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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第153話「混ざり合う名、無能王子は“選べ”という罠を拒む」



 太い糸が、深部の闇の中でうねっていた。


 それは、これまでの黒い糸とは明らかに違っていた。


 ミオの糸は、雨の冷たさを抱えていた。


 リセの糸は、白い花の温度を残していた。


 ノアの糸は、木を削る音と、妹へ渡せなかった騎士人形の記憶を宿していた。


 それぞれ痛みはあった。


 恐怖もあった。


 戻りたくないという拒絶もあった。


 それでも、奥にはひとつの芯があった。


 名へ辿る道があった。


 けれど、今目の前にある太い糸は違う。


 黒い。


 重い。


 赤黒い光が内側で脈打っている。


 そして、その中から聞こえる声は一つではなかった。


『ぼくは――』


『わたしは――』


『俺は――』


『違う』


『違う』


『それは私じゃない』


『その記憶は僕じゃない』


『その名前は俺じゃない』


『でも、誰?』


『誰だった?』


『名前が』


『名前が』


『混ざる』


 いくつもの声が重なり、ねじれ、互いを否定し合いながら、また一つの苦鳴に戻っていく。


 名を喰われた者たち。


 だが、ただ喰われただけではない。


 混ぜられている。


 記憶と記憶。


 声と声。


 痛みと痛み。


 帰れなかった場所と、守れなかった約束と、忘れたい喪失と、捨てられた願い。


 それらが無理やり結び合わされ、一本の太い糸にされていた。


 虚ろの王の欠片が、黒い玉座の上で揺れる。


『返してみろ』


『名を返す者よ』


『どれが本当の名か』


『選べ』


 深部の闇が、低く震えた。


 選べ。


 その言葉が、レオンの胸へ沈む。


 太い糸の中には、いくつもの名がある。


 いくつもの記憶がある。


 その中から一つを選べば、他の名はどうなる。


 選ばれなかったものは、消えるのか。


 間違えれば、どうなる。


 違う名を呼べば、本来の輪郭は壊れるのか。


 喉が重くなる。


 黒蒼雷が、足元で細く震えた。


 レオンは、太い糸を見つめたまま動けなかった。


 壊せない。


 焼けない。


 斬れない。


 それどころか、今度は呼ぶことすら危険だった。


 名を呼ぶことが救いだった。


 ここまで、ずっとそうしてきた。


 ニル。


 リナ。


 トマ。


 ルオ。


 アリシア。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 呼べば戻った。


 呼べば、輪郭を取り戻せた。


 だが、今は。


 呼ぶ名を間違えれば、誰かを壊すかもしれない。


 呼ぶことが、刃になるかもしれない。


 その恐怖が、レオンの指先を冷たくした。


「レイさん」


 リリアーナの声がした。


 近い。


 手の温度もある。


 それでも、深部の闇はいつもより濃く感じた。


 レオンは答える。


「俺はここにいる」


 声は出た。


 だが、少し掠れていた。


 リリアーナは気づいた。


 気づいて、握る手に力を込める。


「怖いですか」


「……ああ」


 レオンは正直に答えた。


「呼ぶのが怖い」


 リリアーナの瞳が揺れる。


 レオンが、呼ぶことを怖いと言った。


 それはこの深部で、とても大きなことだった。


 リリアーナは、すぐに否定しなかった。


「はい」


「怖いですよね」


 彼女は太い糸を見る。


 声が混ざり合い、互いを否定し合っている。


 あれに名前を与えるということが、どれほど危険か。


 彼女にも分かる。


「でも」


 一拍。


「選べ、って言われてるんですよね」


「ああ」


「なら」


 リリアーナは、少しだけ眉を寄せた。


「たぶん、選んだら駄目です」


 レオンが彼女を見る。


「選ばない?」


「はい」


 リリアーナの声は震えていた。


 でも、芯があった。


「だって、虚ろの王の欠片は、わざわざ“選べ”って言いました」


「それって、選ばせたいんだと思います」


「間違えさせたい」


「一つを選ばせて、他を捨てさせたい」


 一拍。


「だから、選んじゃ駄目です」


