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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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155/251

第155話「名を持つ者たち、無能王子は“俺たちの名前を喰わせない”と叫ぶ」



 虚ろの王の欠片が、玉座から離れた。


 それだけで、深部の闇が形を変えた。


 これまで黒い玉座の上に座していた影。


 無数の名を喰らい、王冠のように残骸を戴き、自分を王だと思い込んだ空白。


 それが立ち上がった瞬間、深部そのものが震えた。


 床が波打つ。


 壁のない闇が軋む。


 遠くに漂っていた無数の名の残滓が、いっせいに細かく震えた。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 サナ。


 エルド。


 マリ。


 ガレス。


 七つの光も震えていた。


 戻ったばかりの名。


 まだ弱い。


 まだ不安定。


 それでも確かに呼び戻した名たちが、虚ろの王の圧に怯えるように揺れている。


 レオンは、それを背中で感じた。


 七つの名を返した。


 それは勝利だった。


 けれど同時に、虚ろの王の欠片を本気にさせた。


 今度の狙いは、七つの光ではない。


 レオンたち自身だ。


『名を返す前に』


 影が告げる。


『お前たちの名を喰う』


 その声が落ちた瞬間。


 黒い波が、深部全体を覆うように押し寄せた。


 糸ではない。


 槍でもない。


 触手でもない。


 深部そのものが、口を開けた。


 名前を持つ者へ向かって。


 理由を持つ者へ向かって。


 帰る場所を持つ者へ向かって。


 レオンたちを丸ごと、空白へ変えようとしてくる。


「全員、防御!!」


 グレイヴの声が響いた。


 大剣が前に出る。


 第一騎士団団長の剣が、黒い波の正面へ立った。


 だが、受け止めた瞬間。


 グレイヴの表情が歪む。


「……重い」


 黒い波は、質量だけではない。


 名を消す圧。


 自分が誰だったかを削る力。


 なぜここにいるのかを曖昧にする力。


 それが、剣越しに流れ込んでくる。


『グレイヴ』


『守れなかった剣』


『もう守らなくていい』


『名を捨てろ』


『剣を下ろせ』


 グレイヴの腕に黒い筋が走った。


 だが、彼は大剣を下ろさない。


「グレイヴ・アルディオス!!」


 彼は叫ぶ。


「今度こそ守るために進む!!」


 大剣が、鈍い光を取り戻す。


 黒い波の前に、重い防壁が生まれた。


 しかし、それだけでは足りない。


 波は横からも回り込む。


 クラウスが右へ踏み込む。


「クラウス・ベルン!!」


「守るべきものを選ぶために進む!!」


 白銀の剣が走る。


 波そのものは斬れない。


 だが、波の中に混ざる虚ろの筋を切り分ける。


 名を直接傷つけず、侵食の流れだけを逸らす。


 その剣筋は冷静だった。


 だが、クラウスの額には汗が浮いていた。


『命令は不要』


『選ぶ必要もない』


『名を捨てれば迷わない』


 声が絡む。


 クラウスは歯を食いしばる。


「迷うから選ぶんだ」


「迷わない剣など、また間違える」


 剣が光る。


 黒い波の右側がわずかに割れた。


 アルベルトが左へ出る。


「アルベルト・フォン・アルディア!!」


「悔しいから進む!!」


 紅炎が燃え上がる。


 だが、黒い波へ触れた瞬間、その炎の意味が曖昧になった。


 燃やす炎なのか。


 照らす炎なのか。


 怒りなのか。


 防御なのか。


 その輪郭を虚ろが奪おうとする。


「うっ……ぜぇな!!」


 アルベルトは叫んだ。


「燃やす!」


