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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第165話「崩れ始めた中層、無能王子は“返事になる前の心”を守り抜く」


 王冠の中層が、崩れ始めていた。


 黒い冠の内側。


 名を押し込め、混ぜ合わせ、喰らい続けていた巨大な構造体。


 その中腹部分に、今までとは違う亀裂が走っている。


 外側ではない。


 表層でもない。


 もっと内側。


 奪った名を繋ぎ止めるための中核に近い層。


 そこが、軋んでいた。


 ひび割れた箇所から、黒い霧が噴き出す。


 だが、その霧の中には、今までよりも濃い声が混ざっていた。


『……い』


『……こ』


『……ろし』


『……たす』


『……かえ』


 言葉になりきれない断片。


 だが、今までの“名だけ”とは違う。


 感情が混ざっている。


 願いが混ざっている。


 王冠の中層には、名前だけではなく、その名が抱えていた声の残滓まで押し込められていたのだ。


 セラフィアが、静かに息を呑んだ。


「中層……」


「ここから先は、名前だけじゃない」


 エリシアが術式盤を見つめる。


「記録波形、急激に複雑化しています」


「感情反応が混ざっている……!」


 アルベルトが顔をしかめた。


「面倒そうだな」


「面倒です」


 エリシアは即答した。


「名前だけなら、まだ整理できました」


「ですが、感情まで混ざれば、境界が曖昧になる」


「名前と感情が結びついたまま流れ込めば、記録面が耐えきれない可能性があります」


 リーネの光が、強く揺れる。


『感情まで……』


『書くの……?』


 リリアーナが、小さく首を横に振った。


「全部は書けません」


「でも、切り捨てたくない」


 その言葉に、レオンは静かに目を閉じた。


 感情。


 怖かった。


 苦しかった。


 助けてほしかった。


 帰りたかった。


 名前には、その全部が繋がっている。


 名前だけ返しても、その人が抱えていたもの全部を無かったことにはしたくない。


 でも、それを全部受け止めれば、今度は守る側が壊れる。


 レオンは深く息を吐いた。


「全部は抱えない」


 全員が彼を見る。


「でも」


 一拍。


「消しもしない」


 グレイヴが低く頷いた。


「必要なのは、抱え込むことじゃない」


「流れを止めないことだ」


 クラウスが続ける。


「通り道を作る」


「押し潰さず」


「混ぜず」


「消さず」


 セラフィアが、四枚の記録面を見る。


「記録面は、名前を留める場所」


「余白は、返事になる前の場所」


「なら、もう一つ必要ね」


 アルベルトが眉を寄せる。


「また増えるのか?」


「ええ」


 セラフィアは静かに言った。


「流す場所」


 深部が、一瞬静まる。


 リリアーナが小さく呟いた。


「……涙みたいな?」


 セラフィアが彼女を見る。


「そう」


「抱え込めないものを、無理に閉じ込めないための場所」


「流れても、消えない場所」


 エリシアが術式盤へ新しい式を書き始める。


「第五領域……」


「記録でも余白でもない、感情緩衝域」


 アルベルトが頭を掻いた。


「相変わらず名前が難しいな」


「簡単に言えば」


 エリシアは息を荒げながらも答える。


「泣いても壊れない場所です」


 その言葉に、空気が少しだけ止まった。


 リリアーナが、静かに目を伏せる。


 レオンの胸も揺れる。


 泣いても壊れない場所。


 それは、今までの彼らには無かったものだった。


 泣く暇もなく戦ってきた。


 怖くても立つしかなかった。


 でも、ここで初めて。


 “零れてもいい”場所を作ろうとしている。


 虚ろの王の外殻が、激しく軋んだ。


『作るな!!』


『流すな!!』


『感情は弱さ!!』


『閉じ込めろ!!』


『押し潰せ!!』


『王冠へ沈めろ!!』


 その叫びと同時に、中層が大きく崩れた。


 黒い残骸が大量に落ちる。


 そこから、一気に声が溢れた。


『怖い』


『帰りたい』


『寒い』


『助け』


『名前』


『忘れないで』


『ひとり』


『いや』


『かえ』


『いたい』


 深部の空気が、変わる。


 今までの“名”だけではない。


 感情の波。


 押し潰された心の断片。


 それが、一斉に押し寄せた。


 リリアーナが息を呑む。


「っ……!」


 リーネの光も大きく揺れる。


『多い……!』


 ミリオの精神線が悲鳴を上げる。


「流入量、急増!!」


「線が持ちません!!」


 ラウルが盾を構える。


「支えろ!!」


 エリシアが叫ぶ。


「感情を記録面へ直接流さないで!」


「名前と混ざります!」


 セラフィアが金色の光を広げる。


「緩衝域を急いで!」


 アルベルトが炎を振るう。


「黒だけ焼けぇぇぇ!!」


 黒い霧の外側が焼かれる。


 だが、中の声は消えない。


 消してはいけない。


 クラウスが剣で流れを分ける。


「感情を切るな!」


「流れだけ変える!」


 グレイヴが大剣で巨大な黒い塊を受け止める。


「前に出るな!」


「記録面へ近づけるな!」


 レオンは、黒蒼雷を余白の周囲へ走らせた。


 だが、それだけでは足りない。


 感情が多すぎる。


 怖い。


 帰りたい。


 助けて。


 寒い。


 寂しい。


 その断片が、押し寄せるたび、レオン自身の胸まで揺れる。


 これは危険だった。


 共鳴する。


 抱え込めば、引きずられる。


 レオンは歯を食いしばる。


 沈むな。


 飲まれるな。


 だが、切り捨てるな。


