第154話「分かたれる恐怖、無能王子は“別々でも一人じゃない”と雷を伸ばす」
五つの光が、深部の闇に浮かんでいた。
ミオ。
リセ。
ノア。
サナ。
エルド。
それぞれの名は、まだ弱い。
風が吹けば消えてしまいそうなほど小さく。
黒い糸の波が押し寄せれば、また虚ろへ沈んでしまいそうなほど脆い。
けれど、そこにある。
名として。
呼べば、わずかに震えて返る。
その事実が、今のレオンたちを繋ぎ止めていた。
深部の闇は、さらに重くなっている。
虚ろの王の欠片は、黒い玉座の上で大きく膨れ上がっていた。
顔はない。
目もない。
けれど、怒りがある。
飢えがある。
そして、ほんの少しだけ。
焦りがある。
五つの名を返された。
たった五つ。
無数の名を喰らい、王冠のように飾り、玉座の材料にしてきた虚ろの王の欠片にとっては、ほんのわずかな欠落のはずだ。
それでも。
その五つが、確実に深部の構造を揺らしていた。
名前が戻る。
呼ばれる。
別々に立つ。
それは、虚ろが最も嫌うことだった。
『別々になれば、痛む』
虚ろの王の欠片が呟く。
声は低い。
だが、深部全体へ染み込む。
『別々になれば、失う』
『別々になれば、比べる』
『別々になれば、選ばれぬ』
『混ざれば、痛みは薄れる』
『混ざれば、誰のものでもない』
『混ざれば、孤独ではない』
太い糸が、ゆっくりとうねった。
サナとエルドが抜けたことで、かなり細くなった。
だが、まだ十分に重い。
内側には、少なくとも二つの強い名の残滓がある。
エリシアがそう言った。
しかし、今の太い糸は先ほどよりも危うかった。
中に残る声たちが、分離を拒んでいる。
虚ろに縛られているだけではない。
自分から、混ざったままでいようとしている。
ひとつに戻れば、痛みが自分のものになる。
失ったものが、自分だけのものになる。
後悔も。
罪も。
孤独も。
全部、自分の名前へ戻ってくる。
それが怖いのだ。
レオンは、その恐怖を否定できなかった。
分かる。
痛みを自分のものとして認めるのは、怖い。
東の塔の記憶を見た時もそうだった。
辛かった。
誰かに来てほしかった。
そう認めるだけで、胸が裂けそうだった。
だから、混ざっていたい気持ちも分かってしまう。
誰でもなければ、痛みも誰のものでもない。
誰でもなければ、失ったものを自分の手で数えなくていい。
だが。
そのままでは、呼べない。
呼べなければ、戻れない。
レオンは、黒蒼雷を握った。
右腕が痛む。
何度も細く雷を分け、名の糸へ触れてきた負荷が限界に近い。
胸の奥も重い。
頭の奥では、まだ無数の声がざわめいている。
だが、立っている。
リリアーナの手がある。
仲間の声がある。
背後に五つの光がある。
「レイさん」
リリアーナが呼んだ。
「俺はここにいる」
「はい」
リリアーナは頷く。
彼女もまた、顔色が悪い。
何度もレオンを呼び戻し、名前を返された光たちへ声をかけ、深部の圧に耐え続けている。
けれど、彼女は手を離さない。
「次、いけますか」
「いける」
「本当に?」
「……きついが、いける」
「正直でよろしいです」
リリアーナは、少しだけ笑った。
その笑顔は疲れている。
でも、確かに温かかった。
「じゃあ、わたしも言います」
「何を」
「わたしも、きついです」
レオンは彼女を見る。
リリアーナは、泣きそうではない。
ただ正直に言っている。
「でも、呼べます」
「声、出ます」
「だから、続けます」
レオンは短く頷いた。
「頼む」
「はい」
そのやり取りの間にも、太い糸は揺れている。
虚ろの王の欠片が囁く。
『続けるのか』
『分けるのか』
『混ざった者を』
『一人へ戻すのか』
『残酷だ』
レオンは、影を見た。
「残酷かもしれない」
深部が、わずかに静まる。
「でも」
「混ざったまま喰われ続けるよりはいい」
『なぜ分かる』
「分からない」
レオンは即答した。
「だから、聞く」
「勝手に決めない」
「選ばない」
「分ける」
「本人が、自分の名へ戻れるように」
虚ろの王の欠片が、低く唸った。
『本人』
『本人などもうない』
『混ざった』
