第153話「混ざり合う名、無能王子は“選べ”という罠を拒む」
太い糸が、深部の闇の中でうねっていた。
それは、これまでの黒い糸とは明らかに違っていた。
ミオの糸は、雨の冷たさを抱えていた。
リセの糸は、白い花の温度を残していた。
ノアの糸は、木を削る音と、妹へ渡せなかった騎士人形の記憶を宿していた。
それぞれ痛みはあった。
恐怖もあった。
戻りたくないという拒絶もあった。
それでも、奥にはひとつの芯があった。
名へ辿る道があった。
けれど、今目の前にある太い糸は違う。
黒い。
重い。
赤黒い光が内側で脈打っている。
そして、その中から聞こえる声は一つではなかった。
『ぼくは――』
『わたしは――』
『俺は――』
『違う』
『違う』
『それは私じゃない』
『その記憶は僕じゃない』
『その名前は俺じゃない』
『でも、誰?』
『誰だった?』
『名前が』
『名前が』
『混ざる』
いくつもの声が重なり、ねじれ、互いを否定し合いながら、また一つの苦鳴に戻っていく。
名を喰われた者たち。
だが、ただ喰われただけではない。
混ぜられている。
記憶と記憶。
声と声。
痛みと痛み。
帰れなかった場所と、守れなかった約束と、忘れたい喪失と、捨てられた願い。
それらが無理やり結び合わされ、一本の太い糸にされていた。
虚ろの王の欠片が、黒い玉座の上で揺れる。
『返してみろ』
『名を返す者よ』
『どれが本当の名か』
『選べ』
深部の闇が、低く震えた。
選べ。
その言葉が、レオンの胸へ沈む。
太い糸の中には、いくつもの名がある。
いくつもの記憶がある。
その中から一つを選べば、他の名はどうなる。
選ばれなかったものは、消えるのか。
間違えれば、どうなる。
違う名を呼べば、本来の輪郭は壊れるのか。
喉が重くなる。
黒蒼雷が、足元で細く震えた。
レオンは、太い糸を見つめたまま動けなかった。
壊せない。
焼けない。
斬れない。
それどころか、今度は呼ぶことすら危険だった。
名を呼ぶことが救いだった。
ここまで、ずっとそうしてきた。
ニル。
リナ。
トマ。
ルオ。
アリシア。
ミオ。
リセ。
ノア。
呼べば戻った。
呼べば、輪郭を取り戻せた。
だが、今は。
呼ぶ名を間違えれば、誰かを壊すかもしれない。
呼ぶことが、刃になるかもしれない。
その恐怖が、レオンの指先を冷たくした。
「レイさん」
リリアーナの声がした。
近い。
手の温度もある。
それでも、深部の闇はいつもより濃く感じた。
レオンは答える。
「俺はここにいる」
声は出た。
だが、少し掠れていた。
リリアーナは気づいた。
気づいて、握る手に力を込める。
「怖いですか」
「……ああ」
レオンは正直に答えた。
「呼ぶのが怖い」
リリアーナの瞳が揺れる。
レオンが、呼ぶことを怖いと言った。
それはこの深部で、とても大きなことだった。
リリアーナは、すぐに否定しなかった。
「はい」
「怖いですよね」
彼女は太い糸を見る。
声が混ざり合い、互いを否定し合っている。
あれに名前を与えるということが、どれほど危険か。
彼女にも分かる。
「でも」
一拍。
「選べ、って言われてるんですよね」
「ああ」
「なら」
リリアーナは、少しだけ眉を寄せた。
「たぶん、選んだら駄目です」
レオンが彼女を見る。
「選ばない?」
「はい」
リリアーナの声は震えていた。
でも、芯があった。
「だって、虚ろの王の欠片は、わざわざ“選べ”って言いました」
「それって、選ばせたいんだと思います」
「間違えさせたい」
「一つを選ばせて、他を捨てさせたい」
一拍。
「だから、選んじゃ駄目です」
セラフィアの金色の瞳が、静かに細くなった。
「……そうね」
彼女が頷く。
「名を返すことは、支配ではない」
「こちらが勝手に選んで与えるものでもない」
