第163話「名前の洪水、無能王子は“こぼれ落ちる声”を一つずつ受け止める」
王冠から、名がこぼれ始めた。
最初は、小さな破片だった。
黒い王冠の欠けた部分から、ひび割れた残骸がひとつ落ちる。
その中から、かすかな声が漏れた。
『……セオ』
リーネが聞き取った。
リリアーナが呼んだ。
「セオさん!」
名は、一枚目の記録面へ刻まれた。
次に。
『……ラナ』
「ラナさん!」
二枚目へ。
そして。
『……フィム』
「フィムさん!」
三枚目へ。
それだけなら、まだ耐えられた。
リーネが聞き取る。
リリアーナが呼ぶ。
セラフィアが祈りの紙を支える。
エリシアが術式で三枚の記録面を安定させる。
ミリオが精神線を繋ぎ、ラウルが背後を守る。
レオンが黒蒼雷で虚ろとの境界を刻み、グレイヴとクラウスが前線で王冠の攻撃を防ぎ、アルベルトが黒い膜だけを焼く。
全員が、それぞれの役割を果たせば。
ゆっくりなら、受け止められる。
だが。
王冠は、もうゆっくり崩れる段階を過ぎようとしていた。
ひびが、走る。
黒い冠の外縁から内側へ。
内側からさらに奥へ。
名を繋ぎ合わせた歪な構造が、ミシミシと音を立てて歪んでいく。
ひとつの名が抜けた空洞へ、隣の名が押し込まれる。
それを拒むように、その隣の名も震える。
リーネが記録していた名簿の光が増えたことで、消されていた記憶たちが目を覚ましている。
王冠の内側に閉じ込められていた名たちが、自分も読んでほしいと震え始めている。
それは希望だった。
同時に、危険だった。
名が一斉に溢れれば、受け止めきれない。
名前同士がぶつかれば、壊れる。
虚ろがそれを狙えば、再び混ぜられる。
レオンは、黒蒼雷を広げたまま息を呑んだ。
胸の奥に重さが来る。
来る。
名が。
声が。
記録が。
波になって来る。
「レイさん」
リリアーナが、掠れた声で呼ぶ。
「俺はここにいる」
「はい」
「来ますね」
「ああ」
「怖いですか」
「怖い」
「わたしもです」
一拍。
「でも、呼びます」
レオンは、彼女を見た。
その喉はもうかなり限界だ。
声が掠れている。
それでも、彼女はまっすぐに記録面を見ている。
守られるだけの少女ではない。
呼び戻す者。
隣に立つ者。
レオンが空白へ沈みそうになるたび、名前を呼んできた者。
その彼女が、今度はこぼれ落ちる名を呼ぶ。
「無茶はするな」
「はい」
「でも、必要なら言え」
「きついって?」
「ああ」
「……もう、きついです」
リリアーナは正直に言った。
レオンの胸が痛む。
だが、彼女は続ける。
「でも、まだできます」
「できなくなったら言います」
「だから、今は止めないでください」
レオンは、静かに頷いた。
「分かった」
◇
王冠が、また割れた。
今度はひとつではない。
三つ。
いや、五つ。
黒い欠片が同時に落ちる。
それぞれの中に、声がある。
『……リオ』
『……カナ』
『……ベル』
『……ノル』
『……イサ』
リーネの光が震える。
『待って』
『一つずつ』
彼女は必死に聞き取ろうとする。
しかし、声が重なる。
五つの名が同時に落ちてきたことで、記録面が揺れる。
エリシアが叫ぶ。
「複数同時流入!」
「第一から第三記録面へ分散します!」
「ミリオ様、線を三方向へ!」
「はい!」
ミリオの精神線が細く分かれる。
額に汗が浮かぶ。
ラウルが盾を構え、彼の前に立った。
「集中しろ」
「守る」
「頼む!」
リーネが、青黒い光で最初の名を一枚目へ導く。
『リオ』
リリアーナが呼ぶ。
「リオさん!」
リオの名が一枚目に刻まれる。
次。
『カナ』
「カナさん!」
二枚目へ。
『ベル』
「ベルさん!」
三枚目へ。
残り二つ。
ノルとイサが、記録面の外で揺れている。
虚ろの黒い滲みが、その周囲へ伸びる。
レオンが黒蒼雷を走らせた。
「待て」
「まだ落ちるな」
黒蒼雷が二つの名の周囲に境界を作る。
リリアーナが息を吸い直す。
『ノル』
