第122話「旧神殿区への道、無能王子は“帰ってくる約束”を胸に歩き出す」
王都へ向かう道が、変わっていた。
普段なら、王立アルディア学園の正門を出れば、整備された石畳の大通りが続いている。
馬車が行き交い、商人が荷を運び、学園へ通う生徒たちが笑いながら歩く道。
朝には焼きたてのパンの匂いが漂い、昼には市場へ向かう人々の声が重なり、夕方には帰宅する者たちの足音で賑わう。
それが、王都の日常だった。
だが今は違う。
道は静まり返っていた。
王城騎士団が街路を封鎖し、一般市民を内側へ避難誘導している。
遠くから聞こえるのは、泣き出した子供の声。
慌ただしく店を閉める音。
家の扉を叩く騎士の声。
そして、東の空で脈打ち続ける黒い光柱の低い振動。
ゴォォォォ……。
その音が響くたび、石畳の上に薄く砂埃が舞った。
窓から顔を出していた市民たちが、慌てて身を引く。
誰もが不安そうに空を見上げていた。
「……王都って、こんなに静かになるんですのね」
エリシアが小さく呟いた。
その声には、皮肉ではなく、本物の戸惑いがあった。
貴族令嬢として、彼女は王都の華やかな面をよく知っている。
舞踏会。
式典。
貴族街。
王城へ続く大通り。
そこにあるのは、整えられた秩序だった。
けれど今、目の前にある王都は違う。
怯え。
混乱。
そして、隠されていたものが表へ滲み出したような不安。
それが、街全体を包んでいた。
アルベルトは、少し険しい顔で周囲を見ていた。
「……俺、王都に住んでたくせに」
一拍。
「こんな顔してる街、見たことなかったわ」
彼の声は低い。
王族としての責任。
第二王子としての苦さ。
その両方が滲んでいる。
「式典の日は、みんな笑ってた」
「王城前に花飾って」
「騎士団の行進見て」
「王家万歳って叫んで」
「でも」
アルベルトは、避難する家族の背中を見る。
父親が子供を抱え、母親が荷物を持ち、年老いた祖母を支えながら走っている。
その顔に笑みはない。
あるのは恐怖だけだ。
「こういう時、俺ら王族って何してたんだろうな」
誰もすぐには答えなかった。
風が吹く。
黒い光柱から流れてきたのか、微かな焦げた匂いが混じっていた。
レオンは、黙ってその家族を見ていた。
王都。
かつて、自分がいた場所。
王城の中で生まれ、王城の中で価値なしと呼ばれ、東の塔へ送られた。
自分にとって王都は、明るい場所ではなかった。
それでも。
今、怯えている人たちは関係ない。
王城が何をしたか。
宰相府が何を隠したか。
赤眼が何を壊したか。
そんなことを知らない人たちが、ただ巻き込まれている。
それが、胸の奥に重く落ちた。
「……守る対象が増えたな」
ぽつり。
レオンが言う。
アルベルトが振り向く。
「お前、それ素で言ってんの?」
「何がだ」
「いや……」
アルベルトは少し笑いかけて、すぐにやめた。
「ほんと、変わったなって」
レオンは答えない。
自分でも、少し思う。
昔なら、王都がどうなろうと関係ないと思っていたかもしれない。
自分を捨てた場所。
自分を閉じ込めた王城がある街。
好きになれる理由なんてなかった。
でも今は違う。
王都にいるのは、王城だけじゃない。
そこに生きている人がいる。
名前を持つ人がいる。
守りたい誰かの家族がいる。
そう思うようになっていた。
リリアーナが隣を歩いている。
歩幅を合わせるように。
レオンが少し速く歩くと、彼女もついてくる。
遅くなると、自然に隣へ戻る。
何も言わない。
けれど、離れない。
その距離が、今のレオンには不思議だった。
東の塔では、誰も隣にいなかった。
廊下を歩く時も。
階段を上る時も。
窓から外を見る時も。
食事をする時も。
一人だった。
今は、隣に人がいる。
たったそれだけのことが、こんなにも意識へ残る。
「……レイさん」
リリアーナが小さく呼ぶ。
「何だ」
「無理してませんか」
「してない」
「本当に?」
「……少し」
正直に言った。
リリアーナが一瞬だけ目を見開く。
それから、少し柔らかく笑った。
「ちゃんと言えましたね」
「子供扱いするな」
「だって、前なら絶対“平気だ”って言ってました」
「……」
「ほら」
レオンは少し目を逸らす。
図星だった。
リリアーナは、ほんの少しだけ袖を掴む。
強くではない。
