↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
154/251

第154話「分かたれる恐怖、無能王子は“別々でも一人じゃない”と雷を伸ばす」


 五つの光が、深部の闇に浮かんでいた。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 サナ。


 エルド。


 それぞれの名は、まだ弱い。


 風が吹けば消えてしまいそうなほど小さく。


 黒い糸の波が押し寄せれば、また虚ろへ沈んでしまいそうなほど脆い。


 けれど、そこにある。


 名として。


 呼べば、わずかに震えて返る。


 その事実が、今のレオンたちを繋ぎ止めていた。


 深部の闇は、さらに重くなっている。


 虚ろの王の欠片は、黒い玉座の上で大きく膨れ上がっていた。


 顔はない。


 目もない。


 けれど、怒りがある。


 飢えがある。


 そして、ほんの少しだけ。


 焦りがある。


 五つの名を返された。


 たった五つ。


 無数の名を喰らい、王冠のように飾り、玉座の材料にしてきた虚ろの王の欠片にとっては、ほんのわずかな欠落のはずだ。


 それでも。


 その五つが、確実に深部の構造を揺らしていた。


 名前が戻る。


 呼ばれる。


 別々に立つ。


 それは、虚ろが最も嫌うことだった。


『別々になれば、痛む』


 虚ろの王の欠片が呟く。


 声は低い。


 だが、深部全体へ染み込む。


『別々になれば、失う』


『別々になれば、比べる』


『別々になれば、選ばれぬ』


『混ざれば、痛みは薄れる』


『混ざれば、誰のものでもない』


『混ざれば、孤独ではない』


 太い糸が、ゆっくりとうねった。


 サナとエルドが抜けたことで、かなり細くなった。


 だが、まだ十分に重い。


 内側には、少なくとも二つの強い名の残滓がある。


 エリシアがそう言った。


 しかし、今の太い糸は先ほどよりも危うかった。


 中に残る声たちが、分離を拒んでいる。


 虚ろに縛られているだけではない。


 自分から、混ざったままでいようとしている。


 ひとつに戻れば、痛みが自分のものになる。


 失ったものが、自分だけのものになる。


 後悔も。


 罪も。


 孤独も。


 全部、自分の名前へ戻ってくる。


 それが怖いのだ。


 レオンは、その恐怖を否定できなかった。


 分かる。


 痛みを自分のものとして認めるのは、怖い。


 東の塔の記憶を見た時もそうだった。


 辛かった。


 誰かに来てほしかった。


 そう認めるだけで、胸が裂けそうだった。


 だから、混ざっていたい気持ちも分かってしまう。


 誰でもなければ、痛みも誰のものでもない。


 誰でもなければ、失ったものを自分の手で数えなくていい。


 だが。


 そのままでは、呼べない。


 呼べなければ、戻れない。


 レオンは、黒蒼雷を握った。


 右腕が痛む。


 何度も細く雷を分け、名の糸へ触れてきた負荷が限界に近い。


 胸の奥も重い。


 頭の奥では、まだ無数の声がざわめいている。


 だが、立っている。


 リリアーナの手がある。


 仲間の声がある。


 背後に五つの光がある。


「レイさん」


 リリアーナが呼んだ。


「俺はここにいる」


「はい」


 リリアーナは頷く。


 彼女もまた、顔色が悪い。


 何度もレオンを呼び戻し、名前を返された光たちへ声をかけ、深部の圧に耐え続けている。


 けれど、彼女は手を離さない。


「次、いけますか」


「いける」


「本当に?」


「……きついが、いける」


「正直でよろしいです」


 リリアーナは、少しだけ笑った。


 その笑顔は疲れている。


 でも、確かに温かかった。


「じゃあ、わたしも言います」


「何を」


「わたしも、きついです」


 レオンは彼女を見る。


 リリアーナは、泣きそうではない。


 ただ正直に言っている。


「でも、呼べます」


「声、出ます」


