第121話「旧神殿区へ向かう者たち、無能王子は“ひとりで行かない”と約束する」
黒い光柱は、消えなかった。
王都東部。
旧神殿区。
そこから空へ突き上がる闇色の光は、まるで王都の中心へ楔を打ち込んだように、青空を歪め続けている。
光柱、と呼ぶにはあまりにも不吉だった。
輝きではない。
闇そのものが形を持っている。
黒い霧が縦へ伸び、内部で赤い脈動が走り、時折、巨大な影がうごめく。
それは遠くにある。
それなのに。
学園正門前にいる者たちの肌へ、確かに届いていた。
冷たさ。
重さ。
呼吸のしづらさ。
まるで、見えない手で喉元を撫でられているみたいだった。
「……あれ、本当に王都の中なのかよ」
誰かが呟いた。
生徒の声だった。
震えている。
だが誰も笑わない。
皆、同じことを思っていたからだ。
王都。
人が住み、店が並び、馬車が行き交い、日常があるはずの場所。
その一角から、あんなものが立ち上がっている。
現実感がなかった。
けれど、魔力の圧だけは本物だった。
空気が軋む。
学園外周の監視結界が、黒い光柱へ反応して青白く明滅している。
王城が張った結界だ。
さっきまで、レオンを封じるための檻だった。
その檻が今、王都を守る防壁の一部みたいに震えていた。
皮肉な光景だった。
レオンは、黒い光柱を見上げていた。
胸の奥で、黒蒼雷が脈打つ。
バチ……。
静かな火花。
しかし、その奥には明確な呼び声がある。
『――来い』
聞こえた。
間違いなく。
頭の中へ直接響いた。
声というより、意思だった。
冷たく、深く、底のない穴の奥から手招きするような感覚。
それを聞いた瞬間、身体が勝手に前へ出そうになった。
だが。
袖を掴む手が、それを止めていた。
リリアーナだった。
彼女の指先は震えている。
けれど、掴む力は弱くない。
離さない。
そう言っているようだった。
「……レイさん」
リリアーナの声は小さかった。
周囲のざわめきに紛れそうなくらい。
でも、レオンにははっきり届いた。
「何だ」
「今、行こうとしましたよね」
レオンは答えなかった。
答えないことが、答えだった。
リリアーナは目を伏せる。
怒っているわけではない。
泣きそうでもある。
でも、それ以上に。
怖がっていた。
「……やっぱり」
「悪い」
「謝るなら、行こうとしないでください」
「急がないとまずい」
「それは分かってます」
リリアーナは顔を上げた。
瞳が揺れている。
でも、真っ直ぐだった。
「でも、一人で行こうとするのは駄目です」
その言葉に、レオンは少しだけ黙る。
一人で行く。
昔なら、それが当たり前だった。
誰かに頼るという選択肢がなかった。
東の塔で覚えたのは、黙ること。
耐えること。
諦めること。
誰も来ない場所で、誰かを待つことに意味なんてない。
だから、いつの間にか。
大事な時ほど、一人で動こうとする癖がついた。
でも。
今は違う。
そう思っているはずなのに、身体は勝手に一人で進もうとする。
染み付いた癖は、簡単には消えないらしい。
「……分かってる」
レオンは低く言った。
「一人では行かない」
リリアーナはじっと見つめる。
「本当ですか」
「ああ」
「約束できますか」
「約束する」
「勝手に抜け出したら怒ります」
「……分かってる」
「今、少し間がありました」
「なかった」
「ありました」
「……」
「ありました」
リリアーナが強めに言う。
そのやり取りを聞いて、アルベルトが少しだけ笑った。
だが、その笑みはすぐ消える。
今は笑っていられる状況ではない。
黒い光柱は、また脈打った。
ゴォォォォン――。
王都全体へ響くような低音。