 セラフィアの金色の瞳が、静かに細くなった。


「……そうね」


 彼女が頷く。


「名を返すことは、支配ではない」


「こちらが勝手に選んで与えるものでもない」


「名は、本人の奥から戻ってくるもの」


 エリシアも術式盤を見ながら言う。


「反応を見る限り、この糸には複数の人格残滓が絡んでいます」


「一つに見えますが、内側では分離可能な細い反応がいくつもあります」


「ただし、虚ろの膜がそれらを束ねている」


 クラウスが剣を構える。


「つまり、選ぶのではなく、分ける」


 グレイヴが低く続ける。


「ほどく戦いだな」


 アルベルトが炎剣を握り直す。


「また細かい作業かよ」


「でも、やるしかねぇな」


 ラウルが盾を構える。


「周囲の糸は俺が止める」


 ミリオも精神線を広げる。


「内側の声を拾います」


「ただ、複数が重なってるので……かなり負荷が大きいです」


 レオンは、太い糸を見る。


 選ばない。


 分ける。


 壊さず、ほどく。


 ここまで何度も繰り返してきたこと。


 でも、今までで一番難しい。


 それでも、道はある。


 リリアーナの言葉で、足元が少し戻った。


「……分ける」


 レオンが低く言う。


「一つに決めない」


「中にいる声を、一人ずつ分ける」


 虚ろの王の欠片が、低く笑った。


『分ける?』


『混ざった名を?』


『砕けた記憶を?』


『誰が誰かも分からぬものを?』


『愚か』


『名を返す者よ』


『お前は、すべてを救えると思っているのか』


 レオンは、すぐには答えなかった。


 すべて。


 その言葉が、また胸を突く。


 全部救えるのか。


 全部返せるのか。


 ミオ、リセ、ノアを返した。


 だが、それだけだ。


 深部には無数の糸がある。


 この太い糸だけでも複数の名が混ざっている。


 すべてを救うなど、軽く言えない。


 だから、レオンは違う答えを選んだ。


「全部救えるとは言わない」


 深部が、少し静かになった。


 リリアーナも、仲間たちも、レオンを見る。


 彼は続けた。


「でも」


「今、目の前にいる者を、選んで捨てることはしない」


 一拍。


「一人ずつ分ける」


「間違えたら、戻す」


「壊しそうなら止まる」


「急がない」


 黒蒼雷が、静かに鳴った。


「それでも、奪われたままにはしない」


 虚ろの王の欠片が、黒い玉座の上で揺れた。


『遅い』


『間に合わない』


『遅れたものは喰われる』


『お前が迷う間にも、名は沈む』


 アルベルトが炎剣を肩に担ぐ。


「焦らせんなよ」


「こっちは急いだら壊すって分かってんだ」


 エリシアが頷く。


「急がないことも、作戦です」


 クラウスが剣を上げる。


「焦りは虚ろの糸を強める」


 グレイヴが大剣を構える。


「なら、こちらは踏み止まる」


 セラフィアが金色の祈りを広げる。


「名は、急がせて戻すものではないわ」


 リリアーナが、レオンの隣で言う。


「呼ばれる準備ができるまで、待ちます」


「でも、待ってる間も声はかけます」


 レオンは頷いた。


「ああ」


 そして、太い糸へ向かって黒蒼雷を伸ばした。


 ◇


 触れた瞬間、世界が割れた。


 いや。


 割れたように感じた。


 レオンの視界へ、いくつもの景色が同時に流れ込む。


 狭い台所。


 赤い夕焼け。


 血のついた布。


 小さな手。


 王都の鐘。


 瓦礫の下。


 白い神殿の床。


 誰かの背中。


 泣いている少女。


 怒鳴る男の声。


 子供の笑い声。


 水の音。


 火の匂い。


 薬草の苦み。


 壊れた靴。


 古い手紙。


 それらが、順番もなく、意味もなく、同時に押し寄せた。


「……っ!」


 レオンの膝が揺れる。


 リリアーナが支える。


「レイさん!」


「……多い」


 レオンは約束通り言った。


「聞こえすぎてる」


 リリアーナはすぐに頷く。


「はい!」


「戻ってください!」


「今は全部聞かなくていいです!」


 その声が、レオンの胸へ届く。


 彼は息を吐く。


「俺はここにいる」


「はい!」


「ここにいます!」


 セラフィアが金色の光を黒蒼雷へ沿わせる。


「レオン、奥へ入りすぎないで」


「あなたは糸をほどく入口を探すだけ」