『溶けた』
『崩れた』
『戻らぬ』
セラフィアが、静かに前へ出た。
金色の光が、五つの名を包みながら太い糸へ届く。
「戻らないものもあるかもしれない」
「完全には戻れない名もある」
「でも、だからといって、最初から無いことにはしない」
一拍。
「あなたは、それを無いことにして喰らってきた」
虚ろの王の欠片が震える。
『喰らったのではない』
『混ぜた』
『孤独でないように』
『痛まぬように』
セラフィアの瞳が、悲しげに細くなる。
「それは、救いではないわ」
『なぜ』
「呼べなくなるから」
その言葉に、深部が沈黙した。
呼べなくなる。
それは、ここまでの全てに繋がる言葉だった。
レオンは頷く。
「呼べるようにする」
「別々でも」
「一人じゃないと分かるように」
リリアーナが続ける。
「ミオくん、リセちゃん、ノアさん、サナさん、エルドさん」
五つの光が震える。
「みんな、別々の名前です」
「でも、今ここに並んでいます」
「呼べます」
「返事があります」
一拍。
「だから、分かれることは、一人ぼっちに戻ることじゃありません」
太い糸の内側が、かすかに揺れた。
残る二つの声が、聞いている。
まだ拒んでいる。
だが、聞いている。
レオンは、その隙を逃さなかった。
「……行く」
黒蒼雷を細く伸ばす。
今度は、痛みを探らない。
恐怖にも寄りすぎない。
残された声の中から、まだ温度のあるものを探す。
五つの光が、背後で弱く揺れた。
まるで、次へ道を照らすように。
◇
最初に感じたのは、布の感触だった。
柔らかい。
何度も洗われた布。
少しほつれている。
古いけれど、大事に使われていたもの。
その布を、誰かが膝の上で縫っている。
針。
糸。
小さな灯り。
夜。
窓の外には雨ではなく、雪のような白いものが降っている。
寒い。
でも、部屋の中にはわずかな温もりがある。
レオンは目を細めた。
「……布」
リリアーナが問う。
「布ですか」
「ああ」
「縫ってる」
「夜に」
「古い布を、直してる」
エリシアが術式盤を確認する。
「裁縫系の記憶反応」
「生活記憶です」
「ただし、周囲に強い喪失反応があります」
アルベルトが炎を構えながら言う。
「また痛そうなやつだな」
「痛くない記憶なんて、ここには少ないでしょう」
エリシアの声は硬い。
けれど、目は逸らしていない。
クラウスが太い糸の表面を見る。
「布の記憶に絡む黒膜が薄い」
「だが、その奥に別の記憶が絡んでいる」
「先に表層をほどく」
グレイヴが大剣で周囲の糸を受け止める。
「急ぐな」
「だが、止まるな」
レオンは黒蒼雷を、布の感触へ添えた。
すると、糸の奥から小さな声がした。
『……まだ使える』
女性の声。
年齢は分からない。
若くもあり、少し疲れてもいる。
『捨てない』
『直せば、まだ使える』
リリアーナが優しく聞く。
「服を直していたんですか?」
『……服』
『子供の』
『袖、破れた』
『転んだ』
『泣いた』
『でも、直すから大丈夫って』
声が少しだけ温かくなる。
『青い糸がなかった』
『白で縫った』
『目立つって笑われた』
『でも、あの子、笑った』
リリアーナの表情がやわらぐ。
「その子の服、大事に直していたんですね」
『うん』
『新しい服、買えなかった』
『だから、直した』
『何度も』
『何度も』
レオンは、その記憶へ触れる。
貧しい家。
破れた服。
夜遅くまで針を動かす手。
新しいものを買えなくても、直して着せたいという想い。
そこには、確かに愛情があった。
だが、次の瞬間。
黒い膜が強くなった。
『でも』
『直せなかった』
『最後は』
『服じゃない』
『あの子を』
声が壊れかける。
『直せなかった』
リリアーナの喉が震えた。
レオンも息を止める。
直せなかった。
服は直せた。
でも、子供は直せなかった。
おそらく、その子は亡くなった。
病か。
事故か。
虚ろか。
分からない。
ただ、その女性の中では、直すという行為が痛みに変わっている。
虚ろの王の欠片が囁く。
『直せぬものがある』
『破れた命は戻らぬ』
『ならば、名も無意味』
『呼んでも直らぬ』
