第124話「名前を返す雷、無能王子は“虚ろにされた子供たち”へ手を伸ばす」
黒霧の子供たちが、苦しみ始めた。
広場の空気が、ひび割れる。
旧神殿区第一広場。
かつて“名告げの広場”と呼ばれていた場所。
人々が自分の名を告げ、神霊へ祈りを捧げた場所。
その中心にある干上がった噴水跡から、黒い影の子供たちが次々と湧き上がっている。
顔はない。
目もない。
口もない。
なのに。
泣いているのが分かった。
『なまえ』
『ぼくの』
『わたしの』
『どこ』
『かえして』
声が重なる。
幼い声。
掠れた声。
泣きながら喉を潰したような声。
それらが黒霧の中から滲み出し、広場全体へ広がっていた。
だが。
その声を遮るように、さらに深い声が落ちた。
『――返すな』
低く、底冷えする声。
光柱の奥から響く声。
それが聞こえた瞬間、黒霧の子供たちは一斉に身を捩った。
『あああ……』
『いたい』
『やだ』
『なまえ』
『なまえ、ちがう』
『ぼく、だれ』
『わたし、だれ』
輪郭が崩れる。
小さな腕が伸び、黒霧へ溶ける。
頭部が膨らみ、また縮む。
人の形を保とうとしているのに、何かに上から押し潰されているみたいだった。
その光景に、リリアーナは息を呑む。
「……ひどい」
声が震えた。
ただ怖いだけではない。
痛い。
胸の奥が痛い。
黒霧の子供たちには、顔がない。
それでも、苦しんでいるのが分かる。
あれは敵なのか。
襲ってくるのかもしれない。
危険なのかもしれない。
でも。
リリアーナには、彼らが“倒すべき怪物”には見えなかった。
助けを求める子供に見えた。
それは、きっとレオンも同じだった。
レオンは、黒霧の子供たちを見ていた。
刀は抜いていない。
右腕はまだ包帯で覆われている。
黒蒼雷が足元へ静かに流れている。
バチ……。
バチィ……。
雷は荒れていない。
怒っている。
でも、暴れていない。
レオンの中にある怒りは、今、黒霧を焼き払うためのものではなかった。
名前を奪ったものへ向いている。
そして。
奪われた者たちへ、手を伸ばそうとしている。
「……レイさん」
リリアーナが呼ぶ。
約束の声。
レオンは、息を吸う。
黒霧の声が頭の奥を掻き回してくる。
『名を返せ』
『名を寄越せ』
『お前の名を』
『黒蒼雷』
『黒蒼雷』
『黒蒼雷』
自分の名前ではなく、力の名で呼ばれる。
そのたびに、胸の奥がざらつく。
東の塔で“価値なし”と呼ばれた時のように。
王城で“失敗作”と扱われた時のように。
自分自身が、名前ではなく役割や評価へ塗り替えられていく感覚。
気持ち悪い。
足元が揺れる。
だが。
リリアーナの声が、もう一度響く。
「レイさん」
今度は、少し強く。
レオンは答えた。
「俺はここにいる」
リリアーナが頷く。
「はい」
それだけで、黒霧の声が少し遠ざかる。
完全には消えない。
だが、自分の輪郭が戻る。
レオンハルト。
レイ。
どちらでもいい。
少なくとも、自分は“黒蒼雷”という力そのものではない。
ここにいる。
そう思える。
◇
「団長」
クラウスが剣を構えたまま低く呼ぶ。
「どうしますか」
グレイヴは、噴水跡から広がる黒霧の子供たちを見ていた。
その顔は険しい。
敵意を向けられている。
だが、こちらから斬り込む判断はしていない。
なぜなら分かっているからだ。
あれは単なる魔物ではない。
黒霧で形作られているが、そこには“残滓”がある。
名前を奪われた者たちの残滓。
記憶を削られたもの。