「全記憶を受け止めては駄目」


 エリシアが術式盤を広げる。


「反応を分割します!」


「内側に、少なくとも三つ……いえ、四つの強い残滓!」


「もっと細かいものもありますが、まず大きい四つを分けるべきです!」


 アルベルトが舌打ちする。


「一本に四人以上混ざってるってことかよ」


 クラウスが剣を構える。


「虚ろの膜を束ねている節があるはずだ」


「そこを壊さず外す」


 グレイヴが前へ出る。


「周囲から来る糸は俺が受ける」


「レオンとエリシアは解析に集中しろ」


 ラウルが盾を広げる。


「後方の名を守る!」


「ミオ、リセ、ノアを近づけさせない!」


 ミリオが叫ぶ。


「三つの光、安定維持!」


「ただ、太い糸の叫びに反応して震えています!」


 リリアーナがすぐに後方へ呼びかける。


「ミオくん!」


「リセちゃん!」


「ノアさん!」


「大丈夫です!」


「ここにいます!」


 三つの光が震える。


『ミオ……』


『リセ……』


『ノア……』


 返事がある。


 その返事が、またレオンの足場になる。


 レオンは、太い糸の中から、一番手前の声を探した。


 痛みではない。


 強い叫びではない。


 大事だったもの。


 その人をその人に繋げる温度。


 混ざり合う景色の中で、レオンはひとつの感覚を拾った。


 薬草の匂い。


 苦い。


 でも、温かい。


 小さな手が、誰かの額へ濡れ布を置く。


 眠れない夜。


 看病。


 祈る声。


 レオンは呟いた。


「……薬草」


 リリアーナが聞く。


「薬草?」


「ああ」


「誰かを看病してる」


「小さい手」


「たぶん、子供じゃない」


「若い……女の人か」


 糸が激しく震える。


『違う』


『違う』


『それは私』


『でも、私じゃない』


『看病』


『熱』


『弟』


『弟じゃない』


『子供』


『違う』


 声が混ざる。


 エリシアが術式盤を操作する。


「薬草の記憶反応を分離します!」


「他の記憶が混ざり込んでいます!」


「アルベルト様、左側の黒膜を弱く焼いて!」


「了解!」


 アルベルトの炎が細く走る。


「外側だけ!」


「記憶の芯は残れ!」


 クラウスの剣が虚ろの節を弾く。


「ここか」


「いや、違う」


「二層目だ」


 グレイヴが迫る糸の束を受け止める。


 深部全体が震える。


 虚ろの王の欠片が囁く。


『混ざれ』


『分かれるな』


『個は痛み』


『混ざれば薄れる』


『誰でもなくなれば、苦しまない』


 レオンは、薬草の匂いへ黒蒼雷を添える。


「聞こえるか」


『……』


 返事はない。


 ただ、苦い匂いが強くなる。


 リリアーナが優しく呼ぶ。


「誰かを看病していたんですね」


「その人、大事だったんですね」


 糸が震える。


『熱』


『下がらない』


『水』


『布』


『薬、苦い』


 レオンが言う。


「薬を作ったのか」


『……作った』


『習った』


『母から』


 声が少しだけ鮮明になる。


 女の声だ。


 若い。


 だが、疲れている。


『弟……』


『いや』


『弟じゃない』


『弟のような子』


『孤児』


『小さい子』


 リリアーナの目が揺れる。


「その子を助けたかったんですね」


『うん』


『助けたかった』


『でも……』


 黒い膜が強くなる。


『間に合わなかった』


『薬、足りなかった』


『熱、下がらなかった』


『名前、呼んだのに』


『返事、なくなった』


 深部の闇が、重く沈む。


 リリアーナの喉が震える。


 介抱した相手を助けられなかった記憶。


 名前を呼んでも返事がなくなった記憶。


 それは、この場のテーマにあまりにも深く刺さる。


 虚ろの王の欠片が囁く。


『呼んでも戻らぬ』


『名を呼んでも死は返らぬ』


『ならば名に意味はない』


 レオンは、歯を食いしばる。


 呼んでも戻らないことがある。


 それは事実だ。


 名前を呼べばすべてが救えるわけではない。


 だからこそ、この声は重い。


 リリアーナも泣きそうになっている。


 彼女は何度もレオンを呼んできた。


 呼べば戻ると信じて。


 だが、呼んでも戻らない痛みもある。


 それを突きつけられた。