「でも全部焼かねぇ!」


「道を照らして、虚ろだけを焼く炎だ!!」


 言葉で炎を固定する。


 紅炎が形を取り戻し、黒い波の表層を焼いた。


 エリシアの風がすぐに重なる。


「エリシア・フォン・ローゼンベルク!!」


「目を逸らさないために進みます!!」


 風が黒い波を横へ流す。


「流す風!」


「守る風!」


「名を奪う圧を分散させる風!」


 術式盤が悲鳴のように明滅する。


 だが、エリシアは目を逸らさない。


 風の流れが、レオンたちの周囲へ防護の円を作った。


 ラウルの盾が床へ打ち込まれる。


「ラウル・ゼクト!!」


「背後を閉ざさないために進む!!」


 盾の防護光が、七つの光を背後から包む。


 ミリオが精神線を全員へ広げる。


「ミリオ・ハーグ!!」


「皆の声を繋ぐために進みます!!」


 細い光の糸が、レオンたちと七つの名を結ぶ。


 その線は何度も黒く染まりかける。


 そのたびにミリオが自分の名を叫び直す。


 セラフィアが、金色の光を広げた。


「セラフィア」


「奪われた名を祝うために進む」


 祈りが深部に広がる。


 ミオ、リセ、ノア、サナ、エルド、マリ、ガレス。


 七つの名を包み、それぞれを別々の光として守る。


 混ぜない。


 飲ませない。


 ひとつひとつの名として、そこに置く。


 そして。


 レオンの隣で、リリアーナが叫んだ。


「リリアーナ・ヴァイス!!」


「隣にいたいから進みます!!」


「一緒に帰るために!!」


 彼女の声が、黒い波に正面からぶつかる。


 武器ではない。


 魔法でもない。


 それでも、その声は確かに意味を持っていた。


 レオンの手を握る温度。


 呼び続ける覚悟。


 その全てが、レオンの名前を繋ぎ止める。


 レオンは、黒蒼雷を握った。


 右腕が震えている。


 だが、退かない。


「レオンハルト・フォン・アルディア!!」


 一拍。


「レイでもいい!!」


 黒蒼雷が深部に轟く。


「奪われた名前を返すために進む!!」


「守りたいものを奪わせないために!!」


「帰る場所へ、帰るために!!」


 黒蒼雷が、仲間たちの声と重なった。


 七つの光が、背後で震えながらも応える。


『ミオ……』


『リセ……』


『ノア……』


『サナ……』


『エルド……』


『マリ……』


『ガレス……』


 名が重なる。


 それは、盾になった。


 小さく、まだ弱い。


 それでも、深部の黒い波を一瞬だけ押し返した。


 ◇


 だが、虚ろの王の欠片は止まらない。


 影が大きく広がった。


 王冠のような名の残骸が、ギシギシと音を立てる。


 そこから、黒い雫が落ちた。


 雫は床へ落ちる前に形を変え、無数の小さな口になった。


 名を喰う口。


 それらが、波の中から一斉に浮かび上がる。


『名を』


『名を』


『名を』


『寄越せ』


 口が迫る。


 狙いは、レオンたちの防御の隙間。


 特に、七つの光だ。


 ラウルが盾を構える。


「来るぞ!」


 ミリオが叫ぶ。


「精神線が噛まれる!」


「線を切られたら、光が孤立します!」


 セラフィアの顔が険しくなる。


「孤立させてはいけない」


「戻ったばかりの名は、一人になると虚ろへ戻りやすい」


 リリアーナがすぐに声を張った。


「ミオくん!」


「リセちゃん!」


「ノアさん!」


「サナさん!」


「エルドさん!」


「マリさん!」


「ガレスさん!」


「ここにいます!」


「わたしたちもいます!」


 七つの光が震える。


 ミオの白い光が、か細く答える。


『ミオ……いる』


 リセが続く。


『リセ……ここ』


 ノアが。


『ノア……』


 サナが。


『サナ……』


 エルドが。


『エルド……いる』


 マリが。


『マリ……』