 その矛盾が、重い。


「レイさん!」


 リリアーナが叫ぶ。


 彼女も苦しそうだった。


 感情の波が、彼女にも流れ込んでいる。


 涙が滲んでいる。


「わたし……聞こえます……!」


「助けてって……!」


 レオンは、彼女の手を掴んだ。


「全部聞こうとするな」


「でも……!」


「全部抱えたら壊れる」


 一拍。


「だから、流す」


 リリアーナが、はっと顔を上げた。


 レオンは続ける。


「泣いてもいい場所を作るんだろ」


「なら」


「全部止める必要はない」


 その言葉に、セラフィアが強く頷いた。


「ええ」


「受け止めるだけが救いじゃない」


「流れても、消えなければいい」


 エリシアが術式盤を展開する。


「第五領域、展開開始!」


 四枚の記録面と中央の余白、そのさらに外周へ、新しい光が流れ始める。


 水面のような薄い光。


 形を固定しない領域。


 感情を押し込めず、流し続けるための場所。


 リーネが震えながら言う。


『ここは……書かない』


「ええ」


 セラフィアが答える。


「ただ、零れても消えないようにする」


 黒い感情の波が、第五領域へ流れ込む。


『怖い』


『寒い』


『帰りたい』


『助けて』


 その声たちが、水面のような光の中を流れていく。


 押し込められない。


 混ぜられない。


 ただ、そこにある。


 リリアーナが涙を浮かべた。


「流れてる……」


 セラフィアが静かに頷く。


「ええ」


「泣き止ませなくてもいい」


「でも、沈めない」


 虚ろの王の外殻が、狂ったように叫んだ。


『違う!!』


『流すな!!』


『泣くな!!』


『弱さを残すな!!』


 レオンは、その叫びを聞きながら低く言った。


「弱さを消して王になった結果が」


 一拍。


「今のお前だろ」


 外殻が止まる。


 レオンは続ける。


「怖いも」


「助けてほしいも」


「帰りたいも」


「全部潰して」


「何もない王冠だけ残った」


 黒蒼雷が、余白と第五領域を繋ぐ。


「だから、空っぽになったんだろ」


 中心の空洞が、大きく震えた。


 リリアーナが、その震えへ声を向ける。


「あなた」


「怖かったんですよね」


 外殻が叫ぶ。


『違う!!』


 だが、リリアーナは止まらない。


「怖いって、言えなかったんですよね」


「だから、全部押し潰した」


「全部混ぜた」


「全部無かったことにした」


 一拍。


「でも」


 彼女の声は掠れている。


 それでも、優しかった。


「ここには、流していい場所があります」


「泣いてもいい場所があります」


「だから」


「もう、押し潰さなくていいです」


 空洞が、震える。


 余白が、淡く波打つ。


 第五領域の水面が、小さく揺れる。


 そこへ。


 ほんのわずかに。


 新しい感情の波が流れ込んだ。


『……こわ』


 短い。


 かすれている。


 言葉になりきれていない。


 だが。


 今。


 確かに。


 中心から、自分の感情が流れた。


 リリアーナの目から涙が零れる。


「……言えた」


 レオンも、息を呑んでいた。


 怖い。


 その一言未満の感情。


 それを、虚ろの中心が初めて外へ流した。


 外殻が絶叫する。


『違う!!』


『違う違う違う!!』


『怖くない!!』


『我は王!!』


『空ではない!!』


『虚ろではない!!』


 だが、その叫びは震えている。


 初めて、自分の中心から“怖い”が漏れた。


 その事実を、外殻自身が恐れている。


 グレイヴが、低く息を吐く。


「崩れ始めたな」


 クラウスが頷く。


「王冠ではなく」


「中身が」


 アルベルトが炎を握りながら言った。


「でも、ここからがきつそうだぞ」


「ええ」


 エリシアが疲労の滲む声で答える。


「中心が感情を流し始めた以上」


「王冠側は、さらに強く押さえ込みに来ます」


 その言葉通りだった。


 王冠の中層が、さらに大きく軋む。


 黒い鎖が無数に現れる。


 今までの糸や指とは違う。


 もっと太い。


 もっと重い。


 感情ごと押し潰すための鎖。


 それが、第五領域へ向かって落ちてくる。


「来るぞ!!」


 グレイヴが叫ぶ。


 ラウルが盾を掲げる。


 クラウスが剣を低く構える。


 アルベルトの炎が燃え上がる。


 エリシアの風が広がる。


 ミリオの精神線が震える。


 セラフィアの祈りが輝く。


 リーネが記録面を守る。


 リリアーナが余白を見つめる。


 レオンは、黒蒼雷を第五領域へ伸ばした。


「潰させない」


 黒い鎖が落ちる。


 深部が揺れる。


 第五領域の水面が激しく波打つ。


『怖い』


『助けて』


『帰りたい』


『いやだ』


 流れていた感情たちが、鎖に押し潰されそうになる。


 リリアーナが叫ぶ。


「流して!」


「止めないで!」


 セラフィアが祈る。


「沈まないで!」


 レオンは、黒蒼雷で鎖へ食らいついた。


「ここは」


 一拍。


「潰させない」


 余白が震える。


 そこから、また小さな感情が流れる。


『……こわ』


 今度は、少しだけはっきりしていた。


 リリアーナが涙を拭いながら笑う。


「大丈夫です」


「怖くても、ここにいていいです」


 その言葉に。


 第五領域の波が、少しだけ穏やかになった。


 虚ろの中心は、まだ何者でもない。


 名前もない。


 言葉も不完全。


 でも。


 怖いと言えた。


 それは、確かな最初の一歩だった。


 そして、その一歩を、王冠は何より恐れていた。

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