 レオンは、沈黙した。


 沈黙は怖い。


 だが、すぐに軽い言葉で埋めてはいけない気がした。


 看病していた彼女の痛みは、本物だ。


 助けられなかった事実も、本物だ。


 だから、レオンは否定しなかった。


「……戻らないこともある」


 糸が震える。


 リリアーナがレオンを見る。


 レオンは続ける。


「呼んでも」


「返事がないことはある」


「名前を呼んでも」


「助けられないこともある」


 虚ろの王の欠片が、低く笑う。


『ならば認めた』


『名は無力』


 レオンは、顔を上げた。


「違う」


 黒蒼雷が静かに鳴る。


「無力じゃない」


「全部を救えるわけじゃないだけだ」


 一拍。


「名前を呼んだことが、無意味になるわけじゃない」


 リリアーナが、涙を浮かべながら頷く。


「はい」


「返事がなくても」


「呼んだ声は、きっとその人へ向いていたものです」


「助けたかった気持ちまで、虚ろに渡さなくていいです」


 糸の奥から、嗚咽が聞こえた。


『助けたかった』


「はい」


『呼んだ』


「はい」


『返事、なかった』


「……はい」


『でも、呼んだ』


「はい」


 リリアーナの声も震えている。


 でも、逃げない。


 セラフィアの金色の祈りが、その糸へ優しく触れる。


「呼ぶことは、支配ではない」


「戻らない者へ向けた祈りでもある」


「あなたは、その子を大事にした」


「それは、消さなくていい」


 糸の黒い膜が、少し剥がれた。


 薬草の匂いが強くなる。


 その奥から、名前の輪郭が見えかける。


 レオンが静かに問う。


「お前の名前は」


 糸が震える。


『……サ』


「サ?」


『サナ……』


 リリアーナが呼ぶ。


「サナさん」


 糸が大きく震えた。


『サナ』


『私……サナ』


 セラフィアが金色の光を広げる。


「サナ」


「あなたの名を祝うわ」


 アルベルトが短く呼ぶ。


「サナ」


 エリシアが続く。


「サナさん」


 クラウスも。


「サナ」


 グレイヴも。


「サナ」


 レオンが呼ぶ。


「サナ」


 最後に、リリアーナが優しく呼んだ。


「サナさん」


「あなたは、ちゃんと呼んでいました」


 その瞬間、太い糸の一部がほどけた。


 薬草の緑がかった光が抜け出し、ひとつの小さな光になる。


 それは、ミオ、リセ、ノアの近くへ寄った。


『サナ……』


『呼んだ……』


『助けたかった……』


 声は泣いている。


 だが、名を取り戻した声だった。


 ◇


 しかし、太い糸はまだ残っていた。


 むしろ、サナが抜けたことで、残りの声がさらに激しく暴れ始める。


『違う』


『私じゃない』


『俺が残った』


『ぼくは誰』


『分けるな』


『一人にするな』


『混ざっていれば痛くない』


『一人に戻れば痛い』


 太い糸の内側で、残された名たちが混乱している。


 サナが抜けたことで、束ねられていたバランスが崩れたのだ。


 エリシアが叫ぶ。


「太い糸、構造不安定!」


「残りの人格残滓が暴走します!」


 アルベルトが炎を構える。


「焼くか!?」


「焼かない!」


 レオンが即座に叫ぶ。


「まだ中にいる!」


「分かってる!」


 アルベルトは歯を食いしばり、炎を抑える。


 クラウスが剣を走らせる。


「絡みが逆流している!」


「分離した穴を虚ろが埋めようとしているぞ!」


 グレイヴが大剣で糸の束を押さえる。


「セラフィア!」


「保護を!」


「今やっているわ!」


 セラフィアの金色の光が、サナを守りつつ、太い糸の裂け目へ入り込む。


「レオン!」


「次を急いでは駄目!」


「でも、放置も危険!」


 レオンは歯を食いしばる。


 急がない。


 でも止まれない。


 この矛盾。


 深部での戦いは、ずっとこれだ。


 急げば壊す。


 止まれば喰われる。


 だから、ゆっくり進み続けるしかない。


 リリアーナが言う。


「次の声を探しましょう」


「でも、痛みじゃなく」


「また、大事だったものを」


 レオンは頷く。


「分かってる」


 太い糸の残りへ、黒蒼雷を細く伸ばす。


 今度は、別の温度を探る。


 薬草の匂いはサナと共に抜けた。


 残る記憶の中で、次に強く残っているもの。


