろの王の外殻は、すでにこちらの意図を察しているようだった。
王冠が激しく震える。
中層のひびから、黒い鎖が何本も生まれ、中心の空洞へ巻きつこうとする。
外へ出さないため。
第五領域へ感情を流させないため。
余白へ触れさせないため。
そして、外殻から切り離されないため。
『離すな』
『離れるな』
『王冠こそ我』
『外殻こそ我』
『中心などない』
『助けなどない』
『怖いなどない』
黒い鎖が、中心の空洞を縛る。
その瞬間、第五領域の水面が乱れた。
『……こわ』
かすかな感情が、流れかけて止まる。
鎖が押し戻している。
レオンは踏み込んだ。
「押し戻すな」
黒蒼雷が、鎖と中心の境目へ走る。
だが、触れた瞬間、すさまじい圧が流れ込んできた。
王であれ。
弱さを捨てろ。
助けを求めるな。
外へ出るな。
空白でいろ。
その命令が、黒蒼雷を通じてレオンの胸へ刺さる。
「っ……!」
リリアーナが叫ぶ。
「レイさん!」
「俺はここにいる!」
「戻ってください!」
「まだ行きすぎてない!」
レオンは歯を食いしばる。
境界を探る。
切るのではない。
鎖を砕くのでもない。
まずは、外殻がどこから中心を縛っているのかを見つける。
黒蒼雷が細く枝分かれする。
一本が王冠へ。
一本が中心へ。
一本が第五領域へ。
一本が余白へ。
それらを繋ぎながら、レオンは境界を見た。
あった。
外殻と中心は完全に一体化しているわけではない。
王冠の内側から伸びる黒い鎖が、中心の空洞へ幾重にも巻きついている。
だが、その間に、わずかな隙間がある。
そこをほどけば、中心は外殻から離れる。
ただし。
鎖の一本一本に、名の残骸が混じっている。
強引に切れば、その名も傷つく。
「……鎖にも、名前が混ざってる」
レオンが言う。
エリシアが術式盤を見る。
「確認しました」
「王冠中層の名残滓が鎖化しています」
「中心を縛るために、奪った名を使っている……!」
アルベルトが怒りを露わにする。
「最後まで胸糞悪ぃな!」
セラフィアの表情も険しい。
「鎖になっている名も返さないと、中心を外せない」
グレイヴが大剣を構える。
「つまり、縛っている鎖そのものをほどく戦いか」
クラウスが頷く。
「鎖一本ごとに名を探る必要がある」
リリアーナが、掠れた声で言う。
「呼びます」
「鎖になっていても」
「名前なら」
「呼びます」
レオンは頷いた。
「まず一本」
黒蒼雷を、中心に巻きつく鎖の一つへ伸ばす。
触れる。
鎖が震える。
中から聞こえたのは、低い男の声だった。
『縛れ』
『離すな』
『命令だ』
レオンは眉を寄せる。
これは、誰かを縛った記憶か。
それとも、縛られた記憶か。
鎖の奥へさらに触れる。
重い扉。
地下。
鉄の鍵。
手首に巻かれた縄。
誰かが泣いている。
そして、男の声。
『逃がせない』
『逃がせば、もっと多くが傷つく』
『だから、縛る』
クラウスが微かに反応する。
グレイヴも顔を険しくした。
レオンは低く言った。
「……看守か」
鎖が震える。
『違う』
『俺は』
『守っていた』
「何を」
『外を』
『中のものから』
「中にいたのは」
『子供』
空気が重くなる。
リリアーナの手が強くなる。
『危険だと言われた』
『虚ろに触れていると』
『外へ出せば、王都が危ないと』
『だから』
『縛った』
鎖が震える。
『泣いていた』
『助けてって言っていた』
『でも、開けなかった』
レオンの胸が痛む。
まただ。
命令。
危険指定。
助けを求める子供。
この物語は、何度もそこへ戻ってくる。
グレイヴの表情が苦しくなる。
クラウスも剣を握る手に力を込めた。
リリアーナが、震える声で言った。
