表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
無能王子、東の塔で神霊を得る  作者: 伊佐波瑞樹


この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

124/159

第124話「名前を返す雷、無能王子は“虚ろにされた子供たち”へ手を伸ばす」


 黒霧の子供たちが、苦しみ始めた。


 広場の空気が、ひび割れる。


 旧神殿区第一広場。


 かつて“名告げの広場”と呼ばれていた場所。


 人々が自分の名を告げ、神霊へ祈りを捧げた場所。


 その中心にある干上がった噴水跡から、黒い影の子供たちが次々と湧き上がっている。


 顔はない。


 目もない。


 口もない。


 なのに。


 泣いているのが分かった。


『なまえ』


『ぼくの』


『わたしの』


『どこ』


『かえして』


 声が重なる。


 幼い声。


 掠れた声。


 泣きながら喉を潰したような声。


 それらが黒霧の中から滲み出し、広場全体へ広がっていた。


 だが。


 その声を遮るように、さらに深い声が落ちた。


『――返すな』


 低く、底冷えする声。


 光柱の奥から響く声。


 それが聞こえた瞬間、黒霧の子供たちは一斉に身を捩った。


『あああ……』


『いたい』


『やだ』


『なまえ』


『なまえ、ちがう』


『ぼく、だれ』


『わたし、だれ』


 輪郭が崩れる。


 小さな腕が伸び、黒霧へ溶ける。


 頭部が膨らみ、また縮む。


 人の形を保とうとしているのに、何かに上から押し潰されているみたいだった。


 その光景に、リリアーナは息を呑む。


「……ひどい」


 声が震えた。


 ただ怖いだけではない。


 痛い。


 胸の奥が痛い。


 黒霧の子供たちには、顔がない。


 それでも、苦しんでいるのが分かる。


 あれは敵なのか。


 襲ってくるのかもしれない。


 危険なのかもしれない。


 でも。


 リリアーナには、彼らが“倒すべき怪物”には見えなかった。


 助けを求める子供に見えた。


 それは、きっとレオンも同じだった。


 レオンは、黒霧の子供たちを見ていた。


 刀は抜いていない。


 右腕はまだ包帯で覆われている。


 黒蒼雷が足元へ静かに流れている。


 バチ……。


 バチィ……。


 雷は荒れていない。


 怒っている。


 でも、暴れていない。


 レオンの中にある怒りは、今、黒霧を焼き払うためのものではなかった。


 名前を奪ったものへ向いている。


 そして。


 奪われた者たちへ、手を伸ばそうとしている。


「……レイさん」


 リリアーナが呼ぶ。


 約束の声。


 レオンは、息を吸う。


 黒霧の声が頭の奥を掻き回してくる。


『名を返せ』


『名を寄越せ』


『お前の名を』


『黒蒼雷』


『黒蒼雷』


『黒蒼雷』


 自分の名前ではなく、力の名で呼ばれる。


 そのたびに、胸の奥がざらつく。


 東の塔で“価値なし”と呼ばれた時のように。


 王城で“失敗作”と扱われた時のように。


 自分自身が、名前ではなく役割や評価へ塗り替えられていく感覚。


 気持ち悪い。


 足元が揺れる。


 だが。


 リリアーナの声が、もう一度響く。


「レイさん」


 今度は、少し強く。


 レオンは答えた。


「俺はここにいる」


 リリアーナが頷く。


「はい」


 それだけで、黒霧の声が少し遠ざかる。


 完全には消えない。


 だが、自分の輪郭が戻る。


 レオンハルト。


 レイ。


 どちらでもいい。


 少なくとも、自分は“黒蒼雷”という力そのものではない。


 ここにいる。


 そう思える。


 ◇


「団長」


 クラウスが剣を構えたまま低く呼ぶ。


「どうしますか」


 グレイヴは、噴水跡から広がる黒霧の子供たちを見ていた。


 その顔は険しい。


 敵意を向けられている。


 だが、こちらから斬り込む判断はしていない。


 なぜなら分かっているからだ。