 レオンは、耳を澄ますように意識を伸ばす。


 そして。


 鐘の音を聞いた。


 遠い鐘。


 王都の鐘ではない。


 もっと小さい。


 手で鳴らす小さな鐘。


 チリン。


 チリン。


 誰かを呼ぶ音。


 店先。


 木の扉。


 焼き菓子の匂い。


 レオンは目を細める。


「……鐘」


 リリアーナが聞く。


「鐘?」


「小さい鐘」


「店の扉についてる」


「焼き菓子の匂いがする」


 エリシアが術式盤を見る。


「商店記憶反応」


「生活系の残滓です」


 アルベルトが少しだけ表情を変える。


「焼き菓子か……」


 場違いなほど、温かい記憶だった。


 だが、その温かさが逆に痛い。


 太い糸の中から、かすかな声がした。


『いらっしゃい』


 若い男の声。


 明るくしようとしている声。


『今日も、焼けてるよ』


『焦げてない』


『本当だって』


 誰かが笑う気配。


 レオンは、その声へ黒蒼雷を添える。


「店をやっていたのか」


『……』


「焼き菓子」


『……失敗した』


「焦がしたのか」


『よく』


 声が少しだけ揺れる。


『でも、妹が笑った』


 ノアの光が、微かに反応した。


 妹。


 だが、ノアとは別の記憶だ。


 太い糸の中に残る別の名。


『客、少ない』


『でも、来た』


『子供』


『鐘、鳴る』


『チリンって』


 リリアーナが、柔らかく言う。


「その音、好きだったんですね」


『うん』


『来たって分かる』


『誰かが、来たって』


 その言葉に、レオンの胸が少し痛む。


 誰かが来る音。


 東の塔では、足音が来ても、返事はなかった。


 でもこの人にとって、鐘は誰かが来た合図だった。


 嬉しい音だった。


『でも』


 声が沈む。


『鳴らなくなった』


 黒い膜が濃くなる。


『店、壊れた』


『鐘、落ちた』


『誰も来ない』


『焼き菓子、冷めた』


『待った』


『待った』


『誰も』


 レオンは、息を吐く。


 また、待つ記憶。


 ミオも待っていた。


 この声も待っていた。


 虚ろには、待ったまま終わった者たちが多すぎる。


 リリアーナが優しく呼ぶ。


「誰かが来る音を、覚えていたんですね」


『……』


「その鐘の音」


「あなたにとって、大事だったんですね」


『チリン』


 声が小さく鳴らす。


『来たよって』


『聞こえる』


「はい」


「今、聞こえています」


 レオンが続ける。


「お前は、誰かが来るのを待っていた」


「店で」


「焼き菓子を焼いて」


「鐘の音を聞いていた」


 一拍。


「名前を聞かせてくれ」


 太い糸が激しく震える。


『名前』


『店』


『鐘』


『焼き菓子』


『焦げた』


『笑った』


『俺は……』


 虚ろの王の欠片が、低く割り込む。


『思い出すな』


『店は壊れた』


『客は来ない』


『鐘は鳴らぬ』


『名を持つ意味はない』


 アルベルトが叫ぶ。


「うるせぇな!」


「今鳴ってんだろ!」


 深部に、紅炎が走る。


 黒い膜だけを焼き払う。


「チリンって!」


「俺たちに聞こえてんだよ!」


 エリシアが風を添える。


「記憶反応、安定!」


「鐘の音を固定します!」


 セラフィアが金色の光を送る。


「来訪の記憶」


「迎える声」


「それを名へ繋げて」


 リリアーナが呼ぶ。


「あなたのお店に」


「今、わたしたちが来ています」


 その言葉に、糸の奥が大きく震えた。


『来た……?』


「はい」


「聞こえています」


「焼き菓子の匂いも」


「鐘の音も」


「あなたの声も」


 長い沈黙。


 その間にも黒い糸は暴れる。


 だが、全員が支えた。


 待った。


 急がなかった。


 やがて。


 声が聞こえた。


『……エル』


 レオンが集中する。


『エルド』


 リリアーナが呼ぶ。


「エルドさん」


 糸が震える。


『俺……エルド』


『店……』


『鐘……』


 レオンが頷く。


「エルド」


 セラフィアが祈る。


「エルド」


「あなたの名を祝うわ」


 仲間たちも名を重ねる。


「エルド」


「エルド」


「エルド」


 黒い糸の一部がまたほどけた。


