第157話「呼びかけるための言葉、無能王子は“名前になる前の声”を探す」
虚ろの王の欠片は、震えていた。
黒い玉座は、もう形を保っていない。
名の残骸で作られた王冠も、半ば砕けていた。
無数の名を喰らい、混ぜ、縛り、飾り、自分を王だと思い込んでいた影。
その中心にあったものは、王ではなかった。
支配者でもなかった。
ただの空洞だった。
名もない。
記憶もない。
祝福もない。
誰かに呼ばれた痕跡すらない。
それを見られた虚ろの王の欠片は、怒り狂い、深部ごと崩しかけた。
だが、まだ崩れていない。
レオンたちは立っていた。
リリアーナが隣にいる。
グレイヴ、クラウス、アルベルト、エリシア、セラフィア、ミリオ、ラウル。
そして背後には、七つの光。
ミオ。
リセ。
ノア。
サナ。
エルド。
マリ。
ガレス。
呼び戻した名たちが、深部の闇の中で小さく揺れている。
その光があるから、レオンはまだ立っていられた。
「……呼び方」
レオンは、リリアーナの言葉を繰り返した。
名前ではない。
まだ名前になっていないもの。
けれど、声を届けるために必要な最初の言葉。
誰か。
そこにいるのか。
聞こえるか。
そんな、名前以前の呼びかけ。
東の塔で幼いレオンが呟いた、あの小さな「誰か」に似たもの。
レオンは、虚ろの中心にある空洞を見つめた。
黒い。
あまりにも黒い。
だが、これまでの虚ろの黒とは違う。
奪った名で作った黒ではない。
怒りの黒でもない。
喰らった記憶の黒でもない。
ただ、何もない黒。
最初から何も置かれなかった場所。
そこへ、どう声を届けるのか。
リリアーナが、手を握ったまま言った。
「レイさん」
「何だ」
「いきなり名前を探そうとすると、たぶん拒まれます」
「ああ」
「だって、あれは名前を知らないんです」
「呼ばれたこともない」
「なら、名前を返すんじゃなくて」
一拍。
「まず、聞こえていますかって、言うところからだと思います」
レオンは黙って頷いた。
リリアーナの言葉は、優しかった。
けれど、甘くはない。
虚ろの王の欠片がしてきたことを、なかったことにはしない。
喰われた名も、奪われた子供たちも、アリシアの苦しみも、消えない。
それでも、中心にあるものを見誤ってはいけない。
あれは、名を喰う怪物だ。
同時に、呼ばれたことのない空白でもある。
その両方を見なければ、終わらない。
セラフィアが、少し離れた場所から静かに言った。
「リリアーナの言う通りよ」
「名がないものへ、いきなり真名を返すことはできない」
「名は、外から押しつけるものではないから」
「じゃあ、どうすんだ」
アルベルトが炎剣を構えたまま聞く。
声には焦りがある。
無理もない。
虚ろの王の欠片は、今にもまた暴れ出しそうに震えている。
深部も不安定だ。
いつ崩れてもおかしくない。
だが、急げば壊す。
それを全員が分かっていた。
セラフィアは、虚ろの中心を見つめた。
「呼びかける」
「名ではなく、存在へ」
「あなたはそこにいるのか、と」
クラウスが眉を寄せる。
「それで反応するのか」
「分からないわ」
セラフィアは正直に答えた。
「でも、名を持たない核へ触れるなら、それしかない」
グレイヴが低く言う。
「敵に呼びかけるということだな」
「ええ」
「危険です」
エリシアが術式盤を見つめながら言った。
「中心核の反応は極めて不安定です」
「呼びかけが刺激になれば、再度暴走する可能性があります」
「逆に、呼びかけに反応すれば、こちらの名へ干渉してくる可能性もあります」
アルベルトが顔をしかめる。
「どっちにしても危ないじゃねぇか」
「はい」
「他に方法は?」
「ありません」
「即答かよ……」
エリシアは唇を引き結ぶ。
「壊すだけなら、方法はあるかもしれません」
「ですが、それでは喰われた名ごと崩れる危険が高い」
「少なくとも、今この場で選べる最善ではありません」
レオンは、黒蒼雷を握った。
手が震えている。
痛みもある。
疲労も限界に近い。
それでも、答えは決まっていた。
「呼びかける」
