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無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


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第125話「名を呼ぶ戦い、無能王子は“虚ろに抗う声”を重ねていく」


 黒霧が、広場を呑み込もうとしていた。


 旧神殿区第一広場。


 かつて“名告げの広場”と呼ばれた場所は、今や泣き声と雷鳴が混ざる異界になっていた。


 干上がった噴水跡から噴き上がる黒霧。


 割れた石畳を這う黒い筋。


 砕けた神霊像の足元で震える子供たちの影。


 そして、空へ伸びる黒い光柱。


 その全てが、ひとつの意志に従っているようだった。


『返すな』


『名を返すな』


『すべて空白へ』


『すべて虚ろへ』


 低い声が、広場全体へ落ちてくる。


 耳からではない。


 頭の奥へ直接響く。


 心の底にある弱い部分を探し、そこへ爪を立ててくるような声だった。


 誰もが、ほんの一瞬、自分の名前を忘れそうになる。


 自分がここへ来た理由。


 守ろうとしたもの。


 大切だった顔。


 その輪郭が、黒霧に撫でられるたびに滲む。


「っ……!」


 リリアーナは唇を噛んだ。


 視界が揺れる。


 黒霧の奥で、誰かが自分の名前を呼んだ気がした。


 いや、違う。


 呼ばれたのではない。


 奪われそうになった。


 “リリアーナ”という名前の形を、黒い指でなぞられ、削られようとしている。


 怖い。


 気持ち悪い。


 けれど。


 隣にはレオンがいる。


 黒蒼雷を纏い、黒霧の子供たちへ手を伸ばしている。


 その横顔を見た瞬間、リリアーナは自分の足へ力を込めた。


 倒れない。


 震えてもいい。


 怖くてもいい。


 でも、呼ぶと決めた。


 彼が戻ってこられるように。


「レイさん!」


 声を出す。


 黒霧の圧に押され、喉が痛む。


 それでも呼ぶ。


 レオンは、黒霧の子供へ向けていた視線を少しだけ揺らし、低く答えた。


「俺はここにいる」


 その言葉に、リリアーナの胸が少しだけ温かくなる。


 いる。


 ちゃんといる。


 黒霧に呑まれていない。


 まだ、ここにいる。


「はい」


 リリアーナは頷いた。


「わたしも、ここにいます」


 レオンが一瞬だけ目を見開く。


 それから、ほんの少しだけ目を細めた。


「……ああ」


 短い返事。


 でも、それで十分だった。


 ◇


 黒霧の中で、最初に名前を取り戻した少年――ニルは、まだ完全には形を保てていなかった。


 小さな影。


 薄い輪郭。


 泣きそうな顔だけが、時折ぼんやり浮かぶ。


 それでも、さっきまでとは違う。


 ただの黒い影ではない。


 そこには確かに、誰かがいた。


『ニル……』


 少年は、自分の名前を確かめるように呟いた。


『ぼく……ニル……』


 その声は弱い。


 今にも消えそうだ。


 だが、そのたびにレオンの黒蒼雷が静かに揺れ、ニルの輪郭を繋ぎ止めている。


 リリアーナは、その光景を見て胸を押さえた。


 名前を取り戻す。


 それは、ただ言葉を思い出すことではない。


 自分がいたこと。


 好きなものがあったこと。


 誰かに手を握られていたこと。


 それを、もう一度世界へ繋ぎ止めることなのだ。


 レオンはニルを見つめたまま、静かに言う。


「ニル」


 少年の影が震える。


『……うん』


「離れるな」


『……うん』


「お前の名前は、もう奪わせない」


 ニルの影が、小さく頷いた。


 その瞬間、黒い光柱が怒りを帯びたように脈打つ。


 ゴォォォォンッ――。


 広場全体が揺れた。


 神霊像の破片が崩れ、黒霧が爆発するように広がる。


 次の瞬間、噴水跡から黒い触手が何本も伸びた。


 狙いは、ニル。


 せっかく取り戻しかけた名前を、再び喰らおうとしている。


「来るぞ!」


 クラウスが叫ぶ。


 白銀の剣閃が黒霧を切り裂いた。


 だが、黒霧は散らない。


 裂けた端から再び形を取り戻し、ニルへ伸びる。


「しつこいですわね……!」


 エリシアが術式盤を叩く。


 風属性の細い刃が、黒霧の進行方向へ幾重にも走る。


 直接消滅させるのではなく、流れを逸らす。


 黒霧の触手が横へ弾かれ、噴水跡の縁へ叩きつけられた。


「アルベルト様!」


「任せろ!」


 アルベルトが炎剣を振るう。


 紅炎が弧を描き、黒霧を焼く。


 ゴォッ!


