第126話「一人ずつ、無能王子は“救えない焦り”と戦いながら名を呼び戻す」
黒霧の中で、名前を取り戻した子供たちが寄り添っていた。
ニル。
リナ。
たった二人。
だが、そこには確かな変化があった。
少し前まで、彼らは顔のない影だった。
黒霧の一部でしかなかった。
誰かも分からず。
自分が何を好きだったかも分からず。
母の手も、赤い紐の鈴も、林檎の甘さも思い出せず。
ただ、名を求めて手を伸ばすだけだった。
けれど今は違う。
二つの小さな影は、まだ頼りない輪郭ながらも互いのそばにいる。
ニルは胸元を押さえるようにして、自分の名前を何度も確かめていた。
『ニル……』
『ぼくは、ニル……』
リナは、震える手で見えない鈴を探すように胸元へ触れている。
『リナ……』
『すず……』
『おねえちゃん……』
完全に戻ったわけではない。
肉体があるわけでもない。
記憶が全て蘇ったわけでもない。
だが、それでも。
名前が戻った。
それだけで、黒霧の中に小さな灯りが生まれたようだった。
リリアーナは、その光景を見つめながら涙を拭った。
泣いている場合ではない。
分かっている。
まだ黒霧の子供たちは何人もいる。
虚ろの王の声も消えていない。
旧神殿区の奥からは、なおも黒い光柱が脈打っている。
それでも。
二人が名前を取り戻したことが、どうしようもなく嬉しかった。
胸が痛いほどに。
そして。
それ以上に、怖かった。
レオンが、また一人で背負おうとしているからだ。
彼は今、黒霧の中心に立っている。
黒蒼雷を広げ、子供たちへ手を伸ばしている。
刀を抜かず。
敵を断たず。
ただ、名前を呼び戻そうとしている。
その姿は、強かった。
でも同時に、とても危うかった。
黒霧は、レオンへまとわりついている。
彼の足元から膝へ。
膝から腰へ。
指先へ。
雷が焼き払っているのに、消えない。
むしろ、レオンへ触れようとしている。
名を返す力。
それを求めて。
あるいは、壊そうとして。
「……レイさん」
リリアーナは、また呼んだ。
少しでも目を離すのが怖かった。
少しでも呼び遅れるのが怖かった。
レオンの背中が、ほんのわずかに揺れる。
それから、低い声が返ってきた。
「俺はここにいる」
その返事を聞いて、リリアーナは息を吐いた。
「はい」
まだ大丈夫。
まだ戻っている。
まだ、ここにいる。
その確認を何度もする。
何度でもする。
たとえ喉が痛くなっても。
声が枯れても。
彼が帰ってくるためなら。
◇
黒霧は、少しずつ怒りを増していた。
ニルとリナを取り戻されたことが、虚ろの王にとって明確な損失なのだろう。
噴水跡から湧き上がる霧の量が増えている。
神霊像の亀裂からも、黒い靄が漏れ出していた。
広場の空気が重くなり、護符の光が強くなる。
ジジジジ……。
耳障りな音が続く。
エリシアは術式盤に目を落とし、顔を険しくした。
「汚染濃度がまた上昇していますわ」
「このままでは、防護符が持ちません」
クラウスが短く聞く。
「どれくらいだ」
「長く見ても半刻」
「ただし、レオン様の周囲はもっと短いです」
その言葉に、リリアーナの表情が強張る。
「レイさんの周囲だけ?」
「黒蒼雷と黒霧が干渉しています」
エリシアは早口で続ける。
「名前を取り戻すたびに、黒霧側の抵抗が強くなっていますわ」
「つまり」
アルベルトが唇を噛む。
「助ければ助けるほど、レオンへの負荷が上がるってことかよ」
「ええ」
エリシアの声は重い。
「ですが、止めれば黒霧の侵食が進みます」
「そして子供たちは再び虚ろへ引き戻される」
「最悪ですわね」
アルベルトは炎剣を握り直した。
苛立ちが炎に出そうになる。
だが、出しすぎれば子供たちを巻き込む。
それが分かっているから、彼は必死に魔力を抑えていた。
「くそ……!」
「いつもみたいにぶっ飛ばせねぇの、しんどいな」
「今回は破壊戦ではありませんから」
エリシアが静かに言う。
