↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
152/251

第152話「三つ目の光、無能王子は“痛みの海”で声を選ぶ」



 深部の闇に、二つの光が浮かんでいた。


 ミオ。


 リセ。


 雨の地下水路で誰かを待っていた少年。


 白い花に名前をつけ、失う痛みを恐れていた少女。


 二つの名は、まだ弱い。


 人の姿を取り戻したわけではない。


 記憶も完全ではない。


 声もか細く、少し強い虚ろの波が来れば、また黒へ沈んでしまいそうだった。


 それでも。


 二つの光は、確かにそこにあった。


 深部の底。


 名を喰われた残滓が無数に絡まり、虚ろの王の欠片が黒い玉座に立つ場所。


 そこに、二つだけ。


 消えなかった名前がある。


 その事実が、レオンたちの足場になっていた。


「ミオ」


 リリアーナが呼ぶ。


 白い光が、かすかに震える。


『……ミオ』


「リセ」


 緑がかった光が、小さく揺れる。


『……リセ』


 呼べば、返る。


 まだ小さいけれど。


 まだ不安定だけれど。


 返ってくる。


 それだけで、深部の闇に飲まれそうになる意識を繋ぎ止められた。


 レオンは、荒い息を吐きながら黒蒼雷を構えていた。


 右腕が痛い。


 胸の奥が重い。


 頭の奥では、無数の声がまだざわめいている。


 ミオとリセを返したことで、深部全体が揺れていた。


 虚ろの王の欠片が怒っている。


 だが、それ以上に。


 残された名前たちがざわめいている。


 返してほしい。


 返さないでほしい。


 痛い。


 思い出したい。


 思い出したくない。


 助けて。


 放っておいて。


 消えたくない。


 消して。


 矛盾だらけの声が、黒い糸となって深部に満ちている。


 レオンは、それら全部を聞こうとしてはいけない。


 そう分かっている。


 リリアーナにも怒られた。


 セラフィアにも言われた。


 仲間たちが役割を分けてくれている。


 それでも、声は勝手に入ってくる。


 名前を返す力を持つ黒蒼雷は、奪われた名の痛みに反応してしまう。


 だから、レオンは意識して呼吸を整えた。


 一つずつ。


 一人ずつ。


 急がない。


 壊さない。


 でも、止まらない。


 リリアーナが、手を握ったまま見上げる。


「レイさん」


「何だ」


「今、どれくらい聞こえていますか」


「……多い」


「全部聞こうとしてませんか」


「してない」


「本当に?」


「……少し、入り込んでくる」


 リリアーナは頷いた。


「じゃあ、言ってください」


「何を」


「聞こえすぎたら、聞こえすぎてるって」


 一拍。


「わたしが呼びます」


 レオンは、リリアーナを見た。


 彼女の顔色も決して良くない。


 深部の圧。


 無数の名の悲鳴。


 レオンを繋ぎ止め続ける緊張。


 それらが彼女にも負荷を与えている。


 それでも、彼女は手を離さない。


「お前も、きついだろ」


「きついです」


 即答だった。


 レオンは少しだけ目を見開く。


 リリアーナは、苦笑に近い表情で続けた。


「でも、言いました」


「だから、レイさんも言ってください」


「……そうだな」


「はい」


「聞こえすぎたら、言う」


「約束です」


「ああ」


 約束。


 その言葉が、また足場になる。


 深部の闇は、約束を嫌う。


 未来へ繋がる言葉を嫌う。


 だからこそ、レオンはそれを掴んだ。


 ◇


 虚ろの王の欠片が、黒い玉座の前で揺れていた。


 顔のない影。


 だが、そこに怒りがあるのは分かる。


 飢えがある。


 焦りもある。


 二つの名を返されたこと。


 それが、想像以上に深部の構造へ響いているのだろう。


『二つ』


『たった二つ』


『無意味』


『無数の名の前では、無意味』


 影の声が深部に響く。


 だが、その声には苛立ちが混ざっている。


 セラフィアが、金色の光でミオとリセを包みながら静かに言った。


「無意味ではないわ」


「あなたが揺れている」


『揺れてなどいない』


「揺れている」


 セラフィアの金色の瞳が、静かに細くなる。