 あれは単なる魔物ではない。


 黒霧で形作られているが、そこには“残滓”がある。


 名前を奪われた者たちの残滓。


 記憶を削られたもの。


 人であったかもしれないもの。


 下手に斬れば、二度と戻らない可能性がある。


 だから、剣を抜いたまま動けない。


「……むやみに斬るな」


 グレイヴが低く命じる。


 第一騎士団精鋭たちは即座に応じる。


「はっ」


「防御陣形」


「黒霧がこちらへ接触する場合のみ、押し返せ」


「消滅攻撃は禁じる」


 騎士たちの表情が変わる。


 王国最強の騎士団であっても、この判断は難しい。


 相手が襲ってくるなら斬る。


 それが戦場の基本だ。


 だが今、目の前にいるものは違う。


 斬っていいのか。


 救えるのか。


 その迷いが、剣先へ乗る。


 アルベルトも炎剣を抜きかけて、歯を食いしばった。


「……クソ」


「やりづれぇな、これ」


 エリシアが術式盤を展開する。


「接触した黒霧から、微弱な人格反応がありますわ」


「断片ですが……確かに、個別性があります」


 リリアーナが振り向く。


「個別性?」


「完全な集合体ではない、ということです」


 エリシアは声を硬くする。


「一体一体に、違う反応がある」


「つまり」


 一拍。


「それぞれが別の“誰か”だった可能性が高い」


 その言葉に、広場の空気がさらに重くなる。


 黒霧の子供たちが、また呻いた。


『なまえ』


『ぼくの』


『どこ』


『いたい』


『さむい』


『くらい』


 レオンは、一歩前へ出た。


 リリアーナの手が反射的に強くなる。


「レイさん」


「大丈夫だ」


「本当に?」


「……分からん」


 正直な答え。


 リリアーナは目を見開く。


 でも、すぐに頷いた。


「じゃあ、わたしが見ています」


「ああ」


「約束、忘れないでください」


「忘れない」


「呼んだら?」


「俺はここにいる」


「はい」


 そのやり取りを聞いて、アルベルトが小さく息を吐く。


「……すげぇな」


「何がですの?」


 エリシアが視線を術式盤から外さずに問う。


「いや」


「この状況で、あいつちゃんと戻ってきてる」


「前なら絶対、一人で突っ込んでただろ」


「ええ」


 エリシアは静かに頷く。


「リリアーナ様の存在は、かなり大きいですわね」


「本人が聞いたらまた真っ赤になりそうだけどな」


「今はそれどころではありません」


「分かってる」


 軽口は交わされる。


 だが、誰も気を抜いていない。


 黒霧は広がっている。


 子供たちの影は、少しずつこちらへ近づいている。


 そして何より。


 光柱の奥から聞こえる“返すな”という声が、空気を支配しようとしていた。


 ◇


 レオンは、噴水跡へ近づいた。


 黒霧の子供たちが、一斉に顔のない頭を向ける。


 視線はない。


 なのに、見られている。


『くろい』


『あおい』


『かみなり』


『なまえを』


『ちょうだい』


『かえして』


 小さな手が伸びる。


 影の指先が、黒蒼雷へ触れようとする。


 リリアーナが息を呑む。


 だが、レオンは逃げない。


 黒蒼雷を強める。


 ただし、焼き払うためではない。


 触れさせるために。


 黒蒼雷が、黒霧の子供の手に触れた。


 バチ……。


 小さな音。


 黒霧が一瞬、震える。


 影の子供が、動きを止めた。


『……あ』


 声。


 今までより、少しだけはっきりした声。


 レオンは静かに言う。


「お前は誰だ」


 黒霧の子供は震える。


『ぼく……』


『ぼくは……』


 だが、次の瞬間。


 光柱の奥から、低い声が落ちる。


『――ない』


 黒霧の子供が苦しみ始める。


『ない』


『なまえ』


『ない』


『ぼくは』


『ない』


 輪郭が崩れる。


 せっかく形になりかけた手が、黒霧へ溶けていく。


 レオンの目が細くなる。


「邪魔するな」


 低い声。


 黒蒼雷が強くなる。


 バチィッ!


