第162話「名を受け止める器、無能王子は“全員で書く”戦いを選ぶ」
王冠は、割れかけていた。
虚ろの王の欠片が被っていた黒い冠。
名を喰らい、砕き、繋ぎ、飾りにしてきた歪な王冠。
カイルの名が抜けた。
ユーナの名が抜けた。
リーネの名が抜けた。
さらに、リーネが守っていた記録の中から、ミナ、トル、エマ、ロウ、ハル、ニカ、ソル、ユリ、ダン、メル、オルの名が祈りの記録面へ仮固定された。
そのたびに、王冠は軋んだ。
そのたびに、外殻は歪んだ。
そのたびに、中心の空洞は震えた。
名を喰って王を名乗っていたもの。
他者の輝きを冠にして、自分の空白を隠していたもの。
その王冠が、少しずつ剥がされている。
だが、それは勝利の近づきであると同時に、危険の接近でもあった。
王冠が崩れれば、中に縛られた名前が一気に溢れる。
それを受け止める器がなければ。
その名たちは、虚ろへ戻る。
あるいは、ぶつかり合って壊れる。
だから、レオンは言った。
記録面を増やす、と。
リーネ一人に書かせない。
セラフィア一人に祈らせない。
リリアーナ一人に呼ばせない。
レオン一人に返させない。
全員で受け止める。
名前を。
記録を。
存在を。
レオンは、荒く息を吐いた。
黒蒼雷は、まだ右腕に灯っている。
だが、細い。
強く燃え上がる雷ではない。
広く深部へ張り巡らせるための、繊細な雷。
境界を示し、名が虚ろへ戻らないように支える雷。
無理に強くすれば、名を焼く。
弱すぎれば、虚ろに喰われる。
その調整が、重かった。
リリアーナが隣で手を握る。
「レイさん」
「何だ」
「きついですよね」
「ああ」
「わたしも、きついです」
「喉、痛むか」
「痛いです」
リリアーナは正直に言った。
その声は、少し掠れている。
何度も名前を呼んだ。
何度もレオンを呼び戻した。
何度も戻った名たちへ声をかけた。
その喉が無事なはずがない。
それでも、彼女は手を離さない。
「でも、まだ呼べます」
「無理はするな」
「はい」
一拍。
「でも、呼ばないと消えちゃう名前があるなら、呼びます」
レオンは、何も言えなかった。
止めたい。
休ませたい。
でも、今ここで彼女の声が必要なのも分かっている。
だから、言えることは一つだけだった。
「きつい時は言え」
「はい」
「俺も言う」
「約束です」
「ああ」
リリアーナは頷く。
その小さな約束が、また足場になる。
深部では、約束も武器だ。
未来へ繋がる言葉だから。
虚ろは、それを嫌う。
◇
セラフィアが、金色の光を広げた。
彼女の前には、リーネが書いた祈りの記録面が浮かんでいる。
薄い紙のような光。
そこに、青黒い文字が並ぶ。
まだ不安定だ。
黒い滲みが何度も文字の端へ染み込もうとする。
そのたびに、セラフィアの祈りとレオンの黒蒼雷が押し返す。
リーネの光は、その記録面のそばで震えていた。
『……増やすのですね』
「ああ」
レオンは答える。
「一枚じゃ受け止めきれない」
『私だけでは……書ききれない』
「分かってる」
リーネの光が、少しだけ小さくなる。
それは落胆ではなく、恐怖だった。
また守れないかもしれない。
また消されるかもしれない。
自分が書ききれずに、誰かの名が落ちるかもしれない。
その恐怖。
リリアーナが優しく声をかける。
「リーネさん」
『……はい』
「一人で全部書かなくていいです」
「聞き取った名前を、わたしたちにも渡してください」
『渡す……』
「はい」
「リーネさんは、名前を聞き間違えないようにしてきた人です」
「だから、最初の聞き取りをお願いします」
「でも、書くのも、呼ぶのも、守るのも」
一拍。
「みんなでやります」
リーネの光が、静かに震える。
『みんなで……記録を』
セラフィアが頷く。
「そう」
「名は一人で抱えるものではないわ」
「記録も同じ」
エリシアが術式盤を展開する。
「記録面の複製ではなく、分岐安定化を行います」
「一枚の記録面を複数に裂くのではなく、同じ祈りを共有する別の面を作る」
「リーネ様の記憶を核に、セラフィア様の祈り、レオン様の黒蒼雷、ミリオ様の精神線で繋ぐ形です」
アルベルトが眉を寄せる。
「悪い、全然分からん」
エリシアは一瞬だけ彼を見る。
「簡単に言うと」
「紙を増やします」
「最初からそう言えよ」
「細部が重要なのです」
「そりゃそうだけどよ」