「名は、本人の奥から戻ってくるもの」
エリシアも術式盤を見ながら言う。
「反応を見る限り、この糸には複数の人格残滓が絡んでいます」
「一つに見えますが、内側では分離可能な細い反応がいくつもあります」
「ただし、虚ろの膜がそれらを束ねている」
クラウスが剣を構える。
「つまり、選ぶのではなく、分ける」
グレイヴが低く続ける。
「ほどく戦いだな」
アルベルトが炎剣を握り直す。
「また細かい作業かよ」
「でも、やるしかねぇな」
ラウルが盾を構える。
「周囲の糸は俺が止める」
ミリオも精神線を広げる。
「内側の声を拾います」
「ただ、複数が重なってるので……かなり負荷が大きいです」
レオンは、太い糸を見る。
選ばない。
分ける。
壊さず、ほどく。
ここまで何度も繰り返してきたこと。
でも、今までで一番難しい。
それでも、道はある。
リリアーナの言葉で、足元が少し戻った。
「……分ける」
レオンが低く言う。
「一つに決めない」
「中にいる声を、一人ずつ分ける」
虚ろの王の欠片が、低く笑った。
『分ける?』
『混ざった名を?』
『砕けた記憶を?』
『誰が誰かも分からぬものを?』
『愚か』
『名を返す者よ』
『お前は、すべてを救えると思っているのか』
レオンは、すぐには答えなかった。
すべて。
その言葉が、また胸を突く。
全部救えるのか。
全部返せるのか。
ミオ、リセ、ノアを返した。
だが、それだけだ。
深部には無数の糸がある。
この太い糸だけでも複数の名が混ざっている。
すべてを救うなど、軽く言えない。
だから、レオンは違う答えを選んだ。
「全部救えるとは言わない」
深部が、少し静かになった。
リリアーナも、仲間たちも、レオンを見る。
彼は続けた。
「でも」
「今、目の前にいる者を、選んで捨てることはしない」
一拍。
「一人ずつ分ける」
「間違えたら、戻す」
「壊しそうなら止まる」
「急がない」
黒蒼雷が、静かに鳴った。
「それでも、奪われたままにはしない」
虚ろの王の欠片が、黒い玉座の上で揺れた。
『遅い』
『間に合わない』
『遅れたものは喰われる』
『お前が迷う間にも、名は沈む』
アルベルトが炎剣を肩に担ぐ。
「焦らせんなよ」
「こっちは急いだら壊すって分かってんだ」
エリシアが頷く。
「急がないことも、作戦です」
クラウスが剣を上げる。
「焦りは虚ろの糸を強める」
グレイヴが大剣を構える。
「なら、こちらは踏み止まる」
セラフィアが金色の祈りを広げる。
「名は、急がせて戻すものではないわ」
リリアーナが、レオンの隣で言う。
「呼ばれる準備ができるまで、待ちます」
「でも、待ってる間も声はかけます」
レオンは頷いた。
「ああ」
そして、太い糸へ向かって黒蒼雷を伸ばした。
◇
触れた瞬間、世界が割れた。
いや。
割れたように感じた。
レオンの視界へ、いくつもの景色が同時に流れ込む。
狭い台所。
赤い夕焼け。
血のついた布。
小さな手。
王都の鐘。
瓦礫の下。
白い神殿の床。
誰かの背中。
泣いている少女。
怒鳴る男の声。
子供の笑い声。
水の音。
火の匂い。
薬草の苦み。
壊れた靴。
古い手紙。
それらが、順番もなく、意味もなく、同時に押し寄せた。
「……っ!」
レオンの膝が揺れる。
リリアーナが支える。
「レイさん!」
「……多い」
レオンは約束通り言った。
「聞こえすぎてる」
リリアーナはすぐに頷く。
「はい!」
「戻ってください!」
「今は全部聞かなくていいです!」
その声が、レオンの胸へ届く。
彼は息を吐く。
「俺はここにいる」
「はい!」
「ここにいます!」
セラフィアが金色の光を黒蒼雷へ沿わせる。
「レオン、奥へ入りすぎないで」
「あなたは糸をほどく入口を探すだけ」
「全記憶を受け止めては駄目」
エリシアが術式盤を広げる。