「だから、続けます」


 レオンは短く頷いた。


「頼む」


「はい」


 そのやり取りの間にも、太い糸は揺れている。


 虚ろの王の欠片が囁く。


『続けるのか』


『分けるのか』


『混ざった者を』


『一人へ戻すのか』


『残酷だ』


 レオンは、影を見た。


「残酷かもしれない」


 深部が、わずかに静まる。


「でも」


「混ざったまま喰われ続けるよりはいい」


『なぜ分かる』


「分からない」


 レオンは即答した。


「だから、聞く」


「勝手に決めない」


「選ばない」


「分ける」


「本人が、自分の名へ戻れるように」


 虚ろの王の欠片が、低く唸った。


『本人』


『本人などもうない』


『混ざった』


『溶けた』


『崩れた』


『戻らぬ』


 セラフィアが、静かに前へ出た。


 金色の光が、五つの名を包みながら太い糸へ届く。


「戻らないものもあるかもしれない」


「完全には戻れない名もある」


「でも、だからといって、最初から無いことにはしない」


 一拍。


「あなたは、それを無いことにして喰らってきた」


 虚ろの王の欠片が震える。


『喰らったのではない』


『混ぜた』


『孤独でないように』


『痛まぬように』


 セラフィアの瞳が、悲しげに細くなる。


「それは、救いではないわ」


『なぜ』


「呼べなくなるから」


 その言葉に、深部が沈黙した。


 呼べなくなる。


 それは、ここまでの全てに繋がる言葉だった。


 レオンは頷く。


「呼べるようにする」


「別々でも」


「一人じゃないと分かるように」


 リリアーナが続ける。


「ミオくん、リセちゃん、ノアさん、サナさん、エルドさん」


 五つの光が震える。


「みんな、別々の名前です」


「でも、今ここに並んでいます」


「呼べます」


「返事があります」


 一拍。


「だから、分かれることは、一人ぼっちに戻ることじゃありません」


 太い糸の内側が、かすかに揺れた。


 残る二つの声が、聞いている。


 まだ拒んでいる。


 だが、聞いている。


 レオンは、その隙を逃さなかった。


「……行く」


 黒蒼雷を細く伸ばす。


 今度は、痛みを探らない。


 恐怖にも寄りすぎない。


 残された声の中から、まだ温度のあるものを探す。


 五つの光が、背後で弱く揺れた。


 まるで、次へ道を照らすように。


 ◇


 最初に感じたのは、布の感触だった。


 柔らかい。


 何度も洗われた布。


 少しほつれている。


 古いけれど、大事に使われていたもの。


 その布を、誰かが膝の上で縫っている。


 針。


 糸。


 小さな灯り。


 夜。


 窓の外には雨ではなく、雪のような白いものが降っている。


 寒い。


 でも、部屋の中にはわずかな温もりがある。


 レオンは目を細めた。


「……布」


 リリアーナが問う。


「布ですか」


「ああ」


「縫ってる」


「夜に」


「古い布を、直してる」


 エリシアが術式盤を確認する。


「裁縫系の記憶反応」


「生活記憶です」


「ただし、周囲に強い喪失反応があります」


 アルベルトが炎を構えながら言う。


「また痛そうなやつだな」


「痛くない記憶なんて、ここには少ないでしょう」


 エリシアの声は硬い。


 けれど、目は逸らしていない。


 クラウスが太い糸の表面を見る。


「布の記憶に絡む黒膜が薄い」


「だが、その奥に別の記憶が絡んでいる」


「先に表層をほどく」


 グレイヴが大剣で周囲の糸を受け止める。


「急ぐな」


「だが、止まるな」


 レオンは黒蒼雷を、布の感触へ添えた。


 すると、糸の奥から小さな声がした。


『……まだ使える』


 女性の声。


 年齢は分からない。


 若くもあり、少し疲れてもいる。


『捨てない』


『直せば、まだ使える』


 リリアーナが優しく聞く。


「服を直していたんですか?」


『……服』


『子供の』


『袖、破れた』


『転んだ』