 しかし、黒霧の奥の声は冷たい。


『返すな』


『名は喰われた』


『空白こそ安寧』


『虚ろこそ終着』


 頭の奥へ響く。


 言葉が意味ではなく、圧として押し込まれる。


 空白。


 終着。


 何もないことが救い。


 苦しまないためには、名前を捨てろ。


 そんな思想が、黒霧を通じて流れ込んでくる。


 レオンの胸が、ぎり、と痛む。


 東の塔で、何度も似たことを思った。


 何も望まなければ楽だ。


 誰にも期待しなければ傷つかない。


 自分に価値なんてないと思っていれば、捨てられても諦められる。


 空っぽでいる方が楽だ。


 そう思ったことがある。


 だから。


 虚ろの声は、少しだけ分かってしまう。


 それが、余計に気持ち悪かった。


「……レイさん!」


 リリアーナの声が飛ぶ。


 レオンの意識が戻る。


「俺はここにいる」


 すぐ答える。


 答えながら、自分の声で自分を繋ぎ止める。


 リリアーナは、今にも駆け寄りたい顔をしている。


 だが、踏み止まっている。


 自分が近づきすぎれば、黒霧に巻き込まれる。


 それを理解している。


 だから、声で支える。


 レオンも、それを分かっていた。


「……大丈夫だ」


「嘘だったら怒ります!」


「今は本当だ」


「今は、って何ですか!」


「先のことは分からん」


「そこは安心させてください!」


 レオンは少しだけ口元を緩めた。


 本当に、少しだけ。


 こんな場所で。


 黒霧の子供たちに囲まれながら。


 それでも、リリアーナの声で呼吸ができる。


 それが不思議だった。


 ◇


 セレスティアが一歩前へ出る。


「レオン」


「何だ」


「黒蒼雷だけでは足りないわ」


「名前を呼び戻すには、呼び水が必要」


「呼び水?」


「記憶よ」


 セレスティアは黒霧の子供たちを見る。


「完全な名前を失っていても、記憶の欠片は残っている」


「温度」


「声」


「匂い」


「誰かの手」


「そういう小さなものが、名前へ繋がる」


 レオンは黒霧の子供を見る。


 震えている影。


 名前を奪われた残滓。


「……どうすればいい」


「問いかけて」


「名前ではなく、その子自身へ」


 セレスティアの声は静かだった。


「何が好きだったか」


「何を怖がったか」


「誰に会いたかったか」


「そういうものが残っていれば、名前に近づける」


 レオンは少し黙る。


 問いかける。


 戦いではない。


 救出だ。


 だが、簡単ではない。


 目の前の子供たちは、黒霧だ。


 意思はある。


 でも崩れかけている。


 レオンは、触れている黒霧の子供へ向き直った。


「……お前」


『ぼく……?』


「ああ」


「何が好きだった」


 黒霧の子供が震える。


『すき……』


「食べ物でも」


「場所でも」


「誰かでも」


 沈黙。


 黒霧が揺れる。


 光柱の奥の声が、また圧をかけてくる。


『ない』


『すべてない』


『空白』


『空白』


 レオンは歯を食いしばる。


「黙れ」


 黒蒼雷が光る。


 だが、抑える。


 焼かない。


 壊さない。


 目の前の子供へ、もう一度問う。


「何か、覚えてないか」


「温かかったもの」


「欲しかったもの」


「怖かったもの」


 黒霧の子供は、震えた。


『……あか』


 小さな声。


 レオンの目が細くなる。


「あか?」


『あかい……』


『まるい……』


『あまい……』


 リリアーナが息を呑む。


「……林檎?」


 黒霧の子供が、僅かに反応する。


『り……』


『ん……』


 声が途切れる。


 だが、確かに。


 何かが戻りかけている。


 アルベルトが小さく呟いた。


「林檎が好きだったのか……」


 その一言で、なぜか胸が痛くなる。


 ただの好物。


 小さな記憶。


 でも、それはその子が“いた”証拠だった。


 エリシアが術式盤を見ながら言う。


「人格反応、上昇しています」


「黒霧の密度が下がっている……!」


 グレイヴが目を細める。


「本当に戻せるのか……」


 レオンは、さらに黒蒼雷を静かに流す。


「林檎」


「ああ」


「赤くて」


「丸くて」


「甘い」


「お前は、それが好きだった」


 黒霧の子供が震える。


『すき……』


『りんご……』


『ぼく……』


 声が戻る。


 少しずつ。


 輪郭が安定する。


 その瞬間。


 光柱の奥の声が、怒りを帯びた。


『返すなと言った』


 黒霧が一気に膨れ上がる。


 噴水跡から、黒い触手のようなものが伸びた。


 狙いは、レオンではない。


 子供の影だ。


 思い出しかけたその子を、再び飲み込もうとしている。


「させるかよ!!」


 アルベルトが炎剣を振るう。


 紅炎が弧を描き、触手を焼く。


 ドォッ!