「あなたも……聞こえていたんですね」
鎖が強く震える。
『聞こえた』
『毎晩』
『開けてって』
『帰りたいって』
『でも、開けなかった』
黒い鎖が中心をさらに締めようとする。
『だから俺は鎖でいい』
『名などいらない』
『縛るものとして残ればいい』
レオンは、低く言った。
「違う」
鎖が震える。
「鎖になって逃げるな」
『逃げてない』
「逃げてる」
一拍。
「自分が何を聞いて、何をしなかったのか」
「名前を捨てて鎖になれば、考えなくて済む」
鎖が怒りのように震える。
『黙れ』
リリアーナが続ける。
「でも、あなたは聞いていました」
「助けてって声を」
「その声を覚えているなら」
「あなたは、ただの鎖じゃありません」
グレイヴが一歩前に出た。
「名を持て」
低い声だった。
「罪があるなら、なおさら名を持て」
「俺も、聞かなかった」
「答えなかった」
「だからこそ分かる」
一拍。
「鎖になれば、楽だ」
「だが、それは償いではない」
鎖の奥の男が、呻く。
『俺は……』
クラウスも言う。
「命令で動いた過去がある者として言う」
「命令だけを残して、自分の名を消すな」
レオンが黒蒼雷を添える。
「名前を聞かせろ」
『……俺は』
鎖の奥に、記憶が浮かぶ。
小さな木製の笛。
腰に下げていたもの。
子供たちを集める時に鳴らしていた。
まだ看守になる前。
街の警備兵として、迷子の子供を呼ぶために鳴らしていた笛。
あたたかい記憶。
縛るだけではなかった頃。
呼んで、集めて、家へ帰すこともしていた頃。
リリアーナが、それを感じ取る。
「笛……?」
鎖が震える。
『迷子を……呼ぶための』
「あなたは、呼んでいたんですね」
『昔は』
『帰していた』
『でも、最後は』
『閉じ込めた』
レオンは言う。
「その全部が、お前だ」
『……』
「呼んでいたことも」
「閉じ込めたことも」
「助けてを聞いて開けなかったことも」
「全部、名前に戻せ」
長い沈黙。
その間にも外殻は鎖を締めつけようとする。
アルベルトの炎が外側の虚ろを焼き、エリシアの風が圧を流す。
セラフィアが祈る。
リーネが四枚の記録面を守る。
ミリオとラウルが第五領域を支える。
リリアーナが、そっと呼びかける。
「あなたの名前を、聞かせてください」
鎖の奥から、かすかな声が出た。
『……ゼ』
レオンが集中する。
『ゼクト……』
ラウルが一瞬反応する。
同じ名の響きに。
だが、違う人物だ。
レオンは呼ぶ。
「ゼクト」
リリアーナも続ける。
「ゼクトさん」
セラフィアが祈る。
「ゼクト」
「あなたの名を祝うわ」
「そして、あなたが鎖になって逃げないように」
グレイヴが低く呼ぶ。
「ゼクト」
クラウスも。
「ゼクト」
ラウルも、少し複雑な表情で呼んだ。
「ゼクト」
鎖が、大きく震えた。
黒い外殻が叫ぶ。
『戻るな!!』
『鎖でいろ!!』
『縛れ!!』
だが、名前は呼ばれた。
鎖の一本がほどける。
黒い重さの奥から、鈍い青の光が抜け出した。
笛の形を一瞬だけ取り、四枚の記録面の近くへ漂う。
『ゼクト……』
『開けなかった……』
声は泣いていた。
許されたわけではない。
だが、鎖ではなくなった。
中心を縛っていた一本が、外れた。
その瞬間。
中心の空洞が、第五領域へ強く波を流した。
『……たすけ』
リリアーナがすぐに応える。
「聞こえています!」
「一本、外れました!」
「あなたを縛っていた鎖を、ひとつ外しました!」
空洞が震える。
外殻が怒り狂う。
『違う!!』
『縛られてなどいない!!』
『我は王!!』
レオンは、黒蒼雷を握り直した。
「まだある」
中心に巻きつく鎖は、何本も残っている。
一本外しただけだ。