『泣いた』


『でも、直すから大丈夫って』


 声が少しだけ温かくなる。


『青い糸がなかった』


『白で縫った』


『目立つって笑われた』


『でも、あの子、笑った』


 リリアーナの表情がやわらぐ。


「その子の服、大事に直していたんですね」


『うん』


『新しい服、買えなかった』


『だから、直した』


『何度も』


『何度も』


 レオンは、その記憶へ触れる。


 貧しい家。


 破れた服。


 夜遅くまで針を動かす手。


 新しいものを買えなくても、直して着せたいという想い。


 そこには、確かに愛情があった。


 だが、次の瞬間。


 黒い膜が強くなった。


『でも』


『直せなかった』


『最後は』


『服じゃない』


『あの子を』


 声が壊れかける。


『直せなかった』


 リリアーナの喉が震えた。


 レオンも息を止める。


 直せなかった。


 服は直せた。


 でも、子供は直せなかった。


 おそらく、その子は亡くなった。


 病か。


 事故か。


 虚ろか。


 分からない。


 ただ、その女性の中では、直すという行為が痛みに変わっている。


 虚ろの王の欠片が囁く。


『直せぬものがある』


『破れた命は戻らぬ』


『ならば、名も無意味』


『呼んでも直らぬ』


 レオンの胸に重く響く。


 サナの時と似ている。


 助けたかった。


 呼んだ。


 でも戻らなかった。


 今度は、直したかった。


 でも直せなかった。


 名を返すことは、命を戻すことではない。


 それは事実だ。


 レオンは、無責任に「直せる」とは言えなかった。


 リリアーナも、言葉を探している。


 沈黙。


 深部の闇が、その沈黙へ入り込もうとする。


 だが、今度はノアの光が微かに震えた。


『……未完成でも』


 小さな声。


 ノアの声だった。


『人形……意味、あった』


 リセの光も震える。


『白い花……なくなっても』


『名前、あった』


 ミオが続く。


『待ってたの……痛いけど』


『ミオ、いた』


 サナがかすかに言う。


『呼んだこと……消えない』


 エルドも。


『鐘……鳴らなくなったけど』


『覚えてた』


 五つの光が、順番に声を出した。


 弱い。


 でも、確かだった。


 リリアーナの目が潤む。


 レオンも息を呑む。


 戻った名たちが、今度は次の名へ声を渡そうとしている。


 セラフィアが、静かに微笑んだ。


「これが、名が並ぶということよ」


 彼女の金色の光が、五つの声を支える。


「戻った名が、次の名を呼ぶ」


 レオンは、太い糸へ向き直った。


「聞こえたか」


 糸が震える。


『……』


「直せなかったものはある」


「戻らないものもある」


「でも」


 一拍。


「直そうとした手まで、無意味じゃない」


 リリアーナも続ける。


「その服を直してもらった子は」


「きっと、覚えていたと思います」


「白い糸で縫われた袖も」


「あなたが夜に直してくれたことも」


 糸の奥で、嗚咽が聞こえる。


『覚えて……』


「はい」


『笑った』


「はい」


『袖、変って』


「はい」


『でも、着てくれた』


 声が震える。


『何度も』


 黒い膜が薄くなる。


 レオンは、黒蒼雷をさらに優しく添える。


「名前を聞かせてくれ」


『……名前』


「お前の名だ」


『私は……』


 長い沈黙。


 深部の闇が呼吸を止める。


 虚ろの王の欠片が、黒い糸を動かそうとする。


 アルベルトが炎で外側を焼く。


「邪魔すんな!」


「今、出そうとしてんだよ!」


 エリシアが風を重ねる。


「黒膜を流します!」


「対象反応、安定!」


 クラウスが絡む糸を弾く。


「節を外す!」


 グレイヴが迫る束を受ける。


「レオン、続けろ!」


 リリアーナが呼ぶ。


「大丈夫です」


「あなたの声、聞こえています」


 やがて。


 糸の奥から、かすかな名が落ちた。