「救出戦です」
「分かってるよ」
アルベルトは噴水跡を見る。
黒霧の子供たち。
小さな影。
泣いている。
助けてほしいと手を伸ばしている。
それを見て、炎を叩き込めるほど彼は冷たくない。
「……王城の連中」
低く呟く。
「こんなもの、よく隠してやがったな」
クラウスが剣を構えながら答える。
「隠していたのは、今の王城だけとは限らない」
「この封印は古すぎる」
「何代も前からだ」
「だったらなおさらだろ」
アルベルトの声には怒りがあった。
「何代も前から、ずっと見ないふりしてきたってことじゃねぇか」
誰も否定できなかった。
グレイヴも黙っている。
ただ、黒霧を睨んでいた。
その横顔には、深い後悔があった。
王国の剣。
守るために剣を握ってきた男。
だが、王国が隠してきた闇までは斬れなかった。
今、彼の前にあるものは、王国が長い時間をかけて積み重ねた罪の形だった。
◇
レオンは、三人目の子供へ近づいた。
黒霧の中、膝を抱えている影。
他の子供たちよりも、さらに小さく見えた。
輪郭が不安定だ。
今にも霧へ溶けそうになっている。
『……ない』
『ない』
『ぼく、ない』
ずっと、それだけを繰り返している。
声も小さい。
怯えているというより、諦めているような響きだった。
レオンは膝をつく。
黒霧が頬を撫でる。
冷たい。
だが、無視する。
「聞こえるか」
『ない』
「お前に聞いてる」
『ない』
「何がない」
『ぜんぶ』
小さな答え。
レオンは黙る。
全部ない。
その言葉が、胸に刺さる。
東の塔で、同じようなことを思った。
自分には何もない。
力もない。
価値もない。
居場所もない。
だから、何も望まない。
全部ないと思っていれば、これ以上奪われない。
その感覚を、レオンは知っていた。
だからこそ、この子を放っておけなかった。
「……本当に全部ないのか」
『ない』
「好きなものも」
『ない』
「怖かったものも」
『ない』
「会いたかった人も」
『……』
初めて、影が止まった。
レオンはそのわずかな反応を逃さない。
「誰かいたのか」
『……ない』
「今、止まった」
『ない』
「いたんだな」
『……』
沈黙。
黒霧が揺れる。
虚ろの声が、遠くから囁く。
『問うな』
『空白こそ救い』
『思い出せば痛む』
『痛みは不要』
その言葉に、影が震える。
『いたい』
『いや』
『おもいだしたくない』
レオンは息を止める。
思い出したくない。
その可能性を考えていなかったわけではない。
名前を取り戻すことは救いだ。
でも同時に、痛みを取り戻すことでもある。
ニルもリナも、温かい記憶から名前へ辿れた。
だが、この子は違う。
記憶そのものを拒んでいる。
思い出すことが怖い。
それなら、無理に呼び戻していいのか。
一瞬、レオンの中に迷いが生まれた。
黒蒼雷が弱く揺れる。
リリアーナが気づく。
「レイさん」
声。
近い。
レオンは答える。
「俺はここにいる」
「はい」
リリアーナは、少しだけ近づいた。
黒霧に触れないぎりぎりの位置で止まる。
「その子、怖がってるんですか」
「……ああ」
「思い出したくないって言ってる」
リリアーナの顔が痛む。
「そっか……」
「無理に戻していいのか分からない」
レオンの声は、苦かった。
「名前を戻すって言っても」
「思い出すのが痛いなら」
「それは、俺が勝手に押し付けてるだけかもしれない」
その言葉に、リリアーナはしばらく黙った。
すぐには答えない。
軽い慰めを言わない。
黒霧の中で震える小さな影を見つめ、胸元で手を握る。
そして、静かに言った。
「……痛い記憶なら、無理に全部思い出さなくてもいいと思います」
レオンが見る。
リリアーナは続けた。
「でも」
「自分が誰かまで奪われたままなのは、きっともっと悲しいです」
一拍。
「だから、全部を思い出させるんじゃなくて」
「その子が戻ってこられる場所を探すのはどうでしょう」
「戻ってこられる場所」
