第123話「旧神殿区の黒霧、無能王子は“自分の名前”を繋ぎ止める」
旧神殿区の門をくぐった瞬間。
空気が、変わった。
それは比喩ではなかった。
王都の空気ではない。
学園の空気でもない。
人が暮らす場所の空気ではなかった。
冷たい。
重い。
呼吸をするたび、喉の奥へ砂を流し込まれるような違和感がある。
黒い霧が、石畳の上を薄く這っていた。
ただの霧ではない。
足首のあたりで揺れ、時折、意思を持っているみたいにまとわりつく。
そのたびに、配布された汚染防護符が淡く光った。
ジジ……ッ。
小さな音が鳴る。
護符が、黒霧を焼いている。
けれど、焼けた黒霧は消えない。
少し薄くなっただけで、すぐに周囲から別の霧が流れ込んでくる。
まるで、この場所そのものが黒く息をしているみたいだった。
旧神殿区。
王国成立以前から残る古い神霊信仰の中心地。
本来なら、白い石造りの神殿群が並ぶ荘厳な区画だったのだろう。
だが今は違う。
朽ちた神霊像。
欠けた柱。
閉ざされた門。
割れた石畳。
古い祭壇跡には黒い染みが広がり、壁面に刻まれた神霊文字は、ところどころ黒霧に侵食されて読めなくなっている。
空は青いはずなのに、この場所だけ薄暗い。
黒い光柱が、区画中央から空へ伸びているせいだった。
光柱の根元へ近づくほど、空間が歪んで見える。
遠近感が狂う。
目の前の建物が遠く見えたり、遠くの塔がすぐそばにあるように感じたりする。
リリアーナが、小さく息を呑んだ。
「……ここ、本当に王都の中なんですよね」
その声は震えていた。
でも、彼女はレオンの隣を離れない。
レオンは周囲を見たまま答える。
「たぶんな」
「たぶんって……」
「俺も、こんな場所は知らない」
王都で生まれた。
王城で育った。
東の塔に閉じ込められた。
だが、この旧神殿区の奥へ来たことはない。
王国の中心にありながら、王国から切り離された場所。
そんな印象だった。
アルベルトが背後で顔をしかめる。
「俺も、外からしか見たことねぇわ」
「昔、王城の授業で“立入禁止区域”って習った」
「危険な禁術残滓があるから近づくなって」
エリシアが術式盤を見ながら言う。
「建前としては間違っていませんわね」
「ただし、隠しているものが多すぎます」
「封印術式の構成が古すぎる」
「王立術式院で習う形式とは根本から違いますわ」
彼女の声には、緊張と興味が混ざっていた。
未知への恐怖。
そして、術式使いとしての好奇心。
だが、すぐに表情が険しくなる。
「……ただ、綺麗な術式ではありません」
「継ぎ足し、改ざん、封鎖、隠蔽」
「まるで、何代にもわたって都合の悪い部分へ蓋をし続けたみたいです」
クラウスが低く答える。
「王城らしいな」
「ええ」
エリシアは、少し皮肉げに笑う。
「本当に、嫌になるほど」
グレイヴは先頭を歩いていた。
第一騎士団精鋭が左右へ展開し、周囲を警戒している。
剣は抜いていない。
だが、全員いつでも抜ける姿勢だ。
靴音だけが、古い石畳に響く。
カツ。
カツ。
カツ。
その音が、妙に大きく聞こえる。
旧神殿区は静かすぎた。
生き物の気配がない。
鳥もいない。
虫の音もない。
風の音すら、黒霧に吸われているみたいだった。
セレスティアは、少し後ろを歩いていた。
白いローブが黒霧の中でも汚れない。
まるで、霧の方が彼女を避けているように見える。
彼女の金色の瞳は、ずっと黒い光柱を見ていた。
懐かしむようでもあり。
悼むようでもあり。
それでいて、警戒している。
レオンは、その横顔を見た。
「セレスティア」
「何?」
「ここに来たことがあるのか」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
数歩分の沈黙。
黒霧が足元を流れる。
やがて、彼女は静かに言う。
「似た場所へは」
「ここそのものではない?」
「ええ」
「この場所は、王城が作った墓標みたいなもの」
「墓標?」
「失敗を埋めるための場所よ」
その言葉に、全員の空気が少し重くなる。
失敗。
王城の失敗。
黒蒼雷の失敗した記録。
黒殻。
虚ろの王の欠片。
それらが、この場所にある。
レオンの胸の奥で、黒蒼雷が小さく鳴った。
バチ……。
リリアーナがすぐに反応する。
「レイさん」
約束の声。
レオンは一瞬だけ目を伏せた。
そして、低く答える。
「俺はここにいる」
リリアーナが頷く。
「はい」
ただそれだけのやり取り。
だが、レオンにとっては大きかった。
黒霧の中に入ってから、妙な感覚がある。
足元が揺らぐような。
記憶の輪郭が少しだけ滲むような。