人であったかもしれないもの。
下手に斬れば、二度と戻らない可能性がある。
だから、剣を抜いたまま動けない。
「……むやみに斬るな」
グレイヴが低く命じる。
第一騎士団精鋭たちは即座に応じる。
「はっ」
「防御陣形」
「黒霧がこちらへ接触する場合のみ、押し返せ」
「消滅攻撃は禁じる」
騎士たちの表情が変わる。
王国最強の騎士団であっても、この判断は難しい。
相手が襲ってくるなら斬る。
それが戦場の基本だ。
だが今、目の前にいるものは違う。
斬っていいのか。
救えるのか。
その迷いが、剣先へ乗る。
アルベルトも炎剣を抜きかけて、歯を食いしばった。
「……クソ」
「やりづれぇな、これ」
エリシアが術式盤を展開する。
「接触した黒霧から、微弱な人格反応がありますわ」
「断片ですが……確かに、個別性があります」
リリアーナが振り向く。
「個別性?」
「完全な集合体ではない、ということです」
エリシアは声を硬くする。
「一体一体に、違う反応がある」
「つまり」
一拍。
「それぞれが別の“誰か”だった可能性が高い」
その言葉に、広場の空気がさらに重くなる。
黒霧の子供たちが、また呻いた。
『なまえ』
『ぼくの』
『どこ』
『いたい』
『さむい』
『くらい』
レオンは、一歩前へ出た。
リリアーナの手が反射的に強くなる。
「レイさん」
「大丈夫だ」
「本当に?」
「……分からん」
正直な答え。
リリアーナは目を見開く。
でも、すぐに頷いた。
「じゃあ、わたしが見ています」
「ああ」
「約束、忘れないでください」
「忘れない」
「呼んだら?」
「俺はここにいる」
「はい」
そのやり取りを聞いて、アルベルトが小さく息を吐く。
「……すげぇな」
「何がですの?」
エリシアが視線を術式盤から外さずに問う。
「いや」
「この状況で、あいつちゃんと戻ってきてる」
「前なら絶対、一人で突っ込んでただろ」
「ええ」
エリシアは静かに頷く。
「リリアーナ様の存在は、かなり大きいですわね」
「本人が聞いたらまた真っ赤になりそうだけどな」
「今はそれどころではありません」
「分かってる」
軽口は交わされる。
だが、誰も気を抜いていない。
黒霧は広がっている。
子供たちの影は、少しずつこちらへ近づいている。
そして何より。
光柱の奥から聞こえる“返すな”という声が、空気を支配しようとしていた。
◇
レオンは、噴水跡へ近づいた。
黒霧の子供たちが、一斉に顔のない頭を向ける。
視線はない。
なのに、見られている。
『くろい』
『あおい』
『かみなり』
『なまえを』
『ちょうだい』
『かえして』
小さな手が伸びる。
影の指先が、黒蒼雷へ触れようとする。
リリアーナが息を呑む。
だが、レオンは逃げない。
黒蒼雷を強める。
ただし、焼き払うためではない。
触れさせるために。
黒蒼雷が、黒霧の子供の手に触れた。
バチ……。
小さな音。
黒霧が一瞬、震える。
影の子供が、動きを止めた。
『……あ』
声。
今までより、少しだけはっきりした声。
レオンは静かに言う。
「お前は誰だ」
黒霧の子供は震える。
『ぼく……』
『ぼくは……』
だが、次の瞬間。
光柱の奥から、低い声が落ちる。
『――ない』
黒霧の子供が苦しみ始める。
『ない』
『なまえ』
『ない』
『ぼくは』
『ない』
輪郭が崩れる。
せっかく形になりかけた手が、黒霧へ溶けていく。
レオンの目が細くなる。
「邪魔するな」
低い声。
黒蒼雷が強くなる。
バチィッ!