 そして、少し離れた位置で震えていたガレスの光が、遅れて答える。


『……ガレス』


 その返事が出た瞬間、リリアーナは大きく頷いた。


「はい!」


「全員います!」


「誰も一人じゃありません!」


 その声に、ラウルの盾が強く光る。


「なら、守る」


 彼は短く言って、盾を前へ押し出した。


 名を喰う口が盾へ噛みつく。


 黒い歯のようなものが、防護光を削る。


「ぐっ……!」


 ラウルの腕が震える。


 ミリオが精神線を盾へ重ねる。


「ラウル!」


「名前!」


「ラウル・ゼクト!!」


「背後を閉ざさないために進む!!」


 ラウルは叫ぶ。


 その声で盾の防護光が戻る。


 口が弾けた。


 だが、すぐに次が来る。


 アルベルトが紅炎を走らせる。


「口だけ焼く!」


「中の名には触るな!」


 炎が黒い口を焼き払う。


 エリシアの風が、焼けた虚ろを外へ流す。


「残滓を分散!」


「七つの光へ戻さない!」


 クラウスが剣で、口の群れの流れを切り分ける。


「中心へ集めさせるな!」


 グレイヴが大剣で、大きな波を再び受ける。


「レオン!」


「今は返すより守れ!」


 レオンは頷く。


「ああ!」


 返した名を守る。


 それもまた、返す戦いの一部だった。


 呼び戻しただけでは終わらない。


 戻った名が再び喰われないように、守らなければならない。


 レオンは黒蒼雷を広げ、七つの光の周囲へ細い防護線を張る。


 雷の檻ではない。


 囲い込むためのものではない。


 戻った名が自分のまま立てるように、虚ろとの境界を示す線。


「ここから先は喰わせない」


 レオンが低く言う。


 黒蒼雷が応える。


 虚ろの王の欠片が、苛立ったように揺れた。


『返して』


『守って』


『また返す』


『無駄』


『名は増えれば守るものも増える』


『やがてお前は潰れる』


 その言葉は、レオンの胸へ刺さった。


 確かにそうだ。


 名を返せば返すほど、守るべきものが増える。


 ミオを返した時より、今は負荷が大きい。


 リセ、ノア、サナ、エルド、マリ、ガレス。


 七つの名を守るだけで、全員が必死だ。


 この先、もっと返せばどうなる。


 守りきれるのか。


 戻した名を、また奪われたら。


 その恐怖が、レオンの胸を締めつけた。


 虚ろはそこを突く。


『救うほど重くなる』


『返すほど失う恐怖が増える』


『ならば返すな』


『何も持たねば、何も失わぬ』


 黒い波が、レオンの黒蒼雷へ絡みつく。


 東の塔の感覚。


 何も持たなければ楽だった。


 誰も呼ばなければ、返事がない痛みもない。


 誰も待たなければ、来ない痛みもない。


 守るものがなければ、失う恐怖もない。


 その囁きが、レオンの奥へ入り込む。


「レイさん!」


 リリアーナが叫ぶ。


 レオンは答えようとした。


 だが、一瞬だけ声が詰まった。


 その一瞬で、黒い波が彼の名前へ触れた。


 視界が揺れる。


 レオンハルト。


 レイ。


 どちらも遠くなる。


 代わりに、価値なしという声が浮かぶ。


 無能という声が浮かぶ。


 東の塔の扉が見える。


 そこには何もない。


 何も持たない部屋。


 守るものもない。


 失うものもない。


 苦しいほど静かな場所。


「レイさん!!」


 リリアーナの声が、そこへ飛び込んできた。


 彼女は、両手でレオンの手を握った。


「戻ってください!」


「レオンハルト・フォン・アルディア!」


「レイさん!」


「あなたは、守るものが増えるのを怖がっています!」


「でも、それは悪いことじゃありません!」


 レオンの瞳が揺れる。


 リリアーナは、泣きそうになりながらも叫ぶ。


「失うのが怖いのは、大事だからです!」


「重いのは、名前が戻ったからです!」


「何も持たない方が楽でも!」


