第151話「二つ目の名、無能王子は“喰われる前に呼ぶ”と決める」
無数の黒い糸が、レオンへ集中した。
深部の闇が、一斉に動いたようだった。
足元から。
頭上から。
左右から。
背後から。
ありとあらゆる方向から、名を喰われた残滓が黒い糸となって迫ってくる。
それは攻撃だった。
だが、ただの攻撃ではない。
糸の一本一本が、誰かの名前の残骸でできている。
痛みを恐れ、記憶を拒み、それでも消えたくないと震えている者たちの欠片。
だから、レオンは斬れない。
焼けない。
砕けない。
虚ろの王の欠片は、それを分かっている。
守りたいなら壊せない。
返したいなら傷つけられない。
その優しさを、ためらいを、救いたいという意思を、敵は武器にしていた。
『名を返す者から喰らう』
深部の中心。
黒い玉座に立つ影が、低く告げる。
『返す力を喰らえば』
『名はすべて我がもの』
『痛みも』
『理由も』
『帰る場所も』
『我が王冠となる』
黒い糸が、うねる。
レオンの黒蒼雷へ向かって、飢えた獣の群れのように殺到する。
リリアーナの手が強くなる。
「レイさん!!」
叫びが、闇に刺さった。
レオンは答える。
「俺はここにいる!!」
その声と同時に、黒蒼雷が足元から立ち上がる。
だが、広げすぎない。
強くしすぎない。
雷を暴れさせれば、糸の中に残る名前まで焼いてしまう。
細く。
鋭く。
それでいて優しく。
名前の糸を壊さず、虚ろの膜だけを弾くように。
レオンは、黒蒼雷を何本もの細い線へ分けた。
だが、迫る糸の数は多すぎる。
到底、全部は捌けない。
「前方、右上!」
クラウスの声。
白銀の剣が走る。
黒い糸へ刃を当てるのではなく、糸が絡む前に空間そのものを斜めに弾く。
軌道を逸らす。
それだけでも、手首に重い衝撃が走る。
「くっ……!」
クラウスの顔が歪む。
糸の中から、声が流れ込んでくるのだ。
『斬らないで』
『斬って』
『痛い』
『誰か』
『命令』
『守って』
声が混ざる。
剣を持つ者へ、直接刺さる声。
クラウスは、歯を食いしばった。
「クラウス・ベルン!」
自分の名を言う。
「守るべきものを選ぶために進む!」
その声で、剣の輪郭が戻る。
彼は糸を斬らずに受け流した。
その横から、別の糸がレオンへ走る。
「左、三本来るぞ!」
アルベルトが叫び、炎剣を振るった。
紅炎が細く伸びる。
爆炎ではない。
焼き尽くす炎ではない。
糸の表面にまとわりついた黒い膜だけを舐める炎。
「燃やす!」
「でも焼き尽くさねぇ!」
「お前らの名前は残す!」
アルベルトは叫ぶ。
叫ばなければ、炎の意味が曖昧になる。
この深部では、何のための炎かを言葉にしなければならない。
そうしなければ、虚ろが炎を喰う。
あるいは炎が、守るべき名前まで壊してしまう。
紅炎は糸の外側を走り、黒い膜を剥がした。
その瞬間、エリシアの風が滑り込む。
「流します!」
「名前の芯を残して、虚ろだけを外へ!」
風が糸の周囲を包み、焼けた黒い膜を深部の奥へ押し流す。
エリシアの術式盤には無数の警告が浮かんでいた。
干渉過多。
対象不安定。
概念混線。
精神負荷上昇。
どれも最悪の表示。
それでも、彼女は目を逸らさない。
「エリシア・フォン・ローゼンベルク!」
「目を逸らさないために進みます!」
自分に言い聞かせるように名乗る。
風が形を取り戻す。
アルベルトが横目で見る。
「きついか!」
「きついです!」
「正直でよろしい!」
「あなたに言われると少し腹が立ちますわ!」
「元気あるじゃねぇか!」
「元気ではありません!」
会話が飛ぶ。
軽口に見える。
だが、それは互いを繋ぎ止める声だった。
沈黙すれば呑まれる。
黙れば、自分の役割が曖昧になる。
だから、喋る。
叫ぶ。
名前を呼ぶ。