 黒霧が悲鳴のような音を立てて後退した。


 だが、アルベルトは舌打ちする。


「焼きすぎると、子供の影まで巻き込むな……!」


「ええ」


 エリシアが顔を強張らせる。


「出力を絞ってください」


「簡単に言うなよ!」


「あなたなら出来ますわ」


「急に信頼してくるじゃねぇか!」


「茶化している場合ではありません」


「分かってる!」


 軽口の奥に、緊張がある。


 誰も本気で笑っていない。


 けれど、その会話があるから、空気が完全には沈まない。


 レオンは、それを感じていた。


 一人ではない。


 自分が子供たちの名前を呼び戻している間、仲間が道を作ってくれている。


 敵を壊すのではなく。


 救うために。


 それが、胸の奥で黒蒼雷を静かに熱くした。


 ◇


「次だ」


 レオンは、噴水跡の奥へ目を向けた。


 黒霧の子供たちは、まだ何体もいる。


 全員が苦しんでいる。


 顔のない頭を抱え、膝をつき、あるいは手を伸ばし、何かを探している。


『なまえ』


『わたしの』


『ぼくの』


『おいてかないで』


『くらい』


『さむい』


 声が多すぎる。


 全員を同時には救えない。


 その事実が、レオンの胸を締めつける。


 助けを求める声がある。


 全部に応えたい。


 だが、身体は一つしかない。


 黒蒼雷も無限ではない。


 焦りが生まれる。


 早く。


 もっと早く。


 そう思った瞬間、黒蒼雷がわずかに荒れた。


 バチィッ!