「わたしは、レイさんに何も持たない場所へ戻ってほしくありません!!」


 その声が、胸を貫いた。


 何も持たない場所。


 東の塔。


 そこへ戻ってほしくない。


 レオンは、息を吸った。


「……俺は」


 声が戻る。


「ここにいる」


 リリアーナが頷く。


「はい!」


「ここにいます!」


 レオンは黒蒼雷を握り直した。


「守るものが増えるなら」


 一拍。


「皆で守る」


 虚ろの波が揺れる。


「一人で抱えない」


「何度でも確認する」


「重いなら、重いと言う」


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


「はい」


「それでいいです」


 背後でアルベルトが叫ぶ。


「そうだぞ!」


「重い時は重いって言え!」


「俺も今めちゃくちゃ重い!!」


 エリシアが風を制御しながら言う。


「それは少し言い方が雑ですわ!」


「でも事実だろ!」


「事実です!」


 クラウスが剣を振りながら低く言う。


「こちらも重い」


「だが、分ければ耐えられる」


 グレイヴが大剣を構え直す。


「守るものが増えるのは、騎士にとって敗北ではない」


「理由が増えただけだ」


 セラフィアが金色の光を強める。


「名が増えるほど、祈りも増える」


「虚ろには、それが分からない」


 七つの光も、小さく震えた。


『ミオ……守る?』


『リセ……いる』


『ノア……騎士……』


『サナ……呼ぶ』


『エルド……来た』


『マリ……直す』


『ガレス……逃げない』


 それぞれが、まだ不完全な言葉を返す。


 だが、それが深部に響いた。


 虚ろの王の欠片が、低く唸る。


『声を重ねるな』


『名を増やすな』


『重さを分けるな』


『空白へ戻れ』


 レオンは、黒蒼雷を前へ出した。


「戻らない」


 静かに言う。


「何も持たない場所には戻らない」


 黒蒼雷が、深部に線を描く。


「重いなら、皆で持つ」


「怖いなら、名前を呼ぶ」


「守るものが増えたなら、守る理由が増えただけだ」


 黒い波が、少しだけ押し返された。


 ◇


 しかし、虚ろの王の欠片は次の手を打った。


 黒い波が急に細くなり、無数の針のように分裂する。


 狙いは、防御の隙間。


 特に、心の揺らぎ。


 一本の針がアルベルトへ向かった。


 炎の揺らぎに入り込む。


『王族』


『お前の名こそ喰う価値がある』


『アルディア』


『王家の名』


『寄越せ』


 アルベルトの炎が、一瞬歪んだ。


「っ……!」


 王族の名。


 アルディア。


 それは彼にとって、誇りでもあり、重荷でもあり、怒りの源でもある。


 虚ろはそこへ食いつく。


 アルベルトは歯を食いしばった。


「アルベルト・フォン・アルディア!!」


 叫ぶ。


「王族の名はくれてやらねぇ!」


「俺は、この名で文句を言う!」


 紅炎が再び燃える。


 針が焼けた。


 別の針はエリシアへ。


『ローゼンベルク』


『正しさの名』


『目を逸らした名』


 エリシアの指が震える。


 だが、彼女は術式盤を離さない。


「エリシア・フォン・ローゼンベルク!」


「目を逸らさないために進みます!」


「この名で、今度は見ます!」


 風が針を流す。


 クラウスへ。


『命令の剣』


『名を捨てれば、迷わない』


「クラウス・ベルン!」


「守るべきものを選ぶために進む!」


「迷うために、名を持つ!」


 剣が針を弾く。


 グレイヴへ。


『守れなかった剣』


『名を捨てれば、過去も消える』


「グレイヴ・アルディオス!」


「過去を背負い、今度こそ守るために進む!」


 大剣が光る。


 セラフィアへ。


『セラフィア』


『鎖』


『鍵』


『名を寄越せ』


 セラフィアの金色の光が揺れる。