「反応を分割します!」
「内側に、少なくとも三つ……いえ、四つの強い残滓!」
「もっと細かいものもありますが、まず大きい四つを分けるべきです!」
アルベルトが舌打ちする。
「一本に四人以上混ざってるってことかよ」
クラウスが剣を構える。
「虚ろの膜を束ねている節があるはずだ」
「そこを壊さず外す」
グレイヴが前へ出る。
「周囲から来る糸は俺が受ける」
「レオンとエリシアは解析に集中しろ」
ラウルが盾を広げる。
「後方の名を守る!」
「ミオ、リセ、ノアを近づけさせない!」
ミリオが叫ぶ。
「三つの光、安定維持!」
「ただ、太い糸の叫びに反応して震えています!」
リリアーナがすぐに後方へ呼びかける。
「ミオくん!」
「リセちゃん!」
「ノアさん!」
「大丈夫です!」
「ここにいます!」
三つの光が震える。
『ミオ……』
『リセ……』
『ノア……』
返事がある。
その返事が、またレオンの足場になる。
レオンは、太い糸の中から、一番手前の声を探した。
痛みではない。
強い叫びではない。
大事だったもの。
その人をその人に繋げる温度。
混ざり合う景色の中で、レオンはひとつの感覚を拾った。
薬草の匂い。
苦い。
でも、温かい。
小さな手が、誰かの額へ濡れ布を置く。
眠れない夜。
看病。
祈る声。
レオンは呟いた。
「……薬草」
リリアーナが聞く。
「薬草?」
「ああ」
「誰かを看病してる」
「小さい手」
「たぶん、子供じゃない」
「若い……女の人か」
糸が激しく震える。
『違う』
『違う』
『それは私』
『でも、私じゃない』
『看病』
『熱』
『弟』
『弟じゃない』
『子供』
『違う』
声が混ざる。
エリシアが術式盤を操作する。
「薬草の記憶反応を分離します!」
「他の記憶が混ざり込んでいます!」
「アルベルト様、左側の黒膜を弱く焼いて!」
「了解!」
アルベルトの炎が細く走る。
「外側だけ!」
「記憶の芯は残れ!」
クラウスの剣が虚ろの節を弾く。
「ここか」
「いや、違う」
「二層目だ」
グレイヴが迫る糸の束を受け止める。
深部全体が震える。
虚ろの王の欠片が囁く。
『混ざれ』
『分かれるな』
『個は痛み』
『混ざれば薄れる』
『誰でもなくなれば、苦しまない』
レオンは、薬草の匂いへ黒蒼雷を添える。
「聞こえるか」
『……』
返事はない。
ただ、苦い匂いが強くなる。
リリアーナが優しく呼ぶ。
「誰かを看病していたんですね」
「その人、大事だったんですね」
糸が震える。
『熱』
『下がらない』
『水』
『布』
『薬、苦い』
レオンが言う。
「薬を作ったのか」
『……作った』
『習った』
『母から』
声が少しだけ鮮明になる。
女の声だ。
若い。
だが、疲れている。
『弟……』
『いや』
『弟じゃない』
『弟のような子』
『孤児』
『小さい子』
リリアーナの目が揺れる。
「その子を助けたかったんですね」
『うん』
『助けたかった』
『でも……』
黒い膜が強くなる。
『間に合わなかった』
『薬、足りなかった』
『熱、下がらなかった』
『名前、呼んだのに』
『返事、なくなった』
深部の闇が、重く沈む。
リリアーナの喉が震える。
介抱した相手を助けられなかった記憶。
名前を呼んでも返事がなくなった記憶。
それは、この場のテーマにあまりにも深く刺さる。
虚ろの王の欠片が囁く。
『呼んでも戻らぬ』
『名を呼んでも死は返らぬ』
『ならば名に意味はない』
レオンは、歯を食いしばる。
呼んでも戻らないことがある。
それは事実だ。
名前を呼べばすべてが救えるわけではない。
だからこそ、この声は重い。
リリアーナも泣きそうになっている。
彼女は何度もレオンを呼んできた。
呼べば戻ると信じて。
だが、呼んでも戻らない痛みもある。
それを突きつけられた。
レオンは、沈黙した。