「ノルさん!」
一枚目の余白へ。
『イサ』
「イサさん!」
二枚目の下へ。
五つの名が刻まれた。
だが、その直後、虚ろの王の欠片が叫ぶ。
『多すぎる』
『呼びきれぬ』
『書ききれぬ』
『だから混ぜろ』
『だから王冠へ戻せ』
黒い糸が、五つの新しい名へ一斉に伸びる。
グレイヴが前へ出る。
「戻させるな!」
大剣が黒い糸を押し返す。
クラウスが細い糸を弾く。
「絡ませるな!」
アルベルトの炎が外側を焼く。
「黒だけ燃えろ!」
エリシアの風が、五つの名の周囲を流れる。
「記録面、揺れを抑えます!」
セラフィアが祈る。
「名よ、留まりなさい」
「あなたたちは、もう王冠の飾りではない」
リリアーナが、掠れた声で五つの名をもう一度呼んだ。
「リオさん!」
「カナさん!」
「ベルさん!」
「ノルさん!」
「イサさん!」
呼ばれた名が、かすかに光った。
レオンの黒蒼雷が、それを支える。
ひとつ。
またひとつ。
守れた。
だが、呼吸は削られる。
レオンの膝がわずかに揺れた。
リリアーナが気づく。
「レイさん」
「大丈夫だ」
「……本当に?」
「かなりきつい」
「正直でよろしいです」
リリアーナが、ほんの少しだけ笑った。
すぐに、その笑みは消える。
王冠のひびが広がっている。
次は、もっと来る。
◇
中心の空洞は、震えていた。
レオンは、名前の処理の合間にそちらを見る。
虚ろの王の外殻は、王冠が欠けるたびに怒り狂う。
王冠を失うな。
名を奪われるな。
支配を保て。
そう叫ぶ。
だが、中心の空洞は違う。
そこには、恐怖がある。
混乱がある。
そして、ほんの少しだけ。
見ている気配がある。
名前が書かれ、呼ばれ、守られている。
消されかけても、また読まれている。
その光景を、空洞は見ている。
リリアーナが、息を整えながら空洞へ呼びかけた。
「あなた」
外殻が叫ぶ。
『呼ぶな!!』
だが、空洞は震える。
「今の名前たち、見えましたか」
「一度にたくさん来て、怖かったです」
「でも、一つずつ呼びました」
一拍。
「あなたも、怖かったら怖いままでいいです」
「でも、見ていてください」
空洞が、小さく震えた。
レオンも続ける。
「名前は重い」
「増えれば、守るのも大変になる」
「でも」
「だから混ぜるんじゃない」
「だから消すんじゃない」
「分けて、書いて、呼んで、守る」
虚ろの外殻が、軋む。
『理解不能』
『非効率』
『無駄』
『混ぜれば一つ』
『喰えば王冠』
『支配すれば保てる』
クラウスが、剣を振りながら低く言った。
「支配では保てない」
グレイヴが続ける。
「押さえつけたものは、いつか崩れる」
エリシアが術式盤を見ながら言う。
「今がその証明ですわ」
アルベルトが炎を振る。
「奪ったもんで作った王冠なんて、そりゃ壊れるだろ」
セラフィアが静かに言った。
「名は、戴くものではない」
「呼び合うもの」
中心の空洞が、また震えた。
レオンは、それを見た。
届いている。
まだ名前には遠い。
でも、確実に届いている。
◇
次のひびは、大きかった。
王冠の右側が、音を立てて割れた。
黒い欠片が崩れ、そこから十以上の声が同時に漏れる。
『……アノ』
『……レム』
『……シア』
『……ゴウ』
『……ネネ』
『……ルド』
『……ファナ』
『……キリ』
『……オズ』
『……メイ』
『……サク』
多い。
一気に多い。
リーネの光が大きく震える。
『待って』
『待って、聞き取れない』
声が重なり、記録面の周囲で渦を巻く。
リリアーナも顔を青ざめさせる。
「多い……」
ミリオが叫ぶ。
「精神線、過負荷!」
「この数は一度には繋げません!」
エリシアが術式盤を走らせる。
「第四記録面が必要です!」
「三枚では受け止めきれません!」
セラフィアが金色の光を広げる。
「今、作るしかない」
アルベルトが叫ぶ。
「今かよ!?」
「今です!」
エリシアが叫び返す。