地面がわずかに揺れる。
後方の生徒たちが悲鳴を上げた。
「うわっ……!」
「また揺れた!」
「先生、これ本当に大丈夫なんですか!?」
「落ち着け! 校舎内へ戻るな、外周結界の内側で待機!」
教師たちの声が飛ぶ。
だが、混乱は完全には収まらない。
黒い光柱。
王城騎士団。
旧神殿区。
赤眼。
情報が多すぎる。
恐怖が大きすぎる。
学園は、戦場になる寸前の緊張と、王都崩壊への不安に挟まれていた。
その中心で。
グレイヴ・アルディオスは、黒い光柱を睨んでいた。
灰色の瞳。
鋭い。
だが、その奥には焦りがあった。
王国最強の騎士。
“王国の剣”と呼ばれる男。
そんな彼が、はっきりと焦りを見せている。
それだけで、事態の深刻さは十分だった。
「……封印されていたのは、神霊じゃないのか……?」
グレイヴの呟き。
それは、風に消えるほど小さかった。
だが、クラウスは聞き逃さない。
「団長」
「どういう意味です」
クラウスの声には、緊張があった。
彼は第一騎士団副団長だ。
旧神殿区に関する機密もある程度は知っている。
それでも、グレイヴの今の反応は想定外だった。
グレイヴは答えなかった。
数秒。
重い沈黙。
それから、低く言う。
「旧神殿区の最深部には、王国成立以前の封印がある」
「神霊関連の封印だと聞かされていた」
「暴走神霊」
「禁術核」
「旧時代の汚染源」
「そういうものだと」
クラウスが眉を寄せる。
「違う可能性があると?」
「今の反応は、神霊汚染だけでは説明がつかん」
グレイヴは黒い光柱を見上げる。
その表情が、さらに険しくなる。
「神霊なら、魔力の質がもっと明確だ」
「火、水、風、雷、闇、光」
「何らかの属性へ偏る」
「だが、あれは違う」
「全部を喰っている」
エリシアが息を呑む。
「属性を喰う……?」
「つまり、魔力そのものを侵食しているということですの?」
「近い」
グレイヴは答える。
「神霊の暴走ではなく、神霊を壊す側の反応だ」
空気が冷える。
レオンの胸の奥で、黒蒼雷がもう一度震えた。
バチィッ。
今度は少し強い。
リリアーナの指が、反射的に袖を握り直す。
「レイさん……?」
「……大丈夫だ」
「本当に?」
「たぶん」
「たぶん禁止です」
「……大丈夫だ」
リリアーナはまだ不安そうだったが、それ以上は言わなかった。
グレイヴはレオンを見る。
「お前は何を感じた」
レオンは数秒黙る。
頭に残っている。
赤い目。
巨大な扉。
黒い霧。
そして、あの声。
「見られた」
短く答える。
グレイヴの目が細くなる。
「誰に」
「分からない」
一拍。
「でも、人じゃない」
その言葉に、周囲が静まり返る。
人じゃない。
その響きだけで、生徒たちの間に恐怖が広がる。
「魔物……?」
「神霊?」
「赤眼が何か召喚したとか……?」
ざわめき。
不安。
恐怖。
それらが波のように広がっていく。
レオンはそれを感じていた。
自分の言葉が、不安を大きくしたことも。
でも嘘はつけない。
あれは、人ではない。
それだけは確かだった。
その時。
セレスティアが、静かに姿を現した。
誰も歩いてくる足音を聞いていない。
気づいた時には、彼女はレオンの少し後ろに立っていた。
白いローブ。
銀髪。
金色の瞳。
周囲の空気が、また変わる。
「……セレスティア」
レオンが呼ぶ。
セレスティアは黒い光柱を見上げていた。
その表情には、いつもの柔らかさがない。
悲しそうで。
どこか、覚悟していたものが来てしまったような顔だった。
「封印が破られたのね」
静かな声。
グレイヴが視線を向ける。
「お前は知っているのか」