こんな時でも、二人のやり取りは少しだけ空気を戻す。
だが、誰も笑いすぎない。
余裕はない。
それでも、その短いやり取りだけで、張り詰めた空気が少しだけ人のものになる。
クラウスが剣を構えながら言った。
「記録面を増やす間、王冠の攻撃は激しくなるはずだ」
「虚ろが最も嫌がる行為だからな」
グレイヴが頷く。
「前線は俺とクラウスで持つ」
「アルベルト、外側の黒膜を焼け」
「分かってる」
「エリシア、記録面の安定と防御の流れ、両方を見ることになる」
「承知しています」
ラウルが盾を構える。
「俺は記録面の周囲に入る」
「指でも舌でも来たら止める」
ミリオが精神線を広げる。
「僕は分岐を繋ぎます」
「ただ、記録面が増えると線も増えます」
「かなり細くなると思います」
レオンが言う。
「切れそうになったら言え」
「はい」
「……たぶん、すぐ言います」
その正直な言葉に、ラウルが少しだけ笑った。
「それでいい」
ミリオも、緊張しながら頷く。
「はい」
七つの光、そしてカイル、ユーナ、リーネの光も揺れている。
さらに仮固定された名前たちが、記録面で小さく光っている。
守るものが増えた。
重さも増えた。
だが、それは前に進んでいる証だった。
◇
虚ろの王の欠片は、黙っていなかった。
王冠のひびから、黒い霧が漏れ出す。
それは形を持たずに漂い、やがて小さな文字の群れになった。
黒い文字。
意味のない文字。
いや。
意味を壊す文字。
それらが、祈りの記録面へ向かって飛び始めた。
エリシアが叫ぶ。
「文字干渉!」
「記録された名前を書き換えるつもりです!」
リーネの光が震える。
『書き換え……』
その声には、明確な恐怖があった。
消されるよりも、ある意味で酷い。
名前を別のものにされる。
存在の記録を歪められる。
レオンは即座に黒蒼雷を走らせた。
「触らせない!」
雷が、黒い文字を弾く。
だが、数が多い。
しかも、ただ弾くだけでは消えない。
文字は深部の闇を回り込み、また記録面へ向かう。
クラウスが剣を振るう。
「流れを断つ!」
白銀の線が、黒い文字の群れを分ける。
アルベルトの炎が外側を焼く。
「文字っぽい何かだけ燃えろ!」
「名前は燃えんな!」
エリシアが風を流す。
「書き換え文字を記録面から逸らします!」
グレイヴが大剣を横に構える。
「正面から来るものは俺が受ける!」
黒い文字が大剣へ張り付く。
『グレイヴ』
『守れなかった』
『守れなかった』
『守れなかった』
文字が、彼の名前の横に余計な意味を刻もうとする。
グレイヴの顔が歪む。
「っ……!」
クラウスが叫ぶ。
「団長!」
グレイヴは歯を食いしばった。
「グレイヴ・アルディオス!」
「今度こそ守るために進む!」
大剣が光り、黒い文字を弾く。
「勝手に書き足すな」
低い声。
「俺の後悔は、俺が背負う」
「お前に書かれる筋合いはない」
その言葉に、リーネの光が強く震えた。
『そう……』
『名前に、勝手に書き足してはいけない』
リーネの声が、少しずつ強くなる。
『記録は、縛るためじゃない』
『歪めるためでもない』
『その人がいたことを、残すため』
祈りの記録面が、青黒く輝く。
黒い文字の群れが、少しだけ退いた。
セラフィアが言う。
「今よ」
「記録面を分ける」
エリシアが術式盤を操作する。
「分岐開始!」
ミリオが精神線を細く伸ばす。
「一枚目から、二枚目へ!」
レオンは黒蒼雷を境界として走らせる。
リリアーナが、掠れた声で記録面の名前を呼ぶ。
「ミナさん」
「トルさん」
「エマさん」
「ロウさん」
「ハルさん」
「ニカさん」
「ソルさん」
「ユリさん」
「ダンさん」
「メルさん」
「オルさん」
呼ばれた名が、一つずつ震える。
セラフィアの金色の光が、最初の記録面の横に薄い新しい紙を作り出す。
最初はただの光だった。
そこへリーネの青黒い文字が、細い線となって流れる。
ミリオの精神線がそれを繋ぐ。
エリシアの術式が揺れを抑える。
レオンの黒蒼雷が、虚ろとの境界を刻む。
リリアーナの声が、名前を呼び止める。
二枚目の記録面が、ゆっくりと形を取り始めた。
虚ろの王の欠片が叫ぶ。
『増やすな!!』
『記録を増やすな!!』
王冠から黒い文字がさらに噴き出す。
ラウルが盾を構える。
「ここは通さない!」
盾に黒い文字がぶつかる。