でも、確かにそこにいると知らせるように。
「辛かったら言ってください」
「止めます」
「止めるのか」
「はい」
「急いでるんだが」
「急いでても止めます」
リリアーナは真顔だった。
「レイさんが壊れたら意味ないです」
「王都を守れても、レイさんが帰ってこなかったら嫌です」
その言葉。
レオンはすぐ返せなかった。
帰ってくる。
ユノにも約束した。
ルミアにも言われた。
リリアーナにも。
待っている人がいる。
それが今、重い。
けれど、嫌な重さではない。
心臓の奥へ、温かい石を置かれたような重さだ。
「……分かった」
レオンは低く言う。
「壊れる前に言う」
リリアーナが目を細める。
「本当に?」
「ああ」
「“壊れる寸前”じゃなくて、“辛い時点”で言ってください」
「難しいな」
「難しくありません!」
「いや、感覚が分からん」
リリアーナは一瞬黙った。
それから、本気で困った顔になる。
「……そこからなんですね」
「たぶん」
「じゃあ、わたしが見ます」
「何を」
「レイさんが無理してるかどうか」
「分かるのか」
「最近、かなり分かるようになりました」
リリアーナは少しだけ胸を張る。
「目が少し細くなる時は、考え込んでます」
「返事が短くなりすぎる時は、たぶん我慢してます」
「黒蒼雷が細かく鳴る時は、怒ってるか焦ってます」
「あと、右手を握る時は痛いのに隠してます」
レオンは止まった。
完全に見抜かれていた。
「……そんなに出てるか」
「出てます」
「前は無表情だと思ってたんですが、最近分かります」
リリアーナは少し嬉しそうだった。
「レイさん、分かりにくいけど、ちゃんと顔に出てます」
アルベルトが後ろから笑う。
「お前もう隠し事無理じゃん」
「リリアーナに全部バレるぞ」
「……厄介だな」
「そこで厄介って言うなよ!」
エリシアが小さく笑う。
「でも、良いことですわ」
「自分の状態を見てくれる人がいるのは、戦場では大きいです」
クラウスも頷く。
「同感だ」
「自分だけで判断すると、必ず無理をする」
「特にお前はな」
レオンは何も言えなかった。
全員に言われると、さすがに反論しづらい。
グレイヴは少し前を歩きながら、その会話を聞いていた。
振り返らない。
だが、その口元がほんのわずかに緩む。
「……良い変化だ」
クラウスが気づく。
「団長?」
「いや」
グレイヴは短く言う。
「東の塔へ送られた頃のこいつなら、誰にも状態を見せなかった」
「見せる相手がいるのは、悪くない」
レオンは少しだけ黙る。
その言葉に、胸の奥がまた少し揺れた。
東の塔。
あの場所は、もう過去のはずだ。
でも、まだ自分の中には残っている。
誰にも頼らない癖。
痛みを隠す癖。
一人で歩こうとする癖。
でも。
今は、その癖を見つけて止めようとする人がいる。
それが、少しだけ怖くて。
少しだけ、救いだった。
◇
旧神殿区へ向かう道は、途中から雰囲気が変わった。
王都東部へ近づくほど、建物が古くなる。
整然としていた通りは、少しずつ石畳の色を変え、壁には古い神霊紋が刻まれ始める。
かつて神霊信仰が王国の中心だった時代の名残。
今では観光名所として一部が残る程度だった。
だが、王城管理区域へ入ると、空気は一変した。
人がいない。
店もない。
窓は閉ざされ、古い神殿の尖塔だけが並んでいる。
白い石造りの建物は、長い年月を経て灰色にくすみ、ところどころ黒い染みが広がっていた。
その染みが、今は動いているように見える。
黒い光柱の影響だ。
旧神殿区全体に、薄い黒霧が漂い始めている。
グレイヴが足を止めた。
「ここから先は汚染区域だ」
第一騎士団の精鋭たちが即座に動く。
結界具を取り出し、全員へ配布する。
小さな銀の護符。
中央に神霊封印文字が刻まれている。
クラウスが説明する。
「汚染防護符だ」
「完全には防げないが、軽度の精神侵食は遮断できる」
リリアーナが護符を受け取り、少し緊張した顔で見つめる。
「これがないと危険なんですか」
「ある程度はな」
クラウスは頷く。
「ただし、強い侵食を受ければ突破される」
「特に、記憶や名前に関わる干渉は厄介だ」
名前。
その言葉に、レオンの黒蒼雷が反応する。
バチ……。
リリアーナがすぐ見る。
「レイさん」
「大丈夫だ」
「今のは?」