リリアーナが、彼を見上げる。
「一緒に」
「ああ」
「一緒に」
レオンは、今度は迷わず言った。
リリアーナの目が少しだけ潤む。
だが、彼女は泣かずに頷いた。
◇
問題は、どう近づくかだった。
虚ろの中心は、露出している。
だが、その周囲には黒い圧が何重にも渦を巻いている。
先ほどの暴走で、外殻は崩れかけた。
けれど、その代わりに核を守る本能のようなものが強まっている。
触れようとするものを消す。
見ようとするものを拒む。
問おうとする声を潰す。
それが空洞の周囲に壁となっていた。
グレイヴが大剣を肩へ乗せ、息を吐いた。
「道をもう一度開く」
「さっきより狭い」
クラウスが言う。
「正面突破は危険です」
「虚ろの圧が集中している」
「左斜めから回り込み、エリシアの風で流れを逸らすべきです」
エリシアが術式盤を見る。
「可能です」
「ただし、流れを逸らせる時間は短い」
「おそらく十呼吸ほど」
アルベルトが炎剣を軽く回す。
「十呼吸で声かけて戻るってか」
「無茶だな」
リリアーナが小さく言う。
「でも、やるしかないんですよね」
アルベルトは少し黙った。
そして、いつものように笑おうとして、やめた。
「……だな」
軽く言う場面ではない。
そう判断したのだろう。
その代わり、炎剣を握り直す。
「俺が左を焼く」
「道を照らす」
「でも、暴走したらすぐ引き戻すぞ」
レオンは頷く。
「頼む」
エリシアが続く。
「わたくしが風で道を固定します」
「レオン様、リリアーナ様」
「中心へ入ったら、足元の感覚を信じないでください」
「虚ろは位置感覚を狂わせます」
「互いの手と声だけを頼りにしてください」
リリアーナが頷く。
「はい」
クラウスが言う。
「俺は二人の退路を切り開く」
「引き返す声があったら、即座に戻れ」
グレイヴが大剣を低く構える。
「俺は正面の圧を受ける」
「長くは持たん」
ミリオが精神線を伸ばす。
「お二人に線を繋ぎます」
「ですが、中心に近づくほど線が細くなります」
「切れかけたら、すぐ名前を呼びます」
ラウルが盾を構える。
「七つの光は俺が守る」
「背後を気にせず行け」
セラフィアが金色の光を両手に集める。
「私は、呼びかけの言葉を祈りで包む」
「押しつけにならないように」
「支配にならないように」
「ただ、届くように」
七つの光も、揺れた。
最初にミオが言う。
『レオン……』
リセが続く。
『リリアーナ……』
ノアが、小さく。
『気をつけて……』
サナが。
『呼んで……』
エルドが。
『声、届く……』
マリが。
『手、離さないで……』
そして、ガレスが少し遅れて言った。
『逃げるな……でも、戻れ』
その不器用な言葉に、リリアーナが少しだけ笑った。
「はい」
「戻ります」
レオンも頷く。
「戻る」
七つの光が、わずかに強くなる。
戻ると言った。
それもまた、約束だった。
◇
虚ろの王の欠片は、空洞を抱えたまま震えていた。
外側の王の影は、崩れかけている。
それでも、なお王冠の残骸を纏おうとしていた。
王であろうとする。
支配者であろうとする。
そうしなければ、中心の空白を隠せないから。
『来るな』
声が響く。
先ほどよりも荒い。
『問うな』
『呼ぶな』
『見るな』
『我は王』
『王だ』
『名など不要』
『我は王という名を持つ』
レオンは、静かに首を横に振った。
「それは名じゃない」
『黙れ』
「今から、名前をつけるわけじゃない」
『黙れ』
「ただ、呼びかける」
『黙れ!!』
黒い圧が広がる。
だが、グレイヴが正面へ踏み込んだ。
「今だ!!」
大剣が振り下ろされる。
圧が割れた。
同時に、アルベルトの紅炎が左側へ走る。
「道を照らす!!」
炎が、虚ろの黒い膜だけを焼き、中心へ続く細い道を照らす。
エリシアの風が、その炎を支えながら流れを作った。
「進路固定!」
「十呼吸です!」
クラウスが剣を構える。
「退路は俺が見る!」
セラフィアの金色の光が、レオンとリリアーナの背中を包む。
「行って」
「でも、戻ることを忘れないで」