意味を言う。
それが、この深部での戦いだった。
◇
グレイヴが、レオンの前へ踏み込んだ。
大剣を斜めに構え、迫る黒い糸の束を受け止める。
衝撃は重かった。
ただの質量ではない。
喰われた名の重さ。
戻れなかった人生の重さ。
それが、大剣を通じて腕へ、胸へ流れ込んでくる。
グレイヴの肩が軋む。
だが、彼は退かない。
「グレイヴ・アルディオス!」
低く、太い声。
「今度こそ守るために進む!」
大剣の光が強まる。
黒い糸は砕かれない。
しかし、押し返される。
グレイヴは歯を食いしばりながら叫ぶ。
「レオン!」
「選べ!」
「全てを一度に見るな!」
「一つだ!」
「一つずつだ!」
レオンは頷く。
「ああ!」
だが、選ぶことすら難しい。
糸の数が多すぎる。
声が多すぎる。
ミオを戻したことで、深部の名たちがざわめいている。
返してほしい者。
返されたくない者。
痛みを恐れる者。
忘れたままでいたい者。
消えたくない者。
それらが一斉にレオンへ流れ込む。
頭が割れそうだった。
視界の端が黒く滲む。
自分の名前まで遠くなりかける。
「レイさん!」
リリアーナが叫ぶ。
近い声。
手の温度。
彼女はレオンの手を離さない。
ただ支えるだけではない。
声で、彼を現実に繋ぎ止める。
「レオンハルト・フォン・アルディア!」
「レイさん!」
「ここにいます!」
「わたしもここにいます!」
「一人で全部聞かないでください!」
レオンは息を吸う。
「俺は……」
一瞬、言葉が詰まる。
黒い糸がその隙を狙う。
『お前も喰われろ』
『返す者よ』
『痛みを聞け』
『全部聞け』
『全部背負え』
レオンの胸へ、無数の声が押し寄せる。
全部聞かなければならない気がする。
全部背負わなければならない気がする。
自分が返すと言ったのだから。
名前を奪われたままにはしないと言ったのだから。
全部。
全部。
全部。
「駄目です!!」
リリアーナの声が、鋭く響いた。
「全部を一人で聞かないで!!」
レオンの目が開く。
リリアーナは泣きそうな顔で怒っていた。
「レイさん!」
「一人ずつって言いました!」
「みんなで間に合わせるって言いました!」
「なのに、また全部一人で背負おうとしてます!」
「駄目です!」
一拍。
「今、わたしが聞いてます!」
「アルベルト様も!」
「エリシア様も!」
「クラウス様も!」
「グレイヴ様も!」
「セラフィアさんも!」
「みんな聞いてます!」
その声で、レオンの視界が少し戻る。
そうだ。
一人で聞くな。
全部背負うな。
ここまでずっと、そう言われてきた。
レオンは、歯を食いしばる。
「……俺はここにいる!」
黒蒼雷が、もう一度輪郭を取り戻す。
リリアーナがすぐに頷く。
「はい!」
「ここにいます!」
セラフィアの金色の光が、二人の背後から広がった。
「リリアーナの言う通りよ」
彼女は静かに言う。
「名を返す者が、名に呑まれては駄目」
「レオン、あなたは扉」
「でも、扉を支える柱はここにいる」
金色の光が、周囲の仲間たちへ細く繋がる。
「役割を分けましょう」
「あなたは呼びかける」
「私は保護する」
「リリアーナは戻す」
「皆は守る」
「それでいい」
レオンは頷く。
「分かった」
短い返事。
だが、今度は少しだけ深く呼吸ができた。
◇
エリシアが術式盤を大きく展開した。
盤面が三重に開き、深部の中に漂う糸の反応を色分けする。
黒。
濃灰。
薄灰。
微かな白。
金。
青。
赤。
無数の反応が波のように表示される。
「全ては無理です」
「ですが、反応の浅いものからなら拾えます」
エリシアは息を詰めながら、指を走らせた。
「ミオくんに続いて、比較的名の芯が残っているものを探します」
「……ありました」
術式盤の一点が淡く光る。