誰かが頭の奥で、自分の名前を削ろうとしているような感覚。
それは、まだ弱い。
でも確かにある。
だからこそ、リリアーナの声が必要だった。
呼ばれる。
答える。
それだけで、自分がここに戻ってくる。
東の塔では知らなかった感覚だった。
「……悪いな」
レオンが小さく言う。
リリアーナが瞬きする。
「何がですか?」
「何度も呼ばせる」
「何度でも呼びます」
即答だった。
「それでレイさんが戻れるなら、百回でも千回でも呼びます」
「喉、潰れるぞ」
「その前に帰ってください」
「……それもそうだな」
アルベルトが後ろで口元を押さえる。
「おい、何だよこの会話」
「黒霧より甘さで空気歪むわ」
「アルベルト様」
エリシアが横目で見る。
「茶化す余裕があるなら、周囲警戒をお願いします」
「してるって」
「目が二人の方へ向いていましたわ」
「いや、だって今のは見るだろ」
「気持ちは分かりますが、今は我慢してください」
「お前も分かるんじゃねぇか」
「分かりますわ」
エリシアが淡々と返す。
こんな場所なのに、少しだけ空気が緩む。
それは不思議だった。
黒霧。
旧神殿区。
虚ろの王。
危険なものだらけの場所で。
それでも、仲間の声があるだけで息ができる。
レオンは、それを静かに感じていた。
◇
少し進むと、広場へ出た。
旧神殿区の第一広場。
かつては参拝者が集まる場所だったのだろう。
中央には巨大な噴水跡があった。
水はない。
代わりに、黒い霧が溜まっている。
その周囲には、十二体の神霊像が並んでいた。
だが、ほとんどが壊れている。
腕がないもの。
顔が削られたもの。
胴体ごと砕けたもの。
そして、その全てに黒い亀裂が走っていた。
リリアーナが立ち止まる。
「……ひどい」
短い言葉だった。
だが、その声には本物の痛みがあった。
神霊像の破壊。
それは、ただ物が壊れているだけではない。
信じていたもの。
祈っていたもの。
人々が支えにしていたもの。
それが踏みにじられた跡だった。
セレスティアが静かに目を伏せる。
「ここは、かつて“名告げの広場”と呼ばれていた」
「名告げ……?」
エリシアが聞き返す。
「神霊契約を結ぶ前に、人が自分の名を告げる場所」
「私は誰か」
「何を望むか」
「何を守るか」
「それを神霊へ告げる儀式があった」
レオンの胸が少し揺れる。
名前。
またその言葉だ。
この場所は、名前と深く関係している。
だから黒霧が気持ち悪いのかもしれない。
この霧は、名前を削る。
そんな感覚があった。
グレイヴが噴水跡を見たまま言う。
「現在の王城式契約儀式には、その工程はない」
「そうですわね」
エリシアが頷く。
「今は血統、適性、魔力量、属性分類」
「それらを基準に契約補助を行います」
「名を告げる儀式など、聞いたことがありませんわ」
セレスティアの表情が少し寂しげになる。
「失われたのよ」
「効率化の名で」
「管理の名で」
「名前より、数値が重視されるようになった」
その言葉は、レオンへ深く刺さった。
魔力ゼロ。
王族失格。
価値なし。
全部、数値と評価だった。
名前ではなかった。
レオンハルトという名前ではなく。
ただ、“失敗”として扱われた。
ルミアたちも同じだ。
名前を奪われ、番号にされた。
王城と赤眼は違うようで、根は同じなのかもしれない。
管理。
効率。
価値。
その言葉で、人を削る。
レオンの黒蒼雷が、静かに揺れた。
バチ……。
「レイさん」
リリアーナの声。
「俺はここにいる」
即座に答えた。
今度は少し早かった。
リリアーナが小さく笑う。
「はい」
その笑顔を見た瞬間、黒蒼雷が少し落ち着く。
セレスティアが、それを見ていた。
金色の瞳を細める。
「……本当に、良い繋ぎ止めになっているわね」
リリアーナが少し赤くなる。
「そ、そうなんですか」
「ええ」
「黒霧の中では、名前を呼ぶことが何より強い」
セレスティアは、レオンを見る。
「特にあなたには」
「……俺に?」
「黒蒼雷は、名前を取り戻す力」
「だからこそ、名前を失う力には強く反応する」
「そして同時に、引きずられやすい」
グレイヴが眉を寄せる。
「つまり、この霧はレオンにとって毒にも餌にもなるということか」
「近いわ」
セレスティアは頷く。
「だから、彼を一人にしてはいけない」
リリアーナがすぐに言う。
「しません」
即答だった。
アルベルトが小さく笑う。
「頼もしいな」
「はい」
今度は照れずに頷いた。
レオンは少しだけ目を逸らす。
「……そんなに強く言わなくても」
「言います」
「何でだ」