「レイさん!」


 リリアーナの声。


 鋭く、まっすぐ。


 レオンは息を止める。


 頭の奥へ、虚ろの声が入り込んでいた。


『急げ』


『間に合わない』


『全部救えない』


『なら壊せ』


『壊せば静かになる』


 違う。


 それは違う。


 分かっているのに、声は甘い。


 全部救えないなら、全部消せばいい。


 苦しみを終わらせるだけなら、壊す方が早い。


 その考えが、ほんの一瞬だけ脳裏をかすめた。


 その瞬間。


 リリアーナがレオンの手を強く握った。


「レイさん」


 今度は叫ばない。


 近くで、しっかりと呼ぶ。


 レオンは目を閉じ、息を吸った。


「俺はここにいる」


「はい」


 リリアーナの声が、すぐ返ってくる。


「急がなくていいです」


「でも――」


「急がなくていいです」


 同じ言葉を、もう一度。


 レオンは彼女を見る。


 リリアーナは怖がっている。


 黒霧に震え、顔色も悪い。


 それでも、目は逸らさない。


「一人ずつって言いましたよね」


「ああ」


「なら、一人ずつです」


「全部を同時に背負おうとしないでください」


 一拍。


「レイさんが壊れたら、誰も戻せなくなります」


 その言葉に、レオンは返せなかった。


 正しい。


 痛いほど正しい。


 自分はまた、全部を背負おうとしていた。


 東の塔で一人だった頃の癖。


 誰かを頼る前に、自分だけで終わらせようとする癖。


「……悪い」


「謝るより、戻ってきてください」


「戻ってる」


「なら、ちゃんと息してください」


 レオンは、ようやく気づいた。


 呼吸が浅くなっていた。


 ゆっくり息を吸う。


 黒霧の匂いが喉に絡む。


 それでも、吸う。


 吐く。


 もう一度吸う。


 黒蒼雷の荒れが、少しずつ収まっていく。


 セレスティアが静かに言った。


「良い判断よ、リリアーナ」


 リリアーナが少し驚いたように振り返る。


「わ、わたしですか?」


「ええ」


「黒蒼雷は、背負う力」


「でも、背負いすぎれば折れる」


 一拍。


「あなたは、彼が折れる前に止めている」


 リリアーナは顔を少し赤くした。


「……止められているかは、まだ分かりません」


「止めています」


 セレスティアの声は、優しかった。


「少なくとも今、この子は戻ってきた」


 この子。


 その呼び方に、レオンは少し眉を寄せた。


「子供扱いするな」


「昔から見ていると、どうしてもね」


「覚えてない」


「でしょうね」


 セレスティアが小さく笑う。


 ほんの一瞬だけ、空気が和らぐ。


 だが、黒霧の子供たちの呻きは止まらない。


 レオンは再び前を向いた。


「……次」


 今度は、ゆっくり言った。


 急がない。


 一人ずつ。


 それを自分へ言い聞かせる。


 ◇


 次に近づいてきたのは、小さな少女の影だった。


 ニルよりもさらに小さい。


 黒霧の中で、両手を胸元に抱えている。


『わたし』


『わたし……』


『どこ』


『くらい』


『こわい』


 声が細い。


 震えている。


 レオンは膝をついた。


 視線を合わせる。


 相手が影でも。


 子供の形をしているなら、見下ろしたくなかった。


「聞こえるか」


 少女の影が震える。


『……くろい』


『あおい』


『こわい』


「怖いか」


『うん』


 その答えに、レオンは少しだけ黙る。


 怖がられている。


 当然かもしれない。


 黒蒼雷は、黒霧にとって異物だ。


 名前を取り戻す力であり、虚ろを断つ力。


 この子たちにとっては救いかもしれない。


 でも、同時に怖いのだ。


 レオンは、黒蒼雷を少し弱めた。


 火花が小さくなる。


 リリアーナが見守る。


 グレイヴも、静かに目を細めた。


 力を弱める。


 敵地でそれをするのは危険だ。


 だが、今は必要だった。


「……これならどうだ」


 レオンが聞く。


 少女の影が、少しだけ頭を上げる。


『……あったかい』


 リリアーナの胸が、きゅっと痛む。


 黒蒼雷。


 怖い力だと思っていた。


 でも今、少女は“温かい”と言った。


 レオン自身も、少し驚いたようだった。


「そうか」


『うん』


「お前は、何を覚えてる」


『……』


 少女の影が震える。


『おと』


「音?」


『からん』


『ころん』


『きれい』


 レオンは少し考える。


 音。


 からん、ころん。


 きれい。


 エリシアが小さく口を開く。


「鈴……でしょうか」


 少女の影が反応した。


『すず……』


『すず』


『ちいさい』


『あかいひも』


 リリアーナがそっと言う。


「赤い紐の鈴……」


 少女の影が、胸元を探るように手を動かす。


『ここ』


『あった』


『なくした』


『おこられた』


『でも』


 一拍。


『おねえちゃんが、さがしてくれた』


 声が少し変わった。


 黒霧の奥から、記憶が浮かび上がる。


 小さな鈴。


 赤い紐。


 姉の手。


 泣いていた自分。


 それらが、名前へ繋がっていく。


 レオンは静かに言った。


「お前には姉がいた」


『……うん』


「鈴を探してくれた」


『うん』


「その鈴が大事だった」


『うん』


「なら、お前は空っぽじゃない」


 黒蒼雷が、少女の影へ優しく触れる。


 少女が震える。


『わたし……』


『わたしは……』


 黒い光柱が怒りを帯びる。


『ない』


『名はない』