 だが、彼女は胸へ手を当てた。


「セラフィア」


「奪われた名を祝うために進む」


「この名は、もう隠さない」


 金色の祈りが針を溶かした。


 リリアーナへ。


『リリアーナ』


『呼ぶだけの名』


『役目がなければ、そこにいる意味はない』


 リリアーナの顔が一瞬青ざめる。


 レオンがすぐ呼ぶ。


「リリアーナ!」


 彼女は息を吸った。


「リリアーナ・ヴァイス!」


「隣にいたいから進みます!」


「役目だけじゃない!」


「わたし自身として、ここにいます!」


 声が、針を砕いた。


 最後に、針がレオンへ集中する。


『レオンハルト』


『レイ』


『価値なし』


『無能』


『どれが本当だ』


『どの名を喰えばいい』


 レオンは、黒蒼雷を構えた。


 リリアーナの手がある。


 仲間の声がある。


 七つの光がある。


「全部違わない」


 レオンは言った。


 虚ろが揺れる。


「レオンハルトは俺だ」


「レイも俺だ」


「価値なしと呼ばれたこともある」


「無能と呼ばれたこともある」


 一拍。


「でも、それで終わりじゃない」


 黒蒼雷が強くなる。


「俺は、奪われた名前を返すためにここにいる」


「守りたいものを奪わせないためにここにいる」


「帰るためにここにいる」


 針が黒蒼雷へ触れる。


 だが、喰えない。


 レオンの名は、仲間の声と繋がっていた。


 リリアーナが呼ぶ。


「レイさん!」


 アルベルトが叫ぶ。


「レオン!」


 エリシアが。


「レオン様!」


 クラウスが。


「レオン!」


 グレイヴが。


「レオンハルト!」


 セラフィアが。


「レオン」


 七つの光も、小さく震える。


『レオン……』


『レイ……』


 名が重なる。


 針が砕けた。


 黒い波が、初めて大きく後退した。


 虚ろの王の欠片が、深部で激しく揺れる。


『なぜ』


『なぜ喰えぬ』


『名は弱い』


『痛む』


『迷う』


『なのに』


『なぜ』


 レオンは荒い息を吐きながら答えた。


「一人の名前じゃないからだ」


 虚ろが止まる。


「俺の名は、俺だけで支えてるんじゃない」


「呼ぶ人がいる」


「返してくれる人がいる」


「間違えそうになったら戻してくれる人がいる」


 一拍。


「だから喰わせない」


 深部に沈黙が落ちた。


 ◇


 その沈黙の中で、七つの光が少し強くなった。


 ミオの白。


 リセの緑。


 ノアの茶。


 サナの薬草色。


 エルドの橙。


 マリの淡い布の白。


 ガレスの赤黒い木札の光。


 それぞれが別々に輝いている。


 混ざらない。


 でも、離れすぎない。


 七つの光は、レオンたちの背後で小さな円を作り始めた。


 セラフィアが息を呑む。


「……名の輪」


 エリシアが術式盤を見る。


「七名の反応が相互に安定化しています」


「互いに呼び合っている……?」


 リリアーナが、涙を浮かべて微笑む。


「一人じゃないって、分かってきたんですね」


 ガレスの光が、まだ震えながら言った。


『……逃げない』


 マリが続く。


『直せないもの……ある』


『でも……ここ』


 エルドが。


『鐘……鳴った』


 サナが。


『呼んだ』


 ノアが。


『守る……騎士』


 リセが。


『花……ルナ』


 ミオが。


『ミオ……いる』


 言葉はまだ途切れ途切れだった。


 だが、それぞれが自分の名で答えている。


 虚ろの王の欠片が、それを見ていた。


『なぜ』


 また、呟く。


 今度は怒りよりも、理解できない空白が強かった。


『なぜ、別々でいられる』


『なぜ、混ざらず並べる』


『なぜ、痛むのに戻る』


 レオンは、その問いにすぐ答えなかった。


 これは攻撃ではない。


 虚ろの王の欠片の奥から漏れた、本当の問いに近い。