レオンの胸に重く響く。
サナの時と似ている。
助けたかった。
呼んだ。
でも戻らなかった。
今度は、直したかった。
でも直せなかった。
名を返すことは、命を戻すことではない。
それは事実だ。
レオンは、無責任に「直せる」とは言えなかった。
リリアーナも、言葉を探している。
沈黙。
深部の闇が、その沈黙へ入り込もうとする。
だが、今度はノアの光が微かに震えた。
『……未完成でも』
小さな声。
ノアの声だった。
『人形……意味、あった』
リセの光も震える。
『白い花……なくなっても』
『名前、あった』
ミオが続く。
『待ってたの……痛いけど』
『ミオ、いた』
サナがかすかに言う。
『呼んだこと……消えない』
エルドも。
『鐘……鳴らなくなったけど』
『覚えてた』
五つの光が、順番に声を出した。
弱い。
でも、確かだった。
リリアーナの目が潤む。
レオンも息を呑む。
戻った名たちが、今度は次の名へ声を渡そうとしている。
セラフィアが、静かに微笑んだ。
「これが、名が並ぶということよ」
彼女の金色の光が、五つの声を支える。
「戻った名が、次の名を呼ぶ」
レオンは、太い糸へ向き直った。
「聞こえたか」
糸が震える。
『……』
「直せなかったものはある」
「戻らないものもある」
「でも」
一拍。
「直そうとした手まで、無意味じゃない」
リリアーナも続ける。
「その服を直してもらった子は」
「きっと、覚えていたと思います」
「白い糸で縫われた袖も」
「あなたが夜に直してくれたことも」
糸の奥で、嗚咽が聞こえる。
『覚えて……』
「はい」
『笑った』
「はい」
『袖、変って』
「はい」
『でも、着てくれた』
声が震える。
『何度も』
黒い膜が薄くなる。
レオンは、黒蒼雷をさらに優しく添える。
「名前を聞かせてくれ」
『……名前』
「お前の名だ」
『私は……』
長い沈黙。
深部の闇が呼吸を止める。
虚ろの王の欠片が、黒い糸を動かそうとする。
アルベルトが炎で外側を焼く。
「邪魔すんな!」
「今、出そうとしてんだよ!」
エリシアが風を重ねる。
「黒膜を流します!」
「対象反応、安定!」
クラウスが絡む糸を弾く。
「節を外す!」
グレイヴが迫る束を受ける。
「レオン、続けろ!」
リリアーナが呼ぶ。
「大丈夫です」
「あなたの声、聞こえています」
やがて。
糸の奥から、かすかな名が落ちた。
『……マリ』
リリアーナが優しく繰り返す。
「マリさん」
糸が震える。
『マリ……』
『私は、マリ……』
レオンが呼ぶ。
「マリ」
セラフィアが祈る。
「マリ」
「あなたの名を祝うわ」
五つの光も、弱く名を重ねた。
『マリ……』
『マリ……』
『マリ……』
その瞬間、太い糸の一部がほどけた。
柔らかな布のような淡い白の光が抜け出し、針と糸の形を一瞬だけ描く。
そして、他の光のそばへ寄り添った。
『マリ……』
『直したかった……』
声は泣いていた。
でも、虚ろではなかった。
六つ目の名が、深部へ戻った。
◇
太い糸は、さらに細くなった。
残る強い反応は、あとひとつ。
だが。
そのひとつが、一番深かった。
サナが抜けた時も。
エルドが抜けた時も。
マリが抜けた時も。
残った声はずっと沈黙していた。
他の名たちが分けられるのを、ただ見ていた。
いや。
感じていた。
そして今。
太い糸の中心に、その最後の声だけが残った。
黒い糸は、もう太い束ではない。
だが、中心に残る赤黒い光は、これまでで一番濃い。
レオンは、その光を見た瞬間、嫌な寒気を覚えた。
これは、ただの喪失ではない。
ただの後悔でもない。
怒り。
憎しみ。
罪。
そして、強い拒絶。
エリシアが術式盤を見て顔を青ざめさせた。
「……最後の反応」
「非常に危険です」
「名の芯は残っています」
「でも、その周囲に攻撃性の記憶が絡んでいます」
クラウスが剣を構える。
「誰かを傷つけた記憶か」
「可能性が高いです」
グレイヴが目を細める。
「覚悟しろ」
「今までのように、ただ寄り添えばいい相手ではないかもしれん」
アルベルトが炎剣を握る。
「それでも壊せねぇんだろ」