「はい」
リリアーナは、黒霧の子供へ視線を向ける。
「痛いことだけじゃなくて」
「少しでも安心したもの」
「暗い中で、手を伸ばしたかったもの」
「そういうのが、どこかに残っているかもしれません」
レオンは黙っていた。
痛い記憶を掘り返すのではない。
戻ってこられる場所を探す。
それは、今の自分にも重なる。
東の塔の記憶は痛い。
でも。
今、戻れる場所があるから向き合える。
リリアーナの声。
仲間たち。
帰る約束。
それがあるから、過去へ呑まれずに済む。
「……分かった」
レオンは小さく頷いた。
「やってみる」
リリアーナが頷く。
「はい」
◇
レオンは、再び黒霧の子供を見る。
「全部思い出さなくていい」
影が震える。
『……?』
「痛いなら、今は見なくていい」
『……いい、の』
「ああ」
レオンは静かに言う。
「でも、お前が戻ってこられるものを探そう」
『もどる……』
「暗い中で、欲しかったもの」
「怖い時に、探したもの」
「誰かじゃなくてもいい」
「音でも、匂いでも、温度でも」
影は、長く黙った。
黒霧が揺れる。
虚ろの声が囁く。
『ない』
『探すな』
『空白へ沈め』
だが、レオンは黒蒼雷を静かに広げる。
虚ろの声を少しずつ押し返す。
影の周囲に、わずかな空間ができる。
エリシアがすぐに反応する。
「人格反応、微弱ですが残っています」
「黒霧濃度が下がり始めていますわ」
クラウスが黒霧の流れを剣で断つ。
アルベルトが炎を細く走らせ、虚ろの干渉を焼く。
グレイヴが周囲の黒い触手を一振りで断ち払う。
皆が、空間を作る。
レオンと小さな影が向き合えるように。
影が、ぽつりと呟いた。
『……あめ』
「雨?」
『おと』
『ぽつぽつ』
『やね』
『あなの、ところ』
レオンは静かに聞く。
雨の音。
屋根。
穴。
たぶん、古い家か、小屋か。
『さむい』
『でも』
『……うた』
リリアーナが小さく息を呑む。
「歌……?」
影が震える。
『だれか』
『うたってた』
『ちいさい』
『へた』
『でも』
一拍。
『こわくなかった』
レオンは、胸の奥が痛くなるのを感じた。
誰かが歌っていた。
小さくて、下手な歌。
でも、それが怖さを和らげた。
それはきっと、この子にとって戻れる場所だった。
「その歌を覚えてるか」
『……わかんない』
「音だけでもいい」
『……ん』
影が、小さく震える。
そして、本当にかすかな声で、旋律にもならない音を漏らした。
『ら……』
『ら、ら……』
『ん……』
途切れ途切れ。
歌と呼ぶにはあまりにも弱い。
だが。
確かにそこには、誰かの記憶があった。
リリアーナが、そっと同じ音をなぞった。
「ら……ら……」
レオンが振り向く。
リリアーナは少し恥ずかしそうにしながらも、影を見る。
「……こう、ですか?」
影が震える。
『……うた』
リリアーナは、もう一度歌う。
短く。
下手ではない。
でも、立派な歌でもない。
優しい声。
雨の夜に、怖がる子供へ聞かせるような声だった。
「ら……ら……」
黒霧の子供が、少しずつ顔を上げる。
『……こわくない』
その一言に、リリアーナの目が潤む。
「うん」
「怖くないよ」
レオンは、静かに黒蒼雷を重ねた。
「雨の音」
「屋根」
「歌」
「怖くなかった夜」
一拍。
「お前は、それを覚えてる」
影が震える。
『ぼく……』
『ぼくは……』
虚ろの声が怒る。
『不要』
『歌など不要』
『記憶は痛み』
『名前は鎖』
黒霧が一気に押し寄せる。
グレイヴが前へ出る。
「来るぞ」
剣閃。
広場の空気が裂ける。
黒霧が一瞬で後退する。
だが、今度の黒霧はしつこい。
何本もの触手が同時に伸び、レオンと影を分断しようとする。
「させるか!」
アルベルトが炎を走らせる。
紅炎が触手の根元を焼く。
エリシアが風結界を重ねる。
「リリアーナ様、続けて!」
「はい!」
リリアーナは歌う。
震える声で。
でも、止めない。