『……マリ』


 リリアーナが優しく繰り返す。


「マリさん」


 糸が震える。


『マリ……』


『私は、マリ……』


 レオンが呼ぶ。


「マリ」


 セラフィアが祈る。


「マリ」


「あなたの名を祝うわ」


 五つの光も、弱く名を重ねた。


『マリ……』


『マリ……』


『マリ……』


 その瞬間、太い糸の一部がほどけた。


 柔らかな布のような淡い白の光が抜け出し、針と糸の形を一瞬だけ描く。


 そして、他の光のそばへ寄り添った。


『マリ……』


『直したかった……』


 声は泣いていた。


 でも、虚ろではなかった。


 六つ目の名が、深部へ戻った。


 ◇


 太い糸は、さらに細くなった。


 残る強い反応は、あとひとつ。


 だが。


 そのひとつが、一番深かった。


 サナが抜けた時も。


 エルドが抜けた時も。


 マリが抜けた時も。


 残った声はずっと沈黙していた。


 他の名たちが分けられるのを、ただ見ていた。


 いや。


 感じていた。


 そして今。


 太い糸の中心に、その最後の声だけが残った。


 黒い糸は、もう太い束ではない。


 だが、中心に残る赤黒い光は、これまでで一番濃い。


 レオンは、その光を見た瞬間、嫌な寒気を覚えた。


 これは、ただの喪失ではない。


 ただの後悔でもない。


 怒り。


 憎しみ。


 罪。


 そして、強い拒絶。


 エリシアが術式盤を見て顔を青ざめさせた。


「……最後の反応」


「非常に危険です」


「名の芯は残っています」


「でも、その周囲に攻撃性の記憶が絡んでいます」


 クラウスが剣を構える。


「誰かを傷つけた記憶か」


「可能性が高いです」


 グレイヴが目を細める。


「覚悟しろ」


「今までのように、ただ寄り添えばいい相手ではないかもしれん」


 アルベルトが炎剣を握る。


「それでも壊せねぇんだろ」


 レオンは頷く。


「ああ」


 リリアーナが、小さく息を吸った。


 手が震えている。


 でも、離さない。


「レイさん」


「怖いか」


「怖いです」


 一拍。


「でも、呼びます」


 レオンは頷く。


「俺も怖い」


「でも、聞く」


 セラフィアが金色の光を整える。


「最後の一つは、混ざっていた他の名たちの痛みも背負っていた可能性がある」


「中心に残った理由があるはず」


 ミリオが精神線を慎重に伸ばす。


「反応が、こちらを拒絶しています」


「近づくだけで切られそうです」


 ラウルが盾を構える。


「なら、まず防ぐ」


 残った赤黒い糸が、ゆっくりと形を変えた。


 人の腕のように。


 剣のように。


 そして、鋭い棘のように。


『来るな』


 低い声がした。


 男の声。


 年齢は分からない。


 だが、これまでのどの声よりも硬い。


『呼ぶな』


『返すな』


『俺は戻らない』


 レオンは、その声を聞いた。


 怒り。


 恐怖。


 拒絶。


 全てが混ざっている。


「戻りたくないのか」


『戻らない』


「なぜ」


『殺した』


 深部が、静まり返った。


 リリアーナの手が強くなる。


 アルベルトが表情を変える。


 エリシアも息を呑む。


 グレイヴとクラウスは、黙って剣を構え直した。


 声は続ける。


『守れなかったんじゃない』


『助けられなかったんじゃない』


『俺は、殺した』


 赤黒い糸が震える。


 虚ろの王の欠片が、黒い玉座で静かに笑った。


『そうだ』


『それは返すな』


『名を返せば、罪も戻る』


『罪人に名は不要』


『空白であれば、裁かれぬ』


『混ざっていれば、誰の罪でもない』


 レオンは、息を呑んだ。


 この最後の名は、だから混ざっていたのか。


 他の名たちの中に紛れ、自分だけの輪郭を失っていた。


 そうすれば、罪も自分だけのものではなくなる。


 殺した記憶も、名前と一緒に薄れる。


 だが、分けられれば戻る。


 自分が誰かを殺したという記憶が。