「名を返されるたび、あなたの王冠から欠片が抜ける」


「あなたは奪った名で自分を飾っている」


「だから、ひとつ返されるだけでも痛い」


 虚ろの王の欠片が、低く唸る。


『黙れ』


『鎖』


『壊れた祈り』


『封じ損ねた名』


 セラフィアの表情が一瞬だけ揺れる。


 しかし、彼女は退かない。


「ええ」


「私は封じ損ねた」


「守りきれなかった」


「だから今、返している」


 金色の光が、ミオとリセをさらに強く包む。


「この二つの名は、もうあなたの王冠ではない」


『ならば砕く』


 影が腕のようなものを振るう。


 黒い糸の束が、ミオとリセへ向かった。


「させるか!!」


 グレイヴが大剣を叩きつける。


 斬るのではない。


 糸の束を、光から遠ざけるように押し返す。


 衝撃で深部の床が波打つ。


 グレイヴの腕に黒い筋が走る。


 糸が、彼の守る理由へ食い込もうとしている。


『守れなかった剣』


『また守るのか』


『今度も遅い』


 グレイヴの顔が歪む。


 だが、彼は叫んだ。


「グレイヴ・アルディオス!」


「今度こそ守るために進む!」


 大剣が光を取り戻す。


 黒い筋が弾ける。


 その横から、クラウスが走る。


「絡みをほどく!」


 白銀の剣が、糸の根元を弾いた。


 一本ずつ見極める。


 名の芯を傷つけず、虚ろの束だけを分離する。


 難しい。


 あまりにも難しい。


 だが、クラウスは目を逸らさない。


「クラウス・ベルン!」


「守るべきものを選ぶために進む!」


 剣が、糸の迷いを切り分ける。


 アルベルトの炎がその外側を焼く。


「外だけ燃えろ!」


「中は残れ!」


「お前らの名前まで焼いてたまるか!」


 エリシアの風が続く。


「流します!」


「ミオくんとリセちゃんへ触れさせません!」


 ミリオの精神線が、二つの光へ繋がる。


「ミオ!」


「リセ!」


「こちらへ意識を!」


 ラウルの盾が、光の前へ立つ。


「背後は閉ざさない!」


「ここに足場を作る!」


 全員が動く。


 深部の闇は広い。


 敵は巨大だ。


 名の糸は無数。


 だが、彼らの戦い方は確かに形を持ち始めていた。


 壊さずに防ぐ。


 焼き尽くさずに剥がす。


 斬り捨てずにほどく。


 戻った名を守る。


 そして、次の名を探す。


 それは、普通の戦闘ではない。


 救済を伴う戦闘。


 敵の攻撃そのものが救うべきものでもあるという、あまりにも難しい戦いだった。


 ◇


 レオンは、次の糸を探した。


 だが、深部の圧はさらに増している。


 虚ろの王の欠片は、ミオとリセを返されたことで、糸の配置を変えた。


 今まで比較的浅い場所にあった名の芯が、黒い膜で覆われ始めている。


 簡単には見えない。


 エリシアが術式盤を操作しながら叫ぶ。


「レオン様!」


「浅い反応が隠されました!」


「虚ろが学習しています!」


「今度は、強い痛みの記憶を前面に出して、名の芯を奥へ隠しています!」


 アルベルトが舌打ちする。


「性格悪いどころじゃねぇな!」


 セラフィアが険しい顔で言う。


「焦らせるつもりよ」


「痛みの記憶だけを見せて、名まで届かせない」


 レオンは、無数の糸を見る。


 黒い。


 黒い。


 黒い。


 どれも痛みを叫んでいる。


 だが、名の芯が見えない。


 手を伸ばせば、痛みだけが流れ込んでくる。


 それを受けすぎれば、こちらが呑まれる。


 リリアーナが言う。


「探し方を変えましょう」


 レオンが彼女を見る。


「どうする」


「痛みが強いところじゃなくて」


 一拍。


「小さくても、何かを大事にしていた記憶を探しましょう」


 その言葉に、レオンはミオとリセを思い出す。


 ミオは雨の中で誰かを待っていた。


 リセは白い花を大事にしていた。


 名前の芯へ近づいたのは、痛みそのものではなく、大事にしていたものだった。


 待っていたこと。


 花に名前をつけたこと。


 そこに、名へ繋がる道があった。


「……そうか」


 レオンは頷く。


「痛みじゃなくて、大事にしていたもの」


 リリアーナも頷く。


「はい」


「痛みだけを見ると、虚ろに引っ張られます」