 焼き菓子の温かな香りを帯びた橙色の光が、太い糸から抜け出す。


 光は、小さな鐘の形を一瞬だけ取り。


 チリン、と音のない音を響かせた。


 そして、ミオ、リセ、ノア、サナのそばへ寄り添った。


『エルド……』


『いらっしゃい……』


 その声は泣いていた。


 だが、どこか笑ってもいた。


 リリアーナの頬に涙が伝う。


「……よかった」


 レオンは息を吐く。


 これで五つ。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 サナ。


 エルド。


 深部の闇に、五つの光が灯った。


 ◇


 だが、太い糸はまだ終わらない。


 残りが暴れる。


 サナとエルドが抜けたことで、束はさらに不安定になった。


 中に残る声が、怯え始めている。


『一人になる』


『分けないで』


『混ざってれば、消えない』


『一人になったら、痛い』


『名前が戻る』


『怖い』


 レオンは、そこで気づいた。


 この太い糸は、ただ虚ろが混ぜたものではない。


 中の名たち自身も、混ざっていることにしがみついている。


 一人に戻るのが怖いのだ。


 個に戻れば、自分の痛みがはっきりする。


 自分の喪失が戻る。


 自分の罪や後悔も戻る。


 だから、誰でもないままの方が楽。


 混ざっていれば、自分だけの痛みにならない。


 虚ろの王の欠片は、その恐怖を利用している。


 レオンの胸が重くなる。


「……リリアーナ」


「はい」


「残っている声は」


 一拍。


「分けられるのが怖いんだ」


 リリアーナは頷いた。


「はい」


「一人になったら、痛みが自分のものになるから」


「でも」


 彼女は五つの光を見た。


「ミオくんも、リセちゃんも、ノアさんも、サナさんも、エルドさんも」


「一人に戻っても、今は一人じゃありません」


「名前は別々だけど」


「ここに一緒にいます」


 セラフィアが柔らかく言う。


「そうね」


「名を分けることは、孤独へ戻すことではない」


「それぞれの名で、並ぶこと」


 レオンは、太い糸へ向き直った。


 虚ろの王の欠片が、沈黙している。


 いや。


 聞いている。


 このやり取りを。


 名を持つこと。


 個に戻ること。


 それでも一人ではないということ。


 それが、虚ろの王の欠片にとって最も理解できないものなのかもしれない。


 影が、低く問う。


『別々になれば、失う』


『別々になれば、比べる』


『別々になれば、選ばれぬ』


『混ざれば、すべて曖昧』


『なぜ、分ける』


 レオンは答えた。


「曖昧なままでは、呼べない」


 一拍。


「呼べなければ、戻れない」


 リリアーナも続ける。


「別々だから、名前を呼べます」


「別々だから、隣に並べます」


 セラフィアが金色の光を広げる。


「違う名が並ぶことを、祝福と呼ぶの」


 虚ろの王の欠片が、激しく揺れた。


『祝福』


『祝福』


『祝福など』


『我にはない』


 その声は、初めて。


 ほんの少しだけ、悲鳴に近かった。


 レオンは、影を見る。


 今の言葉。


 我にはない。


 そこに、何かがあった。


 虚ろの王の欠片にも、名がないことへの痛みがある。


 祝福されなかったことへの飢えがある。


 レオンは、それに気づいた。


 だが、今は踏み込めない。


 目の前の太い糸が、まだ壊れそうになっている。


 まずは、残る声を分けなければならない。


 レオンは黒蒼雷を構え直す。


「続ける」


 リリアーナが頷く。


「はい」


 エリシアが術式盤を見る。


「残存強反応、あと二つ」


「ただし、かなり絡みが深いです」


 クラウスが剣を上げる。


「なら、さらに慎重にいく」


 アルベルトが炎を小さく灯す。


「外だけ焼く」


 グレイヴが大剣を構える。


「守る」


 セラフィアが祈る。


「名を祝う準備はできているわ」


 レオンは、五つの光を背に、太い糸の残りへ向かう。


 選ばない。


 捨てない。


 分ける。


 呼ぶ。


 戻す。


 深部の闇は、さらに重くなっていく。


 だが、光も増えていた。


 五つの名が、レオンたちの足元を照らしていた。

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