「溢れている今でなければ、落ちます!」
グレイヴが大剣を構え直した。
「作れ!」
「時間は稼ぐ!」
クラウスが前へ出る。
「王冠の残骸を抑える」
ラウルが盾を掲げる。
「名を散らせるな!」
レオンは、歯を食いしばった。
第四記録面。
これ以上増やせば、負荷はさらに大きい。
だが、やらなければ溢れた名が落ちる。
黒蒼雷を広げる。
細く。
さらに細く。
四枚目を支えるための境界線を描く。
右腕が悲鳴を上げる。
痛みで視界が滲む。
「レイさん!」
リリアーナが呼ぶ。
「俺はここにいる」
「無理しすぎです!」
「でも、やる」
「……はい」
リリアーナは唇を噛みしめる。
止めたい。
けれど、止められない。
自分も同じだから。
喉が痛くても呼ぶ。
レオンが腕を痛めても雷を伸ばす。
それが今、必要だから。
セラフィアが第四の祈りの紙を作ろうとする。
だが、王冠から黒い圧が押し寄せる。
虚ろの王の欠片が、狂ったように叫ぶ。
『増やすな!!』
『器を増やすな!!』
『名前を受けるな!!』
『溢れろ!!』
『混ざれ!!』
『戻れ!!』
黒い波が、第四記録面の形成を潰そうとする。
グレイヴが大剣で受け止める。
「ぐっ……!」
クラウスが横から流れを切る。
「団長、右!」
「分かっている!」
アルベルトの炎が波の外側を焼く。
「邪魔すんな!!」
エリシアの風がセラフィアの祈りを支える。
「第四記録面、形成補助!」
ミリオが精神線を分岐する。
「細い……細すぎる……!」
ラウルがミリオを支える。
「切るな!」
「切ったら拾い直せない!」
「分かってる!」
リーネが叫ぶ。
『名前を、先に分けます!』
彼女の青黒い光が、溢れた十一の名へ伸びる。
聞き取る。
整理する。
重ならないように。
書く前に、落ちないように。
『アノ、レム、シア、ゴウ……』
リリアーナが、必死に繰り返す。
「アノさん!」
「レムさん!」
「シアさん!」
「ゴウさん!」
名前が一枚目から三枚目へ仮に散る。
だが、まだ足りない。
『ネネ、ルド、ファナ……』
「ネネさん!」
「ルドさん!」
「ファナさん!」
リリアーナの声が掠れる。
喉が痛みで震える。
それでも呼ぶ。
『キリ、オズ、メイ、サク……!』
そこで、リリアーナの声が一瞬詰まった。
「っ……」
レオンが気づく。
「リリアーナ!」
彼女は喉を押さえる。
声が出ない。
一瞬だけ。
その一瞬で、キリ、オズ、メイ、サクの四つの名が揺れた。
虚ろの黒が絡みつく。
落ちる。
レオンは黒蒼雷を伸ばそうとするが、第四記録面の形成で手一杯だ。
グレイヴもクラウスも前線を離れられない。
アルベルトもエリシアも黒波の処理中。
まずい。
その時。
背後から声がした。
『キリ!』
ミオだった。
続いてリセ。
『オズ!』
ノアが。
『メイ!』
ガレスが低く叫ぶ。
『サク!』
戻った名たちが、リリアーナの代わりに呼んだ。
完全ではない。
発音も不安定だ。
それでも、呼んだ。
キリ、オズ、メイ、サクの名が落ちずに止まる。
リリアーナの目が大きく開かれる。
涙が浮かぶ。
ミオの光が震えた。
『呼ぶ……手伝う』
リセが続く。
『一人じゃ……ない』
ノアが。
『守る……騎士』
ガレスが。
『逃げるな……名前』
リリアーナは、声にならないまま頷いた。
レオンの胸に、熱が込み上げる。
戻った名たちが、今度は他の名を呼んでいる。
救われた側が、次を支える。
それは、虚ろが最も理解できない連鎖だった。
セラフィアの金色の光が強くなる。
「第四記録面、今!」
エリシアが叫ぶ。
「安定化!」
ミリオが歯を食いしばる。
「繋がった!」
レオンの黒蒼雷が、第四の境界を刻む。
祈りの紙が形を取る。
第四記録面が、深部に生まれた。
キリ。
オズ。
メイ。
サク。
四つの名が、そこへ刻まれる。
第四の紙が光った。
リリアーナは、ようやく掠れた声を取り戻した。
「……ありがとう」
ミオたちの光が、小さく揺れる。