「でも、大事だったものを探せば」


「その人が、その人だった理由に近づける気がします」


 セラフィアが静かに微笑む。


「良い見方ね」


「名は、痛みだけでできているわけではない」


「好きだったもの」


「守りたかったもの」


「呼びたかったもの」


「それらが名に繋がる」


 レオンは息を吸った。


 黒蒼雷の感覚を変える。


 悲鳴を拾いすぎない。


 痛みの強さではなく、温度を探る。


 小さな温度。


 名前に繋がる、まだ消えていないもの。


 ミオの雨。


 リセの白い花。


 そのような、小さな記憶の灯り。


 レオンは、目を閉じかけた。


 すぐにリリアーナが呼ぶ。


「レイさん」


「俺はここにいる」


「はい」


「探す」


「痛みじゃなくて」


 一拍。


「大事だったものを」


 黒蒼雷が、細く広がる。


 深部の闇へ。


 無数の糸へ。


 叫びの海へ。


 その中から、レオンはかすかな温度を探した。


 ◇


 最初に感じたのは、音だった。


 小さな音。


 木が鳴る音。


 何かを削る音。


 コツ。


 コツ。


 コツ。


 規則正しい。


 それは、戦場の音ではない。


 剣の音でもない。


 誰かが、何かを作っている音。


 レオンは、その糸を探す。


 黒い糸の群れの中に、かすかに茶色がかった光があった。


 地味で、弱い。


 だが、確かに温度がある。


「見つけた」


 レオンが言う。


 エリシアが反応する。


「位置は?」


「正面、やや下」


「黒い束の奥」


 エリシアが術式盤を調整する。


「確認しました」


「木材の記憶反応……?」


「手作業の反復記憶があります」


 クラウスが走る。


「絡みをほどく!」


 しかし、その糸は深い場所にあった。


 周囲の黒い糸が防壁のように絡んでいる。


 アルベルトが炎を細く放つ。


「外を焼く!」


 エリシアの風が黒い膜を流す。


 グレイヴが迫る別の糸を受け止める。


 ラウルが盾で背後を守る。


 ミリオが精神線を伸ばす。


 セラフィアが金色の祈りでミオとリセを守りながら、新たな糸へ光を送る。


 レオンは黒蒼雷を、その茶色の光へ伸ばした。


 触れた瞬間。


 木の匂いがした。


 乾いた木。


 小さな作業台。


 削りかけの人形。


 粗末な刃物。


 手にできた小さな傷。


 それでも、楽しそうな感覚。


 誰かのために作っている。


 不器用でも。


 時間をかけて。


 何度も失敗して。


 それでも、作っている。


 レオンは呟いた。


「……人形」


 リリアーナが聞く。


「人形ですか?」


「ああ」


「木の人形」


「誰かに渡すために作ってる」


 糸が震えた。


『……だめ』


 低い声。


 今度は少年ではなく、少し年上かもしれない。


 若い男の声。


『見せるな』


『下手だ』


『笑われる』


 リリアーナが優しく言う。


「誰かへの贈り物ですか?」


『……』


「大事な人に?」


 糸が強く震える。


『妹』


 声が漏れた。


『誕生日』


『買えない』


『だから、作った』


 レオンの胸に、少し温かいものが流れ込む。


 貧しい家。


 贈り物を買う余裕がない。


 だから、木を削って人形を作る。


 不器用でも。


 妹のために。


 その記憶は、痛みではなく、優しさだった。


 だが、すぐに黒い膜が覆いかぶさる。


『渡せなかった』


『帰れなかった』


『妹、泣いた』


『人形、未完成』


『だめだ』


『思い出すな』


 レオンは、歯を食いしばる。


 帰れなかった。


 またその言葉。


 深部には、帰れなかった者が多すぎる。


 レオンは、静かに問う。


「人形は、どんな形だった」


『……』


「妹に似せたのか」


『ちがう』


「じゃあ」


『騎士』


 アルベルトが少し反応する。


 クラウスも。


 グレイヴも、わずかに目を細めた。


『妹、騎士が好きだった』


『強くて』


『守ってくれるって』


『だから……』


 声が震える。


『作った』


『下手だけど』


『守る騎士』