「右後方、低い位置」
「黒い糸が二重に絡んでいますが、内側に緑色の記憶反応があります」
クラウスが即座に動く。
「右後方、確認!」
白銀の剣が、糸の絡まりを弾く。
ラウルが盾で周囲の糸を受ける。
ミリオが精神線を伸ばす。
「繋ぎます!」
「対象反応、細いです!」
アルベルトの炎が外側の黒い膜を焼く。
「燃やす!」
「外側だけだ!」
エリシアの風が流す。
「膜を剥がします!」
「中心を露出!」
黒い糸の奥から、淡い緑の光が見えた。
小さい。
だが、確かにある。
レオンは、その糸へ黒蒼雷を伸ばす。
触れる瞬間、今度は強い匂いが流れ込んできた。
草。
土。
小さな庭。
割れた鉢。
誰かが笑う声。
そして、赤い夕焼け。
レオンは息を呑む。
「……庭」
リリアーナが聞く。
「庭?」
「ああ」
「草の匂い」
「鉢が割れてる」
「夕焼け」
「誰か、花を育ててた」
リリアーナは糸へ向き直る。
「聞こえますか」
「あなたの声、聞こえています」
糸が震える。
『……いや』
小さな声。
女の子か。
幼い声だった。
『花、だめ』
『壊れる』
『怒られる』
リリアーナの表情がやわらぐ。
だが、すぐに痛みを帯びる。
「花を育てていたんですか?」
『……ちがう』
『隠した』
「隠した?」
『見つかったら、捨てられる』
『でも、咲いた』
『白い花』
糸の緑が少し強くなる。
エリシアが小さく呟く。
「白い花……」
リリアーナは続ける。
「その花、大事だったんですね」
『……うん』
『名前、つけた』
レオンが反応する。
「花に?」
『うん』
『わたしの……』
そこで声が途切れる。
黒い膜が再び濃くなる。
『だめ』
『名前つけちゃだめ』
『ものに名前つけると、なくなった時いたい』
『痛い』
『痛い』
リリアーナが、胸を押さえる。
名は痛み。
またそれだ。
虚ろの王の欠片が何度も使う理屈。
名前をつければ、失った時に痛い。
だから、名などいらない。
その考えが、この糸の中にも染み込んでいる。
レオンは静かに言った。
「痛いから、大事なんだろ」
糸が震える。
『……』
「名前をつけたから、失うと痛い」
「でも、名前をつけたから、覚えていられる」
『覚えてると、痛い』
「ああ」
レオンは否定しない。
「でも、忘れるだけじゃ戻れない」
リリアーナも言う。
「花の名前、覚えていますか?」
『……』
沈黙。
糸が震える。
黒い膜が何度も表面を覆おうとする。
アルベルトが細い炎でそれを焼き、エリシアが風で流す。
クラウスが絡む糸を弾き、ラウルが盾で他の糸を防ぐ。
ミリオが叫ぶ。
「対象、消えかけます!」
「呼びかけ継続を!」
リリアーナは、優しく声を重ねる。
「大丈夫です」
「全部思い出さなくていいです」
「まずは花のことだけ」
「白い花」
「隠して育てた、大事な花」
「その名前」
糸の奥から、小さな声が出る。
『……ル』
レオンが集中する。
「ル」
『ル……ナ……』
全員が一瞬反応した。
ルナ。
それは人の名前のようにも聞こえた。
糸が震える。
『花……ルナ』
『わたし……』
『わたしは……』
黒い膜が激しく暴れる。
『だめ』
『名を思い出すな』
『痛い』
『失う』
『捨てられる』
リリアーナが叫ぶ。
「捨てられたとしても!」
声が、深部に響く。
自分の過去を越えた彼女だからこその言葉だった。
「大事だったことまで、捨てなくていいです!」
「白い花を大事にしたあなたまで、捨てなくていい!」
糸の奥が、強く震える。
レオンが黒蒼雷を添える。
「お前の名前を聞かせろ」
「花につけた名前じゃなく」
「お前の名前を」
しばらく。
本当に、長い沈黙があった。
その間にも黒い糸は襲ってくる。
グレイヴが受ける。
クラウスが弾く。
アルベルトが焼く。
エリシアが流す。