 黒霧が裂ける。


 だが、完全には消えない。


 すぐ再生しようとする。


「しつけぇな!」


 クラウスが踏み込む。


 剣閃。


 白銀の斬撃が黒霧を押し返す。


 グレイヴも静かに剣を抜いた。


 その瞬間。


 空気が変わる。


 王国最強の剣が、初めて光を帯びる。


 一閃。


 ただ一振り。


 黒霧の触手が、再生する前に細かく断ち切られた。


 斬撃の余波が、広場の黒霧を押し退ける。


 アルベルトが思わず呟く。


「……化け物かよ」


 グレイヴは答えない。


 ただ低く言う。


「今のうちだ」


 レオンは頷く。


 リリアーナが叫ぶ。


「レイさん、続けて!」


「ああ」


 レオンは黒霧の子供へ向き直る。


「林檎が好きだった」


「他には」


 黒霧の子供が震える。


『……て』


「手?」


『おおきい……て』


『あったかい……』


『おかあ……』


 声が詰まる。


 黒霧が震える。


『おかあさん……』


 リリアーナの目に涙が浮かぶ。


 周囲の騎士たちも、言葉を失う。


 名前を奪われても。


 母の手の記憶は残っていた。


 レオンの胸の奥が痛む。


 東の塔で、母の手を思い出したことがある。


 だが、それは遠かった。


 冷たくなっていく記憶だった。


 目の前の子供も、きっと同じように。


 誰かの温度を探していた。


「お前には」


 レオンは静かに言う。


「母親がいた」


「林檎が好きだった」


「温かい手を覚えてる」


「なら」


 一拍。


「お前は、空っぽじゃない」


 黒蒼雷が、優しく広がる。


 黒霧の子供の胸元に、小さな光が灯る。


『ぼく……』


『ぼくは……』


 周囲が息を呑む。


 レオンも、リリアーナも、誰も動けない。


 その瞬間を待つ。


 名前が戻る瞬間を。


『……ニ』


 小さな音。


『ニ……ル……』


 黒霧が震える。


 そして。


 子供の影が、初めてはっきりと言った。


『ニル』


 その瞬間。


 黒蒼雷が広場全体へ静かに広がった。


 爆発ではない。


 祝福のような雷光。


 黒霧の一体が、ふっと形を変える。


 顔のない影の中に、小さな輪郭が浮かび上がる。


 泣いている少年の顔。


 ほんの一瞬だけ。


 でも、確かに見えた。


 リリアーナが涙を零す。


「戻った……」


 エリシアの術式盤が強く光る。


「人格反応、安定!」


「黒霧密度が急速低下!」


 アルベルトが拳を握る。


「やった……!」


 だが。


 次の瞬間。


 黒い光柱が、激しく脈打った。


 ゴォォォォォォンッ!!


 怒り。


 明確な怒り。


 広場全体を押し潰すような魔力圧が降ってくる。


『返すな』


『名を返すな』


『すべて空白へ』


『すべて虚ろへ』


 噴水跡の黒霧が、爆発的に膨れ上がる。


 残りの子供たちの影が、一斉に苦しみ始めた。


『なまえ』


『いやだ』


『わたしも』


『ぼくも』


『たすけて』


 声が重なる。


 助けを求める声。


 それはもう、ただの呻きではなかった。


 はっきりと、救いを求めていた。


 レオンは、その声を聞いて。


 静かに、前へ出た。


 リリアーナがすぐ呼ぶ。


「レイさん!」


 レオンは答える。


「俺はここにいる」


 そして。


 黒霧の子供たちを見る。


「……一人ずつだ」


 低い声。


「全員、名前を返す」


 グレイヴが目を見開く。


「レオン、それは――」


「無茶だって言うんだろ」


 レオンは振り返らない。


「分かってる」


 一拍。


「でも、助けてって言ってる」


 その言葉に、誰も反論できなかった。


 リリアーナは涙を拭き、レオンの隣へ立つ。


「じゃあ、わたしも呼びます」


「レイさんが戻れるように」


 アルベルトが炎剣を構える。


「俺は邪魔を焼く」


 エリシアが術式盤を展開する。


「わたくしは人格反応を追います」


 クラウスが剣を構える。


「黒霧の侵食は俺が止める」


 グレイヴが静かに剣を構え直す。


「……なら、道は俺が作る」


 セレスティアが、金色の瞳でレオンを見る。


 そして、小さく微笑んだ。


「それが黒蒼雷よ」


 黒霧が渦巻く。


 虚ろの声が怒り狂う。


 名を奪われた子供たちが泣いている。


 その中心で。


 レオンは、黒蒼雷を静かに広げた。


 壊すためではなく。


 取り戻すために。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