 グレイヴの表情が、わずかに苦しくなる。


 木の騎士。


 妹のために作った守る人形。


 それを渡せなかった者の名。


 リリアーナが、そっと呼びかける。


「その騎士人形」


「妹さんに渡したかったんですね」


『……うん』


「あなたは、守りたかったんですね」


『……うん』


「妹さんを」


『うん……』


 糸の茶色の光が強まる。


 虚ろの王の欠片が、低く唸る。


『戻すな』


『守れなかった者に名はいらぬ』


『渡せなかった贈り物に意味はない』


『未完成は無意味』


 その言葉に、グレイヴが大剣を強く握った。


「黙れ」


 低い声。


 深部が震える。


「未完成でも」


「渡せなくても」


「守りたいと思ったことまで無意味ではない」


 クラウスも続く。


「騎士の形を作ったなら」


「そこに願いがあった」


「願いは、名へ繋がる」


 リリアーナが頷く。


「あなたの名前」


「妹さんは呼んでいたはずです」


「思い出せますか」


 糸が震える。


『妹……』


『呼んだ』


『兄さんって』


『でも……名前』


 レオンが黒蒼雷を添える。


「人形を作っていた手」


「妹を守りたかった気持ち」


「その奥にある」


「お前の名前」


 沈黙。


 黒い糸が暴れる。


 虚ろの膜が何度も覆う。


 アルベルトが炎で剥がす。


 エリシアが風で流す。


 クラウスが絡みをほどく。


 グレイヴが迫る糸を受け止める。


 セラフィアが金色の祈りを広げる。


 リリアーナが呼ぶ。


「大丈夫です」


「未完成でも」


「渡せなくても」


「妹さんを大事に思ったあなたは、消えなくていい」


 やがて。


 糸の奥から、声が聞こえた。


『……ノ』


 レオンが集中する。


『ノア……』


 その名に、レオンは一瞬だけ不思議な感覚を覚えた。


 ノア。


 短く、温かい響き。


 リリアーナが呼ぶ。


「ノアさん」


 糸が震える。


『……ノア』


『俺……ノア』


 レオンが頷く。


「ノア」


 セラフィアが両手を広げる。


「ノア」


「あなたの名を祝うわ」


 グレイヴが低く呼ぶ。


「ノア」


 クラウスも。


「ノア」


 アルベルトも。


「ノア」


 エリシアも。


「ノアさん」


 ミリオとラウルも続く。


「ノア」


「ノア」


 最後に、リリアーナがもう一度呼ぶ。


「ノアさん」


「あなたは、ここにいます」


 黒い糸がほどけた。


 茶色がかった光が、木の人形の形を一瞬だけ取る。


 小さな騎士。


 不器用で、少し歪んでいる。


 でも、胸を張っている。


 それは、妹を守るために作られた小さな騎士だった。


 光は、やがて粒となり、ミオとリセのそばへ漂った。


『ノア……』


『人形……』


『渡したかった……』


 声は泣いている。


 だが、黒い糸ではない。


 名へ戻った光だった。


 ◇


 三つ目の光。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 深部の闇の中で、三つの名前が並ぶ。


 小さく。


 弱く。


 それでも確かに。


 レオンは荒く息を吐いた。


 膝が少し揺れる。


 リリアーナがすぐ支える。


「レイさん」


「俺はここにいる」


「はい」


「でも、かなりきついですね」


「……ああ」


「正直でよろしいです」


「そうだな」


 レオンは、ほんの少しだけ苦笑しそうになった。


 だが、すぐに深部の圧がそれを押し潰す。


 虚ろの王の欠片が、玉座の上で震えていた。


 怒り。


 飢え。


 焦り。


 そして、何か別の感情。


 嫉妬に似たもの。


 羨望に似たもの。


 三つの名前が呼ばれたことに対する、明確な反応。


『なぜ』


 影が言った。


『なぜ呼ぶ』


『なぜ戻る』


『痛いだけだ』


『失うだけだ』


『未完成だ』


『渡せなかった』


『帰れなかった』


『それでも、なぜ名を持つ』


 レオンは、影を見る。


 虚ろの王の欠片。


 名を喰い、自分を王だと思い込んだ空白。


 その声は、さっきより少し揺れていた。


 問うている。