『姉もない』


『鈴もない』


『空白へ戻れ』


 黒霧が少女を包み込もうとする。


 その瞬間。


「させませんわ」


 エリシアの声が響いた。


 風の術式が展開される。


 ただの風刃ではない。


 薄い結界状の風が、少女の周囲へ円を描く。


 黒霧を切り裂くのではなく、隔てる。


「人格反応を中心に小型保護結界を張りました」


「長くは持ちません!」


 クラウスが即座に動く。


 少女へ伸びる黒霧の触手を、剣で受け流す。


 斬り捨てるのではなく、軌道を逸らす。


 第一騎士団も続いた。


 グレイヴが低く命じる。


「守れ」


「対象を巻き込むな」


 騎士たちの動きが変わる。


 敵を倒す動きではない。


 守るための剣。


 黒霧を押し返し、空間を作る。


 アルベルトは炎を極限まで細く絞り、黒霧だけを焼く。


「くっそ、繊細作業向いてねぇんだけどな……!」


「出来ていますわ!」


「褒めるな、集中切れる!」


「では黙ります」


「いや少しは褒めろ!」


「どちらですの!?」


 こんな状況でも、二人のやり取りに一瞬だけ空気が揺れる。


 だが、それが良かった。


 黒霧の圧に押し潰されそうな中で、人の声がある。


 それが、虚ろへの抵抗になっていた。


 レオンは少女へ手を伸ばす。


「思い出せ」


「鈴」


「姉」


「赤い紐」


「お前の名前」


 少女が震える。


『……リ』


『リ……』


 声が掠れる。


 リリアーナが思わず祈るように両手を握る。


「頑張って……」


 少女の影が、ふっと揺れた。


『リナ……』


 その瞬間。


 黒霧が薄れる。


 少女の影に、一瞬だけ顔が浮かんだ。


 大きな瞳。


 泣き顔。


 でも、確かにそこにいた子供の顔。


『リナ』


 名前が戻る。


 黒蒼雷が穏やかに広がった。


 ニルに続き、リナの輪郭が安定する。


 リリアーナは、涙を堪えきれなかった。


「よかった……」


 レオンは静かに言う。


「リナ」


『……うん』


「忘れるな」


『うん……』


「ニルのそばへ」


 リナは小さく頷き、ニルの影の近くへ寄った。


 二つの小さな影が、黒霧の中で寄り添う。


 それだけの光景なのに。


 広場にいる全員の胸を打った。


 名前を取り戻した子供たちが、互いに寄り添っている。


 それは、虚ろに対する小さな勝利だった。


 ◇


 だが。


 虚ろの王は、それを許さなかった。


 黒い光柱が、今までで最も強く脈打った。


 ゴォォォォォォンッ!!


 広場全体が大きく揺れる。


 砕けた神霊像の一つが崩れ落ちる。


 地面に亀裂が走り、そこから黒霧が噴き出した。


『名を返すな』


『空白を乱すな』


『記憶を戻すな』


『苦しみを戻すな』


 声が怒っている。


 そして。


 その言葉には、奇妙な理屈があった。


 名前を戻すことは、苦しみを戻すこと。


 記憶を取り戻すことは、痛みを取り戻すこと。


 虚ろになれば、もう苦しまなくていい。


 だから返すな。


 その思想が、黒霧と共に流れ込んでくる。


 レオンは、歯を食いしばった。


 理解してしまう。


 少しだけ。


 何も覚えていなければ、傷つかない。


 大切なものがなければ、失わずに済む。


 居場所がなければ、奪われる痛みもない。


 それは、東の塔でレオンが身につけた諦めと似ていた。


 だからこそ。


 許せなかった。


「……違う」


 レオンが低く言う。


 声は小さい。


 でも、黒霧の中で確かに響いた。


「苦しいからって」


「全部なくしていい理由にはならない」


 黒蒼雷が、静かに強くなる。


「名前があるから痛い」


「記憶があるから苦しい」


「居場所があるから、失うのが怖い」


 一拍。


「でも、それでも」


 レオンはリリアーナを見る。


 リリアーナは涙を拭きながら、まっすぐ頷いた。


 アルベルトが炎剣を構える。


 エリシアが術式盤を握る。


 クラウスが剣を構える。


 グレイヴが前へ出る。


 ニルとリナが震えながらも寄り添う。


 その全部を見て。


 レオンは言った。


「空っぽより、ずっといい」


 黒蒼雷が広がる。


 今度は少し強く。


 でも、暴走ではない。


 意思のある雷。


 守るための雷。


 黒霧が押し返される。


 子供たちの影が、少しずつ顔を上げた。


『なまえ』


『ぼくも』


『わたしも』


『おもいだしたい』


 声が変わり始めていた。


 ただ奪う声ではない。


 求める声。


 戻りたい声。


 助けてほしい声。


 リリアーナが、涙を拭いて前を見る。


「レイさん」


「何だ」


「まだ、呼びます」


「ああ」


「何度でも」


「頼む」


 その短いやり取り。


 それだけで十分だった。


 レオンは黒霧の子供たちへ向き直る。


 まだ何人もいる。


 全員を救える保証はない。


 だが。


 一人ずつ。


 それしかない。


「次だ」


 レオンは静かに言った。


 黒蒼雷が応える。


 名を奪われた子供たちが、震えながら手を伸ばす。


 虚ろの王の声が、深く唸る。


 旧神殿区第一広場。


 そこで行われているのは、戦いだった。


 だが、ただの戦闘ではない。


 壊すための戦いではない。


 名前を返すための戦い。


 空白に抗うための戦い。


 レオンは、その中心で。


 もう一度、手を伸ばした。

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