 自分の名へ戻ってくる。


「……レイさん」


 リリアーナが震える声で呼ぶ。


「俺はここにいる」


 レオンは答える。


 だが、重い。


 この相手に、どう声をかけるべきか。


 被害者ではないかもしれない。


 救われるべき者であると同時に、誰かを傷つけた者かもしれない。


 名前を返すことは、罪をなかったことにすることではない。


 だが、名を奪われたままなら、償うこともできない。


 レオンは、ゆっくり口を開いた。


「……殺したことは、消えない」


 赤黒い糸が震える。


『なら、来るな』


「消えない」


「でも」


 一拍。


「名前を失えば、罪も消えるわけじゃない」


 声が止まる。


 レオンは続けた。


「誰の罪か分からなくなるだけだ」


「それは償いじゃない」


 赤黒い糸が激しく揺れた。


『黙れ』


『黙れ』


『俺は戻らない』


『俺は――』


 名前の手前で、声が止まる。


 言いたくないのだ。


 自分の名を。


 罪と一緒に戻る名を。


 リリアーナが、涙を浮かべながら言う。


「怖いですよね」


『……』


「自分の名前が戻ったら」


「自分がしたことも、自分のものになるから」


『黙れ』


「でも」


 リリアーナの声は震えている。


 それでも、逃げない。


「名前がないままだと」


「謝ることも」


「悔やむことも」


「誰かに向き合うことも」


「できないと思います」


 赤黒い糸が止まる。


 アルベルトが低く言った。


「罪人だから名前いらねぇってのは違うだろ」


「名前があるから、責任取れるんだろ」


 エリシアも続ける。


「目を逸らした過去がある者として言います」


「名を失えば楽になるかもしれません」


「でも、楽になることと、正しいことは違います」


 クラウスが剣を下げずに言う。


「罪を裁くのは虚ろではない」


 グレイヴが続ける。


「空白に逃げても、剣は止まらん」


「だが、名を持つなら」


「立ち直る道も、償う道もある」


 セラフィアが金色の光を赤黒い糸へ向ける。


「名は祝福だけではない」


「責任でもある」


「でも、責任を負えるのは、名を持つ者だけよ」


 赤黒い糸は、震えていた。


 怒りか。


 恐怖か。


 分からない。


 だが、先ほどよりも声の輪郭が出ている。


『俺は……』


 声が漏れる。


『命令だった』


 クラウスの目が細くなる。


『斬れって』


『危険だって』


『だから斬った』


『でも』


『子供だった』


 沈黙。


 重い。


 あまりにも重い沈黙。


 この声は、命令で子供を斬ったのかもしれない。


 虚ろに関わる危険指定者を。


 あるいは、暴走しかけた名持ちを。


 詳細はまだ分からない。


 だが、声の重さは本物だった。


 クラウスの手が、剣の柄を強く握る。


 グレイヴの表情も険しい。


 彼らにとって、それは他人事ではない。


 命令。


 危険指定。


 斬れ。


 その言葉が、何度も出てきた。


 レオンは、赤黒い糸を見た。


「お前は、命令で斬った」


『……』


「でも、後悔している」


『黙れ』


「だから、戻りたくない」


『黙れ!』


 糸が棘になって伸びる。


 レオンへ向かう。


 グレイヴが大剣で受ける。


「っ……!」


 重い。


 これまでの糸より重い。


 罪の記憶が、刃になっている。


 グレイヴの腕に黒い筋が走る。


『お前も同じだ』


『守れなかった剣』


『命令の剣』


 グレイヴは歯を食いしばる。


「そうだ」


「同じ痛みを知っている」


 一拍。


「だからこそ、逃がさん」


 大剣が光る。


 糸の棘を押し返す。


 クラウスも横から剣を入れる。


「命令で斬ったなら」


「なおさら、自分の名を持て」


「命令のせいだけにして逃げるな」


 赤黒い糸が唸る。


『うるさい』


『うるさい』


『うるさい』


 アルベルトの炎が外側の黒膜を焼く。