 攻撃としてだけではなく。


 本当に、分からないのかもしれない。


 なぜ、痛みを伴う名前を持つのか。


 なぜ、未完成でも意味があるのか。


 なぜ、失ったものを思い出すのか。


 レオンは、すぐには答えなかった。


 深く息を吸う。


 リリアーナの手を感じる。


 背後に仲間たちの気配。


 ミオ。


 リセ。


 ノア。


 三つの光。


 それらを見て、低く言う。


「痛いだけじゃないからだ」


 影が揺れる。


「名前は痛い」


「失えば苦しい」


「戻れば泣く」


「思い出したくないことも戻る」


 一拍。


「でも、それだけじゃない」


 レオンはノアの小さな光を見る。


「雨の中で待っていたこと」


「白い花を大事にしたこと」


「妹に人形を作ったこと」


「そういうものも戻る」


 リリアーナが、静かに続けた。


「名前は、痛みだけじゃありません」


「大事だったものも、連れてきます」


 セラフィアが頷く。


「だから名は祝福でもある」


 虚ろの王の欠片が、低く唸る。


『祝福』


『祝福など』


『空腹を満たさぬ』


『喪失を消さぬ』


『孤独を埋めぬ』


 レオンは答える。


「消さなくていい」


 影が止まる。


「全部を消す必要はない」


「孤独も、喪失も、痛みも」


「消えないものはある」


 一拍。


「でも、それだけで終わらせない」


 黒蒼雷が静かに鳴る。


「ミオ」


「リセ」


「ノア」


「三つ戻った」


「次も戻す」


 虚ろの王の欠片が、大きく膨れ上がった。


『ならば』


『もっと深い名を出す』


『お前が触れれば壊れる名』


『戻せば狂う名』


『返せば、お前自身が喰われる名』


 黒い玉座の背後が開いた。


 そこから、今までとは違う太い糸が現れる。


 一本。


 ただ一本。


 だが、その圧は他の糸とは比べものにならなかった。


 黒く、重く、中心に赤黒い光を宿している。


 セラフィアの顔色が変わる。


「……待って」


 エリシアの術式盤が激しく警告を出す。


「反応、異常です」


「この糸……複数の名が混ざっています」


 クラウスが剣を構える。


「複合体か」


 グレイヴが低く言う。


「深く喰われた名だな」


 アルベルトが炎剣を握る。


「やべぇ感じしかしねぇ」


 リリアーナが、レオンの手を強く握る。


「レイさん」


「分かってる」


 レオンは、その太い糸を見る。


 中にいる。


 誰かが。


 いや。


 複数の誰かが。


 名を重ねられ、記憶を混ぜられ、自分が誰だったのか分からなくなったもの。


 これまでとは違う。


 ミオ、リセ、ノアのように、一つの記憶から辿れる相手ではない。


 もっと深い。


 もっと壊れている。


 虚ろの王の欠片が、低く笑った。


『返してみろ』


『名を返す者よ』


『どれが本当の名か』


『選んでみろ』


 太い糸が、ゆっくりと開いた。


 そこから、いくつもの声が重なって漏れ出す。


『ぼくは――』


『わたしは――』


『俺は――』


『違う』


『違う』


『違う』


『名前が』


『混ざる』


『わからない』


 深部の空気が重く沈む。


 レオンは、黒蒼雷を握り直した。


 三つの光が、背後で震えている。


 次の相手は、明らかにこれまでより危険だった。


 それでも。


 退けない。


 レオンは、リリアーナへ言う。


「呼び続けてくれ」


「はい」


 セラフィアへ。


「保護を頼む」


「任せて」


 仲間たちへ。


「壊さず、ほどく」


 アルベルトが頷く。


「了解」


 エリシアが術式盤を構える。


「解析します」


 クラウスが剣を上げる。


「絡みを見ます」


 グレイヴが大剣を構える。


「守る」


 レオンは、太い糸へ向かって一歩踏み出した。


 その瞬間。


 深部の闇が、さらに冷たくなった。


 名が混ざった者。


 複数の記憶を喰われ、自分の輪郭を失った存在。


 虚ろの王の欠片は、それを次の盾として差し出してきた。


 戦いは、さらに難しい段階へ入ろうとしていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。