レオンは頷く。
「ああ」
リリアーナが、小さく息を吸った。
手が震えている。
でも、離さない。
「レイさん」
「怖いか」
「怖いです」
一拍。
「でも、呼びます」
レオンは頷く。
「俺も怖い」
「でも、聞く」
セラフィアが金色の光を整える。
「最後の一つは、混ざっていた他の名たちの痛みも背負っていた可能性がある」
「中心に残った理由があるはず」
ミリオが精神線を慎重に伸ばす。
「反応が、こちらを拒絶しています」
「近づくだけで切られそうです」
ラウルが盾を構える。
「なら、まず防ぐ」
残った赤黒い糸が、ゆっくりと形を変えた。
人の腕のように。
剣のように。
そして、鋭い棘のように。
『来るな』
低い声がした。
男の声。
年齢は分からない。
だが、これまでのどの声よりも硬い。
『呼ぶな』
『返すな』
『俺は戻らない』
レオンは、その声を聞いた。
怒り。
恐怖。
拒絶。
全てが混ざっている。
「戻りたくないのか」
『戻らない』
「なぜ」
『殺した』
深部が、静まり返った。
リリアーナの手が強くなる。
アルベルトが表情を変える。
エリシアも息を呑む。
グレイヴとクラウスは、黙って剣を構え直した。
声は続ける。
『守れなかったんじゃない』
『助けられなかったんじゃない』
『俺は、殺した』
赤黒い糸が震える。
虚ろの王の欠片が、黒い玉座で静かに笑った。
『そうだ』
『それは返すな』
『名を返せば、罪も戻る』
『罪人に名は不要』
『空白であれば、裁かれぬ』
『混ざっていれば、誰の罪でもない』
レオンは、息を呑んだ。
この最後の名は、だから混ざっていたのか。
他の名たちの中に紛れ、自分だけの輪郭を失っていた。
そうすれば、罪も自分だけのものではなくなる。
殺した記憶も、名前と一緒に薄れる。
だが、分けられれば戻る。
自分が誰かを殺したという記憶が。
自分の名へ戻ってくる。
「……レイさん」
リリアーナが震える声で呼ぶ。
「俺はここにいる」
レオンは答える。
だが、重い。
この相手に、どう声をかけるべきか。
被害者ではないかもしれない。
救われるべき者であると同時に、誰かを傷つけた者かもしれない。
名前を返すことは、罪をなかったことにすることではない。
だが、名を奪われたままなら、償うこともできない。
レオンは、ゆっくり口を開いた。
「……殺したことは、消えない」
赤黒い糸が震える。
『なら、来るな』
「消えない」
「でも」
一拍。
「名前を失えば、罪も消えるわけじゃない」
声が止まる。
レオンは続けた。
「誰の罪か分からなくなるだけだ」
「それは償いじゃない」
赤黒い糸が激しく揺れた。
『黙れ』
『黙れ』
『俺は戻らない』
『俺は――』
名前の手前で、声が止まる。
言いたくないのだ。
自分の名を。
罪と一緒に戻る名を。
リリアーナが、涙を浮かべながら言う。
「怖いですよね」
『……』
「自分の名前が戻ったら」
「自分がしたことも、自分のものになるから」
『黙れ』
「でも」
リリアーナの声は震えている。
それでも、逃げない。
「名前がないままだと」
「謝ることも」
「悔やむことも」
「誰かに向き合うことも」
「できないと思います」
赤黒い糸が止まる。
アルベルトが低く言った。
「罪人だから名前いらねぇってのは違うだろ」
「名前があるから、責任取れるんだろ」
エリシアも続ける。
「目を逸らした過去がある者として言います」
「名を失えば楽になるかもしれません」
「でも、楽になることと、正しいことは違います」
クラウスが剣を下げずに言う。
「罪を裁くのは虚ろではない」
グレイヴが続ける。
「空白に逃げても、剣は止まらん」
「だが、名を持つなら」
「立ち直る道も、償う道もある」
セラフィアが金色の光を赤黒い糸へ向ける。
「名は祝福だけではない」
「責任でもある」
「でも、責任を負えるのは、名を持つ者だけよ」
赤黒い糸は、震えていた。
怒りか。
恐怖か。
分からない。
だが、先ほどよりも声の輪郭が出ている。
『俺は……』
声が漏れる。
『命令だった』
クラウスの目が細くなる。
『斬れって』
『危険だって』