レオンは、リリアーナの手を握り直した。
「行くぞ」
「はい」
二人は走った。
黒い圧の裂け目へ。
炎と風で作られた、細い道へ。
一歩。
二歩。
足元が沈む。
床があるのかどうか分からない。
だが、リリアーナの手がある。
レオンの手がある。
互いの呼吸がある。
「リリアーナ」
「います!」
「レオンハルト」
「俺はここにいる!」
名前を確認しながら進む。
虚ろの圧が、左右から潰そうとする。
『名を捨てろ』
『声を捨てろ』
『手を離せ』
『一人になれ』
リリアーナが叫ぶ。
「離しません!!」
レオンも言う。
「一人で行かない!!」
その声が、道を保つ。
三呼吸。
四呼吸。
エリシアの風が揺らぐ。
「圧が増しています!」
「あと六呼吸!」
アルベルトが炎を強める。
「押し返せ、炎!!」
「道を照らせ!!」
グレイヴが正面で圧を受け、歯を食いしばる。
「まだだ……!」
「まだ、通せ!!」
クラウスが黒い針を弾く。
「右から侵食!」
「処理する!」
ミリオの精神線が細くなる。
「線、薄いです!」
「レオン様! リリアーナ様! 名を!」
リリアーナが叫ぶ。
「リリアーナ・ヴァイス!」
「隣にいたいから進みます!」
レオンも続ける。
「レオンハルト・フォン・アルディア!」
「レイでもいい!」
「帰るために進む!」
精神線が、かろうじて繋がる。
五呼吸。
六呼吸。
中心が近い。
空洞が見える。
何もない黒。
レオンは、その前に立った。
リリアーナも隣にいる。
手は繋いだまま。
虚ろの王の欠片の外殻が、背後で暴れている。
だが、今この距離では、声が少ない。
何もない。
ただ、空白がある。
レオンは、黒蒼雷を下げた。
攻撃ではない。
雷を突きつければ、また拒まれる。
だから、まず声を出す。
「聞こえるか」
空洞は答えない。
リリアーナも続ける。
「聞こえていますか」
沈黙。
七呼吸。
背後でエリシアが叫ぶ。
「あと三呼吸!」
レオンは焦りそうになる。
だが、焦ってはいけない。
急がない。
場面を急がない。
名前がないものへ、急いで答えを求めてはいけない。
レオンは、もう一度言った。
「お前を、王とは呼ばない」
空洞が震える。
「虚ろとも、まだ呼ばない」
リリアーナが、そっと言う。
「あなた、そこにいますか」
空洞が、ほんのかすかに揺れた。
レオンは息を呑む。
反応した。
リリアーナは、震えながらも続ける。
「名前じゃなくていいです」
「返事じゃなくてもいいです」
「ただ、聞こえているなら」
一拍。
「少しだけ、揺れてください」
沈黙。
八呼吸。
空洞は動かない。
背後で黒い圧が迫っている。
アルベルトの炎が揺らぐ。
グレイヴが押される。
ミリオの線が細くなる。
それでも、リリアーナは待った。
レオンも待った。
そして。
空洞が、小さく震えた。
本当に小さく。
見間違いかと思うほど。
けれど、確かに。
リリアーナの目が潤む。
「……聞こえてる」
レオンも頷く。
「ああ」
九呼吸。
エリシアの声が飛ぶ。
「限界です!」
「戻ってください!!」
だが、レオンは最後に一言だけ投げた。
「また来る」
空洞が震える。
「お前が王じゃないなら」
「虚ろだけでもないなら」
「次は」
一拍。
「お前自身へ届く言葉を探す」
リリアーナも言う。
「また呼びます」
「あなたが、返事を知らなくても」
「聞こえているなら、また呼びます」
十呼吸。
風の道が崩れた。
「戻れ!!」
グレイヴの声。
レオンとリリアーナは振り返る。
黒い圧が一気に迫る。
クラウスが退路を開く。
アルベルトの炎が左右を焼く。
エリシアの風が二人の背を押す。
セラフィアの金色の祈りが、二人を包む。
七つの光が叫ぶ。
『レオン!』
『リリアーナ!』
レオンはリリアーナの手を引いた。
「走る!」
「はい!」
二人は戻った。
圧が背後から迫る。
虚ろの外殻が叫ぶ。
『来るな』
『呼ぶな』
『聞こえぬ』
『聞こえぬ』
『聞こえぬ!!』
だが、その叫びはもう、先ほどと違っていた。
否定が強すぎる。