「少しだけ」
「正体は」
セレスティアはすぐには答えない。
沈黙。
長い沈黙。
その間にも、黒い光柱は脈打つ。
ゴォォ……。
風が重くなる。
生徒たちは息を潜めていた。
誰もが彼女の答えを待っている。
やがて、セレスティアは口を開いた。
「封印されていたのは、神霊ではないわ」
空気が止まる。
グレイヴの予感が的中した。
クラウスが低く問う。
「なら何だ」
セレスティアは、金色の瞳を伏せる。
「神霊を喰うもの」
一拍。
「王国成立前、“虚ろの王”と呼ばれた存在の欠片よ」
誰も、すぐには反応できなかった。
虚ろの王。
聞いたことのない名。
だが、その響きだけで分かる。
軽いものではない。
ヴァルディスが顔を強張らせる。
「……馬鹿な」
その反応に、レオンは目を細める。
「知ってるのか」
ヴァルディスは答えない。
だが、顔色が悪い。
知らないわけではない。
少なくとも、何らかの記録には触れている。
セレスティアが静かに続ける。
「虚ろの王は、神霊と人の契約がまだ不安定だった時代に現れた」
「神霊の力を喰らい」
「人の記憶を喰らい」
「名前を奪い」
「最後には、自分以外の全てを“空白”へ変えようとした」
リリアーナの喉が小さく鳴る。
「名前を……奪う……」
地下施設。
番号。
赤眼。
全てが繋がるような言葉だった。
レオンの黒蒼雷が静かに揺れる。
バチ……。
セレスティアはレオンを見る。
「黒蒼雷は、本来その存在へ対抗するために生まれた力」
「奪われた名前を呼び戻す力」
「喰われた記憶を繋ぎ止める力」
「そして」
一拍。
「虚ろを断つ雷」
レオンは黙っていた。
胸の奥が、ゆっくり熱くなる。
黒蒼雷。
王を殺す力。
災厄。
そう聞かされていた。
でも違う。
本当は。
名前を取り戻すための力。
虚ろを断つ力。
だったのかもしれない。
「じゃあ」
アルベルトが低く言う。
「王城は、それを知っててレオンを閉じ込めたのか?」
セレスティアは、すぐには答えなかった。
その沈黙が、痛い。
ヴァルディスが強く杖を握る。
「黒蒼雷は危険だ」
「理由が何であれ、制御不能なら王国を滅ぼす」
アルベルトが睨む。
「その理屈、もう聞き飽きた」
「じゃあ聞くけどな」
一歩前へ出る。
「その虚ろの王とかいうやつが復活しかけてるのに」
「まだレオン拘束とか言う気か?」
ヴァルディスは黙る。
唇を結ぶ。
何も言えない。
状況が変わりすぎている。
レオン拘束どころではない。
王都そのものが危機だ。
だが。
同時に。
虚ろの王に対抗できる可能性があるのは、黒蒼雷。
つまりレオン。
その事実が、王城側には最悪だった。
危険視して拘束したい存在が。
今、王都を救う鍵かもしれない。
グレイヴが低く言う。
「ヴァルディス」
「今この場で、レオン拘束は一時凍結する」
「……団長」
「異論は聞かん」
圧。
短い言葉だけで、ヴァルディスは黙るしかなかった。
グレイヴは続ける。
「旧神殿区へ向かう部隊を編成する」
「第一騎士団から少数精鋭」
「学園からは結界術者と解析者」
「黒蒼雷への対応として、レオンも同行」
リリアーナが即座に口を開いた。
「わたしも行きます」
レオンが振り向く。
「危険だ」
「知ってます」
「さっき聞いただろ」
「聞きました」
「記憶を喰う相手かもしれない」
「怖いです」
リリアーナは正直に言う。
声は震えていた。
でも、目は逸らさない。
「でも行きます」
「レイさんが、自分を忘れそうになったら」
一拍。
「わたしが名前を呼びます」
その言葉。
レオンの胸に、強く刺さった。
名前。
東の塔で、ほとんど呼ばれなかったもの。