『だから斬った』
『でも』
『子供だった』
沈黙。
重い。
あまりにも重い沈黙。
この声は、命令で子供を斬ったのかもしれない。
虚ろに関わる危険指定者を。
あるいは、暴走しかけた名持ちを。
詳細はまだ分からない。
だが、声の重さは本物だった。
クラウスの手が、剣の柄を強く握る。
グレイヴの表情も険しい。
彼らにとって、それは他人事ではない。
命令。
危険指定。
斬れ。
その言葉が、何度も出てきた。
レオンは、赤黒い糸を見た。
「お前は、命令で斬った」
『……』
「でも、後悔している」
『黙れ』
「だから、戻りたくない」
『黙れ!』
糸が棘になって伸びる。
レオンへ向かう。
グレイヴが大剣で受ける。
「っ……!」
重い。
これまでの糸より重い。
罪の記憶が、刃になっている。
グレイヴの腕に黒い筋が走る。
『お前も同じだ』
『守れなかった剣』
『命令の剣』
グレイヴは歯を食いしばる。
「そうだ」
「同じ痛みを知っている」
一拍。
「だからこそ、逃がさん」
大剣が光る。
糸の棘を押し返す。
クラウスも横から剣を入れる。
「命令で斬ったなら」
「なおさら、自分の名を持て」
「命令のせいだけにして逃げるな」
赤黒い糸が唸る。
『うるさい』
『うるさい』
『うるさい』
アルベルトの炎が外側の黒膜を焼く。
「うるさくても聞け!」
「戻りたくねぇって叫べるなら、まだ中にいるだろ!」
エリシアの風が糸の暴走を流す。
「攻撃性を逸らします!」
「レオン様、今なら声が届きます!」
リリアーナがレオンの手を握る。
「レイさん」
「行く」
「はい」
「でも、近づきすぎないで」
「分かってる」
レオンは黒蒼雷を、赤黒い糸へ伸ばした。
触れた瞬間。
剣の感触。
雨。
血。
泣き声。
命令。
小さな身体。
自分の手の震え。
何度も洗っても落ちない感覚。
それが流れ込んでくる。
レオンは歯を食いしばる。
重い。
これは重い。
だが、聞く。
全部ではなく。
名へ繋がるものを。
この者が、この者であった証を。
レオンは、痛みの奥を探した。
そして。
ひとつの記憶を見つけた。
剣ではない。
命令でもない。
小さな木札。
そこに、下手な文字で何かが書かれている。
誰かが贈ったもの。
お守り。
レオンは息を吸った。
「……木札」
赤黒い糸が止まる。
「誰かにもらったな」
『……』
「下手な文字」
「お守り」
『……妹』
声が、かすかに漏れた。
『妹が』
『兄ちゃん、強い騎士になるって』
『持ってけって』
グレイヴとクラウスの表情が変わる。
騎士。
この者も、騎士だった。
あるいは兵士だった。
命令で斬った。
その前には、妹からお守りをもらった兄だった。
レオンは続ける。
「その木札には、何て書いてあった」
『……』
「思い出せ」
『いやだ』
「痛いか」
『痛い』
「でも、そこにお前の名がある」
赤黒い糸が震える。
『兄ちゃん』
『帰ってきて』
『って』
声が崩れた。
『帰れなかった』
『帰れない』
『俺は』
『俺は子供を斬った』
『妹に会えない』
『会えるわけない』
リリアーナが泣きながら言う。
「会えるかどうかは、今ここでは分かりません」
「でも」
「妹さんが呼んだ名前まで、消さなくていいです」
クラウスが続ける。
「罪は消えない」
「だが、妹が託した名も消すな」
グレイヴが低く言う。
「騎士なら」
「自分の剣と、自分の名から逃げるな」
赤黒い糸が、激しく震える。
そして。
ついに、声が漏れた。
『……ガ』
レオンが集中する。
『ガレス……』
重い名だった。
血と雨と木札を抱えた名。
リリアーナが、震えながら呼ぶ。
「ガレスさん」
糸が大きく揺れる。
『俺は……ガレス』
『ガレス……』
セラフィアが、金色の光を向ける。
「ガレス」
「あなたの名を祝うわ」
一拍。
「そして、その名が背負うものから逃げないように」
グレイヴが低く呼ぶ。
「ガレス」
クラウスも。
「ガレス」
アルベルトが。
「ガレス」
エリシアが。
「ガレスさん」
レオンが呼ぶ。
「ガレス」
最後に、リリアーナが言う。
「ガレスさん」
「あなたは、ここにいます」