沈黙は怖い。
だが、すぐに軽い言葉で埋めてはいけない気がした。
看病していた彼女の痛みは、本物だ。
助けられなかった事実も、本物だ。
だから、レオンは否定しなかった。
「……戻らないこともある」
糸が震える。
リリアーナがレオンを見る。
レオンは続ける。
「呼んでも」
「返事がないことはある」
「名前を呼んでも」
「助けられないこともある」
虚ろの王の欠片が、低く笑う。
『ならば認めた』
『名は無力』
レオンは、顔を上げた。
「違う」
黒蒼雷が静かに鳴る。
「無力じゃない」
「全部を救えるわけじゃないだけだ」
一拍。
「名前を呼んだことが、無意味になるわけじゃない」
リリアーナが、涙を浮かべながら頷く。
「はい」
「返事がなくても」
「呼んだ声は、きっとその人へ向いていたものです」
「助けたかった気持ちまで、虚ろに渡さなくていいです」
糸の奥から、嗚咽が聞こえた。
『助けたかった』
「はい」
『呼んだ』
「はい」
『返事、なかった』
「……はい」
『でも、呼んだ』
「はい」
リリアーナの声も震えている。
でも、逃げない。
セラフィアの金色の祈りが、その糸へ優しく触れる。
「呼ぶことは、支配ではない」
「戻らない者へ向けた祈りでもある」
「あなたは、その子を大事にした」
「それは、消さなくていい」
糸の黒い膜が、少し剥がれた。
薬草の匂いが強くなる。
その奥から、名前の輪郭が見えかける。
レオンが静かに問う。
「お前の名前は」
糸が震える。
『……サ』
「サ?」
『サナ……』
リリアーナが呼ぶ。
「サナさん」
糸が大きく震えた。
『サナ』
『私……サナ』
セラフィアが金色の光を広げる。
「サナ」
「あなたの名を祝うわ」
アルベルトが短く呼ぶ。
「サナ」
エリシアが続く。
「サナさん」
クラウスも。
「サナ」
グレイヴも。
「サナ」
レオンが呼ぶ。
「サナ」
最後に、リリアーナが優しく呼んだ。
「サナさん」
「あなたは、ちゃんと呼んでいました」
その瞬間、太い糸の一部がほどけた。
薬草の緑がかった光が抜け出し、ひとつの小さな光になる。
それは、ミオ、リセ、ノアの近くへ寄った。
『サナ……』
『呼んだ……』
『助けたかった……』
声は泣いている。
だが、名を取り戻した声だった。
◇
しかし、太い糸はまだ残っていた。
むしろ、サナが抜けたことで、残りの声がさらに激しく暴れ始める。
『違う』
『私じゃない』
『俺が残った』
『ぼくは誰』
『分けるな』
『一人にするな』
『混ざっていれば痛くない』
『一人に戻れば痛い』
太い糸の内側で、残された名たちが混乱している。
サナが抜けたことで、束ねられていたバランスが崩れたのだ。
エリシアが叫ぶ。
「太い糸、構造不安定!」
「残りの人格残滓が暴走します!」
アルベルトが炎を構える。
「焼くか!?」
「焼かない!」
レオンが即座に叫ぶ。
「まだ中にいる!」
「分かってる!」
アルベルトは歯を食いしばり、炎を抑える。
クラウスが剣を走らせる。
「絡みが逆流している!」
「分離した穴を虚ろが埋めようとしているぞ!」
グレイヴが大剣で糸の束を押さえる。
「セラフィア!」
「保護を!」
「今やっているわ!」
セラフィアの金色の光が、サナを守りつつ、太い糸の裂け目へ入り込む。
「レオン!」
「次を急いでは駄目!」
「でも、放置も危険!」
レオンは歯を食いしばる。
急がない。
でも止まれない。
この矛盾。
深部での戦いは、ずっとこれだ。
急げば壊す。
止まれば喰われる。
だから、ゆっくり進み続けるしかない。
リリアーナが言う。
「次の声を探しましょう」
「でも、痛みじゃなく」
「また、大事だったものを」
レオンは頷く。
「分かってる」
太い糸の残りへ、黒蒼雷を細く伸ばす。
今度は、別の温度を探る。