「うるさくても聞け!」


「戻りたくねぇって叫べるなら、まだ中にいるだろ!」


 エリシアの風が糸の暴走を流す。


「攻撃性を逸らします!」


「レオン様、今なら声が届きます!」


 リリアーナがレオンの手を握る。


「レイさん」


「行く」


「はい」


「でも、近づきすぎないで」


「分かってる」


 レオンは黒蒼雷を、赤黒い糸へ伸ばした。


 触れた瞬間。


 剣の感触。


 雨。


 血。


 泣き声。


 命令。


 小さな身体。


 自分の手の震え。


 何度も洗っても落ちない感覚。


 それが流れ込んでくる。


 レオンは歯を食いしばる。


 重い。


 これは重い。


 だが、聞く。


 全部ではなく。


 名へ繋がるものを。


 この者が、この者であった証を。


 レオンは、痛みの奥を探した。


 そして。


 ひとつの記憶を見つけた。


 剣ではない。


 命令でもない。


 小さな木札。


 そこに、下手な文字で何かが書かれている。


 誰かが贈ったもの。


 お守り。


 レオンは息を吸った。


「……木札」


 赤黒い糸が止まる。


「誰かにもらったな」


『……』


「下手な文字」


「お守り」


『……妹』


 声が、かすかに漏れた。


『妹が』


『兄ちゃん、強い騎士になるって』


『持ってけって』


 グレイヴとクラウスの表情が変わる。


 騎士。


 この者も、騎士だった。


 あるいは兵士だった。


 命令で斬った。


 その前には、妹からお守りをもらった兄だった。


 レオンは続ける。


「その木札には、何て書いてあった」


『……』


「思い出せ」


『いやだ』


「痛いか」


『痛い』


「でも、そこにお前の名がある」


 赤黒い糸が震える。


『兄ちゃん』


『帰ってきて』


『って』


 声が崩れた。


『帰れなかった』


『帰れない』


『俺は』


『俺は子供を斬った』


『妹に会えない』


『会えるわけない』


 リリアーナが泣きながら言う。


「会えるかどうかは、今ここでは分かりません」


「でも」


「妹さんが呼んだ名前まで、消さなくていいです」


 クラウスが続ける。


「罪は消えない」


「だが、妹が託した名も消すな」


 グレイヴが低く言う。


「騎士なら」


「自分の剣と、自分の名から逃げるな」


 赤黒い糸が、激しく震える。


 そして。


 ついに、声が漏れた。


『……ガ』


 レオンが集中する。


『ガレス……』


 重い名だった。


 血と雨と木札を抱えた名。


 リリアーナが、震えながら呼ぶ。


「ガレスさん」


 糸が大きく揺れる。


『俺は……ガレス』


『ガレス……』


 セラフィアが、金色の光を向ける。


「ガレス」


「あなたの名を祝うわ」


 一拍。


「そして、その名が背負うものから逃げないように」


 グレイヴが低く呼ぶ。


「ガレス」


 クラウスも。


「ガレス」


 アルベルトが。


「ガレス」


 エリシアが。


「ガレスさん」


 レオンが呼ぶ。


「ガレス」


 最後に、リリアーナが言う。


「ガレスさん」


「あなたは、ここにいます」


 赤黒い糸が、砕けるようにほどけた。


 血のような光と、木札のような淡い茶色が混ざった光が抜け出す。


 それは人の形になりかけ、すぐに崩れた。


 まだ名を保つだけで精一杯なのだ。


 それでも、虚ろの糸ではなくなった。


『ガレス……』


『俺は……』


『斬った……』


 声は泣いていた。


 許されたわけではない。


 救われたと言い切れるわけでもない。


 だが、空白ではなくなった。


 罪を持つ名前として、そこに戻った。


 セラフィアが金色の祈りで包む。


「記憶は少しずつ」


「今は、名が崩れないように」


 ガレスの光は、他の六つの光から少し離れた場所で震えていた。


 それを見て、マリの光が少し寄る。


 サナも。


 エルドも。


 ミオ、リセ、ノアも。