だが、確かに外れた。
中心と外殻の間に、わずかな隙間が広がった。
エリシアが術式盤を見て叫ぶ。
「中心核拘束、一本解除!」
「外殻との結合率、微減!」
アルベルトが息を吐く。
「一本でこれかよ……」
クラウスが低く言う。
「だが、道は合っている」
グレイヴが頷く。
「続けるぞ」
◇
次の鎖は、すぐに暴れた。
中心を縛る残りの鎖が、一本外れたことで警戒したのだ。
王冠の中層から、さらに太い黒い鎖が伸びる。
それらは中心を締めつけながら、同時に四枚の記録面と第五領域へ攻撃を仕掛ける。
一本の鎖をほどく間にも、他の鎖が暴れる。
時間をかければかけるほど、負荷が増す。
だが、急げない。
雑に切れば、中の名が壊れる。
レオンの視界が少し揺れた。
消耗が激しい。
黒蒼雷を細く保つことも、中心と鎖の境界を探ることも、名前を傷つけないように触れることも、すべて神経を削る。
リリアーナが気づく。
「レイさん」
「……大丈夫だ」
「それ、嘘です」
「……きつい」
「はい」
「でも、まだ行ける」
「わたしも、まだ呼べます」
リリアーナの声は掠れている。
それでも、彼女は立つ。
レオンは、彼女を見て短く頷いた。
「次だ」
セラフィアが金色の光を伸ばす。
「次の鎖は、感情を押さえている」
「名前だけでなく、助けてを流さないための鎖よ」
エリシアが術式盤を確認する。
「赤黒い反応……怒りと恥の混合です」
アルベルトが顔をしかめる。
「また重そうだな」
「軽いものは、ここにはありません」
エリシアが静かに言う。
その通りだった。
ここには軽いものなどない。
だから、一つずつ。
重いものを、全員で持つ。
レオンは、次の鎖へ黒蒼雷を伸ばした。
触れる。
今度は、熱かった。
怒り。
恥。
叫び。
赤い記憶。
広場。
群衆。
誰かが笑う。
誰かが指を差す。
声が聞こえる。
『泣くな』
『みっともない』
『男だろう』
『騎士見習いだろう』
『弱いところを見せるな』
レオンは息を呑む。
この鎖は、泣くことを恥じた記憶。
感情を押し殺すことを覚えた名だ。
中心を縛るのに、これほど相性のいい鎖はない。
リリアーナが、痛ましそうに言う。
「泣けなかった人……?」
鎖の奥から、震える声が返る。
『泣いた』
『一度だけ』
『みんなの前で』
『笑われた』
『それから、泣かなかった』
『怖くても』
『痛くても』
『助けてほしくても』
『笑われるくらいなら』
『何も感じない方がいい』
第五領域の水面が揺れる。
怖い。
嫌だ。
助けて。
中心の感情が、この鎖に押さえ込まれている理由が分かる。
この鎖は、泣くことを恥だと刻まれた者の名だ。
その名が、中心へ巻きつき、感情を流すなと縛っている。
レオンは、ゆっくり口を開く。
「お前は、泣いたことを笑われた」
『……』
「だから、泣くのをやめた」
『……そうだ』
「でも」
一拍。
「泣きたかったんだろ」
鎖が激しく震える。
『黙れ』
リリアーナが、掠れた声で言う。
「泣いてもいいです」
『黙れ』
「ここは、泣いても壊れない場所です」
『黙れ!!』
鎖が暴れ、リリアーナへ伸びようとする。
ラウルが盾で受けた。
「彼女に触るな!」
ミリオが精神線を支える。
「線、繋ぎます!」
アルベルトの炎が鎖の外側を焼く。
「恥だけで縛ってんじゃねぇ!」
エリシアの風が流す。
「笑われた記憶を、今の意味に固定しないで!」
クラウスが剣を添える。
「泣いた過去は弱さの証明ではない」
グレイヴが低く言う。
「泣けなかった方が、ずっと苦しい」
鎖が揺れる。
その奥に、別の記憶が見える。
小さな布。
誰にも見られないように握りしめていたもの。
涙を拭くための布。