「反応しただけだ」
「何に?」
「名前、って言葉に」
正直に言う。
リリアーナは少し驚いたが、すぐに頷いた。
「じゃあ、やっぱり気をつけましょう」
「レイさん」
「何だ」
「もし、変な声が聞こえたり、自分が誰か分からなくなりそうになったら、すぐ言ってください」
「分からなくなったら言えないだろ」
「……それもそうですね」
リリアーナは真剣に悩む。
アルベルトが笑いかけたが、エリシアに肘で止められた。
リリアーナは本気だった。
少し考えた後、彼女はレオンの前へ立つ。
「じゃあ、決めましょう」
「何を」
「合図です」
「合図?」
「はい」
リリアーナは、自分の胸元に手を当てる。
「わたしが“レイさん”って呼んだ時、ちゃんと返事してください」
「いつもしてる」
「そうじゃなくて」
一拍。
「“俺はここにいる”って言ってください」
レオンは少し目を見開く。
「……何で」
「確認です」
リリアーナは真剣だった。
「もし、記憶や名前に干渉されても」
「ちゃんと自分を戻せるように」
「わたしが呼びます」
「レイさんが答える」
「それを、約束にしましょう」
沈黙。
旧神殿区の黒霧が、風に揺れる。
遠くで黒い光柱が脈打っている。
そんな中で。
リリアーナの言葉だけが、妙に温かかった。
俺はここにいる。
それは、東の塔にいた頃のレオンには言えなかった言葉だ。
自分がどこにいるのか。
いていいのか。
何のために存在しているのか。
分からなかったから。
でも今は。
ここにいると言えるのだろうか。
レオンは、リリアーナを見た。
彼女は怖がっている。
でも、逃げていない。
自分の名前を呼ぶと言っている。
だったら。
「……分かった」
レオンは低く答える。
「お前が呼んだら」
一拍。
「俺はここにいる、って返す」
リリアーナの表情が、少しだけ柔らかくなる。
「はい」
アルベルトが小さく呟く。
「……なんか、いいな」
エリシアも微笑む。
「ええ」
「戦闘前の約束としては、悪くありませんわ」
クラウスが静かに頷く。
「精神侵食対策としても有効だ」
レオンが少しだけ目を逸らす。
「……そんなに大げさか」
「大げさではありません」
リリアーナが即答した。
「レイさんが帰ってくるための約束です」
その言葉。
胸の奥に、また重く温かく落ちる。
帰ってくるため。
帰る場所。
いつの間にか、自分にはそれが出来ていた。
◇
旧神殿区の門へ着いた時。
黒い光柱は、さらに近くなっていた。
門は巨大だった。
古い白石の門。
両側には、朽ちた神霊像が立っている。
本来なら荘厳な場所なのだろう。
だが今は、まるで死んだ神殿の入口だった。
門の内側から黒霧が流れ出ている。
石畳の隙間には、赤黒い光が脈打っている。
結界が、半分壊れていた。
空中には、封印文字の残骸が散っている。
それらが、黒霧に触れるたびに焼け落ちていた。
「……酷いな」
アルベルトが呟く。
いつもの軽さがない。
エリシアは術式盤を展開し、表情を険しくする。
「封印術式の内側から破られていますわ」
「外部破壊ではありません」
「つまり」
クラウスが低く言う。
「中にいる何かが、自力で出ようとしている」
リリアーナの指が、護符を握る。
怖い。
でも、視線は逸らさない。
レオンは門を見ていた。
黒蒼雷が脈打つ。
バチ……。
門の奥。
黒霧の奥。
何かがいる。
そして、また声が響いた。
『――名を』
レオンの目が細くなる。
『――名を、返せ』
今度の声は、さっきと少し違った。
命令ではない。
怒り。
飢え。
そして。
悲鳴に近いもの。
レオンの胸がざわつく。
リリアーナがすぐ気づいた。
「レイさん?」
約束の声。
レオンは、ゆっくり息を吸った。
そして。
低く答えた。
「俺はここにいる」
リリアーナの瞳が揺れる。
それから、強く頷いた。
「はい」
その瞬間。
黒蒼雷が静かに鳴った。
門の奥の黒霧が、まるで反応するように揺れる。
グレイヴが剣の柄に手を置く。
「行くぞ」
誰も返事を大きくはしなかった。
ただ、全員が一歩を踏み出す。
旧神殿区。
王国が隠し続けた闇。
虚ろの王の欠片。
名前を喰うもの。
そして、黒蒼雷の本当の意味。
その全てが待つ場所へ。
レオンは、リリアーナと並んで門をくぐった。
もう。
一人ではない。