『背後』
『閉じろ』
『守れぬ』
ラウルは叫ぶ。
「ラウル・ゼクト!」
「背後を閉ざさないために進む!」
盾の光が強まる。
ミリオが線を支える。
「もう少し!」
「二枚目、安定まであと少し!」
アルベルトが炎を大きくしたくなるのを必死に抑える。
「くそっ、まとめて燃やせれば楽なのによ!」
エリシアが叫ぶ。
「燃やしすぎないで!」
「分かってる!」
「でも数が多い!」
「だからこそ制御してください!」
「分かってるって!」
炎と風が交差する。
黒い文字が焼かれ、流される。
それでもいくつかが記録面へ届きかける。
クラウスが剣で弾く。
「書き換えさせない」
グレイヴが大剣で押し返す。
「守れ!」
リリアーナが呼び続ける。
名前を。
一つずつ。
喉が痛む。
声が掠れる。
それでも呼ぶ。
「ミナさん!」
「トルさん!」
「エマさん!」
「ロウさん!」
レオンは、リリアーナの声が揺れるたびに胸が痛んだ。
だが、止められない。
止める代わりに、彼は黒蒼雷を強く保つ。
「ここにいる」
「名前はここにある」
「勝手に書き換えさせない」
その声に、二枚目の記録面がようやく安定した。
エリシアが叫ぶ。
「第二記録面、形成成功!」
セラフィアが息を吐く。
「よし……!」
リーネの光が震えた。
『二枚目……』
リリアーナが微笑む。
「できました」
「一人じゃないです」
リーネの光が、青黒く瞬く。
『……はい』
◇
だが、終わりではない。
一枚増えただけだ。
王冠が崩れた時に溢れる名を受け止めるには、もっと必要になる。
エリシアが術式盤を見ながら言う。
「最低でも、あと二枚」
「理想は四枚以上」
アルベルトが顔をしかめる。
「今のをあと二回か三回やんのかよ」
「はい」
「きついな」
「きついです」
エリシアも正直に言った。
その声には疲労があった。
アルベルトは一瞬黙る。
そして、少しだけ笑った。
「正直でよろしい」
「……あなたが言うと、やはり少し腹が立ちます」
「なら大丈夫だな」
「何がですの」
「いつもの調子残ってる」
エリシアは一瞬だけ目を伏せた。
そして、ほんの少しだけ笑った。
「そういう雑な励まし方」
「嫌いではありませんわ」
アルベルトが目を丸くする。
「……今、結構すごいこと言った?」
「戦闘中です」
「はい」
短い会話。
でも、それが二人の足場になる。
深部の闇がどれほど重くても、人の会話がまだある。
それが大事だった。
レオンは、虚ろの中心を見る。
空洞は震えている。
記録面が増えたことにも反応している。
名前が増えること。
残す場所が増えること。
それが、空洞に何かを与えているのかもしれない。
リリアーナが、掠れた声で呼びかける。
「あなた」
空洞が揺れる。
「見えていますか」
「名前を残す場所が、増えました」
虚ろの外殻が呻く。
『見るな』
『増やすな』
『残すな』
リリアーナは続ける。
「残したいと思う人がいました」
「書きたいと思う人がいました」
「呼びたいと思う人がいます」
一拍。
「あなたにも、聞こえていますよね」
空洞が、また震えた。
レオンも言う。
「お前の王冠は、奪った名でできてる」
「でも、名は奪って被るものじゃない」
「呼ばれて、残って、帰るためのものだ」
黒い外殻が激しく揺れる。
『違う』
『名は王冠』
『名は力』
『名は支配』
レオンは静かに返した。
「それしか知らなかったんだろ」
空洞が止まる。
「だから今、見ろ」
「違う使い方を」
虚ろの王の欠片が、怒りなのか恐怖なのか分からない声を上げた。
『見るな』
『見せるな』
『知らぬ』
『知らぬ』
『知らぬ!!』
その叫びと共に、王冠から今度は黒い墨の雨が降り始めた。
黒い文字ではない。
黒い液体。
触れた名前を滲ませ、読めなくするためのもの。
エリシアが叫ぶ。
「墨雨です!」
「記録面全体を汚染するつもりです!」
セラフィアが金色の光を広げる。
「祈りの紙を守る!」
ラウルが盾を上げる。
「上から来るぞ!」
グレイヴが大剣を掲げ、クラウスが剣で雨の筋を切り分ける。
アルベルトが炎を天井へ放つ。
「雨だけ蒸発しろ!」
「名前には落ちんな!」
エリシアの風が炎の熱を広げ、黒い墨雨を上空で流す。
だが、全ては防げない。
数滴が記録面へ落ちかける。
レオンが黒蒼雷を走らせる。
バチッ、と墨が弾ける。