価値なし。
無能。
失敗作。
そう呼ばれることは多かった。
でも。
名前を呼んでくれる人は少なかった。
リリアーナは、まっすぐ言う。
「レオンハルトでも」
「レイさんでも」
「何回でも呼びます」
「だから」
一拍。
「一人で行かないでください」
黒蒼雷が、静かに揺れた。
今度は、温かく。
バチ……。
レオンは少しだけ目を伏せる。
心臓の奥が、変な音を立てている。
返す言葉がすぐに出てこない。
やがて、低く言った。
「……分かった」
「一緒に来い」
リリアーナの目が、少し潤む。
「はい」
アルベルトが肩をすくめる。
「じゃ、俺も確定だな」
「お前は来ると思った」
「当たり前だろ」
「王都ヤバいってのに、王子が食堂で留守番してたら笑えねぇし」
エリシアも静かに一歩前へ出た。
「わたくしも同行します」
「旧神殿区の封印術式解析には、貴族院系術式知識が必要でしょう」
クラウスが頷く。
「俺も行く」
「団長命令でもあるしな」
グレイヴは全員を見る。
「遊びではない」
「死ぬ可能性もある」
「分かってる」
アルベルトが真顔で答える。
「でも行く」
エリシアも頷く。
「ここで逃げたら、後悔しますわ」
リリアーナは、レオンの隣に立つ。
「怖いです」
「でも、行きます」
その声を聞いて、後方の生徒たちがざわついた。
「リリアーナ様まで……」
「本当に行くのか……」
「旧神殿区だぞ……」
「でも、誰かが行かなきゃ……」
恐怖。
尊敬。
不安。
いろんな感情が混ざっている。
その中で。
一人の男子生徒が拳を握った。
「俺たちは、何すればいいですか!」
大きな声。
全員が振り向く。
騎士科の生徒だった。
顔は青い。
でも、目だけは強い。
「俺たちも行けるとは思ってません!」
「足手まといになるのも分かってます!」
「でも」
一拍。
「ここで震えてるだけは嫌です!」
その声に、他の生徒たちも反応する。
「俺も……」
「避難誘導ならできる」
「結界維持、手伝えます!」
「医務棟の補助なら……!」
声が広がっていく。
群衆が、恐怖の中で立ち上がろうとしている。
レオンは、その光景を見ていた。
自分の言葉でもない。
命令でもない。
彼らが、自分で決めている。
それが。
妙に胸を熱くした。
学園長が前へ出る。
「では、生徒は学園防衛と避難誘導へ回す」
「戦える者は防衛班」
「結界適性者は術式補助」
「医療適性者は医務棟へ」
「無理はするな」
一拍。
「君たちの役目は、“学園を守ること”だ」
生徒たちが一斉に頷く。
怖い顔で。
でも。
逃げない顔で。
グレイヴが小さく呟いた。
「……本当に、変わったな」
その言葉が誰へ向けたものなのか。
レオンへか。
学園へか。
それとも王国そのものへか。
誰にも分からなかった。
黒い光柱は、三度目の脈動を起こした。
ゴォォォォォォン――。
今度は、空に亀裂のようなものが走る。
黒い霧が王都上空へ広がり始めていた。
時間はない。
レオンは、黒い光柱を見つめる。
呼ばれている。
虚ろの王。
その欠片。
自分と黒蒼雷の本当の意味。
そこに答えがある。
でも。
今は一人じゃない。
袖を掴む手がある。
横に並ぶ仲間がいる。
後ろで立ち上がる人たちがいる。
だから。
もう、東の塔の自分には戻らない。
「……行くぞ」
レオンが静かに言った。
その声に。
リリアーナが頷く。
アルベルトが拳を鳴らす。
エリシアが術式盤を開く。
クラウスが剣へ手をかける。
グレイヴが背を向け、第一騎士団へ命令を飛ばす。
そして。
黒蒼雷が、静かに鳴った。
まるで。
“名前を忘れるな”と告げるように。