しかし、黒霧の奥の声は冷たい。
『返すな』
『名は喰われた』
『空白こそ安寧』
『虚ろこそ終着』
頭の奥へ響く。
言葉が意味ではなく、圧として押し込まれる。
空白。
終着。
何もないことが救い。
苦しまないためには、名前を捨てろ。
そんな思想が、黒霧を通じて流れ込んでくる。
レオンの胸が、ぎり、と痛む。
東の塔で、何度も似たことを思った。
何も望まなければ楽だ。
誰にも期待しなければ傷つかない。
自分に価値なんてないと思っていれば、捨てられても諦められる。
空っぽでいる方が楽だ。
そう思ったことがある。
だから。
虚ろの声は、少しだけ分かってしまう。
それが、余計に気持ち悪かった。
「……レイさん!」
リリアーナの声が飛ぶ。
レオンの意識が戻る。
「俺はここにいる」
すぐ答える。
答えながら、自分の声で自分を繋ぎ止める。
リリアーナは、今にも駆け寄りたい顔をしている。
だが、踏み止まっている。
自分が近づきすぎれば、黒霧に巻き込まれる。
それを理解している。
だから、声で支える。
レオンも、それを分かっていた。
「……大丈夫だ」
「嘘だったら怒ります!」
「今は本当だ」
「今は、って何ですか!」
「先のことは分からん」
「そこは安心させてください!」
レオンは少しだけ口元を緩めた。
本当に、少しだけ。
こんな場所で。
黒霧の子供たちに囲まれながら。
それでも、リリアーナの声で呼吸ができる。
それが不思議だった。
◇
セレスティアが一歩前へ出る。
「レオン」
「何だ」
「黒蒼雷だけでは足りないわ」
「名前を呼び戻すには、呼び水が必要」
「呼び水?」
「記憶よ」
セレスティアは黒霧の子供たちを見る。
「完全な名前を失っていても、記憶の欠片は残っている」
「温度」
「声」
「匂い」
「誰かの手」
「そういう小さなものが、名前へ繋がる」
レオンは黒霧の子供を見る。
震えている影。
名前を奪われた残滓。
「……どうすればいい」
「問いかけて」
「名前ではなく、その子自身へ」
セレスティアの声は静かだった。
「何が好きだったか」
「何を怖がったか」
「誰に会いたかったか」
「そういうものが残っていれば、名前に近づける」
レオンは少し黙る。
問いかける。
戦いではない。
救出だ。
だが、簡単ではない。
目の前の子供たちは、黒霧だ。
意思はある。
でも崩れかけている。
レオンは、触れている黒霧の子供へ向き直った。
「……お前」
『ぼく……?』
「ああ」
「何が好きだった」
黒霧の子供が震える。
『すき……』
「食べ物でも」
「場所でも」
「誰かでも」
沈黙。
黒霧が揺れる。
光柱の奥の声が、また圧をかけてくる。
『ない』
『すべてない』
『空白』
『空白』
レオンは歯を食いしばる。
「黙れ」
黒蒼雷が光る。
だが、抑える。
焼かない。
壊さない。
目の前の子供へ、もう一度問う。
「何か、覚えてないか」
「温かかったもの」
「欲しかったもの」
「怖かったもの」
黒霧の子供は、震えた。
『……あか』
小さな声。
レオンの目が細くなる。
「あか?」
『あかい……』
『まるい……』
『あまい……』
リリアーナが息を呑む。
「……林檎?」
黒霧の子供が、僅かに反応する。
『り……』
『ん……』
声が途切れる。
だが、確かに。
何かが戻りかけている。
アルベルトが小さく呟いた。
「林檎が好きだったのか……」
その一言で、なぜか胸が痛くなる。
ただの好物。
小さな記憶。
でも、それはその子が“いた”証拠だった。
エリシアが術式盤を見ながら言う。
「人格反応、上昇しています」
「黒霧の密度が下がっている……!」
グレイヴが目を細める。
「本当に戻せるのか……」
レオンは、さらに黒蒼雷を静かに流す。
「林檎」
「ああ」
「赤くて」
「丸くて」
「甘い」
「お前は、それが好きだった」
黒霧の子供が震える。
『すき……』
『りんご……』
『ぼく……』
声が戻る。
少しずつ。
輪郭が安定する。
その瞬間。
光柱の奥の声が、怒りを帯びた。
『返すなと言った』
黒霧が一気に膨れ上がる。
噴水跡から、黒い触手のようなものが伸びた。
狙いは、レオンではない。
子供の影だ。
思い出しかけたその子を、再び飲み込もうとしている。
「させるかよ!!」
アルベルトが炎剣を振るう。
紅炎が弧を描き、触手を焼く。
ドォッ!