 完全には触れない。


 でも、離れすぎもしない。


 別々の名。


 別々の痛み。


 それでも、同じ闇の中で並んでいる。


 ガレスの光が、震えた。


『……いいのか』


 誰もすぐには答えなかった。


 簡単にいいとは言えない。


 だが、レオンは静かに言った。


「ここにいろ」


 一拍。


「逃げるな」


 ガレスの光が、小さく震えた。


『……ああ』


 太い糸は、完全にほどけた。


 七つの光が、深部の闇に浮かぶ。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 サナ。


 エルド。


 マリ。


 ガレス。


 選ばず、分けた。


 捨てず、呼んだ。


 それぞれ別々の名として。


 深部に、七つの光が戻った。


 ◇


 虚ろの王の欠片が、沈黙していた。


 黒い玉座の上で、影が揺れている。


 怒りではない。


 いや、怒りもある。


 だが、それ以上に。


 混乱。


 理解できないという揺らぎ。


 分けた。


 混ざっていたものを、分けた。


 分けたのに、孤独にしなかった。


 罪を持つ名さえ、空白に戻さなかった。


 それが、虚ろの王の欠片には理解できないのだ。


『なぜ』


 影が呟く。


『なぜ、罪ある名を残す』


『なぜ、痛む名を祝う』


『なぜ、別々にしてなお並べる』


 レオンは、荒く息を吐いた。


 かなり限界に近い。


 右腕は震えている。


 黒蒼雷も細い。


 それでも、答える。


「名前は」


 一拍。


「綺麗なものだけにつくわけじゃない」


 深部が、静まる。


「痛みも」


「後悔も」


「罪も」


「大事だったものも」


「全部持っているから、その人の名前だ」


 リリアーナが支えるように続ける。


「名前を呼ぶことは」


「全部許すことじゃありません」


「でも、無かったことにしないことです」


 セラフィアが金色の光を広げる。


「名を祝うとは」


「その存在を、空白に渡さないこと」


 虚ろの王の欠片が震える。


『存在』


『空白』


『名』


『祝福』


『我には』


 そこで、また言葉が止まった。


 我には。


 続かない。


 何がないのか。


 名か。


 祝福か。


 存在か。


 レオンは、そこに手がかりを感じた。


 虚ろの王の欠片は、名を喰い続けている。


 だが、自分の名を持っていない。


 祝福されたことがない。


 だから、名を持つ者を理解できない。


 だから、喰う。


 王と名乗ることで、自分に形を与えようとしている。


 だが、それは名ではない。


 役割だ。


 空白の上に被せた王冠だ。


 レオンが一歩前へ出ようとした瞬間。


 虚ろの王の欠片が、激しく膨れ上がった。


『黙れ』


『問うな』


『見るな』


『我を見るな』


 黒い玉座から、さらに太い闇が噴き上がる。


 七つの光が震える。


 ミリオが叫ぶ。


「七名、保護反応不安定!」


 ラウルが盾を構える。


「来るぞ!」


 グレイヴが大剣を構える。


「全員、防御!」


 虚ろの王の欠片が、初めて玉座から完全に離れた。


 巨大な影が、深部に立つ。


 王冠のようなものが、無数の名の残骸で軋んでいる。


『ならば』


『名を返す前に』


『お前たちの名を喰う』


 影の背後から、黒い波が広がった。


 糸ではない。


 深部そのものが波となって押し寄せる。


 対象は、七つの光ではない。


 レオンたち全員。


 今度は、名を持つ者そのものを喰らうつもりだった。


 リリアーナが叫ぶ。


「レイさん!!」


 レオンは、震える右手で黒蒼雷を構えた。


「俺はここにいる!!」


 七つの光が背後で震える。


 仲間たちが構える。


 虚ろの王の欠片が、ついに本体として動き出した。


 名を返す戦いは、新たな局面へ入った。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。