聞こえぬと叫ぶほどに、聞こえていたことを隠せていない。
リリアーナが息を切らしながら言う。
「聞こえてました……!」
「ああ」
レオンも息を吐く。
「届いた」
◇
二人が仲間の元へ戻った瞬間、グレイヴが黒い圧を大剣で押し返した。
アルベルトの炎とエリシアの風が道を閉じる。
クラウスが最後の侵食を弾き、ラウルの盾が背後を守る。
ミリオの精神線が、再び全員へ安定して繋がった。
レオンは膝をつきかけた。
リリアーナが支える。
だが、リリアーナ自身もふらつく。
今度は、レオンが彼女を支えた。
「大丈夫か」
「大丈夫……じゃないです」
リリアーナは正直に言った。
「すごく怖かったです」
「そうか」
「でも、聞こえてました」
「ああ」
「揺れましたよね」
「揺れた」
リリアーナは、泣きそうな顔で笑った。
「じゃあ、まだ届きます」
レオンは頷く。
「届く」
セラフィアが近づき、二人を見る。
「よく戻ったわ」
彼女の声にも安堵があった。
「今のは大きい」
「名前ではないけれど、反応した」
「呼びかけを認識した」
エリシアが術式盤を確認する。
「中心核の振動、記録できました」
「ごく微弱ですが、確かに外部呼びかけへ反応しています」
アルベルトが肩で息をしながら言う。
「つまり、あいつは聞こえないフリしてたってことか」
クラウスが静かに答える。
「聞こえること自体が怖いのだろう」
グレイヴが大剣を下ろさずに言う。
「なら、次に近づいた時はさらに暴れる」
「だろうな」
レオンは、虚ろの王の欠片を見る。
外殻はなお暴れている。
黒い王冠は砕けかけている。
だが、中心の空洞は、先ほどよりわずかに違って見えた。
何もない黒のまま。
それでも、一度だけ呼びかけに揺れた。
その事実がある。
七つの光が、レオンとリリアーナのそばへ少し寄る。
ミオが言う。
『聞こえた……』
リセも。
『揺れた……』
ノアが。
『誰か……いる』
サナが。
『呼べる……かも』
エルドが。
『また……来たらいい』
マリが。
『少しずつ……』
ガレスが、低く。
『逃げるな……あいつも』
レオンは、ガレスの光を見る。
「そうだな」
一拍。
「逃がさない」
その言葉は、倒すという意味ではなかった。
空白へ逃げるな。
王という役割へ逃げるな。
虚ろという状態へ逃げるな。
お前自身へ戻れ。
そういう意味だった。
虚ろの王の欠片が、遠くで呻く。
『違う』
『違う』
『我は王』
『王だ』
『名など』
『呼びかけなど』
『いらぬ』
だが、その声は揺れていた。
明らかに。
レオンは、ゆっくり立ち上がる。
リリアーナも隣に立つ。
仲間たちも、再び構える。
次に必要なのは、呼び方を探すこと。
名前ではない。
でも、空洞が反応する言葉。
その糸口は、掴んだ。
レオンは、深く息を吸った。
「次は」
一拍。
「あいつが何に反応したのかを探る」
リリアーナが頷く。
「はい」
「“あなた”って言葉に、反応していた気がします」
セラフィアも頷く。
「存在を指す言葉」
「支配でも、役割でもない」
「ただ、そこにいるものへ向けた呼びかけ」
エリシアが術式盤を見ながら言う。
「記録上も、最も強く反応したのはリリアーナ様の“あなた、そこにいますか”の部分です」
アルベルトが目を丸くする。
「お前、すげぇな」
リリアーナは、驚いたように首を振る。
「わ、わたしはただ……」
「ただ、呼んだだけです」
レオンは、彼女を見る。
「それが必要だった」
リリアーナの顔が赤くなる。
「そういうの、今言いますか……」
「思ったから」
「もう……」
ほんの少しだけ、空気が緩む。
深部の真ん中で。
虚ろの王の欠片を前にして。
それでも、人の温度が残っている。
虚ろが最も嫌うもの。
名前。
声。
約束。
呼びかけ。
そして、誰かが隣にいるという事実。
レオンは黒蒼雷を静かに灯した。
次は、名前ではなく。
“あなた”へ届く道を探す。
虚ろの王の欠片は、まだ王を名乗っている。
だが、その奥の空洞は、一度だけ揺れた。
それが、次へ進むための小さな光だった。