 レオンは一歩前へ出た。


 リリアーナがすぐに手を握る。


「レイさん」


「大丈夫だ」


「……近づきすぎないでください」


「分かってる」


 本当は分かっていないかもしれない。


 だが、今は行く必要があった。


 レオンは虚ろの王の欠片を見据える。


「お前には、名がないのか」


 その瞬間。


 深部が凍った。


 虚ろの王の欠片が、完全に動きを止める。


 セラフィアが息を呑む。


「レオン……」


 虚ろの王の影が、ゆっくり膨れ上がる。


『問うな』


 低い声。


『我を問うな』


 レオンは退かない。


「王は役割だ」


「虚ろは状態だ」


「支配者も役割だ」


 一拍。


「お前自身の名は何だ」


 影が震える。


 黒い王冠が軋む。


 無数の名の残骸が悲鳴を上げる。


『問うな』


『問うな』


『問うな』


 深部の闇が暴れ始める。


 だが、その暴れ方は先ほどまでと違う。


 怒りだけではない。


 恐怖が混ざっている。


 名を問われることへの恐怖。


 自分には何もないと暴かれる恐怖。


 レオンは、そこに確かな核心を見た。


 虚ろの王の欠片は、名を喰う。


 なぜなら、自分の名がないから。


 祝福されていないから。


 呼ばれたことがないから。


 混ざった名で王冠を作り、自分を王だと思い込むしかなかったから。


 リリアーナが小さく言う。


「レイさん……もしかして」


「ああ」


 レオンは答える。


「倒すだけじゃ駄目かもしれない」


 アルベルトが顔をしかめる。


「おいおい、まさかこいつまで救うとか言い出すんじゃねぇだろうな」


 レオンは、すぐには答えない。


 虚ろの王の欠片は危険だ。


 多くの名を喰った。


 子供たちを苦しめた。


 アリシアを眼にした。


 王都に歪みを広げた。


 簡単に救うなど言える相手ではない。


 だが。


 名がない空白として放置すれば、また喰う。


 壊すだけで終わるのか。


 それで喰われた名は戻るのか。


 分からない。


 レオンは、静かに言った。


「まだ分からない」


「でも」


 一拍。


「こいつの中心を知らないと、終わらない」


 セラフィアが頷く。


「その通りよ」


「虚ろの核は、名の欠落」


「そこを見ずに壊せば、喰われた名ごと崩れる可能性がある」


 グレイヴが大剣を構える。


「なら、守りながら問うしかない」


 クラウスが剣を構え直す。


「厄介だな」


 アルベルトがため息をつく。


「ほんと、最後まで面倒くせぇ」


 エリシアが静かに言う。


「でも、それがこの戦いですわ」


 リリアーナがレオンの手を握る。


「問うなら、一人で近づかないでください」


「はい?」


「返事は?」


 レオンは少し黙る。


「……一人で近づかない」


「はい」


 そのやり取りの直後。


 虚ろの王の欠片が、爆発するように叫んだ。


『問うなあああああ!!』


 深部全体が黒い嵐になった。


 名を喰う波。


 針。


 口。


 糸。


 その全てが混ざり、巨大な闇の嵐となってレオンたちへ迫る。


 七つの光が震える。


 セラフィアの金色の祈りが広がる。


 グレイヴが大剣を構える。


 クラウスが剣を低く構える。


 アルベルトの炎が燃え、エリシアの風が渦巻く。


 ミリオとラウルが背後を守る。


 リリアーナが叫ぶ。


「レイさん!!」


 レオンは答えた。


「俺はここにいる!!」


 黒蒼雷が、闇の嵐へ向かって立ち上がる。


 次の戦いは、虚ろの王の欠片そのものの核心へ向かうものになる。


 名を返すだけではない。


 名を持たない王を問う戦いへ。


 レオンたちは、踏み込もうとしていた。

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