リリアーナが名前を呼ぶ。
「ミナさん!」
「トルさん!」
「エマさん!」
呼ばれた名が、墨に負けずに光る。
リーネが震えながら言う。
『汚させない』
『読めるように』
『残す』
その声と共に、二枚の記録面が青黒い光を増した。
ミリオが叫ぶ。
「第三記録面、今なら作れます!」
「墨雨に合わせて光が広がってる!」
セラフィアが頷く。
「やりましょう」
エリシアが驚く。
「この状況でですか!?」
「今だからよ」
セラフィアの声は静かだが強い。
「汚されまいとする記録の意思が強い」
「その力を、次の面に繋ぐ」
レオンは頷いた。
「やる」
リリアーナも、喉を押さえながら頷く。
「呼びます」
アルベルトが苦笑する。
「ほんと無茶だな」
グレイヴが大剣を構える。
「だが、今が好機なら逃すな」
クラウスが言う。
「防ぐ」
ラウルが盾を掲げる。
「上は任せろ」
ミリオが精神線を分岐する。
「第三、繋ぎます!」
黒い墨雨が降る中、三枚目の記録面が作られ始めた。
雨を避けながら。
名前を呼びながら。
黒蒼雷で境界を張りながら。
祈りで紙を広げながら。
術式で揺れを抑えながら。
全員で。
また一枚。
名前を受け止める器を作る。
虚ろの王の欠片が、狂ったように叫ぶ。
『やめろ』
『増やすな』
『残すな』
『読めるようにするな』
『我の王冠を』
『我の形を』
『奪うな』
レオンは、黒い墨を雷で弾きながら言った。
「奪っているのはお前だ」
リリアーナが続ける。
「わたしたちは、返す準備をしています」
リーネが、震えながらも言う。
『記録します』
『今度は』
一拍。
『一人ではなく』
その言葉に、三枚目の記録面が強く光った。
エリシアが叫ぶ。
「第三記録面、形成!」
ミリオが膝をつきかける。
「線、かなり細いです……!」
ラウルが片腕で支える。
「倒れるな」
「倒れない!」
ミリオは歯を食いしばる。
リリアーナも息を荒げている。
レオンも膝が重い。
だが、三枚目ができた。
深部に、三つの祈りの記録面が浮かんでいる。
一枚目。
二枚目。
三枚目。
そこに名前が並び始めている。
消されないために。
迷わないために。
帰るために。
王冠は、さらに大きくひび割れた。
◇
静かな破裂音がした。
王冠の一部が、落ちた。
黒い残骸が深部の闇へ沈みかける。
その中から、複数の声が一斉に漏れた。
『読んで』
『書いて』
『ここ』
『ここにいる』
『名前』
レオンの胸に圧が走る。
来る。
王冠から名が溢れ始める。
まだ崩壊ではない。
だが、前兆だ。
セラフィアが叫ぶ。
「準備して!」
「こぼれた名を、記録面へ!」
リーネが震えながらも前へ出る。
『聞きます』
リリアーナも息を吸う。
「呼びます」
レオンが黒蒼雷を伸ばす。
「境界を張る」
グレイヴが大剣を構える。
「守る」
クラウスが剣を構える。
「ほどく」
アルベルトが炎を燃やす。
「外を焼く」
エリシアが術式盤を広げる。
「記録面、三枚連動」
ミリオが精神線を震わせる。
「繋ぎます」
ラウルが盾を構える。
「背後は閉ざさない」
黒い残骸から、最初の名がこぼれ落ちた。
リーネが聞き取る。
『……セオ』
リリアーナが呼ぶ。
「セオさん!」
一枚目の記録面へ、セオの名が刻まれる。
次。
『……ラナ』
「ラナさん!」
二枚目へ。
次。
『……フィム』
「フィムさん!」
三枚目へ。
名前が流れ始めた。
まだ少しずつ。
だが、確実に。
王冠は崩れ始めている。
レオンは、黒蒼雷を必死に保つ。
中心の空洞を見る。
そこは震えていた。
恐怖に。
混乱に。
そして、知らなかったものを見ているように。
記録。
呼び声。
複数の器。
一人で抱えない方法。
それを、空洞は見ている。
レオンは、その空洞へ言った。
「見ろ」
「これが、名前を返す準備だ」
リリアーナも続ける。
「あなた」
「怖くても、見ていてください」
「名前は、奪うためだけのものじゃないって」
空洞が、震えた。
外殻は叫ぶ。
王冠は割れる。
記録面は光る。
名がこぼれ始める。
深部の戦いは、王冠崩壊の前夜へ入った。
次に来るのは、おそらく大きな波。
その波を、受け止められるか。
レオンたちは、息を整える暇もないまま、三枚の記録面を前に構えた。
消された名前を。
奪われた記録を。
今度こそ、虚ろへ戻さないために。