薬草の匂いはサナと共に抜けた。
残る記憶の中で、次に強く残っているもの。
レオンは、耳を澄ますように意識を伸ばす。
そして。
鐘の音を聞いた。
遠い鐘。
王都の鐘ではない。
もっと小さい。
手で鳴らす小さな鐘。
チリン。
チリン。
誰かを呼ぶ音。
店先。
木の扉。
焼き菓子の匂い。
レオンは目を細める。
「……鐘」
リリアーナが聞く。
「鐘?」
「小さい鐘」
「店の扉についてる」
「焼き菓子の匂いがする」
エリシアが術式盤を見る。
「商店記憶反応」
「生活系の残滓です」
アルベルトが少しだけ表情を変える。
「焼き菓子か……」
場違いなほど、温かい記憶だった。
だが、その温かさが逆に痛い。
太い糸の中から、かすかな声がした。
『いらっしゃい』
若い男の声。
明るくしようとしている声。
『今日も、焼けてるよ』
『焦げてない』
『本当だって』
誰かが笑う気配。
レオンは、その声へ黒蒼雷を添える。
「店をやっていたのか」
『……』
「焼き菓子」
『……失敗した』
「焦がしたのか」
『よく』
声が少しだけ揺れる。
『でも、妹が笑った』
ノアの光が、微かに反応した。
妹。
だが、ノアとは別の記憶だ。
太い糸の中に残る別の名。
『客、少ない』
『でも、来た』
『子供』
『鐘、鳴る』
『チリンって』
リリアーナが、柔らかく言う。
「その音、好きだったんですね」
『うん』
『来たって分かる』
『誰かが、来たって』
その言葉に、レオンの胸が少し痛む。
誰かが来る音。
東の塔では、足音が来ても、返事はなかった。
でもこの人にとって、鐘は誰かが来た合図だった。
嬉しい音だった。
『でも』
声が沈む。
『鳴らなくなった』
黒い膜が濃くなる。
『店、壊れた』
『鐘、落ちた』
『誰も来ない』
『焼き菓子、冷めた』
『待った』
『待った』
『誰も』
レオンは、息を吐く。
また、待つ記憶。
ミオも待っていた。
この声も待っていた。
虚ろには、待ったまま終わった者たちが多すぎる。
リリアーナが優しく呼ぶ。
「誰かが来る音を、覚えていたんですね」
『……』
「その鐘の音」
「あなたにとって、大事だったんですね」
『チリン』
声が小さく鳴らす。
『来たよって』
『聞こえる』
「はい」
「今、聞こえています」
レオンが続ける。
「お前は、誰かが来るのを待っていた」
「店で」
「焼き菓子を焼いて」
「鐘の音を聞いていた」
一拍。
「名前を聞かせてくれ」
太い糸が激しく震える。
『名前』
『店』
『鐘』
『焼き菓子』
『焦げた』
『笑った』
『俺は……』
虚ろの王の欠片が、低く割り込む。
『思い出すな』
『店は壊れた』
『客は来ない』
『鐘は鳴らぬ』
『名を持つ意味はない』
アルベルトが叫ぶ。
「うるせぇな!」
「今鳴ってんだろ!」
深部に、紅炎が走る。
黒い膜だけを焼き払う。
「チリンって!」
「俺たちに聞こえてんだよ!」
エリシアが風を添える。
「記憶反応、安定!」
「鐘の音を固定します!」
セラフィアが金色の光を送る。
「来訪の記憶」
「迎える声」
「それを名へ繋げて」
リリアーナが呼ぶ。
「あなたのお店に」
「今、わたしたちが来ています」
その言葉に、糸の奥が大きく震えた。
『来た……?』
「はい」
「聞こえています」
「焼き菓子の匂いも」
「鐘の音も」
「あなたの声も」
長い沈黙。
その間にも黒い糸は暴れる。
だが、全員が支えた。
待った。
急がなかった。
やがて。
声が聞こえた。
『……エル』
レオンが集中する。
『エルド』
リリアーナが呼ぶ。
「エルドさん」
糸が震える。
『俺……エルド』
『店……』
『鐘……』
レオンが頷く。
「エルド」
セラフィアが祈る。
「エルド」
「あなたの名を祝うわ」
仲間たちも名を重ねる。
「エルド」
「エルド」
「エルド」