でも、人前では使えなかった。
夜、一人でだけ使っていた。
その布に、名前の刺繍がある。
母が縫ったものだ。
リリアーナが息を呑む。
「お母さんが……名前を縫ってくれた?」
鎖の奥の声が、小さくなる。
『泣いたら、これで拭きなさいって』
『でも』
『使えなかった』
『弱いって言われるから』
ユーナの光が反応する。
『名前……縫った』
マリの光も震える。
『布……直した』
戻った名たちの声が、鎖へ届く。
リリアーナが言う。
「その布は」
「泣くなっていうものじゃなくて」
「泣いてもいいっていうものだったんですね」
鎖が、弱く震える。
『……』
レオンは、黒蒼雷を添える。
「名前を聞かせろ」
『……いやだ』
「泣いたことごと戻せ」
『いやだ』
「笑われたことも」
『……』
「泣いてもいいと言われたことも」
『……』
「全部、お前の名前に戻せ」
長い沈黙。
第五領域の水面が静かに揺れる。
中心の空洞も、そのやり取りを聞いている。
やがて、鎖の奥から声が漏れた。
『……ル』
リリアーナが耳を澄ます。
『ルカ』
レオンが呼ぶ。
「ルカ」
リリアーナも、優しく呼ぶ。
「ルカさん」
セラフィアが祈る。
「ルカ」
「あなたの名を祝うわ」
「泣けなかったあなたも」
「泣いたあなたも」
「泣いていいと願われたあなたも」
仲間たちも名を重ねる。
「ルカ」
「ルカさん」
鎖がほどけた。
赤黒かった鎖の中から、涙を拭う布のような淡い光が抜け出す。
そこには、小さく名前が縫われていた。
『ルカ……』
『泣いて……よかったのか……』
リリアーナの目に涙が浮かぶ。
「はい」
「よかったんです」
ルカの光が、四枚の記録面と第五領域の近くへ漂った。
中心を縛っていた二本目の鎖が外れる。
第五領域の水面が、大きく波打つ。
中心の空洞から、また感情が流れた。
『……こわい』
『……いやだ』
『……たすけ』
そして、ほんの少し遅れて。
『……ないて』
リリアーナが息を呑む。
「泣いて……?」
レオンは、中心を見る。
それは、泣きたい、なのか。
泣いていいのか、なのか。
まだ分からない。
だが、確かに新しい感情が流れた。
外殻が絶叫する。
『違う!!』
『泣くな!!』
『王は泣かぬ!!』
レオンは、低く言った。
「もう、お前の言葉は中心に届ききってない」
外殻が震える。
「鎖が外れるたび」
「中心は、自分で感情を流し始めてる」
セラフィアが頷く。
「あと数本、重要な拘束を外せれば」
「中心と外殻は分離できる」
エリシアが術式盤を見る。
「拘束鎖、残り多数」
「ただし、主要拘束はあと三本ほどに絞れます」
アルベルトが息を吐く。
「あと三本……」
「長ぇな」
グレイヴが言う。
「だが、二本外した」
クラウスが頷く。
「進んでいる」
リリアーナが、喉を押さえながら中心へ呼びかける。
「あなた」
「泣きたいなら、泣いてもいいです」
中心の空洞が震える。
第五領域に、小さな波が広がる。
『……ないて』
それはまだ、言葉になりきれていない。
でも、レオンたちはもう聞き逃さない。
怖い。
嫌だ。
助けて。
泣いて。
虚ろの中心は、少しずつ感情を外へ出している。
王冠の外殻は、それを必死に否定している。
そして、レオンたちは。
その間にある鎖を、一つずつほどいていく。
次に待つ鎖は、さらに深い。
それでも、もう進むしかない。
助けてと聞こえたのだから。
泣いてもいい場所を作ったのだから。
レオンは黒蒼雷を握り直した。
「次だ」
仲間たちが、疲れきった身体で構え直す。
深部の闇は、まだ終わらない。
だが、中心はもう完全な空白ではなかった。
泣きたいと、言いかけていた。