「レイさん、放っておくと一人で奥まで行きそうだからです」
「……」
「ほら、黙った」
全員の視線がレオンへ向く。
レオンは答えられない。
少し考えていた。
一人で先行して原因を探る、という選択を。
完全に見抜かれていた。
クラウスがため息をつく。
「本当に分かりやすくなったな」
「そうか?」
「今の沈黙は分かりやすい」
エリシアも頷く。
「ええ」
「“ちょっと先に行こうとしていました”という顔でしたわ」
「……顔に出すぎだろ」
アルベルトが笑う。
「お前、もう単独行動無理だな」
レオンは少しだけ不満そうな顔をした。
だが、不思議と嫌ではなかった。
止められる。
見抜かれる。
それが少し窮屈で。
でも、少し安心する。
◇
その時だった。
噴水跡の黒霧が、ゆっくり膨らんだ。
全員が反応する。
グレイヴの手が剣へ伸びる。
クラウスも構える。
第一騎士団精鋭が左右へ展開。
黒霧が渦を巻く。
そして。
そこから、人影が浮かび上がった。
小さい。
子供の影だった。
リリアーナが息を呑む。
「……子供?」
黒霧でできた影。
顔はない。
目も口もない。
だが、輪郭だけは子供に見える。
一人ではない。
二人。
三人。
噴水跡から、次々と現れる。
全部、子供の形をしていた。
アルベルトが顔を歪める。
「趣味悪ぃな……」
エリシアも術式盤を構える。
「黒霧の凝集体ですわ」
「でも、形が……」
子供。
それも、どこか地下施設の子供たちを連想させる形。
レオンの胸の奥が冷える。
黒い影たちは、ゆっくり口のない顔を上げた。
そして。
声が聞こえた。
『なまえ』
『ぼくの』
『わたしの』
『どこ』
リリアーナの顔色が変わる。
声は幼い。
だが、幾重にも重なっている。
助けを求めるようで。
恨むようで。
泣いているようだった。
『かえして』
『なまえ』
『なまえ』
『なまえ』
黒霧が広がる。
護符が強く光る。
ジジジジッ――。
グレイヴが低く叫ぶ。
「構えろ!」
騎士たちが剣を抜く。
だが、レオンは動けなかった。
子供の声。
名前を求める声。
それが、胸に刺さる。
ルミア。
ユノ。
アレン。
地下施設で聞いた声と、似ている。
黒霧の子供たちは、ゆっくりレオンへ手を伸ばした。
『くろい』
『あおい』
『かみなり』
『なまえを』
『かえして』
黒蒼雷が、強く震える。
バチィッ――!
「レイさん!」
リリアーナが叫ぶ。
約束。
声。
呼び戻すための言葉。
「レイさん!」
レオンの視界が揺れる。
黒霧の子供たちが、別のものに見えた。
東の塔の自分。
地下施設の子供たち。
名前を奪われた誰か。
全部が重なる。
頭の奥で声が響く。
『名を返せ』
『返せ』
『返せ』
足が一歩、前へ出る。
黒霧の中へ。
その瞬間。
リリアーナが、レオンの手を掴んだ。
強く。
痛いくらいに。
「レイさん!!」
声が響く。
レオンの身体が止まる。
リリアーナは、震えながらも叫んだ。
「約束!!」
一拍。
「返事してください!!」
レオンの視界が、少し戻る。
リリアーナの顔が見えた。
泣きそうで。
怒っていて。
必死だった。
胸の奥で、黒蒼雷が鳴る。
レオンは、息を吸った。
喉が重い。
名前を削られているような感覚。
それでも。
声を出す。
「……俺は」
一拍。
「ここにいる」
その瞬間。
黒蒼雷が、静かに広がった。
爆発ではない。
優しい雷光。
黒霧の子供たちが、ぴたりと動きを止める。
リリアーナの手を掴み返しながら、レオンは前を見る。
胸は痛い。
でも、もう引きずられない。
「……名前が欲しいなら」
低い声。
「奪う相手を間違えるな」
黒蒼雷が足元へ流れる。
黒霧を焼く。
子供たちの影が、かすかに震えた。
『なまえ』
『どこ』
『ぼくは』
『わたしは』
レオンは刀を抜かなかった。
ただ、黒蒼雷を静かに広げる。
破壊ではなく。
呼びかけるように。
「……お前らは、虚ろじゃない」
その言葉に、セレスティアが目を見開いた。
グレイヴも、息を呑む。
レオンは続ける。
「泣いてるなら」
「まだ、空っぽじゃない」
黒蒼雷が、子供たちの影へ触れた。
その瞬間。
一つの影が、かすかに形を変える。
顔のない闇の中に。
小さな光が灯った。
『……あ』
声。
かすれた声。
『ぼく……』
リリアーナが息を呑む。
レオンは、静かに言う。
「思い出せ」
「名前を」
黒霧が、激しく震えた。
遠くの黒い光柱が、怒ったように脈打つ。
ゴォォォォォンッ――!
旧神殿区全体が揺れる。
そして。
黒霧の奥から、低い声が響いた。
『――返すな』
その瞬間。
子供たちの影が、一斉に苦しみ始めた。