黒い糸の一部がまたほどけた。
焼き菓子の温かな香りを帯びた橙色の光が、太い糸から抜け出す。
光は、小さな鐘の形を一瞬だけ取り。
チリン、と音のない音を響かせた。
そして、ミオ、リセ、ノア、サナのそばへ寄り添った。
『エルド……』
『いらっしゃい……』
その声は泣いていた。
だが、どこか笑ってもいた。
リリアーナの頬に涙が伝う。
「……よかった」
レオンは息を吐く。
これで五つ。
ミオ。
リセ。
ノア。
サナ。
エルド。
深部の闇に、五つの光が灯った。
◇
だが、太い糸はまだ終わらない。
残りが暴れる。
サナとエルドが抜けたことで、束はさらに不安定になった。
中に残る声が、怯え始めている。
『一人になる』
『分けないで』
『混ざってれば、消えない』
『一人になったら、痛い』
『名前が戻る』
『怖い』
レオンは、そこで気づいた。
この太い糸は、ただ虚ろが混ぜたものではない。
中の名たち自身も、混ざっていることにしがみついている。
一人に戻るのが怖いのだ。
個に戻れば、自分の痛みがはっきりする。
自分の喪失が戻る。
自分の罪や後悔も戻る。
だから、誰でもないままの方が楽。
混ざっていれば、自分だけの痛みにならない。
虚ろの王の欠片は、その恐怖を利用している。
レオンの胸が重くなる。
「……リリアーナ」
「はい」
「残っている声は」
一拍。
「分けられるのが怖いんだ」
リリアーナは頷いた。
「はい」
「一人になったら、痛みが自分のものになるから」
「でも」
彼女は五つの光を見た。
「ミオくんも、リセちゃんも、ノアさんも、サナさんも、エルドさんも」
「一人に戻っても、今は一人じゃありません」
「名前は別々だけど」
「ここに一緒にいます」
セラフィアが柔らかく言う。
「そうね」
「名を分けることは、孤独へ戻すことではない」
「それぞれの名で、並ぶこと」
レオンは、太い糸へ向き直った。
虚ろの王の欠片が、沈黙している。
いや。
聞いている。
このやり取りを。
名を持つこと。
個に戻ること。
それでも一人ではないということ。
それが、虚ろの王の欠片にとって最も理解できないものなのかもしれない。
影が、低く問う。
『別々になれば、失う』
『別々になれば、比べる』
『別々になれば、選ばれぬ』
『混ざれば、すべて曖昧』
『なぜ、分ける』
レオンは答えた。
「曖昧なままでは、呼べない」
一拍。
「呼べなければ、戻れない」
リリアーナも続ける。
「別々だから、名前を呼べます」
「別々だから、隣に並べます」
セラフィアが金色の光を広げる。
「違う名が並ぶことを、祝福と呼ぶの」
虚ろの王の欠片が、激しく揺れた。
『祝福』
『祝福』
『祝福など』
『我にはない』
その声は、初めて。
ほんの少しだけ、悲鳴に近かった。
レオンは、影を見る。
今の言葉。
我にはない。
そこに、何かがあった。
虚ろの王の欠片にも、名がないことへの痛みがある。
祝福されなかったことへの飢えがある。
レオンは、それに気づいた。
だが、今は踏み込めない。
目の前の太い糸が、まだ壊れそうになっている。
まずは、残る声を分けなければならない。
レオンは黒蒼雷を構え直す。
「続ける」
リリアーナが頷く。
「はい」
エリシアが術式盤を見る。
「残存強反応、あと二つ」
「ただし、かなり絡みが深いです」
クラウスが剣を上げる。
「なら、さらに慎重にいく」
アルベルトが炎を小さく灯す。
「外だけ焼く」
グレイヴが大剣を構える。
「守る」
セラフィアが祈る。
「名を祝う準備はできているわ」
レオンは、五つの光を背に、太い糸の残りへ向かう。
選ばない。
捨てない。
分ける。
呼ぶ。
戻す。
深部の闇は、さらに重くなっていく。
だが、光も増えていた。
五つの名が、レオンたちの足元を照らしていた。