『呼べた……』
レオンは、深く息を吐いた。
「助かった」
ガレスの光が、少しだけ強くなる。
『借りを……少し』
アルベルトが遠くで笑う。
「お前、律儀だな!」
この状況でさえ、その言葉にほんの少し空気が揺らいだ。
だが、虚ろの王の欠片は怒り狂った。
『なぜだ』
『なぜ、戻った名が呼ぶ』
『なぜ、他の名を支える』
『なぜ、王冠へ戻らぬ』
レオンは、黒蒼雷を支えながら答えた。
「呼ばれたからだ」
一拍。
「呼ばれた名は、次を呼べる」
リリアーナが、掠れた声で続ける。
「一人じゃないからです」
中心の空洞が、大きく震えた。
その震えは、今までよりも深かった。
虚ろの外殻が必死に隠そうとする。
だが、隠しきれない。
空洞は、見ている。
呼ばれた名が、次の名を呼ぶところを。
救われた光が、こぼれ落ちる声を支えるところを。
名が、孤独を増やすものではなく、繋がりを作るものだということを。
◇
第四記録面が形成されたことで、溢れた十一の名はかろうじて受け止められた。
アノ。
レム。
シア。
ゴウ。
ネネ。
ルド。
ファナ。
キリ。
オズ。
メイ。
サク。
完全ではない。
まだ仮固定。
まだ弱い。
それでも、王冠へ戻らずに済んだ。
レオンたちは、全員が荒い息をしていた。
グレイヴの腕には黒い筋が増えている。
クラウスの剣先もわずかに震えている。
アルベルトの炎は小さくなり、エリシアの術式盤には赤い警告が並んでいる。
ミリオは膝をつき、ラウルが支えている。
セラフィアも金色の光を保ちながら、明らかに消耗していた。
リリアーナは喉を押さえ、息を整えている。
レオンも、右腕を押さえたい衝動を必死にこらえていた。
だが。
四枚の記録面がある。
名前がそこにある。
戻った名たちが、呼ぶ側に回り始めている。
それは、大きな前進だった。
王冠は、さらにひび割れている。
中心の空洞は、震えている。
虚ろの王の欠片は、怒りと恐怖の混ざった声で呻いた。
『ありえない』
『名は奪われるもの』
『喰われるもの』
『王冠となるもの』
『呼び合うものではない』
セラフィアが静かに言う。
「あなたが知らなかっただけ」
虚ろが止まる。
「名は、呼び合うものよ」
リリアーナが掠れた声で続ける。
「あなたにも、聞こえていますよね」
「今の声」
「ミオくんたちが、呼んだ声」
空洞が、震える。
小さく。
だが、確かに。
レオンは、その空洞へ言った。
「次は、お前も聞くだけじゃない」
仲間たちがレオンを見る。
リリアーナも目を見開く。
レオンは続けた。
「まだ呼べなくてもいい」
「名前を知らなくてもいい」
「でも」
一拍。
「聞こえているなら、見ていろ」
「名は、王冠じゃない」
「こうやって、誰かを支えるものにもなる」
虚ろの王の外殻が叫ぶ。
『黙れ!!』
だが、その叫びは、少しだけ遅かった。
中心の空洞は、すでに揺れていた。
そして。
ほんのかすかに。
音にならない何かが、震えた。
『……』
言葉ではない。
声にもならない。
だが、反応だった。
レオンは気づいた。
リリアーナも気づいた。
セラフィアも、息を呑む。
「今……」
リリアーナが呟く。
「何か、返そうとしました……?」
レオンは、空洞を見る。
そこにはまだ名前はない。
言葉もない。
だが。
今、確かに。
何かを返そうとした。
呼ばれるだけだった空白が。
初めて、何かを返そうとした。
虚ろの王の外殻が、その反応を塗り潰すように叫ぶ。
『違う!!』
『返すものなどない!!』
『我は王!!』
『我は喰らうもの!!』
だが、もう完全には隠せない。
レオンは、黒蒼雷を握り直した。
疲れている。
限界は近い。
だが、次の道が見えた。
王冠をさらに剥がす。
名を受け止める器を保つ。
そして。
中心の“あなた”が、何かを返そうとする瞬間を待つ。
深部の戦いは、まだ終わらない。
だが、虚ろの中心は確実に変わり始めていた。