黒霧が裂ける。
だが、完全には消えない。
すぐ再生しようとする。
「しつけぇな!」
クラウスが踏み込む。
剣閃。
白銀の斬撃が黒霧を押し返す。
グレイヴも静かに剣を抜いた。
その瞬間。
空気が変わる。
王国最強の剣が、初めて光を帯びる。
一閃。
ただ一振り。
黒霧の触手が、再生する前に細かく断ち切られた。
斬撃の余波が、広場の黒霧を押し退ける。
アルベルトが思わず呟く。
「……化け物かよ」
グレイヴは答えない。
ただ低く言う。
「今のうちだ」
レオンは頷く。
リリアーナが叫ぶ。
「レイさん、続けて!」
「ああ」
レオンは黒霧の子供へ向き直る。
「林檎が好きだった」
「他には」
黒霧の子供が震える。
『……て』
「手?」
『おおきい……て』
『あったかい……』
『おかあ……』
声が詰まる。
黒霧が震える。
『おかあさん……』
リリアーナの目に涙が浮かぶ。
周囲の騎士たちも、言葉を失う。
名前を奪われても。
母の手の記憶は残っていた。
レオンの胸の奥が痛む。
東の塔で、母の手を思い出したことがある。
だが、それは遠かった。
冷たくなっていく記憶だった。
目の前の子供も、きっと同じように。
誰かの温度を探していた。
「お前には」
レオンは静かに言う。
「母親がいた」
「林檎が好きだった」
「温かい手を覚えてる」
「なら」
一拍。
「お前は、空っぽじゃない」
黒蒼雷が、優しく広がる。
黒霧の子供の胸元に、小さな光が灯る。
『ぼく……』
『ぼくは……』
周囲が息を呑む。
レオンも、リリアーナも、誰も動けない。
その瞬間を待つ。
名前が戻る瞬間を。
『……ニ』
小さな音。
『ニ……ル……』
黒霧が震える。
そして。
子供の影が、初めてはっきりと言った。
『ニル』
その瞬間。
黒蒼雷が広場全体へ静かに広がった。
爆発ではない。
祝福のような雷光。
黒霧の一体が、ふっと形を変える。
顔のない影の中に、小さな輪郭が浮かび上がる。
泣いている少年の顔。
ほんの一瞬だけ。
でも、確かに見えた。
リリアーナが涙を零す。
「戻った……」
エリシアの術式盤が強く光る。
「人格反応、安定!」
「黒霧密度が急速低下!」
アルベルトが拳を握る。
「やった……!」
だが。
次の瞬間。
黒い光柱が、激しく脈打った。
ゴォォォォォォンッ!!
怒り。
明確な怒り。
広場全体を押し潰すような魔力圧が降ってくる。
『返すな』
『名を返すな』
『すべて空白へ』
『すべて虚ろへ』
噴水跡の黒霧が、爆発的に膨れ上がる。
残りの子供たちの影が、一斉に苦しみ始めた。
『なまえ』
『いやだ』
『わたしも』
『ぼくも』
『たすけて』
声が重なる。
助けを求める声。
それはもう、ただの呻きではなかった。
はっきりと、救いを求めていた。
レオンは、その声を聞いて。
静かに、前へ出た。
リリアーナがすぐ呼ぶ。
「レイさん!」
レオンは答える。
「俺はここにいる」
そして。
黒霧の子供たちを見る。
「……一人ずつだ」
低い声。
「全員、名前を返す」
グレイヴが目を見開く。
「レオン、それは――」
「無茶だって言うんだろ」
レオンは振り返らない。
「分かってる」
一拍。
「でも、助けてって言ってる」
その言葉に、誰も反論できなかった。
リリアーナは涙を拭き、レオンの隣へ立つ。
「じゃあ、わたしも呼びます」
「レイさんが戻れるように」
アルベルトが炎剣を構える。
「俺は邪魔を焼く」
エリシアが術式盤を展開する。
「わたくしは人格反応を追います」
クラウスが剣を構える。
「黒霧の侵食は俺が止める」
グレイヴが静かに剣を構え直す。
「……なら、道は俺が作る」
セレスティアが、金色の瞳でレオンを見る。
そして、小さく微笑んだ。
「それが黒蒼雷よ」
黒霧が渦巻く。
虚ろの声が怒り狂う。
名を奪われた子供たちが泣いている。
その中心で。
レオンは、黒蒼雷を静かに広げた。
壊すためではなく。
取り戻すために。