セラフィアが祈る。
皆が、待った。
急がせない。
場面を急がない。
その名が、自分で出てくるまで。
やがて。
糸の奥から、かすかな声が聞こえた。
『……リセ』
リリアーナが優しく繰り返す。
「リセ」
糸が震える。
『わたし……リセ』
レオンが頷く。
「リセ」
セラフィアの金色の光が広がる。
「リセ」
「あなたの名を祝うわ」
アルベルトも呼ぶ。
「リセ」
エリシアも。
「リセ」
クラウスも。
「リセ」
グレイヴも。
「リセ」
リリアーナが、最後にもう一度呼ぶ。
「リセちゃん」
その瞬間、黒い糸がほどけた。
緑がかった淡い光が、闇の中に浮かぶ。
小さな白い花の形を一瞬だけ取り、それから光の粒になった。
『リセ……』
『白い花……ルナ……』
声は泣いていた。
だが、虚ろの糸ではなくなっていた。
セラフィアが金色の祈りで包む。
「記憶は少しずつ」
「今は名だけを保護する」
リセの光が、ミオの白い光の近くへ寄り添う。
二つの名。
ミオ。
リセ。
深部の闇の中で、小さな光が二つになった。
◇
虚ろの王の欠片が、低く唸った。
『二つ』
『二つ返した』
『痛みを戻した』
『愚か』
『愚か』
黒い玉座の影が、膨れ上がる。
無数の糸が、さらに激しく揺れる。
『ならば』
『もっと痛みを見せよう』
その瞬間。
深部の空間全体に、無数の記憶が一斉に浮かび上がった。
雨の水路。
白い花。
焼けた家。
折れた剣。
泣き叫ぶ母親。
番号を刻まれる子供。
神殿の床。
王城の地下。
壊れた人形。
血のついた布。
何かを忘れようとする老人。
帰れなかった兵士。
名を奪われた神官。
あまりにも多い。
多すぎる。
全員の視界へ、痛みが流れ込む。
ミリオが膝をつく。
「ぐっ……!」
精神線が乱れる。
ラウルが支えようとするが、盾にも記憶が叩きつけられる。
アルベルトの炎が揺らぎ、エリシアの風が乱れる。
クラウスの剣先が一瞬ぶれる。
グレイヴでさえ、大剣を握る手に力を込め直した。
リリアーナも顔を青ざめさせる。
「多い……」
声が震える。
「こんなに……」
レオンの頭の奥が軋む。
黒蒼雷が悲鳴のように鳴る。
返したい。
でも多すぎる。
全部を救いたい。
でも、全部を一度に抱えれば壊れる。
虚ろの王の欠片は、それを狙っている。
助けたいという願いを、圧で潰す。
その瞬間。
セラフィアが、深く息を吸った。
金色の光が、彼女の周囲へ強く集まる。
「皆、名前を呼んで」
彼女は言った。
「今戻した二つの名を」
「ミオとリセを」
リリアーナがすぐに理解する。
「戻れた名前を、足場にするんですね」
「ええ」
セラフィアは頷く。
「闇の全部を見るのではなく」
「戻れた光を見る」
「そこから次へ進む」
レオンは頷く。
「ミオ」
リリアーナが続く。
「リセ」
アルベルトが叫ぶ。
「ミオ!」
「リセ!」
エリシアも。
「ミオ!」
「リセ!」
クラウス、グレイヴ、ミリオ、ラウル。
全員が、二つの名前を呼ぶ。
深部に、小さな光が二つ強く灯る。
無数の痛みの中で。
たった二つ。
だが、確かに戻った名。
それが、全員の視界を繋ぎ止める。
レオンは、荒い息を吐きながら前を見る。
虚ろの王の欠片は、まだ巨大だ。
無数の糸を持ち、数えきれない名を縛っている。
ミオとリセを返しただけでは、何も終わらない。
それでも。
ゼロではなくなった。
深部の闇に、二つの名前が戻った。
レオンは黒蒼雷を握る。
「次だ」
声は疲れていた。
だが、折れていない。
「三つ目を探す」
リリアーナが隣で頷く。
「はい」
「呼びましょう」
虚ろの王の欠片が、怒りと飢えを混ぜた声で唸る。
『返すな』
『返すな』
『返すな』
レオンは答えた。
「返す」
黒蒼雷が、次の糸へ向けて細く伸びた。