赤黒い糸が、砕けるようにほどけた。
血のような光と、木札のような淡い茶色が混ざった光が抜け出す。
それは人の形になりかけ、すぐに崩れた。
まだ名を保つだけで精一杯なのだ。
それでも、虚ろの糸ではなくなった。
『ガレス……』
『俺は……』
『斬った……』
声は泣いていた。
許されたわけではない。
救われたと言い切れるわけでもない。
だが、空白ではなくなった。
罪を持つ名前として、そこに戻った。
セラフィアが金色の祈りで包む。
「記憶は少しずつ」
「今は、名が崩れないように」
ガレスの光は、他の六つの光から少し離れた場所で震えていた。
それを見て、マリの光が少し寄る。
サナも。
エルドも。
ミオ、リセ、ノアも。
完全には触れない。
でも、離れすぎもしない。
別々の名。
別々の痛み。
それでも、同じ闇の中で並んでいる。
ガレスの光が、震えた。
『……いいのか』
誰もすぐには答えなかった。
簡単にいいとは言えない。
だが、レオンは静かに言った。
「ここにいろ」
一拍。
「逃げるな」
ガレスの光が、小さく震えた。
『……ああ』
太い糸は、完全にほどけた。
七つの光が、深部の闇に浮かぶ。
ミオ。
リセ。
ノア。
サナ。
エルド。
マリ。
ガレス。
選ばず、分けた。
捨てず、呼んだ。
それぞれ別々の名として。
深部に、七つの光が戻った。
◇
虚ろの王の欠片が、沈黙していた。
黒い玉座の上で、影が揺れている。
怒りではない。
いや、怒りもある。
だが、それ以上に。
混乱。
理解できないという揺らぎ。
分けた。
混ざっていたものを、分けた。
分けたのに、孤独にしなかった。
罪を持つ名さえ、空白に戻さなかった。
それが、虚ろの王の欠片には理解できないのだ。
『なぜ』
影が呟く。
『なぜ、罪ある名を残す』
『なぜ、痛む名を祝う』
『なぜ、別々にしてなお並べる』
レオンは、荒く息を吐いた。
かなり限界に近い。
右腕は震えている。
黒蒼雷も細い。
それでも、答える。
「名前は」
一拍。
「綺麗なものだけにつくわけじゃない」
深部が、静まる。
「痛みも」
「後悔も」
「罪も」
「大事だったものも」
「全部持っているから、その人の名前だ」
リリアーナが支えるように続ける。
「名前を呼ぶことは」
「全部許すことじゃありません」
「でも、無かったことにしないことです」
セラフィアが金色の光を広げる。
「名を祝うとは」
「その存在を、空白に渡さないこと」
虚ろの王の欠片が震える。
『存在』
『空白』
『名』
『祝福』
『我には』
そこで、また言葉が止まった。
我には。
続かない。
何がないのか。
名か。
祝福か。
存在か。
レオンは、そこに手がかりを感じた。
虚ろの王の欠片は、名を喰い続けている。
だが、自分の名を持っていない。
祝福されたことがない。
だから、名を持つ者を理解できない。
だから、喰う。
王と名乗ることで、自分に形を与えようとしている。
だが、それは名ではない。
役割だ。
空白の上に被せた王冠だ。
レオンが一歩前へ出ようとした瞬間。
虚ろの王の欠片が、激しく膨れ上がった。
『黙れ』
『問うな』
『見るな』
『我を見るな』
黒い玉座から、さらに太い闇が噴き上がる。
七つの光が震える。
ミリオが叫ぶ。
「七名、保護反応不安定!」
ラウルが盾を構える。
「来るぞ!」
グレイヴが大剣を構える。
「全員、防御!」
虚ろの王の欠片が、初めて玉座から完全に離れた。
巨大な影が、深部に立つ。
王冠のようなものが、無数の名の残骸で軋んでいる。
『ならば』
『名を返す前に』
『お前たちの名を喰う』
影の背後から、黒い波が広がった。
糸ではない。
深部そのものが波となって押し寄せる。
対象は、七つの光ではない。
レオンたち全員。
今度は、名を持つ者そのものを喰らうつもりだった。
リリアーナが叫ぶ。
「レイさん!!」
レオンは、震える右手で黒蒼雷を構えた。
「俺はここにいる!!」
七つの光が背後で震える。
仲間たちが構える。
虚ろの王の欠片が、ついに本体として動き出した。
名を返す戦いは、新たな局面へ入った。