「ら……ら……」
黒霧の中で、細い歌声が響く。
それは戦場には似合わない。
けれど、今の広場には必要な声だった。
レオンは、その声を聞きながら影へ手を伸ばす。
「思い出せ」
「お前は、空っぽじゃない」
影が、震える。
『ぼく……』
『……ト』
声が掠れる。
『ト……マ』
リリアーナが歌を止めず、涙を流す。
レオンは低く言う。
「トマ」
影が大きく震えた。
『トマ……』
『ぼく、トマ……』
その瞬間、黒霧が薄れる。
三人目の子供が、名前を取り戻した。
小さな顔が一瞬浮かび上がる。
泣きながら、でも少しだけ安心したような顔。
『うた……』
『きこえる……』
リリアーナは震える声で言った。
「聞こえてるよ」
「トマ」
トマの影が、ニルとリナの方へゆっくり近づく。
三つの小さな灯り。
黒霧の中で、寄り添う。
◇
レオンは、深く息を吐いた。
疲労が重い。
一人戻すごとに、胸の奥を削られる。
名前を呼び戻すたび、自分の中の黒蒼雷が何かを引き受けているような感覚がある。
痛み。
寂しさ。
恐怖。
子供たちが抱えていたものの欠片。
それが流れ込んでくる。
レオンは、膝をつきそうになった。
「レイさん!」
リリアーナが支える。
「大丈夫ですか!?」
「……少し、重い」
「何がですか」
「戻した子たちの記憶みたいなものが」
一拍。
「少し、流れてくる」
リリアーナの顔色が変わる。
「それ、かなり危ないんじゃ……!」
「でも、まだ動ける」
「その言い方!」
怒る。
だが、泣きそうでもある。
リリアーナはレオンの腕を掴んだ。
「少し休んでください」
「まだいる」
「分かってます!」
「でも、レイさんが倒れたら終わりです!」
レオンは黒霧の子供たちを見る。
まだ何人もいる。
助けを求めている。
止まっている時間が惜しい。
その焦りを見透かしたように、リリアーナが強く言う。
「一人ずつです」
レオンは黙る。
「さっき言いましたよね」
「一人ずつ」
「急がないって」
「……ああ」
「なら、今は呼吸してください」
レオンは、ゆっくり息を吸った。
黒霧が喉に絡む。
でも、リリアーナの手がある。
歌声の余韻がある。
ニル、リナ、トマ。
名前を取り戻した子供たちの小さな灯りがある。
だから、まだ立てる。
グレイヴが背後から低く言った。
「レオン」
「何だ」
「次からは、俺たちがもっと負荷を分散する」
「どうやって」
「黒霧の干渉を、こちらで削る」
クラウスが頷く。
「お前は名前を呼び戻すことに集中しろ」
「防御は任せろ」
アルベルトが炎剣を肩に担ぐ。
「俺も慣れてきた」
「燃やしすぎない程度に焼く」
エリシアが術式盤を操作する。
「人格反応の強い個体を優先的に探します」
「闇雲に手を伸ばすより、戻れる可能性が高い子から行きましょう」
リリアーナも頷く。
「わたしは呼びます」
「何度でも」
レオンは、全員を見た。
一人で助けるのではない。
全員で名前を返す。
その形が、少しずつ見えてきた。
胸の奥の重さが、少しだけ軽くなる。
「……分かった」
レオンは静かに頷く。
「頼む」
その一言に。
全員が、ほんの少しだけ目を見開いた。
頼む。
レオンがそう言った。
それだけのこと。
でも、東の塔の頃を知る者からすれば、とても大きな変化だった。
リリアーナは、小さく笑う。
「はい」
アルベルトも笑う。
「任された」
エリシアが優雅に頷く。
「承りましたわ」
クラウスが剣を構える。
「任せろ」
グレイヴが静かに目を細める。
「……いい判断だ」
黒霧が再び蠢く。
虚ろの王の声が、深く唸る。
『抗うな』
『名は苦しみ』
『記憶は傷』
『虚ろへ沈め』
レオンは、もうその声にすぐ飲まれなかった。
隣からリリアーナが呼ぶ。
「レイさん」
レオンは答える。
「俺はここにいる」
そして、黒霧の子供たちへ向き直った。
「次だ」
名前を返す戦いは、まだ終わらない。
だが。
もう一人ではなかった。




